第77話 渡す理由は、まだ秘密
十一月の半ばを迎えた青凪市では、朝の空気に冬の気配が混じり始めていた。
青葉高校の正門へ続く坂道には、街路樹から落ちた黄色い葉がいくつも散っている。登校する生徒たちは制服の上にカーディガンや薄手のコートを重ね、友人同士で寒さを話題にしながら校舎へ向かっていた。
水瀬彩花は少し冷えた指先を制服の袖へ隠しながら、いつもよりゆっくりと坂道を上っていた。
鞄の中には、授業で使う教科書と筆箱、それから読みかけの文庫本が入っている。
そして自宅の机の引き出しには、まだ何も書かれていない二枚のメッセージカードが残されていた。
淡い青色の花が描かれた、小さなカード。
文房具店で見つけたときは、ただ綺麗だと思った。
けれど購入してからというもの、彩花は何度もそのカードを取り出しては、何を書こうか考えていた。
最初に浮かぶのは、やはり悠真のことだった。
(ありがとう、だけだと普通すぎるかな)
そう考えた直後、彩花は自分で少しおかしくなった。
普通で何が悪いのだろう。
手書きのカードなのだから、気負わずに書けばいい。
それなのに、悠真へ渡すものだと思うと、たった数行の文章さえ簡単には決められなくなる。
彩花は小さく息を吐き、校舎の入口へ向かった。
今日は放課後に文芸部がある。
冬の部誌の編集作業も進んでおり、印刷へ向けた確認が始まっていた。
自分の作品はすでに完成稿として提出しているが、部誌全体が完成するまでには、まだいくつか作業が残っている。
今はそちらへ集中しよう。
そう決めて教室へ入ると、窓際の席から友人たちの声が聞こえてきた。
「水瀬、おはよう」
「おはよう」
彩花は挨拶を返し、自分の席へ鞄を置いた。
窓の外では、校庭の木々が風に揺れている。
昨日より少しだけ葉が減ったように見えた。
季節は、誰かが意識していなくても進んでいく。
彩花はその景色を眺めながら、机の引き出しにしまったカードのことを、いったん心の奥へ置くことにした。
*
昼休みの青葉高校では、教室のあちこちで弁当箱が開かれ、購買から戻ってきた生徒たちがパンの袋を広げていた。
彩花も自分の席で昼食を取っていたが、向かい側に座った田辺大地が、今日は珍しく食べ物以外の話を始めた。
「水瀬、文芸部誌ってさ、何冊くらい作るんだ?」
「えっと、去年より少ないって聞いてるけど、正確な数はまだ知らない」
「売るの?」
「基本は校内での配布だよ。図書室にも何冊か置く予定」
「へえ。じゃあ俺ももらえる?」
「たぶん大丈夫だと思うけど、配布方法はまだ決まってないから確認してみるね」
大地は頷き、手元のパンを一口かじった。
「前の文化祭のやつ、家でも読んだんだよな」
「そうなの?」
「うん。妹が見つけてさ。何これって聞かれたから、同じクラスの人が書いたって言ったら驚いてた」
彩花は思わず顔を上げた。
「妹さん、読んだの?」
「読んでた。最後まで読んだかは知らないけど」
「そっか……」
自分の知らないところで、作品が誰かの手へ渡っていた。
それは少し不思議な感覚だった。
文化祭で配布した短編『また、話したいから』は、彩花にとって初めて多くの人へ読んでもらった作品だった。
当時は、自分の文章を知らない人が読むことに緊張していた。
けれど今は、その先にある出来事を想像できる。
読んだ人が誰かへ話す。
その人がまた読んでみる。
そんなふうに、自分の書いたものが少しずつ広がっていく可能性がある。
「……嬉しいな」
彩花が小さく言うと、大地は首を傾げた。
「何が?」
「私の書いた話、知らないところでも読んでもらえてるんだなって」
「そりゃそうだろ。配ったんだから」
「それはそうなんだけど」
彩花は笑った。
大地の言い方はあまりにもあっさりしている。
けれど、その当たり前のことを自分はまだ十分に理解していなかったのかもしれない。
「今度のも、妹に見せていい?」
「うん。もちろん」
「じゃあ二冊もらえるなら二冊欲しいな」
「数が少ないから、まずは一人一冊になると思う」
「だよな。じゃあ家で回し読みするわ」
大地は納得したように頷き、再びパンへ手を伸ばした。
彩花はその様子を見ながら、少しだけ考えた。
自分が書いた物語を、家族以外の誰かが家へ持ち帰って読む。
それは、原稿を書いていたときにはあまり想像していなかった光景だった。
