第98話 まだ決まらない約束にも、楽しみは増えていく
火曜日の朝、青凪市には冷たい風が吹いていた。
水瀬彩花がカーテンを開けると、向かいの家の屋根には柔らかな朝日が差していたものの、庭の木々は細い枝を揺らしている。昨日まで残っていた葉がいくつか落ちたらしく、地面には赤茶色や黄色の小さな色が増えていた。
彩花は窓のそばへ近づき、ガラス越しにその様子を眺めた。
季節が少しずつ進んでいる。
その変化を見つけるたびに、悠真と川沿いを歩く約束を思い出すようになっていた。
(来週か再来週の週末に歩けたらいいな。でも、部誌の確認もあるし、まだ予定が分からないんだよね)
昨夜、悠真から学校の予定を確認したと教えてもらった。彼の方は、現時点ではどちらの週末にも大きな予定が入っていないらしい。
彩花の方は、冬の部誌の最終確認が続いている。
作者名の表記について新たな確認事項が見つかり、表紙の印刷条件についても先生からの返事を待っている状態だった。部活動の予定が変更される可能性もあるため、今すぐ日にちを決めることはできない。
けれど、不思議と焦る気持ちはなかった。
悠真が「予定が分かってから相談しよう」と言ってくれたからだ。
彩花は窓から離れ、制服へ着替え始めた。
机の上には、星模様のノートと、昨日少し書き直した新しい物語の原稿が置かれている。
祖母が遠くへ引っ越すことになった少女の物語。
昨日は、写真を見つめていた少女が、これから先のことを少し考え始める場面を書き直した。
けれど、祖母へ宛てる手紙の最初の一行は、まだ決まっていない。
彩花は原稿を手に取り、昨日書いた部分へ目を通した。
少女が机へ戻した写真。
その中には、庭で笑う祖母と幼い少女が写っている。
写真の中の時間は変わらない。
けれど、少女自身は少しずつ成長し、祖母との暮らしも変わろうとしている。
(この子は、きっと寂しいだけじゃないんだよね。これからもおばあちゃんと話したいから、何を書こうか迷ってるんだと思う)
彩花はそう考えながら、原稿を丁寧に揃えた。
今日の放課後は文芸部の活動があるかもしれない。
新しい物語を書く時間が取れるかどうかは分からないが、思いついたことを忘れないように、星模様のノートは鞄へ入れておくことにした。
◇
朝食の席では、凛花が温かい飲み物を手にしながら、窓の外を眺めていた。
「今日は本当に寒そう。彩花、昨日より厚い上着にした方がいいんじゃない?」
彩花は椅子へ座りながら、自分の制服の袖へ目を向けた。
「うん。今日は帰りも寒くなりそうだから、上着を持っていくつもりだよ」
「それがいいと思う。夕方になると、風がもっと冷たくなるみたいだし」
凛花はそう言ってから、彩花の顔を見た。
「そういえば、冬の部誌ってどうなったの? 昨日も確認してたんでしょ?」
「うん。前に見つかったページ番号のずれは直ってたよ。でも、作者名の表記で一つ確認が必要なところが見つかったから、まだ全部終わったわけじゃないの」
彩花が説明すると、母の紗月が頷いた。
「名前の表記は大切だものね。本人がどう書いてほしいか、きちんと確かめた方が安心ね」
「そうなの。佐々木先輩も、すぐに間違いだって決めつけずに確認しようって言ってた」
父の耕助は新聞を畳み、彩花へ穏やかな視線を向けた。
「一冊の本を作るって、思っていた以上にいろいろな人が関わるんだな。彩花も、いい経験をしているんじゃないか?」
「うん。自分のお話を書くだけじゃ分からなかったことが、たくさんあるなって思う」
彩花はそう答え、温かいスープを口に運んだ。
文芸部へ入った頃は、自分の作品を誰かに読んでもらうことだけでも緊張していた。
今は、ほかの部員の作品を読み、一冊の部誌を完成させるために協力している。
もちろん、まだ分からないことは多い。
