第95話 君と歩く次の季節を、楽しみにしている
土曜日の朝、青凪市の空には、前日まで広がっていた雲の隙間から柔らかな日差しが差し込んでいた。
水瀬彩花が目を覚ましたのは、普段の登校日よりも少し遅い時間だった。カーテンの向こうから聞こえてくる鳥の声に耳を傾けながら、布団の中でゆっくりと体を伸ばすと、窓際に置いた時計へ目を向ける。
今日は学校が休みで、文芸部の活動もない。特別な外出の予定は入っていなかったが、読みかけの本を進めたり、新しい物語の続きを考えたりしたいと思っていた。
そして、もう一つ。
昨夜、悠真と交わした約束が、目を覚ましたばかりの彩花の胸に浮かんでいた。
(また、悠真君と川沿いを歩けるんだよね。まだ日にちは決まっていないけど、楽しみだな)
彩花は枕元のスマートフォンを手に取り、昨夜のメッセージを読み返した。
悠真は、葉が落ちたあとの川沿いを一緒に歩いてみたいと言ってくれた。彩花も同じことを考えていたから、その誘いが嬉しくて、昨夜は日記にも書き残している。
けれど、今朝になって改めて読み返すと、別の気持ちも浮かんできた。
以前、一緒に歩いたときとは、少し違う景色が見られるはずだ。
枝に残る葉は少なくなり、川面へ映る空も秋とは違っているだろう。冷たい風が吹くかもしれないし、歩いている途中で温かい飲み物が欲しくなるかもしれない。
そんな小さなことを想像しているうちに、彩花は自然と笑顔になっていた。
スマートフォンを置き、布団から出る。
窓のカーテンを開けると、庭の木々が朝の光を受けていた。葉を落とした枝の向こうには、淡い青空が広がっている。
彩花はしばらくその景色を眺めてから、着替えを済ませて一階へ向かった。
階段を降りる途中、台所から食器の触れ合う音と、母の紗月の声が聞こえてきた。
「彩花、おはよう。今日はゆっくり眠れた?」
「おはよう、お母さん。うん、いつもより少し長く寝ちゃった」
「休みの日くらい、そういう朝があってもいいと思うわ。朝ごはん、もう少しで用意できるからね」
彩花は頷き、手を洗ってから食卓へ向かった。
父の耕助はすでに席に着いて新聞を読んでおり、姉の凛花はマグカップを両手で包むように持っていた。
「おはよう、彩花。今日は何か予定あるの?」
凛花が尋ねると、彩花は椅子を引きながら答えた。
「おはよう、お姉ちゃん。今日は家で本を読んだり、お話の続きを考えたりしようと思ってるよ」
「そうなんだ。じゃあ、久しぶりにのんびりできそうだね」
「うん。文芸部の部誌も、あとは先生たちの確認を待つところだから」
彩花がそう話すと、耕助が新聞から顔を上げた。
「昨日も言っていたな。本文の確認は進んだけど、印刷の条件がまだ決まっていないんだったか」
「そうだよ。来週、先生が確認してくれるみたい。だから、完成するのはもう少し先になりそう」
「楽しみが少し先に延びたと思えばいいさ。急いで仕上げるより、納得できるものになった方がいいだろう」
耕助の言葉に、彩花は笑顔で頷いた。
そのとき、凛花が何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば彩花、昨日の夜、なんだか楽しそうだったよね。何かいいことあった?」
彩花は思わず姉の顔を見た。
「えっ、どうして?」
「廊下ですれ違ったとき、ちょっと嬉しそうに笑ってたから。部誌のことかなって思ったんだけど」
凛花は何気ない様子で尋ねている。
けれど、彩花の胸には昨夜のメッセージが浮かんでいた。
悠真と、また川沿いを歩く話をしたこと。
そのことを家族へ隠す必要はないはずなのに、いざ言葉にしようとすると、少しだけ照れくさくなる。
「えっと……部誌のことも嬉しかったんだけど、悠真君と、また川沿いを歩こうって話になったんだ」
彩花が答えると、凛花の表情が柔らかくなった。
「ああ、そういうことだったんだ。前に一緒に歩いたところ?」
「うん。今度は葉っぱが落ちたあとの景色を見てみたいねって。でも、まだ日にちは決まってないんだ」
「いいね。季節が変わると、同じ場所でも雰囲気が違うものね」
紗月が朝食を並べながら会話に加わった。
「川沿いは風が強い日もあるから、行くときは暖かくしてね。天気もちゃんと確認するのよ」
