第87話 君と見つける、好きなもの
土曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、部屋のカーテンの隙間から柔らかな日差しが差し込んでいた。枕元の時計は七時半を少し過ぎたところで、休日ならもう少し眠っていてもいい時間だったが、不思議と眠気は残っていなかった。
窓の向こうには澄んだ青空が広がり、庭の木々が風に揺れている。昨日よりも少し風が弱いように見えたものの、窓ガラスに触れた指先には外の冷たさが伝わってきた。
(今日は悠真君と文房具屋さんに行く日だ。待ち合わせまでまだ時間があるけど、何を着ていこうかな)
彩花は布団から起き上がり、ベッドの端へ腰掛けた。昨日の夜、手帳に書き込んだ約束を思い出すと、胸の奥に小さな期待が広がり、いつもより早く一日を始めたくなった。
クローゼットを開けると、普段から気に入っている服が並んでいた。落ち着いた色のスカートに、柔らかな白いニット、少し厚手のカーディガンを合わせてみると、鏡の中には休日らしい穏やかな装いが映った。
けれど、彩花はすぐには決められなかった。
文房具店へ出かけるだけなのだから、特別に着飾る必要はない。それでも、悠真と会う日の服を選んでいると、いつもより少しだけ時間をかけたくなる。
(変じゃないかな。前にも似たような服を着たことがあるけど、悠真君は覚えてるかな)
鏡の前でカーディガンの裾を整えていると、廊下から軽い足音が近づいてきた。
「彩花、起きてる? お母さんが朝ご飯できたって」
扉の向こうから聞こえた凛花の声に、彩花は慌てて返事をした。
「うん、起きてるよ。今、着替えてるところだから、すぐ行くね」
「分かった。……あ、今日のお出かけ、楽しんできてね」
姉の声には少しだけ笑いが含まれていた。彩花は鏡の中の自分を見つめ、頬が温かくなるのを感じながら、小さく息を吐いた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
扉の向こうで凛花が笑った気配がして、足音が遠ざかっていく。彩花はもう一度服装を確かめ、白いニットと落ち着いた青灰色のスカートに決めた。
マフラーは昨日母が渡してくれたクリーム色のものを使うことにする。鞄には財布とスマートフォン、ハンカチ、それから小さな手帳を入れ、忘れ物がないか確認してから一階へ向かった。
階段を下りると、キッチンから焼いたパンの香りが漂ってきた。リビングでは父の耕助が新聞を読んでおり、紗月は温かいスープを器へ注いでいる。
「おはよう、彩花。今日は早いな」
耕助が新聞から顔を上げると、彩花は少し照れながら椅子へ腰掛けた。
「おはよう、お父さん。なんだか早く目が覚めちゃった。昨日も早めに寝たからかな」
「そうか。今日は九条君と出かけるんだったな。天気がよくて何よりだ」
「うん。風は冷たそうだけど、雨の心配はなさそうだからよかった」
彩花が答えると、紗月がスープを運んできた。湯気の立つ器を受け取りながら礼を言うと、母は娘の服装へ目を向けて微笑んだ。
「そのカーディガン、よく似合っているわね。今日は歩くでしょうから、疲れにくい靴を履いていくのよ」
「うん。いつもの歩きやすい靴にするつもり。お昼を食べてから出るから、そんなに急がなくても大丈夫だと思う」
凛花も席へ着き、家族で朝食を取り始めた。窓の外では近所の家の庭木がゆっくりと揺れ、休日の住宅街らしい静かな時間が流れている。
彩花はパンを一口食べながら、午後の待ち合わせを思い浮かべた。昨日までは明日だった約束が、もう今日になっている。
それだけのことなのに、胸の奥がくすぐったくなるようだった。
◇
同じ頃、九条家では、悠真が自室の机に向かっていた。
机の上には、昨夜確認した手帳と財布、スマートフォンが並んでいる。待ち合わせは午後一時半なので、まだ十分に時間があったが、悠真は念のため駅までの移動時間を確認していた。
窓からは庭が見え、朝の光を浴びた芝生の上をハクがゆったりと歩いている。白い毛並みが日差しを受けて柔らかく輝き、その姿を見ていると自然に気持ちが落ち着いた。
