第89話 昨日の思い出と、まだ名前のない気持ち
日曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。昨日のような澄んだ青空ではなかったものの、カーテン越しに差し込む光は柔らかく、部屋の中には休日らしい静けさが漂っている。
枕元の時計は八時を少し過ぎたところだった。彩花は布団の中でゆっくりと伸びをしてから、机の上に置かれた淡い緑色のノートへ目を向けた。
昨日、悠真と一緒に訪れた文房具店で購入したものだ。
表紙には小さな葉の模様が描かれており、窓から差し込む光を受けると、緑色の濃淡が優しく浮かび上がる。
(昨日は、本当に楽しかったな。文房具を見て、公園で話して、喫茶店にも寄って……。一日があっという間だった気がする)
彩花はベッドから起き上がり、カーディガンを羽織って机へ向かった。
ノートを開くと、最初のページには昨日の夜に書いた文章が残っている。
『今日は、悠真君と文房具屋さんへ行った。』
その一行から始まる記録を読み返すと、文房具店の棚に並んでいた色とりどりのカードや、喫茶店で飲んだ温かいココアの香りまで思い出されるようだった。
昨日の帰り道、悠真は自分も今日のことを大切に覚えておきたいと言ってくれた。
彩花はその言葉を思い出し、自然に微笑んだ。
楽しい出来事があったとき、それを誰かと共有できることは嬉しい。けれど、同じ時間を過ごした相手も、その時間を大切に思ってくれていると知ることは、また少し違った喜びがあった。
彩花はペンを手に取り、昨日の記録の続きを書き始めた。
『悠真君は、私が好きだと思ったものを、いつも大切に見てくれる。』
書き終えたところで、彩花は少しだけ手を止めた。
昨日の文房具店では、悠真もいろいろな紙やしおりを興味深そうに眺めていた。自分が好きなものを見つけたときの彼の表情を思い出すと、彩花の胸に小さな温かさが広がった。
(私も、悠真君が好きだと思うものを、もっと知りたいな)
今までも彼の好きな本について話したことは何度もある。けれど、昨日は紙の質感やしおりの形について話す姿を見て、まだ知らない一面がたくさんあるのだと感じた。
好きなものが同じであることも嬉しいが、違うものに興味を持っていると知ることも楽しい。
彩花はノートへもう一行書き加えた。
『次に一緒に出かけるときは、悠真君が気になっているものも、ゆっくり見てみたい。』
書き終えると、ページを閉じる前にもう一度文字を眺めた。
昨日の思い出が、少しずつ言葉になっていく。
それは物語を書くときとは違う楽しさだった。
誰かに読んでもらうためではなく、自分が忘れたくないものを残しておくための文章。
彩花はノートをそっと閉じ、窓の外へ目を向けた。
風に揺れる木々の向こうでは、雲の切れ間から淡い日差しが覗いている。
今日は特別な予定のない日曜日だ。
それでも、昨日の続きを胸に抱えて迎える朝は、いつもより少し明るく感じられた。
◇
一階へ下りると、キッチンから焼いたパンの香りが漂ってきた。
リビングでは父の耕助が新聞を広げ、母の紗月が温かいスープを器へ注いでいる。窓際の席には凛花が座っており、手元の本を閉じたところだった。
「おはよう、彩花。今日はよく眠れた?」
紗月が声をかけると、彩花は笑顔で頷いた。
「おはよう、お母さん。うん、ぐっすり眠れたよ。昨日はたくさん歩いたからかな」
「それならよかったわ。朝は少し冷えるから、温かいうちに食べましょうね」
彩花が席へ着くと、耕助が新聞から顔を上げた。
「昨日は楽しかったみたいだな。帰ってきたとき、ずいぶん嬉しそうだったぞ」
「えっ、そんなに分かりやすかった?」
思わず尋ねると、凛花が向かいの席で小さく笑った。
「彩花、昨日は帰ってきてからずっと楽しそうだったもの。買ったノートを見せてくれたときも、すごく嬉しそうだったよ」
「だって、あのノート、本当に気に入ったんだもん」
彩花が少し照れながら答えると、凛花は優しい表情で頷いた。
「うん。彩花が自分で気に入ったものを見つけられたなら、それが一番だと思う」
