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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第96話 約束の日を待つ時間にも、君のことを考えている


 日曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ますと、窓の向こうでは細い枝がゆっくりと揺れていた。昨夜のうちに風が強くなったらしく、庭の木々には朝露が残り、薄い雲の間から差し込む日差しが、葉の落ちた枝先を淡く照らしている。


 布団の中で少しだけ体を伸ばした彩花は、枕元の時計を確かめてから、昨日の出来事を思い返した。


 家で新しい物語を書き進めたこと。母と、遠くにいる人へ近況を伝えることの意味について話したこと。そして、悠真と川沿いを歩く日を相談したこと。


 まだ具体的な日時は決まっていないものの、来週か再来週の週末に予定を合わせられたらいいね、と二人で話している。


(昨日は、私から予定のことを聞けたんだよね。悠真君も楽しみにしてるって言ってくれたし、ちゃんと相談できてよかったな)


 彩花は布団から起き上がり、カーテンを開けた。


 冷たい朝の光が部屋へ差し込み、机の上に置かれた星模様のノートと淡い緑色の日記帳を照らす。昨日書いた物語の原稿は、順番が入れ替わらないように揃えてあり、その上には書き直したい箇所を記した小さな紙が載っていた。


 今日は、読みかけの短編集を最後まで読んでみようと思っている。


 学校の図書室で借りたその本には、日常の中で交わされる小さな約束を題材にした物語が収められていた。遠く離れた友人が季節ごとに手紙を送り合う話もあり、彩花はその作品を読んでから、自分の書いている物語について以前とは少し違う角度から考えるようになっている。


 ただ、本の中で見つけた答えを、そのまま自分の物語へ持ち込むつもりはなかった。


 自分が描きたい少女には、その少女だけの迷いや思い出がある。だからこそ、最後まで読んで何を感じたのかを確かめてから、もう一度原稿へ向き合いたかった。


 彩花は机の上の本へそっと触れ、朝食のあとで続きを読むことに決めた。


 着替えを済ませて一階へ降りると、台所から焼いたパンの香りが漂ってきた。母の紗月が食器を並べており、父の耕助は食卓で新聞を読んでいる。


「おはよう、お母さん。何か手伝うことある?」


 彩花が声をかけると、紗月は振り返って微笑んだ。


「おはよう、彩花。じゃあ、お皿を運んでもらえる? 今日はみんな起きる時間が少しずつ違うみたいだから、温かいうちに食べられるようにしておきたいの」


「うん、分かった。お姉ちゃんはまだ寝てるのかな?」


「さっき部屋で物音がしたから、もう起きていると思うわ。昨日は少し遅くまで本を読んでいたみたいね」


 彩花は食器棚から皿を取り出し、母が用意した朝食を順番に食卓へ運んだ。窓際の席には朝日が届いており、湯気の立つスープの表面が小さく揺れている。


 ほどなくして凛花も降りてきた。


「おはよう。あ、今日はパンなんだ。いい匂いがすると思った」


「おはよう、お姉ちゃん。今ちょうど準備してたところだよ」


 凛花は彩花の隣へ座り、まだ少し眠そうな目を細めた。


「昨日はお話、結構進んだ?」


「うん。文章も少し書けたし、主人公が何を伝えたいのか、前より考えられるようになった気がするの。今日は借りている本を最後まで読んでみようと思ってる」


「そっか。彩花って、書いている途中にほかの本を読むと、そっちのことも考えちゃわない?」


 何気ない問いかけだったが、彩花は少し考え込んだ。


「考えることはあるよ。でも、同じような気持ちを扱っていても、登場人物によって選ぶ言葉は違うんだなって思うことも多いかな。だから、読んだあとで自分の物語を見直すと、前には気づかなかったことが見えるときがあるんだ」


「なるほどね。参考にはなるけど、そのまま真似するわけじゃないんだ」


「うん。私が書きたい子の気持ちは、私がちゃんと考えたいから」


 そう答えたあと、彩花は少しだけ照れくさくなった。普段なら頭の中で考えていることを、思っていたより真剣に話してしまった気がしたのだ。


 けれど、凛花はからかうことなく頷いた。


「それ、いいと思う。彩花のお話なんだから、彩花が納得できるものにしてほしいな」


 耕助も新聞を畳みながら会話に加わった。


「自分で考えて書いたものだからこそ、完成したときに嬉しいんだろうな。もちろん、誰かの意見を聞くことも大事だろうけど、最後に決めるのは書いている本人だ」


「うん。佐々木先輩にも相談してるけど、最後は自分で決めたいと思ってるよ」


 彩花はそう言って、温かいスープを一口飲んだ。


 家族は、自分が物語を書くことを特別なものとして扱いすぎない。けれど、何かを話せばきちんと聞いてくれるし、迷っているときには、それぞれの考えを伝えてくれる。


 その距離感が、今の彩花にはとても心地よかった。


     ◇


 同じ頃、九条家では悠真が朝食を終え、庭に面した廊下を歩いていた。


 昨日、琴葉と一緒に拾った練習用の落ち葉は、書斎に隣接した作業机で乾燥させている。まだ一晩しか経っていないため、結果が出るには早いと分かっていたが、紙がずれていないか、湿気がこもっていないかだけは確認しておきたかった。


