第90話 君に伝えたいことが、また一つ増えました
月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外では細い枝が冷たい風に揺れていた。
昨日は一日を通して薄い雲が広がっていたが、今朝は空の高いところまで青く澄んでいる。窓ガラスの向こうに見える住宅街はまだ静かで、庭の隅には昨夜のうちに落ちたらしい葉が数枚、寄り添うように集まっていた。
彩花は布団の中で時計を確かめ、ゆっくりと起き上がった。週末が終わり、今日からまた学校が始まるのだと思うと、少しだけ名残惜しい気持ちになる。
けれど、机の上に置かれた淡い緑色のノートが目に入った途端、その気持ちは穏やかな楽しさへ変わった。
土曜日、悠真と一緒に選んだノートだった。
表紙には小さな葉の模様が描かれており、まだ使い始めたばかりの紙には、二人で文房具店へ出かけた日のことが書かれている。
昨日の夜、最後に書き加えた一文も、そのまま残っていた。
『好きなものを一緒に見つける時間も、好きな人のことを知る時間も、どちらも大切にしたい。』
彩花は椅子に腰掛け、ノートを開いた。
改めて文字を読むと、昨夜と同じように頬が少し温かくなる。
(好きな人、か……。昨日は自然に書いちゃったけど、今読むと、やっぱりちょっと恥ずかしいな)
悠真と話していると嬉しい。会う約束ができれば、その日までの時間が楽しみになるし、別れたあとには、また会いたいと思う。
その気持ちを、ただ仲のよい友人だからという言葉だけで説明するのは、最近少し難しくなっていた。
けれど、今すぐ答えを決めなければならないとも思わなかった。
彩花はノートの端を指で押さえ、しばらく文字を眺めたあと、静かにページを閉じた。
悠真へ伝えたいことは、まだたくさんある。
それは昨日考えていた物語のことかもしれないし、週末に見つけた小さな発見かもしれない。あるいは、今はまだ自分でもうまく言葉にできない気持ちなのかもしれなかった。
彩花はノートを机の右端へ戻し、制服へ着替え始めた。
今日は文芸部の活動がある。
冬の部誌についても、何か進展があるかもしれない。
そう考えると、週明けの朝にも楽しみなことが見つかる気がした。
◇
一階へ下りると、キッチンから温かい味噌汁の香りが漂ってきた。
リビングでは父の耕助が新聞を畳んでおり、母の紗月は弁当箱を包んでいる。凛花はすでに朝食を終えかけていて、彩花が入ってくると、顔を上げて微笑んだ。
「おはよう、彩花。今日は早いね」
「おはよう、お姉ちゃん。昨日、早めに寝たからかな。目覚ましが鳴る前に起きちゃった」
彩花は椅子へ腰掛け、母から朝食を受け取った。
温かい味噌汁を一口飲むと、まだ少し冷えていた体が内側から温まっていく。
「週末はゆっくりできたか?」
耕助が尋ねると、彩花は頷いた。
「うん。土曜日は悠真君と出かけたし、昨日は家でお話のことを考えてたから、どっちも楽しかったよ」
「そうか。文芸部の部誌も、そろそろ仕上げの時期なんだろう?」
「うん。目次や表紙を確認してるところ。ただ、印刷の日はまだ決まってないから、今日も先輩に確認してみようと思ってる」
彩花が答えると、紗月は弁当箱を鞄の近くへ置いた。
「完成が楽しみね。お父さんも私も、読めるようになる日を待っているわ」
「ありがとう。でも、まだ家に持ち帰れる部数があるかも分からないんだ。決まったらちゃんと伝えるね」
彩花は少し申し訳なさそうに付け加えたが、耕助は気にする様子もなく頷いた。
「学校の活動なんだから、まずは部の決まりを優先すればいい。読める機会ができたら嬉しいけど、無理に一冊確保しようとしなくていいからな」
「うん。ありがとう、お父さん」
彩花はほっとして微笑んだ。
部誌を楽しみにしてくれている人は、家族だけではない。田辺大地の妹も読みたいと言ってくれているし、悠真も完成を待ってくれている。
だからこそ、まだ決まっていないことを曖昧に伝えたくなかった。
凛花は妹の表情を見ながら、箸を置いた。
「そういえば、彩花。昨日の新しいお話、少し進んだんでしょう?」
「うん。本文はまだ冒頭だけなんだけど、主人公が何を伝えたいのか、前より少し分かってきた気がする」
「それはよかったね。昨日話してくれた、遠くへ引っ越すおばあちゃんへの手紙のお話だよね」
彩花は頷き、味噌汁の器を置いた。
「そう。寂しい気持ちだけじゃなくて、離れてからも続いていくものを書きたいなって思ってるの。でも、まだ主人公の名前も決めてないし、もう少し考えてみるつもり」
