第92話 君との秋を、なくさないための小さな工夫
水曜日の朝、九条悠真は自室の窓を開け、冷たい空気を少しだけ部屋へ入れた。
昨夜まで吹いていた風は弱まり、庭の木々は朝の光の中で静かに枝を伸ばしている。芝生の端には黄色や茶色の落ち葉が集まっており、庭師が手入れをする前の、秋の終わりらしい景色が広がっていた。
悠真は窓を閉めると、机の引き出しへ目を向けた。
そこには、彩花と川沿いを歩いた日に拾った橙色の葉がある。
あの日から大切に保管してきたものの、何かに加工する方法はまだ決まっていない。葉の状態を確かめるたびに、色を失わせたくないという気持ちと、いつか彩花に渡せる形にしたいという気持ちの間で迷っていた。
昨日、祖父の俊治から聞いた言葉が、今朝も頭に残っている。
贈り物の形を考える前に、その葉を見てどんな時間を思い出してほしいのかを考えること。
悠真は椅子へ腰掛け、引き出しから紙の包みを取り出した。乾いた葉に直接触れないよう注意しながら包みを開くと、橙色の葉が薄い紙の上に静かに収まっている。
川沿いで見つけたときほど鮮やかではないが、葉脈の細かな線や、端に残った色の濃淡はまだ分かる。
(あの日、彩花さんは落ち葉を見ながら、ずいぶん楽しそうにしていたな)
悠真は葉を眺めながら、川沿いの景色を思い出した。
修理されたベンチの近くを二人で歩き、足元に落ちている葉を見つけたこと。彩花が拾った葉を大切そうに持っていたこと。そして、何でもない散歩の時間が、帰り道には忘れたくない思い出になっていたこと。
葉を残したいと思った理由は、そこにあった。
ただし、大切に思うだけでは、保存に適した方法が分かるわけではない。
悠真は包みを元に戻し、引き出しを閉めた。
(まずは、別の葉で試してみよう。大切なものに手を加えるのは、それからでも遅くない)
昨日までは方法を調べるところで止まっていたが、今日は実際に試すための準備を進めようと思った。
その小さな決心を胸に、悠真は制服の上着を手に取った。
◇
九条家の朝食の席では、琴葉が学校の図書室で借りた本について話していた。
食卓には温かなスープと焼きたてのパンが並び、窓の向こうには手入れされた庭が見える。母の麗華は琴葉の話を聞きながら紅茶を飲み、父の正樹は新聞を畳んで食事へ手を伸ばしていた。
「それでね、お兄様。昨日借りた本に、昔の手紙を大切にしまっている人が出てきたの。何年も前の手紙なのに、紙の色があまり変わっていなくて、どうやって保存していたんだろうって気になったのよ」
琴葉は楽しそうに説明しながら、悠真へ顔を向けた。
「手紙の保存方法か。紙の種類や置いていた場所によっても違うんじゃないかな。湿気や日差しを避けることも大切だと思うよ」
「やっぱりそうよね。私、昨日そのことを少し調べてみたのだけれど、紙だけじゃなくて、挟んであるものによっても傷み方が違うことがあるみたい」
琴葉の言葉に、悠真は思わず興味を示した。
「そうなんだ。どんなことが書いてあったの?」
「本の保存について説明しているページだったから、落ち葉にもそのまま当てはまるかは分からないわ。でも、長く残したいものには、保存用の材料を選ぶことが大切だって」
琴葉はそこで少し笑った。
「お兄様が前に押し葉のことを調べていたでしょう? それを思い出したの」
麗華が二人の会話へ穏やかに加わった。
「大切なものを長く残したいなら、材料選びは慎重にした方がいいわね。見た目が綺麗でも、あとから変色したり、傷んだりすることがあるもの」
「はい。だから、実際に使う前に別の葉で試してみようと思っているんです」
悠真が答えると、正樹も顔を上げた。
「それはいい判断だな。仕事でも同じだが、初めて試す方法を、いきなり大切なものに使うのは避けた方がいい。試して分かることもあるだろう」
父の言葉に、悠真は頷いた。
