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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第93話 最後の一枚に、みんなの名前を並べて


 木曜日の朝、青凪市には久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。


 水瀬彩花が自室のカーテンを開けると、住宅街の屋根には朝日が差し込み、向かいの家の庭木に残った黄色い葉が、光を受けて明るく見えた。昨日より風は穏やかだったが、窓ガラスに触れた指先からは冬の近づく冷たさが伝わってくる。


 彩花は机の前へ戻り、鞄に入れるものを確認した。


 教科書、筆箱、星模様の創作用ノート。それから、文芸部の作業について書き留めている小さなメモ帳。必要なものを揃えてから、机の端に置かれた淡い緑色のノートへ目を向けた。


 土曜日に悠真と一緒に選んだそのノートには、昨日も新しい思い出を書き加えている。


 秋の景色を一緒に見たこと。これから冬の景色も一緒に見られたら嬉しいと思っていること。


 書いた直後は少し恥ずかしかったけれど、今朝はその文章を思い出すだけで、穏やかな気持ちになれた。


(悠真君と歩いた川沿い、今はどんな景色になってるんだろう。葉っぱが落ちたら、向こう側までよく見えるようになるのかな)


 以前は本の中で季節を感じることが多かった。もちろん、今でも季節の描写が美しい物語は好きだが、最近は実際に歩いた道や、誰かと一緒に見た景色を思い出すことが増えている。


 彩花は鞄の口を閉じ、壁の時計を確かめた。


 今日は放課後に文芸部の活動がある。昨日の確認作業で見つかった表記の違いについて、佐々木先輩が先生に相談すると話していた。


 今週中に最終確認を終える予定なら、そろそろ先生から新しい連絡があるかもしれない。


 期待する気持ちはあったが、彩花は急いで結論を出さないようにした。まだ正式に決まっていないことを、完成したかのように考えてしまうのは避けたかった。


 それでも、今日の活動が楽しみであることは変わらない。


 彩花は鏡の前で制服の襟を整えると、朝食の待つ一階へ向かった。


     ◇


 青葉高校の一年生の教室は、朝からいつもより賑やかだった。


 廊下の掲示板に来月の学校行事に関する案内が貼られたらしく、何人かの生徒がその話をしている。窓際では日差しが机の表面を照らし、教室の後方では暖房の近くに集まった生徒たちが、寒くなってきた朝の通学について話していた。