(今日は彩花さんと文房具店へ行く日だ。何かを買うことだけに気を取られず、一緒に見て回る時間を楽しみたいな)
悠真は手帳を閉じ、机の引き出しへ視線を向けた。
中には、川沿いで拾った橙色の葉が、紙に挟まれた状態で保管されている。いつか彩花へ贈りたいと思っているが、まだ保存に適した材料も、形も決まっていない。
今日訪れる文房具店で参考になるものが見つかるかもしれない。けれど、彩花に秘密にしている贈り物のことを考えすぎて、彼女との時間を楽しめなくなるのは本末転倒だろう。
悠真は引き出しを開けずに立ち上がり、外出用の服を選び始めた。
落ち着いた紺色のニットに、薄い灰色のコートを合わせる。普段の制服とは違う装いに少し新鮮さを感じながら鏡の前へ立つと、ちょうど廊下から琴葉の声が聞こえた。
「お兄様、起きていらっしゃいますか?」
「うん、起きてるよ。どうしたの?」
扉を開けると、琴葉が小さな本を抱えて立っていた。表紙には色とりどりの紙や封筒の写真が並んでおり、悠真は思わず目を留めた。
「昨日、図書室で見つけた本なんです。紙の種類について少し紹介されていて、今日のお出かけの参考になるかもしれないと思いました」
「ありがとう、琴葉。見せてもらってもいい?」
「もちろんです。ただ、押し葉の保存方法について詳しく書かれている本ではないので、そこは別に調べた方がいいと思います」
琴葉はそう断ってから、本を悠真へ手渡した。
ページを開くと、便箋やカードに使われる紙の質感、厚さ、加工の違いなどが写真とともに紹介されていた。悠真は興味深そうに目を通し、特に表面の凹凸や色合いによって印象が変わるという説明へ視線を留めた。
「同じ白い紙でも、こんなに違いがあるんだね。写真だけでも分かるところがあるけど、実際に触ったらもっと違うんだろうな」
「そうだと思います。私も図書室の展示を作ったとき、紙の厚さで雰囲気が変わるのを感じましたから」
琴葉は兄の隣へ立ち、開かれたページを覗き込んだ。
「それに、彩花さんは本や文章を書くことがお好きでしょう? きっと紙を見るだけでも楽しんでくださると思います」
「うん。俺もそう思う。彩花さんがどんなものを選ぶのか、楽しみなんだ」
悠真が自然に微笑むと、琴葉は少しだけ嬉しそうな表情になった。
兄が彩花の話をするときの柔らかな声には、もう慣れている。それでも、今日のように出かける前から楽しそうにしている姿を見ると、妹として微笑ましく感じられた。
「お兄様、今日はあまり難しく考えずに楽しんできてくださいね。贈り物のことは、またゆっくり考えればいいと思います」
「そうだね。お祖父様にも同じようなことを言われたよ」
悠真が笑うと、琴葉も小さく笑った。
「お祖父様と同じことを考えていたなんて、少し嬉しいです」
二人はしばらく本を眺め、紙の違いについて話した。窓の外ではハクが庭を横切り、朝の光が部屋の床へゆっくりと伸びていた。
◇
昼食を終えた彩花は、予定より少し早く身支度を整えた。
玄関の鏡でマフラーの形を確かめ、鞄の中身をもう一度確認する。財布、スマートフォン、手帳、ハンカチは揃っており、寒さに備えて小さな手袋も入れておいた。
「彩花、そろそろ出るの?」
リビングから紗月が声をかけると、彩花は玄関へ向かいながら頷いた。
「うん。少し早いけど、駅で慌てたくないから。待ち合わせより前に着くくらいがいいかなって」
「そうね。気をつけて行ってらっしゃい。帰りが遅くなりそうなら連絡してね」
「分かった。行ってきます」
彩花が靴を履いて立ち上がると、凛花も廊下へ顔を出した。
「彩花、楽しんできてね。帰ってきたら、どんなものがあったか教えて」
「うん。お姉ちゃんが好きそうなものも見てくるね」
姉へ笑顔を向け、彩花は玄関の扉を開けた。
外へ出ると、午前中よりも日差しが強くなっていた。風は冷たいものの、空はよく晴れており、住宅街の道には穏やかな休日の空気が漂っている。
駅へ向かう途中、彩花はスマートフォンで時刻を確認した。待ち合わせまではまだ余裕がある。
