第88話 帰り道に、もう少しだけ君と話したい
青凪駅へ続く通りには、午後の柔らかな日差しが斜めに差し込んでいた。
小さな文房具店を出てから、彩花と悠真は駅へ向かって歩いていた。歩道の端には街路樹から落ちた葉が集まり、時折吹く風に押されて、乾いた音を立てながら足元を転がっていく。店先に並ぶ秋物の飾りと、少しずつ増えてきた冬向けの商品が、季節の移り変わりを感じさせた。
彩花の手には、先ほど購入した小さな紙袋がある。中には淡い緑色の表紙に葉の模様が入ったノートが一冊収められており、歩くたびに紙袋の持ち手が指先へ軽く触れた。
(今日は本当に楽しかったな。文房具を見に行くだけでも、悠真君と一緒だと、いつもとは違うものが見つかる気がする)
彩花は隣を歩く悠真へ、そっと視線を向けた。
紺色のニットに灰色のコートを合わせた悠真は、先ほどの公園で交わした会話の余韻を残すように、穏やかな表情をしていた。冬の景色も春の景色も一緒に見られたら嬉しいと伝えたとき、彼は照れたように微笑んで、自分も同じだと言ってくれた。
その言葉を思い出すだけで、彩花の頬は少し温かくなる。
「彩花さん、紙袋、持とうか? ずっと持っていると手が冷たくなるかもしれないし」
悠真が気遣うように声をかけると、彩花は紙袋を持ち直して微笑んだ。
「ありがとう。でも、ノート一冊だから全然重くないよ。悠真君も買ったものがあるでしょう?」
「うん。薄いメモ用紙だから、鞄に入れてあるよ。彩花さんが気に入ったノートを見つけられてよかった」
「私も嬉しい。あの色、最初に見たときから気になってたんだ。葉っぱの模様も可愛かったし、持ち歩くのにちょうどよさそうだったから」
彩花は紙袋へ視線を落とした。
新しいノートを買ったときは、いつも最初のページに何を書くか迷ってしまう。真っ白な紙を前にすると、何でも書けそうな気がする一方で、最初の言葉を大切にしたくなるのだ。
「でもね、まだ何を書くかは決めてないの。思いついたことを自由に書くためのノートにしようと思ってるんだけど、最初のページだけはちょっと緊張しちゃうかも」
彩花がそう話すと、悠真は少し考えてから答えた。
「それなら、今日見つけたもののことを書いてみるのはどうかな。どんな紙が気に入ったとか、どんな模様が綺麗だったとか。最初から物語を書こうとしなくても、彩花さんが好きだと思ったことを残しておけば、あとで読み返したときにも楽しそうだよ」
「……それ、いいね」
彩花は思わず顔を上げた。
今日の店内で見た、封筒の内側に小さな花模様が描かれた便箋。窓から光が差し込む棚に並んでいた秋色のカード。悠真と一緒に見比べた紙の手触りや、彼が気に入っていた落ち着いた色合い。
思い返すと、書き留めておきたいことはいくつもあった。
「じゃあ、最初のページには今日のことを書こうかな。文房具屋さんに行ったこととか、悠真君と見つけたものとか」
彩花が微笑むと、悠真は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「俺のことも?」
「うん。だって、今日の思い出だから」
自然に答えてから、彩花は自分の言葉に少し照れた。
悠真はしばらく彼女を見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。俺も、今日のことは忘れたくないな」
二人の間に、穏やかな沈黙が生まれた。
駅へ向かう道には買い物帰りの人々が行き交い、遠くから自転車のベルが聞こえてくる。彩花は少しだけ歩く速度を緩めながら、もう少しこの時間が続けばいいのにと思っていた。
◇
青凪駅の建物が見えてきた頃、彩花は駅前の広場へ視線を向けた。
待ち合わせをしたときよりも人の数が増えており、改札へ向かう人や、買い物を終えて帰る家族連れが行き交っている。駅前の時計は午後三時を少し過ぎたところを指していた。
まだ帰宅するには早い時間だった。
彩花は時計を見上げてから、隣の悠真へ目を向けた。
「悠真君、今日はこのあと何か予定ある?」
尋ねた途端、少しだけ胸が高鳴った。
別に特別な意味があるわけではない。ただ、もう少し一緒にいたいと思っただけだ。それでも、自分からそう伝えることには、少し勇気が必要だった。
悠真は彩花の問いに、穏やかに首を横へ振った。