彩花はその言葉に微笑み、パンを一口食べた。
表面が少し香ばしく焼けたパンは温かく、バターの風味が口の中に広がる。休日の朝に家族と食卓を囲む時間は、何か特別なことを話さなくても落ち着けるものだった。
「そういえば、彩花。昨日買ったノートはもう使ったの?」
凛花がスープを飲みながら尋ねた。
「うん。昨日の夜に最初のページを書いたよ。今日の朝もちょっと続きを書いちゃった」
「早いね。何を書いたの?」
「昨日のお出かけのことだよ。文房具屋さんで見たものとか、喫茶店で話したこととか……」
彩花が説明すると、凛花は興味深そうに目を細めた。
「へえ。じゃあ、日記みたいな感じ?」
「うーん、日記に近いかもしれないけど、毎日書くって決めてるわけじゃないの。忘れたくないこととか、あとで思い出したいことを書いていこうかなって」
彩花は少し考え、言葉を続けた。
「物語のアイデアを書くノートは別にあるから、これはもう少し自由に使いたいんだ。好きだった景色とか、誰かに言ってもらって嬉しかった言葉とか、そういうものを残せたらいいなって」
その説明を聞いた紗月が、穏やかに微笑んだ。
「素敵な使い方ね。あとから読み返したとき、その日の気持ちまで思い出せそうだわ」
「うん。私もそう思う」
彩花は嬉しそうに頷いた。
すると耕助が、コーヒーカップを置きながら口を開いた。
「ただ、書かなきゃいけないと思うようになると、せっかくの楽しみが負担になるかもしれないな。彩花が書きたいと思ったときに書けばいいんじゃないか」
「そうだね。毎日何か書こうって決めるより、自然に書きたくなったときに開く方が、私には合ってるかもしれない」
彩花は父の言葉を受け止め、少しだけ安心したように微笑んだ。
新しいノートを買うと、綺麗に使いたいという気持ちが強くなることがある。けれど、最初から完璧な使い方を決めなくてもいいのだと思うと、白いページがもっと身近なものに感じられた。
凛花はそんな妹の様子を眺めながら、穏やかな気持ちになっていた。
以前の彩花なら、自分の好きなものを説明するときにも、相手が退屈していないかを気にすることがあった。けれど今は、好きなものを好きだと言い、その理由まで楽しそうに話している。
(悠真君と過ごす時間が、彩花にとっていい刺激になっているんだろうな)
凛花はそう思いながらも、口には出さなかった。
妹が自分の気持ちを少しずつ言葉にできるようになっていることが、何より嬉しかった。
◇
朝食のあと、彩花は自室へ戻り、机の上に二冊のノートを並べた。
一冊は昨日購入した淡い緑色のノート。
もう一冊は、以前から物語の構想を書き留めている星模様のノートだった。
今日は学校も文芸部の活動もないため、時間に追われることなく考え事ができる。彩花は椅子へ腰掛け、星模様のノートを開いた。
そこには、少しずつ書きためてきた新しい物語のメモが並んでいる。
主人公は、遠くへ引っ越す祖母へ手紙を書こうとしている少女。
幼い頃、祖母と一緒に花を育てた思い出があり、来年花が咲いたら写真を送ろうと考えている。
けれど、何を書けばいいのか迷っているうちに、最初の一行がなかなか書けない。
彩花はすでに、少女が机に向かい、白い便箋を前にして窓の外の庭を眺める場面を書き始めていた。
ただ、その先をどう進めるかは、まだ決まっていない。
(昨日、いろんな便箋を見たからかな。主人公が手紙を書く前に、紙を選ぶ場面も書いてみたくなっちゃった)
彩花はペンを持ち、ノートの余白へ小さく書き込んだ。
『主人公は、手紙を書くための紙を選ぶ。』
書き終えてから、少し考える。
紙を選ぶ場面を入れるなら、ただ綺麗なものを見つけるだけでは物足りない。
祖母が好きそうな色を選ぶのか。
自分が好きな模様を選ぶのか。
それとも、二人で育てた花を思い出させる便箋を探すのか。
彩花はノートの端へ三つの候補を書き並べた。
どれも悪くない気がするが、今の主人公に一番合っているものがどれなのかは、まだ分からない。
昨日、悠真は喫茶店で、相手のことを考えて選ぶのも、自分が好きなものを見せたいと思うのも、その子らしさが出そうだと言っていた。
