第79話 この言葉を、あなたに
金曜日の午後四時二十分を少し過ぎた青凪駅前の広場には、学校帰りの生徒や買い物客が行き交い、週末を迎える街特有の賑わいが広がっていた。駅舎の大きなガラス窓には傾き始めた秋の日差しが映り、広場を囲む街路樹の枝先では、残り少なくなった黄色い葉が冷たい風に揺れている。
水瀬彩花は時計台から少し離れた場所に立ち、通り過ぎる人々の向こうへ視線を向けていた。制服の上には薄手のコートを羽織っているものの、夕方の風は思っていた以上に冷たく、鞄の持ち手を握る指先が少しずつ冷えていく。
けれど、彩花が気にしていたのは寒さではなかった。
鞄の内ポケットには、淡い青色の花が描かれた小さな封筒が入っている。文房具店で見つけてから何日も迷い、書いては読み返し、ようやく渡すと決めた二行の言葉が、その中に収められていた。
(……今日、渡すんだよね)
何度も確認してきたことなのに、実際に待ち合わせの場所へ立つと、胸の奥が落ち着かなくなる。昨日までは楽しみの方が大きかったはずなのに、いざその時間が近づくと、封筒を渡したあとの悠真の表情まで想像してしまう。
困らせるような内容ではないと思っている。
それでも、悠真に読まれることを考えると、どうしても緊張してしまうのだった。
そのとき、広場の向こうに見慣れた姿が現れた。
桜華学園の制服に落ち着いた色のコートを重ね、通学用の鞄を片手に持った九条悠真が、こちらへ向かって歩いてくる。行き交う人々の間から彩花を見つけると、悠真は自然に表情を和らげ、少しだけ歩調を速めた。
その笑顔を見た瞬間、彩花の胸にあった緊張がわずかに形を変えた。
何を渡すか、どう受け取ってもらえるか。
そんなことばかり考えていたけれど、今はそれよりも先に、悠真に会えたことが嬉しかった。
「彩花さん、お待たせ。少し早く着いたつもりだったんだけど、先に来てたんだね」
「ううん、私も今来たところだよ。学校を出てから思ったより電車の乗り継ぎがよくて、早く着いちゃったの」
彩花が答えると、悠真は安心したように笑った。
「それならよかった。でも、外で待つには少し寒かったでしょう。手、冷えてない?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫だよ。今日はコートも着てきたし」
「それならいいんだけど。最近、日が落ちるのも早くなったからね」
悠真は空を見上げた。
まだ夕方と呼べる時間なのに、建物の影が広場の半分ほどを覆い始めている。夏の頃なら明るかった時間帯も、今では帰り道の寒さを意識する季節になっていた。
彩花はその横顔を見ながら、何度も考えていた言葉を口にしようとした。
(……今、渡しちゃおうかな)
けれど、いざ封筒を取り出そうとすると、指先が思うように動かない。
会ってすぐに渡せば、かえって自然なのかもしれない。
しかし、何日もかけて用意したものを挨拶の直後に差し出すのは、少し慌ただしい気もした。
彩花がそんなことを考えていると、悠真が穏やかに尋ねた。
「このあと、どこか行きたいところはある? 彩花さんの予定に合わせるよ」
「えっと……今日は、そんなに長くならないと思うんだけど、少し落ち着いて話せるところがいいな」
「それなら、駅に隣接している商業施設の休憩スペースはどうかな。窓際に座れる場所があるし、外より暖かいと思う」
彩花はその場所を思い出した。
以前、家族と買い物へ出かけたときに利用したことがある。広い通路から少し奥まったところにベンチが並び、買い物の途中で休憩する人たちが静かに過ごしていた。
「うん、そこがいい。あそこならゆっくり話せそうだね」
「じゃあ、行こうか。途中に飲み物を買えるところもあるから、何か温かいものが欲しくなったら言ってね」
悠真はそう言って、彩花の歩き出すのを待った。
