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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第97話 同じ景色を見に行く、その日のために


 月曜日の朝、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。雨が降り出しそうなほど暗くはないものの、窓の外を眺めていると、週末よりも空気が冷たくなっていることが分かる。水瀬彩花は制服の袖へ腕を通しながら、机の上に置かれた星模様のノートへ目を向けた。


 昨日は、学校の図書室で借りた短編集を最後まで読み、新しく書いている物語についても少し考えを進めることができた。


 祖母が遠くへ引っ越すことになった少女は、寂しさを抱えながらも、これから先も手紙を書き続けられることに気づき始めている。けれど、最初の一行をどのような言葉にするのかは、まだ決まっていなかった。


 彩花はノートの表紙を指先で撫で、鞄へ入れるかどうかを少し迷った。


(今日は文芸部のこともあるし、新しいお話を書く時間はあまりないかもしれない。でも、思いついたことを忘れないように、ノートだけは持っていこうかな)


 そう考えて、星模様のノートを鞄へ収める。


 淡い緑色の日記帳は、いつもどおり机の引き出しにしまっておいた。そこには、昨日読み終えた本の感想や、悠真と交わしたメッセージについて書かれている。


 日記は自分だけの場所だ。


 学校へ持っていくノートとは違い、誰かに見せることを考えずに、まだうまく言葉にできない気持ちまで書いている。


 彩花は引き出しを閉め、鞄を肩へ掛けた。


 一階へ降りると、食卓では父の耕助が朝食を取っていた。母の紗月は台所で温かい飲み物を用意しており、凛花は椅子に座ったまま、今日の天気予報を確認している。


「おはよう。今日は昨日より寒いみたいだよ」


 凛花が画面から顔を上げて言うと、彩花は窓の外へ目を向けた。


「やっぱりそうなんだ。さっき部屋の窓から見たときも、少し寒そうだなって思ったの」


「帰る頃には風も出るらしいから、上着を忘れない方がいいかも。彩花、今日は部活あるんだっけ?」


「うん。冬の部誌の確認があると思う。先生の最終確認がどこまで進んだかも、今日聞けるかもしれないんだ」


 彩花が答えると、紗月が温かいスープを食卓へ運んできた。


「いよいよ完成が近づいてきたのね。でも、最後の確認って大変そう。何か気をつけることがあるの?」


「目次と本文のページが合っているかとか、題名や名前に間違いがないかとか……。前に一つずれているところが見つかったから、直したあとでもう一度確かめることになってるの」


 彩花は椅子へ座り、両手を合わせてから朝食を取り始めた。


 冬の部誌には、自分の短編『いつか、ここに』も掲載される予定になっている。自分の原稿を確認するだけなら何度も経験しているが、部誌全体の目次やページの並びを確かめる作業には、また違う緊張感があった。


 自分の名前だけでなく、ほかの部員が書いた作品の題名や名前も載っている。


 その一つひとつが、書いた人にとって大切なものなのだ。


「彩花が前に話してた、表紙の色のことも確認するの?」


 耕助が尋ねると、彩花は頷いた。


「うん。灰色の明るさが、画面で見るのと印刷したときで違うかもしれないんだって。そこは先生が印刷のことを相談してくれてるから、私たちだけでは決められないんだけどね」


「なるほど。文章だけじゃなく、見た目にも気を配らなきゃいけないんだな」


「そうなの。みんなで一冊を作るって、思ってたより確認することが多いんだなって感じてるよ」


 そう話しながら、彩花はスープを一口飲んだ。


 温かさが喉を通り、朝の冷えた体へゆっくり広がっていく。


 今日の部活動で、どこまで作業が進むのかは分からない。


 それでも、完成へ向けて自分にできることをきちんとやりたいと思った。


     ◇


 桜華学園高等部では、九条悠真が教室の窓際で手帳を開いていた。


 週明けの教室には、週末の出来事を話す生徒たちの声が満ちている。廊下からは別のクラスへ向かう足音が聞こえ、窓の外では校庭の木々が冷たい風に揺れていた。


 悠真は今日の授業と生徒会の予定を確認し、放課後に担当教員へ尋ねるべきことを整理していた。


 先週、航平と分担して修正した資料は、すでに確認を依頼する段階まで進んでいる。ただし、提出したからといって作業がすべて終わったわけではなく、先生から指摘があれば対応する必要があった。


