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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第84話 まだ知らない、あなたの選ぶもの


 水曜日の朝、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。昨夜のうちに雨が降ったらしく、住宅街の道路にはところどころ水の跡が残り、庭木の葉先には小さな雫が光っている。水瀬彩花は制服に着替えてから自室のカーテンを開き、窓越しに見える景色をしばらく眺めていた。


 週末には、九条悠真と一緒に文房具店へ行く約束をしている。


 待ち合わせは土曜日の午後一時半、青凪駅。昨夜のメッセージで決まったばかりの予定なのに、彩花はもう何度かその時間を思い返していた。


(まだ水曜日なのに、こんなに楽しみにしてるなんて……ちょっと気が早いかな)


 そう考えて小さく笑った彩花は、机の上へ視線を戻した。そこには深い青色のノートと、昨日学校の図書室で借りてきた短編集が並んでいる。新しく考え始めた物語について、昨夜は少しだけ前へ進めることができた。


 遠くへ引っ越す祖母に手紙を書こうとする女の子。


 伝えたいことはたくさんあるのに、いざ便箋を前にすると、どんな言葉を書けばいいのか分からなくなってしまう主人公。


 昨日は、祖母と一緒に庭へ花を植えた日の写真を見つける場面まで考えた。そこから最初の一行へつなげられそうな気がしているものの、実際に文章として書き始めるには、まだ主人公の気持ちを整理する必要がある。


 彩花はノートを開き、昨夜書き加えた一文を読み返した。


『来年、花が咲いたら写真を送る。』


 その言葉は、主人公が祖母へ伝えたいことの一つになるはずだった。


 けれど、彩花には少し気になることがあった。


(……この子は、最初から写真を送ろうって思いつけるのかな)


 祖母と離れることが寂しくて、手紙を書くことさえ難しく感じている女の子が、急に明るい約束を思いつくのは少し不自然かもしれない。何か小さなきっかけがあって、初めてその考えにたどり着く方が、主人公の変化として自然に感じられる。


 彩花はペンを手に取り、余白へ短いメモを書いた。


『写真を見つけるだけではなく、庭に出て花を見る?』


 書いてから、少し考える。


 花を植えた季節と、祖母が引っ越す季節はまだ決めていない。そこを曖昧にしたまま場面を作ると、後から季節が合わなくなるかもしれなかった。


 彩花はメモの横へ小さく疑問符を書き添え、ペンを置いた。


 今すぐ答えを出す必要はない。


 物語の中の女の子がどんな時間を過ごしてきたのか、もう少し考えてから決めればいい。


 階下から食器の触れ合う音が聞こえてきた。彩花はノートを閉じて鞄へ必要な教科書を入れると、部屋を出て階段を下りた。


 食卓では、姉の凛花が湯気の立つ味噌汁を前にしていた。母の紗月は焼き魚を皿へ盛りつけ、父の耕助は新聞を畳みながら天気予報へ目を向けている。


「おはよう、彩花。今日は少し早いのね」


 凛花が顔を上げると、彩花は椅子を引きながら笑った。


「おはよう、お姉ちゃん。ちょっと早く起きちゃったから、ノートを見てたの」


「新しいお話の?」


「うん。まだ考え始めたばかりなんだけど、昨日少しだけ続きを思いついたから」


 彩花が答えると、凛花は嬉しそうに頷いた。


「そうなんだ。楽しそうね。でも、朝から考え込んで、学校で眠くならないようにね」


「そんなに長く考えてないよ。……たぶん」


 最後の言葉が少し曖昧になり、凛花が声を立てて笑った。紗月も二人の会話を聞きながら微笑み、彩花の前へ朝食を置く。


「夢中になれることがあるのはいいことだけど、朝ご飯はちゃんと食べていってね」


「うん、いただきます」


 彩花は手を合わせ、温かい味噌汁を口に運んだ。


 外の冷たい空気とは対照的に、食卓にはいつもの穏やかな時間が流れていた。家族がそれぞれの予定を話し、時折笑い合う声を聞いていると、彩花は今朝考えていた物語のことをもう一度思い出す。


 祖母と過ごす時間が、主人公にとってどんなものだったのか。


 きっと、特別な出来事ばかりではないのだろう。


 こんなふうに食卓を囲んだり、何気ない会話を交わしたりする時間も、離れてから思い出す大切なものになるはずだ。


 彩花は味噌汁の器を置き、家族の顔をそっと見渡した。


 今は当たり前に感じている朝の風景も、いつか振り返ったときには、かけがえのない記憶になっているのかもしれない。


     ◇


 青葉高校の教室では、朝のホームルームが始まる前から期末試験についての話題が広がっていた。黒板の端には提出物の予定が書かれ、廊下では教科書を抱えた生徒たちが足早に行き交っている。文化祭の余韻が少しずつ薄れ、学校全体が冬へ向かう準備を始めているようだった。


 彩花が席に着くと、田辺大地が近くの机から顔を上げた。


「水瀬、おはよう。今日の英語の小テストって、範囲どこまでだっけ?」


「おはよう、田辺君。昨日先生が言ってたところまでだよ。教科書の後ろに書いてある単語も入るって」


 彩花が教科書を開いて該当するページを示すと、大地は少し困ったような顔になった。


「やっぱりそこも入るのか。昨日、途中までしか見てなかったんだよな」


「まだ少し時間あるから、確認できると思うよ。似た意味の単語がいくつかあるから、そこは気をつけた方がいいかも」


「助かる。水瀬って、説明するとき分かりやすいよな」


 何気なく言われた言葉に、彩花は少し驚いた。


「そうかな。私も間違えることあるよ?」


「そりゃ誰でも間違えるだろ。でも、どこがややこしいか教えてくれるから助かるんだよ」


 大地はそう言って教科書を開き、彩花が示した部分を確認し始めた。


 彩花はその様子を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 以前なら、誰かから褒められると、まず自分より優秀な人のことを考えてしまっていた。姉の凛花ならもっと上手にできるだろうとか、自分が褒められるほどのことではないとか、そんなふうに受け止めてしまうことが多かった。


