第85話 君と過ごす時間を、楽しみにしている
木曜日の朝、青凪市には久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。
水瀬彩花がカーテンを開けると、窓の向こうに見える住宅街の屋根が朝日を受けて明るく輝いていた。空気は冷たく、窓ガラスの下の方には薄い曇りが残っていたが、昨日まで空を覆っていた雲はほとんど見当たらない。庭の木々はすっかり葉を減らし、細い枝の間から隣家の屋根が見えるようになっていた。
彩花は窓辺に立ち、しばらく外の景色を眺めた。
土曜日には、悠真と一緒に文房具店へ行く約束をしている。
待ち合わせは午後一時半、青凪駅。
昨日の夜にもメッセージを交わし、店で見たいものについて少し話した。悠真は紙やカードに興味があるらしく、彩花が好きなものも教えてほしいと言ってくれた。
(……私が好きなもの、か)
彩花は小さく微笑み、机へ視線を戻した。
そこには深い青色のノートが置かれている。表紙に散りばめられた銀色の星が朝の光を受け、控えめに輝いていた。
昨日の夜、彩花は新しい物語の主人公について考えていた。
遠くへ引っ越す祖母へ手紙を書こうとする女の子。
伝えたいことはたくさんあるのに、最初の一行がなかなか書けない主人公。
その女の子と祖母が過ごしてきた時間を、少しずつ形にしようとしている。
彩花は椅子へ腰を下ろし、ノートを開いた。
昨日書いた場面には、主人公が祖母と一緒に庭で花を育てる様子が描かれていた。小さなじょうろを持ち、慣れない手つきで水をあげようとして、祖母にそっと手を添えてもらう。
特別な事件ではない。
けれど、その何気ない時間が、主人公にとって大切な思い出になる。
(……やっぱり、花の種類は決めた方がいいよね)
彩花はペンを持ち、ノートの余白へ候補を書き出した。
春に咲く花。
夏に咲く花。
秋まで長く楽しめる花。
いくつか思い浮かべてみたものの、どれが物語に合うのか、まだ決められなかった。
祖母が引っ越す季節も、主人公が手紙を書く季節も、今のところ確定していない。そこを曖昧にしたまま花だけを選んでしまうと、あとで物語の時間が合わなくなるかもしれない。
彩花は少し考え、候補の横へ新しい言葉を書き加えた。
『祖母が引っ越す時期を先に決める。』
書き終えてから、静かに頷く。
物語を書くときには、思いついた場面をすぐ文章にしたくなることがある。けれど、今は少しずつ設定を整理しながら進めた方がよさそうだった。
焦る必要はない。
誰かに急かされているわけでもない。
自分が書きたいと思った物語だからこそ、納得できる形にしたかった。
階下から母の紗月が朝食の準備をする音が聞こえてきた。
彩花はノートを閉じ、制服の襟元を整えてから部屋を出た。
廊下では、ちょうど姉の凛花が自室から出てきたところだった。
「おはよう、彩花。今日はいい天気ね」
「おはよう、お姉ちゃん。うん、久しぶりに青空が見えた気がする」
凛花は窓の外へ目を向け、少しだけ微笑んだ。
「でも、朝は寒いわね。そろそろ厚手の上着を出してもいいかもしれないわ」
「そうだね。土曜日も寒かったら、暖かくしていかないと」
彩花が何気なく答えると、凛花は妹へ視線を戻した。
「土曜日、楽しみなのね」
その言葉に、彩花は少しだけ頬を赤くした。
「う、うん。前から行きたいって話してたお店だから……」
「そうね。九条君と一緒なら、いろいろ見て回れそうね」
凛花はからかうことなく、穏やかに微笑んだ。
彩花は少し安心し、小さく頷いた。
「うん。悠真君がどんなものを選ぶのかも、楽しみなんだ」
凛花はその言葉を聞き、妹の表情をそっと見つめた。
彩花は以前から本や文房具が好きだった。
けれど最近は、自分が好きなものを誰かと一緒に楽しむことにも、自然に喜びを感じるようになっている。
その変化を、凛花は嬉しく思っていた。
「素敵なものが見つかるといいわね」
「ありがとう、お姉ちゃん」
二人はそう言って笑い合い、並んで階段を下りた。
◇
朝食の席では、父の耕助が新聞を畳みながら週末の天気について話していた。