「うん、分かってる」
彩花が頷くと、耕助も穏やかに微笑んだ。
「無理のない時間にして、暗くなる前に帰ってくればいい。二人とも学校のことがあるんだから、予定はよく相談して決めなさい」
「ありがとう、お父さん」
彩花は家族の言葉に安心しながら、朝食へ手を伸ばした。
凛花はそんな妹の横顔を見つめ、マグカップへ口をつけた。
以前の彩花は、自分の好きな本や物語の話になると楽しそうにしていたが、誰かと出かける予定をこんなふうに嬉しそうに話すことは、今ほど多くなかった。
それが最近は、悠真と一緒に過ごした時間について、少し照れながらも自分の言葉で話してくれる。
凛花はその変化を嬉しく思っていた。
ただ、妹自身がまだ大切に育てている気持ちなのだろうとも感じている。
だからこそ、今は必要以上にからかわず、楽しみにしている時間をそのまま応援してあげたいと思った。
「彩花、今度歩いたら、どんな景色だったか教えてね。私も最近、川沿いには行ってないから」
凛花がそう言うと、彩花は明るく笑った。
「うん。綺麗な景色が見られたら、ちゃんと覚えておくね」
朝の食卓には、そのあとも穏やかな会話が続いた。
◇
九条家では、悠真が朝食を終えたあと、自室の机へ向かっていた。
窓の外にはよく晴れた空が広がり、庭の木々が冷たい風に揺れている。休日らしく屋敷の中は落ち着いており、廊下の向こうからは、ときおりハクの足音が聞こえてきた。
悠真は机の上に、昨日学校の図書室で借りていた植物の本と、自分でまとめたメモを並べた。
調べているのは、落ち葉をできるだけ傷めずに残す方法だった。
川沿いで拾った橙色の葉は、紙に包んで引き出しの中へしまってある。まだ形は保っているものの、自然の葉である以上、いつまでも同じ状態で残るとは限らない。
だからこそ、何かを作る前に、適切な扱い方を知っておきたかった。
悠真は本の該当するページを読み、湿気や日光の影響について書かれた部分を確かめた。
葉を乾燥させる方法にもいくつか種類があり、仕上がりや向いている用途が異なるらしい。
しおりのように薄く仕上げる場合と、小さな飾りとして残す場合では、必要な準備も変わってくる。
(やっぱり、いきなりあの葉で試すのは避けた方がいいな。まずは別の葉で、どんな状態になるのか確かめよう)
悠真はそう考え、メモへ書き加えた。
『練習用の葉を使い、乾燥後の形と色の変化を確認する。』
その下には、まだ決めていないこととして、しおりと小さな飾りの二つの案が残っている。
どちらが彩花に似合うだろうか。
そう考えたところで、悠真は少しだけ手を止めた。
彩花は、どちらも喜んでくれるかもしれない。
けれど、自分が渡したいと思える形でなければ、贈り物としての意味が薄れてしまう気もする。
以前、航平が言ってくれた言葉を思い出した。
出来栄えだけで決まるわけではない。
その通りなのだろう。
悠真は本を閉じ、椅子から立ち上がった。
今日は時間がある。
まずは庭で、練習に使えそうな落ち葉を探してみようと思った。
部屋を出て階段を降りると、居間では琴葉がハクと遊んでいた。
「お兄様、おはようございます。今日はずいぶん早くから本を読んでいたのね」
「おはよう、琴葉。昨日借りた本の続きを読んでいたんだ。これから庭で、練習用の葉を探してみようと思ってる」
琴葉はハクの背中を撫でながら、興味深そうに顔を上げた。
「葉っぱを残す練習をするの?」
「うん。大切な葉を使う前に、別のもので試してみた方がいいと思って」
「それなら、私も少しだけ一緒に見てもいい?」
悠真は微笑んだ。
「もちろん。ただ、今日は葉を選ぶところからだから、あまり面白いことはないかもしれないよ」
「そんなことないわ。お兄様がどんなものを作ろうとしているのか、私も気になっているもの」
琴葉はそう言って立ち上がった。
ハクも二人の動きを見て、何か楽しいことが始まると思ったのか、尻尾を揺らしながら近づいてきた。
「ハクも一緒に行きたいみたいだね」
悠真が笑うと、琴葉も嬉しそうに頷いた。
「ええ。でも、葉っぱを集めるのを手伝ってくれるかどうかは分からないわね」
二人は上着を羽織り、ハクと一緒に庭へ出た。
朝の空気は冷たかったが、日差しの当たる場所には穏やかな暖かさが残っている。