それでも、少しずつできることが増えているのを感じていた。
「完成したら、どんな表紙になったか教えてね」
凛花が笑顔で言うと、彩花も微笑んだ。
「うん。まだ印刷のことも決まってないけど、完成したら話すね」
そのあと、家族はそれぞれの予定を確認し、朝食を終えた。
彩花は上着を鞄へ入れ、玄関で靴を履いた。
外へ出ると、予想していたとおり風は冷たかった。
それでも、空には明るい日差しが広がっている。
彩花は鞄を持ち直し、学校へ向かって歩き始めた。
◇
桜華学園高等部では、九条悠真が朝の教室で手帳を開いていた。
昨日、担当教員へ確認した生徒会の予定を見直し、今日中に返事が来る可能性のある項目へ印をつける。
机の上には、昨日航平と分担して確認した資料の控えが置かれていた。
大きな修正は必要なさそうだったが、担当者へ確認を依頼した箇所については、まだ返事が届いていない。
悠真はその部分をもう一度確かめ、資料を閉じた。
「おはよう、悠真。今日も早いな」
声をかけてきたのは森川航平だった。
悠真が顔を上げると、航平は鞄を自分の席へ置き、少し笑いながら近づいてきた。
「おはよう、航平。昨日の確認事項を整理していたんだ。返事が来たら、すぐに対応できるようにしておこうと思ってね」
「なるほど。俺の方も、昨日の担当者には連絡してあるよ。今日中に返事が来るかは分からないけど、急ぎじゃないから大丈夫だと思う」
「ありがとう。無理に急がせる必要はないね」
悠真がそう答えると、航平は机の端へ軽く手を置いた。
「そういえば、昨日言ってた川沿いの散歩、まだ日にちは決まってないんだよな?」
「うん。彩花さんの方も学校の予定がまだ分からないみたいだから、もう少し待つことにしたんだ」
「そっか。でも、楽しみにしてるならいいじゃん。予定を決める前から、何を見ようか考えるのも楽しいだろ?」
航平の言葉に、悠真は小さく笑った。
「そうだね。前に歩いたときとは、景色も変わっていると思うから」
「葉っぱもだいぶ落ちてるしな。あの辺りなら、川の向こうまでよく見えるようになってるかもしれない」
悠真は窓の外へ目を向けた。
校庭の木々も、以前より枝が目立つようになっている。
季節が変わることで、同じ場所でも違う景色が見える。
そのことを彩花と一緒に確かめられたら、きっと楽しいだろう。
「うん。彩花さんと、どんなふうに変わったか話しながら歩けたらいいなと思ってるよ」
航平はその言葉を聞き、少しだけ表情を緩めた。
「お前、そういうこと話すとき、本当に楽しそうだな」
悠真は少し驚いたように顔を上げた。
「そうかな?」
「そうだよ。学校の予定を話してるときとは、表情が違う」
航平はからかうような口調ではなく、友人として自然にそう言った。
悠真は少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「そうかもしれないね。彩花さんと話していると、普段なら気づかないことにも目が向くから」
航平は満足そうに頷いた。
「それなら、なおさら楽しんでこいよ。日にちが決まったら、学校の方は俺も確認するからさ」
「ありがとう。でも、航平に任せきりにはしないよ」
「分かってるって。そういうところは変わらないな、お前」
二人は笑い合い、朝の授業の準備へ戻った。
◇
青葉高校の昼休み、彩花は教室の窓際で昼食を取っていた。
窓の外では、風に運ばれた落ち葉が校庭の端へ集まっている。
昨日よりも少し寒くなったせいか、教室の中では温かい飲み物を手にしている生徒が多かった。
「水瀬さん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、同じクラスの女子生徒だった。
彩花が顔を上げると、その生徒は少し遠慮がちに微笑んだ。
「この前、文芸部の部誌のこと話してたでしょ? あれって、もうすぐ完成するの?」
