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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第94話 君に見せたい、冬の始まり


 金曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。


 昨日のような澄んだ青空ではなく、空全体が柔らかな灰色に覆われている。カーテンの隙間から差し込む光も控えめで、いつもなら明るく見える机の上には、まだ夜の名残のような淡い影が落ちていた。


 彩花は布団の中から時計を確かめ、ゆっくりと体を起こした。


 今日は金曜日。今週最後の授業があり、放課後には文芸部の活動が予定されている。


 昨日、顧問の先生は冬の部誌について、印刷用データと印刷条件を引き続き確認すると話していた。正式な完成の知らせが届くかどうかは分からないが、今週中に最終確認を進めるという予定は変わっていない。


(今日、何か分かるかな。でも、まだ決まっていないこともあるし、先輩たちの話をちゃんと聞いてから考えよう)


 彩花はそんなことを思いながら、ベッドを降りた。


 制服に着替え、髪を整えてから机の前へ向かう。教科書と筆箱を鞄へ入れたあと、星模様のノートを手に取った。


 昨夜、新しい物語について書き加えた一文が気になっていたのだ。


『主人公は、特別な言葉を探す前に、祖母へ話したかった小さな出来事を思い出す。』


 彩花はその文章を読み返し、少しだけ考え込んだ。


 祖母が遠くへ引っ越す少女は、手紙を書きたいと思っている。それなのに、伝えたいことが多すぎて、何から書けばいいのか分からなくなっている。


 その気持ちは、彩花にも少し理解できる気がした。


 大切な相手だからこそ、何でもないことを書いていいのか迷ってしまう。もっと特別な言葉を選ばなければならないような気がして、かえって最初の一行が遠くなる。


 けれど、祖母にとっては、孫が今日どんなことをして、何を見て、何を感じたのかを知ること自体が嬉しいのかもしれない。


(離れるからって、急に立派な言葉を使わなくてもいいんだよね。今までと同じように話したいっていう気持ちも、大切にしていいんだと思う)