 彩花が席に着くと、田辺大地が隣の列から顔を向けた。


「水瀬、おはよう。今日は文芸部の日だっけ?」


「おはよう、田辺君。うん、放課後に活動があるよ。部誌の確認を続ける予定なんだ」


「そっか。昨日、妹がまた部誌のことを聞いてきたんだけど、まだ決まってないって伝えたら、今度は『どんな表紙なのかな』って気にしてたよ」


 大地は少し笑いながら続けた。


「読めるかどうかも分からないのに、先に表紙まで想像してるんだから、相当楽しみにしてるんだろうな」


 彩花はその話を聞いて、自然に頬を緩めた。


「そんなに楽しみにしてくれてるんだね。表紙は落ち着いた感じなんだけど、まだ最終確認中だから、詳しく伝えるのは決まってからの方がいいかな」


「うん、それでいいと思う。妹にも、ちゃんと完成するまで待とうって言ってあるし」


 大地は机に肘をつきかけ、すぐに姿勢を直した。


「それにしても、一冊の本を作るのって大変なんだな。俺、文芸部ってみんなで小説を書いて読むところだと思ってたけど、印刷する前の確認も自分たちでやるんだろ?」


「うん。私も入部する前は、そこまで考えてなかったよ。文章を書くことだけじゃなくて、読む人が困らないように整えることも大切なんだって分かったんだ」


「そういうの、実際にやってみないと分からないよな」


 大地は頷き、それから少し照れくさそうに笑った。


「この前の数学もそうだけどさ。答えが合ってるだけじゃなくて、途中が分かるように書くのって大事なんだなって、最近ようやく思うようになったよ」


 彩花は昨日の朝のやり取りを思い出した。


「田辺君、途中式も前より丁寧に書けるようになってたよ。私も説明するとき、どうしたら伝わるか考える練習になるから、一緒に勉強できてよかった」


「そう言ってもらえると助かるな。次の小テストも頑張るよ」


 二人が笑い合ったところで、教室の前方から別の女子生徒が声をかけた。


「水瀬さん、文芸部の部誌って、学校の図書室にも置かれたりするの?」


 彩花はその質問に少し驚いたが、すぐに首を傾げた。


「どうだろう。まだ配布方法が決まっていないから、図書室に置かれるかも分からないんだ。先輩たちが先生と確認しているところだよ」


「そっか。もし置かれるなら、読んでみたいなって思ったんだけど」


「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい。決まったら、分かる範囲で伝えるね」


 女子生徒は笑顔で頷き、自分の席へ戻っていった。


 彩花はその背中を見送りながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 大地の妹だけでなく、同じ学校にも部誌を楽しみにしてくれる人がいる。


 まだ読んでもらえるかどうかは決まっていないが、その気持ちを知れただけでも嬉しかった。


(完成したら、私だけじゃなくて、みんなの作品を楽しんでもらえたらいいな)


 彩花は鞄から教科書を取り出した。


 今日の授業を終えたら、また部誌の作業が待っている。


 そのことを思うと、いつもの木曜日が少し特別に感じられた。


     ◇


 一方、桜華学園高等部では、九条悠真が昼休みに学校の図書室を訪れていた。


 昨日、森川航平から植物の保存について図書館で調べてみてはどうかと提案されたため、まずは学校の図書室に関連する本があるか確かめようと思ったのだ。


 書架の間には静かな空気が流れ、閲覧席では数人の生徒が勉強している。悠真は植物に関する棚を探し、標本や自然観察について書かれた本を何冊か手に取った。


 植物を採集して乾燥させる方法を説明した本には、葉の形を残すための基本的な手順が紹介されていた。


 ただし、悠真が知りたいのは、標本として記録する方法だけではない。


 色や形をできるだけ損なわずに残し、誰かへ贈るものとして使えるかどうかも確かめたい。


 悠真は本を開きながら、重要だと思ったところを手帳へ書き留めた。


(乾燥させることと、長く保存することは同じじゃないんだな。見た目が綺麗でも、あとから変化する可能性があるなら、やっぱり慎重に考えた方がよさそうだ)