二人は並んで駅前の広場を横切った。
人通りの多い場所では自然に歩幅を合わせ、横断歩道では信号が変わるまで隣に立つ。以前なら、悠真と並んで歩くだけで周囲の視線を気にしていた彩花だったが、今ではその時間を当たり前のように楽しめるようになっていた。
それでも、今日だけは少し違う。
鞄の中にある小さな封筒が、いつもと同じ帰り道を特別なものに変えていた。
*
商業施設の休憩スペースには、夕方の柔らかな照明が灯っていた。
大きな窓の向こうには駅前広場が見え、ベンチの近くには観葉植物が置かれている。買い物を終えた親子連れや、温かい飲み物を手にした年配の夫婦が、それぞれの時間を過ごしていた。
悠真は空いている二人掛けのベンチを見つけると、彩花へ確認してから腰を下ろした。彩花も隣へ座り、膝の上に鞄を置いて持ち手を揃える。
暖房の効いた室内へ入ったことで、冷えていた指先が少しずつ温かくなっていく。
「学校はどうだった? 今日は文芸部、なかったんだよね」
「うん。今日は授業だけだったよ。部誌の編集もだいぶ進んでるから、今週の作業は昨日で一区切りついたの」
「そうなんだ。もう印刷に出せそう?」
「まだ最終確認が残ってるけど、前よりずっと完成が近くなった感じがするよ。仮の目次を見せてもらったとき、自分の作品がほかの部員の作品と並んでるのが嬉しかった」
彩花はそう言いながら、部室で見た目次を思い出した。
自分の名前と作品の題名が、一冊の本の一部として並んでいた。
書いている間は、自分の文章を完成させることで精いっぱいだった。けれど今は、それが誰かに読まれる本になることを、少しずつ実感できるようになっている。
「前に原稿を読ませてもらったときも思ったけど、彩花さんの物語は、読んだあとにもう一度最初から読みたくなるところがあるよね。完成した部誌で読むのも楽しみにしてる」
悠真の言葉に、彩花は嬉しそうに顔を上げた。
「本当? でも、悠真君はもう内容を知ってるでしょう?」
「知ってるよ。でも、同じ物語でも読むときの気持ちで印象が変わることはあるし、一冊の本になったらまた違って見えると思う」
悠真は少し考え、言葉を続けた。
「それに、彩花さんが完成まで頑張ってきたことも知ってるから。作品だけじゃなくて、本になったところまで見たいんだ」
彩花はすぐには返事ができなかった。
悠真は、作品を読んでくれただけではない。
最初の原稿を渡したときも、感想を聞いたときも、直したところを話したときも、いつも彩花自身の考えを大切にしてくれた。
その積み重ねが、今ここにある。
(……そうなんだよね)
彩花は膝の上の鞄へ視線を落とした。
カードに書いた言葉は、まさにそのことだった。
自分の好きなものを大切にしてくれてありがとう。
それを伝えたいと思った理由が、今の会話の中にもあった。
彩花は一度だけ深く息を吸い、顔を上げた。
「悠真君、あのね……」
「うん?」
悠真がこちらを見る。
その視線はいつもと変わらず穏やかで、彩花が次の言葉を探す時間も自然に待ってくれていた。
彩花は鞄の内ポケットへ手を伸ばした。
指先が封筒の端に触れる。
取り出そうとした、そのときだった。
少し離れたベンチから、小さな子供の声が聞こえてきた。
「お母さん、これ落ちちゃった」
見ると、幼い女の子が膝の上に広げていた紙袋を傾け、中から色鉛筆を何本か落としてしまったらしい。母親が慌てて拾おうとするより先に、足元を転がった一本が彩花たちの近くまで届いた。
彩花は反射的に手を引き、ベンチの下へ転がりかけた色鉛筆を拾った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
女の子が元気よく礼を言う。
母親も申し訳なさそうに頭を下げ、彩花は笑顔で応じた。
それだけの小さな出来事だった。