 けれど、今は少し違う。


(……分かりやすかったなら、よかったな)


 誰かの役に立てたことを、素直に嬉しいと思える。


 その変化に気づいた彩花は、教科書を閉じながら小さく微笑んだ。


 やがて担任が教室へ入り、生徒たちはそれぞれの席へ戻っていった。朝のざわめきが落ち着く中、彩花は窓の外へ一度だけ目を向ける。


 薄い雲の向こうから差し込む光が、校庭の濡れた地面を淡く照らしていた。


 今日は文芸部の活動がある。


 冬の部誌について、先生からの確認結果が届いていれば、印刷へ向けた準備も少し進むだろう。


 自分の物語が、また誰かの手に届く形になっていく。


 そう思うと、授業が始まる前から少しだけ背筋が伸びた。


     ◇


 桜華学園高等部では、九条悠真が朝の教室で森川航平と話していた。


 昨日まとめた生徒会の確認表について、担当の先生からいくつか修正の提案があったらしい。航平は手帳を開き、付箋を貼ったページを悠真へ見せた。


「昨日の表、先生が見てくれたんだけどさ。提出先のところ、もう少し詳しく書いてほしいって」


「なるほど。担当の先生が不在だった場合のことも入れた方がよさそうだね」


 悠真が答えると、航平は頷いた。


「そうそう。あと、書類を確認した日付も残しておいた方がいいって言われた」


「それなら、記入欄を一つ増やそうか。あとから見直したときにも分かりやすいと思う」


 二人は机の上で手帳を並べ、必要な修正を確認した。


 悠真にとって生徒会の仕事は、以前から責任を持って取り組んできたものだった。頼まれたことを丁寧に進め、期限を守り、周囲が困らないように準備することを大切にしている。


 ただ、最近は一人で完成させることよりも、誰かと相談しながら形にしていくことに面白さを感じるようになっていた。


 航平が気づくこともあれば、自分が見落としていた部分を先生が指摘してくれることもある。


 そのたびに、最初の案より使いやすいものへ変わっていく。


「九条、今日の放課後、少し時間あるか?」


 航平が尋ねると、悠真は予定を思い返した。


「うん。長くはかからないと思うけど、確認表を直すくらいなら大丈夫だよ」


「助かる。俺も一緒にやるから、二十分くらいで終わると思う」


「じゃあ、放課後に生徒会室で」


 話がまとまったところで、教室の前方から朝の準備を促す声が聞こえてきた。航平は手帳を閉じ、自分の席へ戻っていく。


 悠真も教科書を取り出そうとして、鞄の内側に入れてある小さなノートへ目を向けた。


 そこには、押し葉を傷めずに保存する方法について、祖父から聞いたことや自分で調べたことをまとめてある。


 土曜日に彩花と行く文房具店で、何か参考になるものが見つかるかもしれない。


 けれど、店へ行く目的をそれだけにしてしまうのは違う気がした。


(……彩花さんが案内してくれるお店なんだから、まずは一緒に楽しみたいな)


 悠真はノートを鞄へ戻し、教科書を開いた。


 彩花がどんなものを好きなのか、まだ知らないことはたくさんある。


 本については何度も話してきたけれど、文房具を選ぶときには、また違う一面が見られるかもしれない。


 そう考えるだけで、週末が少し楽しみになった。


     ◇


 昼休み、彩花は青葉高校の図書室へ向かっていた。


 昨日借りた短編集を読み進めたい気持ちもあったが、今日は別の用事がある。文芸部で使う資料の確認を頼まれており、図書室の棚にある古い部誌を見ておきたかったのだ。


 図書室へ入ると、窓際の席では数人の生徒が静かに本を読んでいた。貸出カウンターの近くには返却された本が積まれ、担当の生徒が分類番号を確かめながら棚へ戻している。


 彩花は奥の資料棚へ向かった。


 青葉高校の文芸部が過去に制作した部誌は、年度ごとにまとめられている。表紙の色も紙の厚さも少しずつ違い、並べて見ると、それぞれの年の部員たちが工夫してきたことが伝わってくるようだった。


 彩花は数冊を取り出し、近くの机へ並べた。


 以前の部誌には、作品の前に短い紹介文が載せられているものもあれば、目次だけで構成されているものもある。


 今回の冬の部誌では、佐々木先輩たちが読みやすさを大切にしているため、作品紹介をどこまで入れるか慎重に考えていた。


 彩花は一冊の目次を開き、ページの余白へ目を向けた。


(……このくらい余白があると、落ち着いて見えるんだ)


 文章だけでなく、紙面の配置によっても作品の印象は変わる。


 そのことを改めて感じながら、彩花は手帳へ簡単なメモを書いた。


 作業を終えたところで、ふと隣の棚に置かれていた一冊の本が目に留まった。


 手紙や日記を題材にした文学作品を紹介する本だった。


 昨日借りた短編集とは違い、さまざまな作品の特徴を解説する内容らしい。


 彩花は手に取って目次を確認し、少し迷った。


 新しい物語の参考になりそうではある。


 けれど、今はほかの作品をたくさん読むより、自分の主人公について考える時間も必要かもしれない。


(……全部を参考にしようとしなくてもいいよね)


 彩花は本を元の棚へ戻した。


 必要になったとき、また読みに来ればいい。


 今は昨日借りた短編集を読み、自分が感じたことを大切にしたかった。


 その判断をしてから、彩花は少しだけ不思議な気持ちになった。


 以前なら、参考になりそうな本を見つけると、できるだけ多く読まなければならないと思っていたかもしれない。自分の考えだけでは足りないのではないかと、不安になることもあった。


