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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第91話 まだ完成していない一冊に、私たちの時間が詰まっている


 火曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光は昨日よりも弱く、窓の向こうには薄い雲が広がっている。昨夜のうちに風が強くなったのか、庭の木々には残り少なくなった葉が揺れており、時折、乾いた音を立てて窓の近くを通り過ぎていった。


 彩花は布団の中でしばらく天井を眺めていたが、昨日の文芸部で行った作業を思い出すと、ゆっくりと体を起こした。


(今日は部誌の確認作業がある日じゃないけど、昨日見つかったところ、ちゃんと直るといいな)


 冬の部誌は、今週中に最終確認を終える予定になっている。印刷日も部数もまだ決まっていないものの、目次やページ番号を確認する段階まで進んでいることが、彩花には嬉しかった。


 机の上には、星模様の創作用ノートと、土曜日に悠真と一緒に選んだ淡い緑色のノートが並んでいる。昨日の夜は、緑色のノートに学校であったことや悠真へ伝えたいことを書き留めてから眠った。


 彩花は椅子へ腰掛け、ノートの表紙に指先を添えた。


 開けば、昨日の自分が考えていたことを確かめられる。けれど今朝はページをめくらず、机の上に置かれた二冊を眺めるだけにした。


 星模様のノートには、まだ完成していない物語がある。緑色のノートには、これから増えていく自分自身の思い出がある。


 どちらも、今の彩花にとって大切なものだった。


(書くものが違うだけで、どっちも忘れたくない気持ちを残してるんだよね)


 そう考えると、少し不思議な気がした。


 以前は、物語を書くことと日常の出来事を書き留めることを、別々のものだと思っていた。けれど、悠真と出かけた日のことをノートへ書いてみてから、日常の中で感じたことが物語を考える手がかりになるのだと、以前よりも強く実感している。


 彩花は星模様のノートを鞄へ入れ、緑色のノートは机の右端へ戻した。


 今日も学校で、何か新しいことを見つけられるかもしれない。


 そんな小さな期待を胸に、彩花は制服へ着替え始めた。


     ◇


 一階へ下りると、母の紗月がキッチンで朝食を準備していた。


 食卓には焼いたパンと卵料理が並び、温かなスープから湯気が立っている。父の耕助は新聞を読みながらコーヒーを飲んでおり、姉の凛花は学校の予定を確認しているところだった。


「おはよう、彩花。今日は少し曇っているみたいね」


 紗月が窓の外へ目を向けながら声をかけると、彩花も頷いた。


「おはよう、お母さん。さっき窓から見たけど、風も強そうだったよ。昨日より寒いのかな」


「天気予報では気温も少し下がるみたいだから、マフラーを忘れないようにね」


 彩花は返事をして席へ着いた。


 スープを一口飲むと、柔らかな温かさが体の中へ広がっていく。朝の食卓では、耕助が仕事の予定について少し話し、凛花が学校で提出する課題のことを説明していた。


 彩花は二人の話を聞きながら、パンを食べ進めた。


「そういえば彩花、昨日は部誌の確認が進んだんだったな」


 耕助が新聞を畳みながら尋ねた。


「うん。ページ番号が目次と違っているところがあって、昨日みんなで確認したんだ。今週中には最終確認を終わらせる予定なんだけど、まだ印刷の日は決まってないの」


「そうか。完成が近づくと、細かいところが気になるものだろうな」


「うん。私、自分の小説の文章ばかり気にしてたけど、一冊の本にするにはほかにも大事なことがたくさんあるんだって分かったよ」


 彩花は昨日の作業を思い出しながら説明した。


 自分の作品を仕上げるときは、登場人物の気持ちや文章の流れを何度も考えた。けれど部誌では、どの作品がどのページにあるのか、作者名が正しく載っているのか、読みたい作品を迷わず見つけられるのかといったことも大切になる。


 凛花はその話を興味深そうに聞いていた。


「読む側だと、目次が正しく載っているのって当たり前だと思っちゃうけど、誰かが確認してくれているからなんだね」


「そうなの。昨日も、別の部員がずれに気づいてくれたんだ。私一人だったら見落としてたかもしれない」


「みんなで作るって、そういうところがいいんだろうね」


 姉の言葉に、彩花は頷いた。


「うん。自分が書いたものが載るのも嬉しいけど、みんなで一冊を完成させるのも楽しいなって思ってる」


 紗月は娘の表情を見て、穏やかに微笑んだ。


「彩花が文芸部に入ってから、書くことについて話してくれる機会が増えたわね。最近は自分の作品だけじゃなくて、ほかの人の作品を読むときにも、いろいろ考えているみたいだし」


 彩花は少し照れながら笑った。


「先輩たちの作品を読むと、私には思いつかない表現がいっぱいあるんだ。勉強になるし、読んでいて楽しいよ」


「それなら、部誌が完成したときは、きっと今までとは違う気持ちで読めるでしょうね」


 紗月の言葉に、彩花は完成した部誌を手に取る自分の姿を想像した。


 まだ実際にどんな一冊になるのか、すべてが決まっているわけではない。けれど、灰色を基調とした表紙の向こうに、部員たちが書いた詩や物語が並んでいる様子を思い浮かべると、自然に胸が弾んだ。