それでも、歩く速度は自然と少し速くなっていた。
(悠真君、もう出発してるかな。早く着きすぎたら、どこかで待っていようかな)
そう考えていると、ちょうどスマートフォンが震えた。
『彩花さん、こんにちは。今から駅へ向かうところだよ。気をつけて来てね』
悠真からのメッセージだった。
彩花は道の端へ寄り、立ち止まって返事を打った。
『こんにちは、悠真君。私も今向かってるよ。今日はいい天気でよかったね。駅で会えるの、楽しみにしてる』
送信してから、彩花は少しだけ頬を緩めた。
同じ時間に、同じ場所へ向かっている。
その事実が、何だか嬉しかった。
◇
午後一時二十分を少し過ぎた頃、彩花は青凪駅へ到着した。
休日の駅前には買い物へ向かう人や、待ち合わせをしている学生たちの姿があり、平日とは少し違う賑わいが広がっている。改札付近では電車の到着を知らせる案内が流れ、足早に通り過ぎる人々の間から、楽しそうな会話が聞こえてきた。
彩花は改札を出たところで周囲を見回した。
待ち合わせの時間より少し早いので、悠真はまだ来ていないかもしれない。そう思いながら人の流れから離れた場所へ移動すると、柱の近くに立っている見覚えのある姿が目に入った。
紺色のニットに灰色のコートを合わせた悠真が、手元のスマートフォンを確認している。
彩花が足を止めたのとほぼ同時に、悠真も顔を上げた。
視線が合うと、彼の表情が柔らかく変わった。
「彩花さん、こんにちは。思ったより早かったね」
悠真は近づいてくる彩花へ穏やかに声をかけた。
「こんにちは、悠真君。私も少し早く着いちゃった。悠真君も、もう来てたんだね」
「うん。駅で少し余裕を持って待っていようと思って。寒くなかった?」
「大丈夫だよ。今日はマフラーもしてきたし、歩いていたら少し暖かくなったくらい」
彩花はそう答えながら、悠真の服装へ目を向けた。
制服姿とは違う落ち着いた雰囲気に、少しだけ胸が高鳴る。紺色のニットは彼によく似合っており、普段よりも柔らかな印象を受けた。
「悠真君、その服、すごく似合ってるね。落ち着いた色で、素敵だと思う」
思ったことをそのまま口にすると、悠真は少し驚いたように目を瞬かせた。
「ありがとう。彩花さんにそう言ってもらえると嬉しいよ」
彼は照れくさそうに微笑み、それから彩花の服装へ視線を向けた。
「彩花さんも、そのカーディガンがよく似合ってるね。マフラーの色も優しくて、すごく綺麗だと思う」
「……ありがとう。今日、何を着ようか少し迷ったから、そう言ってもらえると嬉しいな」
彩花はマフラーの端をそっと指で整えた。
二人はしばらく微笑み合い、駅の人の流れが少し落ち着いたところで歩き始めた。
「文房具屋さん、ここから少し歩くんだよね?」
悠真が尋ねると、彩花は頷いた。
「うん。駅前の大きな通りから一本入ったところにあるの。前に行ったとき、静かで落ち着いたお店だったから、悠真君も気に入ってくれるといいな」
「楽しみだよ。今日は彩花さんに案内してもらうね」
その言葉に、彩花は嬉しそうに笑った。
「任せて。私もまだ全部の棚を見たわけじゃないから、一緒に探検するみたいで楽しみ」
駅前の賑わいを抜け、二人は並んで歩き始めた。
歩道には街路樹の影が落ち、風が吹くたびに残った葉が小さく揺れている。道沿いには喫茶店や雑貨店が並び、休日らしい穏やかな時間が流れていた。
彩花は歩きながら、昨日の文芸部であったことを悠真へ話した。
「昨日ね、冬の部誌の目次を確認したんだけど、文字の間隔を少し変えるだけでも、読みやすさが全然違うんだなって思ったの」
「そうなんだ。文章の内容だけじゃなくて、見た目の整え方も大切なんだね」
「うん。今まで本を読むとき、目次の余白をそんなに意識したことがなかったんだけど、自分たちで作ると気になるようになって」
彩花が説明すると、悠真は興味深そうに頷いた。
「分かる気がするよ。生徒会の資料も、同じ内容でも並べ方で読みやすさが変わるから。見る人が迷わないようにするって、意外と難しいんだよね」
