第83話 あなたと選ぶ、小さなもの
火曜日の朝、青凪市には薄い雲が広がっていた。
水瀬彩花が自室のカーテンを開けると、住宅街の屋根の向こうに淡い朝日が見えた。昨日よりも風は弱いようだったが、窓ガラスに触れた指先には冬の近さを感じる冷たさが伝わってくる。
机の上には、昨夜まで書いていた深い青色のノートが置かれていた。銀色の星が散りばめられた表紙は、朝の光を受けると控えめに輝いて見える。
彩花は制服に着替える前に、ノートを開いた。
そこには、新しく考え始めた物語の断片がいくつも並んでいた。
遠くへ引っ越す祖母へ手紙を書こうとする女の子。普段はよく話すのに、便箋を前にすると何を書けばいいのか分からなくなってしまう主人公。そして、祖母と過ごした何気ない時間の記憶。
昨日、文芸部の佐々木先輩から助言をもらったことで、女の子が手紙を書けない理由が少し見えてきた。
けれど、まだ決められないこともある。
(……この子は、どうして最初の一通をそんなに難しく考えちゃうんだろう)
彩花は椅子へ腰を下ろし、ノートの余白に小さく丸を描いた。
祖母が遠くへ引っ越してしまうから寂しいのだろうか。それとも、今まで当たり前のように一緒にいた人へ、改めて気持ちを伝えることが恥ずかしいのだろうか。
どちらもありそうだったが、それだけでは主人公の姿がまだ曖昧だった。
彩花は少し考え、昨日書いた一文へ視線を戻した。
『手紙を書くことは、思い出を選ぶことでもある。』
その言葉を読んでいるうちに、金曜日の出来事が思い出された。
悠真へ渡した淡い青色の花柄カード。
何を書こうか何度も考え、ようやく選んだ二行の言葉。
書く前は緊張していたのに、渡したあとは不思議なほど温かい気持ちになれた。
(……私も、全部の気持ちを書けたわけじゃなかったんだよね)
あのカードに書いた言葉は、嘘ではない。
悠真が自分の好きなものを大切にしてくれることも、一緒に話す時間が好きなことも、本当だった。
けれど、図書館で初めて会った日のことや、川沿いの道を歩いたときのこと、家族の話を聞いてもらったときの安心感まで、全部を書いたわけではない。
それでも、悠真は喜んでくれた。
大切なのは、すべてを伝えきることではなく、今伝えたい言葉を自分で選ぶことなのかもしれない。
彩花はノートの余白に、新しい一文を書き加えた。
『全部を書こうとするから、最初の一行が書けない。』
書き終えると、少しだけ主人公へ近づけた気がした。
階下から朝食の準備をする音が聞こえてきたため、彩花はペンを置いてノートを閉じた。続きは放課後に考えようと思いながら、机の端に置いた鞄を持ち上げる。
そのとき、引き出しの中にしまってある、もう一枚の花柄カードが頭をよぎった。
まだ何も書いていないカード。
誰へ渡すかも決めていない。
けれど、以前のように「使う機会がなかったらどうしよう」とは思わなくなっていた。
言葉を伝えたい相手ができたとき、ゆっくり選べばいい。
彩花はそう考え、部屋を出た。
階段を下りると、食卓では姉の凛花がすでに朝食を食べ始めていた。母の紗月は温かいスープをよそい、父の耕助はテレビの天気予報へ目を向けている。
「おはよう、彩花。今日は昨日より少し暖かくなるみたいよ」
凛花が声をかけると、彩花は椅子を引きながら頷いた。
「おはよう、お姉ちゃん。でも、朝はやっぱり寒いね。窓を開けようと思ったけど、やめちゃった」
「分かるわ。私も部屋の空気を入れ替えたかったけど、少しだけにしたもの」
姉妹の会話を聞いていた紗月が、二人の前へスープを置いた。
「帰りはまた冷えるみたいだから、昨日みたいにマフラーを持っていくといいわよ」
「うん。昨日、お姉ちゃんに言われて持っていってよかった」
彩花が答えると、凛花は少し得意そうに笑った。
「でしょう? この時期は昼間だけ暖かいこともあるから、油断できないのよ」
そんな何気ない会話を交わしながら、彩花は朝食を食べ始めた。
温かいスープの湯気が立ち上り、窓の外の薄い雲を背景に、食卓には穏やかな朝の時間が流れていた。
*
青葉高校の教室では、朝から冬の予定について話す声があちこちで聞こえていた。
彩花が席へ着くと、近くの女子生徒たちが期末試験の日程について話している。文化祭が終わったばかりだと思っていたのに、もう次の行事が近づいていることに、少し驚いている様子だった。
