第78話 金曜日まで、あと二日
水曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、窓の向こうには薄い雲が広がっている。布団から出ると、暖房をつけていない部屋の空気が思った以上に冷たく、彩花はベッドの端に置いていたカーディガンを肩へ羽織った。
机の上には、昨夜読みかけた文庫本と、深い青色のノートが並んでいる。
そして鞄の内ポケットには、淡い青色の花が描かれた封筒が入っていた。
金曜日、悠真へ渡すためのものだ。
彩花は制服へ着替える前に鞄を開き、内ポケットをそっと確かめた。封筒は昨日しまったときと同じ向きで収まっており、角が折れたり、ほかの荷物に押されたりした様子もない。
(……ちゃんとある)
安心した直後、彩花は自分の行動がおかしくなった。
まだ金曜日ではない。
今日も明日も学校があり、悠真と会う約束はその先なのに、朝から封筒の状態を確認している。
しかも、昨夜寝る前にも一度確かめたばかりだった。
彩花は小さく笑い、鞄の口を閉じた。
中に入っているのは、二行の短い文章だ。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
書いたときは、これが一番素直な言葉だと思った。
今でも、その気持ちは変わっていない。
けれど、実際に悠真が読むところを想像すると、胸の奥が落ち着かなくなる。
(……読んだら、どんな顔するんだろう)
喜んでくれるだろうか。
それとも、少し驚くだろうか。
悠真はいつも優しい。
彩花が何かを話すと、急かさずに聞いてくれる。
だから、カードを渡したことで困らせるとは思っていない。
それでも、普段の会話とは違う形で気持ちを伝えることには、独特の緊張があった。
彩花は鏡の前へ立ち、髪を整えた。
金曜日まで、あと二日。
そう考えた途端、いつもと同じ水曜日が少しだけ長く感じられた。
*
朝食の席では、母の紗月が温かい味噌汁をよそっていた。
台所からは焼いた魚の香りが漂い、食卓には卵焼きと小鉢が並んでいる。父の耕助は新聞を畳み、出勤前の時間を確認していた。
彩花が席へ着くと、向かい側に座っていた姉の凛花が顔を上げた。
「おはよう、彩花」
「おはよう、お姉ちゃん」
「今日は早いのね」
紗月が味噌汁を置きながら言う。
「うん。ちょっと早く起きちゃった」
「寒くて目が覚めた?」
「それもあるかも」
彩花は曖昧に笑い、箸を取った。
凛花はそんな妹を一度だけ見たが、特に何も言わなかった。
最近の彩花は、以前よりも自分の予定を楽しそうに話すようになっている。図書館へ行くことも、文芸部の活動も、誰かと会う約束も、必要以上に遠慮せず口にするようになった。
それは凛花にとって嬉しい変化だった。
「そういえば、冬の部誌は順調?」
凛花が尋ねると、彩花は顔を上げた。
「うん。校正も終わったよ。今は表紙とか、全体の編集をしてるところ」
「じゃあ、もうすぐ形になるのね」
「冬休み前には配る予定。まだ正確な日は決まってないけど」
「完成したら読ませて」
「もちろん」
彩花は素直に頷いた。
以前なら、姉へ作品を見せることにも緊張していた。
凛花は何でも上手にできる人だと思っていたから、自分の書いたものをどう評価されるか気になっていたのだ。
けれど今は、姉にも読んでほしいと思える。
自分の物語を、好きな人たちへ届けたい。
その気持ちが少しずつ強くなっていた。
「そうだ、金曜日なんだけど」
彩花は味噌汁のお椀を置いてから続けた。
「放課後、悠真君と少し会う約束してるから、帰りがいつもより遅くなるかも」
紗月が頷く。
「分かったわ。夕飯までには帰れそう?」
「うん。そんなに遅くならないと思う」
「寒くなってきたから、暗くなる前に帰るようにね」
「はーい」