けれど、元の姿勢へ戻ったときには、さっきまで集めていた勇気が少しだけ散ってしまっていた。
悠真はそのことに気づいたのか、彩花の表情を見て静かに尋ねた。
「何か話そうとしてた?」
彩花は少し迷ってから頷いた。
「うん。でも……ちょっとだけ待ってもらってもいい?」
「もちろん。急がなくていいよ」
悠真はそう答え、それ以上は尋ねなかった。
その気遣いがありがたくて、彩花は小さく笑った。
同時に、ますます渡したくなった。
悠真はいつも、こうして自分のペースを尊重してくれる。
言葉を急かさず、答えを決めつけず、彩花が話し始めるのを待ってくれる。
その優しさに甘えてばかりいるのではなく、今日は自分から気持ちを届けたかった。
*
少し時間を置いてから、二人は先日読んだ本の話を始めた。
彩花が借りた文房具店の小説と、悠真が読み終えた家具修理の短編集。
どちらも、古いものに新しい役割を与える人々の物語だった。
「文房具店の方はね、最後に主人公が翌月の仕入れ予定を書き始めるの。ずっと店を続けるか迷ってた人だから、それだけで答えが分かる気がして」
彩花は窓の外へ視線を向けながら話した。
「誰かに決意を宣言するわけじゃないのに、ちゃんと伝わるのが好きだった。読み終わってからも、その場面を何度か読み返しちゃった」
「いい終わり方だね。本人にとっては大きな決断でも、実際にすることは普段の仕事の続きなんだ」
「そうなの。特別なことを言わなくても、これからどうしたいかが伝わるんだなって思った」
悠真は興味深そうに頷いた。
「家具修理の短編集にも、少し似たところがあったよ。二番目の話で、食卓を二人用の机に作り直したでしょう。昔と同じ形じゃなくても、大切なものを残せるっていうのがよかった」
「私もそこが好き。使わなくなったから終わり、じゃないんだよね」
彩花の声が自然に弾んだ。
自分の好きな場面を話すと、悠真はいつも真剣に聞いてくれる。
同じところが好きだと言ってくれることもあれば、彩花が気づかなかった部分を教えてくれることもある。
意見が違っても、どちらかを正しいと決めることはない。
だからこそ、もっと話したくなる。
彩花はそのことを改めて感じていた。
「……悠真君と話してるとね」
彩花はそこで一度言葉を切った。
悠真が顔を向ける。
「自分がどうしてその本を好きなのか、前より分かる気がするの。読んでるときは何となくいいなって思ってたところも、話してるうちに言葉になるから」
悠真は少し驚いたように瞬きをした。
それから、嬉しそうに笑った。
「俺も同じだよ。彩花さんの感想を聞くと、自分とは違うところに気づけるから。だから、読み終わった本でもまた話したくなるんだと思う」
その言葉を聞いて、彩花は胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分だけではなかった。
悠真も、二人で本について話す時間を大切に思ってくれている。
それが分かっただけで、何日も抱えていた緊張が少し和らいだ。
(……もう、大丈夫)
彩花は鞄へ視線を落とした。
ここまで何度も迷ってきた。
けれど、今はもう、何を言われるかよりも、伝えたいという気持ちの方が強かった。
*
「悠真君」
彩花はゆっくりと顔を上げた。
「うん。どうしたの?」
「今日、会いたいって言ったのには、ちゃんと理由があるの」
悠真は静かに頷いた。
「渡したいものがあるって言ってたね」
「うん。……これなんだけど」
彩花は鞄の内ポケットから、小さな封筒を取り出した。
淡い青色の花が描かれた、白い封筒。
何度も触れたはずなのに、実際に取り出してみると、紙の感触がいつもよりはっきり伝わってくる。
彩花はそれを両手で持ち、悠真へ向き直った。
