第82話 月曜日の放課後、まだ知らない楽しみ
月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には冬を思わせる白い空が広がっていた。
昨日は雨上がりの日差しが心地よかったものの、一晩のうちに空気はさらに冷え込んだらしく、カーテンを開けると窓ガラスの下の方が薄く曇っていた。住宅街の向こうでは通勤する車が静かに行き交い、道端の木々は残り少なくなった葉を風に揺らしている。
彩花は両手を軽く擦り合わせてから制服へ着替え、机の上に置いた深い青色のノートを手に取った。
昨夜、眠る前に書き加えた文章が気になっていた。
『何を伝えたいのか分からないのではなく、伝えたいことが多すぎる。』
自分で書いた言葉なのに、朝になって読み返すと、少し違った意味を持っているように感じられる。
主人公の女の子は、祖母へ何を書けばいいのか分からないのではない。幼い頃から積み重ねてきた思い出がたくさんありすぎて、どれか一つを選ぶことができないのだ。
(……それなら、最初から上手に書けなくてもいいよね)
彩花はノートの余白へ、小さく書き加えた。
『一通目は、途中で書けなくなる。』
そこまで書いたところで、階下から母の紗月が朝食の準備をする音が聞こえてきた。
彩花はペンを置き、ノートを閉じた。物語の続きは学校から帰ってからでも考えられるし、今朝は授業の準備も残っている。
机の端には、以前買った淡い青色の花柄カードが一枚だけ残されていた。
金曜日に悠真へ渡したものと同じ柄だが、こちらにはまだ何も書いていない。昨日は母や姉、文芸部の先輩など、誰かへ感謝を伝えるために使ってもいいと思ったものの、渡す相手は決められなかった。
彩花はそのカードを引き出しへしまい、鞄を持って部屋を出た。
廊下へ出ると、ちょうど隣の部屋から凛花が出てきたところだった。
「おはよう、彩花。今日は少し寒いわね」
「おはよう、お姉ちゃん。窓を開けたら、思ってたより冷たくてびっくりしちゃった」
凛花は妹の制服姿を見て、首元へ視線を向けた。
「マフラーは持っていく? 帰りはもっと冷えるかもしれないわよ」
「あ、そうだね。まだ大丈夫かなって思ってたけど、持っていこうかな」
「鞄に入れておくだけでも違うと思うわ」
彩花は頷き、部屋へ戻って薄い色のマフラーを取り出した。
こういう小さな季節の変化を、姉はいつもよく見ている。けれど最近は、彩花自身も帰り道の寒さや空の色を以前より意識するようになっていた。
季節が変われば、同じ場所でも見える景色が変わる。
図書館へ続く道も、川沿いの散歩道も、夏と秋ではまったく違う表情を見せていた。
(冬になったら、あの道はどんなふうになるんだろう)
そんなことを考えながら、彩花は姉と一緒に階段を下りた。
食卓には温かいスープと焼いたパンが並び、父の耕助が新聞を畳んでいるところだった。紗月は二人が席へ着くのを待ってから、湯気の立つ皿をそれぞれの前へ置いた。
「今日は二人とも帰りが遅くなるの?」
母に尋ねられ、彩花は予定を思い返した。
「私は文芸部があるから、いつもより少し遅いと思う。冬の部誌のことで、佐々木先輩から確認したいことがあるって連絡が来てたの」
「そうなの。もう完成が近いのね」
「うん。私のお話は校正が終わってるんだけど、部誌全体の確認がまだあるみたい」
彩花が答えると、凛花が興味深そうに顔を上げた。
「印刷されたら、私にも見せてくれる?」
「もちろん。まだいつ配れるかは決まってないけど、完成したら持って帰るね」
凛花は嬉しそうに微笑んだ。
「楽しみにしてるわ。前に話してくれた写真立てのお話でしょう?」
「うん。少し直したところもあるから、読んでもらえたら嬉しいな」
彩花はそう言ってから、スープを一口飲んだ。
温かさが身体へ広がり、窓の外の寒さが少し遠く感じられる。
自分の作品を家族に読んでもらうことは、まだ少し照れくさい。
けれど、今はその照れくささよりも、読んでもらえることへの楽しみの方が大きくなっていた。
*
青葉高校へ向かう道では、登校する生徒たちがそれぞれの制服の上に上着を羽織り、白い息を吐きながら歩いていた。
彩花が校門を通る頃には雲の切れ間から日差しが覗き始めていたが、風の冷たさは変わらない。校庭の隅にある木々はすっかり葉を減らし、落ち葉を集めた袋が用務員室の近くに並んでいた。