「おはよう、悠真。朝から手帳とにらめっこか?」


 声をかけてきたのは森川航平だった。


 悠真が顔を上げると、航平は鞄を自分の席へ置き、少し笑いながら近づいてきた。


「おはよう、航平。今日の放課後に確認したいことをまとめていたんだ。先週の資料について、先生から何か返事が来ているかもしれないからね」


「ああ、あれか。俺の方でも確認しておいたけど、今のところ新しい連絡は来てないな。放課後に一緒に聞きに行けばいいんじゃないか?」


「そうだね。急ぎの修正がなければ、今週の予定も少し整理できそうだ」


 悠真が手帳を閉じると、航平はその表紙へ目を向けた。


「そういえば、お前、週末は何してたんだ? 前に文房具のこと調べてるって言ってたよな」


「少しだけね。家では琴葉と庭の落ち葉を集めて、保存の練習を始めたんだ」


 航平は意外そうに眉を上げた。


「落ち葉の保存? 押し葉みたいなものか?」


「それに近いかな。まだ試している途中だから、どんな仕上がりになるかは分からないんだけど」


「へえ。お前がそういうのを作るって、なんか新鮮だな。学校の資料を綺麗にまとめるのとは、また違うだろ?」


 悠真は小さく笑った。


「そうだね。形が決まっているものじゃないから、何を大切にするか自分で考えないといけないんだ」


 航平は少し考えたあと、納得したように頷いた。


「確かに。紙の資料なら正しい内容に直せばいいけど、思い出を残すものって、何が正解か人によって違いそうだしな」


 その言葉に、悠真は思わず顔を上げた。


 航平は何気なく言ったのだろうが、祖父の俊治と話したことにも通じるものがあった。


 自分が残したいのは、ただ綺麗な葉ではない。


 彩花と一緒に川沿いを歩き、同じ景色を眺めた時間なのだ。


「うん。だから、急いで形を決めるより、少しずつ考えようと思ってるよ」


 悠真が答えると、航平はそれ以上詳しく尋ねず、いつもの調子で笑った。


「まあ、何か作るなら完成したときの達成感もありそうだな。学校の方は俺も手伝うから、そっちは焦らずやれよ」


「ありがとう。学校の仕事も、ちゃんと一緒に進めるつもりだよ」


「それなら安心だ。前のお前なら、気づいたら全部自分でやってそうだったからな」


 航平の言葉に、悠真は苦笑した。


 以前の自分なら、確かにそうだったかもしれない。


 けれど今は、誰かと分担することも、頼ることも、以前より自然にできるようになっている。


 その変化を友人が気づいてくれていることが、少し嬉しかった。


     ◇


 青葉高校では、午前中の授業が終わると、教室の空気が一気に賑やかになった。


 彩花は机の上を片づけ、昼食の準備をしていた。窓際の席から見える校庭では、風に運ばれた落ち葉が地面を転がっている。


「水瀬さん、今日も部活?」


 声をかけてきたのは田辺大地だった。


 彩花が頷くと、大地は少し安心したように笑った。


「そっか。うちの妹がさ、昨日も部誌のこと聞いてきたんだよ。まだ完成してないって伝えたんだけど、楽しみにしてるみたいで」


「そうなんだ。覚えててくれて嬉しいな」


 彩花は自然に微笑んだ。


 以前、大地から妹が自分の書いた物語を楽しみにしていると聞いたときは、嬉しさと同時に少し緊張した。


 自分の文章を、まだ直接会ったことのない誰かが楽しみにしてくれている。


 そのことが、今でも不思議に感じられる。


「でも、学校の部誌だから、誰が持ち帰れるかとか、まだ決まってないんだよね?」


 大地が確認するように尋ねた。


「うん。先生の最終確認も終わってないし、印刷する日もまだ分からないの。だから、妹さんに渡せるかどうかも、今は約束できないんだ」


「分かってるよ。妹にもそう話してあるから大丈夫。ただ、楽しみにしてるってことだけ伝えたくてさ」


 大地は少し照れくさそうに笑った。


 彩花はその気持ちが嬉しくて、丁寧に頭を下げた。


「ありがとう。妹さんにも、楽しみにしてくれて嬉しいって伝えてもらえる?」


「もちろん。たぶん、すごく喜ぶと思う」


 そのあと、大地は友人たちのところへ戻っていった。


 彩花は自分の席へ座り、昼食の包みを開きながら、今の会話を思い返した。


 部誌が完成したとしても、必ず大地の妹に届けられるとは限らない。


 それでも、読んでみたいと思ってくれる人がいることは、今の自分にとって大きな励みだった。


(だからこそ、最後までちゃんと確認したいな。私のお話だけじゃなくて、みんなが大切に書いたものだから)