「この前、文房具店でカードを買ったでしょう? あれから何を書こうかずっと考えてて……ようやく決めたの」
悠真の視線が封筒へ落ちた。
「これが、そのカード?」
「うん」
彩花は頷いた。
少しだけ頬が熱くなる。
悠真は封筒を見つめたあと、彩花へ視線を戻した。
「俺に書いてくれたんだね」
「……そうなの」
その一言を口にしただけで、胸が大きく鳴った。
彩花は封筒を持つ指先へ力を込めかけ、慌てて緩めた。
紙にしわをつけたくなかった。
「何日も考えたんだけど、結局、そんなに長い文章にはならなくて。でも、今の私が一番伝えたいことを書いたつもりなの」
彩花はそこで一度、言葉を止めた。
以前の自分なら、きっとこう続けていただろう。
大したことじゃないから。
つまらなかったらごめんね。
そんなふうに、自分が大切にしたものを先に小さく見せようとしていたかもしれない。
けれど、今回はそうしたくなかった。
このカードは、自分で選び、自分で考えて書いたものだ。
悠真へ渡したいと思った気持ちまで、遠慮して隠す必要はない。
彩花は小さく息を吸い、封筒を差し出した。
「悠真君に、受け取ってほしい」
悠真はすぐに頷いた。
「ありがとう、彩花さん。もちろん受け取るよ」
差し出された封筒へ、悠真は両手を伸ばした。
受け取るときには紙の端が折れないように指先を添え、そっと自分の手元へ引き寄せる。
その丁寧な仕草を見た瞬間、彩花は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
まだ読んでもらっていない。
それでも、すでに大切に扱ってもらえている。
そのことが嬉しかった。
悠真は封筒の花柄を眺め、柔らかく笑った。
「綺麗なカードだね。彩花さんが選んだの?」
「うん。文房具店で見つけたとき、色が好きだなって思って。少し前に家で見つけた布にも、こんな感じの花が描かれてたから」
「そうなんだ。落ち着いた色で、彩花さんらしいね」
彩花は少し照れながら笑った。
何気なく選んだ色を褒めてもらえたことが嬉しかった。
悠真は封筒を手にしたまま、少しだけ迷うような表情を見せた。
「……開けてもいい?」
彩花の胸が、また大きく鳴った。
読んでもらうために渡したのだから、当然の質問だった。
けれど、目の前で読まれることを想像すると、さっきまで落ち着いていたはずの気持ちが再び揺れ始める。
(……今、読むんだ)
家へ帰ってから読んでもらう方が、恥ずかしくないかもしれない。
けれど、それでは悠真がどんな顔をするのか分からない。
自分の言葉を受け取ったとき、どう感じてくれるのか。
その瞬間を見たいという気持ちも、確かにあった。
彩花は膝の上で手を揃え、ゆっくり頷いた。
「……今、読んでほしい」
「分かった」
悠真は封筒の口を丁寧に開いた。
中から取り出したカードには、淡い青色の花と、彩花の手書きの文字が並んでいる。
悠真はその文章へ視線を落とした。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
彩花は息を止めそうになった。
自分で書いた文章なのに、悠真が読んでいると思うだけで、まったく違うもののように感じられる。
彼は一度読み終えても、すぐには顔を上げなかった。
もう一度、ゆっくりと文字を追っている。
その表情からは、何を考えているのかはっきりとは分からない。
(……どう、思ったかな)
彩花は膝の上で指を組んだ。
困っているようには見えない。
けれど、嬉しいと思ってくれているのか、驚いているのか、その違いまでは読み取れなかった。
休憩スペースには、周囲の人々の会話や足音が静かに響いている。
誰かが自動販売機で飲み物を買う音がした。
窓の向こうでは、駅前広場をバスがゆっくり通り過ぎていく。
いつもなら気にも留めない音が、今だけは妙にはっきり聞こえた。