庭木の下には、形や色の異なる葉がいくつも落ちていた。
悠真は足元を確かめながら、比較的傷みの少ないものを探した。
「お兄様、これはどうかしら?」
琴葉が少し離れたところから声をかけた。
その手には、茶色がかった葉が一枚載っている。
悠真は近づき、葉の状態を確かめた。
「形は綺麗だね。でも、少し湿っているみたいだから、今日は別のものを探してみようか」
「そうなのね。見た目だけじゃ分からないこともあるのね」
「うん。本にも、葉の状態をよく確認するように書いてあったよ」
琴葉は感心したように頷き、もう一度足元へ視線を落とした。
少し離れた場所では、ハクが落ち葉の匂いを確かめていた。鼻先で葉を動かしたあと、何事もなかったように悠真たちの方へ戻ってくる。
その様子が可笑しくて、琴葉は小さく笑った。
「ハクは、どの葉っぱがいいと思う?」
問いかけられたハクは、答える代わりに尻尾を大きく振った。
悠真も思わず笑みをこぼした。
しばらく探したあと、二人は練習に使えそうな葉を数枚選んだ。
形や厚みが少しずつ異なるものを選んだのは、乾燥させたときの違いを確かめたかったからだ。
悠真は葉を傷めないよう紙の上へ並べ、琴葉と一緒に屋敷の中へ戻った。
大切な橙色の葉には、まだ手を加えない。
けれど、贈り物を作るための準備は、今日一つ進んだのだった。
◇
午前中の家事を少し手伝ったあと、彩花は自室の机へ向かっていた。
机の上には、星模様のノートと書きかけの原稿が並んでいる。
新しく考えている物語は、祖母が遠くへ引っ越すことになった少女が、手紙を書こうとする話だ。
少女は、祖母へ何かを伝えたいと思っている。
けれど、いざ便箋を前にすると、最初の言葉が決まらない。
彩花はこれまで、その迷いをどのように描けばいいのか考えてきた。
寂しいという気持ちだけではない。
これまで一緒に過ごした時間への感謝もある。
離れてからも話し続けたいという願いもある。
そして、祖母が引っ越したあと、自分の毎日をどんなふうに伝えていきたいのかという、小さな希望もある。
彩花は原稿を読み返しながら、少女が机の上に置いた古い写真を見つめる場面を考えていた。
写真には、祖母と少女が庭で並んでいる姿が写っている。
まだ花の種類も、写真を撮った季節も決めていない。
けれど、二人が一緒に植物を育てた時間は、少女にとって大切な思い出になっているはずだ。
その思い出を、手紙の中へどうつなげるか。
彩花はペンを持ち、少しずつ文章を書き始めた。
少女は便箋へ向かっていた視線を、机の端に置かれた写真へ移す。
そこには、祖母と一緒に庭の花を世話していた日の姿が残っている。
写真を見つめているうちに、少女は祖母が水やりの仕方を教えてくれたことを思い出す。
ただ、思い出しただけでは、まだ手紙を書き始めることはできない。
少女は写真を元の場所へ戻し、もう一度便箋へ向き直る。
彩花はそこまで書いたところで、ペンを止めた。
何かが足りない気がした。
少女が祖母との思い出を振り返ることには意味がある。
けれど、それだけでは、今までと同じように最初の一行を書けないままになってしまう。
(この子は、思い出を振り返ったあと、何に気づくんだろう。おばあちゃんが遠くへ行くことだけじゃなくて、これからも続いていくことを考えてほしいんだけど……)
彩花は椅子の背もたれへ少し体を預け、窓の外へ目を向けた。
庭では、朝よりも明るくなった日差しが木々の枝を照らしている。
その景色を眺めているうちに、ふと昨日の佐々木先輩の言葉が浮かんだ。
全部を最初に説明しなくてもいい。
主人公が手紙を書こうとする中で、少しずつ思い出していく形でも自然だ。
彩花はもう一度原稿へ目を戻した。
少女が写真を見て、すぐに答えを見つける必要はない。
ただ、祖母と一緒に過ごした時間を思い出したことで、手紙へ書きたいことが一つ増えたのなら、それだけでも小さな前進になる。
そう考えると、少しだけ文章の続きが見えてきた。
彩花は新しい行へ、ゆっくりと書き加えた。
少女は便箋の端へ指を添え、祖母へ伝えたいことを一つずつ思い浮かべる。
庭の花が今日も元気に咲いていたこと。
水やりをするとき、祖母に教わったことを思い出したこと。
