第75話 いつもの席に、いない人
水瀬彩花が青凪市立中央図書館へ到着したのは、土曜日の午前十時を少し過ぎた頃だった。
自動ドアを抜けると、外の冷たい空気とは違う、穏やかな暖かさが頬に触れる。入口の掲示板には冬の読書週間を知らせるポスターが貼られており、貸出カウンターの近くでは親子連れが絵本の返却手続きをしていた。
彩花は鞄から図書館の利用カードを取り出し、返却する二冊の本を確認した。
一冊は、家具修理の職人を中心にした連作短編集。もう一冊は、祖母と孫娘が刺繍を通して少しずつ心を通わせていく小説だった。
どちらも最後まで読み終えている。
家具修理の短編集は、以前悠真にも勧めたいと思っていた作品だ。ただ、借りていた本をそのまま渡すより、まずは返却期限を守ることを優先した。悠真には本の題名を伝えてあるので、興味があれば自分で借りることもできるだろう。
返却を終えた彩花は、いつものように書架の方へ歩き始めた。
今日は悠真と待ち合わせていない。
彼は午前中、桜華学園で生徒会の用事があると言っていた。冬へ向けた校内行事の準備が始まり、確認しなければならない資料が増えているらしい。
彩花自身も、今日は一人で本を探したかった。
冬の文芸部誌へ載せる『いつか、ここに』の完成稿を提出してから、数日が経っている。
原稿を書いていた間は、何を読んでも自分の物語へ結びつけて考えることが多かった。木工の話を読めば写真立てを思い出し、刺繍の話を読めば、作ったものを受け取る人のことを考えてしまう。
それはそれで楽しかったが、今日は別の物語を読みたい。
(何も決めずに探してみようかな)
彩花は新刊棚を通り過ぎ、国内小説の並ぶ書架へ向かった。
棚の前には先客が二人いた。
一人は年配の男性で、背表紙をゆっくり確認している。もう一人は大学生くらいの女性で、手にした本の裏表紙を読んでいた。
彩花は邪魔にならないよう少し離れた棚から見始めた。
題名だけで気になった本を一冊抜き、最初の数ページを読む。
合わなければ戻し、別の本を手に取る。
そんなことを繰り返しているうちに、自然と肩の力が抜けていった。
誰かと一緒に本を選ぶ時間も好きだ。
けれど、一人で棚の間を歩き、知らない物語に出会う時間も、やはり手放したくない。
彩花は窓際の閲覧席へ目を向けた。
以前、悠真と並んで座ったことのある席が空いている。
今日はそこへ座ろうかと思ったが、すぐ隣の席には大きな参考書を広げた学生がいた。長く勉強しているようで、机にはノートと筆箱が整然と並んでいる。
彩花は少し考え、奥の別の席を選んだ。
窓から見える街路樹は、秋の色を深めていた。
先日、悠真と歩いた川沿いの景色とは違うが、ここにも同じ季節が訪れている。
彩花は選んだ小説を開いた。
表紙には、古い商店街を背景に立つ一人の女性が描かれている。
物語は、長年勤めた会社を辞めた女性が、故郷の小さな文房具店を手伝うところから始まった。
特別な事件が起こるわけではない。
店へ来る客と話し、売れ残ったノートを整理し、昔は嫌いだった町の風景を少しずつ見直していく。
彩花は静かに読み進めた。
途中で、主人公が店の奥から古い便箋を見つける場面があった。
もう製造されていない柄の便箋で、紙の端がわずかに黄ばんでいる。
主人公はそれを捨てず、店頭へ一つだけ並べる。
売れるかどうかは分からない。
ただ、誰かが気に入るかもしれないと思ったからだった。
(こういうお店、好きだな)
彩花はページをめくる手を緩めた。
自分が文房具店へ入るときも、必要なものを買うだけでは終わらないことがある。便箋やノート、栞、包装紙などを眺めていると、使う予定がなくても気になるものが見つかる。
新しいノートの最初のページが好きだと悠真へ話したこともあった。
けれど、今日はその記憶を追いかけるより、目の前の物語を楽しみたかった。
彩花は椅子へ座り直し、続きを読むことにした。
*
その頃、桜華学園の生徒会室では、悠真が机の上に広げた資料を確認していた。
窓の外はよく晴れている。
休日の校舎は平日より静かで、廊下を通る足音もまばらだった。
「九条、これで最後?」
森川航平が、確認済みの書類を一つにまとめながら尋ねる。
「うん。あとは先生に提出する分だけ」
「助かった。午前中に終わってよかったな」
「森川が早く来てくれたからね」
「そういうことにしといて」
森川は笑いながら椅子の背へ身体を預けた。
