↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
86/107

第86話 明日の約束が、今日を少し特別にする


 金曜日の朝、青凪市の住宅街には、冬の訪れを感じさせる冷たい風が吹いていた。


 水瀬彩花が玄関の扉を開けると、門の近くに植えられた木の枝が風に揺れ、残り少なくなった葉を小さく鳴らしていた。空はよく晴れているものの、日差しだけでは寒さを和らげきれず、制服の上から羽織ったカーディガンの袖口に、思わず指先を隠したくなる。


「彩花、ちょっと待って。マフラーを忘れているわよ」


 背後から聞こえた母の声に振り返ると、紗月が淡いクリーム色のマフラーを手に玄関へ出てきた。彩花は鞄の中を確かめ、確かに入れ忘れていたことに気づいて、少し照れくさそうに笑った。


「ありがとう、お母さん。今日は晴れてるから、そんなに寒くないかなって思ってたんだけど、外に出たら全然違ったね」


「日が出ていても風は冷たいもの。帰りはもっと寒くなるかもしれないから、持っていった方がいいわ」


 紗月はマフラーを手渡しながら、娘の首元をちらりと見た。彩花が受け取った布を巻き始めると、片側が少し長くなってしまい、母は笑いながら端を整えてくれた。


「これで大丈夫。明日も寒そうだから、出かけるときは暖かくしていくのよ」


「うん。昨日、お父さんも天気のことを話してたし、ちゃんと確認しておくね」


 彩花はマフラーの柔らかな感触を確かめながら、明日のことを思い浮かべた。


 土曜日の午後一時半、青凪駅で悠真と待ち合わせる。以前から一緒に行きたいと話していた文房具店へ、ようやく足を運べるのだ。


 約束をしたときから楽しみにしていたはずなのに、前日になった途端、明日という言葉が急に近く感じられるようになった。


(何を見ようかな。前に買ったカードの棚も見たいし、悠真君が気になっている紙も、一緒に探してみたいな)


 考えているうちに自然と口元が緩み、彩花は母に見送られながら門を出た。通学路には同じ学校へ向かう生徒の姿があり、冬の気配を含んだ朝の空気の中で、それぞれの足音が重なっていた。


 少し先の交差点で信号を待っていると、鞄の中のスマートフォンが短く震えた。


 画面を確かめると、悠真からメッセージが届いている。


『おはよう、彩花さん。今日は風が冷たいね。学校へ行くとき、暖かくしてね』


 彩花はマフラーへそっと指を添えた。つい先ほど母に言われたことと似ていて、思わず小さく笑ってしまう。


『おはよう、悠真君。お母さんにも同じこと言われたよ。ちゃんとマフラーをしてるから大丈夫。悠真君も気をつけてね』


 信号が青へ変わったため、彩花はスマートフォンを鞄へしまって歩き始めた。


 たった数行のやり取りだったが、さっきまで冷たく感じていた風が、少しだけ気にならなくなったような気がした。


     ◇


 青葉高校の一年生の教室では、朝から期末試験についての話題が広がっていた。


 黒板の端には今後の予定が書かれ、教卓の近くでは数人の生徒が提出物の確認をしている。彩花が席へ着くと、隣の列にいた田辺大地が、数学の問題集を片手に声をかけてきた。


「水瀬、おはよう。昨日教えてもらったところ、家でもう一回やってみたら、ちゃんと解けたんだ。小テストの方も返ってきたら報告するけど、とりあえずありがとうな」


「おはよう、田辺君。自分で解けるようになったならよかったね。最初は式の途中で迷ってたけど、考え方はちゃんと合ってたもん」


 彩花が答えると、大地は問題集を閉じて苦笑した。


「そう言ってもらえると助かるけど、まだ似た問題が出ると怪しいんだよな。期末までにもう少し慣れておかないと、また妹に笑われそうだ」


「妹さん、そんなに勉強が得意なの?」


「得意っていうか、俺が苦手なところを見つけるのが上手いんだよ。昨日も問題集を見られて、『お兄ちゃん、ここ前にも間違えてたよね』って言われた」


 大地は困ったように肩をすくめたが、声には家族の話をするとき特有の親しみがあった。彩花も凛花から勉強を教わることがあるため、兄妹の何気ないやり取りが少し想像できた。