「そうですね。今はまだ、しおりにするのか、別の形にするのかも決めていません。まずは、葉の状態を確かめながら、どんな方法があるのか調べてみます」
琴葉は少しだけ身を乗り出した。
「お兄様、もし練習に使う葉を探すなら、庭に落ちているものでもいいんじゃない? もちろん、拾っていい場所か確認してからだけれど」
「うん。ちょうどそう考えていたところだよ」
「だったら、私も一緒に探していい?」
琴葉の目が楽しそうに輝いた。
悠真はその様子を見て微笑んだ。
「もちろん。ただ、今日は学校があるから、帰ってから時間が合えばお願いしようかな」
「分かったわ。私も宿題を終わらせておくから」
麗華は兄妹のやり取りを聞き、柔らかな笑みを浮かべた。
以前の悠真なら、こうしたことも一人で調べ、一人で決めようとしていたかもしれない。けれど最近は、家族へ相談し、琴葉の提案にも自然に耳を傾けている。
その変化を嬉しく思いながら、麗華は二人の皿へ果物を取り分けた。
「葉を探すなら、足元に気をつけてね。庭の端は朝露で湿っていることもあるから、乾いている時間の方がいいと思うわ」
「はい。ありがとうございます」
悠真は答え、朝食を続けた。
贈り物を作ることは、まだ誰かと約束したわけではない。
それでも、家族と相談しながら準備を進める時間が、少しずつ楽しみになっていた。
◇
同じ朝、水瀬彩花は青葉高校へ向かう道を歩きながら、昨夜読んだ短編集のことを考えていた。
朝の空は昨日より明るく、雲の切れ間から差し込む日差しが住宅街の屋根を照らしている。冷たい風は残っているものの、歩いているうちにマフラーの内側が少し温かくなってきた。
鞄の中には、星模様の創作用ノートが入っている。
昨夜は短編集を読み、新しい物語についていくつか考えを書き留めた。まだ本文を大きく進めたわけではないが、手紙を書こうとする少女の気持ちが、以前より少しだけ具体的になってきた気がしている。
(最初の一行をどうするか、まだ決まってないんだよね。でも、何を書けばいいか分からない時間も、この子にとっては大事なのかもしれない)
彩花はそう考えながら、学校へ向かう角を曲がった。
青葉高校の校門が見えてくると、登校してきた生徒たちの声が聞こえ始める。昇降口では友人同士が朝の挨拶を交わし、廊下には教室へ急ぐ足音が響いていた。
彩花が教室へ入ると、田辺大地が机の上にノートを広げていた。
「水瀬、おはよう。昨日の数学のところ、ちょっと確認してもいいか?」
「おはよう、田辺君。うん、どこ?」
彩花が鞄を置いて近づくと、大地は問題集の一箇所を指差した。
「ここなんだけど、答えは合ってるのに途中の式が模範解答と違うんだ。これでも大丈夫なのかなって思って」
彩花は問題文を読み、途中式を確かめた。
大地の解き方は模範解答と順番が違っていたが、計算の流れ自体に大きな問題はなさそうだった。ただ、一箇所だけ説明が省略されているため、先生が読んだときに少し分かりにくいかもしれない。
「考え方は合ってると思うよ。でも、ここでどうしてこの式になるのか、一行書いておいた方が分かりやすいかもしれない」
「なるほど。答えが合ってても、途中が伝わらないと困るもんな」
大地は納得したように頷き、ノートへ一行書き足した。
「ありがとう。最近、前より問題が解けるようになってきたんだけど、説明するのはまだ難しいな」
「私も、分かっているつもりでも、誰かに説明しようとすると迷うことがあるよ。だから、途中を丁寧に書く練習って大事なんだと思う」
彩花がそう答えると、大地は少し笑った。
「水瀬って、説明するときに相手が分かるまで待ってくれるよな。助かってるよ」
彩花は思いがけない言葉に、少し照れた。
「そんなことないよ。私も一緒に考えてるだけだから」
「それでも、ありがたいんだって」
大地はそう言ってノートを閉じた。