「うん。今、最後の確認をしているところだよ。でも、まだ先生の確認が必要な部分があるから、完成する日は決まってないの」
「そうなんだ。私、文芸部の部誌って読んだことがなくて、ちょっと気になってたんだ」
彩花はその言葉を聞き、嬉しくなった。
「そう言ってもらえると嬉しいな。いろいろな作品が載る予定だから、私も完成が楽しみなんだ」
「水瀬さんのお話も載るんだよね?」
「うん。短いお話だけど、載せてもらう予定だよ」
彩花が答えると、その生徒は笑顔になった。
「読めるようになったら、教えてほしいな。学校の図書室とかに置かれるのかな?」
彩花は少し考えてから、丁寧に答えた。
「それはまだ分からないんだ。印刷する数とか、どこで読めるようにするかも、先生の確認が終わってから決まると思うの。だから、今は約束できないんだけど……」
「そっか。じゃあ、決まってからで大丈夫だよ。楽しみにしてるね」
「ありがとう」
彩花は微笑み、頭を下げた。
その生徒が友人のところへ戻ったあと、彩花は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
大地の妹だけでなく、同じクラスにも部誌を読んでみたいと思ってくれる人がいる。
自分たちが作っているものに、誰かが興味を持ってくれる。
そのことが、今の彩花にとって大きな励みだった。
(まだ完成してないけど、ちゃんと最後まで頑張りたいな)
彩花はそう思いながら、昼食を終えた。
◇
放課後、文芸部の部室には佐々木先輩と数人の部員が集まっていた。
昨日確認した資料は、机の上へ丁寧にまとめられている。
彩花が部室へ入ると、佐々木先輩が顔を上げた。
「水瀬さん、お疲れさま。ちょうど先生から連絡があったところなの」
「お疲れさまです。昨日の作者名の表記のことですか?」
「そう。本人に確認してもらえたみたいで、表記を変更したのは本人の希望だったそうよ」
彩花は少し驚いた。
昨日、前の資料と違っていることに気づいたとき、間違いかもしれないと思った。
けれど、実際には作者本人が希望した変更だったのだ。
「そうだったんですね。確認してもらえてよかったです」
「本当にね。もし前の表記へ戻していたら、本人の希望と違うものになっていたかもしれないから」
佐々木先輩は確認事項の紙を取り出し、該当箇所へ印をつけた。
「これで、昨日見つかった作者名の表記については確認が取れました。ほかの箇所も、今のところ新しい問題は見つかっていないわ」
彩花は頷いた。
部誌の完成へ向けて、また一つ確認が進んだ。
ただし、すべてが終わったわけではない。
「表紙の印刷のことは、まだ確認中なんですよね?」
彩花が尋ねると、佐々木先輩は頷いた。
「そうなの。先生が相談してくださっているけれど、まだ最終的な返事は来ていないみたい。だから、今日のところは確認済みの資料を整理して、必要なところをもう一度見直すことにしましょう」
「はい」
彩花は鞄を置き、机のそばへ座った。
部員たちはそれぞれ資料を手に取り、確認した箇所を整理していく。
昨日のように新しい問題を探すというより、どこまで確認が終わっているのかを分かりやすくする作業だった。
彩花は自分の担当箇所を見直し、確認済みの印がついている部分を確かめた。
その途中で、佐々木先輩が隣へ来た。
「水瀬さん、昨日のことだけど、表記の違いに気づいてくれてありがとう。ああいう確認は、気づいた人が声をかけてくれると本当に助かるわ」
「いえ、私も勉強になりました。前の資料と違うからって、すぐに間違いだと思わない方がいいんですね」
「そうね。もちろん間違いのこともあるけれど、変更には理由がある場合もあるから。書いた人の希望を大切にしたいものね」
彩花はその言葉に頷いた。