「土曜日は今のところ雨の予報じゃないみたいだな。日曜日は少し雲が増えるらしいけど」
彩花は思わず顔を上げた。
「本当?」
「ああ。ただ、この時期は天気が変わりやすいから、前日にもう一度確認した方がいいだろうな」
耕助はそう答え、温かいお茶を一口飲んだ。
彩花は小さく頷いた。
文房具店は駅から歩いて行ける距離にある。
雨が降っても行けないわけではないが、せっかくなら晴れている方が歩きやすい。
「彩花、土曜日は九条君と出かけるんだったわね」
紗月が尋ねると、彩花は少し照れながら答えた。
「うん。午後一時半に青凪駅で待ち合わせることになってるの」
「そう。お昼ご飯は家で食べてから行くの?」
「そのつもりだよ。お店を見るのが目的だから、あんまり遅くならないと思う」
彩花が答えると、紗月は頷いた。
「分かったわ。帰りの時間が変わりそうなら連絡してね」
「うん、ありがとう」
そのやり取りを聞いていた耕助が、穏やかな表情で口を開いた。
「文房具店か。最近は便利なものが多いから、見ているだけでも面白そうだな」
「うん。前に行ったときも、いろんな種類の紙があってびっくりしたよ」
彩花はそう答え、少し考えてから続けた。
「同じ青色でも、明るい色とか、少し灰色が混ざった色とか、全然違うんだよね」
「なるほど。彩花はそういう違いを見るのが好きなんだな」
父の言葉に、彩花は微笑んだ。
「うん。見てると、どんなことを書こうかなって考えたくなるの」
耕助は嬉しそうに頷いた。
娘が好きなことについて話すときの表情は、以前よりもずっと生き生きしている。
家族の前でも、自分の考えを遠慮せずに話してくれるようになったことが、父親として嬉しかった。
紗月はそんな二人の会話を聞きながら、焼いたパンを追加で皿へ載せた。
食卓には、いつもと変わらない穏やかな朝の時間が流れていた。
◇
青葉高校へ到着した彩花は、教室の窓際で鞄を整理していた。
朝の光が机の上へ差し込み、教科書の白いページを明るく照らしている。教室では週末の予定や期末試験について話す声が聞こえ、登校してきた生徒たちが次々と席へ着いていた。
「水瀬、おはよう」
声をかけてきたのは田辺大地だった。
彩花が顔を上げると、大地は昨日より少し明るい表情をしている。
「おはよう、田辺君。昨日の小テスト、どうだった?」
「それがさ、思ってたよりできたんだよ。水瀬が教えてくれたところ、ちゃんと出た」
大地は嬉しそうに笑った。
「まだ返ってきてないから点数は分からないけど、少なくとも昨日の朝に確認してなかったら危なかったな」
彩花はその言葉を聞き、安心したように微笑んだ。
「よかった。少しでも役に立てたなら嬉しいな」
「いや、かなり助かった。ありがとな」
大地は素直に礼を言い、自分の席へ戻ろうとした。
けれど途中で何かを思い出したらしく、もう一度振り返った。
「そういえば、冬の部誌って、学校の外の人も読めるのかな?」
彩花は少し考えた。
「配布の方法はまだ決まってないと思う。前の作品みたいに、家族へ見せられる分があるかどうかも確認してみないと」
「そっか。妹が気にしてたから、分かったら教えてくれると助かる」
「うん。佐々木先輩に聞いてみるね」
彩花が答えると、大地は笑顔で頷いた。
そのまま自分の席へ戻っていく友人を見送りながら、彩花は少し考えた。
冬の部誌が完成したら、悠真にも読んでもらいたい。
凛花も楽しみにしてくれているし、大地の妹も新しい作品を待ってくれている。
けれど、実際に何冊用意できるのかは、まだ分からない。
(……ちゃんと確認してから約束しないとね)
彩花は手帳を取り出し、文芸部で確認したいことを書き加えた。
『冬の部誌の配布方法・持ち帰り分について確認。』
書き終えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
楽しみにしてくれている人がいるからこそ、曖昧なまま返事をするのではなく、きちんと確かめたい。
そんなふうに考えられるようになったことも、自分にとっては小さな変化だった。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が教室で一冊の本を読んでいた。