「そうそう。昨日も先輩たちと相談しながら直したんだ。みんなで作ってる感じがして、すごく楽しかった」
彩花の声が弾むと、悠真も自然に微笑んだ。
彼女が好きなことについて話すとき、言葉の端々に楽しさが表れる。その様子を見ているだけで、悠真も穏やかな気持ちになった。
やがて彩花が足を緩め、通りの先を指さした。
「あ、見えてきたよ。あのお店」
悠真が視線を向けると、落ち着いた色合いの小さな店構えが見えた。
大きな看板はないが、窓辺には季節のカードや便箋が並び、ガラス越しに温かな照明が見えている。入口の横には小さな黒板が置かれ、手書きの文字で新しく入荷した紙製品が紹介されていた。
「本当に、落ち着いた雰囲気のお店だね」
「うん。前に来たときも、つい長く見ちゃったんだ」
彩花は少し照れくさそうに笑い、悠真と一緒に入口へ向かった。
扉を開けると、小さな鈴が柔らかな音を立てた。
◇
店内には、紙と木の棚が混ざり合ったような穏やかな香りが漂っていた。
入口近くには季節のカードが並び、奥の壁際には便箋や封筒、ノートが整然と収められている。棚の間は広すぎないが、商品をゆっくり眺められるように配置されており、窓から差し込む午後の日差しが紙の表面を優しく照らしていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
カウンターの奥にいた店員が穏やかに声をかけた。
彩花と悠真は会釈を返し、まず入口近くのカードの棚へ向かった。
「ここが、前にカードを買ったところなんだ」
彩花は少し懐かしそうに棚を見つめた。
淡い青色の花柄カードを二枚選んだ日のことを思い出す。あのときは、悠真へどんな言葉を書こうか、まだ迷っていた。
今では、そのうち一枚を彼に渡している。
悠真は彩花の隣で、並んだカードへ目を向けた。
「いろんな種類があるんだね。花の模様だけでも、こんなに違うんだ」
「うん。色が少し違うだけで雰囲気が変わるし、紙の手触りも違うんだよ」
彩花は一枚のカードを手に取り、悠真へ見せた。
淡い黄色の背景に、小さな白い花が描かれている。表面にはわずかな凹凸があり、指先で触れると紙の質感が伝わってきた。
「これ、可愛いね。春っぽい感じがする」
「本当だ。明るい色だけど、落ち着いた雰囲気もあるね」
悠真はカードを受け取り、丁寧に眺めた。
彩花はその様子を見ながら、少し嬉しくなった。
自分が好きだと思ったものを、悠真もきちんと見てくれる。ただ褒めるだけではなく、どこが綺麗なのか、どんな印象を受けるのかを言葉にしてくれる。
「悠真君は、どんな色のカードが好き?」
彩花が尋ねると、悠真は棚全体を見渡して少し考えた。
「そうだね。落ち着いた青や緑も好きだけど、最近は少し温かい色もいいなと思うようになったかな」
「温かい色?」
「うん。橙色とか、柔らかい茶色とか。秋の景色を見てから、そういう色も綺麗だなって思うようになったんだ」
悠真の言葉に、彩花は川沿いを歩いた日のことを思い出した。
大きな木の下で、橙色の葉が彼の肩へ落ちてきたこと。自分がその葉を取ったとき、二人とも少し照れてしまったこと。
「あの日の葉っぱも、綺麗な色だったよね」
彩花が微笑むと、悠真も穏やかに頷いた。
「うん。今でもよく覚えてるよ」
悠真はそう答えながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
あの日拾った葉は、今も自室で大切に保管している。けれど、彩花にはまだ贈り物のことを話していない。
彼女が何気なく思い出してくれたことが嬉しくて、悠真はカードの棚へ視線を戻しながら、静かに微笑んだ。
◇
二人はカードの棚を離れ、奥の便箋コーナーへ移動した。
そこには、無地のものから繊細な模様が入ったものまで、さまざまな便箋が並んでいた。紙の色も白だけではなく、淡い水色や薄い桃色、柔らかな生成り色などがあり、彩花は一つ一つを楽しそうに眺めた。
「悠真君、これ見て。封筒の内側にも模様が入ってるんだ」
彩花が手に取ったのは、外側は落ち着いた色合いだが、封筒を開くと小さな花模様が見える便箋のセットだった。