 朝食を終えた彩花は食器を片づけ、玄関でマフラーを巻いた。


 外へ出ると、予想していたとおり冷たい風が頬を撫でた。住宅街の道には落ち葉が集まっており、通学する生徒たちも少し肩をすくめながら歩いている。


 彩花は鞄を持ち直し、青葉高校へ向かって歩き始めた。


     ◇


 青葉高校の教室では、朝から暖房が入っていた。


 廊下の冷たい空気から教室へ入ると、窓際の席には淡い日差しが落ち、数人の生徒が昨日の授業について話している。彩花が席へ着くと、田辺大地が鞄から教科書を取り出しながら顔を上げた。


「水瀬、おはよう。昨日、妹に部誌のこと伝えたよ」


「おはよう、田辺君。ありがとう。妹さん、何か言ってた?」


 彩花が尋ねると、大地は少し困ったように笑った。


「印刷の日がまだ決まってないって話したら、残念そうにはしてたけど、ちゃんと待つって言ってた。それで、俺に『完成したら忘れずに聞いてね』って念を押してきたんだ」


「ふふっ。そんなに楽しみにしてくれてるんだね」


「そうみたいだな。前に読んだ水瀬の話が、よっぽど気に入ったんだと思う」


 大地はそう言ってから、少し真面目な表情になった。


「でも、持ち帰れるか分からないなら無理しなくていいからな。俺も妹にはそう言ってあるし、もし学校の外へ配れない決まりだったら、それは仕方ないことだし」


 彩花はその気遣いに、ほっとした。


「ありがとう。昨日、先輩にももう一度聞いたんだけど、やっぱり部数が決まってからじゃないと分からないみたい。正式に決まったら伝えるね」


「ああ。それで十分だよ」


 大地は頷き、机の上へ教科書を置いた。


 彩花はその様子を見ながら、少しだけ考えた。


 自分の物語を楽しみにしてくれる人がいることは嬉しい。けれど、誰かの期待に応えたいという気持ちだけで、部の決まりを曖昧にしてはいけない。


 佐々木先輩が以前、まだ約束しない方がいいと教えてくれた理由も、今ならよく分かる。


「田辺君、妹さんにありがとうって伝えてもらってもいい?」


 彩花がそう頼むと、大地は少し驚いたように顔を上げた。


「もちろんいいけど、何かあった?」


「ううん。ただ、楽しみにしてくれているって聞くたびに嬉しいから。まだ読んでもらえるか決まってないけど、その気持ちだけでもちゃんと伝えたくて」


 大地は彩花の言葉を聞き、穏やかに頷いた。


「分かった。帰ったら伝えとくよ。たぶん、すごく喜ぶと思う」


 彩花は礼を言い、授業の準備を始めた。


 窓の外では、校庭の端に植えられた木々が風に揺れている。朝の光を受けた枝の影が窓枠に細く伸び、その向こうを体育館へ向かう生徒たちが歩いていった。


 彩花は教科書を開きながら、昨日見た部誌の試し刷りを思い出した。


 まだ完成していない一冊を、楽しみに待ってくれている人がいる。


 そのことが、今日の彩花にはいつも以上に大切に感じられた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が午前中の授業を終え、森川航平と昼食を取っていた。


 教室の窓から見える中庭では、冷たい風に揺れる木々の下を生徒たちが足早に歩いている。悠真は弁当箱を開きながら、午前中に先生から返却された生徒会の確認資料を思い出していた。


 昨日まとめた内容について、大きな修正はなかった。ただ、一部の説明が分かりにくいという指摘があり、午後の空き時間に担当者と確認することになっている。


「九条、今日は生徒会室に寄るんだよな」


 航平が飲み物を机へ置きながら尋ねた。


「うん。昨日提出した資料のことで、先生から少し確認があったから。大きな修正じゃないけど、説明の順番を変えた方が分かりやすいみたいなんだ」


「なるほどな。じゃあ、俺も一緒に確認するよ。昨日は分担して作ったんだし、最後まで見た方がいいだろ」


 悠真は友人の言葉に頷いた。


「ありがとう。森川がいてくれると助かるよ」


「お前一人で抱え込まないようにするのも、俺の仕事だからな」


 航平は冗談めかして言ったが、その表情にはいつもの気遣いがあった。


 悠真は小さく笑い、箸を置いた。


「最近は、前より頼れるようになったと思うんだけど」


「まあな。前だったら、自分で確認した方が早いって言って、一人で全部やろうとしてたかもしれない」


 航平はそう答え、少しだけ表情を和らげた。


「でも今は、ちゃんと相談してくれるようになったし、予定を詰め込みすぎないようにもしてるだろ。いい変化だと思うぞ」


 悠真はその言葉を聞き、少し考えた。


 確かに、以前は自分が引き受けた仕事なら、最後まで一人で責任を持たなければならないと考えることが多かった。けれど、誰かと協力することは責任を手放すことではなく、よりよい結果を目指すための方法なのだと、最近は自然に思えるようになっている。


