第81話 まだ名前のない物語と、小さな贈り物
日曜日の朝、青凪市には前夜の雨が残した湿り気が漂っていた。
水瀬彩花がカーテンを開けると、窓の向こうには薄い雲の切れ間から朝日が差し込み、住宅街の屋根や電線に残った水滴を淡く照らしていた。庭の植木も雨に洗われたばかりで、十一月も半ばを迎えた冷たい空気の中、葉の表面だけが瑞々しい色を取り戻している。
彩花は窓を少し開け、外の空気を部屋へ入れた。雨上がりの土の匂いが微かに届いたものの、思った以上に冷たい風が頬へ触れたため、すぐに窓を閉めてカーディガンを羽織った。
机の上には、昨夜開いたままにしていた深い青色のノートが置かれている。
表紙には小さな銀色の星が散りばめられており、朝の光を受けると、角度によって控えめに輝いた。彩花は椅子へ腰を下ろすと、昨日書き留めたページを開き、そこに並んだ短い文章へ視線を落とした。
『手紙を書くのが苦手な女の子。』
『伝えたいことはたくさんあるのに、短い文章にできない。』
『でも、誰かに渡したいと思っている。』
まだ、物語と呼べるものではなかった。
主人公が何歳なのか、誰へ手紙を書こうとしているのか、どうして言葉を選べずにいるのかさえ決まっていない。ただ、誰かへ気持ちを届けたいと思ったときの、あの落ち着かない感覚だけは、今の彩花にはよく分かっていた。
(……この子は、どうして手紙を書きたいんだろう)
彩花はペンを手に取り、ノートの余白へ小さく丸を描いた。
感謝を伝えたいから。
謝りたいことがあるから。
あるいは、普段なら何でも話せる相手なのに、どうしても口にできないことがあるから。
考えられる理由はいくつもあったが、そのどれもが少しずつ違う物語につながっていく気がした。彩花は一つに決めようとして、ふとペンを止めた。
(……最初から全部決めなくてもいいのかな)
『いつか、ここに』を書いたときも、最初からすべての場面が見えていたわけではない。
写真立てを作る男の子の気持ちを考え、女の子がなぜそれを必要としているのかを探り、二人が少しずつ近づく過程を書いていくうちに、物語の形が見えてきた。完成した作品を振り返ると、最初に思いついたことより、書き進めながら気づいたことの方が大切になった場面もある。
彩花は新しいページを開き、まず主人公について考えることにした。
手紙を書くのが苦手な女の子。
けれど、話すことまで苦手とは限らない。
むしろ、普段はよく話す子なのに、いざ文字にしようとすると何も書けなくなる方が面白いかもしれない。
彩花はそんなことを考えながら、少しずつ人物の輪郭を書き加えていった。
朝食の時間が近づくまで、ノートにはいくつもの小さな問いが増えていった。答えが見つかったものもあれば、まだ空白のまま残したものもあったが、彩花はその空白を以前ほど不安に感じなくなっていた。
書きたいものがある。
今は、それだけで十分だった。
*
朝食を終えたあと、彩花は母の紗月と一緒に食器を片づけていた。
日曜日の水瀬家は平日より少し時間がゆっくり流れる。父の耕助はリビングで新聞を読み、姉の凛花は午前中の勉強を始める前に、温かいお茶を飲みながら家族と話していた。
「彩花、今日は何かする予定なの?」
紗月が洗った皿を彩花へ渡しながら尋ねた。
「午前中は部屋で少し書き物をしようかなって思ってる。午後は借りてる本を読んで、明日の準備をするつもり」
「新しいお話?」
彩花は皿を布巾で拭きながら、少しだけ笑った。
「まだ、お話になるか分からないんだけどね。書いてみたいことが浮かんだから、忘れないうちにメモしてるの」
「そうなの。楽しそうね」
紗月はそれ以上詳しく尋ねず、次の皿を手渡した。
彩花はその何気ない反応が嬉しかった。