彩花は自分の席へ戻りながら、今の会話を思い返した。
分かっていることを、相手に伝わるように言葉にする。
それは勉強だけでなく、物語を書くときにも大切なことなのかもしれない。
自分の中でははっきりしている感情も、文章にすると伝わり方が変わることがある。だからこそ、登場人物が何を感じているのかを丁寧に考える必要があるのだろう。
彩花は机の上へ教科書を置き、窓の外を眺めた。
今日の放課後には、文芸部の活動がある。
昨日、佐々木先輩から頼まれた目次の最終確認も、ほかの部員と協力して進める予定だった。
少し緊張するが、それ以上に楽しみだった。
◇
桜華学園高等部の昼休み、悠真は森川航平と中庭に面した休憩スペースで話していた。
午前中の授業が終わり、廊下には昼食を買いに行く生徒たちの姿が増えている。大きな窓からは明るい光が差し込み、中庭の木々が風に揺れる様子が見えた。
「九条、今日は放課後どうするんだ?」
航平が飲み物を手に尋ねた。
「生徒会の仕事は昨日のうちに一区切りついたから、今日はそのまま帰るつもりだよ。家で少し調べたいことがあるんだ」
「調べたいこと?」
「うん。押し葉の保存方法について、もう少し詳しく知りたくて」
悠真が答えると、航平は思い出したように頷いた。
「ああ、前に話してたやつか。川沿いで拾った葉を大切にしてるんだったな」
「そう。まだ何かにするって決めたわけじゃないけど、できれば綺麗な状態で残したいんだ」
航平は少し考えた。
「そういうのって、図書館にも資料があるんじゃないか? 植物の標本とか、紙の保存とか、専門的な本があるかもしれないし」
悠真はその言葉に顔を上げた。
「確かに、そうだね。インターネットで調べるだけじゃなくて、本でも確認した方がいいかもしれない」
「まあ、俺も詳しいわけじゃないけどさ。せっかくなら、ちゃんと調べてからやった方が安心だろ」
航平はそう言って笑った。
悠真は頷きながら、青凪市立中央図書館のことを思い出した。
彩花と初めて出会った場所。
今でも二人にとって大切な場所だが、最近は学校の活動や別の場所への外出もあり、以前ほど頻繁には一緒に訪れていない。
図書館なら、植物の保存に関する本があるかもしれない。
ただ、今すぐ彩花を誘う必要はない。
まずは自分で調べ、贈り物について少し具体的に考えてからにしたいと思った。
「ありがとう、森川。図書館の本も探してみるよ」
「おう。役に立てたならよかった」
航平はそう答えてから、少しだけ笑みを深めた。
「それにしても、お前がそこまで一枚の葉を大事にするなんて、前だったら想像できなかったな」
悠真は少し照れくさそうに笑った。
「俺も、こんなに気になるとは思ってなかったよ」
「まあ、ただの葉っぱじゃないんだろうな」
航平の言葉に、悠真は静かに頷いた。
「うん。大切な思い出だから」
その答えを聞き、航平はそれ以上からかわなかった。
友人が何を大切にしているのか、すべてを聞き出す必要はない。
ただ、悠真が以前よりも自分の気持ちを素直に話すようになったことを、航平は嬉しく思っていた。
◇
放課後、青葉高校の文芸部室には、いつもより少し緊張した空気が流れていた。
机の中央には冬の部誌の確認用資料が並び、表紙案と目次、各作品のページを確認できるようになっている。窓の外からは運動部の掛け声が遠く聞こえ、部室の中では紙をめくる音が静かに響いていた。
佐々木先輩は部員たちが揃ったところで、今日の作業について説明した。
「今日は、昨日までに見つかった修正点を確認しながら、目次と本文の対応をもう一度見ていきます。先生からの最終的な確認はまだなので、ここで全部終わりというわけではありませんが、私たちができるところは丁寧に進めましょう」
部員たちは頷き、それぞれ担当する資料を受け取った。