朝のホームルームが始まるまでには、まだ少し時間がある。窓の外では中庭の木々が冷たい風に揺れ、校舎の壁には淡い朝日が差し込んでいた。
悠真が読んでいたのは、紙や装丁に関する一般向けの本だった。
古い書物の修復について専門的に説明したものではなく、紙の種類や製本の工夫を写真とともに紹介する内容である。
押し葉を使った贈り物の参考になるかもしれないと思い、昨夜自宅の本棚から探してきた。
ページをめくると、紙の厚さや表面の加工によって、同じ印刷でも印象が変わることが紹介されている。
悠真はその部分を興味深く読んでいた。
(……彩花さんが選んだカードも、紙の色だけじゃなくて、手触りまで考えてくれたのかな)
金曜日に受け取ったカードは、淡い青色の花柄だった。
文字を書き込める余白が十分にあり、手に取ると柔らかな印象を受ける紙だった。
彩花がどんな気持ちで選んでくれたのか、詳しく聞いたことはない。
けれど、あのカードが自分にとって大切なものになったのは、紙の美しさだけが理由ではなかった。
そこに彩花自身の言葉が書かれていたからだ。
悠真は本を閉じ、鞄へしまった。
そのとき、隣の席へやってきた森川航平が声をかけた。
「九条、今日は珍しい本読んでるな」
「紙や本の作り方について書かれた本だよ。ちょっと興味があって」
「へえ。お前、そういうのも読むんだな」
航平は机の上に置かれた本の表紙を見て、少し感心したように頷いた。
「でも、そういう本って、読んでると実物を見たくならないか?」
「うん。ちょうど土曜日に文房具店へ行く予定だから、少し楽しみなんだ」
悠真が答えると、航平は思い出したように笑った。
「ああ、水瀬さんと行くって言ってたな」
「うん」
「だったら、ちょうどいいじゃん。紙の種類とか、実際に見られるかもしれないし」
悠真は穏やかに頷いた。
「そうだね。ただ、彩花さんが好きなものも見たいから、あんまり自分のことばかりにならないようにしたいな」
航平はその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「お前らしいな。でも、一緒に行くんだから、お互い好きなものを見ればいいんじゃないか?」
悠真は顔を上げた。
「……そうだね」
「水瀬さんだって、お前が何に興味あるか知りたいかもしれないだろ?」
航平は何気なく言っただけだった。
けれど、悠真にはその言葉が少し新鮮に感じられた。
彩花が楽しめるようにしたい。
その気持ちは本当だった。
ただ、自分が何を見たいのか伝えることも、二人で出かける楽しさの一つなのかもしれない。
「ありがとう、森川。そう考えると、ますます楽しみになってきたよ」
「それならよかった。まあ、俺だったら途中で腹減るから、近くの店も調べとくけどな」
航平が笑うと、悠真もつられて笑った。
その直後、教室の前方からホームルームの準備を促す声が聞こえてきた。
二人は会話を終え、それぞれの席へ戻った。
◇
昼休み、彩花は青葉高校の図書室で昨日借りた短編集を読み進めていた。
窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、机の上に細長い影を落としている。周囲では数人の生徒が静かに本を読んでおり、ときおりページをめくる音だけが聞こえてきた。
彩花が読んでいるのは、遠く離れた友人へ手紙を書き続ける人物の物語だった。
主人公は手紙を書くことが得意で、日常の小さな出来事を自然に文章へしていく。
彩花が考えている新しい物語の主人公とは、正反対に近い。
けれど、その違いが面白かった。
手紙を書くことが得意な人は、何を伝えるか迷わないのだろうか。
そんなことを考えながら読み進めると、物語の中の主人公も、ある場面では手紙を書く手を止めていた。
相手へ心配をかけたくない。
けれど、本当のことを隠したくもない。
その二つの気持ちの間で、言葉を選べずにいる。
彩花はその場面でページをめくる手を止めた。