 それは生徒会の活動だけでなく、彩花と過ごす時間にもつながっていた。


(彩花さんも、自分の作品のことを先輩や家族に相談してるんだよな。俺も、誰かに頼ることをもう少し自然にできるようになりたい)


 悠真がそんなことを考えていると、航平がふと話題を変えた。


「そういえば、土曜日に行った文房具店のこと、昨日聞いただろ。あれからちょっと気になってさ」


「何か探しているものでもあるの?」


「いや、妹が友達の誕生日にカードを渡したいって言ってたんだ。普通の文房具店にもあるだろうけど、種類が多いなら教えてやろうかと思って」


 悠真は土曜日に彩花と見た棚を思い出した。


 小さな店内には、季節の花を描いたカードや、落ち着いた色合いの封筒が並んでいた。贈る相手の好みを考えながら選ぶには、確かに楽しそうな場所だった。


「それなら、いいかもしれない。カードの種類も多かったし、店員さんが紙の違いを説明してくれるみたいだったよ。ただ、どんなものがあるかは実際に見てもらった方がいいと思う」


「そうだな。今度妹に話してみるよ」


 航平はそう答え、少しだけ笑った。


「それにしても、九条が文房具店のことをそんなに詳しく話すようになるとは思わなかったな」


「俺も、こんなに興味を持つとは思ってなかったよ」


 悠真は素直に答えた。


「彩花さんと一緒に見たから、普段なら気づかないところにも目が向いたんだと思う」


 航平は友人の表情を見て、静かに頷いた。


 悠真は昔から落ち着いていて、人の話をよく聞く人物だった。けれど、彩花のことを話すときには、相手が好きなものを自分も知りたいという気持ちが、以前よりはっきり表情に出るようになっている。


(本人は、どこまで自覚してるんだろうな)


 航平はそう思ったが、今は何も言わなかった。


 悠真が自分の気持ちを大切にしながら、少しずつ変わっていく姿を見守ることも、友人としてできることの一つだと思っていた。


     ◇


 昼休みの終わり頃、彩花は青葉高校の図書室にいた。


 今日は文芸部の活動がないため、放課後までに少しだけ本を探しておこうと思ったのだ。新しい物語の参考にしたいという気持ちもあったが、何より、読みたい本をゆっくり選ぶ時間が好きだった。


 書架の間には静かな空気が流れ、窓際の閲覧席では数人の生徒が本を開いている。ページをめくる音や、遠くから聞こえる足音が重なり、教室とは違う落ち着いた雰囲気が広がっていた。


 彩花は物語の棚を眺めながら、一冊の短編集へ手を伸ばした。


 背表紙には、日常の中で交わされる小さな約束を題材にした作品が収められていることが書かれている。彩花は目次を開き、気になる題名をいくつか確かめた。


(約束って、必ずしも大きなことじゃなくていいんだよね。来年花が咲いたら写真を送るっていうのも、二人にとっては大切な約束になるのかもしれない)


 彩花は新しい物語のことを思い出した。


 遠くへ引っ越す祖母と、手紙を書こうとしている少女。


 少女は寂しいと思っているが、それだけを伝えたいわけではない。離れたあとにも続いていく関係を、どう言葉にすればいいのか迷っている。


 彩花は短編集の紹介文を読み、少し考えてから貸出手続きをすることにした。


 物語の参考になるかどうかは、まだ分からない。


 けれど、誰かが書いた別の物語を読むことで、自分が考えていることを違う角度から見られるかもしれなかった。


 貸出手続きを終えた彩花は、鞄へ本をしまう前に、表紙をもう一度眺めた。


 そのとき、ふと悠真の顔が思い浮かんだ。


 悠真なら、この本のどんなところに興味を持つだろう。


 題名の響きかもしれないし、紹介文に書かれた登場人物の関係かもしれない。あるいは、自分が気づかなかった別の部分を見つけるのかもしれなかった。


(今度、悠真君にもこの本のことを話してみようかな。まだ読んでないから、まずは私が読んでからだけど)


 彩花は小さく微笑み、本を鞄へしまった。


 予鈴が鳴るまで、あと少し。


 彩花は時計を確かめ、図書室を出て教室へ戻った。


     ◇


 放課後、彩花が帰り支度をしていると、教室の入口から声がかかった。


「水瀬さん、少しいいかしら?」


 振り返ると、佐々木先輩が廊下に立っていた。


 彩花は鞄を持ち、先輩のところへ向かった。


「はい。どうしましたか?」


「昨日確認してもらった部誌のことで、少し伝えておきたいことがあるの。今、時間は大丈夫?」


「はい、大丈夫です」


 二人は廊下の窓際へ移動した。


 放課後の校舎には、部活動へ向かう生徒たちの足音が響いている。窓の向こうでは校庭に集まった運動部員たちが準備を始めており、冷たい風に揺れる木々の影が地面へ伸びていた。