「今日は特に予定はないよ。夕方までには帰ろうと思っていたけど、まだ時間はあるかな。彩花さんは?」
「私も、夕方までに帰れば大丈夫。……あのね、もしよかったら、もう少しだけ一緒にいない?」
彩花は紙袋の持ち手を指でそっと握り直した。
「せっかく会えたし、まだ少し話したいなって思って」
言い終えると、悠真は驚いたように目を見開いた。
けれど、その表情はすぐに嬉しそうな微笑みへ変わった。
「もちろん。俺も、もう少し彩花さんと話したいと思っていたんだ」
その答えに、彩花の胸の奥がふわりと温かくなった。
「本当? よかった。私だけだったらどうしようって、ちょっと思っちゃった」
「そんなことないよ。彩花さんと一緒にいる時間は、いつもあっという間に過ぎるから」
悠真はそう言って、駅前の通りを見渡した。
「この近くに、少し休めるお店があったと思うんだけど、どうかな。温かいものでも飲みながら話せたらいいなと思って」
「うん、いいね。私もちょうど温かい飲み物が欲しくなってたところ」
二人は駅前の人の流れから離れ、通り沿いにある小さな喫茶店へ向かった。
店の窓には柔らかな照明が映り、ガラス越しに木製のテーブルと椅子が見えている。入口近くには季節の飲み物を紹介する小さな看板が置かれ、温かい紅茶やココアの名前が並んでいた。
彩花は看板を眺め、嬉しそうに微笑んだ。
「ココアもあるんだ。寒い日に飲むと美味しいよね」
「そうだね。俺も今日は温かいものが飲みたい気分だな」
悠真が扉を開けると、店内からコーヒーと焼き菓子の香りが漂ってきた。
◇
喫茶店の中は、外の冷たい空気とは違い、穏やかな暖かさに包まれていた。
窓際には二人掛けのテーブルがいくつか並び、奥の席では本を読んでいる客や、静かに会話を楽しむ人々の姿が見える。小さな音量で音楽が流れ、食器が触れ合う控えめな音が、落ち着いた空間に溶け込んでいた。
店員に案内され、彩花と悠真は窓際の席へ腰掛けた。
テーブルの上には小さな花瓶が置かれ、淡い色の花が一輪飾られている。彩花はその花を眺めながら、店内の柔らかな雰囲気にほっと息をついた。
「素敵なお店だね。静かで、本を読みたくなる感じがする」
彩花がそう言うと、悠真はメニューを開きながら微笑んだ。
「彩花さんなら、きっとそう言うと思ったよ。俺も、こういう落ち着いたお店は好きだな」
「うん。窓際の席もいいね。外を歩いてる人が見えるし、時間がゆっくり流れてるみたい」
二人はメニューを眺め、彩花は温かいココアを、悠真は紅茶を注文した。
注文を終えると、彩花は紙袋を膝の横へ置き、窓の外へ目を向けた。
駅前の通りには休日らしい賑わいがあり、買い物袋を持った人々が行き交っている。親子連れが店の前を通り過ぎ、少し遅れて歩いていた小さな子どもが、母親の手を握り直す姿が見えた。
彩花はその光景を眺めながら、ふと新しい物語のことを思い出した。
祖母が遠くへ引っ越すため、手紙を書こうとしている少女。
まだ主人公の名前も、季節も、花の種類も決まっていない。けれど、今日文房具店で見た便箋や封筒のことが、頭の中で少しずつつながり始めていた。
(あの子も、手紙を書くための紙を選ぶのかな。おばあちゃんが好きそうな模様を探したり、何を書こうか迷ったりするのかもしれない)
彩花はテーブルの上に置かれた花へ視線を戻した。
大切な人へ伝えたいことがあるのに、言葉がうまくまとまらない。
その気持ちは、以前悠真へカードを書いたときにも、少しだけ感じたものだった。
「彩花さん、何か考え事?」
悠真の声に、彩花は顔を上げた。
「あ、ごめんね。ちょっとお話のことを考えてたの」
「新しく書こうとしているお話?」
「うん。今日、文房具屋さんでいろんな便箋を見たでしょう? それで、主人公がどんな紙を選ぶのかなって考えちゃって」
彩花が説明すると、悠真は興味深そうに頷いた。
「なるほど。手紙を書く女の子なら、便箋を選ぶところも大切な場面になるかもしれないね」
「そうなの。まだどうするか決めてないんだけど、紙を選ぶだけでも、その子の気持ちが少し見える気がして」
彩花は言葉を探しながら続けた。
「たとえば、相手が好きそうなものを選ぶのか、自分が好きなものを選ぶのか。それだけでも、ちょっと違うでしょう?」
「うん。相手のことを考えて選ぶのも素敵だし、自分が好きなものを見せたいと思うのも、その子らしさが出そうだね」
