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晩秋の午後の柔らかな光が、レースのカーテン越しに事務所へ差し込んでいた。
水槽の中を、小さな魚たちがゆっくり泳いでいる。
仕事から一息ついて、ノートパソコンを開いたまま窓の外を見たまひろが、何かに気づいたのか、すっと立ち上がった。
「……来た。」
ほどなくして、ゆっくりと階段を上ってくる足音が聞こえた。
続いて、呼び鈴が鳴る。
「はい。」
篠原が立ち上がり、玄関の扉を開けた。
「あ……こんにちは。」
そこに立っていたのは、美咲だった。
少し緊張したような笑顔を浮かべている。
「こんにちは。どうぞ。」
篠原が扉を押さえる。
美咲は「失礼します」と頭を下げ、事務所へ入った。
まひろの姿を見ると、「この間は、どうも…」と微笑む。
まひろは、笑顔を返して応接スペースへ案内し、ソファを勧めた。
二人でテーブルをはさんで、向かい側に座る。
けれど、美咲は視線をあげず、何かをじっと考え込んでいるような様子だった。
篠原がコーヒーを淹れ、美咲の前に置きながら尋ねる。
「私も、ご一緒してもよろしいですか。」
「はい。」
美咲が頷く。
「ありがとうございます。」
篠原は、まひろと自分のカップも持ってくると、一人掛けソファに座った。
事務所に静かな時間が流れる。
まひろがカップを手に取り、ふうっと息を吹きかける。
コーヒーの湯気は一瞬見えなくなったが、またすぐにふわふわと立ち上った。
「……あの。」
美咲がカップへ目を落としたまま口を開く。
「私…多分、相談したいことがあるんです。」
一度言葉を切る。
「でも。」
困ったように笑った。
「何を相談したいのか、自分でもよくわからなくて。」
まひろは静かに頷く。
「マスターにも、ご心配をおかけしてるみたいで。私は、いつも通りのつもりなんですけど…この前、『大丈夫?』って聞かれちゃって。」
「……。」
まひろは、何も言わずにコーヒーを一口すすった。
「私…どこか変でしょうか?」
美咲は、まだ視線を上げない。
その両手は、膝の上でスカートをぎゅっと握りしめていた。
篠原が、ちらりと隣のまひろを見る。
まひろは、静かにカップを皿に戻すと、小さく息をついた。
「変かどうかは、分からない。でも…」
言葉を切ると、美咲がようやく顔を上げた。
「なんだか、苦しそうです。」
「え……?」
美咲が、小さく目を見開いてまひろの顔を見る。
まひろは、ちょっと困ったように眉を寄せていた。
「……苦しそう……」
美咲は、そうつぶやくと、またカップに視線を落とした。
長い沈黙の末、美咲はつぶやいた。
「…そうかも、しれません。」
美咲はそこで、小さく息を吸った。
「私、お店を開くのが夢だったんです。」
焼き菓子が好きだったこと。
友達や家族に食べてもらうのが嬉しかったこと。
開店が決まった時、本当に幸せだったこと。
毎日試作を続けてたくさんの新作ができたこと。
少しずつ工事が進み、お店が形になっていくのが楽しみなこと。
ぽつり、ぽつりと話していく。
けれど。
「なのに…。」
その一言で止まった。
「最近、お菓子を焼くのが苦しいんです。」
沈黙が落ちる。
時計の針が小さく時を刻んでいた。
篠原が尋ねる。
「試作は、毎日続けていらっしゃるんですか。」
「はい。」
美咲が頷く。
「召し上がった方は、何と。」
「……美味しいって…言ってくれます。マスターも、夫も、友達も。」
少し笑う。
「みんな、そう言ってくれるんです。でも……」
その笑顔が、ゆっくり消えた。
「私には、そう思えないんです。」
そこまで言って、美咲はまた下を向いて口を閉じた。
まひろは、そんな美咲に、そっと尋ねた。
「今、一番苦しいことは、なんですか?」
美咲は少し驚いたように目を瞬かせた。
すぐに答える。
「……お菓子が…作っても作っても、自分の思う味にならないことです。」
まひろは、首を傾げた。
「本当に?」
「え……?」
美咲が、怪訝そうな顔をする。
そして、自分の言葉を反芻するように俯いた。
また静かな時間が流れる。
「…………違う。」
小さな声だった。
誰も口を挟まない。
美咲はゆっくり首を振る。
「違います。」
膝に置いた両手を、強く握りしめて。
「お菓子じゃなくて……。」
言葉を探す。
何度も口を開きかけては閉じる。
「私……。」
美咲の目に涙が滲む。
「毎日……こんなのじゃだめだ、もっと美味しくしなきゃって、そればっかり考えていて。」
唇を噛む。
「何をしたらいいのか…分からなくなってしまったんです。」
ぎゅっと目を閉じる。
「…森さん。」
まひろが囁くように呼びかけた。
美咲がそうっと顔を上げる。
まひろの目は、優しかった。
「森さんは…どうして、焼き菓子屋さんになりたかったんですか?」
長い沈黙。
美咲はゆっくり目を閉じた。
「……焼き菓子で。」
声が震える。
「みんなに…笑ってほしかった…小さな幸せを感じてほしかった。それだけだったんです。」
涙が一粒、膝の上へ落ちる。
「…それだけで、よかったはずなのに。」
まひろは静かに頷いた。
「うん。」
美咲はしばらく黙っていたが、やがて、ため息をついて言った。
「でも…わたしなんかの作ったお菓子で、そんなこと、できるのかなって…」
まひろはコーヒーの最後の一口を飲んで、静かにカップを置いた。
そして、しばらく窓際の水槽を見つめる。
美咲が「小宮さん?」と不思議そうに呼びかける。
まひろは口の端を少しあげて、美咲を見た。
「……確かめてみましょうか。」
美咲は涙で濡れた目のまま、まひろを見つめた。
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