以前は自分の書いているものについて尋ねられると、完成していないことを理由に話すのをためらっていた。まだ人に見せられるものではないからと、自分から話題を終わらせてしまうこともあった。
けれど今は、書き始めたばかりのものがあってもいいと思える。
完成していないことは、恥ずかしいことではない。
「彩花、ちょっといい?」
背後から凛花の声が聞こえた。
振り返ると、姉が食卓の端に置かれた小さな紙袋を持って立っていた。昨日の買い物で購入したものらしく、中には裁縫用の糸や小さなボタンが入っている。
「これ、お母さんが買ってきてくれたんだけど、私が直そうと思ってたポーチのボタン、どれが合うと思う?」
凛花はそう言って、紺色の布製ポーチを見せた。
口を留める小さなボタンが取れてしまったらしく、糸だけが少し残っている。
彩花は手を拭いてからポーチを受け取り、布の色とボタンの大きさを見比べた。
「この薄い灰色のが合うと思う。紺色と同じ色にすると目立たないけど、少し違う色の方が可愛いかも」
「なるほど。確かに、そっちの方がいいわね」
「糸もあるし、あとで一緒に直そうか?」
凛花は少し意外そうに妹を見たあと、柔らかく笑った。
「ありがとう。でも、せっかくだから自分でやってみたいの。分からなくなったら教えてくれる?」
「もちろん。お姉ちゃんの部屋に行けばいい?」
「ええ。お昼前くらいでどう?」
「うん、大丈夫」
彩花は笑顔で頷いた。
姉に何かを教える。
以前なら、少し不思議に感じていたかもしれない。
凛花は勉強も剣道も得意で、幼い頃から何でも上手にできる人だと思っていた。けれど今は、姉にも得意なことと苦手なことがあり、自分にも誰かの役に立てることがあると自然に思える。
紗月は二人のやり取りを聞きながら、静かに微笑んでいた。
娘たちが互いの得意なことを頼り合えるようになっているのが、母親として嬉しかった。
*
同じ日の午前中、九条家では悠真が自室の机へ向かっていた。
窓の外には雨上がりの庭が広がり、濡れた石畳が朝日を受けて鈍く輝いている。階下からは、ときおりハクの足音と、世話をしている家族の声が聞こえてきた。
机の上には、昨日祖父の俊治へ相談した押し葉が置かれている。
橙色の葉は薄い紙に挟まれ、形を崩さずに残っていた。
悠真は紙を開いて状態を確かめると、すぐに閉じ直した。十分に乾いているようには見えるものの、素人判断で加工するのは少し心配だった。
祖父から教わった保存方法を思い出し、ノートへ必要なものを書き出していく。
保存用の台紙。
紙を傷めにくい透明な保護材。
葉を直接貼りつけずに収められる方法。
候補を書いているうちに、悠真はふと手を止めた。
(……何を作るか決めてから、必要なものを考えた方がいいかな)
彩花へ何かを渡したいという気持ちはある。
けれど、押し葉を使うことだけを先に決めてしまうと、肝心の使い道が曖昧になってしまう。
栞にするのか。
小さな額へ入れるのか。
それとも、別の形にするのか。
悠真は机の端に置かれた文庫本へ目を向けた。
彩花は本が好きだ。
だから、栞なら使ってもらえるかもしれない。
けれど、以前から愛用している栞があるかもしれないし、壊れやすいものを本の間へ挟むのは避けた方がいい気もする。
悠真は考え込んだ。
九条家では、誰かへ贈り物をする機会が珍しくない。
誕生日や季節の挨拶、家族の記念日など、贈り物を選ぶ場面はこれまでにもあった。相手の好みを考えることも、品物を丁寧に選ぶことも、決して初めてではない。
それなのに、今回は少し勝手が違った。
高価なものを選びたいわけではない。
珍しいものを探したいわけでもない。