悠真はそう答え、彩花の表情を見つめた。
「彩花さんは、どちらの気持ちも大切にしていそうだな」
その言葉に、彩花は少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうかな?」
「うん。今日も、いろんな紙を見ながら、誰かが受け取ったときのことを考えていたでしょう。でも、自分が好きだと思う色や模様も、ちゃんと大切にしていたから」
彩花はその言葉を聞き、少しだけ頬を赤くした。
自分でも気づいていなかったところを、悠真が見てくれていた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、なんだか嬉しいな」
彩花は小さく微笑み、テーブルの上の花へ視線を落とした。
物語を書くとき、登場人物の気持ちを考えることは好きだった。けれど、自分自身がどんなふうにものを選んでいるのかについては、あまり意識したことがなかった。
悠真と話していると、そうした小さな発見が増えていく。
◇
しばらくすると、注文した飲み物が運ばれてきた。
彩花の前には湯気の立つココアが置かれ、悠真の前には紅茶の入ったカップが並ぶ。温かな香りがテーブルの上に広がり、外の寒さで少し冷えていた指先も、カップを持つとゆっくり温まっていった。
「いただきます」
彩花は両手でカップを包み、少し冷ましてから一口飲んだ。
優しい甘さが口の中に広がり、思わず表情が緩む。
「美味しい。甘すぎなくて、ちょうどいいね」
悠真も紅茶を一口飲み、穏やかに微笑んだ。
「こっちも美味しいよ。香りが落ち着いていて、ゆっくり飲みたくなる感じだね」
二人は飲み物を楽しみながら、今日の文房具店で見たものについて話し始めた。
彩花は封筒の内側に花模様が入っていた便箋が特に印象に残っていると話し、悠真は紙の厚さや手触りの違いが面白かったと答えた。
「私、あの封筒、ちょっと欲しくなっちゃった。でも今日はノートを買うって決めたから、また今度にしようと思って」
彩花が笑うと、悠真も微笑んだ。
「気に入ったものがたくさんあると迷うよね。俺も、しおりの棚はもう少しゆっくり見たかったな」
「しおりも種類が多かったよね。悠真君、何か気になるものがあった?」
「うん。形が少し変わっているものがあって、どういうふうに作られているのか気になったんだ」
悠真はそう答えながら、押し葉のことを思い出した。
まだ保存方法について十分に調べられていないため、今日見たものをすぐに使うつもりはない。それでも、どんな形なら葉を綺麗に残せるのか、考えるきっかけにはなった。
彩花はその説明を聞き、興味深そうに頷いた。
「そうなんだ。しおりって、本に挟むだけのものだと思ってたけど、作り方にもいろいろあるんだね」
「うん。今日見て、少し興味が湧いたよ」
「じゃあ、また一緒に見に行けたらいいね。私も、まだ見てない棚があるし」
彩花がそう言うと、悠真は嬉しそうに微笑んだ。
「ぜひ。彩花さんと一緒なら、また新しい発見がありそうだね」
二人は顔を見合わせ、自然に笑った。
窓の外では、通りを歩く人々の影が少しずつ長くなっている。店内の照明も、先ほどより柔らかく感じられた。
彩花はココアをもう一口飲み、カップをそっとテーブルへ戻した。
「悠真君、今日は誘ってよかった」
ぽつりと口にした言葉に、悠真が顔を上げた。
「文房具屋さんに?」
「うん。それもあるけど……今、こうして一緒にお茶してることも」
彩花は少し照れながら続けた。
「お店を見て回るのも楽しかったけど、帰る前にもう少し話せてよかったなって思うの」
悠真はしばらく彩花を見つめ、それから穏やかに微笑んだ。
「俺もだよ。彩花さんがもう少し一緒にいたいって言ってくれたとき、すごく嬉しかった」
その言葉に、彩花の胸が小さく高鳴った。
「……本当?」
「うん。俺も同じことを考えていたから」
悠真は少しだけ照れたように視線を落とした。
「一緒にいると、話したいことが次々に浮かんでくるんだ。今日見たもののことも、学校のことも、彩花さんが書いているお話のことも。だから、帰る時間になると、もう少し話せたらいいなって思うことがある」
彩花はその言葉を聞き、カップを持つ指先に少し力を込めた。
自分だけではなかった。