その言葉を思い出すと、彩花は少しだけ微笑んだ。
(悠真君は、私が考えていなかったところに気づかせてくれることがあるんだよね)
彩花はペンを動かし、新しい一文を書き加えた。
『相手の好きなものを選ぶだけではなく、自分が見せたいものを選ぶ気持ちもある。』
書き終えると、少しだけ物語の輪郭が見えてきたように感じられた。
主人公は、祖母を喜ばせたいと思っている。
けれど、それだけではない。
自分が今どんなものを好きで、どんなことを考えているのかも、祖母に知ってほしいのかもしれない。
彩花はその考えを確かめるように、ノートの文章を読み返した。
物語の中の少女は、まだ彩花自身にも分からない部分が多い。
だからこそ、少しずつ考える時間が必要なのだろう。
彩花は以前、文芸部の佐々木先輩から、登場人物の気持ちを急いで決めなくてもいいと助言されたことを思い出した。
人物が何を大切にしているのかを考えれば、自然に行動が見えてくることもある。
彩花はその言葉を胸に置きながら、ノートの余白へ小さな問いを書き加えた。
『この子は、おばあちゃんに何を一番伝えたいんだろう?』
答えは、まだ書かなかった。
今は問いを残しておくことにも意味がある気がした。
◇
一方、九条家では、悠真が自室の机に向かっていた。
昨日購入した薄いメモ用紙を手に取り、紙の手触りを確かめる。生成り色の落ち着いた紙は、普段使っているものよりも少し柔らかな印象があり、ペンを走らせると、さらりとした感触が指先へ伝わってきた。
机の端には、琴葉から借りた紙についての本が置かれている。
悠真はその本を開き、昨日の文房具店で見たものを思い返していた。
紙の厚さや加工によって、使い方が変わる。
説明だけを読んでいたときには漠然としていたことも、実際に店で紙を手に取ったあとでは、以前より具体的に想像できるようになっていた。
(彩花さんは、紙の色や模様だけじゃなくて、使う人のことまで考えていたな)
悠真は昨日の彼女の姿を思い出した。
便箋を手に取りながら、受け取る人がどう感じるかを考えていたこと。
気に入ったノートを見つけたとき、嬉しそうに微笑んでいたこと。
そして、帰り道で、今日のことをノートへ書きたいと言ってくれたこと。
どれも悠真にとっては、昨日という一日を思い出す大切な場面だった。
悠真は机の引き出しへ目を向けた。
そこには、彩花からもらった淡い青色の花柄カードが大切にしまわれている。
彼女が自分のために選び、言葉を書いてくれたカード。
あのときの嬉しさは、今でもはっきりと覚えていた。
悠真は引き出しを開け、カードをそっと取り出した。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
丁寧な文字を眺めると、胸の奥が温かくなる。
昨日、喫茶店で彩花が話してくれたことも、同じ気持ちにつながっているように感じられた。
(彩花さんは、自分が嬉しかったことを、ちゃんと言葉にしてくれるんだよな)
悠真はカードを傷めないよう、元の場所へ戻した。
それから、引き出しの中に収めてある別の紙の包みへ視線を向けた。
川沿いで拾った橙色の葉が、今も紙に挟まれている。
あの日、彩花と一緒に過ごした時間を思い出させる葉だった。
まだ保存方法について十分に調べられていないため、贈り物としての形は決まっていない。
けれど、昨日見たしおりや紙製品は、少しだけ参考になった。
(急がずに、ちゃんと調べてから考えよう。彩花さんが無理なく大切にできる形にしたい)
悠真はそう考え、引き出しを閉じた。
贈り物は、渡すことそのものが目的ではない。
受け取った相手が嬉しいと思ってくれるかどうか。
そのことを大切にしたいと、悠真は以前から考えていた。
祖父の俊治も、贈り物は相手が気負わず大切にできるものがいいと話していた。
その言葉は、今も悠真の中に残っている。
葉を使ったものが本当に彩花に合うのかどうかも、まだ分からない。
だから、今は調べながら考える時間を大切にしようと思った。
そのとき、廊下から軽い足音が近づいてきた。
「お兄様、少しよろしいですか?」