 彩花は窓の外へ目を向けた。


 風は少し強くなっているようだったが、雲の切れ間からは薄い日差しが見えている。


 放課後の部活動まで、まだ授業が残っている。


 彩花は気持ちを切り替え、午後の準備を進めた。


     ◇


 放課後の文芸部の部室には、いつもより少し張り詰めた空気が漂っていた。


 机の上には冬の部誌の確認用資料が並び、部員たちがそれぞれの担当箇所を見直している。窓の外では部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえ、廊下を通る足音がときおり部室の前で大きくなった。


 佐々木先輩は全員が揃ったところで、机の上の資料を指さした。


「今日は、前に見つかった目次と本文のページのずれについて、修正後の確認をします。先生から確認用の新しい資料を預かってきたので、まずは題名と作者名、それからページ番号を順番に見ていきましょう」


 彩花は頷き、手元へ配られた資料を開いた。


 以前見つかったずれは、目次に記載されたページ番号と、本文の開始ページが一致していない箇所だった。


 修正された資料では、その部分の番号が直されている。


 ただし、一か所を修正したことで、ほかの箇所に影響が出ていないかも確認しなければならない。


「水瀬さんは、こちらの後半部分を一緒に見てもらえる?」


 佐々木先輩に声をかけられ、彩花は資料を受け取った。


「はい。題名と名前、それからページ番号を順番に確認すればいいですか?」


「そう。前の資料も残してあるから、違いがあったら印をつけて教えてね。間違いだと思っても、その場で書き換えずに、まず確認するようにしましょう」


「分かりました」


 彩花はペンを持ち、目次の後半へ視線を落とした。


 自分の短編『いつか、ここに』は、詩のあとに掲載される予定になっている。


 彩花はまず前の作品の題名を確かめ、作者名の表記を見比べた。


 次に、自分の作品の題名と名前を確認する。


 印刷された文字を見つめていると、少しだけ胸が高鳴った。


 原稿の上で何度も見てきた題名が、ほかの作品と一緒に目次へ並んでいる。


 そのことが、今でも嬉しかった。


 けれど、今は感慨に浸っている場合ではない。


 彩花は本文の開始ページを開き、目次に書かれた番号と一致しているかを確認した。


 数字は合っている。


 題名の表記も、作者名も問題ないように見えた。


 そのまま次の作品へ進もうとしたところで、隣の部員が小さく声を上げた。


「あれ、ここの名前って、前の資料では漢字だったよね?」


 彩花は顔を上げた。


 部員が指さしていたのは、別の作品の作者名だった。


 新しい資料では、名前の一部がひらがなになっている。


「本当だ。前の資料と違ってるね」


 彩花はすぐに間違いだと決めつけず、前の資料を確認した。


 確かに、以前の表記とは違っている。


 けれど、作者本人が変更を希望した可能性もある。


「佐々木先輩、こちらの作者名なんですけど、前の資料と表記が違っています。変更があったかどうか、確認していただけますか?」


 彩花が声をかけると、佐々木先輩が近づいてきた。


「どこかな?」


 彩花は二つの資料を並べ、違っている部分を示した。


 先輩は慎重に見比べたあと、頷いた。


「ありがとう。これは確認が必要ね。本人から変更の希望が出ていたか、私の手元の記録では分からないから、先生と本人に確認することにしましょう」


 佐々木先輩は確認事項をまとめている紙へ、その箇所を書き加えた。


 彩花は少し安心した。


 もし自分たちだけで間違いだと判断して書き直していたら、本人の希望と違う表記にしてしまう可能性もあった。


 確認するということは、単に間違いを見つけることだけではない。


 正しい状態が何なのか、必要な人へ確かめることでもあるのだ。


「水瀬さん、気づいてくれてありがとう。こういうところは、急いで直すより確認する方が大切だから」


「はい。私も、前の資料と違うからって、すぐに間違いだと思わないように気をつけます」


 佐々木先輩は微笑み、ほかの部員たちにも同じことを伝えた。


 そのあと、作業は再び静かに進み始めた。


 紙をめくる音と、ペン先が確認欄へ触れる音が部室に重なっていく。


 彩花は自分の担当箇所を最後まで見直し、確認した部分へ小さな印をつけた。


 目次と本文のページ番号については、担当した範囲で新たなずれは見つからなかった。


 ただし、作者名の表記については、確認待ちの項目が一つ残っている。


 全員の作業が一段落したところで、佐々木先輩が資料を集めた。


「今日の確認では、前に見つかったページ番号のずれは修正されていました。ただ、作者名の表記について一つ確認が必要な箇所が見つかったので、そこは先生と本人に確認します」


