第80話 君がくれた言葉の、その先へ
土曜日の朝、九条悠真はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には薄い雲が広がり、庭の木々は十一月の冷たい風に枝を揺らしている。数週間前まで鮮やかな色を見せていた葉も、今ではほとんどが地面へ落ち、冬の訪れを静かに知らせていた。
悠真はベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
まだ朝の光は弱く、庭の芝生には薄い霜が降りているように見える。部屋の暖房をつけ、制服ではなく普段着へ着替えると、机の前へ向かった。
そこには、昨夜から気になっていたものがあった。
淡い青色の花が描かれた、小さな封筒。
昨日、彩花から受け取ったカードだ。
悠真は椅子へ座り、引き出しを開けた。祖父から届いた古い絵葉書や、子供の頃の写真が収められている場所に、その封筒は丁寧に置かれている。
取り出して中を開くと、彩花の手書きの文字が現れた。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
短い文章だった。
けれど、何度読んでも不思議と嬉しくなる。
彩花が何日も考えて書いてくれたこと。
渡すときに少し緊張していたこと。
そして、読み終えた自分の反応を、真剣な表情で待っていたこと。
そのすべてが、昨日の出来事として鮮明に思い出された。
(……大切にしたいな)
悠真はカードを封筒へ戻し、机の上へそっと置いた。
その隣には、以前川沿いで拾った橙色の葉を挟んだ紙がある。
秋の午後、彩花と一緒に歩いた川沿いの道。
修理されたベンチの近くで立ち止まり、色づいた木々を眺めた。
あの日、彩花は二枚の葉を拾い、悠真も一枚を持ち帰った。
それぞれが別々に持ち帰ったものだ。
けれど、同じ時間を過ごした記憶がそこに残っている。
悠真は押し葉の紙を開き、乾いた葉の状態を確かめた。
形は綺麗に残っている。
ただ、葉脈の細い部分は少し脆くなっており、直接触れると欠けてしまいそうだった。
悠真は慎重に紙を閉じた。
何かに使いたいと思っていた。
けれど、どうすればいいのかはまだ決まっていない。
昨日のカードを受け取ってから、その気持ちは少し強くなっていた。
彩花が自分のために言葉を選んでくれたように、自分も何かを渡したい。
ただし、同じものを返すのではなく、自分らしい形で。
悠真はしばらく考えたあと、スマートフォンを取り出した。
画面を開き、以前から気になっていた文房具店について調べ始める。
彩花がカードを買ったという、駅から少し歩いたところにある小さな店。
名前までは聞いていないが、駅周辺にはいくつか文房具店がある。
悠真は検索結果を眺めながら、少しだけ笑った。
(……今度、彩花さんに案内してもらおう)
昨日、そんな約束をしたばかりだった。
急いで一人で行く必要はない。
彩花が好きな店なら、一緒に訪れて、彼女がどんなものを見て楽しむのか知りたい。
そう思い、スマートフォンを机へ置いた。
*
同じ頃、水瀬家では彩花が朝食の準備を手伝っていた。
台所には焼いたパンの香りが広がり、母の紗月が鍋でスープを温めている。彩花は皿を並べながら、昨夜の出来事を思い出していた。
悠真へカードを渡した。
何日も迷っていた二行の言葉を、ちゃんと届けることができた。
そのことを考えるだけで、胸の奥が少し温かくなる。
「彩花、今日は何か予定ある?」
紗月に尋ねられ、彩花は顔を上げた。
「今日は特にないよ。午後は本を読もうかなって思ってる」
「そう。じゃあ、午前中に少し買い物を手伝ってもらってもいい?」
「うん。何を買うの?」
「夕飯の材料と、日用品を少しね。重いものもあるから、一緒に来てくれると助かるわ」
「分かった」
彩花は頷き、食卓へ皿を運んだ。
リビングでは父の耕助が新聞を読んでおり、姉の凛花は温かいお茶を飲んでいる。