自分の短編『いつか、ここに』という題名も、何度も考えて決めたものだった。
もし別の表記になっていたら、きっと気になる。
だからこそ、ほかの人の作品も同じように大切にしたい。
「私も、自分の作品を確認してもらえると安心します。だから、ほかの人の作品も丁寧に見たいです」
彩花がそう答えると、佐々木先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「その気持ちがあれば、きっと大丈夫よ。完成までもう少しだけど、最後まで一緒に頑張りましょうね」
「はい。よろしくお願いします」
彩花は丁寧に頭を下げ、作業へ戻った。
部室の窓からは、夕方の淡い光が差し込んでいる。
紙をめくる音と、部員たちが小さく相談する声が重なり、部誌の完成へ向けた時間が静かに流れていた。
◇
同じ頃、桜華学園では悠真が生徒会室で資料を確認していた。
航平が担当者からの返事を受け取り、必要な部分を整理している。
「悠真、昨日確認してたところ、返事が来たよ。こっちの表現で問題ないって」
航平が資料を差し出すと、悠真は内容を確かめた。
「ありがとう。じゃあ、この部分は修正しなくて大丈夫だね。ほかの箇所と表記が揃っているかだけ、もう一度確認しておこう」
「了解。俺は残りの確認事項を見ておくよ」
二人は机を挟んで作業を進めた。
昨日の段階では判断できなかった部分も、担当者へ確認したことで整理できた。
悠真はそのことに少し安心した。
自分たちだけで決めてしまうより、必要な人へ確かめた方が正確になる。
その当たり前のことを、最近は以前より意識するようになっていた。
作業が一段落すると、航平が椅子の背にもたれた。
「これで、今週の大きな確認はだいぶ片づいたな」
「そうだね。まだ先生の最終確認は必要だけど、俺たちができるところは進められたと思う」
「じゃあ、今日は早めに帰れそうだな。悠真、家で何かする予定あるのか?」
悠真は少し考えた。
「昨日、祖父と話していた葉の保存のことを、もう少し確認しようと思ってるんだ。練習用の葉がどうなっているか、琴葉と見てみようかなって」
「お、まだ続けてたんだな。そういうのって、時間がかかるんだろ?」
「うん。急いで結果を出すものじゃないからね。まずは状態を見て、次に何をするか考えるつもりだよ」
航平は笑った。
「なんか、お前らしいな。大事なことほど、ちゃんと確かめてから進めるって感じで」
悠真は小さく笑い返した。
「失敗したくない気持ちもあるけどね。でも、何もしなければ分からないこともあるから」
「それはそうだな。まあ、学校の仕事も片づいてきたし、そっちも楽しめよ」
「ありがとう、航平」
二人は資料を片づけ、担当教員へ必要な報告を済ませた。
そのあと、悠真は校門へ向かいながら、今日の夕方の空を見上げた。
雲の切れ間から、柔らかな光が差している。
風は冷たいが、空は明るかった。
彩花と川沿いを歩く日も、こんな天気ならいい。
悠真はそう思いながら、帰路についた。
◇
九条家へ帰宅した悠真は、夕食の前に琴葉の部屋を訪ねた。
扉を軽く叩くと、中から明るい返事が聞こえてくる。
「お兄様? どうぞ」
悠真が扉を開けると、琴葉は机の上で本を広げていた。
「琴葉、少し時間はあるかな。昨日話していた練習用の葉を、今日もう一度確認しようと思ってるんだけど」
琴葉は顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんです。私も気になっていました。昨日はまだ大きな変化がありませんでしたけれど、今日はどうなっているでしょうね」
「そうだね。急いで触らずに、まずは状態を見てみよう」
二人は一緒に悠真の部屋へ向かった。
机の上には、練習用の葉を保存しているものが置かれている。
悠真は慎重に取り出し、琴葉と並んで状態を確認した。
