第99話 白い便箋に書けなかった言葉
水曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、部屋の中にはまだ夜の冷たさが残っている。布団から腕を出すと、思っていた以上に空気が冷たく、彩花は肩をすくめながら枕元の時計を確かめた。
いつもより十分ほど早い。
もう一度眠るには短く、起きるには少し早い時間だった。
彩花はしばらく天井を眺めていたが、昨夜、書きかけの原稿を机に置いたままだったことを思い出し、静かに布団を抜け出した。
机の上には、星模様のノートと原稿用紙が重ねてある。昨日の夜、祖母へ手紙を書こうとする少女の場面を少し進めたところで、続きをどうするか決められなくなっていた。
少女は写真を見つめ、庭に咲く花を思い出し、白い便箋を前にしている。
そこまでは書けた。
けれど、最初の一行が書けない理由を、彩花自身がまだ十分に理解できていなかった。
(寂しいから書けない、だけじゃない気がするんだよね。何かを伝えたいのに、最初に何を伝えたらいいのか分からない……)
彩花は椅子に座り、昨日書いた文章を読み返した。
少女の祖母は遠くへ引っ越すことになっている。離れて暮らすことへの寂しさはあるが、二人が会えなくなるわけではなく、手紙を送ることもできる。
それなのに少女は、最初の一行を書けずにいる。
彩花はペンを持ったまま、窓の外へ視線を移した。
向かいの家の庭では、昨日よりも落ち葉が増えていた。風に揺れる枝を見ていると、悠真と川沿いを歩いた日のことが自然と思い出される。
あのとき、二人は同じ景色を見ていた。
けれど、何を見つけて、どんなことを考えたのかは、話してみなければ分からなかった。
(そうか。伝えたいことがたくさんあると、最初の言葉を選ぶのが難しくなるのかもしれない)
彩花はノートの余白へ、その考えを書き留めた。
少女は、祖母に何も言えないわけではない。
むしろ、伝えたいことが多すぎるのだ。
一緒に庭の花を育てたことも、写真を撮った日のことも、これから学校で起きる出来事も。
どれも大切だからこそ、どれから書けばいいのか分からない。
そう考えると、少女の迷いが少しだけ身近なものに感じられた。
彩花は原稿用紙を一枚取り、試しに文章を書き始めた。
『少女は便箋の上にペン先を置いた。けれど、最初の一文字を書こうとすると、祖母に伝えたいことが次々と思い浮かび、どの言葉から始めればいいのか分からなくなった。』
書き終えたところで、彩花はペンを止めた。
まだ完成した文章ではない。
それでも、昨日より少女の気持ちに近づけた気がした。
階下から母の紗月が朝食の準備をする音が聞こえてくる。
彩花は時計を確かめ、原稿を丁寧に揃えた。
続きを考えるのは、学校から帰ってからにしよう。
そう決めると、少しだけ気持ちが軽くなった。
◇
朝食の席では、凛花が窓の外を見ながら温かいお茶を飲んでいた。
「今日も寒いね。彩花、ちゃんと上着持っていく?」
「うん。昨日も帰りは風が冷たかったから、今日は忘れないようにする」
彩花が答えると、凛花は満足そうに頷いた。
「それがいいよ。風邪ひいて、楽しみにしてるお出かけができなくなったら困るでしょ?」
彩花は箸を持ったまま、思わず姉を見た。
「お、お姉ちゃん。まだ日にちは決まってないよ」
「知ってる。でも、楽しみにしてるのは本当でしょ?」
凛花は悪びれる様子もなく笑った。
彩花は返事に困り、少しだけ視線を落とした。
悠真と川沿いを歩く約束をしたことは、家族にも話している。
ただ、いつ行くかはまだ決まっていない。
それなのに、凛花は彩花の表情を見るだけで、どれほど楽しみにしているのか分かってしまうらしい。
「……うん。楽しみだよ」
小さく答えると、凛花はそれ以上からかわず、柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、体調には気をつけないとね。最近、朝と夕方の寒さが全然違うから」
母の紗月も頷いた。
「そうね。彩花、帰りが遅くなる日は連絡してね。部誌の準備で忙しいでしょうけど、無理はしないこと」