 作業机へ向かう途中、居間の扉が開き、琴葉が顔を出した。


「お兄様、おはようございます。今から葉っぱを見に行くの?」


「おはよう、琴葉。うん、昨日置いたままで問題がないか確認しようと思ってね。ただ、まだ乾燥は終わっていないだろうから、あまり触らないつもりだよ」


「私も一緒に見てもいい? 昨日選んだ葉っぱがどうなったのか、少し気になっていたの」


「もちろん。せっかく一緒に選んだんだから、琴葉にも見てもらいたいな」


 二人が作業机へ向かうと、窓から差し込む朝日が床に細長い光を落としていた。机の上には昨日のメモが置かれ、その隣に、練習用の葉を挟んだ紙が整然と並んでいる。


 悠真は手を洗ってから、まず紙の外側に異常がないかを確かめた。昨日の状態を記録したメモと見比べ、必要以上に葉を動かさないよう注意しながら、確認できる範囲だけを見ていく。


「まだ、あまり変わっていないみたいね」


 琴葉が少し首を傾げると、悠真は頷いた。


「そうだね。でも、すぐに変化が出ないのは悪いことじゃないと思うよ。急いで仕上げるより、傷めずに残せるかどうかを確かめたいから」


「そう考えると、待つ時間も大事なのね。私だったら、早く完成したところを見たくなって、何度も開けてしまいそう」


 琴葉の言葉に、悠真は小さく笑った。


「俺も気になっているよ。ただ、何度も動かすと、かえって葉を傷めるかもしれないからね。次に確認する日を決めておいた方がよさそうだ」


 悠真はメモを開き、昨日記録した日付の下へ、今日の確認結果を書き加えた。見た目に大きな変化がないこと、紙の位置に問題がないこと、次回はもう少し時間を置いて確認することを記してから、ペンを置く。


 琴葉はその手元を眺めながら、ふと思いついたように尋ねた。


「お兄様、もし練習がうまくいかなかったら、どうするの?」


 悠真はすぐに答えず、机の上の紙へ目を向けた。


 確かに、思い描いたような仕上がりにならない可能性はある。色が変わるかもしれないし、葉が思っていたより脆くなることもあるだろう。


「そのときは、別の方法を考えるよ。どうしてうまくいかなかったのか分かれば、次に試すときの参考になるからね」


「じゃあ、失敗しても、全部無駄になるわけじゃないのね」


「うん。もちろん、できれば綺麗に残したいけど、最初から完璧にできるとは限らないから」


 琴葉は納得したように頷いたあと、少し楽しそうに微笑んだ。


「お兄様が何かを作ろうとしているところ、私、あまり見たことがなかった気がするわ。いつも本を読んだり、学校のお仕事をしたりしているから」


「言われてみれば、そうかもしれないね。俺も、こんなふうに何かを残したいと思って調べるのは、あまり経験がなかったよ」


「それなら、初めてのことを一緒にできて嬉しいわ」


 琴葉の率直な言葉に、悠真は顔を上げた。


 妹は贈り物の相手について深く尋ねることなく、昨日から作業を楽しそうに手伝ってくれている。そのことが、悠真にはありがたかった。


「俺も、琴葉と一緒に探せて楽しかったよ。昨日はありがとう」


 悠真がそう言うと、琴葉は少し照れたように笑った。


「どういたしまして。今度、綺麗にできたところも見せてね」


 その約束を交わしてから、二人は作業机を離れた。


 廊下へ出ると、居間の方からハクの足音が近づいてくる。白い毛を揺らしながら現れたハクは、二人の前で立ち止まり、何かを期待するように顔を上げた。


「ハクも昨日のお散歩が楽しかったのかしら」


 琴葉がしゃがんで頭を撫でると、ハクは嬉しそうに尻尾を振った。


 悠真はその様子を見ながら、昨日の庭での時間を思い返した。贈り物を作るために始めたことだったが、その途中で琴葉やハクと過ごした時間も、思いがけず楽しい思い出になっていた。


(彩花さんに渡すものを考えていたはずなのに、こうして家族と過ごす時間まで増えているんだな)


 そう気づくと、悠真は少し不思議な気持ちになった。


 誰かを大切に思うことは、その人のことだけを考えることではないのかもしれない。自分の周りにいる人たちの優しさや、何気ない時間のありがたさにも、以前より気づきやすくなっている気がした。


     ◇


 午前十時を過ぎた頃、彩花は自室の窓際で読みかけの短編集を開いていた。


 窓から入る光は朝よりも明るくなっていたが、外の空気は冷たそうだった。机の端には温かい紅茶を入れたマグカップが置かれ、ページをめくるたびに、乾いた紙の音が静かな部屋へ小さく響く。


 彩花が読んでいたのは、離れた場所で暮らすようになった二人の友人が、季節ごとに手紙を送り合う物語だった。


 最初の手紙には、新しい街で見つけた店のことや、引っ越してから慣れない道を歩いたことが書かれている。返事には、以前二人で通った場所の変化や、学校で起きたささやかな出来事が綴られていた。


 物語が進むにつれて、二人の生活は少しずつ変わっていく。


 忙しくて返事が遅れることもあれば、書くことが見つからずに便箋を前に悩むこともある。それでも、相手の近況を知りたいという気持ちは消えず、手紙を受け取るたびに、それぞれの毎日の中へ相手の存在が戻ってくる。


 彩花は最後の数ページをゆっくり読み、物語の結末へたどり着いた。


 読み終えたあとも、すぐには本を閉じなかった。


 窓の外で枝が揺れる音を聞きながら、最後に交わされた手紙の内容を思い返す。そこには大きな約束や特別な告白ではなく、次の季節に見たい景色のことが書かれていた。


(離れていても、相手に話したいことがあるんだよね。今の出来事だけじゃなくて、これから見たいものまで伝えたくなるのって、すごく素敵だな)


 彩花はページを戻し、特に印象に残った場面をもう一度読んだ。


 登場人物たちは、手紙の中ですべての気持ちを説明しているわけではない。それでも、相手が好きだったものを覚えていたり、以前話したことを次の手紙で尋ねたりすることで、二人の関係が続いていることが伝わってくる。