(……書くのが得意でも、迷うことはあるんだ)
当たり前のことかもしれない。
けれど、今の彩花には大切な気づきだった。
手紙を書くことが苦手な主人公だから迷うのではない。
大切な相手へ言葉を届けたいからこそ、迷うこともある。
その違いを、彩花はもう少し考えてみたいと思った。
手帳を取り出し、短いメモを書き加える。
『苦手だから書けないだけではない。大切だから迷う。』
彩花はその一文を見つめ、静かに頷いた。
自分が悠真へカードを書いたときも、似たような気持ちがあった。
普段の会話なら自然に言えることでも、文字にして残そうとすると、急に慎重になってしまう。
けれど、慎重になることが悪いわけではない。
相手を大切に思っているからこそ、言葉を選ぶ時間が必要なのだ。
彩花は本へ視線を戻した。
読み進めるうちに、物語の主人公はすぐに答えを出すのではなく、数日かけて自分の気持ちを整理していった。
その過程を読んでいると、彩花は自分の物語でも、手紙を書けるようになるまでの時間を丁寧に描きたいと思った。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、彩花は本を閉じた。
続きは帰宅してから読もう。
そう決めて本を鞄へしまい、教室へ戻った。
◇
午後の授業が終わる頃、青葉高校の校舎には少しずつ夕方の気配が広がっていた。
彩花は教室で帰り支度をしながら、今日の予定を確認した。
木曜日は文芸部の活動がない。
昨日の活動で冬の部誌について大きな問題がないことは分かっているが、印刷日や配布方法はまだ決まっていない。
明日、佐々木先輩に確認する機会があれば、持ち帰り分についても聞いてみようと思っていた。
彩花が手帳を閉じたところで、近くの女子生徒が声をかけてきた。
「水瀬さん、今週末って何か予定ある?」
彩花は顔を上げた。
「土曜日の午後に、友達と文房具屋さんへ行く予定があるよ」
「文房具屋さん? いいな。駅の近くのお店?」
「うん。小さなお店なんだけど、綺麗な便箋とかカードがたくさんあるところ」
彩花が答えると、女子生徒は興味深そうに頷いた。
「あそこ、私も一回行ったことある。ちょっと高いものもあるけど、見てるだけで楽しいよね」
「うん。私も前に行ったとき、すごく迷っちゃった」
二人は笑い合った。
女子生徒は少し考え、鞄の持ち手を握り直した。
「そういえば、あのお店って小さいノートも結構あるよね。私、友達の誕生日に何か買おうかなって思ってたんだ」
「そうなんだ。色もいろいろあったと思うよ。表紙が布みたいなものもあった気がする」
「へえ、今度見に行ってみようかな」
彩花はその言葉を聞き、少し嬉しくなった。
自分が好きなお店について話すことで、誰かが興味を持ってくれる。
それは本を紹介するときの楽しさにも似ていた。
好きなものを一人で大切にする時間も好きだ。
けれど、誰かと分け合うことで、新しい楽しみ方が生まれることもある。
彩花はそんなことを考えながら、友人へ別れを告げて教室を出た。
◇
桜華学園では、悠真が放課後の廊下を歩いていた。
今日は生徒会の大きな仕事がなく、確認表の修正も昨日までにほぼ終わっている。先生から追加の指示がなければ、そのまま帰宅できる予定だった。
階段へ向かう途中、図書室の近くで琴葉と顔を合わせた。
「あ、お兄ちゃん。今日は早いね」
「うん。生徒会の仕事が落ち着いてるから」
悠真が答えると、琴葉は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、一緒に帰れる?」
「もちろん。琴葉の方はもう終わったの?」
「うん。今日は本の返却だけだったから」
二人は並んで階段を下り始めた。
琴葉は手にしていた本を鞄へしまいながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日お祖父様と話してたんでしょう?」
悠真は少し驚いた。
「よく知ってるね」
「夕食のあと、書斎へ行くの見かけたから。押し葉のことかなって思って」
琴葉は笑いながら続けた。
「何かいい方法、見つかった?」