彩花は返事をして、再び箸を動かした。
その様子を見ていた凛花が、静かに尋ねる。
「図書館?」
「まだ場所は決めてないの。駅の近くで会おうって話だけ」
「そう」
凛花はそれ以上尋ねなかった。
ただ、妹が金曜日の予定を話したとき、ほんの少しだけ声を弾ませたことには気づいていた。
以前の彩花なら、誰かと会うことを家族へ伝えるだけでも、どこか申し訳なさそうにしていた。
今は違う。
楽しみにしている予定を、楽しみだと思ったまま話せている。
凛花はその変化を大切にしたかった。
*
青葉高校へ到着すると、彩花はいつものように教室へ向かった。
廊下には登校してきた生徒たちの声が響き、教室の窓際では数人が次の小テストについて話している。彩花は席へ鞄を置き、教科書を取り出そうとして、ふと内ポケットへ目を向けた。
封筒はそこにある。
もちろん、朝から何も変わっていない。
(……学校にまで持ってこなくてもよかったかな)
金曜日に渡すなら、家へ置いておいてもよかったはずだ。
けれど、昨日しまったままにしておきたかった。
取り出したり戻したりするうちに、どこかへ置き忘れてしまう方が心配だったからだ。
彩花は鞄の口を閉じ、授業の準備を始めた。
午前中の授業は普段どおり進んだ。
数学の問題を解き、英語の長文を読み、現代文では登場人物の心情について意見を交わした。
彩花は授業へ集中していたが、休み時間になると、ふと金曜日のことを思い出してしまう。
あと二日。
その言葉が頭の中で繰り返される。
けれど、不思議と嫌な緊張ではなかった。
発表会の前や、試験の結果を待っているときの不安とは違う。
楽しみな予定が近づくにつれて、気持ちが少しずつ落ち着かなくなる。
そんな感覚だった。
昼休み、彩花が弁当箱を開いていると、田辺大地が近くの席から声をかけてきた。
「水瀬、今日なんか機嫌いい?」
「え?」
「いや、朝からちょっと楽しそうだから」
彩花は箸を持ったまま瞬きをした。
「そうかな?」
「そう見えるけど」
「別に、普通だよ」
「ふうん」
大地は特に深く考えた様子もなく、自分の昼食へ視線を戻した。
「まあ、いいことあるならいいじゃん」
その言葉に、彩花は少し笑った。
「うん。そうだね」
何があるのかを説明する必要はない。
自分だけが知っている楽しみがあってもいい。
彩花はそんなことを思いながら、弁当のおかずを一口食べた。
*
同じ日の午後、桜華学園では九条悠真が生徒会室で資料を整理していた。
窓の外では、校庭の木々が風に揺れている。生徒会室には紙をめくる音と、時計の針が進む小さな音が響いていた。
森川航平が机の向こう側から顔を上げる。
「九条、金曜の放課後って空いてる?」
悠真は手元の資料から視線を上げた。
「金曜日?」
「うん。生徒会の作業、少し残りそうだから手伝ってもらおうかと思って」
悠真は少し考えた。
金曜日は彩花と会う約束がある。
まだ時間や場所を細かく決めてはいないが、放課後に会うことは決まっている。
「ごめん。金曜日は予定があるんだ」
「珍しいな。何か用事?」
「うん。人と会う約束」
森川は一瞬だけ目を丸くした。
「へえ。じゃあ仕方ないな」
「木曜日なら手伝えるよ」
「本当? じゃあ明日まとめてやろう」
「分かった」
悠真は頷き、資料へ視線を戻した。
森川はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
以前の九条悠真なら、生徒会の仕事を優先して予定を調整することが多かった。
もちろん、今でも責任感は強い。
頼まれた仕事を途中で投げ出すことはないし、必要なことにはきちんと対応する。
けれど最近は、自分の予定を大切にすることも増えていた。
それが誰との約束なのか、森川は何となく想像できた。