 彩花は本を閉じ、表紙をしばらく見つめた。


 自分が書いている少女は、祖母へ何を伝えたいのだろう。


 寂しい気持ちもあるはずだし、引っ越し先で元気に暮らしてほしいとも願っているだろう。けれど、昨日考えたように、少女はそれだけではなく、これからも祖母と話し続けたいと思っているのかもしれない。


 彩花は星模様のノートを開き、読み終えた本について感じたことを、自分の言葉で書き留めた。


『離れて暮らしていても、相手の好きなものや以前話したことを覚えていると、次の手紙につながっていく。』


『一通の手紙ですべてを伝えなくてもいい。次に話したいことが残っているのも、つながりの一つなのかもしれない。』


 書き終えてから、彩花は少し考え、もう一行を加えた。


『主人公は、最初の手紙を最後の手紙のように考えていないだろうか。』


 その文章を見つめているうちに、胸の中で小さな疑問が形になっていった。


 少女は、祖母が遠くへ引っ越すことを、今までの時間が終わってしまうように感じているのではないだろうか。


 だからこそ、最初の一通へ大切なことを全部詰め込もうとして、何を書けばいいのか分からなくなっている。


 もしそうなら、少女が気づくべきことは、立派な言葉を見つけることではないのかもしれない。


 これからも手紙を書いていいのだと、自分自身で思えるようになること。


 彩花はその考えにたどり着き、机の上の原稿へ目を向けた。


(昨日、花が咲いたら写真を送ろうって考えたのも、きっと同じことなんだ。引っ越したあとも、二人で育てた花のことを話せるんだよね)


 彩花は原稿を取り出し、昨日書いた場面を読み返した。


 机の上の古い写真を見つめる少女は、祖母と一緒に庭の花を世話した日を思い出している。そこから、来年も花が咲いたら写真を送りたいという気持ちが生まれ始めていた。


 今の文章では、その気持ちがまだ少女自身の中で十分につながっていない。


 彩花は書き直す箇所を確認し、別の紙へ試し書きを始めた。


 少女は、写真の中で笑っている祖母の顔を見つめる。


 あの日、花へ水をやりながら話したことは、今でも覚えている。祖母が遠くへ行ってしまったら、同じ庭で並んで過ごすことは難しくなるけれど、花が咲いたことを知らせることならできる。


 少女は便箋へ視線を戻し、今朝見た庭の様子を思い出す。


 祖母が引っ越したあとにも、この庭には季節が巡ってくる。新しい葉が出て、花が咲き、また別の季節になったら、その変化を手紙で伝えることができるかもしれない。


 彩花はそこまで書き進め、ペンを置いた。


 まだ文章を整える必要はあるし、少女が最初に書く言葉も決まっていない。けれど、昨日までは別々に浮かんでいた思い出と未来への願いが、少しずつ一つの流れになり始めていた。


 彩花は書き上げた紙を原稿の横へ並べ、どちらの表現が少女らしいかを考えた。


 今すぐ完成させる必要はない。


 それでも、今日読んだ本のおかげで、自分が確かめたいことははっきりしたように思えた。


     ◇


 昼食のあと、悠真は自室で学校の予定を確認していた。


 明日からの一週間には、授業のほかに生徒会の確認作業がいくつか入っている。航平と分担して進めている資料についても、担当教員へ提出したあとの確認が残っており、必要に応じて修正が入る可能性があった。


 悠真は手帳を開き、予定が決まっている日と、まだ確認が必要な日を分けて見直した。


 彩花とは来週か再来週の週末に川沿いを歩けたらいいねと話しているが、学校の予定を確認するまでは、どちらの日にするか決めないことになっている。


 そのため、今の段階で予定を埋めてしまうつもりはなかった。


 ただ、帰宅時間や天候を考えたとき、どのくらいの時間なら無理なく歩けるだろうかということは、少しずつ考えておきたかった。


 悠真は手帳の余白へ、以前二人で歩いた川沿いの道を思い浮かべながら、簡単なメモを書いた。


 駅から川沿いへ向かう道。


 以前座った、修理されたベンチ。


 途中で休憩できる場所。


 日が暮れる前に帰れる時間。


 どれも特別な計画ではないが、彩花と一緒に歩く時間を安心して楽しむためには、必要なことだと思った。


 以前の散歩では、二人で歩きながら木々の色や川の流れについて話した。彩花は足元に落ちていた葉を見つけ、その形や色を楽しそうに眺めていた。


 悠真の引き出しにしまってある橙色の葉も、あの日に拾ったものだ。


 思い出すと、自然に口元が緩んだ。


(今度は、あのときより葉が少なくなっているだろうな。彩花さんは、どんなところに目を向けるんだろう)


 悠真は手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 庭の木々は、以前よりも枝がよく見えるようになっている。季節が進むにつれて、同じ景色でも少しずつ違う表情を見せるのだと、最近は以前より意識するようになった。