 けれど、今は本から学ぶことと、自分の言葉で考えることの両方を大切にしたいと思える。


 彩花は資料を棚へ戻し、図書室を出た。


 廊下の窓からは、午後の光が細長く差し込んでいる。


 教室へ戻る途中、彩花は手帳に書いたメモをもう一度見直した。


 今日の部活動で、佐々木先輩へ伝えてみよう。


     ◇


 放課後の文芸部室には、紙をめくる音と、部員たちの控えめな話し声が広がっていた。


 窓際の机には冬の部誌の仮原稿が並び、佐々木先輩が一枚ずつ確認している。ほかの部員たちも担当する作品や目次を見直しており、部屋には文化祭前とは少し違う、落ち着いた忙しさがあった。


「水瀬さん、昨日お願いした資料、見てきてくれた?」


 佐々木先輩に声をかけられ、彩花は手帳を開いた。


「はい。過去の部誌をいくつか確認してきました。目次の余白や作品紹介の入れ方が少しずつ違っていて、参考になりそうなところをまとめてあります」


 彩花が手帳を差し出すと、佐々木先輩は椅子を寄せて内容を確認した。


「ありがとう。なるほど、紹介文を入れない年もあったのね」


「はい。今回の部誌は作品数も決まっているので、無理に紹介文を増やさなくてもいいのかなと思いました。その分、目次を見やすくできそうです」


 彩花は少し緊張しながら、自分の考えを伝えた。


 先輩は手帳から顔を上げ、穏やかに頷いた。


「いいと思う。冬の部誌は落ち着いた雰囲気にしたいって話していたし、余白を大切にするのも一つの方法ね」


 その言葉に、彩花の肩から少し力が抜けた。


「ありがとうございます。あの、もちろん、ほかの部員の皆さんの意見も聞いてからですけど……」


「うん。そこはみんなで決めましょう。でも、水瀬さんが自分で考えてくれたことは、ちゃんと参考にしたいわ」


 佐々木先輩はそう言って、ほかの部員たちへ声をかけた。


 目次の配置について意見を出し合う時間になると、彩花は自分のメモを見ながら説明した。


 最初は少し緊張していたものの、実際に紙面を見せながら話しているうちに、言いたいことが整理されていく。


 ある部員は作品名を少し大きくした方がいいと提案し、別の部員は余白を広く取るならページ番号の位置を揃えたいと言った。


 それぞれの意見を聞きながら、彩花は自分だけでは思いつかなかった工夫に気づいていく。


(……こうやって、みんなで作っていくんだ)


 自分の作品を書くときは、基本的に一人で考える時間が多い。


 けれど、部誌は違う。


 誰かが書いた物語を、別の誰かが読みやすい形へ整え、表紙や目次を考える人がいて、印刷へ向けて確認する人もいる。


 一冊の本になるまでには、いくつもの小さな仕事が重なっているのだ。


 彩花は机に並んだ原稿を見渡し、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 やがて話し合いが一段落すると、佐々木先輩が部員たちへ向き直った。


「先生からも連絡があって、今のところ大きな修正は必要なさそうです。ただ、印刷の日程はまだ最終決定していないから、そこはもう少し待ってください」


 部員たちから安堵したような声が上がった。


 彩花も小さく息をつき、自分の原稿へ目を向けた。


『いつか、ここに』。


 悠真がすでに読んでくれた物語だ。


 文化祭で発表した作品とはまた違う形で、誰かへ届く日が近づいている。


 けれど、印刷されたものを手に取ったとき、どんな気持ちになるのかはまだ分からない。


 嬉しいだろうか。


 それとも、やっぱり緊張するだろうか。


 きっと、どちらもあるのだと思う。


 彩花は原稿の端を丁寧に揃え、指定された場所へ戻した。


     ◇


 活動が終わり、部員たちが帰り支度を始めた頃、佐々木先輩が彩花へ声をかけた。


「水瀬さん、少しだけいい?」


「はい。どうしましたか?」


 彩花が振り返ると、先輩は机の上に残っていたノートを閉じ、柔らかく笑った。


「この前話していた、新しいお話のことなんだけど。その後、少し進んだ?」


 彩花は思わず目を瞬かせた。


 月曜日、手紙を書くのが苦手な女の子の物語について相談したことを、先輩は覚えていてくれたらしい。


「はい。まだ最初の部分だけなんですけど、主人公が祖母と一緒に花を植えた日のことを思い出す場面を考えました」


「そうなんだ。いいわね。どんな花なの?」


 その質問に、彩花は少し困ったように笑った。


「実は、まだ決めていなくて……。季節も考えながら決めようと思っているところなんです」


 佐々木先輩は納得したように頷いた。


「なるほど。花の種類によって、咲く時期も違うものね」


「はい。それに、主人公がその花をどう思っているのかも、まだはっきりしていないんです」


 彩花は手帳を抱え直し、少し考えてから続けた。


「ただ綺麗な花だった、というだけじゃなくて、祖母と一緒に育てたから特別なんだって、読んでくれる人にも感じてもらいたくて」


 先輩は急かさずに聞いていた。


 彩花が言葉を探している間も、途中で結論を求めたりしない。その落ち着いた態度に安心して、彩花は自分の考えをもう少し話した。


「最初は、手紙が書けない女の子の話にしようと思っていたんです。でも、考えているうちに、手紙を書くことだけじゃなくて、その子が何を大切にしているのかを描きたいと思うようになって……」


「うん。それは、すごく大事なことだと思う」


 佐々木先輩は窓の外へ一度目を向けてから、彩花へ視線を戻した。


「手紙が書けないっていう出来事だけなら、書けるようになったところで終わるかもしれない。でも、その子が誰に何を伝えたいのかが分かると、手紙を書けたことの意味も変わってくるでしょう?」


