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事務所へ戻ると、締め切られていた室内の暑い空気に包まれた。
先に入ったまひろが部屋の電灯とエアコンのスイッチを入れる。
「暑かったですね。」
篠原は鞄を下ろすと、給湯室へ入っていった。冷蔵庫から麦茶を取り出している。
まひろは返事もせず、壁に掛けられた商店街の住宅地図の前へ歩いていった。
地図をじっと見つめたまま、小さくつぶやく。
「……子猫が、こんなに動く?」
「どうぞ。」
篠原が麦茶と氷が入ったグラスを差し出す。
「ありがと。」
受け取ったまひろは一口飲むと、再び地図へ視線を戻した。
篠原もその隣に立つ。
「目撃情報、範囲が広いですよね。」
「うん。普通、いなくなった猫って、あまり動かないものだけど。」
篠原が頷く。
「……なにか、目的でもあるんでしょうか?」
「好奇心が強い子なのかも。」
まひろはちょっと笑って、地図の上を指でたどった。
「居酒屋。」
少し指を滑らせる。
「喫茶店。」
さらに西へ。
「魚屋。」
そして学習塾。
しばらく二人で地図を眺める。
やがて、まひろがぽつりと言った。
「書き込みたい。」
「でしたら……」
篠原は壁から目を離すと、本棚から商店街の住宅地図のコピーを取り出した。
それを応接テーブルへ広げ、ペンと付箋を並べてソファへ座った。
「こちらを使いましょう。」
まひろも向かいのソファへ腰を下ろす。
篠原は手帳を開いて何かを確認すると、ピンク色の付箋に『日時不明』と書いて、地図の居酒屋に貼った。
「日付のほうが分かりやすいですよね。」
カレンダーをちらりと見て、『8/2』と書いたピンクの付箋を喫茶店に貼る。
「理髪店は一昨日の情報ですが…。」
地図を見ていたまひろが顔を上げる。
「でも、見たのはその前かもって言ってた。」
篠原は頷いて、今度は黄色い付箋に『8/5以前』と書いて理髪店に貼った。
「…付箋の色、なにか意味があるの?」
まひろが聞くと、
「ピンクは首輪あり、黄色は不明、青は首輪なしです。」
篠原はそれぞれの色の付箋を順に指さしながら答えた。
「じゃあ、魚屋は……」
まひろが言うと、篠原はピンクと青、二つの付箋の束を手に取った。
「両方ですね。」
そして、ピンクには『8/3』、青には『8/4』と書いて魚屋に貼る。
「学習塾は、一昨日と昨日の2回見たって言ってたよね。」
まひろが篠原の手帳を覗き込みながら言うと、
篠原がうなずきながら青い付箋に『8/5』、ピンクに『8/6』と書いて学習塾に貼った。
その後、「あ」と小さく言って黄色の付箋に『8/2』と書いてわたくら公園に貼る。
「ああ、結衣ちゃんからの。」
「はい。」
篠原はペンを置いた。
まひろの指が、喫茶店の付箋を指す。
「居酒屋はいつごろかわからないから…喫茶店のマスターと結衣ちゃんが見たのが最初と考えてよさそう。」
「同じ日ですが…少し離れていますね。子猫の足で1日で移動できるでしょうか?」
まひろは難しい顔で頷く。
「そこは分からないけど…。」
まひろは、喫茶店を指した指を魚屋、学習塾へと滑らせる。そこで指を止めた。
「結衣ちゃんの情報を一旦置いておけば、西のほうに動いて行ってるのは、確か。」
「その後、『神社の方へ行った』と塾の先生が言っていましたね。」
今度は篠原がひとさし指をまひろの指の先から神社のほうへと動かした。
「うん。」
まひろが頷くのを見て、篠原はもう一度ペンを手に取り、喫茶店、魚屋、学習塾、神社を順に矢印で結んだ。
「神社が怪しいですね。あるいは、住宅地に戻ったか…。」
二人は同じ地図を見つめながら、一つずつ情報を重ねていった。
しばらく沈黙が続く。
先に口を開いたのは、まひろだった。
「……やっぱり変。」
「どのあたりがですか?」
「首輪。」
指先が魚屋と学習塾を行き来する。
「8/3はしてる。」
「はい。」
「8/4と8/5は、してない。」
「…はい。」
「8/6は、またしてる。」
篠原は腕を組み、小さく考え込んだ。
「誰かが外して、また付けた……なんていうことがあるでしょうか?」
「うーん。」
まひろは首をひねる。
「見間違い、という可能性もあります。」
篠原がそう付け加えるのを聞きながら、まひろはまだ難しい顔をしている。
「でも。なんか…。」
それだけ言って、また黙り込む。
篠原は、パラパラと手帳を見ている。
その手が、はたと止まった。
「ああ、これも書いておきましょうか。」
ペンを持ち、学習塾についている青い付箋に『大、小』と書き込む。
まひろの視線が、その文字に吸い込まれる。
「大きい猫と、小さい猫。」
「翌日は、小さい猫だけでしたよね。」
「それ……。」
まひろが手を顎に当てて目をすがめる。
それが何か?というように、篠原がまひろの顔を見た。
「…親子、だよね?」
まひろは、付箋を見つめたまま、呟く。
「おそらくは。」
「……二匹…。」
まひろはぽつりと言ってそのまま考え込んでいる。
篠原は、手帳をそっと閉じ、ペンと一緒にテーブルの上に置いた。
その手を膝の上で静かに組んで、待つ。
はっと、まひろは小さく目を見開いた。目を上げて、篠原を見る。
「篠原。」
「はい。」
まひろは、少し身を乗り出した。
「首輪が外れたんじゃない。」
「え……?」
「首輪をしてる子と、してない子がいたら?」
篠原は、数度瞬きをした。
「…しかし、さすがに子猫と見間違いはしないのでは?」
「ううん、そうじゃなくて。」
まひろがふるふると首を振る。
「子猫が、二匹いたとしたら?」
その一言で、篠原の表情が変わった。
篠原はもう一度、付箋を順番に見直す。
居酒屋。
喫茶店。
理髪店。
公園。
魚屋。
学習塾。
やがて、小さく息をついた。
「……それなら。」
指先が魚屋と学習塾を結ぶ。
「すべての証言に矛盾がありません。」
「うん。」
「結衣さんが公園で見た日と、マスターが喫茶店で見た日が同じでも、おかしくないですね。」
まひろは満足そうに笑った。
「明日の朝、確認に行こう。」
「はい。」
篠原は地図をクリアファイルへ挟み、付箋が剥がれていないことを確かめる。
ふと、テーブルの隅に置かれた紙袋が目に入った。
「そういえば。」
「ん?」
「ラスク、いただきましたね。」
まひろは少し目を丸くしてから、小さく笑う。
「考えてたら、忘れてた。」
「コーヒーを淹れましょうか。」
「うん。」
窓の外はすっかり暗くなり、商店街の街灯が道を照らしていた。
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