紗月はその話を聞き、穏やかに微笑んだ。
「急がずに考えられるのも、今のうちね。書き始めたら、また違うことが見えてくるかもしれないもの」
「うん。そうだね」
彩花は朝食を食べ終えると、食器を片づけて玄関へ向かった。
外へ出る前にマフラーを巻き、鞄の中を確かめる。星模様のノートは入っているが、淡い緑色のノートは机に置いたままだ。
昨日の思い出を書いたものを持ち歩くことも少し考えたが、今日は学校で使う予定がない。
彩花は玄関の鏡で身だしなみを整え、家族に声をかけた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。風が冷たいから気をつけてね」
紗月の声に見送られ、彩花は朝の住宅街へ歩き出した。
◇
青葉高校の教室には、週明けらしい賑やかさが広がっていた。
週末に出かけた場所の話をする生徒や、月曜日の提出物を確認する生徒たちの声が重なっている。彩花が席へ着くと、近くにいた田辺大地が、机の上に広げた問題集を閉じた。
「水瀬、おはよう。先週はありがとうな」
「おはよう、田辺君。どうしたの?」
「金曜日に返ってきた小テスト、前より点数が上がったんだ。教えてもらったところも解けてたから、一応報告しておこうと思って」
大地は少し照れくさそうに笑い、答案を彩花へ見せた。
彩花が目を向けると、以前一緒に確認した問題には正解の印が付いている。
「すごいね。ちゃんと解けてる。田辺君が家でも練習したからだよ」
「いや、途中の考え方を教えてもらったのが大きかったと思う。俺、最初は答えだけ覚えようとしてたからさ」
大地は答案をしまいながら、少しだけ肩をすくめた。
「妹にも見せたら、珍しく褒めてくれたよ。ただ、そのあとすぐ『次も頑張ってね』って言われたけど」
「ふふっ。妹さん、田辺君のこと応援してるんだね」
「そうだといいんだけどな。あいつ、俺が油断するとすぐ気づくんだよ」
大地の言い方がおかしくて、彩花は小さく笑った。
そのとき、大地は何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、部誌のことって何か分かった?」
「まだ印刷する部数が決まってないんだ。先輩にも聞いたんだけど、学校の中で配る分を優先するみたいだから、持ち帰れるかはもう少し待ってほしいって」
「了解。妹にもそう伝えとくよ。あいつ、楽しみにしてるけど、急いでほしいわけじゃないと思うし」
彩花はその言葉に、ほっとした。
「ありがとう。ちゃんと決まったら、また伝えるね」
「ああ。それにしても、学校の部誌って作るの大変なんだな。俺、原稿を集めて印刷するだけなのかと思ってた」
「私も、入部する前はそこまで考えたことなかったよ。実際には、ページの順番とか目次とか、確認することがいっぱいあるんだ」
彩花は金曜日に行った作業を思い出しながら説明した。
大地は興味深そうに頷き、教室の後ろに貼られた行事予定表へ目を向けた。
「そういうの、普段読んでる側だと気づかないよな。完成したら、作った人たちのことも考えながら読んでみるよ」
その言葉が嬉しくて、彩花は自然に微笑んだ。
「うん。そうしてもらえたら、きっとみんな喜ぶと思う」
やがて予鈴が鳴り、教室の生徒たちはそれぞれの席へ戻った。
彩花も教科書を取り出しながら、放課後の文芸部のことを考えた。
部誌の完成が近づくにつれて、読む人の存在が少しずつ身近になっている。
そのことが、今日はいつも以上に嬉しく感じられた。
◇
桜華学園高等部では、悠真が午前中の授業を終え、森川航平と廊下を歩いていた。
窓の外には冷たい風に揺れる木々が見え、校庭では体育の授業を終えた生徒たちが校舎へ戻ってくるところだった。
「九条、土曜日の話、結局まだちゃんと聞いてなかったよな」
航平がそう切り出すと、悠真は少し笑った。
「昨日、メッセージで話したと思うけど」
「楽しかったってことしか聞いてないだろ。俺が聞きたいのは、どんな店だったかとか、お前が何を見つけたかってことだよ」
航平はそう言って肩をすくめた。
「別に水瀬さんとのことを根掘り葉掘り聞きたいわけじゃないぞ。お前が紙に興味を持ったって言ってたから、ちょっと気になったんだ」
悠真はその説明に頷き、土曜日の文房具店を思い出した。
「小さなお店だったけど、便箋やカードの種類が多かったよ。紙の手触りを比べられる見本もあって、思っていたより違いが分かりやすかった」
「へえ。そんなに違うもんなのか?」