彩花が席へ着くと、凛花が静かに顔を上げた。
「昨日、楽しかった?」
その一言に、彩花は少しだけ頬を赤くした。
「……うん」
「そう」
凛花はそれ以上尋ねなかった。
けれど、妹の表情を見れば十分だった。
昨日の彩花は、帰宅してからもどこか嬉しそうだった。
夕食の席でも普段どおり話していたが、ふとした瞬間に小さく笑うことがあった。
凛花はその変化を見て、何か良いことがあったのだろうと思っていた。
「よかったわね」
「……ありがとう」
彩花は少し照れながら答えた。
何があったのかを詳しく説明するつもりはなかった。
けれど、楽しかったことを隠したいわけでもない。
自分だけが知っている大切な出来事として、胸の中に残しておきたかった。
*
午前十時を過ぎた頃、九条家の庭では白いサモエドのハクが元気に走り回っていた。
悠真は厚手の上着を羽織り、庭へ出ていた。
冷たい空気の中でもハクは楽しそうで、芝生の上を駆け回っては悠真の足元へ戻ってくる。
「ハク、そんなに走ると疲れるよ」
悠真が声をかけると、ハクは尻尾を大きく振った。
その様子に、悠真は思わず笑った。
ハクは悠真の足元へ鼻先を寄せ、遊んでほしそうに見上げてくる。
「分かった。もう少しだけね」
悠真は庭に置かれた犬用のおもちゃを手に取り、少し離れた場所へ投げた。
ハクは嬉しそうに走り出し、すぐにくわえて戻ってくる。
何度か繰り返したあと、悠真は庭のベンチへ腰を下ろした。
ハクもその足元へ座り、満足そうに息をついている。
悠真は白い毛並みを撫でながら、ふと彩花のことを思い出した。
以前、彩花が九条家を訪れたとき、ハクは彼女にもよく懐いていた。
彩花は最初こそ大きな犬に少し驚いていたが、すぐに慣れ、楽しそうに撫でていた。
その光景を思い出すと、自然に笑みが浮かぶ。
(……また来てもらえたらいいな)
ハクも喜ぶだろう。
琴葉も、きっと嬉しそうに迎える。
母の麗華も彩花のことを気に入っているし、祖父も彼女と本の話をするのを楽しみにしていた。
彩花が九条家へ来ることは、もう特別な出来事ではなくなりつつある。
それでも、彼女が来ると家の空気が少し明るくなる気がした。
悠真はハクの頭を撫でながら、そんなことを考えていた。
*
昼前、水瀬家では彩花と紗月が買い物から帰ってきた。
買い物袋には野菜や肉、牛乳、洗剤などが入っている。
彩花は重い袋を台所へ運び、冷蔵庫へ食材をしまうのを手伝った。
「ありがとう、彩花。助かったわ」
「ううん。これくらいならいつでも言って」
彩花は笑顔で答えた。
紗月はその様子を見ながら、少しだけ考えた。
最近の彩花は、以前よりも表情が明るい。
学校や部活の話もよくするようになり、自分の考えを言葉にすることが増えていた。
それは、母親として嬉しい変化だった。
「そういえば、昨日の九条君との約束はどうだった?」
紗月が自然に尋ねると、彩花は少しだけ動きを止めた。
「……楽しかったよ」
「そう。よかったわね」
「うん」
彩花は頷いた。
紗月はそれ以上尋ねなかった。
娘が話したいと思ったことは、きっと自分から話してくれる。
今は、その時間を待つ方がいい。
そう考え、紗月は冷蔵庫の扉を閉じた。
彩花はそんな母の横顔を見ながら、少しだけ安心した。
家族は、何でも聞き出そうとはしない。
けれど、嬉しいことがあれば一緒に喜んでくれる。
その距離感が、今の彩花には心地よかった。
*
午後、九条家の書斎では悠真が祖父の俊治と向かい合っていた。
書斎には大きな本棚が並び、窓際には古い木製の机が置かれている。暖房の効いた室内には紙と木の匂いが漂い、外の冷たい風とは別の時間が流れているようだった。
俊治は読んでいた本を閉じ、孫へ視線を向けた。
「今日は何か探し物か?」
「少し相談したいことがあって」
「ほう。珍しいな」
俊治は穏やかに笑った。
悠真は少し考えてから口を開いた。