葉の色は、集めたときより少し落ち着いて見える。
ただし、まだ完全に乾いたとは言えないようだった。
「お兄様、少し色が変わったように見えますね」
琴葉が小さな声で言った。
「うん。最初の状態と比べると、少し違うね。でも、今の段階で成功かどうかは判断できないと思う」
悠真は練習用の葉を見つめた。
自然のものを保存するのは、思っていたより難しい。
形を整えようとしても、葉の状態によっては傷んでしまうかもしれない。
色も、時間が経てば変わる。
だからこそ、いきなり大切な葉で試さなくてよかったと思った。
「もう少し時間を置いて、また確認してみよう。今は無理に触らない方がよさそうだね」
悠真がそう言うと、琴葉は頷いた。
「はい。お兄様が大切にしている葉は、まだそのままにしておくんですよね?」
「うん。練習用の葉で確かめてから、どうするか決めたいんだ」
琴葉は少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「きっと、素敵なものになりますね。お兄様がそんなに大切に考えているんですもの」
悠真はその言葉に、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう。でも、まだ形も決まっていないからね。焦らず考えるよ」
琴葉は頷き、机の上の葉へもう一度目を向けた。
「私も、何かお手伝いできることがあったら言ってくださいね」
「うん。そのときはお願いするよ」
二人は練習用の葉を元の場所へ戻し、部屋を片づけた。
大切な橙色の葉は、今日も紙に包まれたまま、机の引き出しにしまわれている。
まだ贈り物の形にはなっていない。
けれど、悠真の中では少しずつ、どう残したいのかがはっきりしてきていた。
◇
夕食後、彩花は自室で星模様のノートを開いていた。
今日の部活動では、作者名の表記について確認が取れた。
前の資料と違っていたのは、間違いではなく、作者本人の希望だった。
そのことを思い返しながら、彩花は新しい物語の原稿へ目を向けた。
祖母へ手紙を書く少女も、言葉を選ぶことに迷っている。
何を書けば、祖母に自分の気持ちが伝わるのか。
どんな言葉なら、離れて暮らすことになっても、これからも話していきたいという気持ちを表せるのか。
彩花はペンを取り、原稿の余白へ小さく書いた。
『相手に伝えたいことを考える時間も、手紙の一部なのかもしれない。』
書き終えたあと、彩花は少し考えた。
少女が迷っているのは、立派な言葉を書きたいからではない。
祖母との思い出が大切だからこそ、簡単に言葉を決められないのだ。
その気持ちを、急いで解決させたくはなかった。
彩花は原稿を読み返し、昨日書いた場面へ少しだけ文章を足した。
少女は写真を机へ戻したあと、窓の外にある庭を眺める。
祖母と一緒に水をやった花壇は、今もそこにある。
祖母が遠くへ行ってしまっても、花が咲く季節はまたやってくる。
そのとき、自分は何を思うのだろう。
少女はまだ答えを見つけられないまま、机の上の便箋へ視線を戻す。
そこまで書いて、彩花はペンを止めた。
少女が最初の一行を書く場面は、まだ先でいい。
今は、迷っている時間の中で、何を大切にしているのかを少しずつ見つけていく方が自然に思えた。
彩花は原稿を揃え、ノートを閉じた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日の部活動はどうだった? 昨日の確認事項、何か分かったかな』
彩花は自然に微笑んだ。
悠真は、昨日話したことを覚えていてくれた。
そのことが嬉しくて、すぐに返信を打ち始めた。
『こんばんは、悠真君。昨日見つかった作者名の表記のこと、今日確認が取れたよ。間違いじゃなくて、本人が希望して変更したものだったんだって』