「うん。同じような色でも、表面の加工や厚さで印象が変わるんだ。彩花さんは封筒の内側に模様が入っているものを気に入っていて、俺はしおりの作り方が少し気になったかな」
悠真が説明すると、航平は感心したように頷いた。
「なるほどな。俺だったら、たぶん必要なノートを買って終わりだと思うけど、見方が変わると面白そうだな」
「俺も、彩花さんと一緒じゃなかったら気づかなかったことが多かったと思う」
悠真はそう答え、少しだけ微笑んだ。
「彩花さんが、どこを見て綺麗だと思うのか話してくれたから、俺も自然と細かいところまで見るようになったんだ」
航平はその表情を見て、何となく納得した。
悠真は以前から本が好きで、興味を持ったことを調べるのも得意だった。
けれど、最近は自分一人で知識を深めるだけでなく、誰かと一緒に見つけたものを楽しそうに話すことが増えている。
「それで、お前は何か買ったのか?」
「薄いメモ用紙を買ったよ。昨日使ってみたけど、書きやすかった」
「いいじゃん。ちゃんと自分の欲しいものも見つけたんだな」
航平は満足そうに笑った。
悠真も友人の言葉を思い出し、穏やかに頷いた。
「うん。森川が言ってくれたことも、少し意識していたんだ。彩花さんに楽しんでもらうだけじゃなくて、俺も一緒に楽しもうって」
「それならよかった。相手が喜んでくれるのは嬉しいだろうけど、お前が無理してたら意味ないからな」
「ありがとう。今回は本当に、自然に楽しめたよ」
二人はそんな話をしながら、生徒会室へ向かった。
今日は先週確認した資料の最終整理があるが、すでに大きな修正は終わっている。担当を分けて進めれば、放課後まで仕事を持ち越さずに済みそうだった。
悠真は資料の入ったファイルを抱え直しながら、週明けの予定を頭の中で確認した。
学校の仕事も、彩花と過ごす時間も、どちらか一方を犠牲にするのではなく、大切にしていきたい。
そのためにできることは、以前より少しずつ分かってきた気がした。
◇
昼休み、彩花は教室の窓際で弁当を食べ終え、星模様のノートを開いていた。
午前中の授業では特に大きな出来事はなかったが、国語の時間に読んだ文章の中に、離れて暮らす家族へ近況を伝える場面があった。
それをきっかけに、新しい物語について考えたくなったのだ。
彩花はページの余白に、昨日書いた問いを見つけた。
『この子は、おばあちゃんに何を一番伝えたいんだろう?』
答えは、まだ決まっていない。
けれど、今朝から考えているうちに、一つ気になったことがあった。
主人公が祖母へ伝えたいのは、寂しいという気持ちだけではない。
祖母と一緒に過ごした日々が、自分の中に残っていること。
そして、これから先も、その思い出が続いていくことなのかもしれない。
(でも、最初からそこまで分かっていたら、手紙を書くのに迷わないよね。やっぱり、思い出を一つずつ振り返る中で気づく方が自然かな)
彩花はペンを持ち、ノートへ短く書き加えた。
『主人公は、最初から答えを知っているわけではない。書こうとする中で、自分が伝えたいことを見つけていく。』
書き終えると、少しだけ気持ちが整理された。
物語の中の少女が、最初から上手に言葉を選べる必要はない。
むしろ、迷っているからこそ、読んでいる人にもその気持ちが伝わるのかもしれない。
彩花がそんなことを考えていると、隣の席から声がかかった。
「水瀬さん、また小説のこと考えてるの?」
顔を上げると、先ほどまで友人たちと話していた女子生徒が、興味深そうにノートを見ていた。
「うん。新しいお話のことを少しだけ。まだ設定を考えてるところなんだけどね」
「そうなんだ。冬の部誌に載るお話とは別の?」
「うん。部誌に載る方は、もう原稿を出してあるから。今は次に書きたいお話を考えてるの」
友人は感心したように目を丸くした。
「すごいね。一つ書き終わったら、しばらく休みたくなりそうなのに」
彩花は少し笑った。
「私も休むときはあるよ。でも、何か気になることがあると、つい考えちゃうんだ。今のお話も、すぐ完成させるつもりはないから、ゆっくり進めてるよ」
「そっか。好きなことって、そういうものなのかもしれないね」
友人は頷き、彩花のノートへ視線を向けた。
「それにしても、水瀬さんって本当に書くことが好きなんだね」
その言葉に、彩花は少しだけ考えた。
物語を書くことは楽しい。
けれど、楽しいことばかりではない。
登場人物の気持ちが分からなくなったり、文章が思うようにまとまらなかったりして、何度も書き直すこともある。