今日の作業は、冬の校内行事に関する備品申請と、各委員会から提出された希望内容の確認だった。
生徒会の仕事としては珍しいものではないが、記載漏れがあると後から担当者へ連絡しなければならないため、意外と時間がかかる。
悠真は最後の書類へ目を通し、問題がないことを確認した。
「これで大丈夫」
「じゃあ解散か」
「そうだね。お疲れさま」
森川は鞄を持ち上げながら、ふと思い出したように尋ねた。
「九条、午後は何か予定ある?」
「特には。帰って本でも読もうかな」
「珍しいな。休みの日なのに家?」
「普段も家にいるよ」
「いや、お前最近、出かけてること多いじゃん」
悠真は顔を上げた。
「そう?」
「前よりはな。図書館とか、どっか出かけたりとか」
「本屋にも行くしね」
「それは前からだろ」
森川は軽く笑ったが、それ以上は追及しなかった。
悠真も、特に説明することはないと思っていた。
彩花と会う機会が増えたのは確かだ。
しかし今日は約束をしていないし、午後の予定も決めていない。
森川と一緒に生徒会室を出ると、廊下の窓から中庭が見えた。
日差しを受けた木々の葉が風に揺れ、ところどころ地面へ落ちていく。
悠真は階段へ向かいながら、鞄の中のスマートフォンを思い出した。
朝、彩花から図書館へ行くと聞いている。
今頃は本を選んでいるのだろうか。
それとも、もう何かを読み始めているのだろうか。
そんなことを考えてから、悠真は自分の足を少し緩めた。
(……中央図書館なら、帰りに寄れるな)
もちろん、彩花がまだいるとは限らない。
会う約束もしていない。
けれど、自分も本を探したいと思っていたところだった。
「森川」
「ん?」
「俺、駅の方へ寄ってから帰る」
「了解。じゃあここで」
「お疲れさま」
「また月曜な」
森川と別れ、悠真は校門へ向かった。
午後の予定が一つ増えた。
それだけのことなのに、足取りが少し軽かった。
*
中央図書館の閲覧席で、彩花は小説の半分ほどを読み終えていた。
主人公が文房具店で働き始めてから、町の人々との関係が少しずつ変わっている。
特に気に入ったのは、店へ毎週同じ封筒を買いに来る老人の話だった。
主人公は最初、その老人がなぜ同じ封筒を買い続けるのか不思議に思う。
やがて老人は、遠くに暮らす孫へ手紙を書いていることを話す。
メールでも連絡は取れる。
けれど、孫が小さい頃から続けている習慣だから、今も手紙を書きたいのだという。
彩花はその場面を読み終え、少しだけ窓の外を見た。
自分が誰かへ手紙を書くことは、最近ほとんどない。
悠真とのやり取りもスマートフォンが中心だ。
それでも、手書きの文字には別の良さがあると思う。
クッキーの作り方を書いて渡したときも、文字にして残すことが少し嬉しかった。
そんなことを考えていると、鞄の中でスマートフォンが短く震えた。
彩花は周囲を確認し、画面を開いた。
『生徒会終わった』
悠真からだった。
『お疲れさま』
『彩花さんはまだ図書館?』
『うん。今小説読んでる』
『面白い?』
『面白いよ。文房具店が舞台の話』
『いいね』
そこまでやり取りしたところで、悠真からもう一通届いた。
『俺も寄っていい?』
彩花は画面を見つめた。
少しだけ驚いた。
今日は待ち合わせをしていない。
悠真は生徒会が終わったら帰宅するのだと思っていた。
けれど、断る理由はなかった。
『もちろん。今は奥の閲覧席にいるよ』
『分かった。着いたら連絡する』
彩花は返信を終え、スマートフォンを鞄へ戻した。
それから小説を開き直したが、しばらく文字が頭へ入りにくかった。
悠真が来る。
ただそれだけで、図書館の静かな空気が少し違って感じられる。
(……でも、読み終わるところまでは読もう)
彩花は自分へ言い聞かせるようにページへ視線を戻した。
悠真が来たら話せばいい。
それまでは、この物語を楽しもう。
そう決めると、次第に文章へ集中できるようになった。
*
悠真が中央図書館へ到着したのは、それから三十分ほど後だった。
入口で足を止め、館内の案内板を確認する。
彩花は奥の閲覧席にいると言っていた。
以前から何度も利用している図書館なので、場所はすぐに分かった。
ただ、今日は先に彼女のところへ行くのではなく、自分も本を一冊探すことにした。
最近、読もうと思っていた作品がある。
以前、彩花から題名を教えてもらった家具修理の連作短編集だ。