やがて、悠真が顔を上げた。
その表情を見た瞬間、彩花は胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
悠真は驚いていた。
けれど、それ以上に、静かな喜びが浮かんでいた。
「……ありがとう、彩花さん」
悠真はゆっくりと言った。
「すごく嬉しい」
彩花は思わず顔を上げた。
「……本当?」
「うん。本当に。何て言ったらいいか、少し考えちゃった」
悠真はカードへもう一度視線を落とした。
「俺、彩花さんの好きなものを大切にできてるんだね」
その言葉に、彩花は少し驚いた。
悠真は、自分が何か特別なことをしているとは思っていなかったのかもしれない。
本の話を聞くことも、感想を伝えることも、一緒に図書館へ行くことも。
彼にとっては自然な行動だったのだろう。
彩花はゆっくり頷いた。
「できてるよ。すごく」
悠真がこちらを見る。
彩花は言葉を続けた。
「私が好きな本の話をすると、悠真君はいつもちゃんと聞いてくれるでしょう? 同じ本を読んでくれたり、感想を話してくれたり。私が書いた物語も、最後まで丁寧に読んでくれた」
彩花は少しだけ視線を落とした。
けれど、そこで言葉を止めなかった。
「私、前は自分の好きなものを話すときも、相手が退屈してないかなって考えちゃうことがあったの。でも、悠真君と話してると、もっと聞いてほしいって思うんだよね」
悠真は静かに聞いていた。
彩花は自分の言葉を確かめるように続けた。
「だから、ありがとうって伝えたかったの。私が好きなものを、私と同じように大切にしてくれて」
最後まで言い終えると、彩花は小さく息を吐いた。
胸が熱い。
恥ずかしさもある。
けれど、後悔はなかった。
悠真はしばらく彩花を見つめていた。
それから、少しだけ目元を和らげた。
「……彩花さん」
「うん?」
「俺は、彩花さんが好きなものの話をしてくれるのが嬉しいんだ」
彩花は瞬きをした。
悠真は穏やかな声で続けた。
「本を読んで面白かったところとか、書いていて悩んだところとか、何でもない日に見つけたものとか。彩花さんが話してくれると、俺もそれを知りたくなる」
その言葉は、悠真にとって飾りのない本心だった。
彩花が楽しそうに話す姿を見るのが好きだった。
彼女が大切にしているものを、自分も少しずつ知っていくことが嬉しかった。
それは最初に図書館で出会った頃から続いている気持ちだったが、今では以前よりずっと自然で、日常に近いものになっていた。
「だから、俺も彩花さんと話す時間が好きだよ。今日も、会えてよかった」
彩花の胸が、ひときわ大きく鳴った。
自分がカードに書いた言葉と、よく似た言葉だった。
けれど、悠真の声で聞くと、思っていた以上に胸へ響いた。
(……そんなふうに言ってくれるんだ)
彩花は思わず視線を落とした。
頬が熱くなっている。
自分から伝えたはずなのに、同じような気持ちを返されると、どうしてこんなに落ち着かなくなるのだろう。
嬉しい。
それは確かだった。
けれど、嬉しいだけでは説明しきれない何かが、胸の奥で静かに広がっていた。
悠真は彩花が俯いたのを見て、少しだけ心配そうに尋ねた。
「……大丈夫?」
彩花は慌てて顔を上げた。
「だ、大丈夫。ちょっと……嬉しかっただけ」
その答えに、悠真は安心したように笑った。
「そっか。それならよかった」
悠真はカードを両手で持ち直した。
淡い青色の花が描かれた、小さな一枚。
そこに書かれた二行の言葉が、今はとても大切なものに思えた。
「このカード、大切にするね」
彩花は顔を上げた。
悠真は真剣な表情で続けた。
「彩花さんが考えて書いてくれたものだから。家へ帰ったら、ちゃんとしまっておく」
その言葉に、彩花の胸が温かくなった。
「……うん。ありがとう」
彩花は小さく笑った。