彩花も鞄から教科書を取り出しながら、手帳に書かれた予定を確認した。
文芸部の冬の部誌は、印刷へ向けた最終確認が進んでいる。
試験の準備も始めなければならない。
新しい物語を書きたい気持ちはあるけれど、焦って進める必要はない。
(……少しずつでも、続けられたらいいな)
そんなことを考えていると、田辺大地が近づいてきた。
「水瀬、おはよう。昨日の部誌の確認、どうだった?」
「おはよう、田辺君。大きな問題はなかったよ。あとは先生にも見てもらって、印刷の予定を決めるんだって」
「おお、いよいよって感じだな。妹に言ったら、絶対喜ぶと思う」
大地は嬉しそうに笑った。
彩花もつられて笑い、昨日聞いた言葉を思い出した。
大地の妹は、文化祭で発表した『また、話したいから』を何度も読み返してくれているらしい。
そのことが、今も彩花の胸に温かく残っていた。
「田辺君、昨日はありがとう。妹さんが読んでくれてるって聞いて、本当に嬉しかった」
「いや、俺は伝えただけだし。あいつが勝手に気に入ってるんだよ」
大地は少し照れたように笑い、机の端へ手を置いた。
「でもさ、俺も思ったんだけど、同じ話を何回も読みたくなるって、結構すごいことだよな」
彩花はその言葉に目を瞬かせた。
大地は普段、難しいことを考えるよりも、目の前の出来事を素直に楽しむ印象が強い。
けれど、今の言葉には、読んでくれた人の気持ちを大切にしようとする優しさがあった。
「……うん。私も、好きな本は何回も読むよ。最初に読んだときと、少し時間が経ってから読んだときで、違うところが気になったりするんだ」
「へえ、そういうものなんだ。俺は面白かったら一気に読む方だけど、読み返すことってあんまりないかも」
「でも、映画とかでも、もう一回見たいって思うことあるでしょう?」
「あ、それなら分かる。好きな場面だけ見直したくなることあるし」
大地は納得したように頷いた。
彩花は少し考えてから続けた。
「本も似てると思う。前は気づかなかった台詞が、あとから大事に感じられることもあるし」
「なるほどな。じゃあ、妹もそういうところがあるのかもしれないな」
大地はそう言って笑った。
その表情を見ながら、彩花は少しだけ嬉しくなった。
自分の作品について、こうして気軽に話せる相手が増えた。
以前なら、作品を読んでもらうこと自体に緊張していた。
今も照れくささはあるけれど、それ以上に、誰かがどう感じたのかを知りたいと思える。
その変化を、彩花は自分でも不思議に感じていた。
始業のチャイムが鳴り、大地は自分の席へ戻っていった。
彩花は教科書を開きながら、今日の会話を心の中へそっとしまった。
*
同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が教室の窓際で森川航平と話していた。
昨日、生徒会室で資料の仕分けを終えたあと、二人は仕事の進め方について少し相談していた。
今日はその続きとして、確認の手順を簡単にまとめておこうという話になっている。
「九条、昨日のことなんだけどさ」
航平は手帳を開きながら声をかけた。
「先生に話したら、結構いい反応だったぞ。確認の手順を共有しておくのは助かるって」
「それはよかった。誰か一人しか分からない状態だと、急に予定が変わったとき困るからね」
悠真が答えると、航平は頷いた。
「そうなんだよ。俺も昨日、資料の分け方を聞いてみたら、意外と知らないことが多かったし」
二人は机の上に手帳を広げ、必要な項目を確認し始めた。
悠真は以前から生徒会の仕事を丁寧に進めてきたが、その分、自分の中だけで理解している手順もあった。
それを誰かへ説明しようとすると、思っていたより言葉が必要になる。
どの資料を先に確認するのか。
間違いがあった場合、誰へ相談するのか。
完成した書類をどこへ置くのか。
普段は自然に行っていることでも、初めて担当する人には分かりにくい。
「……こうして書き出してみると、結構あるね」
悠真が言うと、航平は苦笑した。
「だろ? お前がいつもさらっとやってるから、簡単なのかと思ってた」
「慣れてるだけかもしれないね。最初は俺も先生に何度も確認してたし」
悠真はそう答え、手帳へ項目を書き加えた。
航平はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「でも、最近のお前って、前より相談しやすくなった気がする」