「本当だ。外からは分からないけど、開いたときに気づくんだね」
「うん。こういうの、ちょっと素敵だなって思う。手紙をもらった人だけが見られる模様みたいで」
彩花は封筒の内側を眺めながら、柔らかく微笑んだ。
その言葉を聞いた悠真は、彼女が以前くれたカードを思い出した。
書かれた言葉はもちろん大切だったが、カードを選ぶときにも彩花はきっと、色や模様を丁寧に考えてくれたのだろう。
「彩花さんらしいね。手紙を読む人が、開いたときに少し嬉しくなるようなものを選ぶんだ」
悠真がそう言うと、彩花は少し驚いたように顔を上げた。
「そうかな?」
「うん。彩花さんは、相手がどう感じるかを大切にしていると思うから」
彩花はその言葉を聞き、頬がほんのりと赤くなった。
自分では意識していなかったことを、悠真が見つけてくれたような気がした。
「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」
彩花は便箋を棚へ戻し、少し照れくさそうに微笑んだ。
その後も二人はさまざまな紙を見比べた。
表面が滑らかなもの、少しざらつきのあるもの、光に透かすと繊維の模様が見えるもの。彩花は触れられる見本を確かめながら、紙によって文字を書くときの印象が変わりそうだと話した。
悠真も興味深そうに頷き、店内に置かれた説明を読みながら、紙の厚さや加工について質問した。
「彩花さんは、物語を書くときも紙の種類を気にする?」
「うん。普段はノートに書くことが多いけど、思いついた言葉を別の紙に書いてみることもあるよ。紙が変わると、なんとなく気分も変わる気がするんだ」
「面白いね。俺は今まで、書きやすさばかり気にしていたかもしれない」
「書きやすさも大事だよね。でも、気に入った紙だと、何か書きたくなることもあるんだ」
彩花はそう言いながら、淡い生成り色の便箋を見つめた。
新しく考えている物語の主人公も、手紙を書くための紙を選ぶ場面があるかもしれない。
祖母へ伝えたいことがたくさんあるのに、最初の一行が書けない少女。
その少女がどんな便箋を選ぶのか、今まであまり考えていなかった。
(この紙みたいに、落ち着いた色が好きな子なのかな。それとも、おばあちゃんが好きな花の模様を選ぶのかな)
彩花は想像を膨らませながら、便箋の棚をゆっくりと見渡した。
悠真はその様子に気づき、少しだけ首を傾げた。
「彩花さん、何か気になるものがあった?」
「あ、うん。今考えてるお話のことを、ちょっと思い出してたの」
「手紙を書く女の子のお話?」
「うん。まだ細かいところは決まってないんだけど、こういう便箋を見てると、主人公がどんな紙を選ぶのかなって考えちゃって」
彩花が答えると、悠真は嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんだ。物語の中の人が何を選ぶかを考えるのも、楽しそうだね」
「うん。まだ分からないことばかりだけど、少しずつ考えてみたいな」
彩花はそう言い、便箋を棚へ戻した。
今はまだ、物語の答えを急いで決める必要はない。
今日見たものや感じたことが、いつか文章の中で自然につながるかもしれない。その可能性を考えるだけで、胸の奥が少し弾んだ。
◇
店の奥には、小さなノートや紙製のしおりが並ぶ棚があった。
彩花がノートを眺めている間、悠真は隣の棚に置かれたしおりへ目を向けた。
薄い紙で作られたものから、少し厚みのあるものまで、形もさまざまだった。透明な窓のような部分が付いたものもあり、悠真はその構造に興味を引かれた。
(こういう形なら、葉を見えるようにできるのかな。でも、直接挟んでいいかどうかは、まだ分からないな)
悠真は商品を手に取らず、説明書きを読んだ。
装飾用のしおりとして作られていることは分かったが、植物を長期間保存する用途については書かれていない。見た目だけで判断するのは避けた方がよさそうだった。
そのとき、彩花が隣へやってきた。
「悠真君、しおりを見てたの?」