そして、来年も同じ花が咲いたら、その様子を写真に撮って送りたいと思っていること。
そこまで書いたところで、彩花はペンを止めた。
少女は、まだ手紙を書き始めていない。
けれど、最初に便箋へ向かったときとは、少し気持ちが変わっている。
伝えたいことが多すぎて迷っていた少女が、ようやく、その中の一つを選ぼうとしている。
彩花は書き上げた部分を読み返し、小さく息をついた。
(うん。今は、これくらいでいいのかもしれない。急に全部が分かるより、少しずつ自分の言葉を見つけていく方が、この子らしい気がする)
彩花は原稿の余白へ、あとで見直したい部分を記しておいた。
今書いた文章が、そのまま完成稿になるとは限らない。
それでも、昨日までより少女の気持ちが少し見えてきたことが嬉しかった。
机の上の時計を見ると、いつの間にか昼が近づいている。
彩花は原稿を揃え、昼食の準備を手伝うために部屋を出た。
◇
九条家の書斎に隣接した小さな作業机では、悠真が午前中に拾った葉を並べていた。
机の上には、吸湿性のある紙と薄い板、それから葉の状態を記録するためのメモが置かれている。
琴葉は少し離れた椅子に座り、悠真が本の説明を確認する様子を見守っていた。
「お兄様、葉っぱによって、少しずつ形が違うのね」
「うん。同じ木から落ちたものでも、厚みや反り方が違うみたいだね。乾燥させたあと、どんなふうに変わるか見てみたいんだ」
悠真は葉の状態を確かめながら、一枚ずつ紙の上へ置いた。
今の段階では、強く押しつけたり、無理に形を変えたりしないように気をつけている。
植物の保存について調べた本には、乾燥の過程で色が変わることや、葉の種類によって仕上がりに差が出ることが書かれていた。
悠真はその説明を参考にしながら、練習用の葉を二つの組に分けた。
片方は紙に挟んで平らな状態を保ち、もう片方は別の方法を試すために、ひとまず状態を記録しておく。
ただし、どちらも結果が出るまでには時間が必要だ。
「今日のうちに完成するわけじゃないのね」
琴葉が少し残念そうに言うと、悠真は穏やかに笑った。
「そうだね。自然のものだから、急いで乾かせばいいというわけでもないみたいなんだ」
「そっか。じゃあ、何日かあとに見てみるのが楽しみね」
「うん。色がどれくらい残るのかも気になるよ」
琴葉は机の上の葉を見つめ、少し考え込んだ。
「お兄様、もし綺麗にできたら、どんなふうに渡すつもりなの?」
悠真はその問いに、すぐには答えなかった。
贈り物を渡す場面については、まだ具体的に決めていない。
ただ、彩花が驚いたり、困ったりしないようにしたいとは思っている。
特別な贈り物だと大げさに伝えるよりも、一緒に歩いたときの思い出として、自然に受け取ってもらえたら嬉しい。
「まだ決めていないけど、彩花さんと一緒に歩いたときのことを思い出せるものにしたいと思ってるよ」
悠真が答えると、琴葉は少しだけ微笑んだ。
「それなら、きっと素敵なものになると思うわ」
「ありがとう。でも、まだ練習の段階だから、ちゃんと形にできるか分からないよ」
「それでも、お兄様がそうやって考えていることは、素敵だと思うの」
琴葉は真面目な表情で言った。
悠真は妹の言葉に少し照れながら、静かに頷いた。
そのあと、二人は作業机を片づけ、葉を挟んだ紙が動かないように置き場所を整えた。
悠真はメモへ今日の日付と葉の状態を書き込み、次に確認する目安を記した。
橙色の葉は、まだ引き出しの中にある。
けれど、練習を始めたことで、贈り物について考える時間が、少しずつ具体的な行動へ変わり始めていた。
◇
昼食を終えた彩花は、母の紗月と一緒に台所の片づけをしていた。
洗い終えた食器を布巾で拭きながら、彩花は午前中に書いた物語のことを思い出していた。
祖母へ手紙を書く少女。
その少女が、ようやく伝えたいことを一つ選ぼうとしている。
まだ文章は完成していないが、少しずつ前へ進んでいることが嬉しかった。
「彩花、今日はお話の方も進んだの?」
紗月が尋ねた。
「うん。少しだけだけど、主人公の気持ちが前より分かった気がするんだ」
「そうなのね。どんなところが?」
彩花は布巾を畳みながら、少し考えて答えた。