「まだ決めてないけど、少し考え方が変わったかな」
「考え方?」
琴葉が首を傾げると、悠真は昨日祖父から聞いたことを思い返した。
「自分が渡したい形だけじゃなくて、受け取る人が無理なく大切にできる形を考えた方がいいって」
琴葉はその言葉を聞き、少し考えた。
「なるほど。確かに、飾るものだったら置く場所が必要だし、使うものだったら壊れにくい方がいいもんね」
「うん。だから、もう少し慎重に考えようと思ってる」
悠真が答えると、琴葉は穏やかに微笑んだ。
「お兄ちゃんらしいね。でも、彩花さんなら、きっと考えてくれたこと自体も嬉しいと思うな」
悠真は妹へ視線を向けた。
「そうかな」
「うん。だって、彩花さんも何かを選ぶとき、すごく丁寧に考えるでしょう?」
琴葉は以前、彩花が本について話してくれたときのことを思い出していた。
どの場面が好きだったのか。
どうしてその登場人物に惹かれたのか。
彩花は急がずに、自分の言葉を探しながら話してくれる。
だからこそ、琴葉は彼女の感想を聞くのが好きだった。
「彩花さんって、物そのものだけじゃなくて、そこにある気持ちも大切にする人だと思う」
琴葉がそう言うと、悠真は少しだけ微笑んだ。
「……俺も、そう思うよ」
二人は校舎を出て、冷たい風の中を歩き始めた。
中庭の木々は葉を減らしていたが、ところどころに残った橙色や黄色が、午後の光を受けて輝いている。
悠真はその景色を見ながら、川沿いで拾った一枚の葉を思い出した。
あの日のことを、彩花はどんなふうに覚えているだろう。
そんなことを考えると、自然に笑みが浮かんだ。
◇
夕方、水瀬家へ帰宅した彩花は、宿題を終えてから新しい物語のノートを開いた。
机の上には、昼休みに読んだ短編集が置かれている。
彩花はまず、今日書き留めたメモを読み返した。
『苦手だから書けないだけではない。大切だから迷う。』
その言葉を見ているうちに、主人公の女の子の姿が少しずつ浮かんできた。
普段は明るく、祖母ともよく話す。
けれど、遠くへ引っ越す祖母へ手紙を書こうとすると、急に言葉が出てこなくなる。
なぜなら、祖母と過ごした時間が大切すぎて、どれか一つを選ぶことが難しいから。
彩花はペンを持ち、主人公の行動について考え始めた。
女の子は最初、便箋へ綺麗な文章を書こうとする。
けれど、何度書いても自分の言葉ではないように感じてしまう。
そこで一度、手紙を書くことをやめる。
机の引き出しへ便箋をしまい、庭へ出る。
そこには祖母と一緒に育てた花がある。
花を見ているうちに、祖母と過ごした時間を思い出す。
そして、最初に書きたかったことが、少しずつ見えてくる。
彩花はそこまで考え、ペンを止めた。
(……でも、これだと少し簡単すぎるかな)
庭へ出て花を見ただけで、すぐに手紙が書けるようになるのは、少し都合がよすぎる気がした。
主人公が本当に悩んでいるなら、何かを見つけた瞬間にすべてが解決するわけではないだろう。
彩花は少し考え、別の展開を思いついた。
花を見た主人公は、祖母へ伝えたいことを一つ思い出す。
けれど、まだ文章にはできない。
そこで、まず短いメモを書くことにする。
『一緒に花を植えたこと。』
『水をあげすぎて笑われたこと。』
『花が咲いたとき、二人で喜んだこと。』
そんなふうに、思い出を一つずつ書き出していく。
最初から手紙を完成させようとするのではなく、自分の中にある気持ちを確かめる。
その過程を描けば、主人公が少しずつ前へ進む様子を自然に表現できるかもしれない。
彩花はノートへ書き加えながら、少しだけ嬉しくなった。
自分も、最初から綺麗な文章を書けるわけではない。
何度も考え直し、書き直し、少しずつ形にしていく。
だからこそ、主人公にも同じような時間が必要なのだと思えた。
彩花は新しいページへ、物語の冒頭に使えそうな文章を書き始めた。
まだ名前の決まっていない女の子が、机の前に座っている。
白い便箋を広げ、ペンを持つ。
最初の一行を書こうとして、手が止まる。
窓の外には、祖母と一緒に育てた庭が見えている。
その景色を眺めながら、女の子は何を書けばいいのか考えている。