彼女が図書館で借りていた本なので、すでに返却されていれば書架へ戻っているかもしれない。
悠真は検索端末で所蔵場所を調べた。
画面には貸出可能と表示されている。
(あった)
書架へ向かい、目的の本を見つける。
手に取ると、表紙には古い椅子と工具箱が描かれていた。
彩花が気に入ったと言っていたのは、長く使われた食卓を小さな二人用の机へ作り直す話だった。
どんな物語なのだろう。
悠真は本を持ち、奥の閲覧席へ向かった。
通路を曲がると、窓際から少し離れた席に彩花の姿が見えた。
彼女は机へ本を開き、片手でページの端を押さえている。
髪が少し頬へかかっていることにも気づかず、静かに文字を追っていた。
悠真はその姿を見つけて、足を緩めた。
すぐに声をかけることもできた。
けれど、彩花が物語へ集中しているのが分かったので、少しだけ離れた場所で待つことにした。
ちょうど隣の棚には気になる本が並んでいる。
悠真はそこから一冊抜き、目次を確認した。
しばらくして彩花がページをめくり、ふと顔を上げる。
その視線が、書架の前にいる悠真を捉えた。
驚いたように目を見開いたあと、すぐに笑顔になる。
悠真も軽く手を上げた。
彩花は本へ栞を挟み、荷物をまとめて席を立った。
「悠真君、来てたんだ」
小さな声で話しかける。
「今来たところ。集中してたから」
「声かけてくれてよかったのに」
「いいところだったら悪いかなと思って」
「ちょうど区切りまで読んだから大丈夫」
彩花は悠真の手元へ目を向けた。
「あ、それ」
「彩花さんが読んでた本」
「借りられたんだ」
「さっき検索したら貸出可能だった」
「私、今日返したところ」
「そうだったんだ」
悠真は少し驚いた。
返却したばかりの本が、すでに書架へ戻っていたらしい。
「じゃあ、ちょうどよかった」
「うん。読んだら感想聞かせてね」
「もちろん」
二人は貸出カウンターへ向かった。
彩花は文房具店の小説を借りることにした。
まだ最後まで読んでいないが、続きを家で読みたいと思ったからだ。
手続きを終えると、二人は図書館の入口近くにある休憩スペースへ移動した。
館内の閲覧席とは違い、ここでは小さな声で会話ができる。
窓の外には街路樹が並び、通りを歩く人々の姿が見えた。
「今日、来ると思ってなかった」
彩花が言う。
「俺も最初は帰るつもりだったんだけど、早く終わったから」
「生徒会、大変だった?」
「書類の確認が多かったくらい。森川も手伝ってくれたし、予定より早かった」
「そっか。お疲れさま」
「ありがとう。彩花さんは朝からいたの?」
「十時過ぎくらいから。返す本があったから、そのまま何か探そうと思って」
「いい本見つかった?」
「うん。今借りたやつ」
彩花は鞄から文房具店の小説を少しだけ取り出し、表紙を見せた。
「主人公が故郷の文房具店を手伝う話なんだけど、店へ来るお客さんとのやり取りが面白いの」
「文房具店か。彩花さん好きそう」
「好き。お店の中の描写も細かくて、読んでると行ってみたくなる」
「どんな店?」
「古い商店街にある小さなお店。新しい商品だけじゃなくて、昔から残ってる便箋とかノートも置いてあるの」
彩花は少し身を乗り出した。
「主人公が古い便箋を見つける場面があるんだけど、それがすごく好きで。売れるか分からないけど、誰かが気に入るかもしれないからって店に並べるの」
「いいね」
「でしょう?」
悠真は彼女の話を聞きながら、自然と笑っていた。
彩花が本の話をするときの声は、いつも少し弾む。
ただ、今日はいつも以上に楽しそうだった。
書き終えた原稿のことを考える時間から、また純粋に読書を楽しむ時間へ戻っているのかもしれない。
悠真はそんなことを思ったが、わざわざ言葉にはしなかった。
「悠真君は、その本から読む?」
「うん。帰ったら読もうと思ってる」
「私が好きだった話、二番目なんだけど、最初から読んでほしいな」
「連作だから?」
「そう。最初の話で職人さんの考え方が少し分かるから、二番目も読みやすいと思う」
「分かった。順番に読む」
彩花は満足そうに頷いた。
それから二人は、最近読んだ本のことや学校の話を続けた。
話題は一つに留まらず、文芸部誌の進行から桜華の図書館展示へ移り、やがて冬休み前の予定の話になった。
「そういえば、琴葉ちゃんの展示どうなった?」
彩花が尋ねる。
「候補を三冊出したら、その中から一冊選んでたよ」
「何にしたの?」
「俺が昔読んだ冒険小説」