「でも、ちゃんと見てくれてるんだね。私もお姉ちゃんに教えてもらうことがあるから、そういうのってありがたいなって思うよ」


「まあ、そうなんだけどな。あいつ、俺のことになると遠慮がないから」


 大地は笑い、それから何かを思い出したように問題集を机へ置いた。


「そうだ、水瀬。昨日言ってた冬の部誌のこと、まだ分からないよな?」


「うん。今日、文芸部で佐々木先輩に聞いてみるつもり。印刷の日程もまだ決まっていないから、すぐに答えられるかは分からないけど」


「急がなくていいからな。妹がまた聞いてきたら、まだ準備中だって伝えておくよ」


 大地の妹は、以前彩花が書いた『また、話したいから』を何度も読み返してくれているらしい。その話を聞いたとき、彩花は嬉しさと同時に、自分の文章が知らない場所で誰かの日常に入り込んでいることへの不思議な感覚を覚えた。


 書いている間は、登場人物の気持ちをどう表現するか、文章が不自然になっていないかと悩むことが多い。けれど、完成した作品は自分の手元を離れ、読んだ人の中で違う時間を過ごしているのだろう。


「田辺君、妹さんにありがとうって伝えてくれる? 何度も読んでもらえるなんて、本当に嬉しいから」


 彩花が少し背筋を伸ばして頼むと、大地はその真剣な表情に一瞬驚き、それから柔らかく笑った。


「分かった。あいつ、絶対喜ぶと思う。水瀬の話をすると、俺が思ってる以上に食いついてくるからさ」


 そこで朝のホームルームを知らせる予鈴が鳴り、二人はそれぞれの席へ戻った。


 彩花は机の上へ教科書を揃えながら、放課後の文芸部で確認することを頭の中で整理した。部誌を楽しみにしているのは、自分たち部員だけではない。そのことが、今日はいつもよりもはっきりと感じられた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が午前中の授業を終え、生徒会室へ向かっていた。


 廊下の窓からは中庭が見え、花壇の手入れをしている職員の姿があった。冷たい風を避けるように足早に歩く生徒たちの間を抜け、生徒会室の扉を開けると、すでに森川航平が机の上へ資料を並べていた。


「お、九条。ちょうどよかった。先生から戻ってきた確認表、ここに置いてあるぞ」


「ありがとう。修正が必要なところはあった?」


「細かい表記だけだな。大きな変更はないってさ。今日はそれを確認したら、もう終わりでいいと思う」


 航平は資料の一番上を指で押さえながら、悠真が座れるよう隣の椅子を引いた。悠真は礼を言って腰を下ろし、先生からの書き込みを順番に確認していく。


 今週は仕事を分担することを意識していたため、以前のように自分だけで抱え込まずに済んでいた。航平が担当した資料も分かりやすく整理されており、二人で見直す作業は思っていたより早く進んだ。


「ここは提出先の名称を統一した方がいいね。前のページでは正式名称になっているから、合わせておこう」


「了解。じゃあ俺が直す。九条は残りの数字を確認してくれるか?」


 航平の提案に悠真が頷くと、二人は自然に役割を分けた。窓の外から運動部の掛け声が遠く聞こえる中、紙をめくる音とペンを走らせる音がしばらく続いた。


 最後の確認を終えたところで、航平が大きく息を吐いた。


「よし、これで終わり。思ったより早かったな」


「うん。森川が先に整理してくれていたから助かったよ」


「お互い様だろ。前にお前が作ってくれた一覧があったから、俺も迷わず進められたんだし」


 航平は資料を揃えてファイルへ収めると、悠真の方を見て少し笑った。


「これなら明日の予定も気にしなくて済むな。水瀬さんとの文房具屋、楽しんでこいよ」


 悠真は手にしていたペンを置き、友人へ穏やかな笑みを返した。


「ありがとう。前から一緒に行きたいって話していたから、楽しみなんだ」


「昨日も言ってたけどさ、何を見る予定なんだ? 俺、文房具屋って必要なものを買いに行く場所って感じだから、二人でゆっくり見るっていうのがちょっと新鮮なんだよな」


 航平の言葉にはからかう響きがなく、純粋な興味があった。悠真は少し考え、彩花が以前教えてくれた店の様子を思い出した。


「便箋やカードの種類が多いお店なんだって。彩花さんは紙の色や模様を見るのが好きみたいだし、俺も最近、紙の作り方に興味が出てきたから」


「なるほどな。じゃあ、ただ買い物するっていうより、同じものを見ながら話すのが楽しいわけか」


「そうかもしれないね。彩花さんがどんなところを見て、何を好きだと思うのか、聞いてみたいんだ」


 そう答えたあと、悠真は自分が思っていた以上に素直に話していたことへ気づいた。航平はそんな友人の表情を見て、少しだけ目を細めた。


 普段の九条悠真は、誰に対しても丁寧で、相手の話をきちんと聞く。けれど、水瀬彩花のことを話すときには、普段よりも言葉を選ぶ時間が短くなり、嬉しさがそのまま表情へ出ることがある。