 彩花はノートの余白に小さく印を付けた。


 今すぐ本文を書き進める時間はない。それでも、今日のうちにもう一度考えてみたいところが見つかった。


 ノートを鞄へしまい、彩花は部屋を出た。


 一階へ降りると、台所から焼いたパンの香りが漂ってきた。


「おはよう、彩花。今日は少し寒そうね」


 母の紗月が食卓へ皿を並べながら声をかけた。


「おはよう、お母さん。うん、空も曇ってたよ。雨は降ってなさそうだったけど」


「天気予報だと、夕方までは大きく崩れないみたい。でも、風が冷たいらしいから、マフラーを忘れないようにね」


 彩花が頷いて席に着くと、父の耕助が新聞から顔を上げた。


「今日は文芸部があるんだったな。昨日、確認が進んだって話していたけど、そろそろ仕上がりそうなのか?」


「うん。昨日までに見つかった間違いは直ってたよ。ただ、先生が印刷用のデータをもう一度確認するって。部数とか、どうやって配るかもまだ決まってないんだ」


「なるほど。印刷するとなると、文章以外にも考えることが多いんだな」


 耕助は感心したように頷き、コーヒーカップを手に取った。


「でも、ここまで来たなら楽しみだな。完成したら、まずは彩花自身が喜べるといい」


 父の言葉に、彩花は思わず笑顔になった。


「うん。私も、みんなと一緒に完成を喜びたいなって思ってる」


 そのとき、階段から凛花が降りてきた。


「おはよう。あ、部誌の話してる?」


「おはよう、お姉ちゃん。そうだよ。まだ完成はしてないけどね」


 凛花は彩花の隣へ座り、紗月が用意した朝食を受け取った。


「完成してなくても、ずいぶん近づいてるんでしょ? 彩花、最近すごく楽しそうだもの」


「そうかな?」


「そうだよ。部誌の話をするとき、ちょっと声が明るくなるんだから」


 彩花は少し照れながら、パンへ手を伸ばした。


 自分では意識していなかったが、家族にはそんなふうに見えているらしい。


「だって、みんなで作ってるのが楽しいんだもん。自分の作品が載るのも嬉しいけど、ほかの人の作品も一緒に読めるし」


「それなら、完成したときはもっと嬉しいだろうね」


 凛花はそう言って笑い、少しだけ表情を柔らかくした。


「でも、最後の確認って疲れることもあるだろうから、無理しすぎないでね。好きなことでも、ずっと集中してると疲れちゃうし」


「うん。昨日も途中で休憩したよ。みんなで少し話したら、また落ち着いて確認できたんだ」


 その返事を聞き、凛花は安心したように頷いた。


 食卓ではそのあと、週末の予定や夕食の話へ自然に話題が移っていった。


 彩花は家族の会話に加わりながら、ふと窓の外へ目を向けた。


 灰色の空の下で、庭の木が風に揺れている。


 冬が近づいているのだと、改めて感じた。


     ◇


 青葉高校へ到着した頃には、朝の雲が少し薄くなっていた。


 校舎の窓から差し込む光は弱かったが、廊下には登校してきた生徒たちの声が響き、教室もいつもどおり賑やかだった。


 彩花が席に着くと、田辺大地が教科書を片づけながら声をかけてきた。


「水瀬、おはよう。昨日の部誌の確認、どうだった?」


「おはよう、田辺君。昨日までに見つかった間違いは直ってたよ。先生も確認してくれてるから、あとは連絡を待つことになると思う」


「そっか。順調そうでよかったな」


 大地は笑ってから、少し困ったように肩をすくめた。


「妹には、まだ配布のことは決まってないって伝えてあるんだけどさ。今朝も『楽しみだね』って言われたよ。俺が作ってるわけじゃないのにな」


「ふふっ。田辺君も楽しみにしてくれてるってことじゃない?」


「まあ、そうだな。水瀬の作品も気になるし、ほかの文芸部の人がどんなものを書いてるのかも知りたい」


 大地はそこで少し考え、言葉を続けた。


「でも、もし学校の外に配れないってなっても気にしないでくれよ。妹も、読めたら嬉しいって言ってるだけだから」


 彩花はその気遣いが嬉しくて、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。ちゃんと決まったら伝えるね」


「うん。それで十分だよ」


 大地は頷き、机の上へ数学のノートを広げた。


「ところでさ、昨日の宿題なんだけど、最後の問題の考え方が合ってるか、あとで見てもらってもいい?」


「もちろん。朝のうちに少し時間があるから、今でも大丈夫だよ」


 彩花が答えると、大地は安心したように笑った。


 ノートを見せてもらうと、以前よりも途中式が丁寧に書かれていた。考え方も大きく間違っておらず、最後の計算で符号を一つ取り違えているだけだった。


「ここまでは合ってるよ。最後に移項したところだけ、もう一度確認してみて」


 彩花が指先で該当する行を示すと、大地はしばらく式を見つめた。


「あ、本当だ。ここ、符号を変えるの忘れてる」


「うん。でも、途中まではちゃんとできてるから、そこに気づければ大丈夫だと思う」


「よかった。前だったら、どこから間違えたのかも分からなかったからな」


 大地は少し照れくさそうに笑い、消しゴムで最後の行を直した。


 彩花はその様子を見ながら、教えることもまた、相手へ何かを伝えるための工夫なのだと感じていた。


 文章を書くこととは違うが、分かりやすい順番を考えるところには、どこか似た部分がある。


 自分が理解していることを、そのまま相手も理解できるとは限らない。


 だからこそ、相手の様子を見ながら言葉を選ぶ必要がある。


 彩花はそんなことを考えながら、始業前の短い時間を過ごした。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が朝の教室で手帳を開いていた。


 今日の授業予定と生徒会の連絡事項を確認し、必要な資料が揃っているかを確かめる。


 今週の生徒会の仕事は大きな問題もなく進んでおり、昨日までに整理した書類も担当の先生へ提出できていた。


 そのため、今日の放課後は短い確認だけで終わる見込みだった。


「九条、おはよう。朝から手帳見てると、いかにも生徒会って感じだな」


 隣から声をかけたのは森川航平だった。


「おはよう、森川。今日は連絡事項が少ないから、先に確認しておこうと思って」


「なるほど。俺だったら、朝からそこまできっちり確認しないかもしれないな」


 航平は笑いながら席へ着き、鞄から教科書を取り出した。


 悠真は手帳を閉じ、友人へ顔を向けた。


「昨日はありがとう。琴葉とも少し話して、葉を飾る形にすることも考え始めたよ」


「へえ、妹さんも手伝ってくれてるんだ」


「うん。保存用の紙について調べてくれたんだ。俺が思いつかなかったことも話してくれて、助かったよ」


 航平は感心したように頷いた。


「いい妹さんだな。それにしても九条、ずいぶん真剣に考えてるよな」


 悠真はその言葉に少しだけ目を瞬かせた。


「そうかな?」


「そうだろ。葉っぱを一枚残しておくってだけなら、そこまで調べないと思うぞ。形を決める前に材料のことまで考えてるんだから」


 航平はからかうような口調ではなく、純粋に感心した様子だった。


 悠真は少し考えてから、穏やかに答えた。


「彩花さんと一緒に歩いたときの葉だからね。できれば、ちゃんと残したいんだ」


「そっか」


 航平は短く頷き、それから少し笑った。


「九条らしいな。でも、あんまり完璧にしようとしすぎるなよ。相手に渡すものって、出来栄えだけで決まるわけじゃないだろうし」


 悠真はその言葉を聞き、少しだけ考え込んだ。


 確かに、保存方法を調べ始めてから、傷まないことや形を綺麗に残すことばかり気にしていた。


 もちろん、それらは大切だ。


 けれど、最初に葉を残したいと思った理由は、もっと単純なものだった。


 彩花と一緒に歩いた川沿いの景色が綺麗だったから。


 その時間を、忘れたくなかったから。


(形を整えることばかり考えて、最初の気持ちを忘れないようにしないとな)