彩花はそこまで書き、少しだけ読み返した。
まだ短い場面だった。
けれど、今までメモの中にしかいなかった主人公が、ようやく物語の中で動き始めた気がした。
(……うん。今日はここまでにしようかな)
彩花はペンを置き、ノートを閉じた。
急いで続きを書きたい気持ちもあったが、今は少し時間を置いて読み返したかった。
明日になれば、また違うところが気になるかもしれない。
それも、物語を書く楽しさの一つだと思えた。
◇
同じ頃、九条家では悠真が自室の机へ向かっていた。
机の上には、今朝読んでいた紙や装丁についての本が置かれている。
悠真はページを開き、紙の保存方法について書かれた部分を読み返していた。
押し葉を使った贈り物について、まだ具体的な形は決めていない。
けれど、祖父の俊治や妹の琴葉と話したことで、大切にしたいことは少しずつはっきりしてきた。
葉を傷めずに残すこと。
彩花が無理なく大切にできる形にすること。
そして、あの日の川沿いの景色を思い出せるものにすること。
悠真はノートを開き、三つの項目を書き並べた。
その下へ、もう一つ書き加える。
『彩花さんが好きだと思えるもの。』
書いてから、少し考えた。
彩花は本が好きだ。
手書きのものも好きだし、淡い色合いの文房具にも興味がある。
けれど、それだけで好みを全部知っているわけではない。
土曜日に文房具店へ行けば、彼女がどんなものを選ぶのか、もっと分かるかもしれない。
悠真はそのことを楽しみに思った。
贈り物のために観察するのではない。
ただ、彩花が好きなものを知りたい。
彼女が何に惹かれ、どんなものを大切にしたいと思うのか。
その話を聞くこと自体が、悠真にとって楽しい時間だった。
机の上のスマートフォンが小さく震えた。
画面には彩花の名前が表示されている。
『悠真君、今日ね、新しいお話の最初の場面を少しだけ書いてみたよ』
悠真は自然に笑みを浮かべ、返事を打った。
『そうなんだ。主人公のこと、少しずつ見えてきたんだね』
しばらくして、彩花から返事が届いた。
『うん。まだ名前も決まってないんだけど、机の前で手紙を書こうとしてるところを考えてみたの』
悠真はその文章を読み、少し考えた。
主人公の女の子が手紙を書こうとしている。
彩花は以前、手紙を書くのが苦手な子の物語にしたいと言っていた。
けれど、その子が誰へ手紙を書こうとしているのか、詳しいことはまだ聞いていない。
『最初の場面から、もうその子らしさが出てきそうだね。どんなふうに書けなくなるのか、気になるな』
悠真が送信すると、彩花から少し間を置いて返事が届いた。
『そうなの! ただ書けないんじゃなくて、大切な相手だからこそ迷う子にしたいなって思ってる』
悠真はその言葉を読み、静かに頷いた。
大切な相手だからこそ、言葉を選ぶ。
その気持ちは、今の自分にも少し分かる気がした。
彩花へ何かを渡したいと思っているのに、まだ形を決められない。
それは、何でもいいわけではないからだ。
相手にとって大切なものになってほしい。
その気持ちがあるからこそ、簡単には決められない。
『彩花さんが大切にしたいところ、少し分かる気がするよ。きっと素敵なお話になるね』
悠真が送信すると、すぐに返事が届いた。
『ありがとう。まだまだこれからだけど、頑張って書いてみるね』
悠真はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。
彩花が新しい物語を楽しそうに考えている。
そのことが嬉しかった。
彼女が何かに夢中になっているときの表情を思い出すと、自分まで前向きな気持ちになれる。
悠真はスマートフォンを置き、机の上のノートへ視線を戻した。
自分も、少しずつ考えていこう。
急いで完成させる必要はない。
けれど、いつか彩花へ渡せる日を楽しみにしながら、丁寧に形を探していきたい。
◇
夜、水瀬家のリビングでは、凛花が勉強を終えて温かいお茶を飲んでいた。
彩花はソファの端へ座り、今日借りていた短編集を読み終えたところだった。