彩花はほかの部員と一緒に、目次の題名と作者名、掲載ページを照らし合わせる役割になった。
机の向かい側に座った部員が、確認表へ指を添えながら声をかける。
「水瀬さん、私は前半を見ていくから、後半をお願いしてもいい?」
「うん、分かった。気になるところがあったら、すぐに伝えるね」
二人は担当を分け、作業を始めた。
彩花は一つずつ題名を読み、本文のページを開いて確認していく。昨日見つかったずれは修正案が反映されており、目次と本文の番号が一致していることを確かめられた。
その後も、作者名の漢字や作品の並び順を丁寧に確認した。
自分の作品『いつか、ここに』の題名が目に入ったとき、彩花は少しだけ胸を弾ませた。
部誌の後半、詩の次に掲載される予定の作品。
何度も書き直し、先輩たちの感想を聞きながら完成させた物語が、ほかの部員の作品と一緒に並んでいる。
まだ印刷された本ではないが、確認用の紙面を見るだけでも、不思議な実感があった。
(本当に、一冊の中に私のお話が入るんだな)
彩花は少しだけ頬を緩めたが、すぐに確認作業へ意識を戻した。
今は自分の作品だけを眺めている場合ではない。
最後まで丁寧に見て、気になるところがあれば伝える必要がある。
しばらく作業を進めたところで、向かい側の部員が顔を上げた。
「水瀬さん、ちょっといい? この題名のところ、目次と本文で空白の幅が違うように見えるんだけど、どう思う?」
彩花は差し出された紙を受け取り、二つの表記を見比べた。
文字そのものは一致している。
ただ、題名の中に入っている空白の幅が、目次では少し広く見える。
「本当だね。文字は合ってるけど、見た目が少し違うかもしれない。先輩に確認してもらおうか」
「うん。私もその方がいいと思う」
二人は佐々木先輩を呼び、気づいた点を伝えた。
先輩は資料を見比べ、少し考えてから頷いた。
「よく気づいてくれたわね。これは元の原稿の表記も確認した方がよさそう。修正が必要かどうか、先生にも相談してみるわ」
彩花たちは確認表へ印を付け、作業を再開した。
しばらくして、担当した範囲の確認が終わる。
彩花は資料を揃え、佐々木先輩へ渡した。
「後半の確認が終わりました。ページ番号と作者名は、今のところ問題なさそうです。さっきの空白のところだけ、確認をお願いします」
「ありがとう、水瀬さん。丁寧に見てくれて助かったわ」
先輩は資料を受け取り、穏やかに微笑んだ。
「昨日も話したけれど、こういう作業は一人で全部見ようとすると、どうしても見落としが出ることがあるの。だから、気づいたことを遠慮せずに伝えてくれるのが一番ありがたいわ」
彩花はその言葉に頷いた。
「私も、ほかの人に見てもらうことで気づけることがあるんだって分かりました。自分の作品を確認するときも、同じことが言えるんですね」
「そうね。自分で何度も読んでいると、頭の中で正しい文章に直して読んでしまうこともあるから」
佐々木先輩は少し笑った。
「だから、最後の確認は特に大切なのよ」
彩花はその言葉を胸に留めた。
自分の作品を書くことと、一冊の本を仕上げること。
似ている部分もあれば、違う部分もある。
けれど、どちらにも共通しているのは、読む人へきちんと届けたいという気持ちなのだと思った。
◇
作業が一区切りついたあと、彩花は佐々木先輩と少しだけ新しい物語について話した。
部室にはまだ数人の部員が残っており、資料を片づけたり、作品について感想を交わしたりしている。窓の外では夕方の光が薄くなり、校庭の端にある木々の影が長く伸びていた。
「水瀬さん、新しいお話の方はどう?」
佐々木先輩が尋ねると、彩花は星模様のノートを取り出した。
「少しずつ考えています。まだ本文はあまり進んでいないんですけど、主人公がどうして手紙を書けないのか、前より分かってきた気がして」
「そうなのね。どんなふうに考えているの?」