 悠真はそう思い、航平へ微笑んだ。


「ありがとう。そうだね。ちゃんと考えながら、俺が渡したいと思えるものにするよ」


「うん。それがいいと思う」


 航平は満足そうに頷き、机の上の教科書を開いた。


 その後、話題は今日の授業へ移ったが、悠真の胸には友人の言葉が静かに残っていた。


     ◇


 昼休み、彩花は教室で昼食を終えたあと、星模様のノートを開いていた。


 午前中の授業で扱った文章の読み取り方が、少し気になっていたのだ。


 国語の授業では、登場人物が何を考えているかを、台詞だけでなく行動や周囲の描写から読み取る練習をした。


 その中で先生が、同じ行動でも、それまでの経験や相手との関係によって意味が変わることがあると説明していた。


 彩花はその話を聞き、自分が考えている新しい物語の少女を思い出した。


 祖母へ手紙を書こうとしている少女。


 机の上には便箋がある。


 けれど、なかなか書き始められない。


 その行動だけを見れば、何を書けばいいか分からないように見えるだろう。


 しかし、少女にとっては、伝えたいことが多すぎるからこそ、最初の言葉を選べないのかもしれない。


 彩花はノートへ小さく書き込んだ。


『便箋を選ぶ場面では、祖母の好みだけでなく、主人公自身が見せたい気持ちも描く。』


 以前、佐々木先輩からも、紙を選ぶ理由に人物の気持ちが表れると教えてもらった。


 その助言を思い出しながら、彩花は少しだけ考えた。


 少女が選ぶ便箋は、まだ決まっていない。


 祖母と一緒に育てた花を思い出すような柄もいいかもしれないし、手紙の中身を大切にしたいから、あえて飾りの少ないものを選ぶかもしれない。


 どちらにしても、少女自身が納得して選ぶことが大切なのだろう。


(私も、この子がどうしてその便箋を選ぶのか、ちゃんと考えてあげたいな)


 彩花はそう思い、ノートを閉じかけた。


 そのとき、近くの席にいた女子生徒が声をかけてきた。


「水瀬さん、それって新しいお話のノート?」


 彩花は顔を上げ、少し照れながら頷いた。


「うん。まだ考えている途中なんだけど、思いついたことを書き留めてるんだ」


「すごいね。私、何かを書こうとしても、最初のところで止まっちゃうことが多いから、そんなふうに考えられるのって羨ましいな」


 女子生徒はそう言って笑った。


 彩花は少し考えてから、穏やかに答えた。


「私も、最初から全部決められるわけじゃないよ。書き始めてから迷うこともあるし、何日も同じところを考えることもあるんだ」


「そうなんだ。水瀬さんって、もっとすらすら書いてるのかと思ってた」


「ううん。むしろ、考えてる時間の方が長いかもしれない」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 女子生徒は少し安心したように表情を緩めた。