 彩花はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「……はい。そうですね」


「だから、今すぐ花の種類を決めなくてもいいんじゃないかな。主人公とお祖母さんがどんな時間を過ごしたのか、もう少し考えてみてもいいと思う」


 先輩はそう言って微笑んだ。


「水瀬さん、最近は自分の考えを話してくれることが増えたわね」


 思いがけない言葉に、彩花は少し頬を赤くした。


「そ、そうでしょうか……」


「うん。前から丁寧に考える人だったけど、今は『私はこうしたい』っていう言葉が増えた気がする」


 彩花は手帳へ視線を落とした。


 自分では、そんなにはっきりした変化があると思っていなかった。


 今も迷うことは多いし、誰かへ意見を伝えるときには緊張する。


 けれど、以前よりも自分の考えを大切にできるようになったのかもしれない。


(……悠真君にも、似たようなことを言ってもらったことがあったな)


 悠真は彩花の話を聞くとき、いつも彼女自身の言葉を待ってくれる。


 何かを選ぶときも、すぐに答えを決めるのではなく、彩花がどうしたいのかを尋ねてくれる。


 その積み重ねが、少しずつ自分の中に残っているのだろうか。


「ありがとうございます、先輩。私、もう少し主人公のことを考えてみます」


 彩花が顔を上げて答えると、佐々木先輩は嬉しそうに頷いた。


「うん。楽しみにしてるね。でも、無理に急がなくていいから」


 彩花は笑顔で返事をし、部室をあとにした。


 廊下へ出ると、窓の向こうでは夕方の空が淡い橙色に染まり始めていた。


 手帳を抱えたまま歩きながら、彩花は先輩の言葉を繰り返し思い出した。


 自分の考えを話せるようになった。


 そう言ってもらえたことが、思っていた以上に嬉しかった。


     ◇


 一方、桜華学園の生徒会室では、悠真と航平が確認表の修正を進めていた。


 机の上には昨日作った表と先生からの指摘事項が並び、二人は項目を一つずつ確認している。窓の外では運動部の掛け声が聞こえ、夕方の光が書類の端を照らしていた。


「これで、提出先と確認日付は入ったな」


 航平が画面を確認すると、悠真は頷いた。


「うん。あとは実際に使う人が迷わないか、もう一度見てみよう」


「じゃあ、俺が初めて担当するつもりで読んでみる」


 航平はそう言って椅子を少し引き、完成した表を最初から確認し始めた。


 悠真はその様子を見ながら、必要なところだけ補足した。


 しばらくして、航平が一か所を指さした。


「ここ、確認した書類をどこへ戻すか書いてないな」


「あ、本当だ。ありがとう。そこも必要だね」


 悠真がすぐに修正すると、航平は少し得意そうに笑った。


「こういうの、やっぱり二人で見た方がいいな」


「そうだね。俺も気づかなかった」


 二人は最後の確認を終え、保存した資料を先生へ提出する準備を整えた。


 予定していた時間より少し長くかかったものの、納得できる形になったことに、悠真は満足していた。


「九条、今日はありがとう。これで次の担当にも渡しやすくなると思う」


「こちらこそ。森川が一緒に確認してくれたから、分かりやすくなったよ」


 航平は鞄を持ち上げながら、ふと思い出したように尋ねた。


「そういえば、お前、今週末は何か予定あるのか?」


 悠真は書類を片づける手を止めた。


「土曜日の午後に、友達と出かける予定があるよ」


「へえ、珍しいな。どこ行くんだ?」


「駅の近くの文房具店。前から行ってみたいと思ってたところなんだ」


 悠真が答えると、航平は少し意外そうな顔をした。


「文房具店? お前らしいと言えばお前らしいけど、わざわざ予定を合わせて行くんだな」


「うん。その人が前に行ったことのあるお店で、案内してくれることになってる」


 悠真の声が自然に柔らかくなったことに、航平は気づいた。


 普段の悠真は、誰に対しても穏やかで丁寧だ。けれど、最近はある友達の話をするときだけ、少し楽しそうな表情になることがある。


 航平はその相手が誰なのか、なんとなく想像がついた。


「……もしかして、前に話してた水瀬さん?」


 悠真は驚く様子もなく頷いた。


「そうだよ。彩花さんと一緒に行くんだ」


「やっぱりな」


 航平は笑ったものの、それ以上からかうことはしなかった。


 悠真が誰かと過ごす時間を楽しみにしていることは、友人として素直に嬉しい。


 それに、本人がまだ言葉にしていないことを、周囲が勝手に決めつける必要もないと思っていた。


「楽しんでこいよ。文房具店って、意外と見始めると時間かかるしな」


「森川もよく行くの?」


「俺はそんなに詳しくないけど、妹に頼まれて付き合ったことがあるんだ。色違いのペンを比べるだけで、すごい時間かかったぞ」


 航平が苦笑すると、悠真も笑った。


「それだけ気に入ったものを選びたかったんだろうね」


「まあな。結局、最初に手に取った色に戻ってたけど」


 航平は肩をすくめ、それでもどこか楽しそうに続けた。


「でも、帰ってからずっと使ってるみたいだから、付き合った甲斐はあったかな」


 その話を聞いて、悠真は少し考えた。


 時間をかけて選んだものだからこそ、大切に使いたくなる。


 彩花が花柄のカードを選んでくれたときも、きっといろいろ考えてくれたのだろう。


 そう思うと、引き出しにしまってあるあのカードが、ますます大切に感じられた。


「……そういう時間も、いいね」


 悠真が静かに言うと、航平は笑顔で頷いた。


「だろ? まあ、俺は途中で腹減ったけどな」


 二人は笑い合い、生徒会室を出た。


     ◇


 夕方、青凪市の駅前には帰宅する人々の姿が増えていた。


 彩花は青凪駅へ向かう道を歩きながら、鞄の中の手帳を思い出していた。文芸部で先輩からもらった言葉を、帰宅したら忘れないうちに書き留めておきたい。


 駅へ近づくと、土曜日に悠真と訪れる予定の文房具店がある通りが見えてきた。


 今日は店の前まで行くつもりはなかった。


 けれど、横断歩道で信号を待っている間、彩花は自然とその方向へ目を向けてしまう。


 あの店には、淡い青色の花柄カードが置かれていた。


 棚の前で何度も迷い、二枚選んだことを覚えている。


 一枚は悠真へ渡した。


 もう一枚は、今も自室の引き出しにしまってある。


(……土曜日、悠真君は何を見るのかな)