「そう?」
「うん。前から話しにくかったわけじゃないけど、何でも自分でできちゃうから、こっちが口を出す必要ないかなって思うことがあったんだよ」
悠真はその言葉を聞き、少し考え込んだ。
自分では、誰かを遠ざけているつもりはなかった。
けれど、何でも一人で進めてしまうことで、周囲が入りにくくなっていた可能性はある。
「……それは、気づかなかったな」
「別に悪い意味じゃないぞ。ただ、最近はお前の方から頼んでくれることも増えたからさ」
航平は笑いながら続けた。
「俺としては、ちょっと嬉しいんだよ」
悠真はその言葉に、穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。これからも、遠慮なく言ってくれると助かるよ」
「おう。じゃあ、まずはこの確認表をちゃんと完成させようぜ」
二人はそう言って、作業へ戻った。
悠真は手帳へ目を落としながら、ふと彩花のことを思い出した。
彼女と話していると、自分の考えを言葉にする機会が増えた。
何が好きなのか。
どうしてその本を選んだのか。
何を大切にしたいのか。
彩花はいつも、急がずに聞いてくれる。
その時間が、自分にとってどれほど心地よいものなのか。
金曜日に受け取ったカードを読んでから、悠真は以前よりはっきりと意識するようになっていた。
*
昼休み、彩花は図書室の近くにある廊下を歩いていた。
授業で使う資料を探しに来たついでに、少しだけ本棚を見ていこうと思ったのだ。
青葉高校の図書室は、青凪市立中央図書館ほど大きくはないものの、窓際には落ち着いて本を読める席が並んでいる。
昼休みの時間帯は利用する生徒も多く、貸出カウンターの近くでは数人が小声で話していた。
彩花は文芸の棚へ向かい、手紙を題材にした作品がないか探し始めた。
新しい物語の参考にしたいという気持ちもあったが、それ以上に、ほかの作家が手紙をどんなふうに扱っているのか興味があった。
棚には短編集や古い小説が並び、背表紙を眺めているだけでも時間が過ぎていく。
彩花は一冊の短編集を手に取り、目次を開いた。
そこには、遠く離れた友人へ手紙を書く人物の物語が収録されていた。
(……これ、読んでみたいな)
彩花は本を抱え、近くの椅子へ腰を下ろした。
最初の数ページを読み進めると、主人公は手紙を書くことを特別な行為とは考えていなかった。
日常の出来事を気軽に書き、相手から返事が届くのを楽しみにしている。
彩花が考えている主人公とは、少し違う。
けれど、その違いが面白かった。
手紙を書くことが苦手な人もいれば、自然に書ける人もいる。
誰かへ言葉を届けるという行為は同じでも、そこに込める気持ちは人によって違うのだ。
彩花はページをめくりながら、ふと自分のことを考えた。
以前は、誰かへ気持ちを伝えることが苦手だった。
言葉にしてしまうと、相手がどう受け取るのか気になってしまう。
けれど、悠真へカードを渡したときは、怖さよりも伝えたい気持ちの方が強かった。
(……あのとき、渡してよかったな)
彩花は本を閉じ、静かに息をついた。
昼休みの終わりが近づいていたため、続きを読むのはまた今度にしようと決める。
貸出カウンターで手続きを済ませ、彩花は教室へ戻った。
鞄の中には、新しい短編集が一冊増えていた。
*
午後の授業が終わる頃、青凪市の空は少しずつ明るさを失い始めていた。
彩花は教室で帰り支度をしながら、今日の予定を確認した。
文芸部の活動はない。
宿題を終えれば、新しい物語の続きを考える時間も取れそうだった。
けれど、もう一つ気になっていることがある。
以前、悠真と一緒に文房具店へ行こうと話していた。
淡い青色の花柄カードを買った、あの小さな店。
昨日の帰り道に店先を見かけてから、また行ってみたいという気持ちが強くなっていた。
彩花は鞄を肩へ掛け、教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、窓の外では校庭の木々が風に揺れている。
階段を下りながら、彩花は少し考えた。
悠真は生徒会の仕事があるし、忙しい日も多い。
急に誘って迷惑にならないだろうか。
けれど、以前のように、相手の予定を自分だけで決めつける必要はない。
都合が合わなければ、別の日にすればいい。
