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翌朝。
まひろが眠い目をこすりながらリビングに入ると、誠人がキッチンに立っていた。
「……おはよ。」
「お!起きたか、ねぼすけ!」
まひろはグラスを手に取ると、水を汲んでひとくち飲んだ。
「……今日は、休み。」
「まあいいけどな。」
誠人は、焼けた食パンを2枚トースターから取り出して、既にオムレツとサラダが乗っている皿に乗せた。
それを両手に持って、ダイニングテーブルへ運ぶ。
まひろはインスタントコーヒーを2杯作って、テーブルに置いた。
「いっただきまっす!」
「……いただきます。」
向かい合わせに座り、食べ始める。
トーストにバターを塗りながら、ふと誠人が聞いた。
「…いつも、ちゃんと朝飯食ってるか?」
フォークを持ったまひろの手が、一瞬止まった。
「……たべてる」
オムレツを小さく切って口へ運ぶ。
「ほんとか~?」
まひろは誠人から目をそらしながらオムレツを飲み込んだ。
「嘘はいかんぞ、嘘は。」
「たべてる」
嘘では、ない。
たしかに家では食べていないが、事務所に行けば、大体パンを食べさせられる。
まひろはそう考えて小さく頷くと、フォークを置いてコーヒーを手に取った。
ふうっと息を吹きかけて一口飲んだところで、誠人がにやりと笑った。
「……なるほど、慧か。」
まひろがむせた。
ひとしきり咳き込んで、「なんで…」と呟く。
誠人は頬杖をつき、生暖かい目でまひろを見ている。
「なんでも何も、ガキの頃から朝はいつもギリギリだったじゃねぇか。毎日、香織にせかされてたやつが、社会人になったからって、急に自分で朝飯食って行けるようにはならんだろ。」
まひろは、誠人を軽く睨んだ。
「お父さんだって、お母さんに怒られてた。」
「……そうだったか?」
「靴下、いつも脱ぎっぱなしで。」
誠人は、肩をすくめてとぼけたような顔をすると、トーストを一口かじった。
「忘れちまったな…そんなの。」
それきり、何も言わなかった。
まひろは、小さく息をついてリビングの棚の上を見やった。
まひろの母が、写真立ての中で8年前と変わらず、穏やかに微笑んでいた。
◇
昼食を軽く済ませた後、誠人が洗い物をしているまひろに言った。
「散歩にでも行くか!」
「行ってらっしゃい。」
誠人がカウンターに両手をかける。
「いやいやいや、一緒に行こうぜ~?」
まひろは水を止め、タオルを手に取った。
不思議そうな顔をしている。
「…なんで?」
「なんで、って、そりゃ…」
誠人は困ったように頬をかいた。
「…なんとなく?」
まひろは小さく息をつくと、手を拭いていたタオルを戻した。
「…いいよ。晩ごはんの買い物したいし。」
「よし、決まりだな」と誠人は満足そうに頷いた。
冬の空は、どこまでも高く透き通るような青だった。
穏やかな日差しが降り注ぎ、歩いていると背中がぽかぽかしてくる。
二人は、何か話をするでもなく並んで歩き、つむぎ橋を渡った。
橋を渡りきるころ、商店街のほうから小さくクリスマスソングが聞こえてきた。
「そういえばさ。」
まひろが口を開く。
「なんで帰ってきたの?」
「お前…その言い方、パパ傷ついちゃうぞ?」
誠人が大げさに胸を押さえると、まひろは首を振った。
「そうじゃなくて。理由、聞いてるの。」
「ああ、そういうことか。」
誠人は両手をコートのポケットに入れて、楽しそうに言った。
「そりゃあ、あれだ。クリスマス休暇だよ。あっちは日本と違うからな。休め休めって、みんなうるせぇんだ。」
まひろはそんな誠人を横目で見ながら、
「そう。」
とだけ言った。
去年や一昨年は、クリスマス休暇はなかったのか。
その言葉は、ついにまひろの口からは出てこなかった。
美容院の前を通り過ぎた、その隣の「焼き菓子 よつば」を通りかかったとき、
「小宮さん!」
テイクアウトカウンターから呼びかけられて、まひろと誠人は足を止めた。
見ると、小窓を開けた美咲が小さく手を振っている。
「こんにちは!お買い物ですか?」
まひろは、にこやかに頷いた。
美咲は、まひろの隣の誠人に気が付くと、ちょっと頭を下げる。
誠人も「どうも」と笑顔を返してまひろをつついた。
「知り合い?」
「うん。」
まひろが短く答えていると、美咲が「あっ」と手を打って、小窓からマドレーヌを二つ差し出してきた。
「小宮さん、これ、よかったら。」
まひろが近づいて「ありがとう。」と受け取ると、美咲は嬉しそうに微笑んだ。
「新作なんです。柚子風味。お嫌いじゃなかったら、召し上がってみてください。」
「へえ、美味そうだな。新しくできた店?」
いつの間にか誠人がまひろのすぐ後ろに来ていた。