「それなら、私も短いものから書いてみようかな。別に誰かに見せるわけじゃないし」


「うん。自分が書きたいと思ったことから始めてもいいと思うよ」


 彩花が答えると、女子生徒は嬉しそうに頷いた。


 そのやり取りのあと、彩花はもう一度ノートへ目を向けた。


 物語を書くことは、特別な才能がある人だけのものではない。


 何かを伝えたいと思ったとき、その気持ちを少しずつ言葉にしていくことも、書くことの一つなのだろう。


 彩花はそんなことを思いながら、午後の授業へ向けてノートを鞄へしまった。


     ◇


 放課後の文芸部室には、いつもより少し落ち着かない空気が漂っていた。


 机の上には冬の部誌の確認用資料がまとめられているが、昨日までのように部員全員が紙を広げて作業しているわけではない。


 佐々木先輩は顧問の先生からの連絡を待っており、ほかの部員たちはそれぞれ原稿を読んだり、次に書きたい作品について話したりしていた。


 彩花が部室へ入ると、佐々木先輩が顔を上げた。


「こんにちは、水瀬さん。今日は大きな確認作業はない予定よ。先生から連絡が来たら、みんなに説明することになっているの」


「こんにちは。分かりました。それまでは、自分の原稿を見ていても大丈夫ですか?」


「もちろん。冬の部誌とは別の作品を考えている人もいるし、自由に使ってね」


 彩花は頷き、いつもの席へ向かった。


 窓際の机には柔らかな光が差し込み、外では校庭の木々が風に揺れている。葉の落ちた枝が空へ伸びている様子は、部誌の表紙に描かれた景色と少し似ていた。


 彩花は星模様のノートを開き、新しい物語の冒頭を読み返した。


 少女が机の前に座り、白い便箋を見つめている。


 窓の向こうには、祖母と一緒に世話をしてきた庭がある。


 書き始めたときは、少女が手紙を書けずにいる理由を、うまく表現できているか自信がなかった。


 けれど、何度か読み返しているうちに、少しずつ足りないものが見えてきた。


 少女は、祖母が遠くへ引っ越すことを悲しんでいる。


 しかし、悲しいだけではないはずだ。


 これまで一緒に過ごしてきた時間を思い出せば、嬉しいことも、楽しかったこともある。


 そして、離れてからも関係が続いてほしいと願っている。


 その気持ちを、最初から全部説明する必要はない。


 手紙を書こうとする行動の中で、少しずつ伝わるようにしたい。


 彩花はノートの余白へ、今日考えたことを書き加えた。


『主人公は、祖母に会えなくなることだけを考えているのではない。これからも話したいことがあるから、手紙を書こうとしている。』


 書き終えると、少しだけ肩の力が抜けた。


 そのとき、向かい側に座っていた部員が声をかけた。


「水瀬さん、何か思いついた?」


「うん。まだ小さなことなんだけど、主人公がどうして手紙を書こうとしているのか、少し分かった気がするんだ」


「いいね。そういうのって、急に見えてくることがあるよね」


 彩花は頷いた。


「うん。前から考えていたことなのに、別の話をしているときに気づくこともあるんだなって」


 部員は笑顔で頷き、自分のノートへ視線を戻した。


 彩花も再び原稿へ向き合ったが、そのとき部室の扉が開いた。


 顧問の先生が、薄い書類の束を手に入ってきたのだ。


「みんな、少しいいかな。冬の部誌について、今の確認状況を伝えておきたい」


 その声に、部員たちが一斉に顔を上げた。


     ◇


 先生は机の前へ立ち、持ってきた書類を佐々木先輩へ渡した。


「昨日までに指摘された本文と目次の修正については、こちらでも確認した。大きな問題は見つからなかったよ」


 その言葉を聞き、部室のあちこちから安堵の声が漏れた。


 彩花も胸の奥が温かくなるのを感じた。


 何度も確認してきた作業が、ひとまず先生の確認を通ったのだ。


 ただし、先生は続けて説明した。


「印刷用のデータについては、表紙の色と仕上がりの確認がもう少し必要だ。印刷をお願いするところからも確認事項が届いているから、週明けにこちらで調整する予定になっている」


 佐々木先輩が頷いた。


「では、本文の修正はひとまず終わりで、表紙と印刷条件の確認が残っているということでしょうか」


「そう考えていい。ただし、最終データとして確定する前に、全体をもう一度確認する必要はある。今の段階で完成と発表するのは待ってほしい」


「分かりました」


 先生は部員たちへ視線を向けた。


「部数や配布方法についても、まだ学校側の確認が終わっていない。みんなの家族や友人が楽しみにしてくれているかもしれないけれど、渡せるかどうかは正式に決まってから伝えてほしい」


 彩花はその言葉を聞き、静かに頷いた。


 大地の妹や、悠真、家族。


 部誌を楽しみにしてくれている人たちの顔が浮かぶ。


 だからこそ、曖昧なことを約束しないようにしたいと思った。


 先生は少し表情を柔らかくした。


「でも、ここまでの作業はとても丁寧だった。特に、作者本人へ確認しながら表記を揃えてくれたことはよかったと思う。文章は書いた人のものだから、こちらの判断だけで変えてはいけない部分もあるからね」


 佐々木先輩はその言葉に頷いた。


「はい。今回、みんなで確認する中で、そこは特に気をつけました」


「その姿勢は、これから作品を作るときにも大切にしてほしい」


 先生はそう言って微笑み、残りの確認事項を簡単に説明した。


 週明けに印刷条件の調整を進めること。


 必要な修正があれば部員へ連絡すること。


 そして、正式な完成や配布については、決定してから改めて案内すること。


 説明を終えると、先生は書類をまとめ、部室を出ていった。


 扉が閉まったあと、部員たちは顔を見合わせた。


「本文の確認が進んでよかったね」


「うん。でも、まだ最後の作業が残ってるんだね」


「表紙、綺麗に仕上がるといいな」


 そんな声が自然に広がる。


 彩花は机の上に置かれた表紙案へ目を向けた。


 灰色の背景に、窓と葉の落ちた枝。


 その落ち着いた景色を見ていると、完成した部誌を手に取る瞬間が、少しだけ近づいたように感じられた。


 けれど、今はまだ想像の中にある一冊だ。


 彩花はそのことを忘れないようにしながら、静かに微笑んだ。


     ◇


 先生が帰ったあと、佐々木先輩は部員たちへ向き直った。


「今日はもう大きな確認作業はないから、残りの時間は自由に使いましょう。来週、先生から連絡があったら、必要に応じてまた協力してもらうことになると思うわ」


 部員たちは頷き、それぞれの席へ戻った。


 彩花もノートを開き直したが、すぐに佐々木先輩が近くへやってきた。


「水瀬さん、少しいい?」


「はい、もちろんです」


 佐々木先輩は彩花の向かい側へ腰を下ろし、机の上の星模様のノートへ目を向けた。


「新しいお話、少し進んだ?」


「はい。まだ本文はあまり増えていないんですけど、主人公が手紙を書こうとする理由を、前より考えられるようになった気がします」


「そうなのね。よかったら、どんなふうに考えたのか聞いてもいい?」


 彩花は頷き、ノートのメモを確かめた。


「主人公は、おばあちゃんが遠くへ引っ越すから手紙を書こうとしているんです。でも、寂しいから何かを伝えたいだけじゃなくて、離れてからも今までみたいに話したいことがあるんじゃないかなって思ったんです」


 佐々木先輩は静かに耳を傾けていた。


 彩花は少し考えながら続けた。


「だから、最初から立派な言葉を書こうとしなくてもいいのかなって。おばあちゃんと一緒に育てた花のこととか、今日見つけた小さな出来事とか、そういうことから書き始めてもいいのかもしれません」