ただ、本人が話さない以上、わざわざ尋ねることでもない。
「じゃあ明日よろしく」
「うん」
森川はそう言って、再び資料へ向かった。
悠真も仕事へ戻ったが、心の片隅には金曜日の約束が残っていた。
彩花が渡したいものがあると言っていた。
文房具店で買った小さなカードかもしれない。
けれど、それが何なのかは分からない。
(……何だろうな)
気にならないと言えば嘘になる。
ただ、無理に聞き出したいとは思わなかった。
彩花が「秘密」と言ったとき、少し楽しそうだったからだ。
その気持ちごと受け取るのが、今は一番いい気がしていた。
*
水曜日の放課後、彩花は文芸部の部室で、冬の部誌に関する作業を手伝っていた。
今日は掲載作品の順番や、目次の配置について意見を出し合っている。
佐々木先輩が机の上へ仮の目次を置き、部員たちへ説明した。
「今回は短編と詩が混ざってるから、読みやすい順番を考えたいの。長い作品が続くと少し重くなるかもしれないし、雰囲気も見ながら決めようと思って」
彩花は目次へ目を落とした。
自分の『いつか、ここに』は、後半に配置されている。
前には短い詩があり、後ろには別の部員が書いた日常短編が続く予定だった。
彩花はその並びを見て、少しだけ嬉しくなった。
一冊の部誌の中で、自分の作品がほかの作品と並ぶ。
それぞれ違う人が書いた物語なのに、一つの本として読まれる。
そのことが新鮮だった。
「水瀬さん、どう思う?」
佐々木に尋ねられ、彩花は少し考えてから答えた。
「私は、この順番好きです。前の詩が静かな雰囲気なので、そのあとに私の話が来ると、自然につながる気がします」
「なるほど。確かにそうかも」
佐々木は頷き、ほかの部員へも意見を求めた。
彩花は自分の考えを伝えられたことに、小さな満足感を覚えた。
以前なら、先輩たちの意見を優先してしまい、自分から話すことをためらっていたかもしれない。
けれど今は、作品を作る一人として意見を出せる。
それは、原稿を書き終えたことと同じくらい大切な変化だった。
部活動が終わる頃には、窓の外が少し暗くなっていた。
彩花は鞄を持ち、部室を出た。
廊下を歩きながらスマートフォンを確認すると、悠真からメッセージが届いていた。
『金曜日、駅前の広場でどうかな?』
彩花は足を止めた。
金曜日の約束。
場所が決まると、急に現実味が増した。
『うん。いいよ』
『時間は四時半くらいで大丈夫?』
『大丈夫』
『じゃあ、金曜日に』
彩花は画面を見つめた。
四時半。
駅前の広場。
具体的な時間と場所が決まっただけなのに、胸が少し速く鳴る。
『楽しみにしてるね』
彩花はそう送った。
すぐに悠真から返事が来る。
『俺も』
短い二文字だった。
けれど、その言葉を見た瞬間、彩花は自然に笑っていた。
*
木曜日の朝、彩花は再び封筒を確認していた。
昨日よりも、少しだけ慎重に。
鞄の内ポケットから取り出し、机の上へ置く。
淡い青色の花が描かれた封筒は、まだ綺麗な状態だった。
彩花は封を開けず、表面を指先でそっと撫でた。
中には、二行の文章が入っている。
昨日の夜も読み返した。
書き直そうかと迷った時間もあった。
けれど結局、そのままにしている。
(……これでいい)
自分の気持ちを、必要以上に飾らなくていい。
悠真へ伝えたいことは、あの二行にちゃんと入っている。
彩花は封筒を鞄へ戻し、制服の襟を整えた。
明日。
そう思うと、昨日までより少しだけ緊張が強くなった。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
むしろ、早く金曜日になってほしい。
そんな気持ちもあった。
*
木曜日の昼休み、桜華学園の食堂では、悠真と森川が昼食を取っていた。
窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、周囲では生徒たちが週末の予定を話している。