琴葉の声だった。
「うん、どうぞ」
扉が開くと、琴葉が小さなノートを抱えて入ってきた。
「昨日のお出かけ、楽しかったですか?」
琴葉が尋ねると、悠真は自然に微笑んだ。
「うん。すごく楽しかったよ。彩花さんに案内してもらったお店、紙の種類が本当に多くてね。見ているだけでも面白かった」
「それはよかったです。お兄様、昨日帰ってきたときも楽しそうでしたから」
琴葉は嬉しそうに微笑み、机の上の本へ目を向けた。
「借りていただいた本も、役に立ちましたか?」
「うん。ありがとう。実際に紙を見たあとだと、説明が前より分かりやすく感じるよ」
悠真が答えると、琴葉は満足そうに頷いた。
「それならよかったです。私も今度、そのお店へ行ってみたいです」
「きっと琴葉も気に入ると思うよ。しおりやノートもたくさんあったから」
琴葉は少し考え、抱えていたノートを胸元へ引き寄せた。
「私、最近は小さな紙製品を集めるのが楽しいんです。使うために買うものもありますけど、綺麗な模様を見つけると、それだけで嬉しくなってしまって」
「分かる気がするよ。昨日も、彩花さんが気に入ったものを見つけるたびに、楽しそうにしていたから」
悠真がそう答えると、琴葉は少しだけ目を細めた。
「お兄様は、彩花さんが楽しそうにしていると嬉しいんですね」
その言葉に、悠真は一瞬だけ返事を迷った。
けれど、隠すようなことではないと思い、素直に頷いた。
「うん。彩花さんが楽しんでいるのを見ると、俺も嬉しくなるよ」
琴葉は兄の答えを聞き、柔らかく微笑んだ。
「素敵ですね。彩花さんも、きっと同じように思っていらっしゃるんじゃないでしょうか」
「そうだと嬉しいな」
悠真は少し照れながら答えた。
琴葉はそれ以上からかうことなく、机の上の本へ視線を戻した。
「それと、お兄様。押し葉のことですけれど、私も少し調べてみました」
悠真は顔を上げた。
「ありがとう。何か分かった?」
「紙に挟んでおくだけでは、時間が経つと色が変わったり、傷んだりすることがあるそうです。保存するなら、湿気や日差しに気をつける必要があるみたいですね」
琴葉はノートを開き、調べたことを簡単にまとめたページを見せた。
「ただ、私が見たものだけでは、どの方法が一番いいのかまでは分かりませんでした。実際に試すなら、もう少し詳しく調べた方がよさそうです」
悠真は内容を確認し、ゆっくりと頷いた。
「そうだね。大切な葉だから、失敗しないようにしたい。琴葉も調べてくれてありがとう」
「いえ。お兄様が大切にしているものですから、私も少しでもお役に立てたら嬉しいです」
琴葉はそう言って微笑んだ。
悠真は妹の気遣いに感謝しながら、ノートを返した。
すぐに答えを出す必要はない。
そう思えることが、今は少し心地よかった。
◇
午前中の終わり頃、彩花は一度ペンを置き、窓の外を眺めた。
雲は朝よりも少し厚くなっていたが、雨が降り出す様子はない。庭の木々は風に揺れ、葉の少なくなった枝が空へ伸びている。
彩花は星模様のノートを閉じ、昨日購入した淡い緑色のノートを手に取った。
物語のことを考えているうちに、昨日の喫茶店で交わした会話を思い出したのだ。
悠真は、自分が好きなものを選ぶ気持ちも大切だと言ってくれた。
その言葉は、物語を書くうえでも参考になった。
けれど、それだけではない。
自分が何かを好きだと思う気持ちを、誰かに受け止めてもらえること。
その嬉しさを、彩花は以前よりも強く感じるようになっていた。
彩花はノートを開き、昨日の記録の下へ短い文章を書き足した。
『悠真君と話していると、自分でも気づかなかったことに気づける。』
その一文を書いてから、少しだけ考えた。
昨日、悠真は自分が気に入ったノートを見つけたとき、目が輝いていたと言っていた。
彩花自身は、そんなに表情へ出ているとは思っていなかった。
けれど、彼はちゃんと見ていてくれた。
(悠真君って、私が思っている以上に、私のことを見てくれているのかもしれない)
そう考えると、少し照れくさかった。
彩花は頬に手を当て、ノートへ視線を落とした。