「あ、あの本?」
「そう。琴葉も読んだことがあって、紹介しやすいって」
彩花は少し懐かしくなった。
悠真の祖父から贈られた、大切な冒険小説。
以前借りて読み、感想を話したことがある。
「琴葉ちゃん、どんな紹介文書くんだろう」
「まだ見せてもらってない。完成したら見せてくれるって」
「楽しみだね」
「うん」
そこまで話したところで、彩花のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、母の紗月からだった。
『帰りに牛乳買ってきてもらえる?』
彩花は小さく笑い、返信した。
「お母さんから?」
「うん。帰りに牛乳買ってきてって」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
「そうだね」
二人は休憩スペースを出て、図書館の外へ向かった。
自動ドアを抜けると、午後の冷たい空気が頬に触れた。
午前中より風が強くなっている。
「寒くなったね」
彩花がカーディガンの袖を少し引く。
「もう冬が近いからね」
「秋って短い気がする」
「今年は特にそうかも」
歩道には落ち葉が散っていた。
先日拾った葉とは違い、すっかり乾いて茶色くなったものも多い。
二人は駅の方へ歩き始めた。
途中、商店街へ入る角で彩花が足を止める。
「私、こっちのスーパー寄るね」
「じゃあ俺もそこまで」
「いいの?」
「帰り道だし」
悠真は自然に答えた。
彩花も、それ以上遠慮しなかった。
スーパーの入口まで一緒に歩き、そこで別れる。
「今日は来てくれてありがとう」
彩花が言うと、悠真は少し笑った。
「俺も本借りられたし、よかった」
「読み終わったら教えてね」
「うん。彩花さんも文房具店の続き楽しんで」
「ありがとう」
二人は軽く手を振り、それぞれの帰り道へ向かった。
*
その日の夕方、彩花が牛乳を冷蔵庫へしまっていると、母の紗月が台所へ入ってきた。
「ありがとう、助かったわ」
「ううん。ちょうど帰りだったから」
「図書館、楽しかった?」
「うん。新しい本も借りた」
彩花は手を洗いながら答えた。
「それと、途中で悠真君が来た」
「あら、待ち合わせしてたの?」
「してないよ。生徒会が早く終わったから寄ったんだって」
「そうなのね」
紗月は冷蔵庫へ牛乳をしまい直しながら、娘の表情を見た。
彩花は何でもないことのように話している。
以前なら、九条君と会ったというだけで少し緊張した様子を見せていた気がする。
けれど今は、友達と図書館で会った出来事として自然に話していた。
それが紗月には嬉しかった。
「いい休日になったわね」
「うん」
彩花は素直に頷いた。
そのあと自室へ戻り、借りてきた小説を机へ置く。
窓の外では、夕方の光が住宅街を柔らかく照らしていた。
彩花は椅子へ座り、読みかけのページを開いた。
今日は一人で本を探し、物語へ集中する時間があった。
途中から悠真が来て、一緒に本の話をする時間もあった。
どちらも楽しかった。
片方があるから、もう片方が必要なくなるわけではない。
彩花はそんなことを考えながら、ページをめくった。
*
九条家では、悠真が自室で家具修理の短編集を読み始めていた。
最初の物語には、祖父が使っていた椅子を修理へ持ち込む大学生が登場する。
新しい椅子を買う方が安い。
それでも捨てられない理由がある。
職人は、その理由を聞いてから修理を引き受ける。
悠真は静かに読み進めた。
物語の中で、椅子は新品のようにはならなかった。
傷も残る。
長年使われた跡も消えない。
けれど、もう一度座れるようになる。
悠真はその結末を読み終え、本を閉じずに少しだけ手を止めた。
(彩花さんが勧めてくれた理由、分かる気がする)
彼女は二番目の話が好きだと言っていた。
そこまで読むのが楽しみだった。
窓の外では、庭の木々が風に揺れている。
机の端には、押し葉にしている橙色の葉を挟んだ紙が置かれていた。
悠真はそれを一度だけ見てから、次のページを開いた。
同じ図書館で別々の本を探していた二人が、午後には同じ場所で言葉を交わした。
今日の出来事は、それほど大きなものではない。
けれど悠真にとっても彩花にとっても、そんな普通の休日が、少しずつ大切な日常の一部になっていた。
そして、冬の気配が近づく青凪市では、二人の知らないところでも、新しい季節へ向けた準備が静かに進み始めていた。