次の部誌が完成したら、どんな人が読んでくれるのだろう。
楽しみと緊張が、胸の中で静かに重なっていた。
*
同じ頃、桜華学園の図書室では、九条琴葉が展示台の前に立っていた。
『誰かにすすめたい一冊』の展示が始まってから、数日が経っている。
紹介カードを読んで本を手に取る生徒も増え、展示台の一部には貸出中を知らせる小さな札が置かれていた。
琴葉が選んだ冒険小説も、その一冊だった。
「九条さん、あの本また貸し出されたよ」
隣にいた図書委員の女子生徒が、貸出記録を確認しながら言った。
「本当?」
「うん。昨日返ってきたばかりなのに、今日また借りられた」
琴葉は展示台へ目を向けた。
自分が書いた紹介カードは、そのまま残っている。
けれど本の置かれていた場所には、貸出中の札が立てられていた。
(……嬉しいな)
自分が好きな本を、誰かが読んでみようと思ってくれた。
それだけのことなのに、胸の奥が温かくなる。
琴葉はカードの位置を少し整えた。
「紹介文、ちゃんと読んでもらえてるんだね」
「そうみたい。ほかの本も結構動いてるよ」
「企画やってよかったね」
「うん」
二人は小さく笑い合い、次の返却本の整理へ戻った。
その日の放課後、琴葉は兄の悠真へ展示の様子を話した。
生徒会室へ向かう途中の廊下で偶然会ったため、二人は窓際へ少し寄って立ち止まった。
「お兄ちゃん、あの冒険小説また借りられたよ」
「そうなんだ。人気だね」
「紹介文のおかげかは分からないけど、嬉しい」
「少なくとも、手に取るきっかけにはなったんじゃない?」
「そうだといいな」
琴葉は嬉しそうに笑った。
悠真もその表情を見て、自然と頬を緩める。
「彩花さんにも話したら喜びそう」
「もう送ったよ」
「早いね」
「だって、彩花さんもあの本好きでしょう?」
「うん」
「好きな人には教えたくなるじゃん」
琴葉は当たり前のように言った。
悠真はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
好きな本を、好きな人へ教えたくなる。
好きな景色を、誰かに見せたくなる。
彩花が秋の川沿いへ誘ってくれたことも、同じような気持ちだったのかもしれない。
そんなことを思いながら、悠真は頷いた。
「そうだね」
琴葉は兄の表情を一瞬だけ見たが、特に何も言わなかった。
最近の悠真は、彩花の名前が出ると自然に表情が柔らかくなる。
それはもう、琴葉にとって珍しいことではなくなっていた。
*
放課後の文芸部では、冬の部誌の表紙案が机の上に並べられていた。
佐々木先輩が数種類のデザインを用意し、部員たちの意見を聞いている。
雪の結晶を使ったもの。
冬の校舎を描いたもの。
白い余白を多く残した、落ち着いたもの。
彩花は一枚ずつ見比べながら、最後の案へ目を留めた。
淡い灰色の背景に、小さな窓が一つ描かれている。
窓の向こうには、冬の空と細い木の枝。
派手ではないが、どこか静かな温かさを感じる表紙だった。
「水瀬さんはどれが好き?」
佐々木に尋ねられ、彩花はその案を指した。
「私はこれが好きです」
「理由は?」
「冬っぽいけど、寒いだけじゃない感じがして。窓の向こうに何かあるみたいで、気になります」
佐々木は頷いた。
「なるほど。ほかの人は?」
部員たちもそれぞれ意見を出し始める。
彩花は自分の考えを言い終えたあと、ほかの人の話を聞いた。
以前なら、自分と違う意見が出ると少し不安になったかもしれない。
けれど今は、好みが違うことを自然に受け止められる。
自分が好きなものと、ほかの人が好きなもの。
どちらかが間違っているわけではない。
部誌の表紙は、最終的に部員全員の意見を踏まえて決めることになった。
今日の時点では結論を急がず、佐々木が案を持ち帰って調整する。
彩花はその流れに納得し、自分の席へ戻った。
机の上には、校正を終えた『いつか、ここに』の原稿がある。
表紙が決まれば、いよいよ一冊の本として形になっていく。
そのことを想像すると、少しだけ胸が弾んだ。
*
その日の夜、彩花は自室でメッセージカードを取り出していた。
淡い青色の花が描かれた二枚のカード。
机の上へ並べ、ペンを持つ。
昨日も一度考えた。
けれど、まだ何も書いていない。
今日は少しだけ違う気持ちだった。
昼休みに大地から聞いた、妹が自分の作品を読んでくれたという話。