彩花が受け取ったとき、あの日の川沿いの景色を思い出してくれたら嬉しい。
それが、今の悠真にとって一番大切なことだった。
ノックの音が聞こえたのは、そんなことを考えていたときだった。
「お兄ちゃん、入ってもいい?」
扉の向こうから琴葉の声がする。
「うん、どうぞ」
悠真が答えると、琴葉が小さなノートを抱えて入ってきた。
日曜日らしい柔らかな色の服を着ており、髪は家で過ごすときのように簡単にまとめている。
「昨日言ってた押し葉のこと、ちょっと考えてみたんだけど」
琴葉はそう言って、机の上へ視線を向けた。
悠真は少し驚いた。
「考えてくれたの?」
「うん。だって、せっかく彩花さんに渡すなら、綺麗に残せる方がいいでしょう?」
琴葉は兄の隣へ立ち、押し葉を挟んだ紙を覗き込んだ。
ただし、勝手に触れることはしなかった。
「これ、まだ加工してないんだよね?」
「うん。おじいちゃんに保存方法を聞いたところなんだけど、何にするかは決めてなくて」
「そっか。栞とか?」
「最初に思いついたのはそれなんだけど、葉が傷まないか心配なんだ」
琴葉は少し考えたあと、抱えていたノートを開いた。
そこには図書室の展示について書かれたメモが並んでおり、端の方には透明な保護ケースの簡単な絵が描かれている。
「図書委員会で推薦カードを飾るとき、紙が傷まないように透明なケースを使うことがあるの。もちろん押し葉とは違うけど、直接貼りつけなくても収められるものがあるかもしれないと思って」
悠真はノートを覗き込み、感心したように頷いた。
「なるほど。確かに、取り出せる形なら無理に貼らなくてもいいね」
「でも、葉っぱって時間が経つと色が変わるでしょう? だから、ちゃんと調べた方がいいと思う」
「うん。そこは慎重にしたい」
琴葉は兄の真剣な表情を見て、少しだけ笑った。
「お兄ちゃん、こういうの考えるの楽しそうだね」
悠真は顔を上げた。
「そう見える?」
「見えるよ。さっきからずっと、どうしたら彩花さんが喜ぶかなって考えてる顔してる」
悠真は少しだけ困ったように笑った。
「そんな顔してたかな」
「してた。別に悪いことじゃないと思うけど」
琴葉は兄の机に置かれたノートへ視線を落とした。
いくつもの候補が書かれているのに、どれにもまだ決定の印はついていない。
琴葉はその慎重さが、いかにも兄らしいと思った。
悠真は普段から、相手の都合や気持ちを考えて行動する。
けれど彩花に関することになると、そこへ少しだけ別の熱心さが加わるように見えた。
本人は特に意識していないのかもしれない。
だからこそ、琴葉には少し面白かった。
「ねえ、お兄ちゃん。一つだけ聞いてもいい?」
「何?」
「彩花さんに渡すものって、何か特別な理由があるの?」
悠真は少し考えた。
昨日、彩花からカードを受け取ったことは、まだ琴葉へ詳しく話していない。
隠したいわけではないが、あの言葉は彩花が自分へ向けて書いてくれたものだ。
内容まで勝手に話すのは違う気がした。
「彩花さんから、大切なものをもらったんだ」
悠真は静かに答えた。
「だから、俺も何か渡したいと思って」
琴葉は少しだけ目を丸くした。
何をもらったのか気にはなったが、兄が詳しく話さない理由も何となく分かった。
「そっか。じゃあ、なおさら急がなくていいんじゃない?」
「……そうだね」
「彩花さん、何かを選ぶ時間も好きそうだし。お兄ちゃんがちゃんと考えたものなら、きっと嬉しいと思う」
琴葉はそう言って、ノートを閉じた。
悠真は妹の言葉を聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
金曜日にカードを受け取ってから、早く何かを返したいという気持ちがあった。
