3
翌日。
空は朝からどんよりと暗い雲に覆われていた。
探偵事務所への道を歩きながら、まひろは昨夜のことを思い返していた。
誠人は日付が変わる頃に帰ってきた。
まだリビングで起きていたまひろを見て、驚いたように足を止めたが、
「早く寝ろよ。」
とだけ言って、風呂へ向かっていった。
その背中には、「何も聞くな」と書いてあるようだった。
微かに漂う酒の香り。
まひろは、何も言えずに、自分の部屋のベッドに潜り込んだ……。
そして朝。
誠人は、昨夜の雰囲気とは別人のように、ギリギリの時間に起きてきたまひろをからかい、朝食を食べさせ、玄関で「しっかり仕事しろよ!」と朗らかに見送ったのだ。
「……なんだろう。」
ため息混じりのまひろのつぶやきは、足元に落ちて転がっていくようだった。
違和感がたくさんある。
少なくとも、まひろの知っている父は、いつも陽気で笑顔の絶えない人だった。
なにか、おかしいとは思う。
けれど、なにがおかしいのか分からない。
帰国してからの父の様々な表情を思い出し、違和感の正体をつかもうとするが、それらはふわふわと漂って、つかめない。
まひろは、自分がどこに向かっているのか、意識しないまま歩き続けた。
気が付くと、まひろはいつものように小宮探偵事務所の扉を開け、お気に入りのスリッパに履き替えていた。
自分の机に辿り着くと、給湯室から、コーヒーカップを持った篠原が出てきた。
「おはようございます。」
「……おはよ。」
篠原は、事務机にまひろのカップを置くと、まひろを見て言った。
「今日は、食べてきましたか?」
まひろは、篠原と目を合わせないまま、コートを脱ぎ、鞄をカゴに置いた。
「食べた。」
「何をですか?」
「……パンと卵とウインナーとトマト。」
篠原は、一瞬目を見張ったあと「ああ、なるほど、先生が」と呟いた。
「では、クロワッサンは3時のおやつですね。」
そして、そう言って自分の事務机に向かおうとして、はたと足を止めた。
「……?」
篠原は振り返る。
まひろの様子がどこかおかしい。
ずっと眉を寄せている。
唇を少し引き結んでいる。
景色は見えているけれど、ここを見ていないような……そう、考えに沈んでいる時の目をしている。
まひろは感情の起伏が穏やかな方なので分かりにくいが、今日は明らかにいつもと違う。
「まひろさん?」
呼びかけてみたが、返事はない。
篠原は、少し首をかしげると、まひろのすぐ前に立った。
少し屈んでまひろの目を覗き込む。
「まひろさん?」
「……へゃ!?」
変な声を上げて、まひろが後ずさった。
「な、何?」
「何じゃないですよ。」
篠原はまひろと目の高さに合わせたまま、聞く。
「どうしたんですか?」
「え?」
驚いたときに胸に手を当てたまま、まひろが目を丸くする。
「なにか、あったんですか?」
篠原の声は、いつも通り低く穏やかだ。
まひろは、そろそろと手を下ろすと、目を伏せた。
少し躊躇ったあと、つぶやくように言葉をこぼす。
「お父さん……分からなくなっちゃった。」
「先生が……?」
まひろは頷く。
「時々、私の知らない顔する。前は、そんなこと無かった。」
「……そうですか。」
「私……お父さんのこと、ほんとは何も知らないのかもしれない。」
喫茶店の外での何かを睨みつけるような顔、深夜に帰ってきた時の、何もかもを拒絶するかのような背中、まひろのことを子ども扱いする大きな手、母とのやり取りを忘れたと言った時の声。
どれも父で、どれも父ではないような。
まひろが黙っていると、
「まひろさん。」
篠原が静かに呼んだ。
まひろが顔をあげる。
篠原は、優しい目をしていた。
まるで、迷子に話しかける時のような。
その目が、柔らかく細められる。
「一緒に考えましょう。」
篠原は、丁寧に言い含めるようにゆっくりと続けた。
「ひとりでは分からなくても、二人なら何とかなるかもしれません。」
まひろは、驚いたように篠原の目を見つめていたが、やがて、こくんと頷いた。
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