 佐々木先輩は手に持っていた確認表を開いた。


「昨日見つかったページ番号のずれ、先生と一緒に確認して修正することになったわ。ほかのページも調べたけれど、今のところ同じようなずれは見つかっていないの」


「よかったです。昨日のうちに気づけて、本当によかったですね」


「そうね。印刷したあとだったら直すのが難しくなるから、今の段階で確認できて安心したわ」


 佐々木先輩はそう言って微笑んだ。


 彩花もほっとしたが、先輩の手元にはまだいくつか印が付いていることに気づいた。


「ほかにも、確認するところがあるんですか?」


「うん。表紙の灰色の濃さについて、先生からもう一度見てほしいって言われたの。金曜日に少し明るくしたでしょう? 文字は読みやすくなったんだけど、実際に印刷したときの見え方を考えると、もう少し確認した方がいいかもしれないって」


 彩花は以前見た表紙案を思い出した。


 窓と葉の落ちた枝を描いた、落ち着いた灰色の表紙。


 最初の案は少し暗く感じられたため、部員たちで相談して明るさを調整した。けれど、画面上や普通の印刷用紙で見た色と、実際に部誌として印刷されたときの色が同じとは限らない。


「そうなんですね。私、金曜日に見たときは読みやすくなったと思ったんですけど、印刷する紙によっても違うんですね」


「そうなの。だから、先生が印刷をお願いするところへ確認してくださるみたい。私たちは、今ある資料の中でできることを進めておきましょう」


 佐々木先輩は説明を終えると、確認表を閉じた。


「水瀬さんには、次の活動のときに目次の最終確認をお願いしたいと思っているの。昨日も丁寧に見てくれていたから、ほかの部員と一緒にもう一度確かめてもらえると助かるわ」


 彩花は少し驚いた。


 自分が担当した部分を、もう一度確認する。


 それ自体は難しいことではないが、先輩が自分の作業を信頼して頼んでくれたことが嬉しかった。


「はい。ぜひやらせてください。昨日見つかったところだけじゃなくて、作者名や題名も確認します」


「ありがとう。でも、一人で全部見ようとしなくていいからね。ほかの部員とも分担して、違う人の目で確かめることが大切だから」


 彩花はその言葉に頷いた。


 昨日、大地に話したことを思い出す。


 自分一人では見落としていたかもしれないことを、ほかの部員が見つけてくれた。だからこそ、一冊の本を完成させるまでには、何度も確認し合う時間が必要なのだ。


「分かりました。みんなと相談しながら進めます」


 彩花が答えると、佐々木先輩は安心したように微笑んだ。


「それと、配布のことはまだ決まっていないから、もう少し待っていてね。先生から正式な連絡があったら、すぐに伝えるわ」


「はい。ありがとうございます」


 二人はそこで別れ、彩花は階段へ向かった。


 廊下を歩きながら、先ほどの会話を思い返す。


 表紙の確認も、目次の修正も、まだ終わっていない。


 けれど、それは完成から遠ざかっているということではない。むしろ、最後まで丁寧に仕上げるために必要な時間なのだと思えた。


(早く完成してほしい気持ちはあるけど、急いで間違いが残るより、ちゃんと確認してからの方がいいよね)


 彩花は鞄の持ち手を握り直し、昇降口へ向かった。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真と航平が生徒会室で資料の修正を進めていた。


 窓際の机には、昨日提出した書類と先生からの指摘が書かれた紙が並んでいる。修正するのは説明の順番と、一部の表現だけだったが、読み手が内容を理解しやすくなるよう、二人は慎重に確認していた。


「ここの説明、先に目的を書いた方が分かりやすいんじゃないか?」


 航平が資料の一箇所を指差した。


 悠真はその部分を読み返し、少し考えた。


「そうだね。今の順番だと、何のための作業なのか分かる前に細かい説明が始まってる。最初に目的を書いて、そのあと手順を説明した方が自然だと思う」


「だろ? じゃあ、ここは俺が直すから、九条は次のところを見てくれ」


 航平がそう言うと、悠真は頷いた。


 二人は担当を分け、しばらく作業を続けた。


 生徒会室には紙をめくる音と、ペン先が走る小さな音が響いている。廊下では別の委員会の生徒たちが通り過ぎ、時折、遠くから笑い声が聞こえてきた。


 悠真は資料を読みながら、ふと彩花が昨日話していた部誌のことを思い出した。


 目次やページ番号を確認する作業。


 自分たちが今していることと、少し似ている。


 読む人や使う人が困らないように、細かなところまで確かめる。完成したものを手に取る人には見えにくい仕事だが、だからこそ大切なのだろう。


(彩花さんも、今頃こんなふうに確認しているのかな)