 佐々木先輩はしばらく考え、穏やかに微笑んだ。


「いいと思うわ。離れる相手へ何かを伝えるときって、どうしても特別な言葉を選びたくなるものだけど、普段どおりの話をしたいっていう気持ちも大切よね」


「はい。私も、そう思いました」


「それに、主人公がおばあさんとどんな時間を過ごしてきたのかが分かれば、手紙を書く場面にも自然と意味が出てくると思う」


 彩花はその言葉を聞き、少しだけ目を見開いた。


 祖母との思い出は、庭の花や古い写真として考えていた。


 けれど、それらを単なる説明として入れるのではなく、少女が今、何を書こうとしているかと結びつければいいのかもしれない。


「ありがとうございます。思い出を入れる場所も、もう少し考えてみます」


「うん。ただ、全部を最初に説明しなくてもいいと思うわ。主人公が手紙を書こうとする中で、少しずつ思い出していく形でも自然だし」


 佐々木先輩はそこで少し笑った。


「私も、書いている途中で最初の予定が変わることはよくあるから。水瀬さんも、今の段階で全部決めようとしなくていいと思う」


 彩花はその言葉に安心した。


 物語を考えていると、早く形にしなければならないような気持ちになることがある。


 けれど、まだ主人公の気持ちを探している途中なのだ。


 焦って答えを決めるよりも、少女がどんな言葉を選ぶのか、丁寧に考えていきたい。


「はい。もう少し、主人公と一緒に考えてみます」


 彩花が答えると、佐々木先輩は嬉しそうに頷いた。


「楽しみにしてるわ。でも、まずは水瀬さん自身が書いていて楽しいと思えることを大切にしてね」


 その言葉は、彩花の胸へ静かに残った。


     ◇


 部活動を終えた頃には、外の空が夕方の色へ変わり始めていた。


 曇り空の隙間から淡い光が差し込み、校舎の壁を柔らかく照らしている。校門へ向かう生徒たちの声が重なり、遠くでは運動部の掛け声が聞こえていた。


 彩花は鞄を肩へ掛け直し、ゆっくりと歩き始めた。


 今日は部誌の本文確認が大きく進んだ。


 正式な完成ではないけれど、先生から大きな問題は見つからなかったと聞けたことが嬉しかった。


 それに、新しい物語についても佐々木先輩と話すことができた。


 祖母へ手紙を書こうとする少女が、少しずつ自分の中で動き始めている。


(今日は、いろんなことが進んだ日だったな)


 彩花はそう思いながら、校門を出た。


 歩道の脇には落ち葉が集まり、風が吹くたびに乾いた音を立てている。木々の枝は以前よりも細く見え、空の広さが少し増したようだった。


 彩花はその景色を眺めながら、悠真と歩いた川沿いを思い出した。


 あのときは、まだ枝にたくさんの葉が残っていた。


 今はきっと、もっと冬らしい景色になっているのだろう。


 同じ場所でも、季節が変われば見えるものが違う。


 それなら、もう一度一緒に歩いてみたい。


 そんな気持ちが、彩花の胸に自然と浮かんだ。


(悠真君と、また川沿いを歩きたいな。今度はどんな景色が見えるんだろう)


 彩花は少しだけ頬を緩めた。


 まだ具体的な約束はしていない。


 けれど、いつか一緒に歩けたら嬉しいと思う場所が、少しずつ増えている。


 それは彩花にとって、以前にはなかった変化だった。


     ◇


 桜華学園では、悠真が生徒会室で最後の確認を終えていた。


 今週分の資料は整理され、必要な連絡も担当者へ伝わっている。週明けに確認する事項はいくつか残っていたが、今日中に対応しなければならない問題はなかった。


 悠真は机の上の書類を揃え、手帳へ簡単なメモを書き込んだ。


 すると、隣で鞄を持ち上げていた航平が声をかけてきた。


「九条、今日はもう帰れそうか?」


「うん。確認は終わったから、俺もそろそろ帰るよ」


「そっか。じゃあ、途中まで一緒に行こうぜ」


 二人は生徒会室を出て、廊下を並んで歩き始めた。


 窓の外には灰色の雲が広がり、校庭では部活動を終えた生徒たちが片づけをしている。


「そういえば九条、週末は何か予定あるのか?」


 航平が尋ねた。


「今のところ、大きな予定はないよ。家で少し本を読もうと思ってる」


「例の葉っぱのことも調べるのか?」


「うん。今日借りている本をもう少し読んで、練習用の葉で試せそうなことがないか考えるつもり」


 航平は笑いながら頷いた。


「本当に真面目だな。でも、九条がそこまで考えてるなら、きっと納得できるものになると思うぞ」


 悠真はその言葉に少し照れながら、穏やかに笑った。


「ありがとう。ただ、まだ分からないことも多いから、急いで作ろうとは思ってないよ」


「うん。それでいいんじゃないか?」


 航平はそう言ってから、少しだけ表情を変えた。


「それにしても、九条って最近、前より自分のやりたいことを話すようになったよな」


 悠真は思わず友人へ顔を向けた。


「そうかな?」


「そうだよ。前は何か予定を聞いても、家のこととか生徒会のことが先に出てくることが多かったけど、最近は本のこととか、散歩のこととか、自分が楽しかったことを話してくれるだろ」