「大切なものを、綺麗に残す方法って何かあるかな」
俊治は眉を上げた。
「大切なもの?」
「うん。紙とか、葉っぱとか。時間が経つと傷みそうなものを、できるだけそのまま残したくて」
俊治は少しだけ考えた。
「紙なら、湿気と光を避けることが大切だな。古い手紙や写真を保存するなら、専用の保管用品もある」
「葉っぱは?」
「押し葉か?」
「うん」
俊治は頷いた。
「それなら、まず十分に乾燥させることだ。乾ききっていないうちに密閉すると、かえって傷むことがある」
悠真は真剣に聞いていた。
「乾いたあとなら?」
「薄い紙に挟んで保管する方法もあるし、保存用の台紙へ固定する方法もある。ただ、葉は脆いからな。無理に触らず、状態を見ながら扱った方がいい」
「なるほど」
悠真は頷いた。
俊治はそんな孫の様子を見ながら、少しだけ笑った。
「誰かに渡すものか?」
悠真は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……どうして?」
「お前が自分のためだけにそこまで気にするのは、少し珍しいと思ってな」
悠真は少し考えたあと、素直に頷いた。
「うん。誰かに渡せたらいいなって思ってる」
俊治はそれ以上追及しなかった。
「それなら、渡す相手がどう使うかも考えるといい。飾るのか、しまっておくのか、それによって向いている形は変わるからな」
悠真はその言葉を聞き、少しだけ表情を変えた。
渡す相手がどう使うか。
昨日、彩花と話した家具修理の短編集を思い出した。
職人は、ただ物を直すのではなく、使う人がこれからどう暮らしたいかを聞いていた。
大切なものを残すためには、形だけを守ればいいわけではない。
相手にとって使いやすく、長く持っていられるものにすることも大切なのだろう。
「ありがとう、おじいちゃん」
悠真は笑った。
「少し考えてみる」
「うむ。急ぐ必要はないぞ。大切なものほど、慌てて形にしない方がいいこともある」
俊治はそう言い、再び本を開いた。
悠真は書斎を出ながら、その言葉を胸の中で繰り返していた。
*
午後三時頃、水瀬家の自室では彩花が机へ向かっていた。
窓の外には柔らかな日差しが差し込み、カーテンがわずかに揺れている。
机の上には、読み終えた文房具店の小説と、深い青色のノートが置かれていた。
彩花はノートを開き、昨日書いた文章を読み返した。
『悠真君にカードを渡した。』
『すごく緊張したけど、喜んでくれた。』
『私の言葉が、ちゃんと届いた。』
その文字を見ると、昨日の出来事が自然に思い出された。
封筒を差し出したときの緊張。
悠真がカードを読んでいたときの沈黙。
そして、嬉しいと言ってくれた声。
彩花は小さく笑った。
(……本当に渡してよかった)
何日も迷った。
書き直そうかと考えたこともあった。
けれど、最後には自分の言葉を信じることができた。
それが、今の彩花には大きな意味を持っていた。
彩花はノートを閉じ、机の引き出しを開けた。
そこには、カードを買ったときに一緒に入っていた、もう一枚のカードが残っている。
淡い青色の花が描かれた、同じデザインのものだ。
彩花はそれを取り出し、しばらく眺めた。
もう一枚。
誰に渡すかは、まだ決めていない。
けれど、今度は悠真以外の誰かへ書いてみるのもいいかもしれない。
母へ。
姉へ。
文芸部の佐々木先輩へ。
感謝を伝えたい人は、思っていたよりたくさんいる。
彩花はそのことに気づき、少しだけ嬉しくなった。
以前なら、ありがとうという言葉を伝えるだけでも、どこか照れくさかった。
けれど今は、自分の気持ちを形にして渡すことが、少し楽しい。
彩花はカードを引き出しへ戻し、代わりに文庫本を手に取った。
読書をしようと思ったのだ。
けれど、数ページ読んだところで、ふと別のことが頭に浮かんだ。
次に書く物語。
『いつか、ここに』は完成した。
部誌の印刷を待つだけになっている。