「うん。ありがとう、お母さん」
父の耕助は新聞を畳みながら、彩花へ目を向けた。
「部誌の方は、昨日また確認が進んだんだったな」
「うん。作者名の表記は、本人が希望して変えたものだって分かったよ。だから、そこはもう大丈夫なの」
「それはよかった。確認してみないと分からないこともあるんだな」
彩花は頷いた。
昨日の出来事を思い返すと、部誌を作る仕事には、文章を書くこととは違う難しさがあると改めて感じる。
誰かの作品を扱うからこそ、勝手に判断してはいけない。
自分たちの都合だけで進めてはいけない。
その一つ一つが、完成する本を大切にすることにつながっている。
彩花は朝食を終えると、鞄へ星模様のノートを入れ、玄関で上着を羽織った。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。
それでも空は明るく、雲の間から朝日が差し込んでいる。
彩花は少しだけ襟元を整え、学校へ向かって歩き始めた。
◇
桜華学園高等部では、九条悠真が朝の教室で手帳を確認していた。
昨日、担当者から返事が届いた生徒会の確認事項は、すでに整理してある。
今日は残っている資料を確認し、必要な部分を担当教員へ報告する予定だった。
悠真は手帳の端に書いた予定を見直し、机の上へ置いた。
そのとき、森川航平が教室へ入ってきた。
「おはよう、悠真。今日も朝から予定確認か?」
「おはよう、航平。うん。昨日の返事を反映した資料を、今日先生に見てもらおうと思ってね」
「なるほど。俺の方も準備できてるよ。放課後に一緒に確認しようぜ」
「ありがとう。助かるよ」
航平は自分の席へ鞄を置き、悠真の机のそばへ戻ってきた。
「そういえば、昨日の葉っぱの確認はどうだった?」
悠真は少し考えてから答えた。
「練習用の葉は、最初より少し色が落ち着いていたよ。でも、まだ十分に乾いたとは言えないみたいだから、もう少し様子を見ることにしたんだ」
「へえ。思ったより時間がかかるんだな」
「そうだね。急いで触って傷めてしまうのも避けたいから、今は状態を確かめながら進めているところだよ」
航平は感心したように頷いた。
「それだけ大事にしてるなら、きっといい形で残せるんじゃないか?」
「そうだといいね。ただ、まだどんな形にするかも決めていないから、少しずつ考えるつもりだよ」
悠真は穏やかに微笑んだ。
机の引き出しには、川沿いで拾った橙色の葉が紙に包まれてしまってある。
彩花と歩いた日の思い出。
その葉を、いつか彩花へ渡したいと思っている。
けれど、今のままでは傷んでしまうかもしれない。
だから、まずは練習用の葉で確かめている。
航平は悠真の表情を見て、少し笑った。
「お前、最近そういう話するとき、学校の仕事とは違う顔するよな」
「そうかな?」
「うん。なんていうか、楽しそうなんだよ。大変そうなのにさ」
悠真は少し考えたあと、頷いた。
「確かに、難しいと思うこともあるけど、嫌だとは感じていないかな。どうすれば大切に残せるか考えるのは、楽しいんだと思う」
「それならよかった。まあ、無理に急ぐ必要もないしな」
航平はそう言って、自分の席へ戻っていった。
悠真は窓の外へ目を向けた。
校庭の木々は、以前より枝が目立つようになっている。
彩花と川沿いを歩く日も、まだ決まっていない。
それでも、次に会ったときに話したいことは少しずつ増えていた。
◇
青葉高校の昼休み、彩花は教室の窓際で星模様のノートを開いていた。
午前中の授業で、手紙に関する文章を読む機会があった。
授業の中心は文章の構成についてだったが、彩花はその中で、書き手が相手に何を伝えたいのかという点に強く興味を引かれていた。
手紙は、ただ出来事を書き並べるものではない。
誰に向けて書くのかによって、言葉の選び方も変わる。
同じ出来事でも、相手との関係によって伝えたい部分が違ってくる。
彩花は授業中に取ったメモを見返しながら、今朝書いた原稿のことを考えた。
(少女は、おばあちゃんに何を一番伝えたいんだろう。寂しいこと? ありがとうって気持ち? それとも、これからも話したいってこと?)