文芸部で、自分の好きな表紙案をはっきり伝えられたこと。
琴葉が好きな本を紹介し、それを誰かが借りてくれたこと。
どれも、好きなものを誰かへ届ける出来事だった。
(……私も、何か渡したいんだよね)
彩花はカードの白い部分を見つめた。
悠真へ。
そう考えると、自然に言葉が浮かんできた。
いつも本の話を聞いてくれてありがとう。
私の書いた物語を読んでくれてありがとう。
一緒に図書館へ行ってくれてありがとう。
秋の川沿いを歩いてくれてありがとう。
どれも本当だった。
けれど、全部を書こうとすると、カードが足りなくなりそうだった。
彩花は小さく笑い、ペンを置いた。
「……何でこんなにあるんだろう」
独り言のように呟く。
悠真へ伝えたいことが、思っていたより多い。
それは困ることではない。
ただ、どれを選ぶか迷ってしまう。
彩花は深い青色のノートを開いた。
銀色の星が散りばめられた表紙。
そこには、これまで大切にしたいと思った言葉が書かれている。
ページをめくると、悠真から『俺、この話好き』と言われた日の記録があった。
その文字を見た瞬間、彩花の手が止まった。
あの日、自分はどれほど嬉しかっただろう。
完成した物語を読んでもらい、好きだと言ってもらえた。
ただ褒められたから嬉しかったのではない。
自分が大切に書いたものを、相手も大切に読んでくれたことが嬉しかった。
彩花はノートを閉じ、カードへ視線を戻した。
(……これかな)
書きたいことが、少しだけまとまった気がした。
ペンを持ち直し、ゆっくりと文字を書き始める。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
そこで一度、手を止めた。
短い文章だった。
けれど、今の自分が一番伝えたいことに近い気がした。
彩花は続けて、もう一行書いた。
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
書き終えた瞬間、胸が大きく鳴った。
彩花はペンを置き、しばらくカードを見つめた。
(……これ、ちょっと恥ずかしいかも)
好きです。
その言葉だけを見ると、何だか別の意味にも取れそうだった。
もちろん、書いたのは一緒に話す時間が好きだという意味だ。
それは本当だし、以前から何度も感じている。
けれど、悠真がこの文章を読んだら、どう思うだろう。
彩花はカードを持ち上げ、少し離して読み直した。
文字は丁寧に書けている。
間違いもない。
それなのに、最後の一行が妙に目立つ。
「……どうしよう」
消すことはできない。
書き直すなら、もう一枚のカードを使う必要がある。
彩花はしばらく迷った。
けれど、最終的にはカードを机の上へ戻した。
今夜はこのままにしておこう。
明日もう一度読んで、それでも渡したいと思えたら渡せばいい。
そう決めると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
*
同じ夜、九条家では悠真が自室で家具修理の短編集を読み終えていた。
彩花が特に気に入ったと言っていた、食卓を二人用の机へ作り直す話。
それは、長年使われていた大きな食卓を、家族の暮らしが変わったあとも使い続けるための物語だった。
依頼人は、食卓を処分することに抵抗があった。
けれど、そのまま置いておくには大きすぎる。
職人は話を聞き、元の木材をできるだけ残しながら、小さな机へ作り直すことを提案する。
完成した机は、以前の食卓とは形が違う。
それでも、家族が囲んでいた時間を完全に失ったわけではない。
悠真は最後のページを閉じ、しばらく表紙を眺めていた。
(……彩花さんが好きって言った理由、少し分かるな)
彼女が書いた『いつか、ここに』にも、古いものを全部捨てず、必要な部分を残して新しい形へ変えていく場面があった。
けれど、似ているから好きなのではないだろう。
大切なものを守る方法が、一つだけではないこと。
その考え方そのものに、彩花は惹かれているのかもしれない。
悠真はスマートフォンを取り出した。
『家具修理の短編集、読み終わった』
送信すると、少しして返信が来た。
『早いね!』
『面白かったから』
『二番目の話どうだった?』
『好きだった。食卓を小さな机にするところ』