何日も迷っていた封筒は、もう自分の鞄にはない。
今は悠真の手の中にある。
自分の言葉が、ちゃんと届いた。
その実感が、ゆっくりと胸の奥へ広がっていった。
*
カードを受け取った悠真は、封筒へ丁寧に戻してから鞄の内側へしまった。
その仕草は普段と変わらず落ち着いていたが、彩花には少しだけ特別に見えた。
紙の端を揃え、ほかの荷物に押されない位置へ入れる。
自分が何日も大切に持ち歩いていたものを、悠真も同じように扱ってくれている。
それが嬉しくて、彩花は自然に頬を緩めた。
「……何だか、すごく緊張しちゃった」
彩花が小さく笑うと、悠真も少しだけ笑った。
「そうだったんだ。確かに、渡すとき少し緊張してるように見えたけど」
「うん。何日も前から考えてたのに、いざ会うと、いつ渡せばいいか分からなくなっちゃって」
「それで、さっき話しかけようとしてたんだね」
「そうなの。でも、色鉛筆が転がってきたでしょう? あのあと、またタイミングが分からなくなっちゃった」
彩花がそう言うと、悠真は思い出したように笑った。
「なるほど。でも、急がなくてよかったと思うよ。俺は彩花さんと本の話もできて嬉しかったし」
「……そう言ってもらえると安心する」
彩花は少しだけ肩の力を抜いた。
渡すことばかり考えていたけれど、その前に交わした会話も楽しかった。
いつもと同じように本の感想を話し、好きなところを伝え合った。
その時間があったからこそ、最後には自然に封筒を差し出せたのかもしれない。
「そういえば、彩花さん」
「うん?」
「カードを買った文房具店って、前に話してたお店?」
「そうだよ。駅から少し歩いたところにある、小さなお店」
「今度、行ってみたいな」
彩花は目を瞬かせた。
「悠真君も?」
「うん。彩花さんが選んだカード、綺麗だったから。ほかにどんなものがあるのか気になる」
彩花は嬉しそうに笑った。
「いろいろあるよ。便箋とか封筒も綺麗だし、ノートもたくさん置いてあるの。小さいお店だけど、見てると時間があっという間に過ぎちゃう」
「それなら、今度案内してもらおうかな」
「うん。私でよければ」
彩花はそう答えてから、少しだけ考えた。
自分が好きな場所を、悠真へ案内する。
以前なら、相手が退屈しないか心配していたかもしれない。
けれど今は、悠真が本当に興味を持ってくれていることが分かる。
だから、素直に嬉しかった。
*
午後五時を少し過ぎた頃、二人は休憩スペースを出た。
商業施設の自動ドアが開くと、夕方の冷たい空気が頬へ触れた。駅前広場では街灯が灯り始め、空は淡い橙色から青みを帯びた色へ変わりつつある。
彩花はコートの前を軽く押さえながら、悠真の隣を歩いた。
鞄は、来たときより少し軽くなったように感じる。
もちろん、封筒一枚の重さなどほとんど変わらない。
けれど、何日も抱えていた緊張がなくなったことで、気持ちまで軽くなったのかもしれない。
「今日はありがとう、悠真君」
彩花が言うと、悠真は顔を向けた。
「こちらこそ。会えてよかったよ」
「……うん。私も」
彩花は自然に笑った。
今日は、ただカードを渡すだけの約束だった。
それでも、悠真と話しているうちに、伝えたいことがさらに増えていた。
自分の言葉を受け取ってくれたこと。
同じように大切な時間だと言ってくれたこと。
そして、何日も迷ったことを笑わずに聞いてくれたこと。
全部、嬉しかった。
改札の近くまで来ると、彩花は足を止めた。
「じゃあ、またね」
「うん。また。帰り、気をつけて」
「悠真君もね」
彩花は笑顔を返し、改札へ向かおうとした。
けれど、数歩進んだところで、ふと足を止める。
振り返ると、悠真はまだそこにいた。
彩花が振り返ったことに気づき、少し不思議そうに首を傾げる。
「彩花さん?」
彩花は少しだけ迷った。