 その変化に気づくたび、彩花ならどう感じるだろうと考えることがある。


 自分が見つけたものを伝えたい。


 そして、彩花が見つけたものも聞いてみたい。


 そんな気持ちが、いつの間にか日常の中へ自然に入り込んでいた。


 悠真は机の上のスマートフォンへ目を向けたが、すぐにメッセージを送ることはしなかった。


 彩花は今日は家で物語を書いたり、本を読んだりすると話していた。集中している時間かもしれないと思うと、今は自分もやるべきことを済ませておこうという気持ちになった。


 彼女と話す時間が楽しみだからこそ、互いの時間も大切にしたかった。


 悠真は学校の資料を取り出し、翌日の準備を進め始めた。


     ◇


 午後二時を少し過ぎた頃、彩花は自室から一階へ降りてきた。


 原稿を読み返しているうちに、温かい飲み物が欲しくなったのだ。台所へ向かうと、紗月が買い物から戻ったところで、食材を冷蔵庫へしまっていた。


「お母さん、おかえり。荷物、手伝おうか?」


「ただいま、彩花。ありがとう。じゃあ、そこの袋に入っているものを棚へしまってもらえる?」


 彩花は頷き、袋の中身を確かめながら手伝い始めた。


 台所の窓からは午後の日差しが入り、外を通る車の音が遠くに聞こえてくる。母が買ってきた野菜を冷蔵庫へしまい終えると、彩花は二人分の紅茶を用意した。


「今日はずっとお部屋で書いていたの?」


 紗月が尋ねると、彩花はカップを渡しながら首を横に振った。


「午前中は借りてた本を最後まで読んだんだ。それから、昨日書いたところを少し見直してたの」


「そうなのね。読んでみて、何か新しいことが見つかった?」


「うん。前に話した、祖母へ手紙を書こうとしている女の子のことなんだけどね……」


 彩花はそこで少し言葉を選んだ。


 まだ完成していない物語のため、細かい場面をすべて説明するよりも、今考えていることを話したかった。


「その子は、最初の手紙で大切なことを全部伝えなきゃいけないって思ってるのかもしれない。でも、離れたあとも手紙を書けるんだから、全部を一度に伝えなくてもいいんじゃないかなって考えたんだ」


 紗月は紅茶を一口飲み、娘の言葉をゆっくり受け止めた。


「そうね。手紙って、書いたら終わりというものじゃないもの。返事が届いたら、また伝えたいことが増えるかもしれないし、次に書くときには違う出来事が起きているかもしれないわ」


「うん。だから、主人公がそのことに気づくまでを、ちゃんと書いてみたいなって思ってるの」


「いいと思うわ。ただ、気づいた瞬間に全部の寂しさがなくなるわけでもないでしょうね。離れるのはやっぱり寂しいだろうし、その気持ちも大切にしてあげたらいいんじゃないかしら」


 彩花は母の言葉を聞き、カップを持つ手を少し止めた。


 確かに、手紙を書き続けられると気づいたからといって、祖母と離れる寂しさまで消えるわけではない。


 むしろ、寂しいからこそ、これからも話したいと思うのかもしれない。


「そっか……。そうだよね。私、主人公が前向きになれることばかり考えてたかもしれない」


 彩花がそう言うと、紗月は穏やかに首を横へ振った。


「前向きになるのは素敵なことよ。でも、寂しい気持ちが残っていても、前へ進めることはあるでしょう? 彩花が書こうとしている子も、そういう気持ちを持っていていいんじゃないかなって思ったの」


 その言葉は、彩花の胸に静かに残った。


 主人公を幸せな結末へ連れていきたいという気持ちはある。


 けれど、そこへ向かう途中で、寂しさや不安を無理になくす必要はない。大切な人が遠くへ行くことを寂しいと思うのは、その人と過ごした時間が大切だったからでもある。


(寂しいままでも、手紙を書きたいって思っていいんだよね。そういう気持ちを、この子にも持たせてあげたいな)