(……聞いてみようかな)
彩花は校門を出てから、スマートフォンを取り出した。
少し迷ったあと、悠真へメッセージを打ち始める。
『悠真君、前に話してた文房具屋さんのことなんだけど、今度一緒に行けたら嬉しいなって思ってるの』
送信する前に、一度だけ読み返した。
言葉は少し照れくさいけれど、今の気持ちに近い。
彩花はそのまま送信した。
スマートフォンを鞄へしまうと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
けれど、不安だけではない。
返事を待つ時間にも、どこか楽しみが混じっていた。
*
桜華学園では、悠真が生徒会室で確認表の整理を終えたところだった。
今日は昨日ほど作業が多くなかったため、予定していた時間より少し早く片づけが進んだ。
航平は机の上の書類を揃え、満足そうに息をついた。
「よし、これなら次に使う人も分かりやすいと思う」
「うん。先生にも確認してもらって、必要なら直そう」
悠真が答えると、航平は頷いた。
「今日は助かった。じゃあ、俺は先に帰るな」
「お疲れさま。また明日」
二人は挨拶を交わし、悠真も鞄を持って生徒会室を出た。
廊下を歩きながらスマートフォンを確認すると、彩花からメッセージが届いていた。
文房具店へ一緒に行きたいという誘いだった。
悠真は画面を見つめ、自然に表情を和らげた。
以前、二人で話していた約束。
彩花がカードを買った店のことは、悠真も覚えている。
彼女がどんな文房具を選ぶのか、少し興味があった。
それに、文房具店なら、自分が考えている贈り物の参考になるものも見つかるかもしれない。
ただし、彩花へ渡すものについては、まだ秘密にしておきたい。
悠真は少し考え、返事を打った。
『もちろん。俺も一緒に行ってみたいと思ってたよ。今週なら、土曜日の午後はどうかな?』
送信してから、悠真は階段を下り始めた。
土曜日の午後なら、生徒会の予定も入っていない。
家族との約束も、今のところなかった。
彩花の都合が合えば、ゆっくり店を見て回れるだろう。
そんなことを考えていると、スマートフォンが小さく震えた。
『土曜日の午後、大丈夫だよ! 嬉しいな。ありがとう、悠真君』
悠真はその文章を読み、少しだけ笑った。
『こちらこそ。じゃあ、土曜日に行こう。待ち合わせの時間は、また相談しようね』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『うん。楽しみにしてるね』
悠真はスマートフォンをしまい、校舎の外へ出た。
夕方の空気は冷たかったが、足取りは自然に軽くなっていた。
*
水瀬家へ帰宅した彩花は、自室の机へ向かう前に、リビングで母へ土曜日の予定を伝えた。
「お母さん、今週の土曜日の午後、悠真君と文房具屋さんへ行くことになったの」
紗月は洗濯物を畳む手を止め、穏やかに微笑んだ。
「あら、そうなの。前に話してたお店?」
「うん。駅の近くにある、小さな文房具屋さん。前にカードを買ったところなんだけど、ほかにもいろいろ見てみたくて」
彩花が答えると、紗月は頷いた。
「いいわね。文房具って、見ているだけでも楽しいものね」
「うん。私もそう思う」
彩花は少し照れくさそうに笑った。
母はそれ以上詳しく尋ねず、洗濯物を畳む作業へ戻った。
その自然な反応が、彩花にはありがたかった。
悠真と出かけることを、特別なこととして騒がれるわけでもなく、ただ楽しみにしている予定として受け止めてもらえる。
それだけで、安心して話せる気がした。
夕食までの時間、彩花は自室へ戻り、宿題を進めた。
机の上には、今日借りてきた短編集と、深い青色のノートが並んでいる。
勉強を終えたら、少しだけ続きを読みたい。
そして、新しい物語の主人公についても考えたい。
彩花はそんな予定を思い浮かべながら、教科書を開いた。
*
九条家では、悠真が帰宅すると、玄関の近くでハクが尻尾を振って迎えてくれた。
白い毛並みのサモエドは、悠真の姿を見つけると嬉しそうに近づき、足元で小さく身体を揺らした。
「ただいま、ハク」
悠真はしゃがみ込み、ハクの頭を優しく撫でた。
ハクは満足そうに目を細め、しばらくその場を離れようとしなかった。
廊下の奥から琴葉が顔を出した。
「あ、お兄ちゃん。おかえり」
「ただいま。琴葉ももう帰ってたんだね」