 航平はその違いに気づいていたが、わざわざ指摘しようとは思わなかった。本人がまだ名前を付けていない気持ちを、友人が先回りして決める必要はないだろう。


「だったら、いい一日になりそうだな。店の中って意外と時間が過ぎるの早いし、気づいたら夕方になってるかもしれないぞ」


「それはありそうだね。帰る時間はちゃんと考えておかないと」


 悠真が真面目に答えると、航平は思わず吹き出した。


「そこは相変わらずだな。まあ、お前らしいけど」


 悠真もつられて笑い、二人は資料を所定の棚へ戻した。生徒会室を出る頃には、廊下に差し込む午後の光が少し傾き始めていた。


     ◇


 昼休みの青葉高校では、彩花が友人たちと教室で昼食を取っていた。


 窓際の席には日差しが届いていたが、換気のために少し開けられた窓から冷たい風が入り、カーテンの裾がときおり揺れている。彩花は弁当箱の蓋を閉じながら、向かいに座っていた女子生徒が手にしている小さなメモ帳へ目を留めた。


「そのメモ帳、可愛いね。表紙の色がすごく綺麗」


「あ、これ? 駅前で買ったんだ。ちょっと前に、水瀬さんが話してた文房具屋さんじゃなくて、もう少し大きいお店だけど」


 友人は淡い緑色の表紙を彩花へ向けた。表面には細かな植物の模様が入っており、光の当たり方によって少し色が変わって見える。


「中の紙も書きやすそうだね。何に使ってるの?」


「授業中に気になったこととか、あとで調べたいことを書いてるんだ。最初は勉強用にしようと思ったんだけど、最近はお菓子の名前とかも混ざってる」


 友人が照れくさそうに笑うと、彩花も笑った。目的を決めて使うノートも好きだが、思いついたことを自由に書き留める一冊にも、別の楽しさがある。


「私も、物語のことを考えるノートには、関係ないことを書いちゃうときがあるよ。あとから読み返したら、そのとき何を考えてたのか分かって面白いんだ」


「へえ、水瀬さんのノートって、物語の文章だけが書いてあるのかと思ってた」


「全然そんなことないよ。思いついた言葉とか、登場人物の性格とか、まだ使うか分からない場面も書いてあるの。途中で考えが変わったら、横に別の案を書き足したりもするし」


 彩花が説明すると、友人は興味深そうに身を乗り出した。


「そういうふうに作るんだね。私、小説って最初から最後まで順番に書くものだと思ってたから、ちょっと意外かも」


「順番に書けるときもあるけど、私は先に考えておきたいことが多いかな。途中で登場人物の気持ちが分からなくなっちゃうこともあるから」


 言葉にしながら、彩花は今書いている新しい物語を思い浮かべた。


 祖母へ手紙を書こうとする少女は、まだ名前も決まっていない。けれど、手紙を書けずに悩む理由については、以前よりも少し深く考えられるようになった。


 友人は彩花の話を聞き、感心したように頷いた。


「水瀬さんって、登場人物のことを本当に大事に考えるんだね。今度の部誌に載るお話も、そうやって書いたの?」


「うん。『いつか、ここに』も、何度か考え直したところがあるよ。完成したあとも、文芸部のみんなに読んでもらって直したところがあったし」


「そっか。完成するの、楽しみにしてるね」


 その一言が嬉しくて、彩花は思わず背筋を伸ばした。


「ありがとう。まだ配布の日は決まってないけど、ちゃんと読んでもらえる形になったら嬉しいな」


 友人は笑顔で頷き、残っていたお茶を飲んだ。窓から入ってきた風がメモ帳のページを一枚めくり、二人は慌てて紙を押さえながら笑い合った。


 昼休みの終わりが近づく頃、彩花は自分の手帳へ視線を落とした。明日の文房具店では、綺麗なものを探すだけでなく、実際に使ってみたいものについても考えてみようと思った。