窓の外では風が少し強くなり、庭木の枝が揺れる音が聞こえている。
「彩花、その本、面白かった?」
凛花が尋ねると、彩花は本を閉じて顔を上げた。
「うん。手紙が出てくるお話なんだけど、読んでていろいろ考えちゃった」
「新しい作品の参考になった?」
「少しだけ。でも、参考にするっていうより、同じ手紙でも人によって感じ方が違うんだなって思ったの」
彩花はそう答え、少し考えてから続けた。
「手紙を書くのが得意な人でも、大切なことを伝えるときには迷うんだよね。だから、私が書こうとしてる女の子も、ただ苦手だから書けないんじゃなくて、相手を大切に思ってるから迷う子にしたいなって」
凛花は静かに頷いた。
「なるほど。そういう子なら、読んでる人も応援したくなるかもしれないわね」
「うん。私もそう思ってもらえたら嬉しいな」
彩花は少し照れくさそうに笑った。
凛花は妹の表情を見ながら、穏やかに微笑んだ。
以前の彩花は、自分の作品について話すとき、どこか遠慮がちだった。
けれど今は、まだ完成していない物語についても、楽しそうに考えを話してくれる。
それが嬉しかった。
「彩花、最近本当に楽しそうね」
凛花が言うと、彩花は少し驚いた。
「そうかな?」
「うん。文芸部のことも、新しいお話のことも、前より自然に話してくれるようになったと思う」
彩花は少し考えた。
確かに、以前よりも自分の考えを話す機会が増えた。
佐々木先輩にも、田辺君にも、家族にも。
そして、悠真にも。
自分が何を好きなのか。
どんなことを考えているのか。
それを言葉にすることが、以前ほど怖くなくなっている。
「……うん。最近、いろんなことを話すのが楽しいんだ」
彩花が静かに答えると、凛花は嬉しそうに頷いた。
「それならよかった」
二人はしばらく並んでお茶を飲み、テレビから流れる穏やかな音楽に耳を傾けた。
彩花はカップを両手で包みながら、土曜日のことを思い浮かべた。
悠真と一緒に文房具店へ行く。
そこで何を見つけるのか、まだ分からない。
けれど、きっといろいろな話ができるだろう。
その時間を想像するだけで、胸の奥が温かくなった。
◇
九条家では、夕食後のリビングに悠真と琴葉の姿があった。
ハクは二人の近くで伏せ、時折尻尾を揺らしている。
琴葉は図書委員会の資料を整理しながら、兄へ声をかけた。
「お兄ちゃん、土曜日の文房具屋さん、もう何か買うもの決めてる?」
悠真は少し考えた。
「まだ決めてないよ。実際に見てから考えようと思ってる」
「そっか。彩花さんも、いろいろ見たいんだよね?」
「うん。便箋とかカードがたくさんあるって教えてくれた」
琴葉は嬉しそうに笑った。
「いいな。私もそういうお店好き。見てると、使う予定がなくても欲しくなっちゃうんだよね」
悠真はその言葉に笑った。
「分かる気がする。綺麗な紙とか、見てるだけでも楽しいよね」
「そうそう。でも、買ってから何に使うか迷うこともあるんだけど」
琴葉は少し照れたように笑った。
悠真は妹の言葉を聞きながら、ふと考えた。
何かを買うことが目的ではなくてもいい。
店へ行き、並んでいるものを見て、好きなものについて話す。
それだけでも、十分楽しい時間になるはずだ。
「……土曜日、ゆっくり見てこようと思うよ」
悠真が言うと、琴葉は満足そうに頷いた。
「うん。彩花さんと楽しんできてね」
その言葉に、悠真は自然に微笑んだ。
「ありがとう、琴葉」
ハクが小さく鼻を鳴らし、二人の方へ顔を向けた。
琴葉は笑いながらハクの頭を撫でた。
「ハクも行きたいのかな?」
「文房具店には入れないと思うよ」
悠真が答えると、琴葉は少し残念そうな顔をした。
「そっか。でも、また彩花さんが遊びに来てくれたらいいね」
「そうだね」
悠真はハクの柔らかな毛並みへ手を伸ばした。
以前、彩花が九条家へ来たとき、ハクはとても嬉しそうにしていた。
彩花も笑顔でハクを撫で、庭で一緒に過ごしてくれた。
その光景を思い出すと、悠真の胸の奥が温かくなった。
またいつか、彩花を家へ招きたい。
けれど、今は土曜日の約束を楽しみにしていよう。
悠真はそう考え、ハクの頭を優しく撫で続けた。
◇