彩花はノートを開き、昨日書いたメモを見せた。
少女は祖母へ特別な言葉を伝えようとしている。
けれど、何を書けばいいのか分からず、最初の一行で迷っている。
それは言葉を知らないからではなく、大切な相手だからこそ、どんな言葉も足りないように感じてしまうからなのかもしれない。
佐々木先輩は彩花の説明を聞き、静かに頷いた。
「いいと思うわ。大切な相手に何かを伝えたいときって、普段なら簡単に言えることでも、急に難しく感じることがあるものね」
「はい。だから、最初から綺麗な文章を書こうとするんじゃなくて、主人公が自分の言葉を見つけていくところを描きたいなって思っています」
「それなら、手紙を書く前に何を思い出すのかも大切になりそうね」
彩花はその言葉に、昨日考えていた古い写真の案を思い出した。
「実は、机の上に祖母と一緒に写った写真があるっていう場面も考えているんです。まだ本文には入れてないんですけど」
「写真か。二人の関係を自然に見せられるかもしれないわね。ただ、写真を見た瞬間に全部思い出すようにするより、主人公が今どんな気持ちでその写真を見ているのかを考えると、もっと伝わりやすくなると思う」
彩花は真剣に頷いた。
「なるほど……。写真に写っている思い出を説明するだけじゃなくて、今の主人公がどう感じるか、ですね」
「そう。昔は楽しかったと思うのか、今もその時間が続いているように感じるのか、それとも、もう同じようには過ごせないことが寂しいのか。どれもあり得るけれど、主人公に一番近い気持ちを選ぶことが大切だと思うわ」
佐々木先輩の言葉に、彩花は少し考え込んだ。
祖母と一緒に花を育てた思い出は、少女にとって温かなものだ。
けれど、祖母が遠くへ引っ越すと知った今、その思い出を見返すことは、嬉しいだけではないかもしれない。
写真の中では隣にいる祖母が、これからは遠くに住むことになる。
その事実を、少女はまだうまく受け止められていないのだろう。
(だからこそ、手紙を書こうとしてるのかもしれない。寂しいって気持ちをなくしたいんじゃなくて、離れてもつながっていたいから)
彩花はノートへ新しい考えを書き加えた。
『写真を見ると、楽しかったことを思い出す。でも、今は少し寂しくもなる。』
『主人公は、思い出を終わったものにしたくない。』
書き終えると、佐々木先輩が穏やかに微笑んだ。
「少し見えてきたみたいね」
「はい。ありがとうございます。まだ決まっていないところも多いですけど、前より主人公の気持ちを考えられるようになった気がします」
「それならよかった。急いで完成させる必要はないから、今の主人公が何を大切にしているのか、ゆっくり考えてみてね」
彩花は頷き、ノートを閉じた。
部誌の確認も、新しい物語も、まだ終わっていない。
けれど、今日はどちらも少し前へ進めた気がした。
◇
九条家へ帰宅した悠真は、制服から着替えると、琴葉と一緒に庭へ出た。
午後の日差しが庭の芝生を照らし、木々の下には色の違う落ち葉が散らばっている。朝よりも風は弱くなっていたが、日陰に入ると空気は冷たく、二人の足元では乾いた葉が小さな音を立てた。
「お兄様、練習に使うなら、なるべく形が綺麗なものの方がいいのかしら?」
琴葉が足元を見ながら尋ねた。
「そうだね。でも、最初は保存方法を試すためだから、形が少し違っていてもいいと思う。むしろ、状態の違う葉を比べられた方が分かりやすいかもしれない」
「なるほど。じゃあ、色が違うものも探してみましょう」
琴葉は楽しそうに頷いた。
二人は庭の端をゆっくり歩き、地面に落ちている葉を見比べた。
湿った土に触れているものや、端が大きく欠けているものもある。悠真はできるだけ乾いた場所に落ちている葉を選び、琴葉と相談しながら数枚を集めた。
しばらくして、琴葉が一枚の葉を拾い上げた。
「お兄様、これはどう? 少し茶色いけれど、形は綺麗だと思うの」
