第76話 あなたの知らない、私の好きなもの
月曜日の朝、青葉高校の一年生の教室には、週末の出来事を話す生徒たちの声が広がっていた。
窓際の席では数人の女子生徒が新しくできた雑貨店の話で盛り上がり、廊下側では男子生徒たちが日曜日の試合について意見を交わしている。十一月も半ばに近づき、教室の窓から見える木々はすっかり秋色へ変わっていた。
水瀬彩花は自分の席で教科書を鞄から取り出しながら、昨日読み終えた小説のことを考えていた。
土曜日に中央図書館で借りた、古い商店街の文房具店を舞台にした物語。
主人公の女性は、最初こそ故郷へ戻ってきたことを後ろ向きに捉えていたものの、店を訪れる人々との交流を通して、少しずつ自分の居場所を見つけていった。
彩花が特に気に入ったのは、物語の終盤だった。
主人公は店を継ぐかどうか迷い続けていたが、最後には大きな決意を宣言するのではなく、翌月の仕入れ予定を書き始める。
その何気ない行動が、彩花にはとても印象的だった。
(言葉にしなくても、決めたことって伝わるんだな)
以前なら、登場人物が自分の気持ちをはっきり説明してくれた方が安心できたかもしれない。
けれど今は、行動の中にある変化を読み取ることが楽しい。
自分が『いつか、ここに』を書いた経験も、少しは関係しているのだろう。
そんなことを考えていると、机の横から声がした。
「水瀬、今日の放課後って部活?」
顔を上げると、田辺大地が立っていた。
「うん。今日はあるよ」
「じゃあ帰りに購買寄る?」
「何で?」
「新しい菓子パン入ったらしい」
彩花は思わず笑った。
「私が部活あるのと関係なくない?」
「部活終わりって腹減るだろ」
「田辺君はいつもお腹空いてるじゃん」
「それは否定しない」
大地は堂々と答え、近くの席へ腰を下ろした。
「そういえば、文芸部誌っていつ出るんだ?」
「冬休み前の予定だよ。まだ印刷とかあるから、はっきりした日は決まってないけど」
「水瀬の新しい話、載るんだよな」
「うん」
「今度こそ食べ物出る?」
「出ません」
「即答かよ」
大地が大げさに肩を落とすと、近くにいた女子生徒が笑った。
「田辺、何でも食べ物に結びつけすぎ」
「物語に食事は大事だろ」
「それは分かるけど、写真立ての話なんでしょう?」
彩花は頷いた。
「うん。だから食べ物を入れる予定はないよ」
「まあ、読むけどさ」
大地はあっさり言った。
その言葉に、彩花は少し驚いた。
「読んでくれるの?」
「前のも読んだし。水瀬の話、結構好きだから」
大地は特別なことを言ったつもりもないらしく、そのまま購買の話へ戻っていった。
けれど彩花は、しばらくその言葉を胸の中で繰り返していた。
悠真だけではない。
佐々木先輩だけでもない。
自分の書いた物語を楽しみにしてくれる人が、少しずつ増えている。
それが嬉しかった。
*
同じ日の昼休み、桜華学園の図書室では、九条琴葉が展示用の紹介カードを並べていた。
窓から差し込む光は柔らかく、書架の間には静かな空気が流れている。図書委員の生徒たちは、冬へ向けたおすすめ本の展示を完成させるため、それぞれ担当する作業を進めていた。
今回の展示テーマは『誰かにすすめたい一冊』。
生徒が自分の好きな本を選び、短い紹介文を添える企画だった。
琴葉は机の上に並べたカードを見比べながら、配置を考えていた。
「九条さん、その冒険小説のカード、こっちの方が見やすいかな?」
同じ図書委員の女子生徒が、展示台の右側を指す。
「うん。表紙が明るいから、端に置いた方が目立つかも」
「じゃあそうしよう」
二人で本を並べ替える。
琴葉が選んだのは、幼い頃から何度も読んでいる冒険小説だった。
主人公が旅の途中で何度も失敗し、そのたびに違う選択をして進んでいく物語。
兄の悠真にも相談したが、最後に決めたのは琴葉自身だった。
紹介カードには、こう書いてある。
『一度決めたことを変えてもいい。遠回りしたからこそ見つかるものがある。そんなことを教えてくれる冒険小説です。』
琴葉は自分の文字を見つめ、少しだけ満足そうに頷いた。
「いい感じだね」
隣の女子生徒が言う。
「ありがとう。ちょっと悩んだけど」
「九条さんって、こういう本好きなんだ」
「うん。小さい頃から読んでる」
「お兄さんも読んでたの?」
「読んでたよ。というか、最初はお兄ちゃんの本だった」
琴葉は笑った。
兄の本棚には、昔からいろいろな本が並んでいた。