 悠真はそう考え、少しだけ微笑んだ。


 すると航平が顔を上げた。


「九条、何かいいことでも思い出したか?」


「え?」


「いや、さっきからちょっと楽しそうだったから。資料の確認がそんなに面白いのかと思って」


 航平の言い方に、悠真は思わず笑った。


「資料のことも考えてたけど、彩花さんの文芸部の話を思い出したんだ。冬の部誌を作るために、目次やページ番号を確認してるって言ってたから」


「ああ、なるほどな。確かに似てるかもしれないな」


 航平は納得したように頷いた。


「でも、お前がそんなふうに別の学校の活動を身近に感じるようになったの、ちょっと面白いな」


「そうかな?」


「そうだよ。前は自分の仕事のことを考えてる時間が長かったけど、最近は水瀬さんの話を聞いて、いろいろ興味を持つようになっただろ」


 悠真は少し考えてから頷いた。


「確かに、そうかもしれない。彩花さんが楽しそうに話してくれると、俺もそのことを知りたくなるんだ」


 航平はその答えを聞き、穏やかに笑った。


「いいことだと思うぞ。知らなかったものに興味を持つきっかけが増えるってことだろ」


「うん。俺もそう思う」


 二人は再び資料へ目を戻した。


 作業は予定より少し早く終わり、修正した内容を確認してから、先生へ提出する準備を整えた。


 悠真は最後のページを揃えながら、今日も無理なく仕事を終えられたことに安堵した。


 誰かと協力して一つのものを仕上げる時間。


 その中で、自分とは違う考え方に触れること。


 最近の悠真は、そうした時間にも以前より楽しさを感じるようになっていた。


     ◇


 夕方、彩花が帰宅すると、玄関には姉の靴が置かれていた。


 リビングへ入ると、凛花がテーブルで本を読んでおり、キッチンからは夕食の準備をする紗月の声が聞こえてくる。


「ただいま」


「おかえり、彩花。今日は少し遅かったね」


 凛花が顔を上げると、彩花は鞄を置いて頷いた。


「うん。文芸部の先輩から部誌のことでお話があったんだ。昨日見つかったところは修正することになったんだけど、表紙ももう少し確認するみたい」


「そうなんだ。完成が近づいているからこそ、慎重になるんだね」


「うん。私も、最後までちゃんと確認したいなって思ってる」


 彩花はそう答え、マフラーを外した。


 凛花は本にしおりを挟み、妹の方へ体を向けた。


「彩花、少し聞いてもいい?」


「うん、何?」


「部誌が完成したら、やっぱり緊張する? 自分の作品をいろんな人に読んでもらうんでしょう?」


 その問いに、彩花は少し考えた。


 以前、初めて作品を誰かに読んでもらったときのことを思い出す。感想を聞くまでは落ち着かず、気に入ってもらえるだろうかと何度も考えていた。


 今でも、その気持ちがなくなったわけではない。


「うん。たぶん緊張すると思う。自分ではいいと思って書いたところも、読む人には違うふうに伝わるかもしれないし」


 彩花はそう答えてから、少しだけ微笑んだ。


「でも、前より楽しみな気持ちも大きいかな。先輩たちに読んでもらったとき、私が考えてなかったところを褒めてもらえたこともあったから」


 凛花はその言葉に頷いた。


「そっか。読んでもらうことで、自分の作品の新しいところが見えることもあるんだね」


「うん。だから、怖い気持ちがあっても、読んでもらいたいって思うんだ」


 彩花はそう言ってから、少し照れくさそうに笑った。


「それに、楽しみにしてくれている人がいるって知ると、やっぱり嬉しいし」


 凛花は妹の表情を見て、穏やかな気持ちになった。


 以前の彩花は、自分が書いたものを人に見せるとき、相手の反応を気にしすぎることがあった。けれど今は、不安を感じながらも、読んでもらうことの楽しさを自分の言葉で話している。


(彩花、本当に少しずつ変わってきたんだな)


 凛花はそう思い、優しく微笑んだ。


「完成したら、きっといい経験になるね。私も読める機会があったら嬉しいけど、学校の決まりがあるなら無理しなくていいから」


「ありがとう、お姉ちゃん。決まったらちゃんと伝えるね」


 彩花はそう答え、鞄を持って自室へ向かった。


     ◇


 夕食までの時間、彩花は机に向かい、昼休みに借りた短編集を開いた。


 窓の外では夕方の光が少しずつ薄くなり、部屋の中には机のライトが柔らかな明かりを落としている。彩花は最初の作品を読み始め、登場人物たちが交わす何気ない約束に、少しずつ引き込まれていった。


 物語の中では、離れて暮らす友人同士が、季節の変わり目に短い便りを送り合っていた。


 特別な出来事が起きるわけではない。


 けれど、相手が元気にしていることを知るだけで安心したり、何気ない言葉を読み返して笑顔になったりする場面が、丁寧に描かれていた。


 彩花はページをめくりながら、少しだけ考えた。


(手紙って、何か大きなことを伝えるためだけじゃないんだよね。今日あったこととか、見つけたものとか、そういう小さなことを伝えるだけでも嬉しいのかもしれない)