「うん。今日は図書委員の仕事、早く終わったから」
琴葉はそう答え、兄の表情を見て少し首を傾げた。
「……何かいいことあった?」
悠真は少し驚いたように顔を上げた。
「どうして?」
「なんとなく。帰ってきたときから、ちょっと嬉しそうだったから」
琴葉は楽しそうに笑った。
悠真はハクの背中を撫でながら、少し考えた。
彩花から文房具店へ誘われたことは、隠す必要のある話ではない。
ただ、贈り物についてはまだ何も決まっていないため、今は話さないでおこうと思った。
「土曜日に、彩花さんと文房具店へ行くことになったんだ」
悠真が答えると、琴葉の表情が明るくなった。
「へえ、いいな。彩花さん、文房具も好きだもんね」
「うん。前から一緒に行こうって話してたんだ」
琴葉は頷き、少し考えたあとで言った。
「お兄ちゃん、きっと楽しいと思うよ。彩花さんって、本を選ぶときもそうだけど、好きなものを見てるとすごく嬉しそうになるから」
悠真はその言葉に、静かに微笑んだ。
「そうだね。俺も、彩花さんが何を選ぶのか楽しみだよ」
琴葉は兄の返事を聞き、少しだけ目を細めた。
以前の悠真なら、文房具店へ行くことをこんなに楽しそうに話しただろうか。
もちろん、兄は昔から誰かの話を丁寧に聞く人だった。
けれど最近は、彩花と過ごす時間について話すとき、声が少し柔らかくなる。
琴葉はその変化を微笑ましく思いながら、ハクへ視線を向けた。
「ハクもお兄ちゃんが楽しそうだと嬉しいのかな」
そう言って笑うと、ハクは名前を呼ばれたことが嬉しかったのか、尻尾を大きく振った。
悠真もつられて笑い、もう一度ハクの頭を撫でた。
*
夕食後、彩花は自室で新しい物語の続きを考えていた。
今日、学校の図書室で借りた短編集を少し読み進めたあと、深い青色のノートを開く。
主人公の女の子は、祖母へ手紙を書こうとしている。
けれど、何を書けばいいのか分からない。
彩花はその理由を、もう一度考えた。
祖母と過ごした時間が大切だからこそ、適当な言葉で終わらせたくない。
けれど、綺麗に書こうとするほど、いつもの自分らしい言葉が出てこなくなる。
そんな女の子なら、どうやって最初の一行を書けるようになるのだろう。
彩花はペンを持ち、ノートへ新しい場面を書き始めた。
主人公は、何度も便箋を書き直したあと、机の引き出しから古い写真を見つける。
そこには、祖母と一緒に庭で花を植えた日の姿が写っている。
写真を見た瞬間、女の子はその日のことを思い出す。
土で汚れた手。
祖母が笑いながら差し出してくれたタオル。
植えた花が咲くのを楽しみにしていたこと。
そして、祖母が何気なく言った言葉。
『来年も、一緒に見られるといいね。』
彩花はそこまで書いて、ペンを止めた。
この言葉は、少し寂しすぎるだろうか。
祖母が遠くへ引っ越すことを考えると、読者が別れを強く意識してしまうかもしれない。
けれど、物語の中心に置きたいのは、悲しい別れではない。
離れていても、思い出や言葉を通してつながっていられることだ。
(……だったら、この言葉は少し変えた方がいいかな)
彩花は文章を読み返し、別の言い方を考えた。
祖母が花を植えながら、来年も咲くといいねと笑う。
その言葉を、女の子はずっと覚えている。
遠くへ引っ越しても、庭の花が咲いたら写真を送れる。
そう考えると、別れの場面にも少し明るい未来が見える気がした。
彩花はノートへ書き加えた。
『来年、花が咲いたら写真を送る。』
その一文を見つめているうちに、主人公が最初の手紙へ何を書くのか、少しだけ分かった気がした。
全部の思い出を並べる必要はない。
まずは、あの日一緒に植えた花のことを書けばいい。
そこから、少しずつ言葉が続いていくかもしれない。
彩花は小さく笑い、ノートを閉じた。
まだ物語は完成していない。
けれど、今日も少しだけ前へ進めた。
それが嬉しかった。
*
同じ頃、悠真は自室の机で押し葉の保存方法について調べていた。
机の上には、以前川沿いで拾った一枚の葉が、紙に挟まれた状態で置かれている。
色は少し落ち着いてきたものの、形は綺麗に残っていた。
悠真は葉を直接触らないようにしながら、状態を確かめた。
琴葉が図書室で聞いてきてくれた話では、紙や植物を長く保存するには、それぞれに合った方法があるらしい。
見た目が綺麗だからといって、何でも透明なケースへ入れればいいわけではない。