「うん、好きだよ。でも、上手く書けなくて困ることもあるんだ。だから、完成したときは余計に嬉しいのかもしれない」
彩花がそう答えると、友人は納得したように頷いた。
「なるほどね。私も、好きなことでも難しいって思うことあるし、ちょっと分かる気がする」
二人はそんな話をしながら、昼休みの残り時間を過ごした。
やがて次の授業を知らせる予鈴が鳴り、彩花はノートを閉じた。
まだ物語の続きを書いたわけではない。
それでも、主人公について考える時間は、少しずつ積み重なっていた。
◇
放課後、文芸部の活動場所へ向かうと、教室にはすでに佐々木先輩と数人の部員が集まっていた。
机の上には冬の部誌の確認用資料が並び、表紙案と目次の試し刷りが重ねられている。窓の外では夕方の光が校庭を照らし、運動部の掛け声が遠くから聞こえていた。
「水瀬さん、ちょうどよかった。今日、先生から部誌について少し連絡があったの」
佐々木先輩が声をかけると、彩花は鞄を置いて近づいた。
「何か決まったんですか?」
「印刷に出す前の最終確認を、今週中に終わらせる予定になったの。ただ、正式な印刷日と部数は、まだ先生が確認しているところだから、今日の時点では確定していないわ」
彩花はその説明に頷いた。
「じゃあ、今週は残っているところを確認していくんですね」
「そうね。目次とページ番号はほとんど整っているけれど、表紙の細かい部分と、最後の誤字確認が残っているの。今日はその作業を進めたいと思ってる」
佐々木先輩はそう言って、部員たちへ資料を配った。
彩花も自分の担当箇所を受け取り、席へ着いた。
試し刷りの紙には、以前より整った目次が印刷されている。詩の題名と作者名の間隔も調整され、全体的に読みやすくなっていた。
「先輩、金曜日に確認したところ、ちゃんと直ってますね」
彩花が声をかけると、佐々木先輩は微笑んだ。
「うん。みんなが意見を出してくれたおかげよ。細かいことだけど、読む人には大事なところだからね」
彩花は頷き、ページをめくった。
自分の作品『いつか、ここに』が掲載される予定のページも、確認用の形で印刷されている。
題名の下には作者名があり、その先に本文が続いていた。
何度も読み返した文章のはずなのに、こうして一冊の中の一作品として眺めると、少し違って見える。
(このページを、誰かが開いてくれるんだよね)
彩花はそっと指を止めた。
家族や悠真、大地の妹。
まだ実際に誰が読むことになるかは分からないが、楽しみにしてくれている人がいる。
そのことを思うと、胸の奥が温かくなった。
同時に、最後まで丁寧に確認しなければという気持ちも強くなる。
彩花は本文を一行ずつ追い、表記や句読点に不自然なところがないか確かめ始めた。
途中、近くにいた部員がページ番号のずれに気づき、佐々木先輩へ報告した。
「先輩、ここのページ番号、目次と一つ違ってます」
「本当ね。ありがとう。本文のページを移動したときに、目次の方が直っていなかったみたい」
佐々木先輩はすぐに確認表へ書き込み、ほかのページにも同じずれがないか調べ始めた。
彩花も担当箇所を見直し、目次との対応を確かめた。
大きな変更ではない。
けれど、こうした細かな確認を積み重ねることで、読む人が安心してページをめくれる一冊になるのだろう。
作業を続けているうちに、彩花は以前よりも部誌作りの面白さが分かってきたように感じた。
文章を書くことと、一冊の本を作ること。
似ているところもあるが、違う難しさがある。
どちらにも共通しているのは、読む人のことを考える時間が必要だということだった。
◇
確認作業が一段落した頃、佐々木先輩が部員たちへ声をかけた。
「今日はここまでにしましょう。修正が必要なところは私の方でまとめて先生へ渡すから、みんなは次の活動までに気になる箇所がないか、もう一度確認しておいてね」
部員たちはそれぞれ頷き、資料を揃え始めた。
彩花も確認表を提出し、机の上を片づけた。
すると佐々木先輩が、少し離れたところから声をかけてきた。
「水瀬さん、前に聞いてくれた配布のことなんだけど、まだ部数が決まっていないから、もう少し待ってもらってもいい?」
「はい、大丈夫です。楽しみにしてくれている人にも、まだ準備中だって伝えてあります」
「ありがとう。先生にも確認しているから、決まったら部員全員に知らせるわ」
佐々木先輩はそう言って微笑んだ。
彩花は礼を言い、それから少し迷って口を開いた。
「あの、先輩。もう一つ、お話してもいいですか?」
「もちろん。どうしたの?」
「今考えている新しい物語なんですけど、少しだけ主人公の気持ちが分かってきた気がするんです」