 万年筆やノートに興味を持つだろうか。


 それとも、祖父の俊治が好きそうな絵葉書を探すかもしれない。


 悠真は手書きのものが好きだと言っていた。


 祖父から届いた絵葉書を大切にしていることも、以前話してくれた。


 彩花はその会話を思い出し、少し微笑んだ。


 同じ店へ行っても、見る場所は人によって違う。


 自分が気づかなかったものを悠真が見つけるかもしれないし、反対に、自分が好きなものを紹介できるかもしれない。


 それが楽しみだった。


 信号が青に変わり、人々が歩き始めた。


 彩花も流れに合わせて横断歩道を渡り、駅へ向かう。


 今日は店へ寄らない。


 土曜日に悠真と一緒に見る楽しみを、残しておきたかった。


     ◇


 九条家へ帰宅した悠真を、玄関ではハクが迎えてくれた。


 白いサモエドは尻尾を大きく振り、悠真が靴を脱ぐのを待ちきれない様子で足元へ近づいてくる。悠真がしゃがんで頭を撫でると、ハクは嬉しそうに身体を寄せてきた。


「ただいま、ハク。今日も元気だね」


 悠真は笑いながら、柔らかな毛並みを撫でた。


 廊下の奥から琴葉が現れ、兄の姿を見つけると軽く手を振った。


「お兄ちゃん、おかえり。今日は生徒会だったんだよね?」


「うん。昨日の資料を少し直してたんだ」


「お疲れさま。お祖父様、さっき書斎にいらしたよ」


 琴葉はそう言ってから、少し声を落とした。


「この前の押し葉のこと、また聞きたいんじゃないかなって思って」


 悠真は妹の気遣いに微笑んだ。


「ありがとう。でも、今日はすぐに聞きに行かなくても大丈夫だよ。もう少し自分で考えてみようと思ってるから」


「そっか。じゃあ、土曜日に文房具屋さんへ行ってからでもいいかもね」


 琴葉は自然に言ったが、悠真は少し驚いたように顔を上げた。


「よく覚えてるね」


「だって、お兄ちゃんが楽しそうに話してたもの」


 琴葉は笑い、ハクの頭へ手を伸ばした。


「それに、彩花さんと一緒に行くんでしょう? どんなお店だったか、あとで教えてね」


「うん。帰ってきたら話すよ」


 悠真が答えると、琴葉は満足そうに頷いた。


 そのまま二人でリビングへ向かう途中、琴葉がふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、図書委員の展示、今日も見てくれてる人がいたんだ」