少しして、悠真から返事が届いた。
『そうだったんだね。確認してよかったね。本人の希望が反映されているなら、そのままにするのが大切だと思う』
『うん。佐々木先輩もそう言ってたよ。私も、確認してもらえてよかったなって思った』
彩花は送信したあと、少し考えた。
今日の生徒会のことも聞いてみたい。
『悠真君の方は、生徒会の確認どうだった?』
返事はすぐに届いた。
『俺の方も、昨日確認していたところに返事が来たよ。担当の人に確認してから進めたから、安心して整理できたんだ』
彩花はその文章を読み、思わず笑顔になった。
『また似たようなことしてたんだね。なんだか面白いな』
『本当だね。違う学校で過ごしているのに、同じようなことを考えていたみたいだ』
二人はそのあと、今日の学校での出来事を少しずつ伝え合った。
彩花は、同じクラスの生徒が冬の部誌に興味を持ってくれたことを話した。
悠真は、それを聞いて嬉しそうに返事をした。
『彩花さんたちが頑張って作っているものを、楽しみにしてくれる人がいるのは嬉しいね』
『うん。まだ完成してないけど、そう言ってもらえると頑張ろうって思えるよ』
彩花はその言葉を送信し、しばらく画面を見つめた。
部誌が完成するまでには、まだ確認が必要だ。
けれど、完成を楽しみにしてくれる人がいる。
そのことを悠真に伝えられたのも、嬉しかった。
◇
悠真は自室で彩花とのメッセージを読み返していた。
今日の文芸部では、作者名の表記について確認が取れたらしい。
間違いではなく、本人の希望だったという話を聞き、悠真は自分たちの生徒会の作業と重ねて考えていた。
誰かが作ったものを扱うときには、確認することが大切だ。
そのことを、彩花も同じように感じている。
悠真は少し微笑み、次のメッセージを打った。
『そういえば、今日も学校の予定を確認したけど、今のところ週末の予定に変更はなかったよ。彩花さんの方は、部活の予定はまだ分からないかな』
送信したあと、悠真は手帳へ目を向けた。
来週と再来週の週末には、まだ具体的な予定を書き込んでいない。
ただ、彩花と川沿いを歩くことを楽しみにしている。
その気持ちは、昨日よりも少し大きくなっていた。
しばらくして、彩花から返事が届いた。
『うん。まだ表紙の印刷のことが確認中だから、部活の予定もはっきりしてないんだ。でも、予定が分かったらすぐに伝えるね』
『ありがとう。急がなくて大丈夫だよ。俺も、学校の予定が変わったらちゃんと伝えるから』
悠真はそう返したあと、少し考えた。
日にちが決まっていないからこそ、今のうちに話しておけることもある。
例えば、どんな景色を見たいか。
どこで少し休みたいか。
以前歩いた道を、今度はどんなふうに歩いてみたいか。
悠真はそのことを彩花へ伝えてみることにした。
『日にちはまだ決まっていないけど、もしよかったら、今度どんなところを歩きたいか少しずつ話してみない? 前と同じ道でも、季節が変わると違う景色が見られそうだから』
送信したあと、悠真は少しだけ緊張した。
彩花がどう思うかは分からない。
けれど、予定を決めることだけが楽しみではないと思った。
少しして、彩花から返事が届いた。
『いいね! 私も、前に歩いた道をもう一度歩いてみたいな。修理されたベンチのところも、今はどんな景色になってるんだろう』
悠真はその文章を読み、自然に微笑んだ。
彩花も同じ場所を思い浮かべてくれている。
『あのベンチのところ、いいね。前は葉がたくさん残っていたけど、今は枝の向こうまで見えるかもしれないね』
『うん。川の向こうの景色も、前よりよく見えるかもしれないね。あと、風が冷たそうだから、温かい飲み物があったら嬉しいな』
悠真はその言葉を読み、少し考えた。
以前、青凪駅の近くのカフェで、彩花はココアを飲んでいた。