教室へ入ると、窓際の席では何人かの生徒が週末の出来事を話していた。
彩花が自分の席へ鞄を置いたところで、田辺大地が声をかけてきた。
「水瀬、おはよう。今日、文芸部あるんだっけ?」
「おはよう、田辺君。うん、放課後に集まる予定だよ」
「そっか。じゃあ、冬の部誌ってもうすぐできるの?」
大地は机の横へ立ち、興味深そうに尋ねた。
文化祭のときに彩花の作品を読んだ妹が、冬にも新しい話が出るのか気にしていたらしい。
「まだ印刷の日は決まってないけど、準備は進んでるよ。完成したら教えるね」
「助かる。妹がこの前の話、また読んでたんだよ。今度のも読みたいって言っててさ」
彩花は驚いて顔を上げた。
「本当? 前の作品、まだ読んでくれてるの?」
「うん。俺が机の上に置いといたら、勝手に持ってってた。返してって言ったら、あと一回読むから待ってって」
大地は少し呆れたように笑ったが、その声には妹への親しみが滲んでいた。
彩花もつられて笑い、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
文化祭で発表した『また、話したいから』は、自分なりに一生懸命書いた作品だった。けれど、発表から時間が経ったあとも誰かが読み返してくれているとは、考えていなかった。
「……嬉しいな。田辺君、妹さんにありがとうって伝えてくれる?」
「もちろん。たぶん喜ぶと思うよ。あいつ、本の話になると結構しゃべるから」
大地はそう答え、少し考えてから付け加えた。
「でも、無理して急いで作らなくていいからな。楽しみにしてるって言ったら、プレッシャーになるかもしれないし」
彩花はその気遣いに目を瞬かせた。
大地は普段、明るくて食べ物の話をしていることが多い。けれど、相手が気にしそうなことを、意外なほどよく見ているときがある。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。もうお話は完成してるから」
「ならよかった。じゃあ、完成したら俺も読むよ」
大地は笑顔で手を振り、自分の席へ戻っていった。
彩花は教科書を机へ並べながら、先ほどの会話を思い返した。
誰かが楽しみにしてくれる。
そのことが嬉しいのは、悠真に限ったことではない。
家族も、文芸部の仲間も、文化祭で読んでくれた人も、自分が書いたものを受け取ってくれる。
それぞれの反応は違うけれど、どれも大切だった。
(……冬の部誌、ちゃんと完成するといいな)
彩花はそんな願いを胸に、始業の準備を整えた。
*
同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が教室の窓際で森川航平と話していた。
桜華学園の校舎は大きな窓から朝日が入り、磨かれた廊下には柔らかな光が落ちている。中庭の木々は冬支度を始めていたが、手入れされた植え込みにはまだ緑が残り、登校してくる生徒たちの足音が静かな校舎へ広がっていた。
「九条、今日の放課後なんだけど、生徒会室に少し早く来られるか?」
航平は手にした予定表を見ながら尋ねた。
「うん。何か確認することがある?」
「来週使う資料の仕分けが少し残ってるんだ。先週のうちに終わらせるつもりだったんだけど、先生から追加が来てさ」
悠真は予定を確認してから頷いた。
「分かった。授業が終わったら、そのまま生徒会室へ行くよ」
「助かる。お前がいると確認が早いんだよな」
航平はそう言いながら、予定表を閉じた。
悠真は小さく笑った。
「みんなで分担すれば、そんなに時間はかからないと思うよ」
「まあ、そうなんだけどさ。最近のお前、前より時間の使い方が上手くなった気がする」
思いがけない言葉に、悠真は少し首を傾げた。
「そうかな?」
「そうだよ。前は頼まれたこと、だいたい全部引き受けてただろ。でも最近は、予定があるときはちゃんと断るし、別の日にできることは調整するようになった」
悠真は少し考えた。
以前の自分は、生徒会の仕事を頼まれると、できるだけその場で引き受けようとしていた。
責任を持って取り組みたいという気持ちが強かったし、誰かの負担を減らせるなら、それが一番いいと思っていたからだ。