帰り道で感じていた名残惜しさを、悠真も同じように感じてくれていた。
「私もね、悠真君と話してると、まだ話したいことがあるなって思うの。家に帰ってから、あれも話せばよかったって思うこともあるし」
彩花は少し笑いながら続けた。
「でも、そういうときは、次に会ったら話そうって思えるから、それも嬉しいんだ」
悠真はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「そうだね。次に会う楽しみが増えるのは、いいことだと思う」
二人の間に、温かな沈黙が広がった。
言葉を交わしていない時間も、不思議と落ち着いていられる。
彩花は窓の外を眺めながら、今こうしている時間を、できるだけ丁寧に覚えておきたいと思った。
◇
喫茶店を出る頃には、空の色が少しずつ夕方へ近づいていた。
駅前の通りには街灯が灯り始め、店の窓から漏れる明かりが歩道を柔らかく照らしている。風は昼間よりも冷たくなっており、彩花はマフラーを少しだけ巻き直した。
「寒くなってきたね」
彩花がそう言うと、悠真は彼女の様子を気遣うように目を向けた。
「そうだね。駅までそんなに遠くないけど、冷えないようにしよう」
「うん。ココアを飲んだから、まだ体は暖かいよ」
二人は並んで駅へ向かった。
歩道の端には落ち葉が集まり、通りを走る車の音が遠くから聞こえてくる。駅の建物が近づくにつれて、人の流れも少しずつ増えていった。
彩花は紙袋を持ち直し、隣の悠真へ顔を向けた。
「悠真君、今日は本当にありがとう。文房具屋さんも喫茶店も、すごく楽しかった」
「こちらこそ。彩花さんと一緒に過ごせて嬉しかったよ」
悠真は穏やかに微笑み、少しだけ間を置いて続けた。
「それに、今日の彩花さん、すごく楽しそうだったから。見ている俺まで嬉しくなった」
彩花はその言葉に、思わず足を緩めた。
「……そんなに分かりやすかった?」
「うん。気に入ったものを見つけたとき、目が少し輝くんだ。特に、あの緑色のノートを見つけたときは、すごく嬉しそうだった」
悠真の声には、からかうような響きはなかった。
ただ、彼女が楽しんでいる姿を見て、自分も嬉しかったと伝えているだけだった。
彩花は少し照れながら、紙袋へ視線を落とした。
「そっか。……でも、悠真君が一緒だったから、余計に楽しかったんだと思う」
その言葉に、悠真も少しだけ頬を赤くした。
「ありがとう。そう言ってもらえると、すごく嬉しいよ」
二人は再び歩き始めた。
駅前の広場へ入ると、待ち合わせをしたときと同じ時計が見えた。朝から続いていた期待が、今は穏やかな満足感へ変わっている。
けれど、別れの時間が近づいていることを意識すると、彩花の胸には少しだけ寂しさも広がった。
(もう帰る時間なんだ。今日はたくさん話せたのに、まだ少し一緒にいたいな)
彩花はその気持ちを胸の中でそっと抱えながら、悠真の隣を歩いた。
◇
改札の近くまで来ると、二人は人の流れから少し離れた場所で立ち止まった。
駅構内には電車の到着を知らせる案内が流れ、帰宅する人々が改札へ向かって歩いている。外の冷たい空気とは違い、駅の中には人の行き交う温かさがあった。
「彩花さん、今日は気をつけて帰ってね」
悠真がそう言うと、彩花は頷いた。
「うん。悠真君もね。帰ったら連絡するね」
「ありがとう。俺も帰ったら連絡するよ」
二人は少しだけ微笑み合った。
それから彩花は、紙袋を持つ手をそっと握り直した。
「あのね、悠真君」
「うん?」
悠真が顔を向けると、彩花は少し照れながら続けた。
「今日買ったノート、最初のページに今日のことを書くって言ったでしょう?」
「うん。覚えてるよ」
「たぶんね、文房具屋さんで見たものだけじゃなくて、悠真君と話したことも書くと思う」
彩花は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「今日、悠真君が言ってくれたこととか、一緒に笑ったこととか。そういうのも、忘れたくないなって思ったから」
悠真はその言葉を聞き、しばらく彩花を見つめた。
彼女の表情には、少しの照れと、まっすぐな気持ちが混ざっている。
「……ありがとう、彩花さん」
悠真は柔らかく微笑んだ。
「俺も、今日のことは大切に覚えておきたい。彩花さんと一緒に見つけたものも、話したことも」