「『誰かにすすめたい一冊』の?」


「うん。前にお祖父様からいただいた冒険小説を紹介したでしょう? あの本、また貸出希望があったみたい」


 悠真は嬉しそうに笑った。


「それはよかったね。琴葉が紹介文を考えたから、興味を持ってくれたんだと思うよ」


「彩花さんにも読んでもらったしね。あのとき、感想を聞けてよかったな」


 琴葉は少し照れたように笑った。


 展示を作ったとき、彩花は本を読んで感想を伝えてくれた。


 その言葉を参考にしながら紹介文を見直したことも、琴葉にとって大切な経験になっている。


「彩花さんって、感想を話すとき、ちゃんと自分が好きだったところを教えてくれるよね」


 琴葉が言うと、悠真は頷いた。


「うん。俺もそう思う。どこがよかったのか聞くと、読んでみたくなるんだ」


「そうそう。だから、またおすすめの本を教えてもらいたいな」


 琴葉はそう言って笑った。


 悠真は妹の横顔を見ながら、少し嬉しくなった。


 彩花と琴葉が自然に本の話をするようになったこと。


 家族の中に、彩花の名前が当たり前のように出てくること。


 そのどちらも、以前なら想像していなかった変化だった。


 けれど、今は不思議なくらい自然に感じられる。


 悠真はハクの背中を撫でながら、静かに微笑んだ。


     ◇


 夕食後、水瀬家のリビングでは、紗月が温かいお茶を用意していた。


 彩花は食器を片づけるのを手伝い、台所から戻ってくると、ソファに座っていた凛花の隣へ腰を下ろした。テレビでは旅番組が流れ、画面の中には紅葉の残る山道が映っている。


「彩花、今日は文芸部だったんでしょう?」


 凛花が尋ねると、彩花は頷いた。


「うん。冬の部誌の目次について、みんなで話し合ったの。私も少し意見を出せたんだ」


「そうなんだ。どんなことを話したの?」


 彩花は今日の活動を思い返しながら、目次の余白や作品紹介の配置について説明した。


 凛花は途中で相槌を打ち、ときどき質問をしながら聞いてくれた。


「なるほどね。確かに、文字が詰まりすぎていると読みにくいこともあるものね」


「うん。だから、作品名が見やすくなるようにしたいって話したんだ」


 彩花が答えると、凛花は柔らかく微笑んだ。


「いいじゃない。彩花、自分の考えをちゃんと伝えられたのね」


 その言葉に、彩花は少し照れくさくなった。


「まだ緊張するけどね。でも、先輩が聞いてくれたから」


「それでも、言葉にしたのは彩花でしょう?」


 凛花はそう言って、お茶の入ったカップを持ち上げた。


 彩花はすぐに返事をせず、姉の言葉を考えた。


 確かに、以前なら意見を思いついても、ほかの人がもっといい案を出すかもしれないと思って黙っていたかもしれない。


 今日は、自分の考えを伝えてみたいと思えた。


 それが大きな変化なのかどうかは分からない。


 けれど、少なくとも自分にとっては嬉しいことだった。


「……ありがとう、お姉ちゃん」


 彩花が小さく笑うと、凛花も嬉しそうに頷いた。


 しばらくして、テレビの旅番組が文房具を扱う小さな店を紹介し始めた。


 画面には色とりどりの紙や手帳が並び、店主が古い印刷機について説明している。


 彩花は思わず身を乗り出した。


「わあ、綺麗……」


 凛花も画面へ目を向けた。


「こういうお店、彩花は好きそうね」


「うん。見てるだけでも楽しいと思う」


 彩花は笑いながら答え、土曜日の予定を思い出した。


 すると、凛花が何気ない調子で続けた。


「そういえば、土曜日は九条君と文房具屋さんへ行くんだったわね」


「う、うん」


 急に悠真の名前が出てきて、彩花の声が少し上ずった。


 凛花はその反応に気づいたものの、からかうようなことはしなかった。


「前にカードを買ったお店でしょう? 素敵なものが見つかるといいわね」


「うん。悠真君も、行ってみたいって言ってくれてたから」


 彩花はカップを両手で包み、少し微笑んだ。


 凛花は妹の横顔を見つめた。


 最近の彩花は、以前よりも楽しそうに話すことが増えた。


 文芸部のことも、学校の友達のことも、自分の書いている物語のことも。


 そして、九条悠真のことを話すときには、どこか特別に柔らかな表情になる。


 姉として、その変化が気にならないわけではない。


 けれど、彩花が自分の気持ちを大切にしながら、少しずつ前へ進んでいることも分かっていた。


 だから、今は必要以上に尋ねず、妹が話したくなったときに聞いてあげたい。


 凛花はそう思い、テレビへ視線を戻した。


「土曜日、寒くなるかもしれないから、暖かくしていくのよ」


「うん。マフラーも持っていくね」


 彩花が答えると、凛花は満足そうに笑った。


     ◇


 その夜、彩花は自室で新しい物語のノートを開いていた。


 机の上には、学校で借りた短編集と、今日文芸部で使った手帳が置かれている。窓の外では風が少し強くなり、ときどき庭木の枝が揺れる音が聞こえていた。


 彩花はまず、佐々木先輩からもらった助言を書き留めた。


『主人公が誰に、何を伝えたいのか。』


 その下へ、もう一つの言葉を書き加える。


『手紙を書けたことの意味は、そこから生まれる。』


 彩花は二つの文章を読み返し、ペンを置いた。


 主人公の女の子は、祖母へ何を伝えたいのだろう。


 寂しいという気持ち。


 離れても忘れないという約束。


 一緒に過ごした時間への感謝。


 どれも大切だと思う。


 けれど、全部を一度に書こうとするから、最初の一行が難しくなるのかもしれない。


(……この子も、最初は一つだけ選べばいいのかな)


 彩花はノートの新しいページを開いた。


 そこへ、主人公が祖母と過ごした日常の出来事をいくつか書き出していく。


 朝、一緒に庭の水やりをしたこと。


 雨の日に窓辺で本を読んでもらったこと。


 台所で焼き菓子を作り、少し焦がしてしまったこと。


 どれも特別な事件ではない。


 けれど、主人公にとっては、祖母と一緒にいた時間を思い出す大切な出来事になるはずだった。


 彩花はその中から、庭の花に関する場面をもう少し詳しく考えることにした。


 祖母は、花を育てることが好きな人。


 主人公は最初、土いじりがあまり得意ではない。


 けれど、祖母に教わりながら苗を植え、少しずつ世話をするうちに、花が咲くのを楽しみにするようになる。


 そんな関係なら、花は二人の時間を象徴するものになるかもしれない。


 彩花はペンを走らせ、短い場面を書き始めた。


 主人公が小さなじょうろを持ち、祖母の隣で花へ水をあげる。


 祖母は水をかけすぎないように教えながら、花が育つには時間が必要なのだと話す。


 すぐに咲かなくても、毎日少しずつ変わっていく。


 その言葉を、主人公は当時あまり深く考えずに聞いていた。


 けれど、祖母が引っ越すことになった今、その言葉を思い出す。


 彩花はそこまで書き、手を止めた。


(……あれ? これって、ちょっと説明しすぎかな)


 花が育つことと、気持ちが変わっていくことを直接結びつけすぎると、物語が少し分かりやすすぎるかもしれない。


 読者が自分で感じ取れる余地を残したい。


 彩花は書いた文章を読み返し、祖母の台詞を少し減らした。


 代わりに、主人公がじょうろを傾けすぎてしまい、祖母が笑いながら手を添える場面を残す。


 その方が、二人の距離が自然に伝わる気がした。


 彩花は修正した文章を見つめ、静かに頷いた。


 まだ完成には遠い。


 けれど、主人公がどんな女の子なのか、少しずつ見えてきた。


 今夜はここまでにしよう。


 そう思ってノートを閉じかけたとき、彩花はふと金曜日のカードを思い出した。


 悠真へ渡す前、何度も文章を考え直したこと。


 伝えたいことが多すぎて、どれを選べばいいのか迷ったこと。


 それでも、最後には二行の言葉を選べたこと。


 彩花は机の引き出しへ目を向けた。


 そこには、まだ使っていない淡い青色の花柄カードが一枚残っている。


 誰へ渡すかは、まだ決めていない。


 けれど、今夜は少しだけ違うことを考えた。


 手紙を書くことが苦手な主人公も、いつか自分の言葉を選べるようになるだろう。


 そのとき、どんな表情をするのか。


 どんな気持ちで便箋を折りたたむのか。


 彩花はその場面を想像し、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が悠真へカードを渡したときの気持ちとは、きっと違う。