どれか一つに決めなくてもいいのかもしれない。
けれど、最初の一行には、少女らしい言葉が必要だと思った。
彩花はノートの端へ、いくつか候補を書いてみた。
『おばあちゃんへ。』
『この前、一緒に庭で見た花のことを覚えていますか。』
『今日、学校でこんなことがありました。』
書いてみると、それぞれ違う印象になった。
最初のものは自然だが、そのあとに何を書くのかがまだ見えない。
二つ目は思い出から始まる。
三つ目は、これからも日常を伝えていく手紙らしい。
彩花はペンを止め、しばらく三つの文章を見比べた。
「水瀬さん、何を書いてるの?」
声をかけられて顔を上げると、田辺大地が近くに立っていた。
「新しいお話のことを考えてたんだ。まだ途中なんだけどね」
「へえ、また書いてるんだな。すごいなあ」
大地は感心したように言い、彩花の向かいの席へ腰を下ろした。
「俺なんて、作文の宿題でも何を書けばいいか迷うのに。水瀬さんは、どうやって話を考えてるんだ?」
彩花は少し考えた。
「私も、何を書けばいいか分からなくなることはあるよ。今もちょうど、登場人物が手紙を書く場面で迷ってるところなの」
「手紙か。確かに、最初の一行って難しそうだな」
大地はそう言って、少し笑った。
「俺だったら、たぶん『元気ですか』から始めると思う」
彩花は思わず笑顔になった。
「それもいいね。自然だし、相手のことを気にかけてるのが伝わると思う」
「そうか? なんか普通すぎる気もするけど」
「普通の言葉でも、誰に書くかによって意味が変わると思うよ」
彩花がそう答えると、大地は少し考え込んだ。
「なるほどな。じゃあ、俺が妹に手紙を書くなら、『ちゃんと宿題やってるか』とかになるかもしれない」
「それは、ちょっとお兄ちゃんらしいね」
「いや、実際は俺の方が言われること多いんだけどな」
大地が苦笑すると、彩花も声を立てて笑った。
そのあと、大地は冬の部誌のことを尋ねてきた。
「そういえば、部誌ってまだ完成してないんだよな?」
「うん。昨日、確認が一つ終わったところだよ。でも、表紙の印刷のことはまだ確認中なの」
「そっか。妹には、もう少し待ってもらうように言っとくよ。学校の外でも読めるようになるか、まだ分からないんだよな?」
「うん。そこもまだ決まってないから、今は約束できないんだ」
「了解。まあ、あいつは楽しみにしてるけど、ちゃんと説明すれば分かってくれると思う」
彩花は安心して頷いた。
「ありがとう、田辺君」
大地は軽く手を振り、自分の席へ戻っていった。
彩花はノートへ目を戻した。
何気ない会話だった。
けれど、手紙の最初の一行について、少しだけ考え方が変わった気がした。
特別な言葉でなくてもいい。
相手との関係が感じられる言葉なら、それだけで意味がある。
彩花はノートの端へ、もう一つ書き足した。
『少女らしい、いつもの話し方で始めてもいい。』
◇
放課後、文芸部の部室では、佐々木先輩が先生から預かった資料を確認していた。
彩花が部室へ入ると、先輩は顔を上げて微笑んだ。
「水瀬さん、お疲れさま。今日は少しだけ確認することがあるの」
「お疲れさまです。表紙のことですか?」
「そう。先生が印刷について相談してくださっているんだけど、色の出方を確認するために、もう一度データを見直した方がいいかもしれないって話になっているみたい」
彩花は頷いた。
灰色の表紙に描かれた窓と、葉の落ちた木の枝。
その色合いが、印刷したときにどう見えるのか。
画面上で見たものと、紙に印刷されたものが同じ印象になるとは限らない。
「じゃあ、まだ最終的には決まっていないんですね」
「ええ。先生から正式な連絡が来るまでは、こちらで勝手に変更しないことになっているわ。今日は、今のデータがどの状態なのかを整理しておきましょう」