 部員たちは頷き、手元の資料を整理した。


 佐々木先輩は続けて、表紙についても説明した。


「表紙の灰色の明るさについては、先生が印刷の相談を続けてくださっています。画面で見たときと印刷したときの違いを確認する必要があるので、今の段階では最終決定ではありません」


 彩花は以前見た表紙の案を思い浮かべた。


 窓と葉の落ちた枝が描かれた、落ち着いた灰色の表紙。


 冬の部誌らしい静かな雰囲気があり、彩花も気に入っている。


 だからこそ、印刷したときに暗くなりすぎたり、細かな部分が見えにくくなったりしないようにしたかった。


「先生の確認が終わってから、また必要なところを見直すことになると思います。印刷日や配布についても、まだ決まっていないので、正式に分かってからお知らせしますね」


 佐々木先輩の言葉に、彩花は静かに頷いた。


 今日の作業で、部誌が完成したわけではない。


 けれど、確かめるべきことは少しずつ整理されている。


 彩花は机の上の資料を揃えながら、完成へ向かう時間を大切にしたいと思った。


     ◇


 桜華学園では、放課後の生徒会室に悠真と航平がいた。


 窓の外は少しずつ暗くなり始めており、廊下から聞こえる生徒たちの声も、授業終了直後より落ち着いている。


 担当教員から戻ってきた資料には、いくつか確認事項が記されていた。


 大きな作り直しが必要な内容ではなかったものの、表現を揃えた方がよい箇所と、担当者へ再確認した方がよい項目があった。


「ここは俺が確認しておくよ。悠真は、こっちの文章を見てもらっていいか?」


 航平が資料を指さすと、悠真は頷いた。


「ありがとう。じゃあ、俺は表現を揃える部分を確認するね。担当者への確認が必要なところは、返事が来てから修正しよう」


「了解。勝手に決めちゃうと、あとでまた直すことになるかもしれないしな」


 二人は机を挟んで向かい合い、それぞれの資料へ目を落とした。


 以前の悠真なら、確認事項を見つけるたびに、自分で調べて解決しようとしたかもしれない。


 けれど、今は航平と相談しながら進める方が、結果として正確になることを知っている。


 悠真は文章を読み返し、必要な修正をメモした。


 その途中で、航平が顔を上げた。


「そういえば、週末の予定ってどうなってる? 今週は大きな生徒会の用事、入ってなかったよな」


 悠真は手を止め、手帳を開いた。


「今のところ、週末に学校へ来る予定は入っていないよ。ただ、先生から追加の確認が必要になる可能性はあるから、今日のうちに確かめておきたいと思ってる」


「なるほど。何か予定でもあるのか?」


 航平の問いかけに、悠真は少しだけ微笑んだ。


「彩花さんと、また川沿いを歩こうと話しているんだ。来週か再来週の週末を考えているんだけど、まだ日にちは決めていなくてね」


「へえ、いいじゃん。前に一緒に歩いたところだろ?」


「うん。季節が変わってきたから、また違う景色が見られそうだねって話しているんだ」


 航平は楽しそうに笑った。


「それなら、学校の用事は早めに確認しておいた方がいいな。急に予定が入ると困るだろうし」


「そうだね。でも、彩花さんの学校の予定もあるから、俺の方だけで決めるつもりはないよ」


「そりゃそうか。二人で予定を合わせるのも、結構大事だもんな」


 航平はそこで少し声を落とし、からかうというより、友人を気遣うような表情になった。


「ただ、悠真。せっかくの休みなんだから、学校のことばっかり考えないで楽しんでこいよ」


 悠真はその言葉を聞き、父から昨夜言われたことを思い出した。


 何もかも予定どおりにしようとしなくてもいい。


 当日は、二人で過ごす時間そのものを楽しめばいい。


「うん。そうするつもりだよ。ありがとう、航平」


 悠真が答えると、航平は満足そうに頷いた。


 二人はそのあと、残っていた資料の確認を終え、担当教員へ必要な項目を伝えに行った。


 先生からは、現時点で週末に新たな生徒会の予定は入っていないと説明された。ただし、今後の連絡によって変更が生じる可能性はあるため、確定している予定と未確定のものを分けて考えるようにとのことだった。