 その考えは、新しい物語の主人公にもつながる気がした。


 少女は、祖母へ何を書けばいいのか迷っている。


 けれど、立派な言葉を選ばなければならないと思うほど、最初の一行が遠くなってしまうのかもしれない。


 彩花は本を閉じ、星模様のノートを開いた。


 昨日書いたメモの下へ、新しい考えを書き加える。


『主人公は、特別な言葉を書こうとして迷っている。』


『でも、本当に伝えたいのは、これからも一緒に話したいという気持ちなのかもしれない。』


 彩花はそこまで書き、少しだけペンを止めた。


 祖母と一緒に花を育てた思い出。


 遠くへ引っ越すことへの寂しさ。


 来年花が咲いたら写真を送るという約束。


 それらをどうつなげれば、少女の気持ちが自然に伝わるのだろう。


 まだ答えは出ていない。


 けれど、少しずつ考えていくうちに、主人公が何を大切にしているのかが見えてきた気がした。


 彩花はノートの余白に、もう一つ問いを書き加えた。


『この子は、どんな言葉なら最初に書けるんだろう?』


 その問いを眺めていると、土曜日の喫茶店で悠真と話したことが思い出された。


 手紙を書く人がどんな紙を選ぶのか。


 相手の好きなものを選ぶのか、自分の好きなものを見せたいと思うのか。


 悠真は、どちらの気持ちもその人らしさにつながると言っていた。


 彩花は少しだけ微笑んだ。


(悠真君と話したことが、またお話を考えるきっかけになってるんだな)