悠真はそのことを考え、ノートへ候補を書き出していた。
栞にする。
小さな額へ入れる。
台紙へ固定して保管する。
どれも魅力的だが、葉を傷めずに残せるかどうかは、まだ分からない。
(……土曜日に、何か参考になるものが見つかるといいな)
悠真はそう考えた。
文房具店には、紙や封筒だけでなく、透明な袋や台紙、小さな飾り用の材料もあるかもしれない。
もちろん、実際に見てみなければ分からない。
それでも、彩花と一緒に店を回ること自体が楽しみだった。
悠真はノートを閉じ、引き出しへしまった。
その隣には、金曜日に受け取った淡い青色の花柄カードがある。
彩花が自分へ届けてくれた言葉。
何度読み返しても、胸の奥が温かくなる。
悠真はカードを取り出し、もう一度だけ眺めた。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
その二行を読み終え、悠真は静かに息をついた。
自分も、彩花と話す時間が好きだ。
彼女が本について楽しそうに話す姿も、物語を考えているときの真剣な表情も、何かを選ぶときに少し迷ってしまうところも。
その一つ一つが、今の悠真にとって大切なものになっていた。
けれど、それをどんな言葉で伝えればいいのかは、まだ分からない。
だからこそ、急いで答えを出す必要はないと思った。
彩花が自分の言葉を選んでくれたように、自分も時間をかけて考えたい。
悠真はカードを封筒へ戻し、丁寧に引き出しへしまった。
*
夜が更ける頃、彩花は寝る前にスマートフォンを確認した。
悠真から、土曜日の待ち合わせについてメッセージが届いていた。
『土曜日、午後一時半くらいに青凪駅で待ち合わせるのはどうかな?』
彩花は画面を見つめ、少し考えた。
午後一時半なら、昼食を済ませてからゆっくり出かけられる。
文房具店を見る時間も十分にありそうだった。
『うん、大丈夫だよ。午後一時半に青凪駅だね』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『ありがとう。じゃあ、土曜日に会えるのを楽しみにしてる』
彩花はその文章を読み、自然に笑みを浮かべた。
『私も楽しみにしてるね。おやすみなさい、悠真君』
『おやすみ、彩花さん』
短いやり取りを終え、彩花はスマートフォンを机へ置いた。
土曜日の予定が決まった。
ただ文房具店へ行くだけなのに、こんなに楽しみになるのは不思議だった。
けれど、彩花はその理由を深く考えようとはしなかった。
悠真と一緒に過ごす時間が好きだ。
それだけは、もう自分の言葉で伝えられている。
彩花はベッドへ入り、布団を肩まで引き上げた。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしている。
明日も学校があり、勉強も部活動も続いていく。
新しい物語も、少しずつ形になっていくだろう。
そして、週末には悠真と一緒に文房具店へ行く。
その予定を思い浮かべながら、彩花はゆっくり目を閉じた。
*
九条家の自室では、悠真も明日の準備を終えていた。
机の上には、押し葉の保存について書き出したノートが置かれている。
まだ決められないことは多い。
けれど、土曜日に彩花と文房具店へ行く約束ができたことで、少しだけ楽しみが増えた。
悠真は窓の外へ目を向けた。
青凪市の夜空には薄い雲が広がり、遠くの街灯が静かに輝いている。
彩花は今頃、何をしているだろう。
新しい物語の続きを考えているかもしれない。
それとも、もう眠る準備をしているだろうか。
そんなことを考えているうちに、悠真の口元が自然に緩んだ。
彼女がどんな物語を書いているのか、まだ詳しくは知らない。
けれど、楽しそうに考えていることは、昨日のメッセージから伝わってきた。
完成したら、ぜひ読ませてもらいたい。
そして、自分が考えている小さな贈り物も、いつか彼女へ渡せたらいい。
悠真はそう思い、机の明かりを消した。
まだ名前のない物語と、まだ形になっていない贈り物。
その二つは、互いに知らないところで少しずつ育っている。
けれど、土曜日には同じ文房具店で、二人が並んで何かを選ぶ時間が待っていた。
冬へ向かう青凪市の夜は静かに深まり、二人の小さな約束を、柔らかな月明かりがそっと包んでいた。