 悠真は少し考え込んだ。


 確かに、以前は自分の予定を考えるとき、先にやるべきことを整理する癖があった。


 それは今も変わっていない。


 けれど、最近はそれだけではなくなっている。


 彩花と一緒に本を探したい。


 川沿いを歩きたい。


 まだ知らない景色を見てみたい。


 そんな気持ちを、以前より自然に考えるようになった。


「そう言われると、少し変わったのかもしれないね」


 悠真が答えると、航平は満足そうに笑った。


「いい変化だと思うぞ。九条が楽しそうにしてると、こっちも安心するし」


 その言葉に、悠真は胸の奥が温かくなった。


「ありがとう、森川。そう言ってもらえるのは嬉しいよ」


 二人は校門を出るまで、週末の過ごし方や最近読んだ本の話を続けた。


 やがて帰る方向が分かれる場所へ着くと、航平が軽く手を上げた。


「じゃあ、また来週な」


「うん。また来週」


 悠真は友人を見送り、駅へ向かって歩き始めた。


 冷たい風が頬を撫でたが、不思議と気持ちは穏やかだった。


     ◇


 水瀬家では、夕食の準備が進んでいた。


 彩花が帰宅すると、台所から温かな煮込み料理の香りが漂ってきた。外の冷たい空気から家の中へ入った途端、肩の力が自然に抜ける。


「ただいま」


「おかえり、彩花。今日は寒かったでしょう」


 紗月が台所から顔を出した。


「うん。でも、帰りは風が少し弱くなってたよ」


 彩花は手を洗い、鞄を部屋へ置いてから食卓へ戻った。


 凛花はすでに帰宅しており、ソファに座って本を読んでいた。


「彩花、おかえり。部誌の方はどうだった?」


 姉が本から顔を上げる。


 彩花は椅子へ座りながら、今日の先生の説明を伝えた。


「本文の修正は、先生が確認してくれて、大きな問題はなかったんだって。ただ、表紙の色とか印刷の条件は、来週もう少し確認するみたい」


「そっか。じゃあ、あと少しなんだね」


「うん。でも、まだ完成って決まったわけじゃないから、そこはちゃんと待とうと思ってる」


 凛花はその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。


「彩花、そういうところもしっかりしてきたね」


「えっ、そうかな?」


「うん。楽しみなことがあると、つい先のことまで考えちゃうけど、今分かってることをちゃんと大切にしてる感じがする」


 彩花は少し照れながら笑った。


 以前なら、完成が近いと聞いただけで、すぐに家族へ見せられるものだと思っていたかもしれない。


 けれど今は、一冊を作るために必要な確認がたくさんあることを知っている。


 そして、その作業を丁寧に進めることも、作品を大切にすることなのだと分かってきた。


「みんなで頑張って作ってるから、最後までちゃんと確認したいんだ」


 彩花がそう答えると、凛花は優しく頷いた。


「うん。それが一番いいと思うよ」


 夕食の時間になると、耕助も帰宅し、家族四人で食卓を囲んだ。


 温かな料理を食べながら、彩花は今日の文芸部で先生が話してくれたことを伝えた。


 父も母も、完成を急かすことなく、ここまでの作業を労ってくれた。


 そのことが、彩花には何より嬉しかった。


     ◇


 九条家では、夕食後の居間に穏やかな時間が流れていた。


 琴葉はソファの端で本を読み、麗華はテーブルの上に置かれた書類へ目を通している。ハクは足元の敷物の上でくつろぎ、ときどき耳を動かして家族の声へ反応していた。


 悠真は借りてきた植物の本を手に、居間の椅子へ腰を下ろしていた。


 しばらくページをめくっていると、麗華が顔を上げた。


「悠真、その本は昨日話していた葉の保存について調べているの?」


「はい。学校の図書室で借りてきました。基本的なことは分かってきたんですが、実際に何かを作るなら、もう少し調べた方がよさそうで」


 麗華は穏やかに頷いた。


「そうね。自然のものは、時間が経つと状態が変わることもあるもの。大切な葉なら、すぐに加工せず、よく確かめてからの方が安心でしょうね」


 琴葉も本から顔を上げた。


「お兄様、しおりと飾るもの、どちらにするか決めた?」


「まだ考えているところだよ。どちらにもいいところがあるから」


 悠真が答えると、琴葉は少し笑った。


「そうよね。でも、お兄様が大切にしているのは、葉っぱそのものだけじゃなくて、そのときの思い出なんでしょう?」


 悠真はその言葉に、少しだけ目を見開いた。


 琴葉は続けた。


「だったら、形が決まるまでの時間も、そんなに悪くないんじゃないかしら。お兄様、調べているときも楽しそうだもの」


 麗華は娘の言葉を聞き、静かに微笑んだ。


「琴葉の言うとおりかもしれないわね。贈り物を考える時間も、相手を思う時間の一つだもの」


 悠真は二人の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 彩花へ何かを渡したい。