 保存用の紙や、光を避ける必要性についても簡単に触れられていたが、具体的な加工方法を決めるには、まだ情報が足りなかった。


 悠真はその本の貸出が可能か確認し、しばらく借りて読むことにした。


 図書室を出ると、廊下の向こうから航平が歩いてきた。


「九条、ここにいたのか。昼休み、姿が見えないと思ったら図書室だったんだな」


「うん。昨日教えてもらったことが気になって、植物の保存について少し調べてたんだ」


 悠真が借りた本を見せると、航平は興味深そうに表紙を眺めた。


「へえ、ちゃんと本があったんだ。役に立ちそうか?」


「基本的なことは分かりそう。ただ、俺が考えている形にするには、もう少し調べる必要があるかな」


「そっか。でも、昨日よりは進んだんじゃないか?」


 その言葉に、悠真は頷いた。


「そうだね。何を確かめればいいのか、少し具体的になったよ」


 航平は満足そうに笑い、悠真と並んで教室へ向かい始めた。


「それならよかった。ところで、その葉っぱを何かにするって話、もう形は決めたのか?」


「まだ決めてないよ。しおりも考えているけど、実際に本へ挟んで使うなら、葉が傷まないか気になるから」


「確かにな。使うたびに折れたりしたら困るもんな」


 航平は少し考えてから続けた。


「だったら、使うものにするか、飾るものにするかを先に決めるのもよさそうだな。俺は詳しくないけど、目的が違えば選ぶ材料も変わるだろ」


 悠真はその言葉を聞き、昨日書いたメモを思い出した。


 使うものにするか、飾るものにするか。


 まさに、今考えていることだった。


「うん。俺もそう思ってたところなんだ。ありがとう、森川」


「どういたしまして。まあ、俺に分かるのはそこまでだけどな」


 航平は冗談めかして笑った。


 悠真も笑い返しながら、借りた本を鞄へしまった。


 彩花へ渡したいと思っていることは、まだ本人には話していない。


 けれど、その準備について相談できる人がいることは、悠真にとって心強かった。


     ◇


 午後の授業が終わると、彩花は文芸部室へ向かった。


 廊下の窓からは傾き始めた日差しが差し込み、階段を上がる生徒たちの影を長く伸ばしている。部室の近くまで来ると、中から紙を揃える音と、佐々木先輩の声が聞こえてきた。


「こんにちは」


 彩花が扉を開けると、すでに何人かの部員が机を囲んでいた。


「こんにちは、水瀬さん。ちょうど今、先生から預かった資料を確認していたところなの」


 佐々木先輩はそう言って、机の上に置かれた紙を示した。


 そこには、昨日までの確認作業で見つかった修正点がまとめられている。


 彩花が気づいた題名の空白についても、元の原稿と照合した結果が書き込まれていた。


「昨日の表記の違いは、元の原稿に合わせて統一することになったわ。作者本人にも確認して、問題ないって返事をもらっているの」


「そうなんですね。よかったです」


 彩花が頷くと、佐々木先輩は続けた。


「それから、表紙の色についても先生が確認してくださったの。印刷をお願いするところへ問い合わせた結果、今の案で大きな問題はなさそうだけれど、最終的には実際の印刷条件を確認してから判断することになったわ」


 彩花は机の上に置かれた表紙案へ目を向けた。


 灰色を基調とした背景に、窓と葉の落ちた枝が描かれている。


 最初に見たときよりも明るさが調整され、題名の文字も読みやすくなっていた。


 冬らしい静かな雰囲気がありながら、どこか温かさも感じられる。


「私、この表紙、やっぱり好きです」


 彩花が思わず口にすると、近くにいた部員が笑顔を向けた。


「私も。最初の案も落ち着いていてよかったけど、今の方が文字が見やすいよね」


「うん。それに、窓の向こうに枝が見える感じが、冬の部誌らしいなって思う」


 彩花は頷きながら答えた。


 佐々木先輩は二人の会話を聞き、穏やかに微笑んだ。


「みんなで何度も相談したから、最初の案とは少し変わったけれど、その分、一冊としてまとまってきた気がするわね」


 その言葉に、部員たちも頷いた。


 彩花は表紙案を眺めながら、これまでの作業を思い出した。


 それぞれが作品を書き、読み合い、感想を伝え合った時間。


 掲載順を相談したこと。


 表紙の案を見比べたこと。


 そして、目次やページ番号を何度も確認したこと。


 その一つ一つが、今、机の上に並んでいる資料へつながっている。


 まだ完成した本ではない。


 けれど、最初に冬の部誌の話を聞いた頃とは違い、手に取れる一冊の姿がはっきり想像できるようになっていた。


     ◇


 その日の文芸部では、先生から預かった確認表をもとに、修正箇所が正しく反映されているかを調べることになった。


 彩花はほかの部員と分担し、目次の後半と本文の対応を確認した。


 机の上には確認用の紙が並び、赤いペンで印が付けられた箇所もある。彩花は前回の資料と見比べながら、修正が必要だった部分を一つずつ確かめていった。


 ページ番号のずれは修正されている。


 題名の空白も、作者が確認した表記へ統一されていた。


 作者名の漢字や作品の掲載順にも、今のところ新しい問題は見つからない。


 彩花は確認表へ印を付けながら、少しだけ肩の力を抜いた。


(よかった。昨日までに見つかったところは、ちゃんと直ってる)