 彩花は紅茶を一口飲み、母へ笑顔を向けた。


「ありがとう、お母さん。今の話、忘れないうちにノートへ書いておくね」


「ええ。あまり根を詰めすぎないようにね。少し休んでからでも、言葉は逃げていかないと思うわ」


「ふふっ、そうだね。じゃあ、お茶を飲み終わってから戻ることにする」


 二人はそのあと、夕食の献立や明日からの学校のことを話した。


 彩花は母と過ごす何気ない時間の中にも、物語へつながるものがあるのだと感じていた。机へ向かっているときだけが、物語を書く時間ではないのかもしれない。


     ◇


 九条家では、午後の庭に柔らかな日差しが差し込んでいた。


 悠真は学校の準備を終えたあと、ハクと一緒に庭を歩いていた。朝のうちは冷たかった風も少し弱まり、日向に立っていると、厚手の上着の中へ穏やかな暖かさが伝わってくる。


 ハクは芝生の端で立ち止まり、落ち葉の匂いを確かめてから、悠真の方へ顔を上げた。


「今日は昨日ほど葉っぱを探さなくてもいいんだよ。練習用の分はもう集めたからね」


 悠真がそう話しかけると、ハクは尻尾を振り、再び歩き始めた。


 その様子を見ながら庭を進んでいると、向こうから母の麗華が歩いてきた。


「あら、悠真。ハクとお散歩?」


「はい。学校の準備が終わったので、少し庭を歩こうと思って」


「そう。今日は日差しがあるから、昨日より歩きやすいわね」


 麗華はハクの頭を撫でてから、悠真へ微笑みかけた。


「琴葉から聞いたわ。昨日は二人で落ち葉を集めていたんですって?」


「はい。少し試してみたいことがあって、庭の葉を使わせてもらいました」


「琴葉、とても楽しそうに話していたわよ。お兄様と一緒に探したんだって」


 悠真は少し照れたように笑った。


「俺も楽しかったです。琴葉がいろいろな葉を見つけてくれたので、思っていたより種類が集まりました」


 麗華は息子の顔を見つめ、穏やかに頷いた。


「最近の悠真は、学校以外のことにも楽しみが増えたみたいね」


 その言葉に、悠真は少しだけ目を瞬かせた。


 母にとっては何気ない感想だったのかもしれない。


 けれど、悠真自身も、以前と比べて休日の過ごし方が変わってきたことを感じていた。


「そうかもしれません。前は休みの日でも、学校の予定を確認したり、本を読んだりすることが多かったので」


「それも悠真らしい過ごし方だったと思うわ。でも、何かを作ってみたり、誰かと一緒に出かける予定を楽しみにしたりするのも、きっといい経験になるでしょうね」


 悠真は母の言葉を聞き、昨日彩花と交わしたメッセージを思い出した。


 来週か再来週の週末に、また川沿いを歩けたら嬉しい。


 まだ予定は決まっていないが、その日を楽しみに思っている。


「実は、彩花さんとまた川沿いを歩こうと話しているんです。まだ日にちは決めていないんですが、学校の予定を確認してから相談するつもりです」


 麗華は少し嬉しそうに微笑んだ。


「そうなのね。以前も二人で歩いたところでしょう? 季節が変わった景色を一緒に見るのも素敵ね」


「はい。彩花さんが、いつもの道でも新しい景色が見つかりそうだと言ってくれたんです」


「彩花さんらしい言葉ね。あの子は、自分が好きだと思ったものを、とても丁寧に見つめるでしょう」


 悠真は自然に頷いた。


 母が彩花のそういう一面を覚えていてくれたことが、嬉しかった。


「俺も、そう思います。だから、彩花さんと歩いていると、自分では気づかなかったものが見つかることがあるんです」


 麗華はその答えを聞き、息子の表情がいつもより柔らかくなっていることに気づいた。


 悠真は昔から、周囲の人の話をきちんと聞き、相手の気持ちを考えようとする子だった。けれど、最近はそれに加えて、自分が何を楽しみにしているのか、誰とどんな時間を過ごしたいのかを、以前より自然に話すようになっている。


 麗華には、その変化が嬉しかった。


「予定が決まったら教えてね。寒くなる時期だから、二人とも無理をしないように」


「はい。天気や帰る時間も考えて決めるつもりです」


 悠真が答えると、麗華は安心したように頷いた。


 そのあと、ハクが二人の間へ顔を出したため、会話は自然に犬の散歩の話へ移っていった。麗華も少しだけ庭を歩き、悠真は母と並びながら、木々の変化や最近の家族の出来事について話した。


 贈り物のことは、まだ自分の中で形にしている途中だった。


 けれど、彩花と歩く約束については、こうして家族へ話せる。


 その違いも、悠真には不思議と心地よかった。


     ◇


 午後四時を過ぎると、彩花の部屋へ差し込む光は少しずつ弱くなってきた。


 彩花は机の上の原稿を揃え、今日書き加えた部分を読み返していた。


 祖母との思い出を振り返る少女は、ようやく、離れたあとにも伝えたいことがあると気づき始めている。


 ただし、まだ手紙を書き終えたわけではない。


 最初の一行をどうするのか、どんな便箋を選ぶのか、そして祖母へ何を一番に伝えたいのか。決めなければならないことは残っているが、それらを急いで埋めてしまうつもりはなかった。


 彩花は星模様のノートを開き、母と話した内容を書き留めた。


『寂しさがなくならなくても、前へ進める。』


『離れてからも手紙を書けると分かったからといって、別れが寂しくなくなるわけではない。』


 そこまで書いたところで、彩花はペンを止めた。


 この考え方は、自分の物語にとって大切なものになる気がした。


 主人公が祖母へ手紙を書こうとする理由は、ただ寂しさを埋めるためだけではない。祖母と過ごした時間を覚えていたいし、これから起きることも伝えたいのだろう。


 それなら、最初の手紙には、今の少女にしか書けない言葉があるはずだ。


 彩花は少し考えたあと、原稿へ一つの場面を書き加えた。


 少女は便箋を前にしたまま、窓の外へ目を向ける。


 祖母と一緒に世話をしていた庭には、今日も変わらず植物が並んでいる。引っ越しの日が近づいていることを思うと胸が苦しくなるけれど、その庭がなくなるわけではないし、祖母との思い出まで消えてしまうわけでもない。


 少女は机の上の写真を手に取り、そこに写る二人の姿を見つめる。


 写真の中の自分は、まだ祖母が遠くへ行くことを知らない。


 けれど、今の自分には、あの日にはなかった言葉がある。


 離れても、花が咲いたことを知らせたい。


 祖母が元気に暮らしているか、手紙で尋ねたい。


 そして、また一緒に花を眺められる日が来たら嬉しいと、伝えたい。


 彩花はそこまで書いて、少しだけ息をついた。


 今までの文章よりも、少女が何を考えているのかが見えやすくなった気がする。


 けれど、最後の願いについては、まだ書き方を考えたいと思った。


 再会を望むことと、再会の約束ができていることは違う。


 少女は、また一緒に花を眺められたら嬉しいと思っているだけで、その日がいつ来るのかは知らないはずだ。


 だからこそ、そこを曖昧なまま美しい言葉でまとめてしまうのは避けたかった。


(この子が今できるのは、未来を決めることじゃなくて、これからも話したいって伝えることなんだよね)