けれど、贈り物は急いで用意すればいいものではない。
彩花が何日も言葉を考えたように、自分もゆっくり選べばいい。
「ありがとう、琴葉。参考になったよ」
「どういたしまして。でも、完成したら見せてね」
「うん。彩花さんに渡す前に、相談するかもしれない」
「任せて。図書委員としても、妹としても協力するから」
琴葉が少し得意そうに笑うと、悠真もつられて笑った。
*
昼前、水瀬家の凛花の部屋では、小さな裁縫道具が机の上へ並べられていた。
彩花は姉の隣へ椅子を運び、紺色のポーチと灰色のボタンを見比べていた。窓から差し込む日差しは朝より明るくなり、机の上の糸巻きや針山に柔らかな影を落としている。
「ここに糸を通すんだけど、最初は少し長めに取っておいた方がやりやすいよ」
彩花は針へ糸を通しながら説明した。
凛花は真剣な表情でその手元を見つめている。
「なるほど。短すぎると途中で足りなくなるのね」
「うん。でも、長すぎても絡まっちゃうから、そのあたりは慣れかな」
彩花は小さく笑い、針を姉へ渡した。
凛花は慎重に受け取り、ポーチの布へ針を通した。
勉強や剣道では迷いの少ない凛花も、細かな裁縫となると少し勝手が違うらしい。布を持つ位置を何度か直しながら、糸が絡まないようにゆっくり手を動かしていた。
「……彩花って、こういうの本当に上手よね」
凛花が感心したように言うと、彩花は少し照れた。
「そんなことないよ。私も最初は何回も失敗したし、今でも縫い直すことあるよ」
「でも、説明が分かりやすいわ。どうしてそうするのかまで教えてくれるから」
その言葉に、彩花は嬉しくなった。
誰かへ教えることは、普段それほど多くない。
けれど、自分が好きで続けてきたことを姉が興味を持ってくれるのは、思っていた以上に楽しかった。
「お姉ちゃんは、いつも勉強教えてくれるでしょう? だから、こういうのは私に任せて」
彩花がそう言うと、凛花は少しだけ手を止めた。
それから、柔らかく笑った。
「じゃあ、遠慮なく頼りにするわ」
二人はしばらく並んで作業を続けた。
ボタンを縫いつけるだけの小さな作業だったが、凛花は一針ずつ丁寧に進め、彩花も必要なときだけ手を添えた。
途中で糸が絡まったときには、凛花が困ったように笑い、彩花がほどき方を教えた。
ようやくボタンがつくと、凛花はポーチを開け閉めして確かめた。
「できた。少し曲がってる気もするけど、ちゃんと留まるわね」
「うん。最初なら十分だと思うよ。使ってるうちに緩んだら、また直せばいいし」
彩花はそう答え、余った糸を片づけ始めた。
凛花は完成したポーチを眺めながら、少しだけ考えた。
妹が自分の得意なことを、こんなふうに楽しそうに話してくれる。
以前なら、何かを教えようとするときでさえ、彩花は遠慮がちだった。
けれど今は、必要なことを自然に説明し、自分の考えもはっきり伝えてくれる。
その変化が、凛花には嬉しかった。
「ありがとう、彩花。これ、大事に使うわ」
「うん。せっかく直したんだから、長く使えるといいね」
彩花は笑顔で答えた。
そのとき、机の端に置かれた小さな布切れが目に入った。
淡い青色に、白い花が散った布。
以前、家で見つけたものと同じ布だった。
「お姉ちゃん、これ……」
彩花が指差すと、凛花は視線を向けた。
「ああ、それね。前にお母さんが出してくれた布の端切れ。色が綺麗だったから、何かに使えないかなと思って持ってきたの」
「そうだったんだ」
彩花は布へ指先を添えた。
金曜日に悠真へ渡したカードの花柄を思い出す。
同じ柄ではない。
けれど、淡い青色と小さな白い花の組み合わせが、どこか似ていた。
凛花は妹の表情を見て尋ねた。
「彩花、何か作りたいものがある?」