 彼に新しい物語を読んでもらう約束はしている。


 けれど、まだ完成していないし、詳しい設定も話していない。


 いつか完成したとき、悠真がどんな感想をくれるのか。


 それを想像すると、少し緊張する一方で、楽しみな気持ちも大きかった。


 彩花はノートを閉じ、借りた短編集へ視線を戻した。


 今はまだ、自分の物語を急いで進める必要はない。


 まずは、ほかの人が書いた物語を楽しみながら、自分が大切にしたいものを少しずつ見つけていこうと思った。


     ◇


 九条家では、悠真が夕食前に祖父の俊治と話していた。


 居間の窓からは庭の木々が見え、日が傾くにつれて枝の影が長く伸びている。俊治は温かいお茶を飲みながら本を読んでいたが、悠真が入ってくると、穏やかに顔を上げた。


「悠真、今日は学校の方はどうだった?」


「うん。生徒会の資料を少し直したけど、予定どおり終わったよ。森川と一緒に確認したから、思っていたより早く済んだんだ」


 悠真がそう答えると、俊治は満足そうに頷いた。


「それはよかった。人に任せられるところは任せて、自分が確認すべきところを丁寧に見る。それも大切なことだからな」


「うん。最近、少しずつ分かってきた気がする」


 悠真は祖父の向かいへ腰掛けた。


 しばらく学校の話をしてから、ふと土曜日の文房具店のことを思い出した。


「おじい様、少し聞いてもいいですか?」


「もちろんだ。どうした?」


「この前、彩花さんと文房具店へ行ったときに、紙を使った小物をいろいろ見たんです。しおりやカードもあって、同じ紙でも作り方によって印象が変わるんだなと思って」


 俊治は興味深そうに耳を傾けた。


「そうだな。紙は使い方によって表情が変わるものだ。文字を書くためのものもあれば、何かを包んだり、飾ったりするためのものもある」


「はい。それで、以前お話した押し葉のことも、もう少し調べてみようと思っているんです」


 俊治はその言葉に頷いた。


 悠真が川沿いで拾った葉を大切にしていることは、以前から知っている。


 ただ、どんな形にしたいのかについては、まだ具体的な答えが出ていないようだった。


「大切な葉なら、急いで加工しない方がいいだろうな。保存する方法によっては、色が変わったり、傷みやすくなったりすることもある」


「そうですね。琴葉も少し調べてくれたんですけど、湿気や日差しに気をつける必要があるみたいで」


 悠真はそう答え、少し考えた。


「もし何かに使うなら、実際に加工する前に、別の葉で試してみた方がいいのかもしれません」


 俊治は孫の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


「それはいい考えだ。大切なものほど、いきなり手を加えるのは慎重になった方がいい。似たような葉で試せば、どんな変化が起きるのかも分かるかもしれない」


「ありがとうございます。まずは方法を調べて、必要なら試してみます」


 悠真が頷くと、俊治は少しだけ目を細めた。


「悠真、その葉をどうするかは、まだ決めていないんだったな」


「はい。彩花さんに何か贈れたらと思っているんですけど、形はまだ決めていません」


 悠真は素直に答えた。


 祖父には以前から相談しているため、隠す必要はない。


 けれど、彩花本人にはまだ何も話していない。


 贈り物にするなら、彼女が受け取ったときに初めて知ってほしいという気持ちもあった。


「そうか。ならば、葉を残すことだけにこだわらず、相手がどう受け取るかも考えてみるといい」


 俊治はお茶を一口飲み、言葉を続けた。


「大切なのは、物そのものだけではない。その葉を見て、どんな時間を思い出してほしいのか。そこがはっきりすれば、形も少しずつ見えてくるかもしれん」


 悠真は祖父の言葉を聞き、静かに頷いた。


 川沿いの道を彩花と歩いた日。


 ベンチの近くで、秋の葉を見つけたこと。


 彼女が楽しそうに笑っていたこと。


 あの日の時間を思い出してほしい。


 それが、自分の中にある一番大切な気持ちなのかもしれなかった。


(ただ綺麗なものを渡したいんじゃないんだ。彩花さんと一緒に過ごした時間を、これからも大切にしたいんだよな)