小さい頃の琴葉は、その中から表紙の気になるものを勝手に抜き出して読んでいたことがある。
もちろん難しくて途中で諦めた本も多かったが、この冒険小説だけは最後まで読み切った。
主人公が失敗しても旅を続ける姿が、当時の琴葉にはとても格好よく見えた。
「お兄さん、本当に本好きなんだね」
「うん。今もすごいよ」
「九条さんも十分好きそうだけど」
「お兄ちゃんはちょっと別格」
琴葉がそう言うと、相手は笑った。
展示台には、ほかにもさまざまな本が並んでいる。
推理小説、歴史小説、短編集、詩集、科学の読み物。
選んだ生徒によって紹介文の雰囲気も違い、同じ本棚の中に置かれていても、それぞれの個性が感じられた。
琴葉は完成間近の展示を眺めながら、ふと彩花のことを思い出した。
(彩花さんにも見せたいな)
彩花なら、きっと一枚ずつ丁寧に読むだろう。
気になる本があれば、実際に探してみるかもしれない。
ただ、ここは桜華学園の図書室だ。
他校の生徒が自由に入れる場所ではない。
琴葉は少し考え、展示が完成したら写真を撮って見せようと思った。
もちろん、学校の許可が必要な範囲は守る。
紹介カードには生徒の名前も書かれているため、外部へ見せる場合は個人情報が写らないようにする必要がある。
琴葉は担当の先生へ確認してからにしようと決め、再び展示作業へ戻った。
*
放課後、彩花は文芸部の部室で、冬の部誌に掲載する作品の校正用原稿を確認していた。
完成稿として提出した『いつか、ここに』は、すでに部誌の編集作業へ回されている。
今日は文章そのものを大きく直すのではなく、誤字脱字や表記の揺れがないかを確認する作業だった。
佐々木先輩が部員たちへ説明する。
「印刷に出す前に、もう一回だけ確認してね。内容の大幅な変更はここではしないけど、誤字とか抜けは今のうちに直せるから」
彩花は頷き、配られた校正用原稿へ目を落とした。
自分の文章が、いつもの編集画面とは違う形で並んでいる。
余白や文字の大きさが変わるだけで、少しだけ別の作品に見えるのが不思議だった。
最初のページには、題名と自分の名前が印刷されている。
『いつか、ここに』
水瀬彩花。
その文字を見た瞬間、胸の奥が少し温かくなった。
(本当に部誌になるんだ)
文化祭のときにも作品を載せてもらった。
けれど今回は、最初から最後まで自分の考えで書き進め、悩みながら完成させた物語だという実感が強い。
もちろん、佐々木先輩の助言も受けたし、悠真の感想も参考にした。
それでも、最後に何を残すかを決めたのは自分だった。
彩花は赤ペンを持ち、最初の行から丁寧に確認を始めた。
途中で一か所、句読点の位置が気になった。
意味が変わるほどではない。
けれど、読み上げたときの呼吸が少し不自然に感じる。
彩花は小さく印をつけ、最後まで読み終えてから佐々木先輩へ相談した。
「ここ、読点を一つ動かしてもいいですか?」
「どこ?」
佐々木は原稿を覗き込み、該当箇所を読んだ。
「いいと思う。こっちの方が読みやすいね」
「ありがとうございます」
「ほかは大丈夫?」
「はい。今のところは」
彩花は校正用原稿を整えた。
これで、また一歩完成へ近づいた。
その実感が嬉しかった。
*
夕方、桜華学園の図書室では展示作業が終わっていた。
琴葉は担当教師へ確認し、個人名が写らない範囲で展示の写真を撮る許可をもらった。
スマートフォンの画面には、整然と並べられた本と紹介カードが写っている。
その中には、自分が選んだ冒険小説もあった。
琴葉は写真を確認してから、彩花へ送った。
『展示できたよ!』
続けて画像を添付する。
しばらくして返信が来た。
『すごい! 綺麗に並んでるね』
『みんなで頑張った』
『紹介文も見やすい』
『ありがとう。お兄ちゃんのおすすめもあるよ』
彩花は画像を拡大した。
いくつもの本が並んでいる。
その中に、見覚えのある表紙があった。
以前、悠真から借りて読んだ冒険小説。
琴葉が選んだという話は聞いていたが、こうして展示されているのを見ると少し嬉しい。
『この冒険小説、私も好き』
『知ってる。お兄ちゃんから聞いた』
彩花は少し驚いた。
『そうなの?』
『前に感想話したって言ってたよ』
『うん。すごく面白かった』
『私も好きだから選んだの』
琴葉から、笑顔の絵文字が届く。
彩花は写真を見ながら、以前悠真とその本について話した時間を思い出した。
主人公が何度も選び直すこと。