 悠真はその内容を手帳へ記し、航平と別れて帰宅することにした。


 校門へ向かう道では、風が少し強くなっていた。


 制服の上着の襟元を整えながら、悠真は空を見上げる。


 雲の向こうには、夕方の淡い光が残っている。


 彩花の学校では、今日の部活動がどこまで進んだだろう。


 そう考えると、自然に彼女へ話したいことが一つ増えた。


     ◇


 青葉高校の部活動が終わった頃、彩花は佐々木先輩と一緒に部室を片づけていた。


 机の上に残っていた資料をまとめ、確認待ちの項目が分かるように整理する。


 部員たちはそれぞれ帰り支度を始めており、部室の中には一日の作業を終えた穏やかな空気が戻っていた。


「水瀬さん、今日はありがとう。後半の確認、丁寧に見てくれて助かったわ」


 佐々木先輩が声をかけると、彩花は首を横に振った。


「いえ、私も勉強になりました。前の資料と違うところがあっても、すぐに間違いだって決めつけちゃいけないんですね」


「そうね。もちろん、単純な修正漏れのこともあるけれど、作者本人の希望が反映されている場合もあるから。特に名前や作品の題名は、書いた人の気持ちも関わるでしょう?」


 彩花はその言葉に頷いた。


 自分の短編『いつか、ここに』という題名も、何度も考えて決めたものだった。


 もし別の表記になっていたら、きっと気になると思う。


「私も、自分の題名だったら確認してほしいと思います。だから、ほかの人の作品も同じように大切にしたいです」


 彩花が答えると、佐々木先輩は嬉しそうに微笑んだ。


「そう思ってくれる人がいると、みんなで作る部誌はもっとよくなると思うわ。完成までもう少し確認が必要だけど、最後まで一緒に頑張りましょうね」


「はい。よろしくお願いします」


 彩花は丁寧に頭を下げ、鞄を持った。


 廊下へ出ると、窓の外は夕方の色に変わっていた。


 校庭の木々は風に揺れ、落ち葉が地面を滑るように動いている。


 彩花はその景色を見ながら、悠真と川沿いを歩いた日のことを思い出した。


 あの日も、二人で葉の色や形を眺めながら歩いた。


 次に同じ道へ行く頃には、木々の様子はもっと変わっているかもしれない。


 彩花は鞄の持ち手を握り直し、校門へ向かった。


     ◇


 帰宅した彩花は、夕食の前に自室で少し休んでいた。


 机の上へ鞄を置き、上着を脱いでから、窓際の椅子へ腰を下ろす。


 今日は部誌の確認に集中していたため、新しい物語の原稿を開く時間はなかった。


 けれど、それを残念には思わなかった。


 文芸部の活動も、自分が書くことを続けていくための大切な時間だ。


 ほかの人が書いた作品を読み、題名や名前を確認し、一冊の本として形にしていく。


 その作業の中で、自分の文章だけを見ているときには気づかなかったことを学べる。


 彩花は星模様のノートを取り出し、今日の部活動で感じたことを短く書き留めた。


『作品の題名や作者名は、書いた人にとって大切なもの。違いを見つけても、理由を確かめてから判断する。』


 書き終えたあと、彩花は少し考えた。


 新しい物語の主人公も、祖母へ手紙を書くとき、自分が伝えたい言葉を大切にしようとしている。


 けれど、相手がどう受け取るかも考えているからこそ、なかなか書き始められない。


 今日の部活動で感じたことは、直接その物語の内容になるわけではない。


 それでも、言葉を大切に扱うという意味では、どこかつながっているように思えた。


(自分が書いた言葉も、誰かが書いた言葉も、ちゃんと大切にしたいな)


 彩花はノートを閉じ、机の端へ置いた。


 そのとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日の部活動はどうだった? 冬の部誌の確認、少し進んだかな』