以前、悠真へ次の作品も読んでほしいと話したことがあった。
そのときは、まだ何を書くか決めていなかった。
けれど今なら、少しだけ書きたいものがある気がした。
誰かへ言葉を届ける話。
手紙でも、カードでもいい。
伝えたいことがあるのに、なかなか言葉にできない人の話。
彩花は文庫本を閉じ、ノートを開いた。
新しいページへ、思いついたことを書き始める。
『手紙を書くのが苦手な女の子。』
『伝えたいことはたくさんあるのに、短い文章にできない。』
『でも、誰かに渡したいと思っている。』
そこまで書いて、彩花は少しだけ笑った。
(……これ、今の私みたい)
けれど、完全に自分の経験を書くつもりはなかった。
物語にするなら、別の人物として考えてみたい。
何を伝えたいのか。
誰へ渡したいのか。
どうして言葉にできないのか。
彩花は少しずつ考えを広げていった。
まだ物語と呼べるほどの形にはなっていない。
けれど、次に書きたいものの小さな種が、そこに生まれ始めていた。
*
夕方、九条家のリビングでは琴葉が兄の悠真へ声をかけていた。
「お兄ちゃん、今日何してたの?」
「午前中はハクと遊んで、午後はおじいちゃんと話してたよ」
「珍しいね。何の話?」
「ちょっと保存方法の相談」
「保存方法?」
琴葉は首を傾げた。
悠真は少し笑った。
「紙とか、押し葉とか」
「ああ、前に川沿いで拾った葉っぱ?」
「うん」
琴葉は思い出したように頷いた。
以前、悠真が持ち帰った橙色の葉を、紙に挟んでいるところを見たことがあった。
兄がそういうものを大切にすることは珍しくない。
けれど、わざわざ祖父へ相談するほど気にしているのは、少し意外だった。
「何か作るの?」
「まだ決めてない」
「ふうん」
琴葉は少しだけ笑った。
「彩花さんに渡すもの?」
悠真は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……どうしてそう思うの?」
「だって、あの日一緒に拾った葉っぱでしょう?」
琴葉は当たり前のように答えた。
悠真は少し考え、素直に頷いた。
「そうだね。渡せたらいいなとは思ってる」
琴葉は嬉しそうに笑った。
「いいじゃん。彩花さん、きっと喜ぶと思う」
「まだ何にするか決めてないけどね」
「それでも、考えてくれてるのが嬉しいんじゃない?」
悠真はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
昨日、彩花が渡してくれたカード。
何日も迷って書いたと言っていた。
自分はその時間ごと嬉しかった。
だから、琴葉の言葉には納得できた。
「……そうかもしれないね」
悠真は小さく笑った。
琴葉はそんな兄の表情を見て、満足そうに頷いた。
*
その夜、青凪市には静かな雨が降り始めた。
窓を叩く雨粒は細かく、街灯の光を受けて小さく輝いている。
水瀬家の自室では、彩花が新しい物語のメモを見つめていた。
九条家の自室では、悠真が押し葉を挟んだ紙を机の上へ置いていた。
二人が考えていることは、まだ互いに知らない。
彩花は、誰かへ言葉を届ける物語を書いてみたいと思っている。
悠真は、彩花から受け取った言葉へ、自分らしい形で何かを返したいと思っている。
それぞれの部屋で、それぞれの時間を過ごしながら、二人は少しずつ次の一歩を考え始めていた。
彩花はノートの新しいページへ、もう一行書き加えた。
『言葉にするまでの時間も、大切なもの。』
その文章を見つめ、静かに笑った。
一方、悠真は押し葉の紙を丁寧に閉じ、机の引き出しへしまった。
何を作るかは、まだ決めていない。
けれど、急ぐ必要はないと思えた。
大切なものだからこそ、ゆっくり考えたい。
窓の外では、冬へ向かう雨が静かに降り続いていた。
そして二人の中では、昨日交わした小さな言葉が、新しい物語と、新しい贈り物の始まりになろうとしていた。