 彩花は原稿の余白へ、最後の部分をもう一度考えるための印をつけた。


 今日はここまでにしよう。


 そう決めてペンを置くと、思っていた以上に長い時間、机へ向かっていたことに気づいた。


 肩を軽く回し、窓の外へ目を向ける。


 夕方の空には薄い雲が広がり、その向こうで日差しが柔らかな橙色へ変わっていた。


 彩花はその景色を眺めながら、ふと悠真のことを思い出した。


 昨日の夜、彼は家で本を読んだり、琴葉やハクと庭を歩いたりしたと話してくれた。


 今日はどんなふうに過ごしているのだろう。


 学校の準備をしているかもしれないし、家族とゆっくり過ごしているかもしれない。


 彩花はスマートフォンへ手を伸ばしかけたが、すぐには画面を開かなかった。


 昨日のやり取りを思い返すと、今日読み終えた本について、悠真へ話したいことがあると気づいたからだ。


 以前、読み終わったら感想を伝えると約束している。


 ただ「面白かった」と伝えるだけではなく、自分が何を感じたのか、少し整理してから話したかった。


 彩花は星模様のノートをもう一度開き、短編集について書いた感想を読み返した。


 それから、伝えたいことを心の中で確かめた。


     ◇


 夕食の少し前、悠真は自室で読書をしていた。


 学校の準備を終え、庭でハクと過ごしたあと、以前から読み進めていた本を開いたのだ。


 窓の外はすでに薄暗くなり始めており、机の上の照明がページを穏やかに照らしている。


 そのとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には彩花からのメッセージが表示されている。


『悠真君、こんばんは。前に話してた短編集、今日最後まで読めたよ。少し感想を話してもいいかな?』


 悠真は自然に微笑んだ。


 彩花が借りていた本のことは覚えている。


 日常の中の小さな約束を題材にした短編集で、読み終わったら感想を聞かせてくれると言っていた。


 悠真は本へしおりを挟み、返信を打った。


『こんばんは、彩花さん。もちろん。読み終わったんだね。どんなところが印象に残ったの?』


 少しして、彩花から長めのメッセージが届いた。


『離れた場所に住む友達同士が手紙を送り合うお話があってね。特別なことばかりじゃなくて、普段の出来事を伝えているところが素敵だなって思ったんだ。相手が前に話してたことを覚えていて、次の手紙で聞いてくれる場面も好きだったよ』