「おばあちゃんが遠くへ引っ越すから、寂しい気持ちはあるんだけど、それだけじゃないんだと思うの。離れてからも、今までみたいに話したいことがあるんじゃないかなって」
紗月は手を止め、娘の言葉に耳を傾けた。
「なるほどね。離れる前に全部を伝えるための手紙じゃなくて、離れてからもつながっていくための手紙なのね」
彩花はその言葉に、少し驚いたように顔を上げた。
「うん。そういうことかもしれない」
紗月は柔らかく微笑んだ。
「お母さんも、遠くに住んでいる人から近況を聞くと嬉しいもの。特別な出来事じゃなくても、今日はこんなことがあったよって教えてもらえるだけで、相手の毎日が少し近く感じられるから」
彩花はその言葉を聞き、静かに頷いた。
確かに、自分も悠真から学校のことや家族のことを聞くと嬉しい。
特別な事件が起きたわけではなくても、彼が今日どんな時間を過ごしたのかを知ることができると、それだけで少し近くなれた気がする。
それは、物語の少女が祖母へ伝えたいと思っている気持ちにも、どこか似ているのかもしれない。
「ありがとう、お母さん。もう少し考えてみるね」
「ええ。彩花が大切に書いているお話だから、ゆっくり形にしていけばいいと思うわ」
紗月はそう言って、最後の皿を棚へ戻した。
片づけが終わると、彩花は温かいお茶を用意し、自室へ戻った。
机の上には、午前中に書いた原稿がそのまま置かれている。
彩花は椅子へ座り、母の言葉を忘れないうちに、星模様のノートへ書き加えた。
『離れてからも、相手の毎日を知ることができる。手紙は、そのための小さな窓にもなる。』
書き終えると、彩花は少しだけ微笑んだ。
物語の少女が、また一歩だけ前へ進んだように感じられた。
◇
午後、悠真は居間で祖父の俊治と話していた。
俊治は庭の方へ目を向けながら、悠真が葉の保存を試していることを聞き、興味深そうに頷いていた。
「なるほど。まずは別の葉で試しているのか。それはいい考えだな」
「はい。大切な葉を使う前に、どんな変化が起きるのか知っておきたくて」
俊治は穏やかに微笑んだ。
「自然のものを残すのは、思っているより難しいこともある。だが、何かを大切にしたいと思って工夫する時間は、決して無駄にはならんよ」
悠真は祖父の言葉に頷いた。
以前、俊治へ葉の保存について相談したときも、思い出を残すことの意味を話してもらった。
その言葉は、今も悠真の中に残っている。
「おじい様は、昔から大切にしているものはありますか?」
悠真が尋ねると、俊治は少し考えた。
「そうだな。古い本や写真もあるが、何より、誰かと過ごした時間を思い出せるものは大切にしてきたつもりだ」
「時間を思い出せるもの、ですか」
「ああ。物そのものが高価である必要はない。手に取ったとき、そのときの会話や景色を思い出せるなら、それだけで十分な価値がある」
俊治はそこで少し笑った。
「もっとも、長く残そうとするなら、扱い方を考えることも大事だがな」
悠真も微笑んだ。
「はい。だからこそ、ちゃんと調べてから作りたいと思っています」
「うむ。ただ、慎重になりすぎて、最初の気持ちを忘れないようにな」
その言葉に、悠真は少しだけ目を見開いた。
昨日、航平からも似たようなことを言われた。
家族や友人は、それぞれ違う立場から自分を見ている。
けれど、みんなが伝えてくれることには、どこか共通するものがあった。
完璧な形にすることだけが、大切なのではない。
何を思って残したいのか。
誰へ、どんな気持ちで渡したいのか。
そこを忘れないことが、一番大切なのだろう。
「ありがとうございます。俺も、そのことは忘れないようにしたいです」
悠真が答えると、俊治は満足そうに頷いた。
そのあと二人は、最近読んだ本や庭の木々の話を続けた。
悠真にとって、祖父とこうしてゆっくり話す時間もまた、大切な休日の一部だった。
◇
夕方が近づく頃、彩花は読みかけの本を閉じた。
窓の外では日差しが少し傾き、庭の木々の影が長く伸びている。
午前中に物語を書き進め、午後は母と話したあと、しばらく本を読んでいた。
落ち着いた休日だったが、時間が過ぎるのは思っていたより早かった。
彩花は机の上のスマートフォンへ目を向けた。
昨夜、悠真と川沿いを歩く話をした。
けれど、まだ具体的な日程は決まっていない。
彩花は少し考えてから、メッセージを開いた。
