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小宮探偵事務所の日常  作者: 蒼 小夜
第4話 幸せの四つ葉
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3


晩秋の午後の柔らかな光が、レースのカーテン越しに事務所へ差し込んでいた。


水槽の中を、小さな魚たちがゆっくり泳いでいる。


仕事から一息ついて、ノートパソコンを開いたまま窓の外を見たまひろが、何かに気づいたのか、すっと立ち上がった。


「……来た。」


ほどなくして、ゆっくりと階段を上ってくる足音が聞こえた。


続いて、呼び鈴が鳴る。


「はい。」


篠原が立ち上がり、玄関の扉を開けた。


「あ……こんにちは。」


そこに立っていたのは、美咲だった。


少し緊張したような笑顔を浮かべている。


「こんにちは。どうぞ。」


篠原が扉を押さえる。


美咲は「失礼します」と頭を下げ、事務所へ入った。


まひろの姿を見ると、「この間は、どうも…」と微笑む。


まひろは、笑顔を返して応接スペースへ案内し、ソファを勧めた。


二人でテーブルをはさんで、向かい側に座る。


けれど、美咲は視線をあげず、何かをじっと考え込んでいるような様子だった。


篠原がコーヒーを淹れ、美咲の前に置きながら尋ねる。


「私も、ご一緒してもよろしいですか。」


「はい。」


美咲が頷く。


「ありがとうございます。」


篠原は、まひろと自分のカップも持ってくると、一人掛けソファに座った。


事務所に静かな時間が流れる。


まひろがカップを手に取り、ふうっと息を吹きかける。


コーヒーの湯気は一瞬見えなくなったが、またすぐにふわふわと立ち上った。


「……あの。」


美咲がカップへ目を落としたまま口を開く。


「私…多分、相談したいことがあるんです。」


一度言葉を切る。


「でも。」


困ったように笑った。


「何を相談したいのか、自分でもよくわからなくて。」


まひろは静かに頷く。


「マスターにも、ご心配をおかけしてるみたいで。私は、いつも通りのつもりなんですけど…この前、『大丈夫?』って聞かれちゃって。」


「……。」


まひろは、何も言わずにコーヒーを一口すすった。


「私…どこか変でしょうか?」


美咲は、まだ視線を上げない。


その両手は、膝の上でスカートをぎゅっと握りしめていた。


篠原が、ちらりと隣のまひろを見る。


まひろは、静かにカップを皿に戻すと、小さく息をついた。


「変かどうかは、分からない。でも…」


言葉を切ると、美咲がようやく顔を上げた。


「なんだか、苦しそうです。」


「え……?」


美咲が、小さく目を見開いてまひろの顔を見る。


まひろは、ちょっと困ったように眉を寄せていた。


「……苦しそう……」


美咲は、そうつぶやくと、またカップに視線を落とした。




長い沈黙の末、美咲はつぶやいた。


「…そうかも、しれません。」


美咲はそこで、小さく息を吸った。


「私、お店を開くのが夢だったんです。」


焼き菓子が好きだったこと。


友達や家族に食べてもらうのが嬉しかったこと。


開店が決まった時、本当に幸せだったこと。


毎日試作を続けてたくさんの新作ができたこと。


少しずつ工事が進み、お店が形になっていくのが楽しみなこと。


ぽつり、ぽつりと話していく。


けれど。


「なのに…。」


その一言で止まった。


「最近、お菓子を焼くのが苦しいんです。」


沈黙が落ちる。


時計の針が小さく時を刻んでいた。


篠原が尋ねる。


「試作は、毎日続けていらっしゃるんですか。」


「はい。」


美咲が頷く。


「召し上がった方は、何と。」


「……美味しいって…言ってくれます。マスターも、夫も、友達も。」


少し笑う。


「みんな、そう言ってくれるんです。でも……」


その笑顔が、ゆっくり消えた。


「私には、そう思えないんです。」


そこまで言って、美咲はまた下を向いて口を閉じた。


まひろは、そんな美咲に、そっと尋ねた。


「今、一番苦しいことは、なんですか?」


美咲は少し驚いたように目を瞬かせた。


すぐに答える。


「……お菓子が…作っても作っても、自分の思う味にならないことです。」


まひろは、首を傾げた。


「本当に?」


「え……?」


美咲が、怪訝そうな顔をする。


そして、自分の言葉を反芻するように俯いた。


また静かな時間が流れる。



「…………違う。」


小さな声だった。


誰も口を挟まない。


美咲はゆっくり首を振る。


「違います。」


膝に置いた両手を、強く握りしめて。


「お菓子じゃなくて……。」


言葉を探す。


何度も口を開きかけては閉じる。


「私……。」


美咲の目に涙が滲む。


「毎日……こんなのじゃだめだ、もっと美味しくしなきゃって、そればっかり考えていて。」


唇を噛む。


「何をしたらいいのか…分からなくなってしまったんです。」


ぎゅっと目を閉じる。


「…森さん。」


まひろが囁くように呼びかけた。


美咲がそうっと顔を上げる。


まひろの目は、優しかった。


「森さんは…どうして、焼き菓子屋さんになりたかったんですか?」


長い沈黙。


美咲はゆっくり目を閉じた。


「……焼き菓子で。」


声が震える。


「みんなに…笑ってほしかった…小さな幸せを感じてほしかった。それだけだったんです。」


涙が一粒、膝の上へ落ちる。


「…それだけで、よかったはずなのに。」


まひろは静かに頷いた。


「うん。」


美咲はしばらく黙っていたが、やがて、ため息をついて言った。


「でも…わたしなんかの作ったお菓子で、そんなこと、できるのかなって…」


まひろはコーヒーの最後の一口を飲んで、静かにカップを置いた。


そして、しばらく窓際の水槽を見つめる。


美咲が「小宮さん?」と不思議そうに呼びかける。


まひろは口の端を少しあげて、美咲を見た。


「……確かめてみましょうか。」


美咲は涙で濡れた目のまま、まひろを見つめた。


お読みいただきありがとうございます。

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