 悠真はその文章をゆっくり読んだ。


 彩花が何に心を動かされたのかが、丁寧に伝わってくる。


 彼女は物語の大きな出来事だけではなく、登場人物が相手のことを覚えているという、小さなやり取りを大切に感じたのだろう。


『それは素敵だね。前に話したことを覚えていてもらえると、自分の言葉を大切にしてもらえた気がするよね』


 悠真がそう返すと、彩花からすぐに返事が届いた。


『うん、私もそう思う。あとね、手紙を一回書いたら終わりじゃなくて、また次に話したいことができるのもいいなって思ったの』


 悠真はその言葉を読み、少し考えた。


 手紙を送り合う二人の物語。


 それは、今の自分たちが交わしているメッセージにも、どこか似ているのかもしれない。


 学校であったことを伝えたり、読んだ本の感想を話したり、次に会ったときのことを相談したりする。


 特別な出来事がなくても、彩花へ話したいことは増えていく。


『分かる気がするよ。俺も、彩花さんと話していると、次に会ったときに伝えたいことが増えていくから』


 送信したあと、悠真は少しだけ画面を見つめた。


 思ったことをそのまま書いたつもりだったが、読み返すと、自分にとって彩花との会話がどれほど大切なのかを伝える文章になっていた。


 ただ、それを取り消したいとは思わなかった。


 しばらくして、彩花から返事が届いた。


『私もだよ。今日も、本を読み終わったら悠真君に話したいなって思ったんだ』


 その言葉に、悠真の胸が温かくなった。


 彩花は、本を読んで感じたことを自分へ伝えたいと思ってくれた。


 それは、初めて図書館で出会った頃から続いている、二人の大切な時間でもある。


『話してくれてありがとう。彩花さんがどんなところを好きだと思ったのか聞けて、俺も嬉しいよ』


 悠真はそう返してから、もう一つ伝えたいことを思い出した。


『そういえば、俺も最近読んでいる本があるんだ。まだ途中なんだけど、読み終わったら感想を話してもいい?』


『もちろん! 悠真君がどんなところを面白いと思ったのか、私も聞いてみたいな』


 悠真はその返事を読み、穏やかに笑った。


 まだ読み終わっていない本の感想を、今すぐ話す必要はない。


 けれど、読み終えたあとに話せる相手がいると思うだけで、残りのページを読む楽しみが少し増えたように感じられた。


 そのあと二人は、翌日からの学校のことを少し話した。


 彩花は冬の部誌について、先生からの確認を待っていることを伝えた。悠真も、生徒会の資料に関する確認が残っているため、週明けに予定を見直すつもりだと話した。


 川沿いを歩く日については、明日以降に学校の予定を確認してから、改めて相談することになった。


 具体的な日付は、まだ決まっていない。


 けれど、そのことを二人とも残念には思わなかった。


 予定を確かめて、天気を見て、無理のない日を選ぶ。


 そんな当たり前の相談を重ねることも、今の二人には楽しかった。


     ◇


 夕食後、彩花は家族と居間で過ごしていた。


 凛花がテレビの番組表を見ながら、今夜放送される映画について話している。耕助はソファの端でくつろぎ、紗月は温かいお茶を用意していた。


「彩花、今日は本、最後まで読めたんだって?」


 凛花が尋ねると、彩花は頷いた。


「うん。午前中に読み終わったよ。好きなところがいくつもあって、午後はそのことも考えながらお話を書いてたの」


「へえ。じゃあ、今日は結構充実してたんだね」


「うん。まだ書き直したいところはあるけど、少しずつ進んでる気がする」


 凛花は妹の表情を見て、楽しそうに笑った。


「最近の彩花、書いてるときに前より悩んでる気がするけど、なんだか楽しそうでもあるよね」


 彩花は少し驚いた。


「そうかな? 悩んでるのは、自分でも分かるけど……」


「うん。前はうまく書けないと、ちょっと落ち込んでることもあったでしょ。でも最近は、どう書こうかなって考えるのも楽しんでる感じがする」


 その言葉に、彩花はすぐには答えられなかった。


 確かに、今も迷うことは多い。


 主人公の気持ちが分からなくなったり、書いた文章がしっくりこなかったりすることもある。


 けれど、そういうときに、以前ほど焦らなくなった気がしていた。


 佐々木先輩へ相談することもできるし、家族へ話してみることもできる。


 そして、完成したら最初に読んでほしいと思っている人がいる。


 悠真は、急がなくていいと言ってくれた。


 その言葉を思い出すと、今の自分が少しずつ進んでいることを、前より信じられる気がした。


「そうかもしれない。前より、分からないところがあっても、もう少し考えてみようって思えるようになったんだ」


 彩花が答えると、凛花は嬉しそうに頷いた。


「それって、いい変化だと思うよ。完成したときに、きっと今まで以上に嬉しいんじゃないかな」


「うん。そうだったらいいな」


 彩花は微笑み、母が用意してくれたお茶を受け取った。


 凛花はそれ以上、物語の内容を詳しく尋ねなかった。


 妹が自分の言葉を探している途中なのだと分かっているからだ。話したくなったら聞けばいいし、まだ話したくないことまで無理に聞く必要はない。


 彩花はそんな姉の気遣いにも、自然と安心していた。


     ◇


 九条家の夕食後、悠真は居間で父の正樹と話していた。


 正樹は仕事で使っていた資料を片づけたところで、悠真が明日からの予定を確認していると聞き、少し時間を取ってくれたのだ。


「生徒会の仕事は順調なのか?」


「はい。航平と分担していた資料は、担当の先生に確認していただく段階まで進んでいます。修正が必要なら、また相談して対応するつもりです」


 正樹は頷き、息子の顔を見た。


「以前より、周囲へ仕事を任せることに慣れてきたようだな」


「そうかもしれません。最初は自分で確認した方が早いと思うこともありましたが、航平と相談した方が気づけることも多いので」


「それはいい経験だ。誰かと一緒に進めることは、単に仕事を分けるということではないからな」


 悠真は父の言葉を聞きながら、最近の生徒会でのやり取りを思い返した。


 航平は、悠真が考えすぎているときに、別の見方を示してくれることがある。自分だけでは気づかなかったことを教えてもらえるのは、ありがたいことだった。


「はい。航平には、いろいろ助けてもらっています」


 悠真がそう答えると、正樹は穏やかに微笑んだ。


「そう思える相手がいるのは大切なことだ。学校のことも、私生活のことも、一人で全部を抱え込む必要はない」


 その言葉に、悠真は少しだけ考え込んだ。


 自分は、周囲の期待へ応えたいと思うことが多かった。


 けれど最近は、誰かと相談しながら進めることや、自分の楽しみのために時間を使うことも、少しずつ自然になっている。


 彩花と出会ったことも、その変化の一つなのだろう。


「ありがとうございます。最近は、学校以外のことも楽しみにできるようになってきました」


 悠真がそう言うと、正樹は興味深そうに眉を上げた。


「そうか。何か予定があるのか?」


「彩花さんと、また川沿いを歩こうと話しています。まだ日にちは決まっていませんが、学校の予定を確認してから相談するつもりです」


 正樹はその言葉を聞き、柔らかく微笑んだ。


「それは楽しみだな。以前も一緒に歩いたところだったか」


「はい。季節が変わったので、また違う景色が見られると思います」


「同じ場所へ何度も行くのも、いいものだ。以前と変わったものだけでなく、変わらず残っているものにも気づけるからな」


 悠真はその言葉に、静かに頷いた。


 以前、彩花と座った川沿いのベンチ。


 川の流れ。


 歩きながら交わした会話。


 次に訪れたとき、何が変わっていて、何が変わらず残っているのだろう。


 そう考えるだけで、少し楽しみになった。


「はい。彩花さんと一緒に、そういうところも見つけられたらと思っています」


 正樹は息子の表情を見つめ、穏やかに言った。


「予定を立てることも大切だが、当日は二人で過ごす時間そのものを楽しんできなさい。何もかも予定どおりにしようとしなくてもいい」


 悠真はその言葉を聞き、少し笑った。


「分かりました。ありがとうございます」


 父との会話を終えたあと、悠真は自室へ戻った。


 机の上には、読みかけの本が置かれている。


 彩花へ感想を話す約束をした本だ。


 悠真は椅子へ座り、しおりを挟んでいたページを開いた。


 物語の続きを読みながら、彩花ならどんなところに心を動かされるだろうと考える。


 けれど、今は自分が感じたことも大切にしたかった。


 彩花は、自分が何を面白いと思ったのかを聞いてみたいと言ってくれたのだから。


     ◇


 夜九時を過ぎた頃、彩花は自室で一日を振り返っていた。


 机の上には、今日読み終えた短編集と、書き進めた原稿が並んでいる。星模様のノートには、物語について新しく考えたことがいくつも書き加えられていた。


 彩花は原稿を一枚ずつ揃え、クリップで留めた。


 祖母へ手紙を書く少女は、まだ最初の一行を決めていない。


 それでも、以前よりも伝えたいことがはっきりしてきた。


 少女が感じている寂しさを消さずに、その先へ進めるようにしたい。


 そして、祖母と離れても、二人の時間がそこで終わるわけではないと、少女自身が気づいていく姿を書きたい。


 彩花は原稿を机の端へ置き、淡い緑色の日記帳を開いた。


 今日の日付を書き、まずは本を読み終えたことから記していく。


『今日は、借りていた短編集を最後まで読んだ。離れて暮らす友達が手紙を送り合うお話が、とても心に残った。』


『新しいお話も少し進んだ。主人公の寂しい気持ちを大切にしながら、これからも続いていくものを書きたい。』


 そこまで書いたところで、彩花は少しだけペンを止めた。


 今日の夕方、悠真へ本の感想を伝えた。


 悠真は、自分がどんなところを好きだと思ったのか、丁寧に聞いてくれた。


 そして、悠真自身も、彩花と話していると次に会ったときに伝えたいことが増えていくと言ってくれた。


 彩花はその言葉を思い出し、頬を緩めた。


(私だけじゃないんだ。悠真君も、次に会ったときに話したいことが増えてるんだね)