けれど最近は、彩花と会う約束や家族との時間も大切にしたいと考えるようになった。
そのためには、何でも一人で抱え込むのではなく、周囲と相談して予定を組む必要がある。
「……そう言われると、少し変わったかもしれないね」
悠真が答えると、航平は満足そうに頷いた。
「いい変化だと思うぞ。お前が全部やろうとすると、俺たちが仕事覚えられないしな」
「それは、ちょっと考えたことがなかった」
「だろ? 頼ってくれた方が助かることもあるんだよ」
航平は軽く笑い、教室の時計へ目を向けた。
授業開始までは、まだ少し時間がある。
「そういえば、金曜日の約束はどうだった?」
何気ない口調だったが、悠真はその質問に少しだけ表情を和らげた。
「楽しかったよ。彩花さんと、いろいろ話せた」
「そっか。それならよかったな」
航平は友人の顔を見て、それ以上詳しく尋ねるのをやめた。
悠真はもともと穏やかな性格だが、最近は水瀬彩花の話題になると、笑い方が少し違う。
大きく表情を変えるわけではない。
ただ、声が柔らかくなり、何かを思い出すように目元が緩む。
航平はその変化を面白く思っていたが、わざわざ指摘して困らせるつもりはなかった。
「じゃあ、今日の放課後はよろしくな」
「うん。こちらこそ」
二人はそう言って、それぞれ授業の準備へ戻った。
悠真は教科書を開きながら、金曜日に受け取ったカードを思い出した。
彩花が選んでくれた二行の言葉は、今も机の引き出しへ大切にしまってある。
そのことを考えると、胸の奥に静かな温かさが広がった。
*
青葉高校の昼休み、彩花は教室の自分の席で弁当を食べ終え、窓の外を眺めていた。
午前中は雲が多かったものの、昼頃には空が明るくなり、校庭には淡い日差しが広がっている。風に舞う落ち葉を見ていると、以前悠真と歩いた川沿いの道が自然に思い出された。
あの日持ち帰った二枚の葉は、今も自室で紙に挟んである。
乾燥が進み、少しずつ色が落ち着いてきたが、形は綺麗に残っていた。
彩花はそれをどうするか、まだ決めていない。
栞にしてもいいし、小さな箱へしまっておいてもいい。
ただ、あの日の景色を思い出せるものとして、できれば長く残しておきたかった。
(……今度、保存の仕方を調べてみようかな)
そんなことを考えていると、隣の席の女子生徒が声をかけてきた。
「水瀬さん、今日の文芸部って何するの?」
彩花は顔を上げた。
「冬の部誌の確認だよ。目次とか、作品の順番とか、印刷する前にもう一度見るみたい」
「へえ、もうそんな時期なんだ。文化祭が終わったばっかりだと思ってたのに、早いね」
「本当だね。私も、もう十一月の半ばなんだってびっくりしてる」
彩花は笑いながら答えた。
文化祭の準備をしていた頃は、まだ秋の始まりだった。
教室の窓を開ければ暖かな風が入り、放課後も明るい時間が長かった。
それが今では、部活動を終えて帰る頃には外が薄暗くなり始める。
時間は思っているより早く進んでいる。
けれど、その間に自分の中で変わったことも、確かにある。
彩花は机の端へ置いた文庫本を手に取り、表紙を眺めた。
図書館で借りた、古い商店街の文房具店を舞台にした小説。
まだ返却日には余裕があるが、そろそろ読み返したい場面も決まっていた。
物語の終盤、主人公が誰かのために便箋を選ぶ場面だ。
初めて読んだときは、紙の色や手触りを選ぶ時間が素敵だと思った。
けれど今は、その人が何を伝えたいのか考えながら選ぶことに、別の意味を感じている。
彩花は本を鞄へしまい、午後の授業に備えた。
*
放課後の文芸部室には、いつもより少し多くの紙が机の上へ広げられていた。
窓際の机には部誌の仮目次が置かれ、その隣には作品ごとの校正済み原稿が積まれている。暖房はついていたものの、窓に近い席では外の冷たさが微かに感じられ、部員たちは上着を椅子の背へ掛けながら作業の準備をしていた。
「みんな、集まったかな」
部長の佐々木先輩が声をかけると、部員たちはそれぞれ顔を上げた。
「今日は、冬の部誌を印刷に回す前の確認を進めます。作品そのものの校正はほとんど終わっているけど、目次やページの順番、作者名の表記に間違いがないかを見てほしいの」
先輩はそう説明し、仮の紙束を机の中央へ置いた。
彩花は自分の前へ回ってきた資料を受け取り、ゆっくりページをめくった。