悠真は差し出された葉を見て頷いた。
「うん、いいと思う。ありがとう」
琴葉は嬉しそうに笑い、用意していた紙の上へ葉を置いた。
「こうして見ると、同じ木の葉でも色が全然違うのね。緑が残っているものもあれば、黄色や茶色になっているものもあるし」
「そうだね。落ちた時期や状態によって違うんだろうな」
悠真は葉を眺めながら、川沿いで拾った橙色の葉を思い出した。
あの日の葉は、夕方の光を受けて少し赤みが強く見えた。
今もその色が完全に残っているわけではないが、見つけたときの景色ははっきり覚えている。
琴葉は兄の表情を見て、少しだけ首を傾げた。
「お兄様、その葉っぱって、やっぱり彩花さんとの思い出なのよね?」
悠真は少し驚いたが、すぐに穏やかに頷いた。
「うん。彩花さんと川沿いを歩いた日に拾ったものなんだ」
「そうなのね。だから、そんなに大切にしているんだ」
琴葉は納得したように微笑んだ。
「彩花さん、きっと嬉しいと思うわ。お兄様が一緒に過ごした時間を大切にしているって分かったら」
悠真はその言葉に、少しだけ頬を緩めた。
「そうだといいな。でも、まだ何を贈るか決めていないから、彩花さんには内緒にしておいてくれる?」
「もちろんよ。お兄様が自分で渡したいんでしょう?」
「うん。ちゃんと形になってから、俺の言葉で伝えたいんだ」
琴葉は嬉しそうに頷いた。
「分かったわ。じゃあ、私は練習のお手伝いだけするね」
悠真は妹の言葉に微笑んだ。
「ありがとう、琴葉。助かるよ」
二人は集めた葉を紙の上に並べ、状態を確かめた。
そのまま加工するには、まだ乾き方が足りないものもある。
悠真は無理に作業を進めず、まずは葉の種類や状態を記録し、どの方法が適しているのか調べることにした。
今日できたのは、練習用の葉を集めるところまで。
けれど、何も決まっていなかった昨日より、一つ具体的な準備が進んだことが嬉しかった。
◇
夕食後、悠真は机の上へ集めた葉を並べ、保存方法について調べていた。
琴葉と一緒に拾った葉は、状態を見比べられるように分けてある。湿り気が残っているものをそのまま密閉しない方がよいことや、長く残したいものには材料選びが重要になることを確かめながら、悠真はメモ用紙へ必要な情報を書き留めた。
土曜日に文房具店で買った、薄い温かみのある色のメモ紙。
その上には、保存方法を調べるときに確認したいことが少しずつ増えていった。
『乾燥の状態を確認する』
『湿気と直射日光を避ける』
『保存に使う紙や材料を調べる』
『練習用の葉で試してから判断する』
悠真は書き終えたメモを眺め、少し考えた。
以前、文房具店で見た透明な窓のあるしおり。
葉を見せる形としては魅力的だったが、実際に長く保存できるかどうかは分からない。
それに、しおりにすれば本へ挟んで使うことになる。
彩花は本が好きだから、喜んでくれるかもしれない。
けれど、何度も使うものだからこそ、葉が傷まないかも気になる。
(見た目だけで決めるんじゃなくて、使い方まで考えた方がいいんだろうな)
悠真はメモへもう一行書き加えた。
『使うものにするか、飾るものにするかも考える』
そこまで書いてから、少しだけ笑った。
まだ決めることは多い。
それでも、以前のように漠然と悩んでいるだけではなく、何を調べればいいのかが少しずつ見えてきた。
悠真は練習用の葉を傷めないように片づけ、机の引き出しへ目を向けた。
大切な橙色の葉には、今日は触れなかった。
まだ何も加工していない。
けれど、その葉を残すための準備は、確かに始まっている。
◇
同じ頃、彩花は自室で新しい物語の冒頭を読み返していた。
机の上には星模様のノートと、これまでに書いた文章が置かれている。窓の外はすっかり暗くなり、部屋の中には机のライトの柔らかな光が広がっていた。