 そのことが、嬉しかった。


 自分は悠真と話したいことがたくさんある。


 本のことも、学校のことも、家族のことも。


 けれど、悠真も同じように思ってくれていると知ると、次に会える日がもっと楽しみになった。


 彩花は日記へ続きを書いた。


『悠真君に本の感想を話したら、私が好きだと思ったところを大切に聞いてくれた。』


『悠真君も、私と話していると、次に伝えたいことが増えていくんだって。私も同じだから、とても嬉しかった。』


 書き終えたあと、彩花は少し考え、最後にもう一行を加えた。


『次に会うまでの時間にも、話したいことが少しずつ増えていく。』


 その文章を読み返すと、今日読んだ短編集のことが浮かんだ。


 手紙を送り合う二人は、離れている時間にも、それぞれの毎日を過ごしていた。


 そして、次に手紙を書くときには、その間に起きた出来事を伝え合っていた。


 自分と悠真も、少し似ているのかもしれない。


 会っていない時間にも、それぞれ学校へ行き、家族と過ごし、本を読んでいる。


 その時間があるからこそ、次に話すことが増えていく。


 彩花は日記帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 夜の青凪市には、家々の明かりが静かに灯っている。


 遠くの道路を車が通り過ぎ、冷たい風が庭の木々を揺らしていた。


 来週からは、また学校が始まる。


 文芸部では冬の部誌の確認が続くだろうし、新しい物語も少しずつ書き進めたい。


 悠真も、生徒会の仕事や授業がある。


 それぞれにやることがあるから、川沿いを歩く日をすぐに決められるわけではない。


 けれど、彩花はそのことを寂しいとは思わなかった。


 約束の日を待つ間にも、二人にはそれぞれの時間がある。


 その時間を大切に過ごして、また会えたときに話し合えるのなら、それも素敵なことだと思った。


     ◇


 悠真が本を閉じたのは、彩花が日記を書き終えた頃だった。


 今日読んだ部分には、登場人物が以前交わした何気ない会話を思い出し、その言葉の意味を改めて考える場面があった。


 悠真はその箇所が印象に残り、机の上のメモへ簡単に感想を書き留めた。


 まだ最後まで読み終わっていないため、全体についての感想は決められない。


 けれど、読み進めるうちに何を感じたのかを残しておけば、彩花へ話すときにも、自分の言葉で伝えられるだろうと思った。


 メモを閉じると、悠真は引き出しを開けた。


 中には、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードと、紙に包んだ橙色の葉がしまわれている。


 悠真は葉を包んだ紙を取り出し、傷めないよう注意しながら状態を確かめた。


 大きな変化は見られなかったが、自然の葉である以上、今の状態がいつまでも続くとは限らない。


 だからこそ、練習用の葉の結果を見てから、どのように残すかを決めたいと思っている。


 悠真は紙を元どおりに包み、引き出しへ戻した。


 昨日から始めた練習は、まだ結果が出ていない。


 それでも、準備を進めている時間は楽しかった。


 贈り物を渡したとき、彩花がどんな顔をするのか。


 そう想像することもある。


 けれど、何より大切なのは、彩花と一緒に歩いたあの日の時間を、自分が覚えていたいと思っていることだった。


 そして、できることなら、その思い出を彩花とも分かち合いたい。


(綺麗に作れるかどうかも大事だけど、あの日のことを思い出せるものにしたいんだよな。焦らずに、できることから進めていこう)


 悠真は引き出しを閉じ、手帳を開いた。


 明日からの予定をもう一度確かめる。


 学校の確認が済めば、彩花と川沿いを歩く日について、もう少し具体的に相談できるはずだ。


 悠真は週末の欄へ目を向けた。


 まだ何も書き込まれていない部分がある。


 そこに彩花と歩く予定を書ける日が来ることを、楽しみに思った。


 けれど、今はまだ空白のままでいい。


 約束を急いで決めることよりも、二人で相談して、安心して楽しめる日を選ぶことが大切なのだから。


 悠真は手帳を閉じ、部屋の明かりを少し落とした。


 窓の向こうには、静かな夜の庭が広がっている。


 木々の枝は暗い空を背景に細い影となり、ときおり吹く風に揺れていた。


 次に彩花と川沿いを歩くとき、きっと今日とは違う景色が見られるだろう。


 その日までに、自分が読んだ本の感想も、学校であった出来事も、少しずつ増えていくはずだ。


 悠真はベッドへ向かいながら、夕方に交わしたメッセージを思い返した。


 彩花は、本を読み終えたら自分へ話したいと思ってくれた。


 そして、自分も彩花へ話したいことがある。


 互いの毎日が別々に進んでいても、次に会うことを楽しみにできる。


 そんな関係が、悠真にはとても大切に思えた。


 明日は月曜日。


 それぞれの学校で、新しい一週間が始まる。


 冬の部誌も、落ち葉の贈り物も、川沿いを歩く約束も、まだ完成したり、実現したりしたわけではない。


 けれど、どれも少しずつ前へ進んでいる。


 悠真はそのことを穏やかに受け止めながら、静かに目を閉じた。


 同じ街の別々の家で、彩花もまた、明日からの一週間を楽しみにしている。


 二人が次に顔を合わせる日は、まだ決まっていない。


 それでも、会えない時間に見つけたものを、いつか相手へ伝えたいと思っている。


 その小さな願いが、冬へ向かう青凪市の夜に、静かに積み重なっていた。

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