 彩花は思わず微笑んだ。


 悠真は、自分が今日部誌の確認をすることを覚えていてくれた。


 そのことが嬉しくて、すぐに返信を打ち始めた。


『こんばんは、悠真君。今日は目次と本文のページ番号を確認したよ。前に見つかったずれは直ってたんだけど、作者名の表記で確認が必要なところが一つ見つかったの』


 少しして、悠真から返事が届いた。


『そうだったんだ。ページのずれが直っていたのはよかったね。作者名の方は、本人に確認してから決めることになるのかな』


『うん。佐々木先輩が先生と本人に確認してくれることになったよ。勝手に直さない方がいいこともあるんだなって、今日改めて思ったんだ』


 悠真はその文章を読み、今日の生徒会での作業を思い返した。


 自分たちも、担当者へ確認してから修正することにした項目があった。


 学校も作業の内容も違うが、似たことを考えていたのかもしれない。


『実は、俺も今日の生徒会で似たようなことがあったよ。資料に確認が必要なところがあって、航平と相談して、担当の人に聞いてから直すことにしたんだ』


 彩花はその返事を読み、少し驚いた。


『そうなんだ! 同じ日に似たことをしてたんだね。なんだか不思議だな』


『本当だね。学校は違っても、誰かと一緒に何かを作るときには、大切なことが似ているのかもしれないね』


 彩花はその言葉をゆっくり読んだ。


 自分たちは違う学校へ通い、それぞれの毎日を過ごしている。


 けれど、こうして話してみると、同じようなことを考えていた日もある。


 そのことが、少し嬉しかった。


『うん。悠真君と話してると、自分が今日考えたことも、また違うふうに見えてくる気がするよ』


 彩花が送信すると、悠真から穏やかな返事が届いた。


『俺もそうだよ。彩花さんの話を聞くと、自分の一日を振り返るきっかけになるんだ』


 彩花はその文章を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 昨日読み終えた短編集の中でも、手紙を送り合う二人は、それぞれの出来事を伝えることで、相手の毎日を少しずつ知っていった。


 自分たちも、そういう時間を重ねているのかもしれない。


     ◇


 悠真は自室の机で、彩花とのメッセージを読み返していた。


 今日の生徒会のことを伝えたあと、彼女は文芸部での作業について、もう少し詳しく話してくれた。


 目次の確認が進んだこと。


 作者名の表記について、確認待ちの項目が残っていること。


 表紙の色や印刷については、まだ先生の確認が必要なこと。


 悠真は、彩花が一冊の部誌を完成させるために、どれほど丁寧に作業しているのかを感じていた。


 自分が読めるかどうかは、まだ分からない。


 学校の部誌である以上、配布の方法が決まるまでは、簡単に約束できないからだ。


 それでも、彩花が楽しみながら作っている一冊を、いつか読んでみたいという気持ちは変わらなかった。


 悠真は少し考えたあと、別の話題を送った。


『そういえば、週末の予定について、今日学校で確認できたよ。今のところ、俺の方は来週も再来週も学校の予定は入っていないみたい。ただ、変更があるかもしれないから、もう少し様子を見ようと思ってる』


 送信したあと、悠真は手帳へ目を向けた。


 週末の欄には、まだ予定を書き込んでいない。


 彩花の学校の予定も分からないし、天気も確かめなければならない。


 そのため、今日の確認だけで日にちを決めるつもりはなかった。


 少しして、彩花から返事が届いた。


『教えてくれてありがとう。私も今日、部活の予定を確認しようと思ってたんだけど、部誌のことでまだ先生の確認待ちがあるから、次の活動日がどうなるか少し分からないんだ』