失敗したあとでも、別の道を探せること。
その物語を読んだとき、自分も少し勇気をもらった。
そして今、琴葉も同じ本を誰かへ勧めている。
同じ本を好きな人が、少しずつつながっていく。
そのことが楽しかった。
『琴葉ちゃんの紹介文、いいね』
『ありがとう!』
『私もまた読みたくなった』
『それが一番嬉しい』
彩花は画面を閉じる前に、もう一度写真を眺めた。
桜華学園の図書室。
自分はまだ入ったことがない場所だ。
悠真や琴葉が普段過ごしている学校の一部を、こうして見ることができる。
それだけで、少し距離が近づいた気がした。
*
その夜、九条家では夕食後のリビングに琴葉と悠真がいた。
琴葉はソファへ座り、展示の写真を兄へ見せている。
「どう?」
「いい感じだね」
「でしょう? 配置かなり考えたんだよ」
「見やすいと思う」
「お兄ちゃんのおすすめもちゃんと入ってる」
悠真は写真を覗き込んだ。
琴葉が選んだ冒険小説が、展示台の右側に置かれている。
その隣には別の生徒が選んだ推理小説があり、反対側には詩集が並んでいた。
「いろんな本があるね」
「そうなの。普段自分じゃ選ばない本もあって、見てるだけで面白いよ」
「いい企画だと思う」
「彩花さんにも写真送った」
悠真が顔を上げる。
「そうなんだ」
「すごく喜んでくれたよ」
「彩花さん、こういうの好きだからね」
「うん。紹介文までちゃんと読んでくれた」
琴葉は嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん、彩花さんにおすすめした本、ちゃんと覚えてる?」
「もちろん」
「どこが好きだったかも?」
「主人公が何度も選び直すところ」
「やっぱり」
琴葉は頷いた。
「私もそこが好き」
「昔からそう言ってたね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ。最初に読み終わったとき、主人公が途中で帰らなかったのがすごいって言ってた」
琴葉は少し照れたように笑った。
「そんなこと言ったっけ」
「言ってた」
「子供っぽい感想」
「今でも分かるけどね」
悠真は穏やかに答えた。
琴葉は写真を見つめながら、少し考える。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「同じ本でも、好きなところって違うんだね」
「そうだね」
「彩花さんも、たぶん私と違うところ好きなんだろうな」
「話してみたら?」
「今度ね」
琴葉は笑い、スマートフォンを膝へ置いた。
悠真はその横顔を見ながら、ふと彩花のことを考えた。
彼女は、自分の好きなものを少しずつ人へ伝えられるようになっている。
以前は、自分の好みを話すことにも遠慮があった。
けれど今は、本の感想も、自分が書いた物語も、好きな場所も、自然に見せてくれる。
その変化を、悠真は嬉しく思っていた。
*
翌日の放課後、彩花は駅前の小さな文房具店へ立ち寄っていた。
先日読んだ小説の影響で、久しぶりに便箋や封筒を見たくなったのだ。
店内には紙の匂いが漂い、棚には色とりどりのノートやカードが並んでいる。
彩花は便箋のコーナーで足を止めた。
花柄、星柄、無地のもの。
どれも綺麗だが、今すぐ使う予定はない。
それでも眺めているだけで楽しかった。
棚の端には、小さなメッセージカードが並んでいた。
白い紙に、淡い青色の花が描かれている。
彩花はその一枚を手に取った。
(これ、かわいいな)
以前、家で見つけた淡い青色の花柄の布を思い出す。
色合いが少し似ていた。
布はまだ何に使うか決めていない。
けれど、このカードなら何かに使えるかもしれない。
彩花は数分迷い、二枚入りのカードを一組購入した。
店を出ると、夕方の空気は思ったより冷たかった。
彩花は鞄へカードをしまいながら、ふと考えた。
誰かへ手紙を書くのもいいかもしれない。
長い文章でなくてもいい。
ありがとう、と伝えたいことがあるとき。
嬉しかったことを残しておきたいとき。
そんなときに、手書きの言葉を渡すのも悪くない。
誰へ書くかは、まだ決めていない。
けれど、候補として最初に浮かんだ顔があった。
彩花は少しだけ頬を緩め、駅へ向かって歩き始めた。
*
同じ頃、桜華学園では悠真が生徒会室の窓から校庭を眺めていた。
今日の仕事はすでに終わっている。
森川と確認した資料をまとめ、帰宅する準備をしていたところだった。