「ううん。まだ決めてないんだけど……やっぱり、この色好きだなって思って」
「じゃあ、何か思いついたら使えばいいんじゃない? 急いで形にしなくてもいいでしょう」
彩花は少しだけ笑った。
「……そうだね」
何かを作ることも、物語を書くことも、似ているのかもしれない。
最初から完成形が見えていなくても、好きだと思うものを大切に持っていていい。
彩花はそんなことを考えながら、布を丁寧に畳んだ。
*
午後一時を過ぎた頃、彩花は自室へ戻り、新しい物語のメモを広げていた。
昼食のあとに淹れた温かい紅茶が机の端に置かれ、窓の外では雲の間から時折日差しが差し込んでいる。部屋には時計の針が進む音だけが響き、考えごとをするにはちょうどいい静けさだった。
彩花は午前中に書いた人物設定を読み返した。
主人公は、普段はよく話す女の子。
けれど、手紙を書こうとすると、相手へ伝えたいことが多すぎて何も書けなくなる。
そこまでは決まった。
問題は、誰へ書くのかだった。
彩花はペンを指先で回しながら考えた。
友人へ感謝を伝える話でもいい。
離れて暮らす家族へ近況を知らせる話でもいい。
けれど、それだけでは、まだ何かが足りない気がした。
(……どうして、この子は手紙じゃないと駄目なんだろう)
口で伝えられるなら、会って話せばいい。
電話でも、メッセージでもいい。
それでも、わざわざ紙に書こうとする理由が必要だった。
彩花は自分がカードを書いたときのことを思い出した。
悠真へ感謝を伝えたかった。
けれど、それだけなら普段の会話でも言えたはずだ。
それでもカードを選んだのは、言葉を形にして残したかったからだった。
そのとき感じたことを、彩花はノートへ書き加えた。
『言葉を残しておきたい理由がある。』
書いてから、少しだけ考える。
主人公は、何かを忘れたくないのかもしれない。
あるいは、相手に忘れてほしくないことがあるのかもしれない。
彩花はそこまで考えたところで、ふと別の場面を思いついた。
主人公の女の子には、昔から仲のいい祖母がいる。
祖母は遠くの町へ引っ越すことになり、今までのように気軽に会えなくなる。
女の子は最後に何かを伝えたいと思うけれど、普段から何でも話してきた相手だからこそ、改まって言葉にするのが難しい。
そんな設定なら、どうだろう。
彩花はノートへ書き込みながら、少しずつ場面を想像した。
祖母の家には、小さな庭がある。
季節ごとに違う花が咲き、女の子は幼い頃からその庭で遊んでいた。
祖母は花の名前を教えてくれた。
けれど、女の子はその名前を全部覚えているわけではない。
ただ、一緒に過ごした時間が好きだった。
彩花はそこまで書いて、ペンを止めた。
少し、形が見えてきた気がする。
けれど、祖母が引っ越す理由や、女の子が最後に何を伝えるのかは、まだ決められなかった。
それでも構わない。
今日は人物と関係を考えるところまでにしよう。
彩花はそう決め、ノートの端へ小さく印をつけた。
*
一方、九条家では悠真が午後の時間を使い、押し葉の保存について調べていた。
祖父の書斎から借りた資料には、古い紙や写真を保管するときの注意点が書かれている。専門的な内容も多かったが、悠真は必要な部分を読みながら、自分にできる方法を少しずつ整理していた。
机の上には候補を書いたノートがあり、栞、小さな額、保護ケースという三つの案が並んでいる。
悠真はそれぞれの利点と心配な点を書き加えた。
栞なら本を読むときに使える。
額なら飾っておける。
保護ケースなら、葉そのものを無理に加工せずに残せるかもしれない。
ただ、どれもまだ決め手に欠けていた。
(……彩花さんなら、どうするかな)
悠真はそう考えてから、小さく笑った。