「うん。いろんな形があるんだなと思って。彩花さんは、普段どんなしおりを使ってる?」
「私は紙のしおりが多いかな。本に挟んだときに厚くならないものが好きなんだ。たまに、可愛い絵が描いてあるものも使うよ」
彩花は棚を見渡し、小さな星の模様が入ったしおりを指さした。
「こういうのも好き。派手すぎないけど、開いたときにちょっと嬉しくなる感じがする」
「確かに、綺麗だね。彩花さんのノートにも、星の模様があったよね」
悠真がそう言うと、彩花は少し驚いたように目を瞬かせた。
「覚えててくれたんだ」
「うん。深い青色の表紙に、小さな星が入っていたでしょう。彩花さんが大切に使っているみたいだったから、印象に残ってる」
彩花は胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が普段使っているノートのことまで覚えていてくれた。その事実が嬉しくて、自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとう。あのノート、すごく気に入ってるんだ。今のお話のことも、あそこにいろいろ書いてるよ」
「そうなんだ。いつか完成したら、読ませてもらえるのを楽しみにしてるね」
「うん。まだ時間がかかると思うけど、完成したら最初に読んでほしいな」
彩花がそう言うと、悠真は穏やかに頷いた。
「ありがとう。急がなくていいから、彩花さんが納得できるお話になるといいね」
その言葉に、彩花は少しだけ目を細めた。
悠真はいつも、完成を急かさない。
楽しみにしていると言ってくれるのに、無理をしなくていいとも言ってくれる。その距離感が、彩花にはとても心地よかった。
◇
しばらく店内を見て回ったあと、二人は窓際の小さな展示棚へ向かった。
そこには、季節ごとに使えるカードや、手紙に添える小さな飾りが並んでいた。秋から冬へ移り変わる時期らしく、橙色や深い緑色、落ち着いた赤色の紙製品が多く、窓から入る光がその色合いを柔らかく照らしている。
「この辺り、秋っぽい色が多いね」
彩花が言うと、悠真は棚の端に置かれた小さなカードへ目を向けた。
「本当だ。落ち着いた色が多くて、見ていると少し暖かい気持ちになるね」
彩花は一枚のカードを手に取り、悠真へ見せた。
淡い茶色の紙に、細い線で木の枝が描かれている。枝の先には小さな葉が残っており、余白の多い落ち着いたデザインだった。
「これ、綺麗だね。何か短い言葉を書いて渡すのにもよさそう」
「うん。余白があるから、書いた言葉が目立ちそうだね」
悠真はカードを眺めながら、彩花が以前くれた手書きのカードを思い出した。
彼女が選んだ淡い青色の花柄カードも、言葉を丁寧に受け止めてくれるような優しい雰囲気があった。
「彩花さんは、カードに言葉を書くとき、どんなことを考える?」
悠真が尋ねると、彩花は少し考え込んだ。
「うーん……。相手に伝えたいことを、ちゃんと自分の言葉で書きたいなって思うかな。でも、全部を書こうとすると、なかなかまとまらなくなっちゃうんだ」
その答えには、今考えている新しい物語にもつながる気持ちが含まれていた。
「だから、短くても本当に伝えたいことを選ぶようにしてる。前に悠真君へカードを書いたときも、いろいろ考えたんだよ」
彩花がそう言うと、悠真は少しだけ驚いた表情になった。
「そうだったんだ。……ありがとう。あのカード、今も大切にしてるよ」
その言葉に、彩花の頬がゆっくりと赤くなった。
「うん。大切にしてくれてるって聞けて、すごく嬉しい」
二人はしばらくカードを眺め、穏やかな沈黙を共有した。
店内では小さな音楽が流れ、遠くの棚から紙をめくる音が聞こえてくる。窓の外では通りを歩く人々の姿が見え、午後の日差しが少しずつ傾き始めていた。
彩花はカードを元の場所へ戻し、悠真へ微笑みかけた。
「悠真君、ほかにも見たいところある?」
「うん。ノートの棚をもう少し見てみたいな。さっき、気になる紙があったんだ」
「じゃあ、一緒に見よう。私も気になってたノートがあるの」
二人は並んで棚の方へ歩き始めた。
◇