     ◇


 放課後、彩花が文芸部の活動場所へ向かうと、教室にはすでに数人の部員が集まっていた。


 窓際の机には冬の部誌の試し刷りが重ねられ、その横には表紙案と目次の確認表が置かれている。印刷された紙からはわずかにインクの匂いが漂い、窓の外では運動部の生徒たちがグラウンドを走っていた。


「水瀬さん、ちょうどよかった。こっちの目次、もう一度見てもらえる?」


 佐々木先輩が声をかけると、彩花は鞄を椅子へ置いて近づいた。


「はい。何か修正がありましたか?」


「大きな変更じゃないんだけど、詩の題名と作者名の間隔が少し狭かったの。印刷すると読みにくくなるかもしれないから、調整した版を確認しているところよ」


 佐々木先輩は二種類の試し刷りを並べた。彩花が見比べると、文字の大きさは同じでも、余白が少し広がった方が落ち着いて見える。


「私は、こっちの方が読みやすいと思います。題名と作者名が分かれて見えるので、探すときにも迷わなさそうです」


「そうよね。私も同じことを思ったの。ほかのページとの統一感も確認してから決めようと思ってる」


 先輩は彩花の意見をメモし、別の部員にも試し刷りを渡した。


 部誌作りは、作品を書き終えたらすべて完成するわけではない。読む人がどのページから開いても迷わないように、目次やページ番号を整え、印刷したときの見え方まで確かめる必要がある。


 彩花は自分の作品が載る予定のページを開き、題名と本文の位置を確認した。『いつか、ここに』の文字が紙の上に印刷されているのを見ると、何度確認しても少し不思議な気持ちになる。


(自分のノートや画面で見ていたときとは、やっぱり違うな。誰かがこのページを開いてくれるんだと思うと、嬉しいけど、ちょっと緊張する)


 そのとき、近くで表紙案を見ていた部員が声を上げた。


「先輩、こっちの灰色、前より明るくなってますね。枝の線も見やすくなった気がします」


「うん。先生からも、印刷したときに暗くなりすぎないようにって言われていたから、少し調整したの。ただ、まだ最終決定ではないわ」


 佐々木先輩はそう説明し、表紙案を机の中央へ置いた。


 冬空を思わせる淡い灰色の背景に、窓と葉を落とした枝が描かれている。華やかな色合いではないが、静かな季節の空気が伝わってくるようで、彩花はその雰囲気を気に入っていた。


「冬らしい感じがしますね。前の案より、窓の向こうの空が広く見える気がします」


「ありがとう。水瀬さんの作品も含めて、今回は静かな雰囲気のお話が多いから、表紙もそれに合うといいなと思ってるの」


 佐々木先輩は微笑み、確認表へ視線を戻した。


 部員たちはそれぞれの担当箇所を見直し、気になった点を伝え合った。彩花も目次と本文の表記を確認し、気づいた箇所を先輩へ報告した。


 作業が一段落した頃、彩花は朝から気になっていたことを尋ねる機会を見つけた。


「あの、佐々木先輩。少しお聞きしてもいいですか?」


「もちろん。どうしたの?」


「冬の部誌なんですけど、完成したあと、家族や学校の外の人に読んでもらうことはできますか? 以前のお話を読んでくれた人が、今回の部誌も楽しみにしてくれているみたいで……」


 佐々木先輩は手元の確認表を置き、彩花へ向き直った。


「そうなのね。それは嬉しいわね。ただ、今回はまだ印刷する部数が確定していないの。まずは学校内での配布分を確保する予定だから、持ち帰り用をどれくらい用意できるかは、先生と相談してからになると思う」


「そうなんですね。じゃあ、今の段階では約束しない方がいいですよね」


「そうね。読んでもらいたい気持ちは大事にしてほしいけど、配布方法が決まるまでは、もう少し待ってもらった方が安心だと思う」


 彩花は頷き、手帳へ短く書き留めた。


 佐々木先輩はその様子を見て、少し嬉しそうに微笑んだ。


「でも、水瀬さんのお話を待ってくれている人がいるって、素敵なことね。誰かが楽しみにしてくれているって分かると、作っている側も励みになるわ」


「はい。私も、そう思いました。自分が書いたものを何度も読んでもらえているって聞いて、すごく嬉しかったです」


 彩花が素直に答えると、先輩は静かに頷いた。


「その気持ちは、これからも大切にしてね。ただ、読んでくれる人がいるからって、無理に期待に応えようとしなくてもいいのよ。まずは水瀬さん自身が書きたいと思うものを、丁寧に書いていけばいいんだから」