好きな本のことを話しているときも、物語の構想について相談しているときも、悠真は急いで答えを出そうとはしない。
自分が何を考えているのか、ゆっくり聞いてくれる。
それがどれほど嬉しいことなのか、以前の彩花はまだ十分に分かっていなかったのかもしれない。
彩花はノートを閉じ、椅子の背もたれへ軽く寄りかかった。
窓の外を流れる雲を眺めながら、昨日の帰り道で交わした言葉を思い返す。
『俺も、もう少し彩花さんと話したいと思っていたんだ』
あのとき、悠真はそう言ってくれた。
自分からもう少し一緒にいたいと伝えることは、少し勇気が必要だった。
けれど、伝えてよかったと思う。
もし何も言わずに帰っていたら、喫茶店での時間はなかった。
あの穏やかな会話も、窓際の席から見た景色も、温かいココアの味も、きっと知らないままだった。
(自分の気持ちを言葉にするって、やっぱり大切なんだな)
彩花は小さく微笑んだ。
そのことは、物語を書くときにも、普段の生活でも、忘れたくないと思った。
◇
昼食の時間になると、彩花は一階へ下り、紗月と一緒に食卓の準備を手伝った。
キッチンには温かな料理の香りが漂い、窓から入る光がテーブルの上へ柔らかく落ちている。耕助は庭の様子を見てから戻ってきたところで、凛花は学校の課題を一区切りつけて席へ着いた。
家族で昼食を囲みながら、彩花は午前中に考えていた物語のことを少し話した。
「新しいお話、まだ設定を考えているところなんだけど、昨日の文房具屋さんで見たものが参考になりそうなんだ」
彩花がそう言うと、紗月が興味深そうに顔を上げた。
「そうなの。どんなお話なの?」
「遠くへ引っ越すおばあちゃんに、手紙を書こうとしている女の子のお話なの。伝えたいことはあるのに、なかなか最初の一行が書けなくて」
彩花は少し考えながら続けた。
「おばあちゃんとは、昔一緒に花を育てた思い出があるんだ。だから、来年花が咲いたら写真を送るっていう約束も入れたいなと思ってるの」
紗月は娘の説明に耳を傾け、穏やかに頷いた。
「そう。大切な人へ書く手紙ほど、何を書けばいいのか迷うこともあるわね」
「うん。私も、そういう気持ちを書きたいなって思ってるんだ」
彩花は箸を置き、少しだけ言葉を探した。
「でもね、ただ寂しいだけのお話にはしたくなくて。離れていても、これからも話したいことがあるっていう気持ちも入れたいの」
紗月はその言葉に、優しく微笑んだ。
「素敵ね。離れることは寂しいけれど、それで全部が終わるわけではないものね」
彩花は母の言葉を聞き、少しだけ目を見開いた。
自分が考えていたことを、別の言葉で表してもらったような気がした。
「……うん。そうだね。離れても、これからのことを話せるんだよね」
耕助も穏やかに頷いた。
「手紙なら、相手が好きなときに何度でも読み返せるからな。会えない時間に読むこともあるだろうし、書いた本人が思っている以上に大切にされることもあるかもしれない」
その言葉に、彩花はふと悠真へ渡したカードのことを思い出した。
彼があのカードをどんなふうに保管しているのかは知らない。
けれど、受け取ったときに嬉しそうにしてくれたことは、今でも覚えている。
(あのカードも、悠真君にとって大切なものになっていたら嬉しいな)
彩花は少しだけ頬を緩め、それから父へ顔を向けた。
「そうだね。手紙って、渡したあとも相手のところに残るんだもんね」
凛花はそんな彩花の様子を見ながら、優しく微笑んだ。
「彩花、そのお話、完成したら読ませてもらってもいい?」
「もちろん。でも、まだ最初の場面しか書けてないから、完成するまで少し時間がかかると思う」
「急がなくていいよ。彩花が納得できるお話になったら、ぜひ読ませてほしいな」
凛花の言葉に、彩花は嬉しそうに頷いた。
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
家族との会話を通して、彩花の中に新しい考えが生まれていた。
手紙は、離れる前に気持ちを伝えるためだけのものではない。
離れたあとにも、相手のそばに残るものなのかもしれない。