少女が机に向かい、白い便箋を前にしている場面。
窓の向こうには、祖母と一緒に育てた花のある庭が見える。
そこまでは書いてある。
けれど、少女がなぜ最初の一行を書けないのか、まだ十分に描けていない気がした。
彩花は今日、佐々木先輩と話したことを思い出した。
古い写真を見たとき、少女は何を感じるのか。
楽しかった思い出があるからこそ、離れることが寂しい。
けれど、思い出を終わったものにしたくない。
彩花はペンを持ち、冒頭の続きを少しだけ書き始めた。
机の上には、祖母と一緒に写った古い写真が置かれている。
写真の中の二人は、庭で笑っている。
少女はその写真を見つめながら、今も同じ場所に花が咲くことを思い出す。
けれど、次に花が咲くとき、祖母は遠くの町にいる。
そこまで書いたところで、彩花はペンを止めた。
文章としては、まだ整っていない。
けれど、少女が感じている寂しさが、以前より少しだけ見えてきた。
(この子は、離れることが嫌なんじゃなくて、離れたら今までみたいに話せなくなるのが怖いのかもしれない)
彩花はそう考え、しばらく原稿を眺めた。
祖母と一緒に花を育てた時間。
その思い出を、これからも続くものにしたい。
だから、少女は手紙を書こうとしている。
彩花は新しい文章を読み返し、星模様のノートへ一つだけ書き加えた。
『写真を見て、主人公は寂しさだけでなく、これからもつながっていたい気持ちを自覚する。』
まだ物語の答えが見つかったわけではない。
けれど、主人公の気持ちを一歩深く考えられたことが嬉しかった。
彩花はペンを置き、少しだけ肩の力を抜いた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日は文芸部の活動だったよね。どうだった?』
彩花は自然に微笑み、返事を打った。
『こんばんは、悠真君。今日は目次の確認をしたよ。ほかの部員と分担して見たんだけど、細かいところで気になる部分が見つかったから、先輩に伝えたんだ』
少しして、悠真から返信が届いた。
『そうなんだ。みんなで確認しているからこそ、気づけることもあるんだね』
『うん。私もそう思ったよ。一人で全部見ようとするより、みんなで確認した方が安心できるんだなって』
彩花はそう送信してから、少し考えた。
今日、佐々木先輩と新しい物語について話したことも伝えたい。
ただ、まだ完成していない物語の詳しい設定を、今ここで全部説明するつもりはなかった。
『それと、新しいお話のことも先輩に相談したんだ。まだ途中だけど、主人公の気持ちが少し分かってきた気がする』
悠真から、温かな返事が届いた。
『それはよかったね。彩花さんが大切に考えているお話だから、少しずつ形になっていくのが楽しみだよ』
彩花はその言葉に、頬を緩めた。
悠真は、物語の詳しい内容をまだ知らない。
それでも、彩花が大切にしていることを、同じように大切に受け止めてくれる。
『ありがとう。完成したら、悠真君にも読んでもらいたいな』
『もちろん。約束したからね。楽しみに待ってるよ』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
いつか、自分が書いた新しい物語を悠真に読んでもらう。
その約束があることが、今はとても嬉しかった。
◇
悠真は彩花とのメッセージを読みながら、机の上に置いたメモ紙へ目を向けた。
今日、琴葉と一緒に集めた葉。
祖父や家族から聞いた助言。
そして、少しずつ見えてきた贈り物の形。
まだ彩花には話していないが、準備を進めていることを思うと、自然に微笑みが浮かんだ。
悠真はスマートフォンへ視線を戻し、彩花へ返信を送った。
『彩花さん、今日もお疲れさま。部誌の確認も新しいお話も、無理しすぎないでね』
少しして、彩花から返事が届いた。
『ありがとう。悠真君もお疲れさま。今日は何か楽しいことあった?』