 その気持ちは変わっていない。


 けれど、今すぐ形にしなければならないわけではない。


 葉を残す方法を調べ、どんなものにするか考え、少しずつ準備を進めていく。


 その時間も、自分にとって大切なものになっている。


「ありがとうございます。もう少し、納得できる形を探してみます」


 悠真が答えると、麗華は優しく微笑んだ。


「ええ。焦らずに考えなさい」


 そのあと、琴葉はハクの背中を撫でながら、最近読んでいる本の話を始めた。


 悠真もその会話に加わり、家族と穏やかな夜を過ごした。


     ◇


 夜、自室へ戻った彩花は、机の上にスマートフォンを置いた。


 今日の文芸部のことを悠真へ伝えたいと思っていたが、まずは鞄から星模様のノートを取り出した。


 佐々木先輩と話した内容を忘れないうちに、少しだけ整理しておきたかったのだ。


 少女が祖母へ手紙を書く物語。


 祖母と一緒に育てた花。


 古い写真。


 そして、離れてからも続いていく約束。


 彩花はこれまでのメモを読み返し、今日考えたことを新しく書き加えた。


『主人公は、離れる前に全部を伝えようとしなくてもいい。手紙を書くことで、これからも話し続けられると気づいていく。』


 書き終えると、彩花は少しだけペンを止めた。


 自分が考えている物語の少女は、まだ最初の一行を書けていない。


 けれど、何を伝えたいのかは、少しずつ見えてきている。


 それは彩花自身が、誰かへ気持ちを伝えることについて考えている時間とも、どこか重なっていた。


 悠真へ話したいことは、最近ますます増えている。


 学校であったこと。


 文芸部で感じたこと。


 読んだ本の感想。


 そして、一緒に見てみたい景色。


 以前なら、こんなにたくさんのことを誰かへ伝えたいと思う自分に、少し驚いていたかもしれない。


 けれど今は、その気持ちが自然なものになっていた。


(悠真君と話す時間が好きだから、きっと、何でもないことも伝えたくなるんだよね)


 彩花はそう思い、少しだけ頬を赤くした。


 ノートを閉じたところで、スマートフォンが震えた。


 画面には悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日の文芸部はどうだった? 先生から何か連絡はあったかな』


 彩花は自然に笑顔になった。


『こんばんは、悠真君。今日は先生からお話があったよ。本文の修正は大きな問題がなかったんだって。でも、表紙の色や印刷の条件は来週もう少し確認するみたい』


 少しして、返事が届いた。


『そうなんだ。本文の確認が進んでよかったね。みんなで丁寧に作ってきたことが、少しずつ形になっているんだね』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなった。


『うん。まだ完成じゃないけど、先生からそう言ってもらえて嬉しかったよ』


『彩花さんが嬉しそうで、俺も嬉しいよ。完成したときは、きっと今までの作業のことも思い出すんだろうね』


 彩花はその言葉に、少しだけ目を細めた。


 確かに、完成した部誌を手に取るときには、今までの時間を思い出すだろう。


 作品を書いた日。


 先輩たちと話し合った日。


 目次やページ番号を確認した日。


 そして、今日のように、少しずつ完成へ近づいていることを喜んだ日。


 その全部が、一冊の本につながっている。


『そうだね。きっと、部誌を見るたびに思い出すと思う。みんなで作った時間も、私にとって大切な思い出になったよ』


 彩花が送ると、悠真からすぐに返事が届いた。


『素敵だね。彩花さんが大切にしているものが、また一つ増えたんだね』


 その言葉を読んだとき、彩花は思わずスマートフォンを胸元へ近づけた。


 悠真は、いつも自分の気持ちを丁寧に受け止めてくれる。


 それが嬉しくて、少し恥ずかしくて、けれどもっと話したくなる。


 彩花は深呼吸を一つしてから、返事を打った。


『うん。悠真君と一緒に見た景色も、私の大切な思い出だよ』


 送信したあと、彩花はしばらく画面を見つめた。


 言葉にしてから、少しだけ胸が高鳴った。


 けれど、取り消したいとは思わなかった。


 自分が本当に感じていることだったからだ。


     ◇


 悠真は自室で、そのメッセージを読んでいた。


『悠真君と一緒に見た景色も、私の大切な思い出だよ』


 画面に並んだ言葉を見つめているうちに、胸の奥が静かに温かくなった。


 彩花が、あの日の景色を大切に思ってくれている。


 それは悠真にとって、何より嬉しいことだった。


 川沿いを歩いたとき、二人で落ち葉を眺めた。


 風に揺れる木々を見上げ、季節の変化について話した。


 その時間は、悠真にとっても忘れたくない思い出になっている。


(彩花さんも、同じ景色を大切にしてくれているんだな)