 けれど、言葉を届けたいと思う気持ちには、どこか似たところがあるのかもしれない。


 彩花はノートの最後に、小さく書き加えた。


『最初の一行は、いちばん伝えたいことから。』


 その言葉を見つめ、彩花は静かに微笑んだ。


     ◇


 同じ頃、九条家の書斎では、悠真が祖父の俊治と向かい合っていた。


 部屋には古い本の匂いが漂い、壁際の大きな本棚にはさまざまな装丁の書籍が並んでいる。机の上には俊治が読みかけていた本と、湯気の立つお茶が置かれていた。


「お祖父様、少し聞いてもいいですか?」


 悠真が声をかけると、俊治は本から顔を上げた。


「もちろんだよ。どうしたんだい?」


「この前、押し葉の保存について教えてもらったでしょう? あれから少し調べてみたんですけど、まだ迷っていることがあって」


 悠真は持ってきたノートを開き、書き留めた内容を見せた。


 俊治は眼鏡の位置を直しながら、ゆっくりと目を通した。


「なるほど。随分丁寧に調べたね」


「ありがとうございます。でも、保存することと、誰かに渡すことは少し違う気がして」


 悠真が言うと、俊治は穏やかに頷いた。


「そうだね。自分で保管するなら、置く場所や扱い方を自分で決められる。でも、人に渡すものなら、その人が無理なく大切にできる形を考える必要がある」


 悠真はその言葉を聞き、静かに考え込んだ。


 彩花は本が好きで、栞も使う。


 けれど、押し葉を栞にする場合、何度も本へ挟んだり取り出したりすることで傷んでしまうかもしれない。


 小さな額へ入れるなら、飾る場所が必要になる。


 台紙へ固定して渡すなら、しまっておくことはできても、気軽に使うものではなくなる。


 どの方法にも、よいところと気になるところがあった。


「……渡す相手が、どう使いたいか分からないときは、どうしたらいいんでしょう」


 悠真が尋ねると、俊治は少し考えてから答えた。


「それなら、使い方を決めつけない形にするのも一つの方法だね。大切なのは、渡したあとに相手が困らないことだと思うよ」


 悠真はその言葉を繰り返し考えた。


 使い方を決めつけない。


 それは、彩花が好きなものを大切にしたいという、自分の気持ちにも近い気がした。


「……なるほど。ありがとうございます」


 悠真が微笑むと、俊治も穏やかに笑った。


「何かを贈ろうとしているのかな?」


 以前も似たようなことを尋ねられたが、悠真は今回は少しだけ素直に答えた。


「はい。まだ決めていないんですけど、大切な友達に渡せたらいいなと思っていて」


 俊治はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「そうか。それなら、急がずに考えるといい。贈り物は、立派なものである必要はないからね」


 悠真は祖父の顔を見つめた。


 俊治は机の上に置かれていた一枚の古い絵葉書を手に取り、悠真へ見せた。


 そこには、昔訪れた町の風景が描かれている。


「これはね、ずっと前に友人から届いたものなんだ。特別に高価なものではないけれど、今でも大切にしている」


 俊治は絵葉書の裏面へ目を向けた。


「短い言葉しか書かれていないんだけれど、その人が旅先で私のことを思い出してくれたのが嬉しくてね」


 悠真は静かに耳を傾けた。


 祖父が手書きの絵葉書を大切にしている理由を、以前から知っているつもりだった。


 けれど、こうして一枚の思い出を聞くと、その意味が少し違って感じられる。


「……俺も、そういうものをもらったことがあります」


 悠真が言うと、俊治は優しく微笑んだ。


「そうだろうね。だからこそ、君も誰かへ何かを届けたいと思ったのかもしれない」


 悠真はすぐには答えなかった。


 金曜日に彩花から受け取ったカード。


 あの二行の言葉を読んだとき、自分がどれほど嬉しかったのか。


 今もはっきり覚えている。


 彩花は、自分の好きなものを大切にしてくれてありがとうと書いてくれた。


 そして、一緒に話す時間が好きだと伝えてくれた。


 その言葉が、今も悠真の中に残っている。


(……俺も、彩花さんにそんなふうに思ってもらえるものを渡せたらいいな)