「はい」
彩花は鞄を置き、先輩の隣へ座った。
机の上には、表紙の確認用資料と、これまでの修正記録が並べられている。
彩花は日付を確かめながら、どの時点で何を変更したのかを整理していった。
以前は、こうした記録を読むだけでも少し緊張していた。
けれど今は、確認する順番や、分からないことを誰に聞けばいいのかが少しずつ分かるようになっている。
佐々木先輩は彩花の手元を見て、穏やかに言った。
「水瀬さん、確認の仕方がずいぶん丁寧になったわね」
彩花は驚いて顔を上げた。
「そうでしょうか?」
「ええ。前は、分からないところがあると少し遠慮していたでしょう? でも最近は、気になったことをちゃんと聞いてくれるようになったから」
彩花は少し照れくさくなった。
「最初は、こんなこと聞いてもいいのかなって思うことが多かったんです。でも、確認しないまま進める方がよくないって分かってきたので……」
「それでいいと思うわ。分からないことを聞けるのも、大切な力だから」
佐々木先輩は微笑み、資料を一枚めくった。
「それに、水瀬さんは自分の作品を書くときも、言葉を大切にしているでしょう? そういうところが、部誌の確認にも生きていると思う」
彩花はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。
自分の書く物語と、部誌を作る仕事。
別々のことのように感じていたが、どちらも言葉を大切にすることにつながっている。
「ありがとうございます。私、まだ分からないことも多いですけど、最後までちゃんと確認したいです」
「ええ。一緒に頑張りましょう」
二人はそのあと、資料の整理を続けた。
新しい修正を加えることはなく、確認済みの部分と、先生からの返事を待つ部分を分けてまとめた。
作業が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。
彩花は資料を片づけ、佐々木先輩へ挨拶して部室を出た。
◇
桜華学園では、悠真と航平が生徒会室で担当教員への報告を終えていた。
昨日までに整理した資料について、先生から大きな修正は必要ないと言われ、残っていた確認事項も一つずつ片づいていた。
航平は机の上の資料を揃えながら、満足そうに息をついた。
「よし。これで今週の作業は、だいぶ落ち着いたな」
「そうだね。まだ細かな確認はあるけど、急いで対応しなければならないものは少なくなったと思う」
悠真は手帳へ今日の進行状況を書き込み、資料を閉じた。
航平はその様子を見ながら、少し笑った。
「これなら、週末の予定も立てやすそうだな」
「うん。ただ、彩花さんの方は部誌の確認が続いているから、まだ日にちは決められないと思う」
「そっか。でも、昨日は歩きたい場所の話もしたんだろ?」
悠真は少し驚いたように顔を上げた。
「どうして分かったの?」
「いや、お前が朝からなんか楽しそうだったからさ。もしかして、少し話が進んだのかなって」
航平は笑いながら答えた。
悠真は少し考え、穏やかに微笑んだ。
「うん。前に歩いた川沿いの道を、もう一度歩いてみたいって話したんだ。修理されたベンチのところにも行ってみたいねって」
「いいじゃん。あの辺り、今なら景色も変わってるだろうし」
「そうだね。彩花さんも、前と違う景色を見られるのを楽しみにしてくれているみたいなんだ」
航平はその言葉を聞き、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、あとは予定が合うのを待つだけだな」
「うん。急がずに決めたいと思ってるよ」
悠真はそう答え、窓の外へ目を向けた。
校庭の木々は、夕方の光を受けて淡く色づいている。
彩花と一緒に歩く日も、こんなふうに穏やかな天気ならいい。