彩花はその答えに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「うん。……また、一緒に出かけようね」
「もちろん。次も楽しみにしてるよ」
二人は名残惜しそうに微笑み合い、それぞれの帰り道へ向かった。
彩花は改札を通り、ホームへ続く通路を歩きながら、何度か今日の出来事を思い返した。
文房具店で見つけた淡い緑色のノート。
封筒の内側に描かれた小さな花模様。
温かいココアを飲みながら交わした会話。
そして、帰り道で悠真が言ってくれた言葉。
どれも特別な事件ではないけれど、彩花にとっては大切な思い出だった。
◇
夕方、彩花が自宅へ戻ると、リビングから凛花の声が聞こえてきた。
「おかえり、彩花。どうだった?」
彩花が玄関で靴を脱いでいると、凛花が廊下へ顔を出した。
「ただいま、お姉ちゃん。すごく楽しかったよ」
彩花が笑顔で答えると、凛花も嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。何か買ってきたの?」
「うん。小さなノートを一冊買ったんだ。あとで見せるね」
リビングへ入ると、紗月が夕食の準備をしていた。
「おかえりなさい、彩花。寒くなかった?」
「ただいま、お母さん。夕方は少し寒かったけど、マフラーしてたから大丈夫だったよ。途中で喫茶店にも寄って、温かいココアを飲んできたの」
「そう。ゆっくりできたみたいでよかったわ」
紗月は娘の表情を見て、穏やかに微笑んだ。
彩花は紙袋からノートを取り出し、凛花へ見せた。
「これなんだけど、どうかな?」
凛花は淡い緑色の表紙を眺め、目を輝かせた。
「可愛い。葉っぱの模様がすごく綺麗だね」
「うん。私もそこが気に入ったんだ。持ち歩きやすい大きさだし、思いついたことを書こうと思って」
「いいね。彩花らしいノートだと思う」
凛花の言葉に、彩花は嬉しそうに微笑んだ。
その後、彩花は自室へ戻り、机の上へノートを置いた。
窓の外では夕暮れの空が広がり、部屋の中には柔らかな明かりが差し込んでいる。彩花は椅子へ腰掛け、ノートの表紙をそっと撫でた。
(最初のページ、何を書こうかな)
少し考えてから、彩花はペンを手に取った。
ページを開くと、真っ白な紙が目の前に広がる。
彩花はしばらくその余白を眺め、それからゆっくりと文字を書き始めた。
『今日は、悠真君と文房具屋さんへ行った。』
最初の一行を書き終えると、自然に次の言葉が浮かんできた。
『好きなものを一緒に見つける時間は、思っていた以上に楽しかった。』
彩花は少しだけペンを止め、今日の出来事を思い返した。
紙の手触りを確かめながら話したこと。
気に入ったノートを見つけたとき、悠真が似合いそうだと言ってくれたこと。
喫茶店で、もう少し一緒にいたいと思っていたのは自分だけではなかったと知ったこと。
思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。
彩花はもう一度ペンを動かし、ゆっくりと書き足した。
『また一緒に出かけたい。次は、どんなものを見つけられるかな。』
書き終えた文字を眺め、彩花は小さく微笑んだ。
そのとき、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、今日はありがとう。無事に帰宅したよ。文房具店も喫茶店も、とても楽しかった。また一緒に出かけられるのを楽しみにしてるね』
彩花はその文章を読み、自然に笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと返事を打った。
『悠真君、こちらこそありがとう。私も無事に帰ったよ。今日買ったノートに、さっそく今日のことを書いたんだ。また一緒にお出かけしようね』
送信すると、彩花はスマートフォンを机へ置き、もう一度ノートへ目を向けた。
最初のページには、今日の思い出が丁寧に残されている。
これから先、このノートにはどんな言葉が増えていくのだろう。
彩花はそんなことを考えながら、静かにページを閉じた。
窓の外では、夕暮れの空が少しずつ夜の色へ変わっていく。
今日という一日は終わりへ近づいていたが、彩花の胸には、次に悠真と会う日を楽しみに思う気持ちが、柔らかく残っていた。