悠真はその問いに、少しだけ考えた。
練習用の葉を集めたことは、確かに楽しかった。
けれど、彩花への贈り物を考えていることは、まだ秘密にしておきたい。
悠真は言葉を選び、返事を打った。
『今日は琴葉と庭を少し歩いたよ。落ち葉がたくさんあって、秋ももう終わりに近づいているんだなって思った』
彩花から、すぐに返信が届いた。
『そうなんだ。落ち葉って、色が違うだけでも綺麗だよね。私もこの前、道に落ちている葉を見て、秋らしいなって思ったよ』
悠真はその文章を読み、少しだけ微笑んだ。
彩花も、落ち葉を見ると秋の景色を思い出すのだろう。
それなら、いつか橙色の葉を渡したとき、あの日の川沿いのことも思い出してくれるかもしれない。
(そのとき、彩花さんが笑ってくれたら嬉しいな)
悠真はそう考え、返事を打った。
『うん。季節が変わると、同じ道でも違って見えるよね。また一緒に歩けたら嬉しいな』
彩花から届いた返事は、温かなものだった。
『私も。また一緒に歩きたいな。今度は冬の景色も見てみたいね』
悠真はその言葉に、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
秋の川沿いを歩いた二人が、今度は冬の景色を見に行く。
それはまだ具体的な約束ではない。
けれど、季節が変わっても一緒に過ごしたいと思ってくれていることが、悠真には嬉しかった。
『そうだね。寒くなるから、暖かい日にゆっくり歩けるといいな』
送信してから、悠真は少しだけ考えた。
彩花と過ごした秋の時間。
これから一緒に見るかもしれない冬の景色。
そのどちらも、大切にしていきたい。
悠真はスマートフォンを置き、机の引き出しを静かに開けた。
紙の包みの中には、橙色の葉がある。
まだ完成していない贈り物。
けれど、その葉を見つけた日の気持ちは、今も変わらず胸に残っていた。
悠真は包みを手に取り、しばらく眺めたあと、丁寧に引き出しへ戻した。
明日は、今日調べた方法について、もう少し詳しく確認してみよう。
必要なら図書館の本も探してみたい。
そう考えると、これからの時間が少し楽しみになった。
◇
夜、彩花は淡い緑色のノートを開き、今日の出来事を書き留めていた。
文芸部で目次を確認したこと。
佐々木先輩と新しい物語について話したこと。
そして、悠真と冬の景色の話をしたこと。
彩花はペンを持ち、少し考えてから続きを書いた。
『秋の景色を一緒に見たことが、今も大切な思い出になっている。』
『冬になっても、また一緒に新しい景色を見られたら嬉しい。』
書き終えると、彩花は少しだけ頬を赤くした。
以前なら、こんな言葉を書くことにも迷っていたかもしれない。
けれど今は、自分が悠真と過ごす時間を大切に思っていることを、少しずつ認められるようになっていた。
(悠真君と一緒にいると、いつもの景色も違って見えるんだよね)
彩花はそう考え、ノートを閉じた。
机の上には、まだ完成していない新しい物語がある。
学校では、冬の部誌が完成へ近づいている。
そして、悠真との間にも、これから増えていく思い出がある。
どれも、今すぐ答えを出さなければならないものではない。
けれど、今日という一日を過ごしたことで、少しだけ先の景色が見えた気がした。
彩花は机のライトを消し、ベッドへ向かった。
窓の外では、冷たい夜の風が木々を静かに揺らしている。
秋は少しずつ終わりへ近づいている。
それでも、秋に生まれた大切な思い出まで消えてしまうわけではない。
彩花はそのことを胸に、ゆっくりと目を閉じた。
そして同じ夜、悠真もまた、机の引き出しにしまった橙色の葉を思い浮かべながら、静かに明日の準備を進めていた。
まだ形になっていない贈り物。
けれど、そこに込めたい気持ちは、少しずつ確かなものになっていた。