 悠真はノートを閉じ、祖父へ頭を下げた。


「ありがとうございます。もう少し考えてみます」


「うん。楽しんで考えるといいよ」


 俊治はそう言って、再び本へ視線を戻した。


 悠真は書斎を出ると、自室へ向かった。


 廊下の窓から見える庭は暗くなり始めていたが、遠くの外灯が木々の輪郭を淡く照らしている。


 土曜日には、彩花と文房具店へ行く。


 そこで何を見つけるのか、まだ分からない。


 けれど、今夜祖父から聞いた言葉を、忘れずにいたいと思った。


     ◇


 自室へ戻った悠真は、机の引き出しから押し葉を取り出した。


 川沿いの道を歩いた日に拾った一枚の葉。


 彩花と並んで歩き、秋の景色を眺めた時間を思い出させてくれるものだ。


 葉は紙に挟まれたまま、丁寧に保管されている。


 悠真はその状態を確かめ、無理に触れないようにしながら机へ置いた。


 保存方法については、まだ慎重に考える必要がある。


 祖父から聞いたように、湿気や光によって傷む可能性もあるし、加工することでかえって状態が悪くなることもある。


 だから、土曜日に文房具店で何かを見つけたとしても、すぐに形にするとは限らない。


 まずは、どんなものがあるのか見てみよう。


 悠真はそう考え、ノートへ新しい一文を書き加えた。


『相手が無理なく大切にできる形。』


 その言葉を見つめているうちに、彩花が本を選ぶときの姿が思い出された。


 彼女は、表紙や題名だけで決めることもあれば、あらすじをじっくり読んでから選ぶこともある。


 気になる本を手に取ると、少しだけ表情が明るくなる。


 そして、どこに惹かれたのかを尋ねると、嬉しそうに話してくれる。


 文房具店でも、きっと同じように楽しむのだろう。


 悠真は自然に微笑んだ。


 贈り物を考えることも大切だ。


 けれど、土曜日は彩花と一緒に過ごす時間そのものを楽しみたい。


 その気持ちを確かめるように、悠真はノートを閉じた。


 机の引き出しには、彩花からもらったカードがしまってある。


 今夜は取り出さなかった。


 けれど、そこにあることを思うだけで、胸の奥が温かくなった。


     ◇


 夜十時を少し過ぎた頃、彩花は明日の準備を終えていた。


 机の上には、今日考えた物語のノートが閉じられている。窓の外では風が弱まり、住宅街には静かな夜の空気が広がっていた。


 彩花はスマートフォンを手に取り、悠真とのメッセージを開いた。


 土曜日の待ち合わせは、午後一時半に青凪駅。


 その約束を見返しているうちに、ふと一つ気になることができた。


 文房具店はそれほど大きな店ではない。


 けれど、紙やノート、筆記具の種類は多く、初めて訪れる人には少し迷うかもしれない。


 悠真は何か見たいものがあるのだろうか。


 彩花は少し考え、メッセージを打った。


『悠真君、土曜日の文房具屋さんなんだけど、何か見てみたいものってある? ノートとか、ペンとか、いろいろ置いてあるんだ』


 送信してから、彩花は少しだけ緊張した。


 何でもない質問のはずなのに、悠真がどんな返事をくれるのか楽しみだった。


 しばらくして、スマートフォンが震えた。


『ありがとう。紙やカードの種類を見てみたいなと思ってるよ。あと、彩花さんが好きなものも教えてもらえたら嬉しい』


 彩花はその文章を読み、頬が少し温かくなった。


 自分が好きなもの。


 悠真は、またそう言ってくれた。


 彩花が何を選ぶのか、興味を持ってくれている。


 それが嬉しかった。


『うん! あのお店、便箋も綺麗なのがたくさんあるんだよ。私もまだ全部は見られてないから、一緒に見られたら嬉しいな』


 送信すると、悠真からすぐに返事が届いた。


『それは楽しみだね。土曜日、ゆっくり見て回ろう』


 彩花は画面を見つめ、自然に笑みを浮かべた。


 悠真が何かを選ぼうとしていることは、まだ知らない。


 自分へ贈るものを考えていることも、もちろん知らない。


 ただ、同じ店で一緒に好きなものを探せることが嬉しかった。


『うん。楽しみにしてるね。おやすみなさい、悠真君』


『おやすみ、彩花さん。また明日』


 最後の返事を読み終え、彩花はスマートフォンを机へ置いた。


 明日も学校がある。


 文芸部の部誌も、少しずつ完成へ近づいている。


 新しい物語も、まだ始まったばかりだ。


 けれど、今はそれぞれのことを焦らず大切にしていきたいと思った。


 彩花はベッドへ入り、布団を肩まで引き上げた。


 窓の外では、雲の切れ間から淡い月明かりが差し込んでいる。


 土曜日まで、あと三日。


 その時間を楽しみにしながら、彩花はゆっくり目を閉じた。


     ◇


 九条家の自室では、悠真もスマートフォンを机へ置いたところだった。


 彩花から届いたメッセージを思い返し、自然に表情が和らぐ。


 紙やカードの種類を見てみたいと伝えた。


 それは本当だった。


 押し葉を使った贈り物の参考になるものがあるかもしれないし、祖父が大切にしている絵葉書のように、長く残せるものにも興味がある。


 けれど、彩花にはまだ話していないことがある。


 自分が拾った秋の葉を、いつか彼女へ渡せたらいいと思っていること。


 そして、彼女からもらった言葉に、自分なりの形で応えたいと考えていること。


 悠真は机の上のノートへ視線を向けた。


 まだ何も決まっていない。


 けれど、それでいいと思った。


 彩花がカードを選ぶまでに、どれほど時間をかけてくれたのかは分からない。


 ただ、彼女が自分のために言葉を考え、勇気を出して渡してくれたことは知っている。


 だから、自分も急がずに考えたい。


 悠真は部屋の明かりを落とし、窓の外へ目を向けた。


 青凪市の夜空には、薄い雲の向こうから月が見えている。


 彩花は今頃、もう眠っているだろうか。


 それとも、新しい物語のことを少しだけ考えているだろうか。


 彼女がどんな物語を書いているのか、まだ詳しくは知らない。


 けれど、完成したら読ませてもらえるという約束がある。


 その日も、楽しみだった。


 悠真は静かに息をつき、ベッドへ向かった。


 彩花は新しい物語の中で、誰かへ届ける最初の一行を探している。


 悠真は自分の手元にある一枚の葉を、どんな形で大切な相手へ渡せるのか考えている。


 二人はまだ、お互いの準備を知らない。


 それでも、同じ土曜日を楽しみにしていることだけは、言葉にして確かめ合えた。


 冬へ向かう青凪市の夜は、静かに深まっていく。


 それぞれの部屋で灯りが消えたあとも、二人が交わした小さな約束は、穏やかな温かさを残していた。

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