あのときの楽しそうな表情を思い出す。
『そうだね。寒かったら、無理せず途中で休もう。温かい飲み物を飲めるところがあれば、そこで少し休むのもよさそうだね』
『うん。そういう時間も楽しそう』
二人はそのあと、川沿いの景色や、歩くときに気をつけたいことを少しずつ話した。
ただし、具体的な日にちや待ち合わせ場所は決めなかった。
まだ学校の予定が分からないからだ。
それでも、話しているうちに、次に一緒に歩く時間が少しずつ想像できるようになっていった。
◇
夜九時を過ぎた頃、彩花は淡い緑色の日記帳を開いていた。
今日の出来事を思い返しながら、ゆっくりとペンを動かしていく。
『今日は文芸部で、作者名の表記について確認が取れた。間違いじゃなくて、本人の希望だったから、勝手に直さなくてよかった。』
『同じクラスの子も、冬の部誌を読んでみたいって言ってくれた。まだ完成してないけど、楽しみにしてくれる人がいるのは嬉しい。』
彩花はそこで少し手を止めた。
今日、悠真と川沿いを歩くときの話をした。
日にちはまだ決まっていない。
けれど、どんな景色を見たいか、どこで休みたいかを話しているだけで、心が弾んだ。
彩花は頬を緩め、続きを書いた。
『悠真君と、今度川沿いを歩くときのことを少し話した。前に座ったベンチのところへ、また行ってみたい。』
『まだ日にちは決まっていないけれど、話しているだけで楽しみが増えていく。悠真君と一緒なら、前と同じ道でも、きっと違う景色が見えると思う。』
書き終えたあと、彩花は少しだけ恥ずかしくなった。
誰かに見せるわけではない日記なのに、自分の気持ちをそのまま書くと、胸がくすぐったくなる。
けれど、消そうとは思わなかった。
悠真と一緒に歩きたい。
同じ景色を見て、話したい。
その気持ちは、今の自分にとって大切なものだからだ。
彩花は日記帳を閉じ、机の引き出しへしまった。
窓の外では、冷たい風が木々を揺らしている。
次に川沿いを歩くときには、もっと葉が落ちているかもしれない。
けれど、その景色を悠真と一緒に見られるなら、きっと楽しい時間になるだろう。
彩花はそう思いながら、明日の学校の準備を始めた。
◇
悠真もまた、自室で手帳を開いていた。
今日確認した学校の予定を整理し、今週中にもう一度確認する必要がある項目へ印をつける。
週末の欄には、まだ具体的な予定を書き込んでいない。
けれど、その空白を見るたびに、彩花と歩く約束を思い出すようになっていた。
悠真はペンを置き、窓の外へ目を向けた。
夜の庭は静かで、木々の枝が風に揺れている。
以前なら、季節が変わっても、ここまで細かな違いを意識することはなかったかもしれない。
けれど今は、葉が落ちた枝の形や、夕方の空の色にも、自然と目が向くようになっている。
彩花と出会ってから、自分の周りの景色が少しずつ変わって見える。
それは、景色そのものが変わったからだけではない。
誰かと一緒に見たいと思うようになったからだ。
(次に川沿いを歩くとき、彩花さんはどんな景色を見つけるんだろう。俺も、自分が気づいたことを話してみたいな)
悠真は手帳を閉じ、机の上へ置いた。
明日も、それぞれの学校で一日が始まる。
冬の部誌はまだ完成していないし、落ち葉の贈り物も形になっていない。
川沿いを歩く日も、まだ決まっていない。
けれど、今日一日で、それぞれのことが少しずつ前へ進んだ。
悠真はそのことを穏やかに受け止め、部屋の明かりを落とした。
同じ青凪市の別々の場所で、彩花もまた、明日へ向けて眠りにつこうとしている。
二人が次に会う日は、まだ決まっていない。
それでも、互いに伝えたいことを少しずつ増やしながら、その日を楽しみに待っている。
季節が冬へ向かう中で、二人の約束もまた、急ぐことなく、確かな形へ近づこうとしていた。




