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十一月に入ると、朝晩だけでなく昼間も少しずつ空気が冷たくなってきていた。
つむぎ橋商店街でも、暖かそうな上着を身につけて買い物に出ている人が多くなってきている。
かと思えば、天気のいい昼間は、マフラーや上着を手に持って歩いている人もいた。
その日の午前中、小宮探偵事務所には珍しく依頼も電話もなく、静かな時間が流れていた。
キーボードを叩いている音が、もう随分長い間事務所に響いている。
時折、まひろが資料を印刷する音や篠原が手帳をめくる音がそれに混じるだけだった。
やがて、まひろは机の上に広げた資料を閉じると、うーんと伸びをする。
「……終わった。」
篠原もノートパソコンをパタンと閉じて、
「ちょうど一区切りですね。」
と、小さく息をついた。
まひろは壁の時計を見た。
13:20。
二人とも、集中しすぎていたらしい。
「お昼、行こう。」
「はい。」
まひろが机の横のカゴから鞄を取り上げると、篠原も頷きながら立ち上がった。
「今日は、どこで?」
まひろが何気なく聞くと、篠原も自分の鞄を手に取りながら答えた。
「そうですね、向かいの喫茶店に。」
まひろは2日に1回はそこで昼食をとるが、篠原も一緒に行くのは珍しい。
「ちょうどコーヒー豆も切れそうでしたので。」
篠原が続けると、まひろは納得したような顔で、
「じゃあ、行こう。」
と玄関に向かった。
事務所の鍵をかけ、階段をおりながらまひろが聞く。
「コーヒー豆、また買うの?」
「そうですね。よく飲む人がいますので。」
間髪入れず、ちょっとからかうような声が後ろから飛んでくる。
「……だって、美味しいんだもん。」
まひろが口をちょっととがらせると、
「光栄ですね。」
篠原がくすりと笑って言った。
階段を下り終わって通りに出ると、冷たい風が頬を撫でた。
近いからと薄着で出てきてしまった二人は、急ぎ足で喫茶店に向かう。
まひろの視界の隅に、八百屋の店先に色付いた柿が並べられているのが見えた。
二人は馴染みの喫茶店の扉を開ける。
カラン、とベルが鳴る。
「いらっしゃい。」
カウンターの向こうからマスターが笑顔を向けた。
今年50歳になるというマスターは、つむぎ橋商店街の事務局の役員でもある。
気さくで頼りになる人だ。
「今日は遅かったね。」
「ちょっと仕事が長引いて。」
カウンター席に座りながらまひろが答える。
「日替わり、まだあるよ。」
「よかった。」
まひろがほっとしたように笑う。
篠原はまひろの隣に座り、棚に並ぶコーヒー豆へ目を向けた。
「食後に少し見せてください。」
「もちろん。」
マスターは笑いながら頷く。
店内には、客はテーブル席に一人だけだった。
三十代半ばほどの女性だ。まひろにとって見知った人が多いこの喫茶店では、見ない顔だ。
テーブルの上には、小さな紙箱がいくつか並んでいる。
やはり見慣れない箱にまひろが気を取られていると、不意にマスターが言った。
「まひろちゃん、辛いの苦手だっけ?豚汁の七味抜いておくね!」
「あ。ありがと。」
まひろが嬉しそうに言うと、マスターはにっと笑った。
しばらくして、日替わりランチを運んできたマスターは「ごゆっくり」と二人に笑いかけると、先程の女性のいるテーブルに向かった。
そしてそのまま、なにかの書類を見ながら話をし始めた。
「あ、まひろちゃん、篠原くん。」
まひろたちがランチを食べ終える頃、マスターが二人を手招きした。
「紹介してもいい?」
「うん。」
まひろたちが近付くと、女性が少し緊張したように立ち上がった。
癖のある髪を後ろでひとつにまとめている。
少し垂れ目気味の、優しそうな顔立ちだ。
「初めまして。」
女性は丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。」
まひろたちも頭を下げる。
「こちら、近くの空き店舗で焼き菓子のお店を始める予定の、森 美咲さん。」
「あの、よろしくお願いします。」
マスターが紹介すると、美咲はまたぺこりとお辞儀をした。
「森さん、こちら向かいの小宮探偵事務所の小宮まひろさんと、助手の篠原さん。」
まひろと篠原が揃って頭を下げると、
「探偵さんなんですね。」
美咲は少し驚いたようにまひろと篠原を見つめた。
「美容院の隣に、以前たい焼き屋があっただろう?そこのテナントに入るんだ。」
「ああ、知ってる。」
マスターに言われて、まひろが頷く。
篠原が少し眉をあげた。
「知ってるんですか?」
「通勤路だから。昨日から工事、始まってたよ。」
「なるほど。」
篠原が頷くと、マスターも「ああ」と思い出したように言った。
「そういえば、篠原くんは電車で来るんだもんな。逆方向か。」
「そうですね。」
そんな会話を、美咲はニコニコと聞いている。
「そうだ」と、マスターが紙箱を持ち上げた。
「今日は試作品を持ってきてくれたんだよ。」
「よかったら召し上がりますか?」
少し照れながら、美咲が二人に勧める。
中には、黄金色の小さなマドレーヌがきれいに並んでいた。
「いただきます。」
まひろと篠原は一つずつ手にとる。
まひろが口に運んで目を丸くした。
「……おいしい。」
その一言に、美咲が安心したように笑う。
篠原も目を細めている。
「バターの香りがやさしいですね。」
「ありがとうございます。」
美咲は嬉しそうに頷いた。
「まだ試作なんですけど……もっとおいしくしたくて。」
その言葉に、まひろは素直に頷く。
「楽しみですね。」
「ありがとうございます。」
マスターが笑いながら言う。
「開店したら、この二人は常連になると思うよ。」
「まひろさんは、甘いものには目がないですからね。」
まひろはちょっとむっとした顔をした。
「甘いもの、そんなにたくさん食べたら太っちゃうでしょ。」
「では、今日の3時のおやつは抜きますか。」
篠原がにこやかに言うと、まひろは「え」と固まった。
マスターと美咲が思わず笑った。
まひろは少し不思議そうな顔で首をかしげる。
「……?」
美咲はまひろと篠原に名刺大のカードを差し出した。
「開店したら、ぜひ来てください。」
「はい。」
「ええ、ぜひ。」
ふたりは頷いてカードを受け取る。
「楽しみにしてます。」
ベージュとピンクが基調の可愛らしいデザインのカードは、優しげな美咲の雰囲気によく似合っていた。
けれど、そこには美咲の連絡先だけが書いてあり、店名はどこにも見あたらなかった。
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