 悠真はそう考え、少しだけ微笑んだ。


「ありがとうございます、おじい様。何を大切にしたいのか、もう一度考えてみます」


 俊治は穏やかに頷いた。


「それでいい。急がずに、自分の気持ちを確かめながら考えなさい」


 悠真は礼を言い、しばらく祖父と本の話をしてから自室へ戻った。


     ◇


 夕食後、彩花は机の上に置いた淡い緑色のノートを開いていた。


 今日は学校であったことを少し書き留めようと思っていたが、ペンを持つと、最初に浮かんだのは文芸部のことだった。


 まだ完成していない冬の部誌。


 目次やページ番号を確認し、表紙の色合いを調整しながら、少しずつ一冊の形へ近づいている。


 彩花は今日の日付を書き、ゆっくりと文章を続けた。


『冬の部誌は、まだ完成していない。』


『でも、みんなで確認している時間も、きっと完成した一冊の中に残るんだと思う。』


 書き終えると、彩花は少しだけ考えた。


 完成した部誌を読む人は、ページ番号を何度も確認したことや、表紙の明るさを調整したことを知らないかもしれない。


 それでも、そうした時間がなければ、今の一冊にはならなかった。


 彩花はそのことを、忘れたくないと思った。


 さらにもう一行書き加えようとしたところで、スマートフォンが震えた。


 画面には悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日は学校どうだった?』


 彩花は自然に微笑み、返事を打った。


『こんばんは、悠真君。今日は文芸部の先輩から部誌のことで連絡があったよ。昨日見つかったところは修正することになったんだけど、表紙ももう少し確認するみたい』


 しばらくすると、返信が届いた。


『そうなんだ。完成が近づいているからこそ、最後まで丁寧に確認しているんだね』


 彩花はその文章を読み、嬉しくなった。


 悠真は、部誌の作業について詳しく知っているわけではない。


 それでも、彩花が大切にしていることを、同じように大切に受け止めてくれる。


『うん。私も、ちゃんと確認してから完成させたいなって思ってる。今日は先輩から、次の活動で目次の最終確認をお願いされたんだ』


『それは嬉しいね。彩花さんが丁寧に作業していること、先輩も分かってくれているんだと思う』


 彩花はその言葉に、少しだけ頬を緩めた。


 佐々木先輩に頼まれたとき、自分でも嬉しかった。


 けれど、悠真からそう言ってもらうと、その嬉しさがもう一度胸に広がるようだった。


『ありがとう。ほかの部員とも一緒に、しっかり確認してみるね。悠真君は今日はどうだった?』


『俺も生徒会の資料を少し直したよ。森川と分担したから、予定より早く終わったんだ』


『そうなんだ。お疲れさま。悠真君も、無理しすぎないでね』


 悠真から、ありがとうという返事が届いた。


 彩花はその文字を眺め、少しだけ考えた。


 今日の昼休みに借りた短編集のことも、話してみたい。


 まだ読み始めたばかりだが、何気ない約束を大切にする物語が収められていて、興味深く感じた。


『そういえば、今日学校の図書室で短編集を借りたんだ。まだ少ししか読んでないんだけど、日常の小さな約束が出てくるお話で、面白そうだったよ』


 彩花が送信すると、悠真からすぐに返信が届いた。


『いいね。どんなお話なのか気になるな。彩花さんが読み終わったら、感想を聞かせてもらってもいい?』


 彩花は嬉しそうに微笑んだ。


『もちろん。読み終わったら話すね。悠真君にも気に入ってもらえるかもしれない』


『楽しみにしてるよ。俺も最近読んだ本のこと、今度話したいな』


 その言葉に、彩花は少しだけ胸を弾ませた。


 土曜日に一緒に文房具店へ出かけたときも、悠真が好きなものをもっと知りたいと思った。


 本のことなら、今まで何度も話している。


 それでも、まだ知らない作品や、彼がどんなところに心を動かされたのか、聞いてみたいことはたくさんあった。


『うん。私も聞きたいな。今度、ゆっくり本のお話しようね』


 送信すると、悠真から温かな返事が届いた。


『もちろん。彩花さんと本の話をする時間、俺も好きだから』


 彩花はその文章を読み、少しだけ頬を赤くした。


 悠真は以前から、自分と話す時間が好きだと言ってくれている。


 けれど、何度聞いても嬉しい。


 その言葉を受け取るたびに、彼と過ごす時間が自分にとってどれほど大切なのかを、改めて感じるようになっていた。


     ◇


 同じ頃、悠真は自室の机に向かい、彩花とのメッセージを読み返していた。


 彼女が冬の部誌について話すとき、文章からも嬉しさが伝わってくるように感じる。


 完成した作品を読むことはもちろん楽しみだ。


 けれど、悠真にとっては、彩花が自分の好きなことに向き合い、少しずつ成長していく姿を知ることも嬉しかった。


 悠真はスマートフォンを置き、机の引き出しへ目を向けた。


 そこには、彩花からもらった淡い青色の花柄カードと、川沿いで拾った橙色の葉が大切にしまわれている。


 今日、祖父と話したことを思い出す。


 何を贈るかだけではなく、どんな時間を思い出してほしいのか。


 その言葉は、今も心に残っていた。


 悠真は引き出しを開け、葉を挟んだ紙の包みへ視線を向けた。


 まだ加工するつもりはない。


 保存方法についても、もう少し調べる必要がある。


 けれど、以前より少しだけ、自分が何を大切にしたいのかが分かってきた気がした。


(彩花さんがあの日のことを思い出したとき、嬉しい気持ちになってくれたらいいな)


 悠真はそう考え、引き出しを静かに閉じた。


 贈り物の形は、まだ決まっていない。


 それでも、急いで答えを出す必要はないと思えた。


 彩花が自分の物語を少しずつ考えているように、悠真もまた、自分の気持ちをどんな形にすればいいのか、ゆっくり探していけばいい。


 机の上のスマートフォンが再び震えた。


 画面には彩花からのメッセージが表示されていた。


『悠真君、今日はありがとう。お話できて嬉しかったよ。また明日も頑張れそう』


 悠真は自然に微笑み、返事を打った。


『俺も嬉しかったよ。彩花さんの部誌が少しずつ完成に近づいているのを聞けて、楽しみが増えた気がする』


 送信してから、少し考える。


 彩花が大切にしている時間を、自分も大切に思いたい。


 その気持ちは、以前から少しずつ育ってきたものだった。


 悠真はもう一通、メッセージを送った。


『完成まで忙しいと思うけど、無理しすぎないでね。彩花さんが楽しんで作った一冊を、いつか読めるのを楽しみにしてる』


 しばらくして、彩花から返事が届いた。


『ありがとう。そう言ってもらえると、すごく嬉しい。完成したら、ぜひ感想を聞かせてね』


 悠真はその文章を読み、穏やかに頷いた。


 部誌を実際に読めるかどうかは、まだ学校の決まり次第だ。


 けれど、もし読む機会ができたなら、彩花がどんな気持ちで書いたのかを考えながら、一ページずつ丁寧に読みたいと思った。


     ◇


 夜が更ける頃、彩花は淡い緑色のノートをもう一度開いた。


 今日書いた文章の下には、まだ余白が残っている。


 彩花はペンを持ち、少し考えてから続きを書き始めた。


『完成した部誌には、みんなが書いた言葉だけじゃなくて、そこへたどり着くまでの時間も詰まっている。』


 書き終えると、彩花は静かに文字を見つめた。


 自分の作品『いつか、ここに』を書いた時間。


 先輩たちと相談した時間。


 目次やページ番号を確かめた時間。


 表紙の色合いについて意見を出し合った時間。


 そうした一つ一つが重なって、冬の部誌は完成へ近づいている。


 そして、その過程を悠真へ話すことも、彩花にとって大切な時間になっていた。


(完成したら、きっと今まで以上に嬉しいんだろうな。でも、今のこの時間も忘れたくない)


 彩花はノートを閉じ、机の右端へ戻した。


 星模様のノートには、まだ完成していない新しい物語がある。


 淡い緑色のノートには、今日も新しい思い出が一つ増えた。


 そして、学校では冬の部誌が少しずつ形になっている。


 どれも、今すぐ完成させなければならないものではない。


 大切なのは、そこへ向かう時間を丁寧に重ねていくことなのだと思った。


 彩花は机のライトを消し、ベッドへ向かった。


 窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。


 明日も学校がある。


 文芸部の活動では、また新しい確認作業が待っているかもしれない。


 けれど、今はそれが楽しみだった。


 彩花は布団へ入り、目を閉じた。


 今日、悠真から届いた言葉を思い返す。


『彩花さんが楽しんで作った一冊を、いつか読めるのを楽しみにしてる』


 その言葉が、胸の奥へ温かな余韻を残していた。


 まだ完成していない一冊。


 けれど、その中にはすでに、たくさんの人の時間と気持ちが詰まっている。


 彩花はそのことを大切に思いながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。

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