本人へ聞けば、きっと何か良い意見をもらえる。
彩花は裁縫も得意だし、物を丁寧に扱う方法もよく知っている。
けれど、今回はできれば内緒で用意したかった。
驚かせたいというより、自分で考えて選んだものを渡したい。
その気持ちがあった。
悠真は椅子の背へ身体を預け、窓の外を見た。
庭ではハクが日当たりのいい場所に寝そべっている。
雨上がりの芝生はまだ少し湿っているはずだが、ハクは気にしていないらしい。
その姿を見ているうちに、悠真はふと以前のことを思い出した。
彩花が九条家へ来たとき、ハクを撫でながら嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、自分まで嬉しくなったことを覚えている。
贈り物も、あんなふうに自然に喜んでもらえたらいい。
悠真はそう思い、再びノートへ目を落とした。
そして、三つの候補の下へ新しい一行を書き加えた。
『あの日の景色を思い出せるもの。』
書いてから、少しだけ考える。
形だけを残すのではなく、そこにある思い出も大切にしたい。
それなら、押し葉だけでなく、何か短い言葉を添えるのもいいかもしれない。
悠真はその案を消さずに残した。
まだ決める必要はない。
けれど、少しずつ自分が作りたいものに近づいている気がした。
*
午後三時を過ぎた頃、彩花のスマートフォンにメッセージが届いた。
画面には悠真の名前が表示されている。
『今日は何してる?』
彩花はノートから顔を上げ、少しだけ笑った。
『新しいお話のことを考えてたよ。まだメモだけなんだけど』
送信してから、彩花は少し考えた。
以前なら、完成していないものについて悠真へ話すことにも、少し遠慮していたかもしれない。
けれど今は、書き始めたばかりのことも自然に伝えられる。
すぐに返事が届いた。
『もう次のお話を考えてるんだね。どんな感じ?』
彩花は画面を見つめた。
まだ、はっきりと説明できるほど決まっていない。
けれど、何も話せないわけではない。
『手紙を書くのが苦手な女の子のお話にしようかなって思ってるの。まだ主人公のことを考えてるところ』
少し待つと、悠真から返事が来た。
『面白そう。手紙を書くのが苦手なのに、書こうとする理由があるんだね』
彩花は思わず目を見開いた。
自分が今日ずっと考えていたことだった。
悠真はまだ詳しい設定を知らない。
それなのに、自然にその部分へ目を向けてくれた。
『そうなの。そこをちゃんと考えたいなって思ってる』
『彩花さんの好きな、気持ちが少しずつ伝わるお話になりそうだね』
彩花はその文章を読んで、少しだけ頬を緩めた。
自分が好きな物語の形を、悠真は覚えていてくれる。
以前読んだ本の感想や、文芸部の作品について話したことが、ちゃんと彼の中に残っているのだ。
『ありがとう。まだどうなるか分からないけど、少しずつ考えてみるね』
『うん。楽しみにしてる』
彩花はスマートフォンを膝の上へ置いた。
胸の奥が、静かに温かくなっている。
悠真はまだ物語の内容をほとんど知らない。
それでも、楽しみにしていると言ってくれた。
その言葉が、書き始める勇気を少しだけ増やしてくれた。
彩花はノートを開き直した。
まだ名前のない主人公。
まだ決まっていない手紙の相手。
そして、これから見つけていく言葉。
そのすべてが、少し楽しみになっていた。
*
悠真は彩花とのやり取りを終えたあと、スマートフォンを机へ置いた。
新しい物語を考えているという話は、少し意外だった。
冬の部誌へ載せる作品が完成したばかりだから、しばらくは読書を楽しむのかと思っていた。
けれど、彩花にとって物語を書くことは、何かの締め切りがあるからするものではないのだろう。