『そうなんだね。それなら、無理に決めなくて大丈夫だよ。部誌の確認も大切な時期だと思うし、予定が分かってから相談しよう』


 悠真が返すと、彩花から少し長めの文章が届いた。


『ありがとう。でもね、私も悠真君と川沿いを歩くの、すごく楽しみにしてるんだ。だから、予定が分かったらちゃんと伝えるね』


 悠真はその言葉を読み、自然に微笑んだ。


 彩花も楽しみにしてくれている。


 それだけで、予定がまだ決まっていないことへの焦りはなくなった。


『うん。俺も楽しみにしてるよ。天気のいい日に、ゆっくり歩けたらいいね』


 そう返してから、悠真は少し考えた。


 以前歩いた川沿いでは、二人で修理されたベンチに座り、木々の色や川の流れを眺めた。


 今度は、葉が落ちた枝の向こうに、以前より広い空が見えるかもしれない。


 彩花は、その変化をどんな言葉で表すだろう。


 そう想像すると、次に会う日がいっそう楽しみになった。


     ◇


 夕食後、彩花は家族と少し話してから自室へ戻った。


 凛花には、冬の部誌の確認が少し進んだことを伝えた。紗月と耕助も、完成へ向けて丁寧に作業していることを喜んでくれた。


 ただし、印刷日や配布については、まだ決まっていないと説明した。


 家族もそのことを理解しており、完成を急かすことはなかった。


 自室へ戻ると、彩花は机の上の星模様のノートを開いた。


 今日の部活動で書き留めたことの隣に、昨日考えた新しい物語のメモがある。


 祖母へ手紙を書く少女は、まだ最初の一行を決めていない。


 けれど、彩花はそのことを以前ほど気にしなくなっていた。


 物語の中の少女にも、考える時間が必要なのだろう。


 何を伝えたいのか分からずに迷う時間があるからこそ、最初の言葉を見つけたときの気持ちが大切になる。


 彩花はペンを取り、ノートへ一行を書き加えた。


『主人公が最初の言葉を見つけるまでの時間も、急いで終わらせない。』


 その文章を見つめながら、今日の文芸部での作業を思い返した。


 部誌も、最初から完成した形があったわけではない。


 部員たちがそれぞれ作品を書き、確認を重ね、少しずつ一冊へ近づけている。


 新しい物語も、きっと同じなのだろう。


 彩花は原稿を取り出し、昨日書いた場面を読み返した。


 少女は机の上の写真を見つめ、祖母と一緒に花へ水をやった日のことを思い出している。


 その場面には、まだ書き足したいことがあった。


 写真の中の祖母が、どんな表情をしているのか。


 少女がその写真を大切にしている理由は何なのか。


 そして、祖母が引っ越したあと、少女はその写真をどんな気持ちで見るのだろう。


 彩花は少し考えたあと、原稿の余白へ小さく書き込んだ。


『写真を見ることで、過去だけでなく、これからのことも考え始める。』


 それから、少女が写真を机へ戻す場面を書き直した。


 少女は、写真の中で笑っている祖母の顔を見つめる。


 あの日と同じように庭へ出れば、花壇はまだそこにある。


 祖母が遠くへ行ったあとも、庭の花は季節が巡れば咲くだろう。


 少女は写真を机へ戻し、窓の外へ目を向ける。


 今はまだ、祖母と離れて暮らす毎日をうまく想像できない。


 それでも、花が咲いたときに写真を撮って送ることなら、きっとできる。


 そこまで書いて、彩花はペンを止めた。


 昨日よりも、少女の気持ちが少し自然につながったように思えた。


 けれど、まだ完成ではない。


 最初の一行も、手紙を書き終える場面も、これから考えていく必要がある。


 彩花は原稿を揃え、今日はここまでにすることにした。


     ◇


 九条家では、悠真が夕食後に祖父の俊治と顔を合わせていた。


 俊治は居間の窓際で本を読んでおり、悠真が近づくと、穏やかに顔を上げた。


「悠真、学校はどうだった?」


「今日は生徒会の資料を確認してきました。まだ担当者への確認が必要なところはありますが、大きな問題はなさそうです」


「そうか。無理をせず、周りと相談して進めているなら何よりだ」


 悠真は頷き、少し迷ってから、昨日の落ち葉のことを話した。


「それから、昨日始めた葉の保存の練習ですが、今朝確認したところでは大きな変化はありませんでした。もう少し時間を置いてから、また状態を見ようと思っています」


 俊治は微笑んだ。


「そうか。自然のものは、こちらの都合どおりには変わらんからな。急いで結果を出そうとせず、よく見てやるといい」


「はい。大切な葉には、まだ何もしていません。練習用の葉で確かめてから、どうするか決めるつもりです」


 俊治は悠真の表情を見つめ、ゆっくり頷いた。


「それでいい。ただ、慎重になることと、何も決められなくなることは違うからな。試してみて分かったことがあれば、少しずつ次へ進めばいい」


 悠真はその言葉を聞き、昨日から考えていたことを思い返した。


 大切なものだから、失敗したくない。


 けれど、失敗を恐れて何もしなければ、形にすることもできない。


 だからこそ、練習用の葉を使って試しているのだ。


「はい。まずは今の方法でどんな仕上がりになるか確かめて、それから形を考えたいと思っています」


「うむ。贈り物というものは、作る時間も含めて思い出になることがある。お前が何を考えて選んだのか、その気持ちも大切にするといい」


 俊治の言葉に、悠真は静かに頷いた。


 橙色の葉を拾った日のこと。


 彩花と川沿いを歩いた時間。


 その思い出を、ただしまっておくだけではなく、何かの形で残したいと思ったこと。


 それらは、悠真にとって大切なものだった。


「ありがとうございます、お祖父様。もう少し考えてみます」


 悠真がそう答えると、俊治は満足そうに微笑んだ。


 そのあと二人は、最近読んだ本のことや、庭の木々の変化について話した。


 悠真は祖父との会話を終え、自室へ戻った。


 机の引き出しには、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードと、橙色の葉がしまわれている。


 悠真は引き出しを開け、カードを取り出した。


 そこには、彩花が自分の言葉で書いてくれた感謝の気持ちが残っている。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 悠真はその文章をゆっくり読み返した。