佐々木先輩は興味深そうに顔を上げた。
「手紙を書こうとしている女の子のお話ね。どんなことを考えたの?」
彩花は星模様のノートを取り出し、昨日から書き加えたメモを見ながら説明した。
祖母が遠くへ引っ越すこと。
一緒に花を育てた思い出があること。
そして、手紙を書く少女は、寂しい気持ちだけでなく、離れてからも続いていく約束を伝えたいのではないかということ。
佐々木先輩は途中で口を挟まず、彩花の言葉に耳を傾けた。
「なるほどね。最初に聞いたときよりも、主人公が何を大切にしているのか、少し見えてきた気がするわ」
「はい。でも、まだ全部は決めていなくて。主人公が便箋を選ぶ場面も考えたんですけど、どんな紙を選ぶのか迷っているんです」
彩花がそう言うと、先輩は少し考えた。
「それなら、今すぐ紙の種類を決めなくてもいいんじゃないかしら。主人公がどんな思い出を大切にしているのか、もう少し分かってから選んでもいいと思う」
「やっぱり、そうですよね」
「うん。それに、便箋を選ぶ場面を入れるなら、主人公が何を考えて選ぶのかが大切になるでしょう? 綺麗な紙を選んだから素敵な場面になるわけじゃなくて、その子の気持ちが見えるから意味があるんだと思う」
その言葉に、彩花はゆっくり頷いた。
昨日、悠真と文房具店で見た便箋はどれも綺麗だった。
けれど、物語の中の少女が選ぶ紙は、彩花自身が好きなものと同じである必要はない。
主人公にとって大切な理由があれば、それが一番自然なのだろう。
「ありがとうございます。もう少し主人公のことを考えてから決めてみます」
「そうしてみて。あと、前に書いた冒頭も、今の考えを踏まえて読み返してみると、新しいことに気づくかもしれないわね」
彩花はその助言を手帳へ書き留めた。
冒頭はすでに書いてある。
けれど、そこから先のことを考えたあとに読み返せば、最初に書いたときとは違う見方ができるかもしれない。
「今日、家に帰ったら読んでみます」
彩花がそう答えると、佐々木先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「楽しんで書いてね。水瀬さんが大切にしたいと思っていること、きっと少しずつ形になっていくと思うから」
彩花は礼を言い、鞄を持って教室を出た。
廊下の窓からは夕方の光が差し込み、校庭の向こうにある木々が風に揺れている。
彩花は階段を下りながら、今日の活動を思い返した。
部誌の完成へ向けた確認。
新しい物語についての相談。
どちらも、少しずつ前へ進んでいる。
大きな変化があったわけではないが、積み重ねている時間に意味があるのだと感じられた。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が生徒会室の片づけを終えていた。
先週から進めていた資料の確認は、予定どおり大きな問題なく終わった。航平と分担して作業したおかげで、放課後に残る時間も短く済み、窓の外にはまだ明るさが残っている。
「九条、今日はここまででいいな」
航平がファイルを棚へ戻しながら声をかけた。
「うん。あとは先生から返事が来てからで大丈夫だと思う」
「了解。じゃあ、俺は先に帰るわ。お前もあんまり残るなよ」
航平は鞄を肩へ掛け、扉へ向かった。
悠真は礼を言い、机の上に残った筆記具を片づけた。
今日は特別な予定があるわけではない。
それでも、少し早く帰れることが嬉しかった。
帰宅したら、昨日使ったメモ用紙に書き留めたことを整理しようと思っている。押し葉の保存についてはまだ分からないことが多いが、焦らず調べていけばいい。
そのとき、スマートフォンが短く震えた。
画面には彩花からのメッセージが表示されていた。
『悠真君、こんにちは。今日は文芸部で冬の部誌の確認をしたよ。まだ印刷日は決まってないけど、少しずつ完成に近づいてる感じがして嬉しかった』
悠真は自然に微笑んだ。
彩花が部誌のことを話すとき、いつも嬉しそうにしているのを思い出す。
完成した作品を読ませてもらうことも楽しみだが、彼女が仲間たちと協力して一冊を作り上げていく過程も、大切な時間なのだろう。
『お疲れさま、彩花さん。少しずつ形になっていくのって嬉しいよね。みんなで丁寧に確認しているなら、きっと素敵な一冊になると思う』
送信すると、少しして返事が届いた。
『ありがとう。今日はページ番号のずれも見つかったんだ。小さいところだけど、印刷する前に気づけてよかったよ』