表紙はまだ最終決定ではないが、以前話し合った灰色を基調とする案が使われている。
小さな窓の向こうに冬空と葉を落とした枝が見える構図で、派手さはないものの、静かな季節の雰囲気が伝わってくる。
「この表紙、前より少し明るくなりましたね」
彩花がそう言うと、佐々木先輩が頷いた。
「そうなの。最初の案だと印刷したときに暗くなりすぎるかもしれないから、少し調整してもらったの。水瀬さんはどう思う?」
「私は、こっちの方が好きです。窓の外の空がちゃんと見えるし、冬の静かな感じも残ってると思います」
彩花は表紙を見つめながら答えた。
先輩はその意見を聞き、仮目次の横へ小さく印をつけた。
「ありがとう。ほかのみんなの意見も聞いてから決めるね」
部員たちはそれぞれ表紙を見比べ、色の濃さや文字の位置について意見を交わした。
彩花はその様子を見ながら、以前より自然に話し合いへ参加できていることに気づいた。
最初の頃は、先輩たちの意見を聞くだけで精一杯だった。
自分の考えが間違っていたらどうしようと気になり、何か思いついても口にするまでに時間がかかった。
けれど今は、違う意見が出ても、それが作品を良くするためのものだと分かっている。
自分の考えを伝えることと、相手の考えを否定することは同じではない。
そのことを、部活動の中で少しずつ学んできた。
やがて話し合いは目次の確認へ移った。
彩花の『いつか、ここに』は、短い詩のあとに掲載される予定になっている。
仮のページをめくると、詩の余韻を残したあとで、写真立てを作る少年の物語が始まる構成になっていた。
彩花はその並びを見て、静かに頷いた。
「水瀬さんの作品、ここで大丈夫そう?」
佐々木先輩に尋ねられ、彩花は顔を上げた。
「はい。前の詩を読んだあとに続く感じが、私は好きです」
「よかった。作品の雰囲気が近すぎても単調になるし、離れすぎても読みにくいから、順番って意外と難しいのよね」
先輩はそう言って、ページを一枚めくった。
「それから、作者名の表記も確認してね。印刷してから間違いに気づくと直せないから」
彩花は自分の名前が正しく印刷されていることを確かめ、ほかの部員の作品も順番に確認した。
作業は地味だったが、一冊の本を作るためには必要な時間なのだと思えた。
誰かが書いた文章を集めるだけでは、部誌は完成しない。
読む人が迷わないように並べ、間違いがないか確かめ、表紙から最後のページまで一つの形に整えていく。
その工程を知るほど、完成した本を手に取ることが楽しみになっていった。
*
桜華学園の生徒会室では、悠真たちが資料の仕分けを進めていた。
長机の上には配布用の書類が種類ごとに並べられ、航平が確認表を見ながら枚数を数えている。窓の外では中庭の木々が夕方の光を受け、校舎の影が少しずつ長く伸びていた。
「九条、こっちの束、確認終わった」
航平が声をかけると、悠真は手元の資料から顔を上げた。
「ありがとう。じゃあ、次は先生へ提出する分と、各クラスへ回す分を分けようか」
「了解。俺はクラス用をやるから、お前は提出用をお願い」
二人は作業を分担し、机の上の紙束を整理し始めた。
追加資料が届いたことで予定より少し時間がかかっていたが、作業そのものは順調だった。
悠真は書類の内容を確認しながら、以前の自分なら一人で進めようとしていたかもしれないと思った。
もちろん、仕事を丁寧に進めることは大切だ。
けれど、誰かと協力することで早く終わるなら、その方がいい。
航平は枚数を数え終えると、確認表へ印をつけた。
「よし、こっちは終わり。九条の方は?」
「あと少し。これを確認したら、まとめて先生へ持っていけると思う」
悠真が答えると、航平は近くの椅子へ腰を下ろした。
「最近さ、生徒会の仕事って、何でも一人でできるようになるのが一番いいわけじゃないんだなって思うんだよ」
その言葉に、悠真は顔を上げた。
「どうして?」
「だって、誰かが休んだら止まる仕事って困るだろ。九条がいないと分からないことが多いのも、よく考えたら問題だし」
航平は少し照れくさそうに笑った。
「俺も、もっと覚えないとなって思ってる」
悠真はその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「それなら、次からは確認の手順も一緒に整理しようか。俺が分かってることでも、ほかの人には伝わってないことがあるかもしれないし」