 その言葉を聞き、彩花は胸の奥にあった小さな緊張が和らぐのを感じた。


 誰かに楽しみにしてもらえることは嬉しい。けれど、期待に応えたいと思うあまり、今考えている物語を急いで完成させる必要はないのだ。


「ありがとうございます。今の新しいお話も、もう少し時間をかけて考えてみます」


「うん。前に話してくれた、手紙を書こうとする女の子のお話ね。進めているうちに何か迷ったら、また聞かせて」


 佐々木先輩はそう言って微笑み、別の部員に呼ばれて机の向こうへ移動した。


 彩花は手帳を閉じながら、先輩の言葉を心の中で繰り返した。完成を急がず、自分が書きたいものを丁寧に形にしていく。その姿勢を忘れずにいたいと思った。


     ◇


 活動を終えて校舎を出る頃には、空の青さが少し深くなっていた。


 校門へ向かう道には部活動帰りの生徒たちが集まり、マフラーを巻き直す姿や、手袋を鞄から取り出す姿が見られた。彩花も朝持ってきたマフラーを首へ巻き、冷たい風に肩をすくめながら歩き始めた。


 駅へ向かう途中、小さな書店の前を通りかかると、店先に新刊の案内が並んでいた。彩花は足を緩め、ガラス越しに見える本の表紙へ目を向けた。


 冬の風景が描かれた小説や、季節の便りについて紹介する本が並んでいる。その中に、手紙の書き方を扱った薄い本があるのを見つけ、彩花は少し興味を引かれた。


(手紙の書き方か……。新しいお話の参考になるかもしれないけど、今はまだ、主人公がどんな言葉を選ぶのかを自分で考えてみたいな)


 書き方の決まりを知ることと、物語の中の女の子が自分の気持ちを見つけることは、少し違う。


 彩花はそう考え、今日は店へ入らずに歩き出した。


 明日、悠真と訪れる文房具店にも、便箋や封筒が並んでいるはずだ。実際に紙を見れば、主人公がどんな便箋を選ぶのか、想像が広がるかもしれない。


 そう思うと、明日の外出がまた少し楽しみになった。


 帰宅するまでの道では、夕方の光が住宅街の壁を淡く照らしていた。彩花は冷たい空気を吸い込み、鞄の中で揺れる手帳の感触を確かめながら、いつもより少し軽い足取りで家へ向かった。


     ◇


 一方、九条家では、悠真が帰宅後に祖父の俊治と顔を合わせていた。


 リビングの窓からは庭が見え、ハクが芝生の上でゆったりと体を伸ばしている。室内には暖房が入っていたが、窓際へ近づくと外の冷たさがわずかに伝わってきた。


「悠真、今日は学校の仕事が早く終わったようだね」


 俊治が声をかけると、悠真は鞄を椅子の横へ置いて頷いた。


「はい。森川と分担して進めていたので、確認も予定より早く終わりました」


「それはよかった。仕事を任せることも、大切な力だからね」


 俊治は穏やかに微笑み、手元の本を閉じた。


 悠真は祖父の向かいへ腰を下ろし、少し迷ってから口を開いた。


「お祖父様、前に相談した押し葉のことなんですが、まだ形は決めていないんです。でも、明日、文房具店へ行くので、紙の種類を少し見てこようと思っています」


 俊治は興味深そうに目を細めた。


「そうか。実物を見るのはいいことだね。写真や説明だけでは分からないこともあるだろう」


「はい。厚さや手触りも違うと思うので。ただ、押し葉を直接挟んでいい紙なのかは、見ただけでは分からないですよね」


「その通りだね。大切に残したいものなら、保存に向いた材料かどうかを確かめる必要がある。見た目が綺麗だからといって、長く保存できるとは限らないからね」


 悠真は真剣な表情で頷いた。


 以前、琴葉が学校の図書室で見てくれた透明なケースも、展示には使われていたが、押し葉の長期保存に適しているかどうかは分からなかった。祖父から聞いた注意点を考えても、材料を選ぶにはもう少し調べる必要がありそうだった。