森川は箸を置き、悠真へ尋ねた。
「そういえば、明日の予定って楽しみなの?」
悠真は少し驚いたように顔を上げた。
「どうして?」
「いや、昨日からなんか機嫌よさそうだから」
「そうかな」
「そう見える」
森川は笑った。
悠真は少し考え、素直に頷いた。
「楽しみだよ」
「へえ」
「何?」
「いや、九条がそういうこと普通に言うの、ちょっと新鮮だなって」
悠真は首を傾げた。
「そう?」
「前は予定聞いても、仕事とか勉強とか、そういう話ばっかりだったし」
悠真は少しだけ笑った。
「今も仕事はしてるよ」
「知ってる。だからこそ、だよ」
森川はそれ以上追及しなかった。
悠真も、特に説明する必要はないと思っていた。
ただ、彩花と会う約束がある。
それが楽しみだ。
その気持ちを、以前より自然に認められるようになっていた。
*
同じ日の放課後、彩花は帰宅途中の電車で、窓の外を眺めていた。
夕方の空は薄い橙色に染まり、遠くの建物の輪郭が柔らかく見える。
膝の上には鞄があり、その内ポケットには封筒が入っている。
彩花は鞄の持ち手へ指を添えた。
明日、渡す。
その予定は変わらない。
けれど、どうやって渡そうかはまだ決めていなかった。
会ってすぐ渡すのか。
少し話してから渡すのか。
別れる前に渡すのか。
考え始めると、どのタイミングも少し恥ずかしい。
(……自然に渡せばいいんだけど)
そう思っても、自然なタイミングがどこなのか分からない。
彩花は小さく息を吐いた。
窓に映る自分の顔は、少しだけ緊張しているように見えた。
けれど、その表情が嫌ではなかった。
誰かへ何かを渡すために、こんなふうに考えること。
相手がどう受け取るかを想像すること。
それ自体が、今の彩花には大切な時間だった。
*
木曜日の夜、水瀬家では夕食後のリビングに凛花と彩花がいた。
紗月は台所で片づけをしており、耕助は隣の部屋でテレビを見ている。
彩花はソファの端へ座り、膝の上にクッションを置いていた。
凛花は本を読んでいたが、妹が何度かスマートフォンを確認していることに気づいた。
「彩花」
「ん?」
「明日、楽しみ?」
彩花は一瞬だけ動きを止めた。
「……うん」
素直に答えると、凛花は小さく頷いた。
「そう」
「お姉ちゃん、何で分かったの?」
「朝から少しそわそわしてたから」
彩花は思わず頬を赤くした。
「そんなに分かりやすかった?」
「少しだけ」
凛花は本を閉じ、妹へ視線を向けた。
「何か心配なことでもある?」
彩花は少し考えた。
心配。
そう言われると、少し違う気がする。
悠真へカードを渡すことは緊張する。
けれど、怖いわけではない。
嫌なことが起きると思っているわけでもない。
「心配っていうより……緊張してるのかも」
「そう」
「でも、楽しみなの」
彩花はクッションの端を指先で軽く握った。
「変かな?」
「変じゃないわ」
凛花は静かに答えた。
「楽しみなことでも、緊張することはあるでしょう」
「……うん」
「彩花が自分で決めた予定なら、それでいいと思う」
その言葉に、彩花は少しだけ肩の力を抜いた。
凛花は何を渡すのか尋ねなかった。
彩花も、自分から説明することはしなかった。
けれど、姉が余計なことを聞かずにいてくれるのがありがたかった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
凛花は再び本を開いた。
彩花もスマートフォンを置き、ソファの背へ身体を預けた。
明日。
いよいよ金曜日だ。
*
同じ頃、九条家の自室では悠真が机の上に置いた文庫本を閉じていた。
明日の予定は確認済みだった。
午後四時半、青凪駅前の広場。
彩花と会う。
渡したいものがあると言っていたが、それが何なのかはまだ分からない。