「それ、いいな。先生にも相談してみよう」
航平は頷き、机の上の確認表を手に取った。
悠真は作業へ戻りながら、友人の言葉を考えていた。
頼られることは嬉しい。
けれど、頼られることと、何でも自分だけで抱えることは違う。
最近、彩花と過ごす時間を大切にしたいと思うようになってから、そんな当たり前のことを改めて考えるようになった。
誰かと会う約束があるから仕事をおろそかにするのではなく、どちらも大切にできるように工夫する。
それは、今の自分に必要な変化なのかもしれない。
*
文芸部の作業が一段落した頃、窓の外はすでに夕方の色へ変わり始めていた。
彩花は仮目次を机へ戻し、佐々木先輩の説明を聞いていた。
「今日の確認で大きな問題はなさそうだから、あとは先生にも見てもらって、印刷の予定を決めることになると思います。まだ配布日は確定していないけど、冬休みに入る前には完成させたいね」
部員たちが頷く中、彩花も静かに息をついた。
ようやく、完成が近づいている実感が湧いてきた。
原稿を書いていたときは、目の前の文章を整えることだけで精一杯だった。
けれど今は、その文章が一冊の部誌の中へ収まり、誰かの手へ渡るところまで想像できる。
「水瀬さん、少しいい?」
片づけを始めたところで、佐々木先輩が声をかけてきた。
「はい。どうしましたか?」
「この前、水瀬さんが言ってた、次に書いてみたいもののことなんだけど。何か考え始めてる?」
彩花は少し驚いた。
以前、次の作品についてまだ決まっていないと話したことはあったが、先輩が覚えていてくれたとは思っていなかった。
「実は、昨日から少しだけ考えてるんです。まだ人物設定をメモしてるくらいなんですけど」
「そうなの。どんなお話?」
佐々木先輩は興味深そうに尋ねた。
彩花は鞄の持ち手へ指を添えながら、少し考えて答えた。
「手紙を書くのが苦手な女の子のお話です。普段はよく話す子なんですけど、大切な人へ手紙を書こうとすると、伝えたいことが多すぎて何も書けなくなってしまうんです」
先輩は静かに頷いた。
「なるほど。面白そうね。どうして手紙を書こうとしてるの?」
「今のところ、遠くへ引っ越すおばあちゃんへ書こうかなって考えてます。でも、まだ決めたわけじゃなくて……」
彩花は少し照れくさそうに笑った。
「書きながら変わるかもしれません」
「それでいいと思うわ。最初から全部決まってる作品ばかりじゃないもの」
佐々木先輩は机の上の原稿を揃えながら、穏やかに続けた。
「ただ、一つだけ気になったことがあるの。水瀬さんの主人公は、手紙を書くのが苦手なのよね?」
「はい」
「だったら、書けないことそのものにも、その子らしさが出るかもしれないね。何度も同じ言葉を書いてしまうとか、綺麗に書こうとしてかえって不自然になるとか」
彩花はその言葉を聞き、目を瞬かせた。
主人公が手紙を書けない理由については考えていた。
けれど、実際にどう書けなくなるのかまでは、まだ想像できていなかった。
「……そうですね。書けないっていうだけじゃなくて、どうして書けなくなるのかも、その子によって違いますよね」
「うん。そこが見えてくると、主人公のことをもっと好きになれるかもしれない」
先輩はそう言って微笑んだ。
彩花は小さく頷き、忘れないように手帳へメモした。
物語を書くとき、人物の気持ちを考えることは大切だ。
けれど、その気持ちがどんな行動になるのかまで考えると、もっとその人物らしくなる。
彩花は先輩の助言を聞きながら、新しい物語の中で女の子が机へ向かっている姿を想像した。
便箋を前にして、何度もペンを持ち直す。
最初の一行を書いては消し、ようやく書けた文章も、読み返すと何だか違う気がしてしまう。
それでも、諦めずに書こうとする。
(……その時間を、ちゃんと書いてみたいな)
彩花はそう思い、手帳を閉じた。
「ありがとうございます、先輩。少し考えてみます」
「うん。急がなくていいからね。今は冬の部誌が完成するところだし、次の作品は楽しみながら書いてほしいな」
佐々木先輩はそう言って、片づけを再開した。
彩花も机の上の資料を揃え、部室を出る準備を始めた。
*