「明日は、何かを決めるというより、どんなものがあるのか見てこようと思います。彩花さんも文房具が好きなので、一緒にいろいろ見られたら嬉しいです」


 悠真がそう言うと、俊治はゆっくり頷いた。


「それがいいだろう。贈り物のことを考えるのも大切だが、明日は二人で出かける日なのだろう? まずはその時間を楽しんでおいで」


 その言葉に、悠真は少しだけ目を見開いた。


 押し葉のことを考え始めてから、保存方法や形について調べる時間が増えていた。彩花に喜んでもらいたいという気持ちは変わらないが、明日の外出そのものを、何かを完成させるための時間にする必要はない。


「……はい。ありがとうございます、お祖父様」


 悠真が微笑むと、俊治も嬉しそうに頷いた。


 そのとき、庭にいたハクが窓の近くへやってきて、室内の二人へ顔を向けた。悠真が立ち上がって窓へ近づくと、ハクは尻尾を揺らし、まるで自分も会話に加わりたいとでも言うように鼻先を寄せた。


「ハク、今日は風が冷たいよ。もう少ししたら中へ入ろうね」


 悠真が声をかけると、ハクはゆったりと尻尾を振った。


 俊治はその様子を眺めながら、小さく笑った。


「ハクも、誰かと一緒に過ごす時間が好きなのかもしれないね」


「そうですね。彩花さんが来てくれたときも、すごく嬉しそうでしたから」


 悠真は以前の光景を思い出し、自然に笑みを浮かべた。


 庭でハクを撫でていた彩花の姿は、今でも鮮明に覚えている。あのとき彼女が見せてくれた笑顔を、またいつか見られたら嬉しいと思った。


     ◇


 夕食後、水瀬家のリビングでは、彩花が母の紗月と明日の予定を確認していた。


 テーブルの上には週末の買い物メモが置かれ、紗月は冷蔵庫の中身を思い出しながら必要なものを書き足している。凛花はソファで雑誌を読んでいたが、彩花が土曜日の話を始めると、顔を上げて会話に加わった。


「明日は一時半に青凪駅で待ち合わせなんだよね。お昼を食べてから出かけるつもりだから、十二時くらいには準備を終わらせておこうかな」


「それなら、お昼は少し早めにした方がいいわね。何か食べたいものはある?」


 紗月が尋ねると、彩花は少し考えた。


「軽めのものがいいかな。歩くと思うし、あんまりお腹いっぱいだと眠くなっちゃいそう」


「じゃあ、温かいスープとサンドイッチにしましょうか。朝のうちに準備しておけば、慌てなくて済むもの」


「ありがとう、お母さん。私も手伝うね」


 彩花が答えると、凛花が雑誌を閉じて微笑んだ。


「彩花、明日は何か買う予定があるの?」


「まだ決めてないんだけど、便箋とか小さいノートを見たいなって思ってるの。新しいお話にも使えそうなものがあったらいいなって」


「そうなのね。前に買った花柄のカードも、あのお店だったでしょう?」


 凛花の言葉に、彩花は少し頬を赤くした。


「うん。あのカード、すごく気に入ってるんだ。まだ一枚残ってるから、今度は違う色のものも見てみたいなって思って」


 凛花は妹の表情を見ながら、穏やかに頷いた。


「彩花は、同じようなものでも色や模様の違いを楽しめるから、きっと時間が足りなくなりそうね」


「そうかもしれない。でも、悠真君もいろいろ見たいって言ってくれてるから、一緒に選ぶのが楽しみなんだ」


 その言葉を聞き、紗月は買い物メモから顔を上げた。


「九条君は、どんな文房具が好きなのかしらね」


「それが、まだ詳しくは知らないの。最近は紙とか本の作り方にも興味があるみたいだから、明日聞いてみようと思ってる」


 彩花は少し考え、言葉を続けた。


「私の好きなものは、悠真君がいつも聞いてくれるでしょう? だから今度は、悠真君が何を好きなのか、もっと知りたいなって」


 紗月はその言葉を聞き、娘へ柔らかな笑みを向けた。


「そうね。自分の好きなものを話すのも楽しいけれど、相手の好きなものを知るのも楽しいわよね」


「うん。前に悠真君が読んでた本の話をしてくれたときも、私が知らないことがたくさんあって面白かったんだ」


 彩花はそう答え、明日の店内を想像した。


 棚に並んだ便箋やカードを見ながら、悠真がどんなものに興味を持つのか。自分では気づかなかった紙の違いや、普段は見過ごしてしまうような工夫を教えてくれるかもしれない。


