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その日の夜遅く。
人気のない商店街の通りを、まひろと篠原は並んで歩いていた。
昨日、窓に人影が見えた時刻に合わせて事務所を出たのだ。
喫茶店の角を曲がり、路地に入る。
篠原が、懐中電灯を点ける。
昨日と同じ夜道。
同じ風。
同じ虫の声。
違うのは、まひろのポケットの中に一つの鍵があることだけだった。
「……。」
まひろは、カーディガンの上から、そっと鍵を握った。
やがて鈴本時計店が見えてきた。
二人は、店の前で足を止めた。
やはり、昨日と同じように、時計店はその時を止めたまま、じっとその場に佇んでいた。
篠原が、懐中電灯で木製の扉を照らした。
真鍮のドアノブが鈍く光る。
まひろはポケットから鍵を取り出した。
一瞬だけ、間があってまひろはゆっくりと扉に近づいた。
ふっと、軽く息をついて篠原を振り返る。
「開けるね。」
「はい。」
落ち着いた声が返ってくる。
まひろは扉に向き直ると、鍵をドアノブの下の鍵穴に差し込んだ。
小さく金属の擦れる音。
かちゃり。
静かな音を立てて鍵が回った。
まひろはゆっくりとドアノブを握る。
ぎい……。
木の扉は、長い眠りから目を覚ますようにかすかな音を立てて開いた。
わずかな月明かりが、扉の隙間から店内へと青白くのびる。
まひろは動かない。
しばらくして、篠原が囁くような声で呼びかけた。
「…まひろさん?」
まひろが体をびくっと震わせた。
「…先に行きますね。明かり、必要でしょう?」
「…あ、うん。」
どこかほっとしたように、まひろが道を開けると、篠原は店内へ一歩踏み込んだ。
懐中電灯のまるい光で、暗い店内を順に照らしていく。
腰高のガラスのショーケース。何も入っていない。
壁にも背の高い、やはり中に何もないガラスのショーケース。
古い木製のカウンター。上には黄ばんだビニールシート。
その向こう側には、戸棚や電話、カレンダー。8年前のものだった。
そのどれもが白く埃をかぶり、ここを訪れる人がいなくなって久しいことを物語っていた。
篠原は、慎重にもう一歩、二歩進んだ。
そして気づいた。
カウンターの奥の戸棚の横に、奥へと続く通路がある。
篠原は後ろを振り返った。
まひろは、まだ扉の前にいた。
「特に変わったところはないようです。」
「…そう。どうする?」
まひろが少し体の力を抜く。けれど、
「ですが、奥に続く道があります。調べてみますか?」
篠原が続けて言うと、彼女は一瞬嫌そうな顔をした後に、小さく頷いて、そっと店内へ入ってきた。
まひろの手が離れると、扉はパタンと音を立てて自然に閉まった。
うるさいくらいに聞こえていたコオロギの声が、消える。
店の中は静かだった。
聞こえるのは、自分たちの衣擦れと、息づかいだけ。
篠原が懐中電灯でゆっくり店内を照らしていく。
まひろは、壁にいくつも残る、時計が掛けられていた円い跡を見ながら、篠原のすぐ後ろにそっとついた。
二人はカウンターとショーケースの間を通り抜けて、奥へと続く通路に向かう。
通路の入り口にかけられた暖簾をくぐると、そこからは一段床が高くなり、板張りの廊下になっているように見えた。
ここからは、土足で入ることはできない。
二人は、それぞれのカバンからスリッパを出した。
「いつものスリッパじゃなくていいんですか?」
まひろが手にしたスリッパを見て、篠原が軽い調子で言う。
「あれは、お気に入りだから。これでいい。」
「そうですか。」
篠原はクスリと笑って、懐中電灯を前方へ向けた。
「では、行きましょうか。」
二人は足音を忍ばせながら、一歩ずつ廊下を進む。
床に積もった埃が、足元でふわりと舞い上がる。
懐中電灯の光に照らされて、白い粒が静かな廊下をゆっくりと漂った。
目的地は、昨夜、人影が見えた窓の部屋。
さほど広くはない建物だ。2階へ上がる階段は、すぐに見つかった。
その下に立ち、篠原が首をかしげた。
「変ですね。」
「?」
まひろが、その後ろからそっと顔をのぞかせる。
「ここ、見てください。」
篠原が階段を照らす。
まひろは、小さく息をのんだ。
「…埃が、積もってない。」
二人が歩いてきた廊下にはうっすらと積もっていた埃が、階段の一段目から先は極端に少なくなってる。
もう一度足元を照らした篠原が、何かに気付いたようにその場にしゃがんだ。
「……。」
階段とは逆の方向に懐中電灯を動かす。
「どうしたの?」
まひろが小さく聞くと、篠原は床を見つめたまま答えた。
「埃が薄いですね。」