日常の中で見つけたことや、誰かと話して感じたことが、自然に次の物語へつながっていく。
悠真はそのことを嬉しく思った。
(……彩花さんらしいな)
自分の好きなものを大切にしながら、少しずつ新しいことへ挑戦していく。
その姿を見るたびに、悠真も何かをしてみたくなる。
机の上には、押し葉を挟んだ紙がある。
彩花は新しい物語を考えている。
自分は、彼女へ渡すものを考えている。
お互いに何を作ろうとしているのか、まだ詳しくは知らない。
けれど、次に会ったときには、また新しい話ができるかもしれない。
悠真はそんなことを考えながら、ノートへ視線を戻した。
*
夕方、水瀬家では凛花がリビングで勉強の合間に休憩していた。
彩花はソファの端へ座り、読みかけの文庫本を開いている。
窓の外では日が傾き始め、庭の植木の影が長く伸びていた。
「彩花、今日はずっと書いてたの?」
凛花が尋ねると、彩花は本から顔を上げた。
「ずっとじゃないよ。午前中は少し考えて、午後もメモを増やしたくらい」
「もう次の作品なのね」
「うん。でも、まだ書き始めてないの。主人公がどんな子なのか考えてるところ」
凛花は興味深そうに頷いた。
「楽しそうね」
「うん。今度は、言葉を伝えるのが苦手な子のお話にしようかなって思ってる」
彩花はそこまで話してから、少しだけ笑った。
「でも、どういうお話になるかは、まだ分からないんだけどね」
「それでもいいんじゃない? 彩花が書きたいと思ったなら、少しずつ考えればいいと思う」
凛花はそう答え、温かいお茶を一口飲んだ。
彩花は姉の言葉を聞きながら、今日一日のことを思い返した。
朝は何も決まっていなかった主人公に、少しずつ性格が生まれた。
手紙を書く相手の候補も見えてきた。
悠真へ話したことで、自分が大切にしたい部分も改めて分かった。
まだ物語は始まっていない。
けれど、何も進んでいないわけではない。
「……うん。そうする」
彩花は小さく頷いた。
凛花は妹の表情を見て、静かに微笑んだ。
最近の彩花は、何かを始めるときに以前ほど自分を疑わなくなった。
もちろん、迷うことはある。
けれど、迷いながらでも進めるようになっている。
凛花はその変化が嬉しかった。
妹が自分の好きなことを、これからも大切にしてくれたらいい。
そんなことを思いながら、凛花は再び勉強道具へ手を伸ばした。
*
夜、九条家の食卓では、家族がそれぞれの日曜日について話していた。
正樹は仕事の予定を確認し、麗華は来週の用事について琴葉へ尋ねている。俊治は昼間に読んだ本の話をしており、ハクは食卓から少し離れた自分の場所で静かに伏せていた。
悠真は家族の会話を聞きながら、時折返事をしていた。
食事が終わったあと、琴葉が兄へ小さく声をかける。
「お兄ちゃん、さっきの押し葉のことなんだけど」
「うん?」
「図書室で使ってる保護ケース、明日もう一回確認してみるね。どんな素材だったか、ちゃんと覚えてなくて」
悠真は少し驚いたあと、笑った。
「ありがとう。でも、無理しなくていいよ。琴葉も忙しいでしょう?」
「大丈夫。図書委員の仕事のついでに見るだけだから」
琴葉はそう答え、少しだけ得意そうに笑った。
悠真は妹の気遣いをありがたく思った。
何かを作ろうとするとき、一人で全部考える必要はない。
祖父に相談し、琴葉の意見を聞き、自分でも調べる。
そうやって少しずつ形にしていけばいい。
「じゃあ、分かったら教えてくれる?」
「もちろん」
琴葉は頷いた。
その様子を見ていた麗華が、穏やかに尋ねる。
「二人で何か作るの?」
琴葉は一瞬だけ兄を見た。
悠真は少し考え、自然に答えた。
「前に拾った葉を、綺麗に残せないかなって相談してるんだ」