 彩花は、言葉を選ぶことにいつも真剣だ。


 だからこそ、このカードを書いてくれたときにも、きっといろいろ考えてくれたのだろう。


 自分も、贈り物を渡すときには、何を伝えたいのかを大切にしたい。


 悠真はカードを元の場所へ戻し、引き出しを閉じた。


     ◇


 夜九時を過ぎた頃、彩花は淡い緑色の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を思い返しながら、ゆっくりとペンを動かしていく。


『今日は文芸部で冬の部誌の確認をした。前に見つかったページ番号のずれは直っていたけれど、作者名の表記で確認が必要なところが一つ見つかった。』


『みんなで一冊を作るときは、自分の作品だけでなく、ほかの人の言葉も大切にしたい。』


 彩花はそこで少し手を止めた。


 今日、悠真とメッセージを交わしたことも書きたいと思った。


 学校は違うのに、似たようなことを考えていたこと。


 悠真が自分の話を聞き、自分の一日を振り返るきっかけになると言ってくれたこと。


 そして、川沿いを歩く約束について、少しずつ予定を確認し始めていること。


 彩花は頬を緩め、続きを書いた。


『悠真君も今日は、誰かに確認してから資料を直すことがあったんだって。違う学校で過ごしていても、似たことを考えていたのが嬉しかった。』


『川沿いを歩く日はまだ決まっていないけれど、悠真君も楽しみにしてくれている。私も、早く一緒に歩きたいな。』


 最後の文章を書いたあと、彩花は少しだけ恥ずかしくなった。


 誰かに見せるわけではない日記なのに、自分の気持ちをそのまま書くと、胸がくすぐったくなる。


 けれど、消そうとは思わなかった。


 悠真と一緒に歩きたい。


 同じ景色を見て、話したい。


 その気持ちは、今の自分にとって大切なものだからだ。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へそっと置いた。


 窓の外では、冷たい風が木々を揺らしている。


 次に川沿いを歩くときには、もっと葉が落ちているかもしれない。


 けれど、その景色を悠真と一緒に見られるなら、きっと楽しい時間になるだろう。


 彩花はそう思いながら、明日の学校の準備を始めた。


     ◇


 悠真もまた、自室で手帳を開いていた。


 今日確認した学校の予定を整理し、今週中にもう一度確認する必要がある項目へ印をつける。


 週末の欄には、まだ具体的な予定を書き込んでいない。


 けれど、その空白を見るたびに、彩花と歩く約束を思い出すようになっていた。


 悠真はペンを置き、窓の外へ目を向けた。


 夜の庭は静かで、木々の枝が風に揺れている。


 以前なら、季節が変わっても、ここまで細かな違いを意識することはなかったかもしれない。


 けれど今は、葉が落ちた枝の形や、夕方の空の色にも、自然と目が向くようになっている。


 彩花と出会ってから、自分の周りの景色が少しずつ変わって見える。


 それは、景色そのものが変わったからだけではない。


 誰かと一緒に見たいと思うようになったからだ。


(次に川沿いを歩くとき、彩花さんはどんな景色を見つけるんだろう。俺も、自分が気づいたことを話してみたいな)


 悠真は手帳を閉じ、机の上へ置いた。


 明日も、それぞれの学校で一日が始まる。


 冬の部誌はまだ完成していないし、落ち葉の贈り物も形になっていない。


 川沿いを歩く日も、まだ決まっていない。


 けれど、今日一日で、それぞれのことが少しずつ前へ進んだ。


 悠真はそのことを穏やかに受け止め、部屋の明かりを落とした。


 同じ青凪市の別々の場所で、彩花もまた、明日へ向けて眠りにつこうとしている。


 二人が次に会う日は、まだ決まっていない。


 それでも、互いに伝えたいことを少しずつ増やしながら、その日を楽しみに待っている。


 季節が冬へ向かう中で、二人の約束もまた、急ぐことなく、確かな形へ近づこうとしていた。

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