 凛花は妹の楽しそうな様子を見て、少しだけ目を細めた。


 彩花は以前から本や文房具が好きだったが、最近はその楽しさを誰かと分け合うことにも、自然に喜びを感じるようになっている。特に九条悠真の名前が出るとき、妹の声には柔らかな弾みが加わる。


 けれど、凛花はその変化をわざわざ言葉にしなかった。


 彩花が自分の気持ちをどう受け止めるかは、本人の時間の中で少しずつ見つけていけばいい。姉としては、楽しそうに話してくれる今の姿を見守っていたかった。


「明日、帰ってきたらどんなものがあったか教えてね。私も久しぶりに文房具を見に行きたくなっちゃった」


「うん。お姉ちゃんが好きそうなものがあったら、覚えておくね」


 彩花が笑顔で答えると、凛花も嬉しそうに頷いた。


 リビングには温かいお茶の香りが漂い、窓の外では夜の風が庭木を揺らしていた。明日の予定を話しているだけなのに、いつもの金曜日の夜が少し特別な時間になっているようだった。


     ◇


 その頃、九条家の自室では、悠真が明日の持ち物を確認していた。


 机の上には財布とスマートフォン、普段使っている小さな手帳が並んでいる。特別な準備が必要な外出ではないが、待ち合わせの時間や場所をもう一度確かめておきたかった。


 午後一時半、青凪駅。


 悠真は手帳に書いた予定を見つめ、少しだけ微笑んだ。


 彩花と出かける約束をすることは、以前ほど珍しいことではなくなっている。それでも、前日になると自然に楽しみな気持ちが強くなるのは、今も変わらなかった。


 机の引き出しを開けると、彩花からもらった淡い青色の花柄カードが、封筒に入れて大切にしまわれている。


 悠真はその封筒へ視線を向けたが、今日は取り出さずに引き出しを閉じた。


 カードに書かれた言葉は、もう何度も読み返している。


 彩花が自分と話す時間を好きだと言ってくれたこと。


 自分も同じ気持ちだと伝えられたこと。


 そのやり取りを思い出すだけで、胸の奥が穏やかに温かくなる。


(明日も、たくさん話せるといいな。彩花さんが好きなものを見つけたとき、どんな顔をするのか楽しみだ)


 悠真は手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 夜の庭には小さな照明が灯り、木々の影が地面へ淡く伸びている。昼間よりも風は弱まっていたが、窓ガラスの向こうには冬へ向かう冷たい空気が広がっていた。


 そのとき、スマートフォンが短く震えた。


 画面には彩花の名前が表示されている。


『悠真君、明日のことなんだけど、待ち合わせは一時半に青凪駅で大丈夫だよね?』


 悠真はすぐに返事を打った。


『うん、大丈夫だよ。駅の改札を出たところで待ち合わせようか。人が多かったら、少し離れたところで待っているね』


 しばらくして、彩花から返事が届いた。


『ありがとう。私も分かりやすいところを探しておくね。明日、寒そうだから暖かくしてきてね』


 悠真は思わず微笑んだ。


 朝、自分が彩花へ送った言葉と似ている。相手を気遣う気持ちが、自然に行き来していることが嬉しかった。


『ありがとう。彩花さんもね。今日は文芸部だったんでしょう? お疲れさま』


『うん。冬の部誌の目次とか、表紙の確認をしたよ。少しずつ完成に近づいてる感じがして、嬉しかった』


 悠真はその文章を読み、以前見せてもらった『いつか、ここに』の原稿を思い出した。


 作品そのものはすでに読ませてもらっているが、印刷された部誌として読むのはまた違う体験になるだろう。彩花が仲間たちと協力して一冊を作り上げていることも、悠真にとって楽しみな理由の一つだった。