『そうなんだ。最後の確認って大事だね。彩花さんも無理しすぎないでね』
『うん。悠真君も生徒会のお仕事、お疲れさま』
悠真はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。
自分の仕事についても気にかけてくれることが嬉しかった。
『ありがとう。今日は森川と一緒に確認して、予定より早く終わったよ。これから帰るところ』
『そうなんだ。気をつけて帰ってね』
『うん。彩花さんもね』
短いやり取りを終え、悠真はスマートフォンを鞄へしまった。
校舎を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
夕方の空には薄い雲が浮かび、校門へ向かう生徒たちの影が長く伸びている。
悠真は歩きながら、土曜日のことを思い出した。
文房具店で一緒に見たカード。
喫茶店で交わした会話。
そして、帰り道で彩花が言ってくれた言葉。
『また、一緒に出かけようね』
あの約束を思い出すと、胸の奥が温かくなった。
次にどこへ行くかは、まだ決まっていない。
けれど、また一緒に過ごせる時間があると思うだけで、これからの日々が少し楽しみになる。
◇
夕方、彩花が帰宅すると、リビングから紗月の声が聞こえてきた。
「おかえり、彩花。今日は文芸部だったでしょう?」
「ただいま、お母さん。うん。冬の部誌の確認をしてきたよ」
彩花は鞄を置き、マフラーを外した。
室内の暖かさにほっとしながら、キッチンへ顔を出す。
「何か手伝うことある?」
「ありがとう。じゃあ、食卓にお箸を並べてもらえる?」
「うん、分かった」
彩花は手を洗い、食器棚から箸を取り出した。
夕食の準備を手伝いながら、今日の文芸部であったことを母へ話す。
目次の修正が進んでいること。
ページ番号のずれが見つかったこと。
そして、今週中に最終確認を終える予定だということ。
紗月は話を聞きながら、穏やかに頷いた。
「完成が近づいているのね。みんなで作ったものが形になるのは、きっと嬉しいでしょう」
「うん。自分の作品が載るのも嬉しいけど、みんなで一冊を作ってるっていうのが、すごく楽しいんだ」
彩花はそう答え、箸を並べ終えた。
そのとき、凛花がリビングへ入ってきた。
「彩花、おかえり。今日は何かいいことあった?」
姉の問いに、彩花は少し考えてから微笑んだ。
「うん。部誌のことも進んだし、新しいお話についても先輩と相談できたよ」
「そうなんだ。じゃあ、今日は充実した一日だったんだね」
「うん。まだ決まってないことも多いけど、少しずつ考えられてる気がする」
凛花はその言葉に、優しく微笑んだ。
「彩花、最近は迷ってることも楽しそうに話すようになったね」
その言葉に、彩花は少し驚いた。
「そうかな?」
「うん。前は、決まってないことがあると少し不安そうだったけど、今は考えてる途中も楽しんでる感じがする」
彩花はその言葉を聞き、しばらく考えた。
確かに、以前は物語の設定が決まらないと、早く答えを出さなければと思うことがあった。
けれど今は、主人公がどんな気持ちで行動するのかを考える時間そのものが楽しい。
それは、佐々木先輩の助言や、家族との会話、そして悠真と過ごす時間の中で、少しずつ変わってきたことなのかもしれなかった。
「……うん。そうかもしれない。まだ分からないことがあっても、考えてるうちに新しいことが見つかるから」
彩花がそう答えると、凛花は嬉しそうに頷いた。
「それならよかった。無理に急がなくても、彩花らしいお話になりそうだね」
「ありがとう、お姉ちゃん」
彩花は微笑み、食卓の準備を続けた。
◇
夕食後、彩花は自室の机へ向かった。
星模様のノートを開き、放課後に佐々木先輩からもらった助言を読み返す。
『主人公の気持ちがもう少し分かってから、便箋を選ぶ。』
『今の考えを踏まえて、冒頭を読み返す。』
彩花はその二つのメモを見つめ、以前書いた冒頭の文章を開いた。
机に向かう少女。
白い便箋。
窓の外に見える、祖母と一緒に花を植えた庭。
文章はまだ短いが、最初に書いたときよりも、少女の気持ちが少しだけ身近に感じられた。
祖母が遠くへ引っ越すことは、もう決まっている。
少女は寂しいと思っている。
けれど、その寂しさをどう伝えればいいのか分からない。
彩花は文章を読み返しながら、少し気になるところを見つけた。
少女が便箋を前にしている理由が、まだ十分に伝わっていない気がする。
書こうとしていることは分かる。
けれど、なぜその手紙が大切なのか、最初の場面だけでは少し弱いのかもしれない。
