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翌日の午後。
商店街はいつも通りの賑わいを見せていた。
「こんにちは。」
「お、二人で買い物かい?」
商店街の人たちが、通りを歩くまひろと篠原に気さくに声をかける。
そのたびに二人も挨拶や会釈を返した。
やがて商店街の端のほうまで来ると、人通りは次第に少なくなっていく。
二人は、小さな喫茶店とシャッターが閉まって久しい靴屋の間の、広めの路地へ入った。
風が吹いた。
道端の伸びた草が、さらさらと葉を擦り合わせる。
どこからかコオロギの声が聞こえた。
「……秋だね。」
まひろがぽつりと言う。
「ええ。」
篠原も静かに頷いた。
路地に入ってから五軒目。一軒の古い建物が姿を現した。
建物の前には花壇。
しかしそこからは背の高い雑草が生え、蔦も伸びてそれが壁伝いに二階の窓辺まで這い上がっている。
その窓は白く曇り、中の古いカーテンにも阻まれて、部屋の中をうかがうことはできなさそうだ。
緑青色の柱に囲まれたショーウインドウの中には、何もない。しかし、その壁にはいくつも円く日焼けしていないところがあり、かつてそこには多くの時計がかけられていたことがわかる。
そして建物の中央。
真鍮のドアノブが付いた木製の扉の上には、銅板の看板が掛かっていた。
――鈴本時計店。
「……ここだよ。」
まひろが建物を見上げながら言う。
篠原は建物全体をゆっくり見渡す。
「思っていたより荒れていませんね。」
「うん。」
まひろも頷いた。
「誰か、手入れしてる……?」
「それは分かりませんが……。」
篠原はドアノブに手をかけた。
鍵が掛かっている。
「少なくとも、荒らされた様子はありませんね。」
「……うん。」
まひろは建物を見上げたまま、小さく息をついた。
「普通の建物だね。」
篠原は、先程ドアノブに触れた手を見つめながら軽く首をかしげた。
「噂になるような場所には見えませんが。」
篠原の言葉に、まひろは少し考えるように目を細める。
「でも、その噂は。」
「?」
篠原がまひろを振り返る。
「夜、なんだよね?」
篠原はその言葉に頷いた。
「では。」
時計屋へ目を向ける。
「今夜、もう一度来ましょうか。」
「……うん。」
二人は来た道をゆっくりと引き返し始めた。
その背中には、秋の風だけが静かについてきていた。
◇
その日の夜。
まひろと篠原は、並んで商店街の通りを歩いていた。
商店街は夜が更けるにつれてシャッターが閉められた店が多くなっていき、逆に、人の気配は少なくなっていく。
昼間は賑やかだった道も、今は二人の足音だけが静かに響いている。
街灯が青白く通りを照らしていた。
昼間と同じ路地。
けれど、通りから外れたその景色は、まるで別の場所のように見える。
進むにつれて、街灯の明かりが届かなくなる。
篠原が、懐中電灯のスイッチを入れた。
風が吹く。
伸びた草が、かさ、と擦れる。
少し遅れて、コオロギの声が静かな夜へ溶けていった。
「……。」
まひろは無意識に歩幅を少しだけ狭めた。
いつの間にか、篠原との距離が半歩ほど開いていた。
「…まひろさん?」
篠原は懐中電灯を足元へ向けたまま足を止めて、さっきまで隣にいたはずのまひろを振り返った。
「…なに?」
同じく足を止めたまひろが答える。
まひろは、自分を抱きしめるように腕を組んでいる。
表情はいつもと変わらない。
しかし、その両手は、自分のカーディガンをぎゅっと握りしめていた。
篠原は数度まばたきをして、
「……なんでもないです。」
と、また前を向いて歩き始めた。
少しカーブした路地の先に、あの時計屋が見えてきた。
昼間と変わらないはずの白い壁。
蔦の絡まる窓。
けれど夜の闇の中では、その輪郭だけがぼんやりと浮かび上がり、昼間とはまるで違う表情を見せていた。
二人は建物から少し離れた場所で足を止めた。
そのまま、しばらく二人で時計屋を見上げる。
風。
虫の声。
葉の擦れる音。
静かな夜だった。
「やっぱり、ただの噂……。」
まひろがそう言いかけた、その時だった。
二階の窓が、ぼんやりと明るくなった。
「!」
まひろが息をのむ。
カーテン越しに、小さな灯りが揺れる。
そして、その灯りに照らされて見えたのは……
人影。
ほんの数秒、窓に映った黒い影は、そのまま灯りとともに奥へ消えた。
「……まひろさん。」
篠原が静かに言う。
「……見ましたか?」
「うん……。」
まひろが小さく返事する。
その時。
風が一瞬強く吹いた。
蔦が壁を擦り、ざわっと葉が鳴る。
まひろの肩が小さく跳ねた。
篠原は、ジャケットの裾がわずかに引っ張られる感覚に気づき、ちらりと横を見た。
いつの間にか、まひろの指先が彼の裾をそっとつまんでいる。
篠原がそのまま視線を上げると、まひろはぎゅっと目をつぶっていた。
「……。」
篠原は、何も言わず、ただ視線を前へ戻した。
二階の灯りは、もう見えなかった。
◇
翌日の夕方。
昼間は別の依頼で外へ出ていた二人が事務所へ戻る頃には、西日が商店街を赤く染め始めていた。
簡単に片付けを済ませると、まひろは机の上に置かれたメモを手に取る。
「鈴本さん。行ってみよう。」
「はい。」
二人はまた事務所を出た。
商店街の裏の住宅地の一角。
表札に「鈴本」とある一軒家の呼び鈴を押すと、しばらくして四十代半ばほどの男性が玄関に現れた。
「はい。」
まひろは軽く頭を下げた。
「こんにちは。私、小宮探偵事務所のものです。」
そう言って名刺を差し出す。
「探偵?」
男性は、一瞬訝しむような表情を浮かべたが、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。
「ああ、『コムギベーカリー』の奥さんが言ってた……。」
男性は、そう言って名刺を受け取る。
「それで、探偵さんが、なんの御用です?奥さんには『探偵さんが行くからよろしく』としか言われてなくて。」
まひろは、静かに頷くと話し始めた。
先日から時計屋が噂の的になっていること。
近隣住民も心配していること。
昨日まひろたちが見たもの。
そして、建物の中を一度見せてもらいたいということ。
男性は少し驚いたように目を丸くした。
「そんな噂になってるんですか。」
「ええ。」
篠原が静かに頷く。
男性は苦笑しながら頭を掻いた。
「私は何年も入ってないんですけどね。」
そう言うと、「ちょっと待ってください。」と家の奥へ入っていく。
ほどなくして、小さな真鍮の鍵を手に戻ってきた。
「これが入り口の鍵です。」
まひろは両手で鍵を受け取る。
「ありがとうございます。」
「何もないとは思いますけど。一応、あまりものは動かさないでいてもらえますか。」
男性は二人を順に見ながら言った。
「もちろんです。」
篠原が生真面目な顔で頷き、
「明日、お返しします。」
まひろもぺこりとお辞儀をしながら言った。
「じゃあ、お願いしますね。」
男性がそう言い残して玄関のドアを閉めると、二人は鈴本家を後にした。
西日に照らされた真鍮の鍵は、小さいのに不思議と重たく感じられた。
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