『そうなんだ。みんなで作っているものが形になっていくのって、嬉しいよね。完成したら、ぜひ見せてほしいな』


 送信すると、彩花から少し間を置いて返事が届いた。


『うん。まだ配布の方法が決まってないから、ちゃんと確認してからになるけど、悠真君にも見てもらえたら嬉しいな』


『ありがとう。楽しみにしてるよ。急がなくていいから、みんなで納得できるものになるといいね』


 その言葉を読んだ彩花は、自室の机で小さく頷いた。


 佐々木先輩も、似たことを言ってくれた。


 楽しみにしている人がいることは嬉しいけれど、だからといって焦る必要はない。丁寧に作っていく時間そのものを、大切にしていいのだ。


『ありがとう。そう言ってもらえると安心するよ。明日は文房具もたくさん見たいな』


『俺も。彩花さんが好きなものを教えてくれるの、楽しみにしてる』


 彩花はその文章を読み、少しだけ考えた。


 悠真はいつも、自分の好きなものに興味を持ってくれる。けれど、明日は悠真自身が何を見たいのかも聞いてみたい。


『私も、悠真君が気になるものを一緒に見たいな。だから明日は、お互い好きなものをたくさん見ようね』


 送信したあと、彩花は少し照れくさくなり、スマートフォンを机へ置いた。


 返事を待つ間、窓の外から遠くを走る車の音が聞こえてきた。部屋の時計はゆっくりと針を進め、机の上に置かれた深い青色のノートの表紙が、照明を受けて控えめに輝いている。


 やがてスマートフォンが震えた。


『うん、そうしよう。明日、彩花さんと一緒にいられるのが楽しみだよ』


 彩花は画面を見つめ、思わず両手でスマートフォンを包み込んだ。


 特別に飾られた言葉ではない。


 けれど、悠真が自分と一緒に過ごす時間を楽しみにしてくれていることが、まっすぐに伝わってくる。


(……私も、同じだよ)


 彩花は少しだけ頬を赤くしながら、ゆっくりと返事を打った。


『私も楽しみ。明日、よろしくね。おやすみなさい、悠真君』


『こちらこそ、よろしくね。おやすみ、彩花さん』


 最後のメッセージを読み終え、彩花はスマートフォンを机へ置いた。


 明日になれば、悠真と会える。


 そのことが嬉しくて、彩花は机の上に置かれた手帳をもう一度開いた。


 土曜日の欄には、青凪駅での待ち合わせが書かれている。


 その下に、小さな文字で書き加えた。


『悠真君の好きなものも、たくさん聞く。』


 書き終えてから、彩花は少しだけ笑った。


 買いたいものを忘れないためのメモではない。


 明日、自分が大切にしたいことを忘れないための、小さな約束だった。


     ◇


 九条家では、悠真もメッセージを終え、机の上を片づけていた。


 彩花が「お互い好きなものをたくさん見よう」と言ってくれたことが、心に残っている。


 自分が彼女を楽しませたいと思っているのと同じように、彩花も自分のことを考えてくれている。


 その気持ちが、嬉しかった。


 悠真は手帳を開き、明日の予定の下へ短い言葉を書き加えた。


『彩花さんと、ゆっくり話す。』


 書き終えてから、少しだけ考えた。


 明日は何か特別な出来事が起きるとは限らない。


 文房具店へ行き、棚に並んだものを見て、気になったものについて話す。


 それだけの時間になるかもしれない。


 けれど、悠真にとっては、それで十分だった。


 彩花と一緒に過ごす時間は、何か大きな出来事がなくても楽しい。


 彼女が好きな本の話をしてくれるときも、学校であったことを教えてくれるときも、何気ない景色を見て笑っているときも。


 そうした一つ一つの時間が、少しずつ大切な思い出になっている。


 悠真は手帳を閉じ、部屋の照明を落とした。


 窓の外には、静かな夜の青凪市が広がっている。


 明日は土曜日。


 午後一時半、青凪駅。


 その約束を思い浮かべながら、悠真は穏やかな気持ちで眠りについた。


 同じ頃、彩花も自室の明かりを消し、布団へ入っていた。


 明日の文房具店で、どんなものが見つかるのか。


 悠真が何を好きだと感じるのか。


 そして、自分はどんなことを話したくなるのか。


 まだ分からないことばかりだったが、それを一緒に見つけていけると思うと、自然に笑みが浮かんだ。


 冷たい風が吹く金曜日の夜。


 二人はそれぞれの部屋で、同じ明日を楽しみにしていた。


 その約束が、いつもの週末を少しだけ特別なものに変えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。