(ここで全部説明しちゃうと、あとから思い出を振り返る意味が薄くなっちゃうよね。でも、何か一つだけ、気持ちが伝わるものがあってもいいのかな)
彩花はペンを持ち、文章の横へ小さくメモを書いた。
『机の上に、祖母と一緒に写った古い写真がある。』
以前から考えていた写真の要素だった。
まだ実際に本文へ入れるかは決めていないが、少女が手紙を書こうとするとき、目に入る場所に写真があれば、祖母との時間を思い出すきっかけになるかもしれない。
彩花はその案を読み返し、少しだけ頷いた。
写真には、二人で育てた花が写っているのかもしれない。
あるいは、花が咲く前の庭で撮ったものなのかもしれない。
どちらがいいかは、まだ分からなかった。
けれど、主人公の気持ちを考えるための手がかりが一つ増えた。
彩花はノートを閉じ、椅子の背もたれへ軽く寄りかかった。
物語を書くことは、答えを探すことに少し似ている。
最初からすべて分かっているわけではない。
考えながら、迷いながら、少しずつ形にしていく。
その過程を楽しめるようになったことが、今は嬉しかった。
◇
その頃、九条家では、悠真が自室で机の上を片づけていた。
生徒会の仕事は予定どおり進んでおり、今夜は特別に確認しなければならない資料もない。
悠真は昨日使ったメモ用紙を整理し、紙について調べたことをまとめた本を棚へ戻した。
そのとき、引き出しの中に収めてある橙色の葉のことを思い出した。
川沿いで拾った葉。
あの日、彩花と一緒に歩いた時間を思い出させるものだった。
悠真は引き出しを開け、紙に挟まれた葉を傷めないよう、包みの状態だけを確かめた。
葉はまだ大切に保管されている。
けれど、保存方法については、もう少し調べる必要がある。
(急いで形にしなくてもいい。彩花さんに渡すなら、ちゃんと考えてからにしたい)
悠真はそう思い、包みを元の場所へ戻した。
その隣には、彩花からもらった淡い青色の花柄カードがしまわれている。
悠真はカードの封筒へ視線を向け、少しだけ微笑んだ。
彩花は、言葉を大切にする人だ。
自分の気持ちを伝えるときも、相手がどう受け取るかを考えている。
だからこそ、悠真も何かを贈るなら、その気持ちを丁寧に形にしたかった。
高価なものではなくてもいい。
特別な仕掛けがなくてもいい。
彩花が受け取ったとき、自然に嬉しいと思ってくれるもの。
そんなものを、いつか渡せたらいいと思った。
悠真は引き出しを閉じ、机の上のスマートフォンへ目を向けた。
画面には、先ほど彩花と交わしたメッセージが残っている。
冬の部誌のこと。
生徒会の仕事のこと。
お互いを気遣う短い言葉。
それだけのやり取りでも、悠真にとっては大切な時間だった。
(彩花さんと話していると、何でもない一日のことも、誰かに伝えたくなるんだよな)
悠真はそう考え、穏やかに微笑んだ。
◇
夜九時を過ぎた頃、彩花は淡い緑色のノートを開いていた。
今日は学校であったことや、文芸部で進んだことを少しだけ書き留めようと思っていた。
ページを開くと、土曜日の思い出と、昨日書き加えた言葉が並んでいる。
彩花はその文章を読み返し、少しだけ頬を緩めた。
昨日の夜、自分の気持ちを表すために使った「好きな人」という言葉。
今夜も、その文字を見ると少し照れくさい。
けれど、消そうとは思わなかった。
彩花は新しいページを開き、今日の日付を書いた。
そして、ゆっくりとペンを動かした。
『今日は、文芸部で冬の部誌の確認をした。』
『少しずつ完成に近づいているのが嬉しい。』
そこまで書いてから、少し考える。
今日の出来事を振り返ると、佐々木先輩との会話や、家族とのやり取りが思い出された。
物語について考えている時間。
誰かに読んでもらえることを楽しみにする気持ち。
そして、悠真と短いメッセージを交わしたときの嬉しさ。
彩花はもう一行書き加えた。
『今日も、悠真君に話したいことが一つ増えた。』
書き終えると、自然に笑みが浮かんだ。
何を話したいのかと聞かれたら、きっと一つには絞れない。
部誌のことも、新しい物語のことも、今日考えた小さな発見も。
悠真と話していると、そうした何気ないことまで伝えたくなる。
そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日は文芸部、お疲れさま。もうゆっくりできてる?』
彩花は嬉しそうに微笑み、返事を打った。
『こんばんは、悠真君。うん、今はノートを書いてたところだよ。今日は新しいお話のことも少し考えられたんだ』