そのことを思い浮かべるだけで、自然と表情が緩んだ。
◇
帰宅した彩花は、夕食までの時間を使って新しい物語の原稿を開いた。
今日の昼休みに考えたことを、忘れないうちに書いておきたかった。
少女が祖母へ手紙を書こうとする場面。
最初の一行が決まらず、何度も便箋を見つめる少女。
彩花はその様子を、少しずつ文章にしていった。
『少女は、便箋の上へペン先を近づけた。祖母に伝えたいことはたくさんあったのに、最初の一行を考え始めると、どれも大切すぎて選べなくなってしまう。』
『庭の花のことを書こうか。それとも、写真を撮った日のことを書こうか。これから学校で起きることを、毎日少しずつ伝えていきたいとも思っていた。』
そこまで書いて、彩花はペンを止めた。
少女は、手紙を書けない自分に少し困っている。
けれど、その迷いは悪いことではない。
大切な相手だからこそ、言葉を選んでいる。
彩花はその気持ちを、急いで解決させたくなかった。
しばらく考えたあと、続きを書き足した。
『少女は白い便箋を見つめたまま、祖母がいつも自分の話を最後まで聞いてくれたことを思い出した。学校であった小さな出来事も、庭で見つけた虫のことも、祖母は楽しそうに聞いてくれた。』
『それなら、特別な言葉から始めなくてもいいのかもしれない。少女はそう思ったものの、まだ最初の一文字を書くことはできなかった。』
彩花は原稿を読み返した。
少女の気持ちが、少しだけ見えてきた気がする。
けれど、まだ何かが足りない。
彩花は星模様のノートを開き、今日考えたことを整理した。
『手紙の最初の一行は、立派な言葉でなくてもいい。』
『相手との関係が感じられる言葉なら、それだけで意味がある。』
『少女は、祖母にこれからも日常を伝えていきたいと思っている。』
書き終えたあと、彩花は少しだけ笑った。
物語は、まだ完成には遠い。
それでも、少女がどんな気持ちで便箋を見つめているのか、以前より分かるようになってきた。
彩花は原稿を揃え、机の端へ置いた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日の部活動はどうだった?』
彩花は自然に微笑んだ。
『こんばんは、悠真君。今日は表紙の印刷について、今のデータを整理してたよ。まだ先生からの正式な返事は来てないから、変更はしてないんだけどね』
少しして、悠真から返事が届いた。
『そうだったんだね。確認が終わるまで、今の状態をきちんと残しておくのは大切だと思う。今日もお疲れさま』
『ありがとう。悠真君の方は、生徒会の確認どうだった?』
『俺の方は、先生への報告が終わったよ。大きな修正は必要なさそうだから、少し落ち着いたところなんだ』
彩花はその文章を読み、安心した。
『よかったね。最近ずっと忙しそうだったから、少し落ち着いてよかった』
『ありがとう。彩花さんも、部誌の準備で忙しいと思うけど、無理しすぎないでね』
彩花はその言葉を読み、少しだけ頬を緩めた。
悠真は、いつも自分のことを気にかけてくれる。
その優しさが、今はとても嬉しい。
◇
悠真は自室で彩花からのメッセージを読み返していた。
今日も文芸部では、冬の部誌の確認が続いていたらしい。
表紙の印刷条件については、まだ正式な返事が来ていない。
だから、今のデータを整理しながら待っているという。
悠真はその話を聞き、彩花たちが一冊の部誌を大切に作っていることを改めて感じた。
自分の短編だけでなく、ほかの部員の作品も大切にしている。
その姿勢が、彩花らしいと思った。
悠真は少し考え、メッセージを打った。
『そういえば、昨日話していた川沿いの散歩のことなんだけど、寒くなってきたから、歩く時間も少し考えた方がよさそうだね』
彩花から返事が届いた。