週末の予定を確認してみようかと思ったのだ。
ただ、今日すぐに出かけるつもりではない。
お互いに学校のこともあるし、天気や帰宅時間も考えて決めたい。
彩花はゆっくりと文章を打った。
『悠真君、こんにちは。昨日話してた川沿いのお散歩なんだけど、来週か、その次の週末あたりで予定を合わせられたら嬉しいなって思ってるよ』
送信してから、彩花は少しだけ緊張した。
自分から具体的な時期を提案するのは、まだ少し照れくさい。
けれど、悠真も一緒に歩きたいと言ってくれている。
だからこそ、自分の気持ちもちゃんと伝えたいと思った。
しばらくして、返信が届いた。
『こんにちは、彩花さん。俺もそのくらいの時期に行けたら嬉しいな。来週の予定を確認してから、改めて相談してもいい?』
彩花は安心したように微笑んだ。
『もちろん。私も学校の予定を確認しておくね。寒くなってきたから、お天気も見ながら決めよう』
『うん。無理のない日にしよう。彩花さんとまた歩けるのを楽しみにしてるよ』
その言葉を読んだ瞬間、彩花の胸が少しだけ高鳴った。
悠真は、いつも自分の気持ちをまっすぐに伝えてくれる。
だから、彩花も同じように返したくなる。
『私も楽しみにしてる。悠真君と一緒なら、いつもの道でも新しい景色が見つかりそうだね』
送信すると、悠真から柔らかな返事が届いた。
『そうだね。彩花さんが見つける景色を、俺も一緒に見てみたいな』
彩花はその文章を何度か読み返した。
特別な言葉ではないのかもしれない。
けれど、自分にとっては、とても嬉しい言葉だった。
悠真は、自分が何を見て、何を感じるのかを大切にしてくれる。
そのことが、彩花には何より嬉しかった。
◇
悠真は自室で、彩花とのメッセージを終えたあと、手帳を開いていた。
来週の学校の予定と、生徒会の確認事項を見直す。
今のところ、週末に大きな予定は入っていない。
ただし、学校側から追加の連絡がある可能性もあるため、すぐに日程を確定するのではなく、週明けにもう一度確認してから相談するつもりだった。
悠真は手帳の余白へ、小さく書き込んだ。
『川沿いの散歩――彩花さんと日程相談。天気・帰宅時間確認。』
書き終えると、少しだけ笑みが浮かんだ。
以前なら、休日の予定は家族の行事や学校の仕事を中心に考えることが多かった。
けれど今は、自分から誰かと過ごしたいと思う時間がある。
その相手が彩花であることを、悠真はとても自然に感じていた。
(彩花さんと一緒に歩くと、同じ場所でも違うものが見える気がする。今度は、どんな話ができるんだろう)
悠真は手帳を閉じ、机の引き出しへ目を向けた。
そこには、彩花からもらったカードと、橙色の葉がしまわれている。
今日、練習用の葉を使ったことで、保存の準備は少し進んだ。
まだ完成には遠いが、何も決まっていなかった頃とは違う。
悠真は引き出しを開け、カードを手に取った。
淡い青色の花柄のカードには、彩花の丁寧な文字が並んでいる。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はその言葉を静かに読み返した。
何度読んでも、胸の奥が温かくなる。
彩花が自分へ伝えてくれた気持ち。
その気持ちを受け取ったときの嬉しさは、今も変わっていない。
悠真はカードを元の場所へ戻し、引き出しを閉じた。
いつか、自分も彩花へ何かを渡したい。
それは、高価なものではなくてもいい。
彩花と一緒に過ごした時間を、二人で思い出せるものにしたい。
その気持ちが、以前よりもはっきりしてきたように感じられた。
◇
夕食後、彩花は家族と一緒に居間で過ごしていた。
テレビでは旅行番組が流れており、画面には冬の始まりを迎えた街並みが映っている。
古い建物が並ぶ通りを、人々が厚手の上着を着て歩いていた。店先には温かな飲み物が並び、窓の向こうには柔らかな灯りが見える。
彩花はその景色を眺めながら、思わず小さく微笑んだ。
凛花がその様子に気づき、隣から声をかけた。
「彩花、こういう街並み好きそうだよね」
「うん。なんだか、本の中に出てきそうな場所だなって思った」
「分かる。冬の街って、ちょっと特別な雰囲気があるよね」
凛花は画面へ目を向けながら続けた。