夜十時を過ぎた頃、彩花は自室で明日の準備を終えていた。
机の上には、新しい物語のノートが置かれている。
今日は主人公が最初の手紙を書こうとする場面を少し進めることができた。
まだ名前も決まっていない女の子。
けれど、その子が何を大切にしているのか、少しずつ分かってきた気がする。
彩花はノートを開き、最後に書いた文章を読み返した。
白い便箋を前にして、何度もペンを持ち直す女の子。
祖母と過ごした時間を思い出しながら、何を書けばいいのか考えている。
その姿を想像すると、彩花は少しだけ微笑んだ。
(……この子にも、ちゃんと自分の言葉を見つけてほしいな)
誰かに教えられた綺麗な文章ではなく、自分が本当に伝えたいことを選んでほしい。
そう思いながら、彩花はノートを閉じた。
机の引き出しには、まだ使っていない淡い青色の花柄カードが一枚残っている。
金曜日に悠真へ渡したカードと同じもの。
けれど、今はその一枚をどう使うか、まだ決めていない。
彩花は引き出しを開け、カードをそっと取り出した。
淡い青色の花柄は、何度見ても好きだと思える。
あの日、店で何枚も見比べた末に選んだものだった。
土曜日には、またあのお店へ行く。
今度は悠真と一緒に。
(……どんなものが見つかるかな)
彩花はカードを引き出しへ戻し、スマートフォンを手に取った。
悠真とのメッセージを開くと、今日のやり取りが残っている。
新しい物語について話したこと。
悠真が楽しみにしていると言ってくれたこと。
その言葉を読み返し、彩花は自然に笑みを浮かべた。
そして、短いメッセージを打った。
『悠真君、今日もお疲れさま。土曜日、あと少しだね。楽しみにしてるよ』
送信してから、少しだけ頬が温かくなった。
改めて楽しみにしていると伝えるのは、少し照れくさい。
けれど、今の気持ちをそのまま言葉にしたかった。
しばらくして、返事が届いた。
『ありがとう。俺も楽しみにしてるよ。彩花さんと一緒に、いろいろ見て回りたいな』
彩花は画面を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『うん。私もだよ。おやすみなさい、悠真君』
『おやすみ、彩花さん』
短いやり取りを終え、彩花はスマートフォンを机へ置いた。
土曜日まで、あと二日。
その時間を楽しみにしながら、彩花は部屋の明かりを消した。
◇
九条家の自室では、悠真も彩花とのメッセージを読み終えたところだった。
机の上には、押し葉を保存する方法についてまとめたノートが置かれている。
まだ何を作るかは決まっていない。
けれど、土曜日に彩花と文房具店へ行くことが、今は何より楽しみだった。
悠真は引き出しを開け、淡い青色の花柄カードを取り出した。
そこには、彩花が自分のために選んでくれた言葉が書かれている。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はその二行を静かに読み返した。
何度読んでも、嬉しい。
そして、読むたびに思う。
自分も、彩花と話す時間が好きだ。
本のことも、学校のことも、家族のことも。
何でもない出来事を話しているだけなのに、気づけば時間が過ぎている。
彼女が楽しそうに話す姿を見ると、自分まで嬉しくなる。
そんな時間を、これからも大切にしたい。
悠真はカードを封筒へ戻し、丁寧に引き出しへしまった。
土曜日には、また彩花と会える。
何を買うかは、まだ分からない。
けれど、一緒に過ごす時間が楽しみだという気持ちは、もうはっきりしていた。
悠真は机の明かりを落とし、窓の外へ目を向けた。
青凪市の夜空には、薄い雲の間から月が見えている。
冬へ向かう街の空気は冷たかったが、胸の奥には穏やかな温かさが残っていた。
彩花は新しい物語の中で、大切な相手へ届ける言葉を探している。
悠真は一枚の押し葉を、どんな形で彼女へ渡せるのか考えている。
二人はまだ、お互いの準備を知らない。
けれど、同じ土曜日を楽しみにしていることだけは、何度でも言葉にできた。
その小さな約束を胸に、二人の木曜日は静かに終わっていった。