桜華学園では、生徒会の仕事を終えた悠真が廊下を歩いていた。
窓の外は夕暮れの色へ変わり、中庭の木々の間には長い影が落ちている。廊下には部活動を終えた生徒たちの声が遠くから聞こえ、昼間の賑やかさが少しずつ薄れていた。
悠真は鞄を持ち直し、階段へ向かった。
途中、図書室の近くを通りかかったところで、見覚えのある姿が目に入った。
「琴葉」
声をかけると、妹が振り返った。
琴葉は図書委員会の作業を終えたところらしく、手には小さなファイルを抱えている。
「あ、お兄ちゃん。生徒会、終わったの?」
「うん。今から帰るところ。琴葉も?」
「そう。今日は推薦展示の確認があったんだ」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
琴葉は少し考えたあと、声を落とした。
「そういえば、昨日話してた保護ケースのこと、見てきたよ」
悠真は顔を向けた。
「ありがとう。どうだった?」
「推薦カードを入れてるのは、普通の透明なケースだった。でも、押し葉を長く保存するのに向いてるかは分からないから、あれをそのまま使うのはやめた方がいいと思う」
琴葉はファイルの端を指先で押さえながら説明した。
「図書室の先生にも、古い紙を保存する方法はいろいろあるって聞いたんだけど、葉っぱの場合はまた違うかもしれないって」
悠真は頷いた。
「そっか。じゃあ、もう少し調べてみるよ」
「うん。あとね、先生が資料の保存について書かれた本なら図書室にもあるかもしれないって言ってた」
「それは助かるね。今度、探してみようかな」
琴葉は兄の反応を見て、嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん、やっぱり真剣だね」
「大切なものだからね」
悠真が自然に答えると、琴葉は少しだけ目を細めた。
兄が何をもらったのか、詳しいことは知らない。
けれど、何かを大切に受け取ったことだけは、昨日の話から分かっていた。
そして、その気持ちを別の形で返そうとしていることも。
「……彩花さん、きっと喜ぶと思うな」
琴葉がそう言うと、悠真は少し照れたように笑った。
「まだ何もできてないけどね」
「だからこそ、楽しみなんじゃない?」
琴葉はそう答え、階段の方へ視線を向けた。
悠真は妹の言葉を聞きながら、静かに頷いた。
まだ完成していない贈り物。
けれど、少しずつ考える時間そのものが楽しくなっている。
それは、彩花が新しい物語を考えていることと、どこか似ている気がした。
*
青葉高校を出た彩花は、駅へ向かう道を歩きながらマフラーを首へ巻いた。
朝、凛花に勧められて持ってきてよかったと思うほど、夕方の風は冷たくなっている。商店街の店先には温かそうな色の灯りがともり始め、道を歩く人たちも肩をすくめながら足早に帰路を急いでいた。
彩花は鞄の中からスマートフォンを取り出し、悠真へメッセージを送った。
『今日、冬の部誌の確認があったよ。もう少しで印刷の予定が決まりそうなの』
送信してから、彩花はスマートフォンをしまった。
すぐに返事が来なくても構わない。
悠真も今日は生徒会の仕事があると言っていたし、帰宅してから落ち着いて読んでくれれば十分だった。
彩花は駅へ向かう途中、文房具店のある通りへ目を向けた。
以前、淡い青色の花柄カードを買った店だ。
今日は立ち寄る予定はなかったが、店先の窓には新しい便箋や封筒が並んでいるのが見えた。
冬らしい落ち着いた色のものや、小さな雪の結晶が描かれたものもある。
彩花は少しだけ足を緩めた。
(……今度、また見に来たいな)
悠真と一緒に来る約束もしている。
そのときは、カードだけでなく、便箋や小さなノートもゆっくり見てみたい。
彩花はそんなことを考えながら、再び駅へ向かって歩き始めた。
*
夕食を終えた水瀬家では、彩花が自室の机へ向かっていた。
学校から持ち帰った文芸部の資料を鞄から取り出し、明日の授業で使う教科書を並べる。机の端には深い青色のノートが置かれており、今日の部活動で先輩から聞いたことを早く書き留めたいと思っていた。
彩花は宿題を終えてから、ノートを開いた。
主人公の女の子は、手紙を書こうとする。
けれど、何度書いても上手くいかない。
そこまでは決まっている。