けれど、今なら言える気がした。
「……カード、読んでくれてありがとう」
悠真は一瞬だけ驚いたあと、柔らかく笑った。
「俺こそ、書いてくれてありがとう」
その言葉に、彩花は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……うん」
小さく頷き、今度こそ改札へ向かう。
背中へ冷たい風が触れた。
けれど、胸の中には不思議な温かさが残っていた。
*
その夜、水瀬家では彩花が自室の机へ向かっていた。
鞄を片づけ、制服をハンガーへ掛ける。
机の上には、深い青色のノートが置かれていた。
彩花は椅子へ座り、ノートを開いた。
今日の日付を書く。
それから、少し考えて文章を続けた。
『悠真君にカードを渡した。』
『すごく緊張したけど、喜んでくれた。』
そこまで書いて、彩花はペンを止めた。
悠真がカードを読んだときの表情を思い出す。
驚いたような顔。
それから、静かに嬉しそうに笑った顔。
そして、『俺も彩花さんと話す時間が好きだよ』と言ってくれた声。
思い出すと、また少し頬が熱くなった。
(……あんなふうに言ってくれると思わなかった)
彩花はノートへ視線を戻した。
もう一行、書き加える。
『私の言葉が、ちゃんと届いた。』
その文章を見つめ、彩花は小さく笑った。
以前の自分なら、言いたいことがあっても飲み込んでしまったかもしれない。
相手がどう思うかを考えすぎて、結局何も伝えられなかったかもしれない。
けれど今日は、自分で選んだ言葉を、自分の手で渡すことができた。
それが嬉しかった。
彩花はノートを閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の青凪市には、静かな風が吹いている。
明日になれば、またいつもの土曜日が始まる。
けれど今日の出来事は、きっと長く覚えていると思った。
*
同じ頃、九条家の自室では悠真が机の引き出しを開けていた。
中には、祖父から届いた古い絵葉書や、昔の写真が丁寧に保管されている。
悠真はその一角へ、今日彩花から受け取った封筒を置いた。
淡い青色の花が描かれた、小さな封筒。
中には、彩花の手書きの言葉が入っている。
悠真は一度だけカードを取り出し、もう一度読んだ。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
短い文章だった。
けれど、何度読んでも嬉しかった。
彩花が自分の好きなものを話してくれること。
自分の書いた物語を見せてくれること。
行きたい場所へ誘ってくれること。
それらは悠真にとって、すでに大切な日常の一部になっていた。
そして今日、彩花はその時間を好きだと言ってくれた。
悠真はカードを封筒へ戻し、引き出しの中へ丁寧にしまった。
(……大切にしよう)
それは、紙そのものだけではない。
彩花が何日も考えて書いてくれた気持ちも。
今日、少し緊張しながら渡してくれた姿も。
全部、大切にしたいと思った。
引き出しを閉じると、悠真は机の上の文庫本へ手を伸ばした。
けれど、すぐには開かなかった。
ふと、彩花へ何か返したくなったのだ。
同じようにカードを書くのもいいかもしれない。
けれど、それではただ真似をするだけになってしまう気がする。
彩花が自分で考えて選んだように、自分も何かを選びたい。
悠真は少し考え、机の端に置かれた押し葉の紙へ目を向けた。
秋の川沿いで拾った、橙色の葉。
その葉を見つめながら、悠真は小さく笑った。
まだ何を作るかは決めていない。
けれど、彩花へ何かを渡したいという気持ちは、少しずつ形になり始めていた。
窓の外では、冷たい夜風が庭の木々を揺らしている。
冬が近づく青凪市で、二人が交わした小さな言葉は、それぞれの部屋に静かに残っていた。