そして視線を動かす。
「こちらだけ。」
その床は、人がひとりで通れるほどの幅で、埃が少なくなっている。
その先には、木の扉。
ドアノブの下には、鍵がついている。
篠原は立ち上がって扉に近づくと、鍵を回し、そっと扉を開けた。
少しだけ開いた扉から、微かに夜風が吹き込む。
賑やかな虫の声も聞こえる。
「…裏口のようですね。」
篠原が扉と鍵を閉めると、また静寂が戻った。
「…ということは。」
「うん。」
篠原は階段を見上げる。
まひろも、同じように見上げてきゅっと唇を結んだ。
「この先、だね。」
篠原が頷く。
二人は、ゆっくりと階段を上り始めた。
古い木が、小さく軋んだ。
◇
階段は、壁に沿って曲がっていた。
一段一段、上るにつれて、2階の様子が見えてくる。
階段を上り切ると、小さな階段ホールがあり、その向こうには、木製の扉があった。
位置的に、昨夜人影が見えた部屋にあたる。
二人は、自然と足音を立てないように歩き、扉の前に立った。
まひろは、その扉をじっと見つめたまま動かない。
「……。」
篠原が静かに振り返る。
「まひろさん。」
「……うん。」
返事はしたものの、足は前へ出ない。
篠原は少しだけ考えて、小さく微笑んだ。
「……手を繋ぎましょうか。」
まひろは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ちょっとむっとした様子で答えた。
「……大丈夫。」
「そうですか。」
篠原もそれ以上は何も言わず、扉へ向き直った。
ドアノブへ手を掛ける。
ゆっくり押すと、扉は音もなく開いた。
懐中電灯の光が、部屋の中を静かに照らす。
部屋の中央壁際には大きな木の作業机。
壁際にはたくさんの小さな引き出しがついた木製の棚が並んでいる。
机の上には、2つのデスクライト。ただし、プラグはコンセントに刺さっていない。コードは纏められていた。
それから、作業用マット。見たところ、ゴム製だろうか。
ペン立てのようなものには、ペンではなくドライバーが何本も刺さっていた。
机の上には、それだけだった。
その横に目を向けると、もうひとつの小さめの作業台。
顕微鏡のようなものが置いてある。
部屋の反対側には、大きな本棚。顧客整理簿だろうか。その半分には番号の振られたファイルが、1から順に並んでいる。
残り半分は、時計に関する本がたくさん並んでいた。
「……。」
まひろはゆっくり部屋を見回した。
片付いている。
一階の店舗も、たしかに片付いてはいた。
しかし、何もなかった。
売り物であった時計ですらも。
きっと、この時計屋の主人がいなくなった後、どこかに売り渡されていったのだろう。
けれど、この部屋は違う。
ものはあるが、きちんと整頓されている。
さらに、決定的に違うのは…
「埃っぽくない…。」
まひろが呟くと、篠原が頷いた。
「誰かが掃除しているようですね。」
ふと、なにかに気づいたように篠原が机へ近づいた。
「まひろさん、これ……。」
呼ばれて、まひろは篠原の隣に並ぶ。
先程は大きな顕微鏡に隠れて見えなかったが、布が被せられている何かがある。
篠原がその布を片手で持ち上げる。
その下には、トレーがあった。
布張りのトレーの中には、中身が抜き取られた腕時計が置いてある。
それから直径10cm程の円形の容器。透明なプラスチックの蓋がついたそれは、中がいくつかに仕切られている。その中には、腕時計の中身と思われる細かい金属が形ごとに入れられていた。
「これ……。」
「分解してありますね。」
篠原は、手に持った布を目の高さに持ち上げた。
ツルツルした、メガネ拭きのような素材の布だ。
「この布、埃がついていません。」
表と裏を見て、机の上にふわりと置く。
まひろは無意識に半歩下がった。
その顔は、心なしか青い。
「誰かが、今もここを使ってる……? でも、ここのおじいさんは……。」
最後まで言えず、こくりと唾を飲み込む。
その時だった。
階下で、小さく音がした。
「!」
二人の動きが止まる。
ガチャ。
静かな建物の中へ、扉の開く音が響く。
二人は顔を見合わせた。
まひろは息をひそめる。
その指先が、気付けば篠原のジャケットの背中をぎゅっと握っていた。
篠原は何も言わない。
しかし、珍しく顔がこわばっている。
そっと懐中電灯の灯りを消す。
部屋が暗闇に飲み込まれた。
足音。
一歩。
また一歩。
静かな階段を、誰かが上ってくる。
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