彩花は今日、佐々木先輩から言われたことを思い返した。
書けないことにも、その子らしさが出る。
それなら、主人公はどんなふうに書けなくなるのだろう。
彩花はペンを持ち、少し考えた。
普段はよく話す子だから、最初は簡単に書けると思っているかもしれない。
机へ向かい、便箋を広げ、いつものように祖母へ話しかけるつもりで書き始める。
けれど、いざ文章にすると、いつもの言葉が少し違って見える。
『おばあちゃんへ』
そこまでは書ける。
その次に何を書けばいいのか、分からなくなる。
彩花はその場面を想像しながら、ノートへ短い文章を書き始めた。
まだ正式な本文ではない。
主人公の名前も決まっていないし、舞台となる町も曖昧なままだ。
けれど、女の子が便箋を前にして困っている姿だけは、少しずつ見えてきた。
彩花は書きかけの文章を読み返し、首を傾げた。
何かが足りない。
祖母との思い出がまだ十分に見えていないから、女の子が何を伝えたいのかも曖昧なのだ。
(……先に、二人がどんな時間を過ごしてきたのか考えた方がいいのかな)
彩花は新しいページを開き、祖母と孫の思い出を書き出し始めた。
庭で花を育てたこと。
雨の日に一緒に本を読んだこと。
夏の夕方、縁側で冷たい麦茶を飲んだこと。
冬には、祖母が古い毛布を膝へ掛けてくれたこと。
どれも特別な事件ではない。
けれど、何年も積み重なれば、その子にとって大切な記憶になる。
彩花は書きながら、少しだけ笑った。
物語の中の祖母と孫が、ようやく自分の中で動き始めた気がした。
そのとき、机の上のスマートフォンが小さく震えた。
悠真からの返事だった。
『部誌、もうすぐなんだね。完成したらぜひ読ませてほしいな』
彩花は嬉しくなり、すぐに返事を打った。
『もちろん。印刷されたら、悠真君にも見てもらいたいな』
少し待つと、悠真から続けてメッセージが届いた。
『楽しみにしてる。前に読ませてもらったときから、完成した形を見るのが待ち遠しかったんだ』
彩花は画面を見つめた。
悠真はすでに『いつか、ここに』の原稿を読んでいる。
感想も聞かせてもらったし、校正前の文章について話したこともある。
それでも、印刷された部誌を楽しみにしてくれている。
彩花はそのことが嬉しかった。
『ありがとう。私も完成するのが楽しみだよ』
送信してから、少し考えてもう一通書き加えた。
『それとね、今日、佐々木先輩に新しいお話のことを少し相談したの。まだ決まってないところが多いけど、主人公のことが少し見えてきた気がする』
悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。
『それはよかったね。彩花さんが楽しそうに考えてるのが伝わってくる』
彩花は思わず笑った。
文字だけのやり取りなのに、どうしてそんなことが分かるのだろう。
けれど、確かに今の自分は楽しい。
まだ何も完成していない。
それでも、物語が少しずつ形になっていく時間が好きだった。
『うん。すごく楽しいよ。まだ誰にも読んでもらえる状態じゃないけど、ちゃんと書けたら悠真君にも読んでほしいな』
送信してから、彩花は少しだけ頬を赤くした。
以前、自分から次の作品も読んでほしいと話したことはある。
けれど、改めて文字にすると、少し照れくさかった。
すぐに返事が届いた。
『もちろん。彩花さんの次のお話、楽しみに待ってるよ』
彩花はその文章を読み、スマートフォンを胸元へ近づけた。
誰かが待っていてくれる。
それだけで、まだ形になっていない物語にも、少しだけ確かな輪郭が生まれる気がした。
*
九条家の自室では、悠真が彩花とのやり取りを終え、机の上のノートを開いていた。
生徒会の仕事を終えて帰宅したあと、夕食までの時間に少しだけ押し葉の保存について調べていたが、まだ具体的な形は決めていない。
琴葉が図書室で確認してくれたことも参考になった。
ただ、押し葉を長く残すためには、見た目だけで方法を選ばない方がよさそうだった。
悠真は候補を書いたページを眺め、少し考えた。
栞なら彩花が使ってくれるかもしれない。
けれど、葉そのものを傷めないことを優先するなら、別の形の方がいい可能性もある。
そこで、ふと金曜日のカードを思い出した。
彩花が選んだのは、淡い青色の花柄だった。