 ただ、作業はそこで終わりではなかった。


 佐々木先輩から、修正箇所以外にも見落としがないか、もう一度全体を見てほしいと頼まれている。


 彩花は目次の最初へ戻り、題名を一つずつ読み直した。


 詩、短編小説、随筆。


 部員たちがそれぞれ違う形で書いた作品が、同じ一冊の中に並んでいる。


 自分の作品『いつか、ここに』も、その一つだった。


 彩花は掲載予定のページを開き、題名と作者名を確認した。


 何度も読んできた自分の文章が、ほかの作品と同じ書式で整えられている。


 それを見ると、少し不思議な気持ちになった。


 自分の机で書いていた物語が、今は文芸部のみんなで作る一冊の一部になっている。


 彩花はそのことを嬉しく思いながら、確認を続けた。


 しばらくして、向かい側に座っていた部員が顔を上げた。


「水瀬さん、ちょっと休憩しない? ずっと見てると、だんだん文字が同じに見えてきちゃって」


 彩花は顔を上げ、時計を確かめた。


 作業を始めてから、思っていたより時間が経っている。


「そうだね。少し休んでから、もう一度見た方がよさそう」


 二人は確認用の紙を揃え、椅子の背もたれへ軽く体を預けた。


 窓の外では、運動部の生徒たちが校庭を走っている。遠くから聞こえる掛け声が、静かな部室の中へかすかに届いていた。


「水瀬さん、自分の作品が部誌に載るのって、どんな気持ち?」


 向かい側の部員が尋ねた。


 彩花は少し考えた。


「嬉しいけど、やっぱり緊張もするかな。自分で書いていたときは、こんなふうに一冊の中に並ぶところまで、あまり想像できてなかったから」


「分かる。私も、自分の作品が目次に載ってるのを見たとき、ちょっと恥ずかしくなっちゃった」


 その言葉に、彩花は思わず笑った。


「私も同じだよ。題名を見ただけなのに、なんだか落ち着かなくて」


「でも、楽しみだよね。みんなの作品をまとめて読めるの」


「うん。私もすごく楽しみ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 作品の内容も、書き方も、それぞれ違う。


 それでも、一冊の部誌を完成させたいという気持ちは同じだった。


 彩花はそのことを、改めて嬉しく思った。


     ◇


 休憩を終えた頃、文芸部の顧問の先生が部室へ入ってきた。


 佐々木先輩が立ち上がり、今日までの確認状況を説明する。


 先生は机の上に並んだ資料を見ながら、修正箇所の確認表を一枚ずつ確かめていった。


「みんな、丁寧に確認してくれたね。昨日までに指摘されたところは、きちんと修正されているようだ」


 その言葉に、部員たちの表情が少し明るくなった。


 ただし、先生はそこで作業の終了を宣言することはなかった。


「最終的な印刷用データについては、こちらでもう一度確認する。表紙の色や印刷条件についても、先方と調整しているところだから、正式に決まるまでは今の資料を完成版として扱わないようにしよう」


 佐々木先輩が頷いた。


「はい。部員にも、まだ最終確認中だと伝えています」


「ありがとう。それから、部数や配布方法についても、学校側で確認が必要だから、もう少し待ってほしい。決まり次第、部として案内できるようにするつもりだ」


 彩花はその説明を聞き、静かに頷いた。


 印刷日も、部数も、配布方法も、まだ確定していない。


 けれど、先生が具体的に確認を進めてくれていることが分かり、少し安心した。


 先生は部員たちを見渡し、穏やかな声で続けた。


「みんなが時間をかけて書いた作品だからこそ、最後まで丁寧に仕上げたいと思っている。ここまでよく頑張ってくれたね」


 その言葉を聞いたとき、彩花は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 自分たちが続けてきた作業を、先生も大切に受け止めてくれている。