スマートフォンには、彩花から一通のメッセージが届いていた。
『今日、文房具店に寄ったよ』
悠真は自然に笑い、返信する。
『この前読んでた小説の影響?』
『正解』
『何か買った?』
『小さいカード』
『誰かに渡すの?』
彩花からの返事は、少し時間がかかった。
『まだ決めてない』
悠真はその文章を見て、特に深く考えず返信した。
『いいね。手書きのカード』
『悠真君は手紙書く?』
『最近はあまり。昔は祖父に書いたことある』
『そうなんだ』
『旅行先から絵葉書送ったり』
『いいな』
悠真は少し考えた。
手紙やカードを受け取ることは、最近あまりない。
けれど、祖父から届いた短い手紙を今でも大切に保管している。
文字には、その人の癖が残る。
文章が短くても、書いた人の気持ちが伝わることがある。
『俺、手書きのもの結構好きだよ』
そう送ると、彩花からすぐに返事が来た。
『覚えておく』
悠真は画面を見つめた。
覚えておく。
それだけの言葉なのに、なぜか少し気になった。
『何で?』
送信すると、彩花から笑っている絵文字が届く。
『秘密』
悠真は思わず笑った。
彩花が自分へ秘密を作ることは珍しい。
以前なら、何かを隠すときには不安そうな顔をしていた。
けれど今の「秘密」は、明らかに楽しそうだった。
悠真はそれ以上尋ねなかった。
『分かった。楽しみにしてる』
少しして、彩花から返事が来た。
『期待しすぎないでね』
『それは難しいかも』
『もう』
最後の一言に、悠真はまた笑った。
生徒会室の窓の外では、秋の夕日が校庭を照らしている。
悠真はスマートフォンを鞄へしまい、帰宅するために立ち上がった。
*
その夜、彩花は自室の机へ購入したカードを並べていた。
淡い青色の花が描かれた、小さな二枚のカード。
紙は少し厚く、指先で触れると柔らかな質感がある。
彩花はペンを持ったまま、しばらく考えていた。
悠真へ何かを書いて渡す。
そう考えると、言葉がなかなか決まらない。
ありがとう。
いつも楽しい。
本の話を聞いてくれて嬉しい。
書きたいことはいくつもある。
けれど、それを全部並べると、何だか改まった手紙になってしまいそうだった。
(別に、特別なことを書かなくてもいいんだけど)
彩花はカードを見つめた。
悠真は手書きのものが好きだと言っていた。
だから、何か渡してみたいと思った。
その気持ちは確かだった。
ただ、何を書くかはまだ決められない。
彩花はペンを置き、カードを机の端へ移動させた。
今夜は無理に書かないことにした。
代わりに、以前買った深い青色のノートを開く。
銀色の小さな星が散りばめられた表紙。
そこには、これまでの出来事や、自分が大切にしたいと思った言葉が少しずつ書き込まれている。
彩花は新しいページへ日付を書いた。
そして、今日のことを短く残した。
『手書きの言葉を、誰かに渡してみたいと思った。』
少し考えてから、もう一行加える。
『何を書くかより、誰に渡したいかを先に考えていた。』
書き終えて、彩花はペンを止めた。
その文章を見つめていると、少しだけ頬が熱くなる。
(……私、何を書いてるんだろう)
けれど、消そうとは思わなかった。
今の自分がそう感じたことは、本当だからだ。
ノートを閉じ、カードをそっと引き出しへしまう。
いつか渡すかもしれない。
渡さないかもしれない。
まだ決めていない。
けれど、誰かへ自分の言葉を届けたいと思うことが、今は少し楽しかった。
窓の外では、秋の夜風が静かに木々を揺らしている。
彩花は机の明かりを少し落とし、読み終えた文房具店の小説を手に取った。
主人公が最後に書き始めた仕入れ予定の場面を、もう一度読み返す。
大きな宣言ではなく、小さな行動で示された決意。
彩花はそのページを読みながら、引き出しの中のカードを思い出した。
まだ何も書かれていない二枚の紙。
その空白へ、いつか自分の言葉が入る。
そう考えると、少しだけ胸が温かくなった。
そしてその頃、九条家の自室では、悠真が机の上に置かれた古い絵葉書を眺めていた。
祖父から届いた、短い手書きの言葉。
昔は当たり前のように受け取っていたものが、今見ると少し違って感じられる。
彩花が何を書こうとしているのか、悠真は知らない。
ただ、彼女が楽しそうに「秘密」と言ったことだけは覚えていた。
その秘密がいつか明かされる日を、悠真は静かに楽しみにしていた。