 悠真は少しだけ微笑み、返事を打った。


『俺にとっても大切な思い出だよ。彩花さんと歩いた川沿いの景色、今でもよく覚えてる』


 送信すると、彩花から返事が届いた。


『私も。最近、葉っぱが少なくなった木を見ると、あの日のことを思い出すんだ』


 悠真はその文章を読み、窓の外へ目を向けた。


 夜の庭では、風に揺れる枝が外灯の光を受けている。


 秋の景色は、少しずつ冬へ変わっている。


 それでも、同じ場所をもう一度歩けば、きっと新しい景色が見えるだろう。


 悠真は少し考えてから、メッセージを打った。


『今度、また川沿いを歩いてみない? 葉が落ちたあとの景色も、彩花さんと一緒に見てみたいな』


 送信してから、悠真は少しだけ緊張した。


 以前も一緒に出かける話はしていた。


 けれど、今回は自分から具体的な場所を提案している。


 彩花がどう思うか気になり、画面へ視線を戻した。


 しばらくして、返信が届いた。


『うん、行きたい! 私も、今の川沿いがどんな景色になってるのか気になってたんだ』


 悠真はその言葉を読み、自然に笑顔になった。


『よかった。じゃあ、またお互いの予定を確認して、行ける日を決めようか』


『うん。楽しみにしてるね』


 悠真はスマートフォンを置き、椅子の背もたれへ軽く体を預けた。


 まだ日程は決まっていない。


 けれど、また一緒に歩きたいという気持ちは、二人の間で確かに共有できた。


 それだけで、週末を迎える夜が少し特別に感じられた。


     ◇


 彩花はメッセージを終えたあと、しばらく机の前に座っていた。


 悠真から、また川沿いを歩こうと誘ってもらえた。


 しかも、彼も葉の落ちた景色を一緒に見たいと思ってくれていた。


 そのことが嬉しくて、胸の奥が落ち着かなかった。


 彩花は淡い緑色のノートを開き、今日の出来事を書き始めた。


『今日は、冬の部誌の本文確認が大きく進んだ。』


『まだ完成ではないけれど、みんなで作ってきた時間が一冊につながっているのを感じた。』


 そこまで書いてから、少しだけペンを止めた。


 次に書きたいことは、もう決まっている。


 彩花は頬を緩めながら、続きを書いた。


『悠真君と、また川沿いを歩く約束をした。』


 ただし、まだ日程は決まっていない。


 だから、正確には約束というより、一緒に行きたい場所が決まったという方が近いのかもしれない。


 彩花は少し考え、次の行へ書き加えた。


『まだ日にちは決まっていないけれど、今度は冬へ向かう景色を一緒に見られたら嬉しい。』


 書き終えると、彩花は静かに微笑んだ。


 土曜日に一緒に選んだこのノートには、少しずつ悠真との思い出が増えている。


 けれど、そこに書いているのは、ただ楽しかった出来事だけではない。


 自分が何を感じ、何を大切にしたいと思ったのか。


 その気持ちを、少しずつ言葉にしている。


 彩花は以前書いた『好きな人』という言葉を思い出し、少しだけ頬を赤くした。


 今でも、その言葉を消したいとは思わない。


 むしろ、日が経つほどに、その気持ちは自分の中で自然なものになっている。


(悠真君と、また一緒に歩けるんだ。今度はどんな話をしようかな)


 彩花はノートを閉じ、机の上へ戻した。


 窓の外では、夜の風が静かに吹いている。


 冬は、もうすぐそこまで来ている。


 けれど、その季節が近づくことを、彩花は少し楽しみに思っていた。


     ◇


 同じ夜、悠真は机の引き出しを開けていた。


 中には、彩花からもらった淡い青色の花柄カードと、橙色の葉を挟んだ紙の包みがある。


 悠真は包みを取り出し、慎重に中の状態を確かめた。


 葉はまだ形を保っている。


 ただし、自然のものだから、これからどう変化するかは分からない。


 悠真は無理に触れることなく、元のように包み直した。


 そして、今日の彩花とのメッセージを思い出した。


 また川沿いを歩きたい。


 葉の落ちた景色を、一緒に見てみたい。


 その気持ちが伝わったことが嬉しかった。


 悠真は机の上のメモへ目を向けた。


 保存方法について調べたこと。


 しおりにする案。


 小さな飾りにする案。


 まだ決まっていないことは多い。


 けれど、最初に葉を残したいと思った理由は、今も変わっていなかった。


 彩花と一緒に過ごした時間を、大切にしたい。


 そして、いつかその気持ちを形にして伝えたい。


(今度、また川沿いを歩いたら、きっと新しい思い出が増えるんだろうな)


 悠真はそう思い、静かに微笑んだ。


 贈り物のことは、まだ彩花には話していない。


 けれど、今はそれでいいと思っていた。


 完成するまでの時間も、自分にとって大切なものになっているからだ。


 悠真は引き出しを閉じ、明日の予定を手帳で確認した。


 週末には、借りた本をもう少し読み進めるつもりだ。


 そして、彩花と川沿いを歩ける日についても、改めて相談したいと思っている。


 窓の向こうでは、冷たい風が庭木の枝を揺らしていた。


 秋の名残は少しずつ薄れ、街は冬へ向かっている。


 けれど、二人が大切にしている時間は、季節が変わっても失われることなく、静かに積み重なっていた。


 まだ完成していない部誌。


 まだ書き終えていない物語。


 まだ形の決まっていない贈り物。


 そして、これから一緒に見たい景色。


 それぞれの時間が少しずつ進む中で、彩花と悠真の心にも、新しい季節への小さな期待が育ち始めていた。

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