 それが嬉しかった。


 先生が部室を出たあと、佐々木先輩は部員たちへ向き直った。


「今日の確認はここまでにしましょう。あとは先生からの連絡を待ちながら、必要な修正があれば対応する形になると思います」


 部員たちは頷き、机の上の資料を片づけ始めた。


 彩花も担当した確認表を揃え、佐々木先輩へ渡した。


「後半の確認、終わりました。今のところ、新しい間違いは見つかりませんでした」


「ありがとう、水瀬さん。最後まで丁寧に見てくれて助かったわ」


 佐々木先輩は確認表を受け取り、少しだけ微笑んだ。


「まだ正式な完成ではないけれど、ここまで来られたのは、みんなが協力してくれたおかげね」


 彩花はその言葉に頷いた。


「はい。私も、みんなと一緒に作れてよかったです」


 自分の作品が掲載されることだけではない。


 誰かの作品を読み、間違いがないか確かめ、同じ一冊を完成させるために力を合わせる。


 その時間が、彩花にとって大切な経験になっていた。


     ◇


 帰り道、彩花は青葉高校の校門を出ると、少しだけ歩く速度を緩めた。


 夕方の空は淡い橙色に染まり、住宅街へ続く道には長い影が伸びている。風は冷たかったが、昼間の穏やかな天気のおかげで、昨日ほど寒くは感じなかった。


 彩花はマフラーへ顎を埋めながら、今日の文芸部のことを思い返した。


 先生から、ここまでよく頑張ったと言ってもらえたこと。


 佐々木先輩が、みんなで協力したからここまで来られたと話していたこと。


 そして、自分の作品が一冊の中に並んでいるのを見て、嬉しくなったこと。


(まだ完成してないけど、今日まで頑張ってきてよかったな)


 彩花はそう思い、少しだけ微笑んだ。


 家に帰ったら、母や姉にも今日のことを話したい。


 それから、悠真にも伝えたいと思った。


 彼は部誌の完成を楽しみにしてくれている。


 まだ読めるかどうかは分からないけれど、今の状況を話せば、きっと一緒に喜んでくれるだろう。


 彩花は歩きながら、ふと道端の落ち葉へ目を向けた。


 昨日、悠真とメッセージで話した秋の景色。


 季節が変わっても、一緒に歩いた時間は大切な思い出として残っている。


 それは、文芸部で過ごした時間にも少し似ている気がした。


 完成した部誌を手に取るとき、きっと今日のことも思い出すのだろう。


 彩花はそんなことを考えながら、家へ向かって歩き続けた。


     ◇


 九条家では、悠真が夕食前に借りてきた本を読んでいた。


 机の上には昨日まとめたメモと、今日新しく書き加えた内容が並んでいる。庭で拾った練習用の葉は状態を分けて保管してあり、大切な橙色の葉にはまだ手を加えていない。


 悠真は本を読み進めながら、乾燥した葉の扱いについて確認した。


 形を残すためには、無理に力を加えないこと。


 湿気を避けること。


 保存する環境によって、状態が変わる可能性があること。


 基本的な注意点は、これまで調べてきた内容と大きく変わらなかった。


 ただ、標本として保存する方法と、日常的に使う小物へ加工する方法では、求められる条件が違うことも分かってきた。


(しおりにするなら、使うたびに葉へ負担がかからない形を考えないといけないな)