その考えを、あとでノートへ書き留めておこうと思った。
◇
午後、悠真は庭へ出て、ハクと少し遊んでいた。
空には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はなく、庭の芝生には柔らかな光が落ちている。ハクは悠真の姿を見ると嬉しそうに近づき、白い尻尾を大きく振った。
「ハク、今日は元気だね」
悠真が声をかけると、ハクは鼻先を彼の手へ寄せた。
悠真はしゃがんで頭を撫で、しばらく一緒に庭を歩いた。
昨日は彩花と文房具店へ出かけ、今日は家でゆっくり過ごしている。
こうした穏やかな休日も、悪くないと思った。
庭の端には、まだ少しだけ秋の葉が残っている。
悠真はその色合いを眺めながら、川沿いで拾った葉のことを思い出した。
あの葉を贈り物にするなら、どんな形がいいのだろう。
しおりにするのか、小さなカードに添えるのか。
あるいは、別の方法があるのかもしれない。
悠真はハクの背中を撫でながら、ゆっくり考えた。
彩花は昨日、ノートをとても嬉しそうに選んでいた。
自分で見つけたものを大切に使おうとしている姿は、悠真にとって印象的だった。
だからこそ、何かを贈るなら、彼女が本当に喜んでくれるものにしたい。
ただ珍しいものを渡せばいいわけではないし、高価なものを用意すればいいわけでもない。
(彩花さんが受け取ったとき、自然に笑ってくれるようなものがいいな)
悠真はそう考え、ハクの頭を優しく撫でた。
ハクは気持ちよさそうに目を細め、悠真の隣へ座り込んだ。
しばらくすると、庭へ面した廊下の窓が開き、麗華が顔を覗かせた。
「悠真、寒くない?」
母の声に、悠真は振り返った。
「大丈夫だよ、母さん。ハクと少し遊んでいただけだから」
「そう。昨日はお出かけだったものね。今日はゆっくりしているの?」
「うん。午前中は本を読んでいたよ。昨日見た紙のことが気になって、少し調べてたんだ」
麗華はその言葉に微笑んだ。
「いいわね。実際に見て興味を持ったことを調べるのは、きっと楽しいでしょう」
「うん。彩花さんと一緒に見たから、余計に印象に残っているのかもしれない」
悠真がそう答えると、麗華は息子の表情を静かに見つめた。
以前の悠真は、何かに興味を持っても、それを落ち着いて一人で調べることが多かった。
けれど最近は、彩花と話したことや一緒に見たものを、楽しそうに家族へ話すようになっている。
麗華はその変化を嬉しく思っていた。
「悠真が楽しそうに話してくれると、私も嬉しいわ。今度、そのお店のことを琴葉にも教えてあげてね」
「うん。琴葉も行ってみたいって言ってたから、今度話してみるよ」
麗華は頷き、窓を閉める前にもう一度声をかけた。
「風が冷たくなってきたから、あまり長く外にいないようにね」
「分かった。もう少ししたら戻るよ」
悠真はそう答え、再びハクへ目を向けた。
ハクは相変わらず嬉しそうに尻尾を振っている。
悠真はその姿に笑みを浮かべながら、もう少しだけ庭で過ごすことにした。
◇
夕方、彩花は自室の机へ向かい、昼食のときに考えたことを星模様のノートへ書き加えていた。
窓の外では空が少しずつ暗くなり、部屋の中には机のライトが柔らかな明かりを落としている。
ノートには、まだ短い言葉や場面の候補が並んでいるだけだった。
それでも、昨日より少しだけ、主人公の気持ちが分かるようになった気がした。
彩花はペンを手に取り、新しい一行を書き加えた。
『手紙は、離れる前に伝える言葉だけではなく、離れたあとも続く約束になる。』
書き終えると、彩花はしばらくその文章を見つめた。
祖母と少女が、来年花が咲いたら写真を送る約束をする。
その約束が、手紙を書く勇気につながるのかもしれない。
(この子は、寂しいって気持ちを隠したいわけじゃないんだ。ただ、それだけじゃないことも伝えたいんだよね)
彩花は少しだけ微笑み、ノートのページをめくった。
以前書いた冒頭の文章が目に入る。
机に向かう少女。
白い便箋。
窓の外に見える、祖母と一緒に花を植えた庭。
まだ短い場面だったが、今読み返すと、続きを書くための小さな手がかりがいくつも見つかるように感じられた。