ノートの棚には、大小さまざまな商品が並んでいた。
表紙が布で覆われたもの、厚手の紙で作られたもの、無地のものや細かな模様が入ったもの。中の紙も白や生成り色などがあり、見本を開くと罫線の幅や紙の厚さが少しずつ違っていた。
彩花は小さなノートを手に取り、ページをゆっくりめくった。
「これ、書きやすそう。紙が少し厚いから、裏に文字が透けにくそうだね」
悠真も隣から覗き込み、頷いた。
「そうだね。表紙もしっかりしてるから、持ち歩くときにも使いやすそうだ」
「うん。思いついたことをすぐ書けるように、小さいノートを一冊持っててもいいかなって思ってたんだ」
彩花はノートを閉じ、表紙の色を確かめた。
淡い緑色の表紙には、控えめな葉の模様が入っている。落ち着いた雰囲気で、鞄に入れて持ち歩くのにもよさそうだった。
「彩花さんに似合いそうなノートだね」
悠真がそう言うと、彩花は少し嬉しそうに笑った。
「本当? 私も、これいいなって思ってたの」
彩花はしばらく考え、ノートを購入することにした。
悠真も、手帳へ挟んで使える薄いメモ用紙を一つ選んだ。落ち着いた生成り色で、余計な装飾がないところが気に入ったらしい。
二人は商品を手にカウンターへ向かった。
店員は丁寧に会計を進め、紙袋へ商品を入れてくれた。彩花が礼を言うと、店員は穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございました。またゆっくり見にいらしてくださいね」
「はい。ありがとうございました」
彩花と悠真は揃って会釈し、店を出た。
扉の鈴が柔らかく鳴り、外の冷たい空気が二人を包んだ。
◇
店を出ると、午後の日差しは少し傾き、通りには長い影が伸び始めていた。
彩花は紙袋を大切そうに持ちながら、隣を歩く悠真へ顔を向けた。
「今日はありがとう、悠真君。すごく楽しかった」
「こちらこそ。彩花さんに案内してもらえてよかったよ。紙の種類って、思っていた以上にたくさんあるんだね」
「うん。私も知らないものがいっぱいあった。悠真君と一緒に見てたら、普段は気づかないところにも目が向いて面白かったよ」
彩花がそう言うと、悠真は嬉しそうに微笑んだ。
「俺も同じだよ。彩花さんがどんなところを好きだと思うのか、聞けて楽しかった」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
途中、通り沿いの小さな公園の前を通りかかると、ベンチの近くに落ち葉が集まっているのが見えた。風が吹くたびに葉が小さく舞い、地面の上を転がっていく。
彩花はその光景を眺め、少しだけ足を緩めた。
「秋も、もうすぐ終わっちゃうんだね」
「そうだね。朝晩はだいぶ寒くなってきたし、冬が近づいてる感じがする」
悠真は彩花の隣で立ち止まり、木々へ視線を向けた。
川沿いを歩いた日のことが、自然に思い出された。
あの日拾った葉を、いつか彩花へ渡したい。
けれど、今日のように一緒に過ごした時間そのものも、きっと大切な思い出になる。
悠真はそう感じながら、彩花へ穏やかに微笑んだ。
「また、季節が変わったら一緒に歩きたいね」
彩花はその言葉に顔を上げ、嬉しそうに頷いた。
「うん。冬の景色も、春の景色も、悠真君と一緒に見られたら嬉しいな」
言い終えてから、彩花は少しだけ頬を赤くした。
自然に出てきた言葉だったが、改めて考えると、これから先の季節も一緒に過ごしたいと言っているように聞こえる。
悠真も少し照れたように微笑んだ。
「俺も、そう思うよ」
二人はしばらく並んで公園の木々を眺め、それからゆっくりと駅へ向かった。
青凪市の午後は、穏やかに過ぎていく。
特別な出来事が起きたわけではない。
けれど、二人にとっては、好きなものを一緒に見つけ、言葉を交わした大切な一日になっていた。
彩花は紙袋を持つ手に少し力を込め、隣を歩く悠真へ微笑みかけた。
今日買った小さなノートには、どんな言葉を書こう。
最初のページには、きっと今日のことを書きたい。
そう思いながら、彩花は悠真と並んで歩き続けた。