派手ではないけれど、見ていると落ち着くような色合いで、手書きの文字によく似合っていた。
悠真は引き出しを開け、封筒を取り出した。
中のカードをもう一度読む。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
読み終えてから、悠真は静かに息をついた。
何度読んでも、嬉しい。
その言葉は、彩花が自分のために考えてくれたものだ。
だからこそ、簡単に同じものを返すのではなく、自分なりの気持ちを込めたい。
(……あの日のことを、ちゃんと覚えてるって伝えたいな)
悠真はカードを封筒へ戻し、引き出しへしまった。
そして、押し葉を挟んだ紙へ視線を向けた。
川沿いの道を歩いたとき、彩花は木々の色を見て嬉しそうに笑っていた。
葉が肩へ落ちたことに気づいて、そっと取ってくれたこともあった。
そのときの少し照れた表情を思い出すと、悠真の口元が自然に緩む。
あの日の景色を、彩花も覚えていてくれたら嬉しい。
もちろん、忘れていたとしても責めるつもりはない。
ただ、自分にとって大切だった時間を、何かの形で残したい。
悠真はノートへ新しい案を書き加えた。
『押し葉を傷めずに残せる、小さな記念のもの。』
まだ曖昧な表現だったが、今はそれでよかった。
具体的な形を決めるのは、もう少し調べてからにしよう。
悠真はそう考え、ノートを閉じた。
*
その夜、彩花は寝る前にもう一度だけ新しい物語のメモを読み返した。
祖母へ手紙を書こうとする女の子。
何度も書き直してしまう理由。
そして、二人が一緒に過ごしてきた小さな時間。
まだ決まっていないことは多いが、今朝よりも少しだけ物語が見えるようになっていた。
彩花はペンを手に取り、ページの端へ一行書き加えた。
『手紙を書くことは、思い出を選ぶことでもある。』
書き終えると、彩花はしばらくその文章を眺めた。
全部の思い出を書くことはできない。
けれど、たった一つを選んだからといって、ほかの思い出が消えるわけではない。
大切なものがたくさんあるからこそ、その中から何を伝えるか考える時間にも意味がある。
彩花はそんなことを思いながら、ノートを閉じた。
窓の外では、冷たい風が住宅街の木々を揺らしている。
明日も学校があり、文芸部の作業も続いていく。
新しい物語は、まだ始まったばかりだった。
けれど、焦らずに書いていこうと思えた。
悠真が楽しみに待っていてくれる。
佐々木先輩も、急がなくていいと言ってくれた。
家族も、自分の好きなことを応援してくれている。
その一つ一つが、彩花にとって大切な支えになっていた。
彩花は机の明かりを消し、ベッドへ入った。
そして、眠りにつく前にふと思った。
(……次に悠真君と会ったら、文房具屋さんにも行きたいな)
以前約束した、小さな文房具店。
あの店には、まだ見ていない便箋やノートがたくさんある。
悠真と一緒に選んだら、どんなものが気になるのだろう。
そんなことを想像しているうちに、彩花の頬には自然な笑みが浮かんでいた。
*
同じ頃、悠真は九条家の自室で明日の準備を終えていた。
机の引き出しには、彩花から受け取ったカードと、川沿いで拾った押し葉が別々にしまわれている。
どちらも、今の悠真にとって大切なものだった。
カードは、彩花が自分へ届けてくれた言葉。
押し葉は、二人で過ごした秋の日の記憶。
その二つを思い浮かべながら、悠真は少しだけ考えた。
自分が作ろうとしているものは、まだ形になっていない。
けれど、彩花が新しい物語を考えているように、自分も少しずつ考える時間を楽しんでいる。
いつか完成したとき、彼女がどんな顔をするのか。
そのことを想像すると、自然に笑みが浮かんだ。
悠真は部屋の明かりを落とし、窓の外へ目を向けた。
青凪市の夜空には薄い雲が広がり、その向こうに淡い月明かりが見えている。
明日も、きっといつもどおりの一日が始まる。
学校へ行き、授業を受け、生徒会の仕事をして、家へ帰る。
その日常の中で、少しずつ大切なものが増えていく。
悠真はそんなことを考えながら、静かにカーテンを閉じた。
まだ名前のない物語と、まだ形になっていない贈り物。
それぞれが知らないところで育ち始めた小さな楽しみは、冬へ向かう青凪市の日常の中で、ゆっくりと次の形を探していた。