『でしょう?』
彩花の嬉しそうな顔が、画面越しにも想像できた。
悠真は少し考えてから、もう一通送った。
『前と同じ形じゃなくても、大切にできるっていうのがいいね』
返事は少し遅れて届いた。
『そうなの! 私もそこが好き』
悠真は自然に笑った。
同じ物語を読んで、同じところを好きだと思える。
もちろん、違う感想があってもいい。
けれど、こうして気持ちが重なる瞬間はやはり嬉しい。
『今度、ほかの話の感想も聞かせて』
『うん。彩花さんの文房具店の話も聞きたい』
『じゃあ今度話そう』
そこで一度やり取りが終わった。
悠真はスマートフォンを机へ置き、窓の外へ目を向けた。
秋の夜空には、薄い雲が流れている。
机の端には、押し葉にした橙色の葉が紙に挟まれていた。
少しずつ乾き、形が落ち着いてきている。
悠真はその紙を開き、葉の状態を確認した。
綺麗に残っている。
何に使うかは、まだ決めていない。
けれど、捨てるつもりはなかった。
あの日の景色を思い出せるから。
そして、彩花が自分を誘ってくれたことも、一緒に思い出せるからだった。
*
翌朝、彩花は机の上のカードをもう一度読んでいた。
昨夜書いた二行。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
読み返すと、やはり少し恥ずかしい。
けれど、不思議と書き直したいとは思わなかった。
どちらも本当の気持ちだからだ。
彩花はカードを小さな封筒へ入れた。
淡い青色の花が描かれた封筒。
封をする前に、もう一度だけ中身を確認する。
それから丁寧に封筒を閉じた。
(……渡せるかな)
少し緊張する。
けれど、渡したいという気持ちの方が強かった。
彩花は封筒を鞄の内ポケットへしまった。
今日は悠真と会う約束はない。
いつ渡すかも決めていない。
けれど、次に会ったとき、自然なタイミングがあれば渡してみよう。
そう考えながら、彩花は制服の襟を整えた。
鏡の中の自分は、いつもと変わらない。
けれど鞄の中には、今までなら書けなかったかもしれない言葉が入っている。
それが少しだけ嬉しかった。
*
その日の放課後、悠真は桜華学園の校門を出たところで、スマートフォンを確認していた。
彩花からメッセージが届いている。
『今週、どこかで時間ある?』
悠真は足を止めた。
特別な用事があるのだろうか。
それとも、また本の話をするだけかもしれない。
どちらでもよかった。
彩花から会いたいと言ってくれたことが、素直に嬉しかった。
『金曜日なら生徒会ないよ』
送信すると、すぐに返信が来る。
『じゃあ金曜日、少し会える?』
『もちろん』
『ありがとう』
悠真は少し考えてから尋ねた。
『何か用事?』
返事はすぐには来なかった。
数十秒後、画面に新しいメッセージが表示される。
『渡したいものがあるの』
悠真はその文章を見つめた。
渡したいもの。
数日前、彩花が文房具店で買ったという小さなカードを思い出す。
けれど、それだと決めつけることはしなかった。
『分かった。楽しみにしてる』
少しして、彩花から返事が来た。
『期待しすぎないでね』
悠真は思わず笑った。
以前にも似たやり取りをした気がする。
『それは難しいかも』
『もう、悠真君ってば』
最後の文章を読んで、悠真はスマートフォンを鞄へしまった。
金曜日。
まだ数日先だ。
けれど、その日が少し楽しみになった。
*
水瀬家の自室では、彩花が送信を終えたスマートフォンを机へ置いていた。
金曜日に会う約束ができた。
鞄の中には、淡い青色の封筒が入っている。
それを渡すだけ。
たったそれだけのことなのに、胸が落ち着かない。
彩花は椅子へ座り、深く息を吐いた。
(……大丈夫。変なこと書いてないもん)
ありがとう。
一緒に話す時間が好き。
それは、友達へ伝えてもおかしくない言葉だ。
そう思う。
けれど、悠真へ渡すとなると、少しだけ意味が変わって感じられる。
彩花はその違いを、まだ上手く説明できなかった。
ただ、金曜日に会うのが楽しみだった。
そして、封筒を渡したときに悠真がどんな顔をするのか、少しだけ気になっていた。
窓の外では、秋の夕日が住宅街の屋根を照らしている。
季節はゆっくり冬へ向かっている。
その中で彩花は、自分の言葉を誰かへ届けるための、小さな一歩を踏み出そうとしていた。