しばらくすると、返信が届いた。
『そうなんだ。少しずつ進んでるんだね。彩花さんが楽しそうに考えているのを聞くと、俺も嬉しくなるよ』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
悠真は、まだ新しい物語の詳しい内容を知らない。
それでも、彩花が楽しんで書いていることを喜んでくれる。
そのことが、何より嬉しかった。
『ありがとう。まだ主人公のことを考えてる途中なんだけど、少しずつ分かってきた気がするの。完成したら、ぜひ読んでほしいな』
『もちろん。楽しみにしてるよ。でも、急がなくていいからね』
その言葉に、彩花は小さく笑った。
佐々木先輩も、家族も、悠真も。
みんな、急がなくていいと言ってくれる。
だからこそ、自分の言葉を大切にしながら書いていきたいと思えた。
『うん。ありがとう、悠真君。そう言ってもらえると安心するよ』
送信してから、彩花は少し考えた。
今日のノートには、悠真へ話したいことが増えたと書いた。
ならば、今そのうちの一つを伝えてもいいのかもしれない。
彩花はスマートフォンを持ち直し、ゆっくりと文字を打った。
『それとね、土曜日のこと、今日も少し思い出してたんだ。文房具屋さんで一緒に見たものとか、喫茶店で話したこととか。すごく楽しかったなって』
送信したあと、彩花は少しだけ頬を赤くした。
昨日も似たようなことを伝えた気がする。
それでも、今日も楽しかったと思い出したことを、悠真に知ってほしかった。
しばらくして、返信が届いた。
『俺もだよ。今日、学校で森川に文房具店のことを話したんだ。彩花さんと一緒に見たものを思い出して、また行きたくなったよ』
彩花はその文章を読み、嬉しそうに微笑んだ。
『そうなんだ。私もまた行きたいな。今度は悠真君が気になってたしおりも、ゆっくり見ようね』
『うん。ありがとう。次は彩花さんが見つけたものだけじゃなくて、俺が気になったものも一緒に見てもらえたら嬉しいな』
その言葉に、彩花はゆっくり頷いた。
自分が好きなものを知ってほしい。
同じように、悠真が好きなものも知りたい。
その気持ちは、土曜日に一緒に出かけたことで、以前よりもはっきりしたものになっていた。
『もちろん。私も、悠真君が好きなものをもっと知りたいよ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『ありがとう、彩花さん。そう言ってもらえると、すごく嬉しい』
彩花はスマートフォンを胸元へ少し引き寄せ、静かに微笑んだ。
今日も、伝えたいことを一つ伝えられた。
それだけで、穏やかな満足感が胸に広がっていた。
◇
やがて、二人はおやすみの挨拶を交わし、それぞれの夜を迎えた。
彩花はスマートフォンを机へ置き、淡い緑色のノートをもう一度開いた。
今日書いた文章の最後には、まだ少し余白が残っている。
彩花はペンを持ち、短い一文を書き加えた。
『伝えたいことは、きっとこれからも増えていく。』
書き終えてから、少しだけ考えた。
悠真と一緒に過ごした時間。
学校であったこと。
物語を書きながら見つけたこと。
そうした一つ一つが、いつか大切な思い出になるのだろう。
彩花はノートを閉じ、机のライトを消した。
窓の外では、冷たい風が静かに木々を揺らしている。
明日も学校がある。
文芸部の冬の部誌は、まだ完成していない。
新しい物語も、まだ冒頭を書き始めたばかりだ。
それでも、少しずつ前へ進んでいる。
彩花は布団へ入り、静かに目を閉じた。
今日、悠真へ伝えられた言葉を思い返す。
好きなものを一緒に見つけたい。
相手が好きなものを、もっと知りたい。
その気持ちは、これから先も大切にしていきたいと思った。
同じ頃、悠真も自室の明かりを落とし、ベッドへ向かっていた。
彩花が、自分の好きなものをもっと知りたいと言ってくれたことが、心に残っている。
彼女が何を好きなのかを知ることは、悠真にとって楽しい時間だった。
けれど、自分が好きなものを彩花にも知ってもらえることが、こんなに嬉しいとは思っていなかった。
(次に会ったときは、俺が好きな本のことも、もう少し話してみようかな)
悠真はそう考え、穏やかに微笑んだ。
二人はまだ、自分たちの気持ちに明確な名前を付けていない。
けれど、互いに伝えたいことは、少しずつ増えていた。
その一つ一つを大切にしながら、これからも同じ時間を重ねていきたい。
そんな静かな願いを胸に、二人はそれぞれの夜を過ごしていた。