 悠真は土曜日に見た透明な窓のあるしおりを思い出した。


 あの形なら、葉を直接触らずに見られるかもしれない。


 けれど、実際にどんな材料が使われているのかは分からない。


 悠真はメモへ書き加えた。


『透明な部分の材質を確認する』


『葉を直接固定する必要があるか調べる』


『練習用の葉で試せる方法を選ぶ』


 書き終えたところで、部屋の扉が控えめに叩かれた。


「お兄様、少しいい?」


 琴葉の声だった。


「うん、どうぞ」


 扉が開き、琴葉が顔を覗かせた。


「昨日の葉っぱのことなんだけど、今日、学校で少し調べてみたの。お兄様が考えているものに合うかは分からないけれど、保存用の紙にもいろいろ種類があるみたい」


 悠真は妹の言葉に、少し驚いた。


「わざわざ調べてくれたの?」


「うん。昨日、一緒に葉っぱを探したのが楽しかったから。それに、お兄様が大切にしているものなら、私もできることがあれば手伝いたいなって」


 琴葉は少し照れくさそうに笑った。


 悠真はその表情を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「ありがとう、琴葉。すごく嬉しいよ」


 琴葉は机の上のメモを眺め、少し首を傾げた。


「お兄様、まだしおりにするかどうかは決めていないのよね?」


「うん。彩花さんが本を読むときに使えるものもいいと思うけど、葉が傷まないか気になるから」


「そうよね。だったら、使うものじゃなくて、見て楽しめるものにするのもいいかもしれないわ」


 琴葉は少し考えながら続けた。


「たとえば、小さな額みたいなものに入れたら、机に飾れるでしょう? もちろん、葉っぱに合う材料を選ばないといけないけれど」


 悠真はその提案を聞き、少しだけ目を見開いた。


 しおりばかり考えていたが、確かに飾る形もある。


 彩花が机に置いてくれたなら、ふとしたときに川沿いの思い出を眺めてもらえるかもしれない。


「それもいいね。使うものにするか、飾るものにするか、もう少し考えてみるよ」


 悠真が答えると、琴葉は嬉しそうに微笑んだ。


「うん。お兄様が納得できる形になるといいわね」


 二人はしばらく保存方法について話し、琴葉は夕食の時間が近づくと部屋を出ていった。


 悠真は机の上のメモを見つめた。


 まだ完成形は決まっていない。


 けれど、少しずつ選択肢が増えている。


 何より、家族が自分の大切にしているものを理解し、手伝ってくれることが嬉しかった。


     ◇


 夕食後、彩花は自室で淡い緑色のノートを開いていた。


 今日の文芸部のことを書き留めようと思い、ペンを持つ。


 けれど、最初の一行を考えているうちに、先生が部員たちへかけてくれた言葉を思い出した。


 ここまでよく頑張ってくれたね。


 その言葉は、今も胸の中に残っている。


 彩花はゆっくりと書き始めた。


『今日は、冬の部誌の確認をした。』


『まだ正式な完成ではないけれど、先生から、ここまでよく頑張ったと言ってもらえた。』


『自分の作品だけじゃなくて、みんなで一冊を作っていることが嬉しい。』


 書き終えると、彩花は少しだけ微笑んだ。


 自分が物語を書き始めた頃は、誰かと一緒に本を作ることまで想像していなかった。


 けれど今は、部誌の目次に自分の名前が並んでいる。


 それは、彩花にとって大きな出来事だった。


 スマートフォンが震えたのは、ちょうどそのときだった。


 画面には悠真からのメッセージが表示されている。


『彩花さん、こんばんは。今日は文芸部の活動だったよね。確認作業はどうだった?』


 彩花は自然に笑顔になり、返事を打った。


『こんばんは、悠真君。今日は修正したところをもう一度確認したよ。先生からも、ここまでよく頑張ったねって言ってもらえたんだ』


 少しして、返信が届いた。


『それは嬉しいね。彩花さんたちが丁寧に作ってきたこと、先生にも伝わっているんだと思う』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなった。


『うん。私も嬉しかった。まだ印刷の日とかは決まってないんだけど、少しずつ完成に近づいているのが分かるよ』


『そうなんだ。正式に決まるまでは確認が続くと思うけど、きっといい一冊になるね』


 彩花はその言葉に、少しだけ頬を緩めた。


 悠真は、まだ部誌の完成形を見ていない。


 それでも、彩花たちが大切に作っていることを知り、楽しみにしてくれている。


 その気持ちが嬉しかった。


『ありがとう。完成したら、悠真君にも読んでもらえたらいいな』


 送信してから、彩花は少しだけ考えた。


 まだ配布方法は決まっていない。


 だから、必ず渡せるとは言えない。


 けれど、読んでもらいたいという気持ちは本当だった。


 悠真からの返事は、すぐに届いた。


『俺も読んでみたいよ。でも、学校の決まりがあるだろうから、無理はしないでね。彩花さんが頑張って作ったことを聞けるだけでも嬉しいから』


 彩花はその文章を読み、しばらく画面を見つめた。


 悠真はいつも、自分の気持ちを大切にしてくれる。


 何かをお願いするときも、相手が困らないように考えてくれる。


 その優しさに触れるたび、彩花は彼と出会えてよかったと思う。


(悠真君って、私が大切にしていることを、ちゃんと大切にしてくれるんだよね)