少女は、すぐに手紙を書き始めるのではない。
まず、祖母と過ごした時間を思い出す。
一緒に土を触ったこと。
水をやりすぎないように気をつけたこと。
花が咲いたとき、二人で喜んだこと。
そうした思い出を一つずつ振り返るうちに、少女は自分が何を伝えたいのかを少しずつ見つけていく。
彩花はその流れをノートへ書き留めた。
まだ花の種類も季節も決まっていないため、具体的な描写はこれから考える必要がある。
けれど、物語の中心に置きたい気持ちは、少しずつはっきりしてきた。
大切だからこそ、言葉を選ぶ。
大切だからこそ、簡単には書けない。
それでも、伝えたいと思う気持ちがある。
彩花はペンを置き、ゆっくりと息をついた。
(焦らなくていいんだ。私も、この子と一緒に言葉を探していけばいい)
そう考えると、まだ完成していない物語が、以前よりも身近に感じられた。
◇
その頃、悠真は自室で昨日購入したメモ用紙を使っていた。
机の上には、紙について調べたことをまとめた本と、数枚のメモが並んでいる。
悠真は保存方法について分かったことを整理しながら、気になる点を一つずつ書き留めていた。
湿気を避けること。
直射日光に長く当てないこと。
葉を傷めないよう、取り扱いに注意すること。
ただし、実際にどの方法が適しているかは、葉の状態や使う素材によっても変わるらしい。
悠真はメモを読み返し、少し考えた。
彩花へ何かを贈りたいという気持ちはある。
けれど、贈り物のために大切な葉を傷めてしまうのは避けたい。
だから、まずは今の状態を保ちながら、もう少し調べることにした。
悠真はメモを本の間へ挟み、机の上を片づけた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、航平からのメッセージが表示されていた。
『九条、昨日の文房具屋どうだった? ちゃんと楽しめたか?』
悠真は思わず微笑んだ。
航平は昨日の外出について知っており、以前から自分が楽しむことも大切だと言ってくれていた。
悠真は少し考えてから返事を打った。
『うん、すごく楽しかったよ。彩花さんが案内してくれたお店、思っていた以上にいろいろなものがあった』
すぐに返信が届いた。
『そりゃよかった。お前、相手が楽しめるかばっかり考えるとこあるからな。自分も楽しめたなら安心した』
悠真はその文章を読み、少しだけ笑った。
航平の言葉には、いつも遠慮のない率直さがある。
けれど、それが気遣いから来ていることも分かっていた。
『ありがとう。昨日は俺も気になるものを見られたし、彩花さんといろいろ話せたよ』
『なら上出来だな。月曜、学校で話聞かせろよ』
『うん。また明日』
やり取りを終えると、悠真はスマートフォンを机へ置いた。
昨日の外出を振り返ると、航平が言っていたことの意味が少し分かる気がした。
彩花に楽しんでもらいたいという気持ちは、もちろんあった。
けれど、自分自身も文房具店を楽しみ、彼女と一緒に新しいものを見つけることができた。
どちらか一方だけが楽しむのではなく、二人で同じ時間を楽しめること。
それが、昨日の一日を特別なものにしてくれたのだと思った。
◇
夕食を終えたあと、彩花は自室へ戻り、机の上のノートを整理していた。
淡い緑色のノートは、物語の構想を書く星模様のノートとは別の場所へ置くことにした。
いつでも手に取れるように、机の右端へ置いておく。
その隣には、以前文房具店で購入した淡い青色の花柄カードが一枚残っていた。
悠真へ渡したカードと同じものだ。
彩花はそのカードを手に取り、表面の小さな花模様を眺めた。
最初に二枚購入したときは、どちらを使うか決めていなかった。
一枚には悠真への言葉を書き、渡した。
もう一枚は、まだ何も書かれていない。
彩花はカードをそっと机へ置いた。
(このカードにも、いつか何か書くのかな)
誰に渡すのか。
どんな言葉を書くのか。
今はまだ決まっていない。
けれど、白い余白を眺めていると、そこにはこれから生まれる言葉を待つような静けさがあった。
彩花はカードを傷めないよう、元の場所へ戻した。
そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日はゆっくりできた?』
彩花は自然に笑みを浮かべ、返事を打った。
『こんばんは、悠真君。今日は家でのんびりしてたよ。新しいお話のことも少し考えてたんだ。悠真君は?』
しばらくすると、返信が届いた。
『俺も家でゆっくりしてたよ。ハクと庭で遊んだり、昨日買ったメモ用紙を使ってみたりしてた』
彩花はその文章を読み、ハクの姿を思い浮かべた。
白い毛並みと、嬉しそうに尻尾を振る様子。
九条家を訪れたときに見た姿が、自然に思い出される。
『ハク、元気そうでよかった。昨日買ったメモ用紙、使いやすかった?』
『うん。紙の手触りがよくて、書きやすかったよ。彩花さんのノートはどう?』
彩花は机の上の淡い緑色のノートへ目を向けた。
『すごく気に入ってるよ。昨日のことを書いたんだけど、今日の朝も少し続きを書いちゃった』
『そうなんだ。彩花さんが気に入ってくれて、俺も嬉しいな』
その言葉に、彩花は少しだけ頬を緩めた。
昨日一緒に選んだノートを、悠真も覚えていてくれる。
それだけで、何だか嬉しかった。
彩花は少し考えてから、もう一通メッセージを送った。
『悠真君、昨日は本当にありがとう。また一緒に、好きなものを探しに行けたら嬉しいな』
送信してから、彩花はスマートフォンを両手で持ったまま、返信を待った。
しばらくして、画面が明るくなる。
『もちろん。俺も楽しみにしてるよ。次は彩花さんが気になっている場所にも行ってみたいな』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
次にどこへ行くかは、まだ決まっていない。
けれど、また一緒に出かけられる。
その約束があるだけで、これからの日々が少し楽しみになる。
彩花はしばらく画面を眺め、それからゆっくりと返信を打った。
『うん。私も楽しみにしてるね。今度は悠真君が行ってみたいところも教えてほしいな』
送信すると、少しして返事が届いた。
『ありがとう。俺も考えてみるよ。彩花さんと一緒なら、きっとどこでも楽しいと思う』
その言葉に、彩花は思わず頬を赤くした。
悠真はいつも、こうして自然に嬉しいことを言ってくれる。
本人は特別なことを言っているつもりではないのかもしれない。
けれど、彩花にとっては、何度思い返しても嬉しくなる言葉だった。
◇
夜が更ける頃、彩花は寝る前に、もう一度淡い緑色のノートを開いた。
昨日の記録の下には、今朝書き加えた言葉が並んでいる。
彩花はその文章を読み返し、少し考えてから新しい一行を書き足した。
『好きなものを一緒に見つける時間も、好きな人のことを知る時間も、どちらも大切にしたい。』
書き終えた瞬間、彩花は自分の言葉を見つめた。
好きな人。
その表現が、自然にペン先から生まれていた。
彩花は少しだけ頬を赤くし、ノートの上へ視線を落とした。
(……私、こんなふうに書いちゃったんだ)
けれど、不思議と消したいとは思わなかった。
悠真と一緒にいると、嬉しい。
もっと話したいと思う。
彼が好きなものを知りたいし、自分が好きなものも知ってほしい。
その気持ちは、もうずっと前から少しずつ積み重なっていた。
彩花はペンを置き、ノートをそっと閉じた。
今すぐ誰かへ伝える言葉ではない。
けれど、自分の中にある大切な気持ちとして、残しておきたかった。
窓の外では夜の風が静かに木々を揺らしている。
彩花は机のライトを消し、ベッドへ向かった。
明日からは、また学校が始まる。
文芸部の冬の部誌も、少しずつ完成へ近づいている。
新しい物語も、まだ書き始めたばかりだ。
そして、悠真と過ごす次の時間も、これから少しずつ増えていくのだろう。
彩花は布団へ入り、静かに目を閉じた。
今日書いた言葉を、もう一度胸の中で思い返す。
好きなものを一緒に見つける時間。
好きな人のことを知る時間。
どちらも、これから大切にしていきたい。
そんな穏やかな願いを抱きながら、彩花はゆっくりと眠りへ落ちていった。