「でも、実際に歩くなら寒そう。私は途中で温かいものを飲みたくなっちゃうな」
「ふふっ。私もそうかも」
二人が笑っていると、紗月が温かいお茶を持ってきた。
「それなら、今のうちに少し温まっておきましょうか」
「ありがとう、お母さん」
彩花はマグカップを受け取り、両手で包んだ。
指先へ伝わる温かさが心地よい。
そのとき、ふと川沿いを歩く日のことを思い浮かべた。
もし寒くなったら、途中で温かい飲み物を買ってもいいかもしれない。
以前、悠真と訪れた喫茶店のように、落ち着いた場所で少し休むのも楽しそうだ。
ただ、今度の散歩でどこへ寄るかは、まだ決めていない。
彩花はそんな想像を楽しみながら、お茶を一口飲んだ。
「彩花、今度のお散歩、日にちは決まったの?」
凛花が尋ねた。
「まだだよ。来週か、その次の週末くらいで予定を合わせられたらいいねって話したの。学校の予定もあるから、もう少し確認してから決めるつもり」
「そっか。楽しみだね」
「うん」
彩花は素直に頷いた。
その様子を見て、凛花は柔らかく微笑んだ。
妹は、以前よりも自分の気持ちを言葉にすることが増えている。
ただ待っているだけではなく、自分から一緒に行きたい場所を伝え、予定を相談するようになった。
それは小さな変化かもしれない。
けれど、凛花には、その一つ一つが彩花にとって大切な成長のように思えた。
◇
夜が深まり、彩花は自室へ戻った。
机の上には、今日書き進めた原稿と、星模様のノートが置かれている。
彩花は椅子へ座り、午前中に書いた文章をもう一度読み返した。
祖母へ手紙を書こうとする少女は、まだ最初の一行を決められていない。
けれど、何を伝えたいのかは、少しずつ見えてきている。
彩花はその状態を、今は大切にしたいと思っていた。
急いで答えを出すよりも、少女が自分の言葉を見つける時間を描きたい。
その方が、この物語には似合っている気がする。
彩花は原稿を閉じ、淡い緑色のノートを取り出した。
今日の日記を書くためだ。
『今日は、家で新しいお話の続きを考えた。』
『主人公が手紙に書きたいことを、少しずつ見つけ始めた。』
そこまで書いてから、彩花は少しだけペンを止めた。
今日のもう一つの大切な出来事。
悠真と、川沿いを歩く日について相談したことだ。
彩花は頬を緩めながら、続きを書いた。
『悠真君と、川沿いを歩く日を相談した。まだ日にちは決まっていないけれど、来週か、その次の週末くらいに行けたら嬉しい。』
書き終えたあと、少し考えてから、もう一行を加えた。
『同じ景色を見て、同じ時間を過ごせることが、今はとても楽しみ。』
彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。
以前、悠真と初めて図書館で出会った頃は、こんなふうに次の約束を楽しみにする自分を想像していなかった。
本について話すことが楽しかった。
それが少しずつ、学校のことや家族のこと、日常の小さな出来事を伝え合う時間へ広がっていった。
そして今は、一緒に歩きたい場所や、見てみたい景色まで増えている。
(悠真君と出会ってから、私の毎日には楽しみなことが増えたんだな)
彩花はそう思い、ノートを閉じた。
窓の外には、夜の青凪市の灯りが見える。
遠くの建物の窓が小さく光り、静かな街の上には暗い空が広がっていた。
彩花はその景色を眺めながら、まだ決まっていない散歩の日を思い浮かべた。
寒い風の中を歩く二人。
葉の落ちた木々。
川面に映る冬の空。
そして、隣で穏やかに笑う悠真。
その光景を想像すると、胸の奥が温かくなった。
◇
同じ頃、悠真も自室で一日を振り返っていた。
机の上には、今日まとめた葉の保存に関するメモが置かれている。
練習用の葉は、決めた場所で状態を保ちながら乾燥させているところだ。
結果が分かるまでには、もう少し時間がかかる。
けれど、今日の作業で、これから何を確認すればいいのかは以前よりはっきりした。
悠真はメモを見直し、必要な確認事項を手帳へ書き込んだ。
それから、彩花とのメッセージをもう一度開いた。
『私も楽しみにしてる。悠真君と一緒なら、いつもの道でも新しい景色が見つかりそうだね』
その言葉を読み、悠真は静かに微笑んだ。
彩花は、何気ない景色の中から大切なものを見つけるのが上手だ。