「あ、はい。まだ1か月も経ってないんです。あの…?」
美咲が戸惑ったようにまひろを見る。
その視線を受けてまひろが何か言うより早く、誠人が美咲に笑いかけた。
「どうも、小宮誠人です。まひろの父です。娘がお世話になってます。」
それを聞いて、美咲が安堵したように微笑む。
「お父様でしたか。私、森といいます。まひろさんには、すごく助けていただいたんです。感謝してもしきれないです。」
「まひろが…?」
誠人が驚いたように見ると、まひろはすっと目をそらした。
「たいしたこと、してない。」
顔が、ちょっと赤い。
誠人は目を細めると、まひろの頭にぽんと手を置いた。
「お役に立てたのならよかった。今後とも、よろしくお願いします。」
そのまま、美咲に頭を下げる。
恐縮してあわあわしている美咲に笑顔で手を振り、誠人は歩き出した。
まひろも美咲に「また。」と言い残し、マドレーヌを鞄に入れてから慌てて後を追いかける。
まひろが小走りで誠人に並び、
「私、子どもじゃないんだけど。」
と文句を言うと、誠人はちらりとまひろを見て、「そうかもな。」と肩を揺らして笑った。
◇
「コーヒーでも飲んでいくか。」
と誠人が言ったので、二人は事務所の向かいの喫茶店に向かった。
扉を開けると、カラン、と聞きなれたベルの音が響く。
平日の昼下がり、客はいない。
マスターが音を聞きつけて「いらっしゃい…」と顔を出して、ぴたりと動きを止めた。
「…誠人か!?」
「よお、洋平!」
誠人が片手を軽く挙げて呼ぶと、マスターはバタバタとカウンターの中から出てきて、誠人の肩をばしばしと叩いた。
「お前!久しぶりだなあ!帰ってきたのか!」
誠人は苦笑しながら「いてててて」と言い、けれど、マスターの好きにさせている。
まひろが誠人の後ろから顔をのぞかせると、マスターは「おや」と目を見張った。
「まひろちゃんも一緒だったのか。」
そして、二人を交互に見て嬉しそうに笑った。
「そうか、今日は奢るよ。ゆっくりしてってくれ。」
喫茶店のマスターは、誠人の古い友人だ。
二人の話は、近況から子供のころのいたずらの話まで、尽きることはなかった。
まひろは、話に加わるでもなく、コーヒーを飲みながら二人の声を聞いていた。
誠人が楽しそうに笑いながら話しているのを聞くのは、嫌いではなかった。
夕方になり、ほかの客がぽつぽつ入り始めた頃。
「そろそろ帰るよ」
誠人が立ち上がりながら言うと、マスターが「誠人」と低く呼びかけた。
「ん?」
誠人が振り返ると、マスターはいつもの調子で、
「いや、また、後で来てくれ。」
そう言って、注文を取りに行った。
まひろはその様子に少し首をかしげたが、「行くぞ」と誠人に声をかけられて、そのあとを追いかけた。
ベルの音に見送られて、喫茶店を出る。
「じゃあ、買い物…。」
と誠人に言いかけて、まひろは言葉をのんだ。
誠人は、さっきまでの笑顔が嘘のように、厳しい目で遠くを見つめていた。
まるで、そこにいる見えない敵を、視線で射殺そうとするかのような。
「…お父さん?」
「ん?」
まひろが思わず呼びかけると、誠人はすぐに笑って振り向いた。
いつもの笑顔。
「ううん。なんでも、ない。」
まひろは、知らず知らず、肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握りしめていた。
◇
その日の夜。
まひろが作ったハンバーグを、誠人は嬉しそうに平らげた。
「娘が作ったメシを美味いと思う日が来るなんてなあ…」と、褒めているのかどうかよく分からないことを言いながら。
皿をふたりで片付けながら、誠人が何気ない様子で言った。
「俺、この後、出かけてくるわ。」
まひろは、チラリと隣に立つ誠人を見た。
いつもと変わらないように見える。
けれど、あの喫茶店を出た時の表情は。
「また、後できてくれ」と言ったマスターの顔がまひろの頭をチラつく。
「……私も、」
言いかけたまひろの頭に手を置いて、誠人はふっと笑った。
「子どもは、早く寝るんだよ。」
「……子どもじゃないってば!」
むくれるまひろに手を振りながら、誠人はわははと笑った。
「悪い悪い!でもお前、明日仕事だろ?寝坊するぞ?」
「う……。」
まひろは仕方なく引き下がった。
皿を洗い終わると、誠人はコートを引っ掛けて、「じゃあな」と出かけて行った。
まひろは釈然としない気持ちを抱えたまま、風呂に入った。
髪を乾かしてリビングに戻ると、母の写真が目に入った。
穏やかな笑顔に吸い寄せられるように近づいて、
「お母さん……。」
写真の前でぽつりとつぶやく。
「……お父さん、こんな人だった……?」
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