 彩花は少しだけ頬を赤くしながら、返事を打った。


『ありがとう。そう言ってもらえると安心するよ。ちゃんと決まったら、またお話するね』


『うん。楽しみにしてる』


 彩花はスマートフォンを置き、机の上のノートへ目を向けた。


 まだ完成していない一冊。


 けれど、その完成を楽しみにしてくれる人がいる。


 それだけで、今日までの時間がさらに大切に感じられた。


     ◇


 同じ頃、悠真は自室で彩花とのメッセージを読み返していた。


 彼女が部誌のことを話すとき、文章からも嬉しさが伝わってくるように感じる。


 完成した本を読めるかどうかは、まだ分からない。


 けれど、彩花が一つの作品を仕上げ、部員たちと協力して一冊を作っていることは、悠真にとっても嬉しいことだった。


 悠真はスマートフォンを置き、机の上に並んだメモへ目を向けた。


 押し葉の保存方法について、今日も少し新しいことが分かった。


 練習用の葉を集め、必要な材料を調べ、使うものにするか飾るものにするかを考えている。


 まだ完成には遠い。


 けれど、彩花の部誌と同じように、少しずつ形へ近づいているのかもしれない。


(彩花さんも、完成するまでにいろんなことを考えてるんだろうな)


 悠真はそう思い、引き出しを開けた。


 中には、彩花からもらった淡い青色の花柄カードと、橙色の葉を挟んだ紙の包みがある。


 カードに書かれた言葉を思い出す。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 悠真はその言葉を受け取ったときの嬉しさを、今も覚えていた。


 彩花は、自分の気持ちを丁寧に言葉にしてくれた。


 だからこそ、いつか自分も、彼女へ何かを渡すときには、きちんと気持ちを伝えたいと思っている。


 悠真は紙の包みへ目を向け、少しだけ微笑んだ。


(まだ形は決まってないけど、ただ綺麗なものを作るだけじゃなくて、俺が何を大切にしているのかも伝えられたらいいな)


 その気持ちを胸に、悠真は引き出しを静かに閉じた。


 贈り物の完成は、まだ先になりそうだ。


 けれど、焦る必要はない。


 大切なものだからこそ、納得できる形を探していきたい。


     ◇


 夜が更ける頃、彩花は星模様のノートを開き、新しい物語のメモを読み返していた。


 祖母が遠くへ引っ越す少女。


 机の上には古い写真があり、窓の向こうには祖母と一緒に育てた花のある庭が見える。


 少女は手紙を書こうとしているが、最初の一行をなかなか決められない。


 彩花はその設定を眺めながら、今日の文芸部で感じたことを思い出した。


 自分の気持ちを誰かへ届けるためには、書くことだけでなく、相手に伝わる形へ整えることも大切なのだ。


 少女もまた、祖母へ何を伝えたいのかを考えながら、少しずつ言葉を選んでいくのだろう。


(この子は、最初から立派な手紙を書こうとしなくてもいいのかもしれない。まずは、今日あったことを話すみたいに書き始めてもいいんだよね)


 彩花はそう考え、ノートへ一つだけ書き加えた。


『主人公は、特別な言葉を探す前に、祖母へ話したかった小さな出来事を思い出す。』


 書き終えると、彩花は少しだけ微笑んだ。


 まだ物語の答えが見つかったわけではない。


 けれど、主人公が最初の一行へ近づくための道筋が、少しだけ見えてきた気がした。


 彩花はノートを閉じ、机の上へ戻した。


 冬の部誌も、新しい物語も、まだ完成していない。


 けれど、完成へ向かう時間の中には、すでにたくさんの思い出が生まれている。


 そして、その思い出を誰かへ伝えたいと思えることが、今の彩花には嬉しかった。


 窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。


 彩花は机のライトを消し、ベッドへ向かった。


 明日も学校がある。


 部誌の正式な確認結果が届くかどうかは、まだ分からない。


 それでも、今日までみんなで積み重ねてきた時間が、一冊の本へつながっていることは確かだった。


 彩花はそのことを胸に、ゆっくりと目を閉じた。


 そして同じ夜、悠真もまた、机の引き出しにしまった橙色の葉を思い浮かべながら、静かに明日の準備を進めていた。


 まだ完成していないものが、二人の手元にはそれぞれある。


 けれど、そこへ込めたい気持ちは、少しずつ確かな形を持ち始めていた。

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