図書館で本を選ぶときも、川沿いを歩くときも、彼女は自分が感じたことを丁寧に言葉にしてくれる。
悠真は、そんな彩花の話を聞く時間が好きだった。
そして、最近は自分も、以前より多くのことを伝えたいと思うようになっている。
今日、琴葉と庭で葉を探したこと。
祖父と、思い出を残すことについて話したこと。
練習用の葉を使って、保存の準備を始めたこと。
そのうち、贈り物に関する部分はまだ秘密にしておきたい。
けれど、それ以外にも彩花へ話したいことはたくさんある。
悠真はスマートフォンを手に取り、短いメッセージを打った。
『彩花さん、今日はどんな一日だった? 俺は家で本を読んだり、琴葉と庭を歩いたりしていたよ』
少しして、彩花から返事が届いた。
『私は新しいお話の続きを考えたり、本を読んだりしてたよ。琴葉ちゃんとお庭を歩いたんだね。楽しそう!』
悠真は笑顔で返した。
『うん。ハクも一緒だったんだけど、落ち葉の匂いを確かめたりしていて、琴葉が楽しそうに笑ってたよ』
『ふふっ、ハクらしいね。想像したら、私まで笑顔になっちゃった』
その言葉に、悠真の胸が温かくなった。
彩花はハクのことも、琴葉のことも、いつも優しく受け止めてくれる。
家族の何気ない出来事を話すだけで、こんなに嬉しくなるのは不思議だった。
『彩花さんのお話も、少し進んだんだね』
『うん。まだ考えてる途中だけど、主人公の気持ちが前より分かってきた気がするんだ』
『そうなんだ。彩花さんが大切に考えている物語だから、きっと少しずつ形になっていくんだろうね』
彩花から、少し間を置いて返事が届いた。
『ありがとう。完成したら、最初に悠真君に読んでもらいたいっていう気持ちは変わってないよ』
悠真はその文章を読み、しばらく画面を見つめた。
以前、彩花は新しい物語が完成したら最初に読んでほしいと言ってくれた。
その約束を、今も大切にしてくれている。
悠真は嬉しさを噛みしめながら、ゆっくりと返事を打った。
『ありがとう、彩花さん。楽しみにしてるよ。でも、急がなくていいからね。彩花さんが納得できるまで、ゆっくり書いてほしい』
『うん。ありがとう。悠真君にそう言ってもらえると、安心するよ』
悠真はその言葉に微笑み、スマートフォンをそっと置いた。
彩花がどんな物語を書いているのか、詳しいことはまだ知らない。
けれど、彼女が大切に考えていることは伝わってくる。
完成したとき、最初に読ませてもらえる。
その日が来るのを、悠真は心から楽しみにしていた。
◇
彩花は最後のメッセージを読み返したあと、スマートフォンを机へ置いた。
悠真は、いつも急がなくていいと言ってくれる。
その言葉は、彩花にとって大きな安心になっていた。
物語を書くときも、誰かへ気持ちを伝えるときも、自分の中で言葉が形になるまでには時間がかかる。
けれど、悠真はその時間を大切にしてくれる。
だからこそ、彩花も彼へ伝えたいことを、少しずつ自分の言葉にしていきたいと思っていた。
机の上の星模様のノートへ目を向ける。
祖母へ手紙を書こうとする少女も、きっと同じなのかもしれない。
大切な相手へ伝える言葉だからこそ、すぐには決められない。
けれど、迷っている時間も、相手を思う時間の一つなのだ。
彩花はそんなことを考えながら、明かりを少し落とした。
窓の向こうでは、冷たい風が木々の枝を揺らしている。
冬へ向かう街は、少しずつ姿を変えていた。
けれど、季節が変わっても、二人の間に積み重なってきた時間は消えない。
初めて図書館で言葉を交わした日。
一緒に本を探した日。
川沿いを歩き、落ち葉を眺めた日。
文房具店で、それぞれが気に入ったものを選んだ日。
そして、また同じ道を歩こうと話した今日。
その一つ一つが、彩花と悠真にとって大切な思い出になっている。
まだ日程の決まっていない散歩も、これから書き終える物語も、形を探している贈り物も、すべてはこれからの時間の中にある。
だからこそ、楽しみだった。
彩花は布団へ入り、目を閉じた。
明日は日曜日。
まだ知らない新しい一日が、静かに待っている。
そして、その先には、悠真と一緒に歩く冬の始まりがある。
彩花はその日を楽しみに思いながら、穏やかな眠りへ落ちていった。