『うん。夕方は風が冷たそうだから、明るい時間に歩けたらいいなって思ってた』
『俺もそう思うよ。もし予定が合えば、昼過ぎくらいから歩くのもよさそうだね』
『いいね。前に歩いたときとは違う時間の景色も見られそう』
悠真はその文章を読み、自然に微笑んだ。
まだ日にちは決まっていない。
けれど、少しずつ二人の希望が見えてきている。
どんな景色を見たいか。
どのくらいの時間を歩きたいか。
寒くなったら、どこかで休めるようにしたい。
そうしたことを話し合う時間も、悠真にとっては楽しかった。
『日にちが決まったら、天気も確認しよう。風が強すぎる日は、無理しない方がいいと思うから』
『うん。ありがとう、悠真君。私も、部活の予定が分かったらすぐに伝えるね』
『ありがとう。楽しみにしてるよ』
送信したあと、悠真はスマートフォンを机へ置いた。
窓の外では、夜の風が庭の木々を揺らしている。
昼間よりも冷たくなった空気が、窓越しにも感じられるようだった。
悠真は机の引き出しへ目を向けた。
そこには、紙に包まれた橙色の葉がしまってある。
彩花と歩いた日の思い出。
その葉を、いつか彩花へ渡したい。
けれど、まだどんな形にするかは決めていない。
練習用の葉も、今は状態を確認している途中だ。
悠真は引き出しを開けず、そのまま視線を戻した。
大切なものだからこそ、焦らずに考えたい。
そう思えるようになったことも、彩花と出会ってからの変化なのかもしれない。
◇
夜九時を過ぎた頃、彩花は淡い緑色の日記帳を開いていた。
今日の出来事を思い返しながら、ゆっくりとペンを動かしていく。
『今日は新しいお話の続きを少し書いた。手紙の最初の一行が決まらない少女の気持ちが、前より少し分かった気がする。』
『伝えたいことがたくさんあるから、どれから書けばいいのか迷う。大切な相手だからこそ、簡単には決められないのかもしれない。』
彩花はそこで少し手を止めた。
今日、悠真と川沿いを歩く時間について話した。
夕方よりも、明るい時間の方がよさそうだということ。
寒くなったら無理せず休むこと。
まだ日にちは決まっていないけれど、少しずつ二人で考えている。
彩花は頬を緩め、続きを書いた。
『悠真君と、今度の散歩は明るい時間に歩けたらいいねって話した。まだ予定は決まっていないけれど、どんなふうに歩くか考えるだけで楽しい。』
『悠真君は、いつも私のことを気にかけてくれる。寒くないか、無理していないか、ちゃんと考えてくれる。その優しさが嬉しい。』
書き終えたあと、彩花は少しだけ恥ずかしくなった。
誰にも見せない日記なのに、自分の気持ちをそのまま書くと、胸がくすぐったくなる。
けれど、その言葉を消そうとは思わなかった。
悠真のことが好きだと、自分の中で認めたあの日から、少しずつ変わってきたことがある。
以前なら、嬉しい気持ちをどう受け止めればいいのか分からず、ただ胸の奥にしまっていたかもしれない。
今は、その気持ちを大切にしたいと思っている。
彩花は日記帳を閉じ、引き出しへしまった。
机の上には、まだ書きかけの原稿が置かれている。
少女は、祖母へ宛てる手紙の最初の一行を書けずにいる。
けれど、その迷いの中には、祖母との大切な時間がたくさん詰まっている。
彩花は原稿へ目を向け、静かに微笑んだ。
(この子が最初の言葉を書けるとき、きっと何かが変わるんだろうな)
その変化を、急いで書いてしまいたくはなかった。
少女が自分の気持ちを見つけるまで、もう少し一緒に考えてみたい。
彩花はそう思いながら、明日の学校の準備を始めた。
窓の外では、冷たい風が木々を揺らしている。
冬は少しずつ近づいている。
そして、まだ決まっていない約束も、まだ書けていない手紙も、それぞれの時間の中で少しずつ形を変えようとしていた。