悠真はスマートフォンを取り出し、彩花とのやり取りを少しだけ見返した。
『渡したいものがあるの』
その文章を読むと、自然に頬が緩む。
彩花は以前より、自分から予定を提案してくれるようになった。
行きたい場所を話し、好きなものを見せ、会いたいときにはそう伝えてくれる。
その変化が、悠真には嬉しかった。
(……明日、何を渡してくれるんだろう)
気になる。
けれど、答えを急ぐ必要はない。
明日になれば分かる。
悠真はスマートフォンを机へ置き、窓の外を見た。
夜空には薄い雲がかかっている。
明日の天気は晴れの予報だった。
少し寒くなりそうなので、上着を忘れないようにしよう。
そんなことを考えながら、悠真は明日の準備を始めた。
*
金曜日の朝、彩花はいつもより丁寧に髪を整えていた。
鏡の前に立ち、制服の襟を直す。
鞄の内ポケットには、淡い青色の封筒が入っている。
何度も確認したので、もう間違いない。
それでも、出かける直前にもう一度だけ触れてしまった。
(……今日、渡すんだ)
胸の奥が少し速く鳴る。
けれど、昨日までとは違う。
緊張の中に、はっきりとした楽しみがあった。
悠真がどんな顔をするのか。
何と言ってくれるのか。
それはまだ分からない。
けれど、自分の言葉を届けたいという気持ちは、もう迷っていなかった。
彩花は鞄を持ち、部屋を出た。
階段を下りると、台所から朝食の香りが漂ってくる。
いつもと同じ金曜日の朝。
けれど、彩花にとっては少しだけ特別な一日が始まろうとしていた。
*
その日の午後、青葉高校では最後の授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始めていた。
彩花は教科書を鞄へしまい、スマートフォンで時間を確認した。
午後三時を少し過ぎたところだった。
待ち合わせは四時半。
まだ時間はある。
けれど、いつもより早く教室を出たくなった。
彩花は鞄を肩へかけ、友人たちへ挨拶をした。
「お先に失礼します」
「水瀬、また月曜ね」
「うん。またね」
廊下へ出ると、窓から夕方の光が差し込んでいた。
彩花は階段を下りながら、鞄の内ポケットへそっと手を添えた。
封筒はそこにある。
今日こそ渡す。
そう決めて、校舎を出た。
*
午後四時二十分。
青凪駅前の広場には、学校帰りの生徒や買い物客が行き交っていた。
駅前の時計台の下では、待ち合わせをしている人たちがスマートフォンを確認している。広場の端に並ぶ街路樹は葉を落とし始め、足元には乾いた落ち葉が散っていた。
彩花は約束の時間より少し早く到着していた。
制服の上に薄手のコートを羽織り、鞄を両手で持っている。
スマートフォンを確認すると、悠真からメッセージが届いていた。
『もうすぐ着くよ』
彩花は短く返信した。
『私も着いたところ』
送信を終えると、画面を閉じた。
胸が少し速く鳴っている。
緊張している。
けれど、嫌ではない。
彩花は鞄の内ポケットへ手を入れ、封筒の端をそっと確かめた。
淡い青色の花が描かれた、小さな封筒。
中には、自分の言葉が入っている。
何度も考え、迷い、それでも書き直さなかった二行。
それを、今日悠真へ渡す。
彩花はゆっくりと息を吐いた。
そのとき、広場の向こうから見慣れた姿が近づいてくるのが見えた。
九条悠真だった。
制服の上に落ち着いた色のコートを羽織り、こちらへ向かって歩いてくる。
彩花は自然に顔を上げた。
悠真も彼女に気づき、柔らかく笑った。
その笑顔を見た瞬間、彩花の胸の奥が温かくなる。
緊張は消えない。
けれど、会えて嬉しいという気持ちが、それより少しだけ大きくなった。
彩花は鞄の持ち手を握り直し、悠真が近づいてくるのを待った。
金曜日の約束が、いよいよ始まろうとしていた。