「押し葉のことね」
麗華は頷いた。
「それなら、あまり光が当たらないようにした方がいいわね。色が変わることもあるから」
「うん。おじいちゃんにも同じことを教えてもらったよ」
「そう。大切に残したいものなら、ゆっくり考えるといいわ」
麗華はそれ以上尋ねず、食器を片づけるために席を立った。
悠真はその言葉を聞きながら、小さく頷いた。
家族は、何かを作ることを急かさない。
必要なときには助言してくれるが、最後にどうするかは自分で決められる。
その距離感が、今はありがたかった。
*
同じ夜、水瀬家の自室では彩花が机へ向かっていた。
日曜日も終わりに近づき、窓の外には住宅街の灯りが静かに並んでいる。机の上には明日の授業で使う教科書が揃えられ、その隣に深い青色のノートが置かれていた。
彩花は寝る前に、もう一度だけ新しい物語のメモを開いた。
主人公の女の子。
遠くへ引っ越す祖母。
昔から一緒に過ごした小さな庭。
そして、なかなか書けない手紙。
まだ決まっていないことは多い。
けれど、今朝よりも少しだけ、物語の世界が見えるようになっていた。
彩花はノートの余白へ、今日最後の一行を書き加えた。
『何を伝えたいのか分からないのではなく、伝えたいことが多すぎる。』
書き終えてから、少しだけ笑った。
(……この子も、きっと何度も書き直すんだろうな)
けれど、最後には自分の言葉を見つけてほしい。
誰かが用意した綺麗な文章ではなく、その子自身が選んだ言葉を。
彩花はそんなことを考えながら、ノートを閉じた。
金曜日に悠真へ渡したカードは、もう手元にはない。
けれど、あの二行を書いた時間は、今も自分の中に残っている。
そして、その経験が新しい物語の始まりにつながっている。
彩花は机の明かりを消す前に、スマートフォンを確認した。
悠真から、おやすみのメッセージが届いている。
『明日からまた一週間だね。無理しすぎないでね』
彩花は少しだけ笑い、返事を打った。
『ありがとう。悠真君も、生徒会のお仕事頑張ってね。おやすみなさい』
送信すると、すぐに短い返事が届いた。
『おやすみ、彩花さん』
彩花はスマートフォンを置き、窓の外へ目を向けた。
明日から、また学校が始まる。
文芸部の部誌も少しずつ完成へ近づき、新しい物語の構想もゆっくり形になっていくだろう。
特別な事件が起きるわけではない。
けれど、何でもない日々の中にも、新しいものが生まれる瞬間はある。
彩花はそのことを、最近少しずつ実感していた。
*
九条家の自室では、悠真が押し葉を挟んだ紙を引き出しへしまっていた。
机の上には、今日考えた候補を書いたノートが残っている。
栞。
小さな額。
保護ケース。
どれも、まだ決定ではない。
悠真は最後に書き加えた一行へ視線を落とした。
『あの日の景色を思い出せるもの。』
それが、今の自分にとって一番大切なことだった。
彩花が受け取ったとき、川沿いの道や、色づいた木々、二人で話した時間を思い出してくれたら嬉しい。
そして、もし気に入ってもらえたなら、長く持っていてほしい。
悠真はノートを閉じ、机の明かりを落とした。
まだ形になっていない贈り物。
まだ名前の決まっていない物語。
二人がそれぞれ考え始めたものは、今は小さな思いつきにすぎない。
けれど、その始まりには、確かに相手と過ごした時間があった。
窓の外では、雨上がりの夜空に雲の切れ間が広がり、淡い月明かりが青凪市の街並みを照らしている。
悠真はカーテンを閉じ、明日の準備を整えた。
急ぐ必要はない。
彩花が自分の言葉を見つけたように、自分も少しずつ、渡したいものの形を探していけばいい。
そう思いながら、悠真は静かな日曜日の夜を終えた。




