第74話 写真の中の、小さな悠真君
秋色の川沿いを歩いた翌朝、九条悠真がダイニングへ下りると、いつもの朝食とは明らかに関係のないものがテーブルの端に置かれていた。
紺色の布張りの表紙に、少しだけ擦れた角。厚みのあるアルバムが二冊重ねられており、その横では母の麗華が何事もないような顔で紅茶をカップへ注いでいる。
「……母さん」
「おはよう、悠真」
「おはよう。そのアルバム、何?」
尋ねながらも、答えにはだいたい予想がついていた。
昨夜、琴葉から聞いたばかりだ。母が昔のアルバムを出していた、と。
「探していた写真が見つかったのよ」
麗華は嬉しそうに答えると、上に置かれた一冊を軽く叩いた。
「秘密基地の写真」
「本当に探してたんだ……」
「だって、悠真が珍しく昔の写真を探していたでしょう? どの辺だったかしらと思ったら、懐かしくなってしまって」
「俺が探してたっていうか、彩花さんが見たいって言ったから」
「そうだったわね」
麗華はそれ以上、その名前について意味ありげに反応しなかった。
最近はその方がありがたい。
彩花が家へ来たことも、一緒にクッキーを作ったことも、悠真が一人で作ったものを彼女へ渡したことも、九条家ではすでに不自然な出来事ではなくなっている。麗華も琴葉も、必要以上にからかうことは減っていた。
悠真は自分の席へ座りながら、アルバムへもう一度視線を向けた。
「どんな写真だった?」
「見てみる?」
「朝から?」
「嫌なら夜でもいいわよ」
そう言われると、逆に気になる。
悠真が手を伸ばすより先に、階段から足音が聞こえた。制服姿の琴葉がダイニングへ入ってきて、テーブルのアルバムを見た瞬間に足を止める。
「お母さん、それ出したの?」
「秘密基地の写真、見つかったわよ」
「私の変な写真入ってない?」
「変な写真というのがどれを指すのか分からないけれど、かわいい写真ならたくさん」
「それ、お母さんの基準だから信用できない」
琴葉は警戒した様子で兄の隣へ座った。
悠真はアルバムを開く前から少し面倒なことになりそうだと思ったが、彩花へ見せると言った以上、一度は確認しておきたい。
「どのページ?」
「真ん中より少し後ろ。付箋をつけておいたわ」
麗華が指した黄色い付箋のページを開く。
そこには、幼い頃の悠真と琴葉が庭で遊んでいる写真が何枚か並んでいた。
今よりずっと小さな悠真は、半袖のシャツと短パン姿で、両腕いっぱいに細い枝を抱えている。髪には葉が一枚引っかかり、本人はそれに気づかないまま真剣な顔でどこかを見ていた。
その隣の写真では、庭木の間へ枝や布を組み合わせて作ったらしい「秘密基地」の前に、悠真と琴葉が並んで座っている。
秘密基地と呼ぶにはかなり心許ない。
大人が見れば、庭の一角へ子供が枝を立てかけ、古い布をかぶせただけのものにしか見えないだろう。
しかし写真の中の二人は、立派な建物を完成させたような顔をしていた。
「……思ったよりちゃんと基地っぽい」
悠真が言うと、琴葉が横から覗き込む。
「どこが? 今見るとほぼ布じゃん」
「当時はちゃんとしてたよ」
「雨降ったら終わるやつだったよ」
「雨の日に使う想定じゃないから」
「秘密基地なのに防水性ゼロ」
「小学生に何を求めてるの」
麗華が向かい側で笑っている。
「二人ともすごく真剣だったのよ。朝から作り始めて、お昼になっても戻ってこないから庭まで呼びに行ったの」
「覚えてないな」
「俺もそこまでは」
「お昼ご飯を秘密基地で食べたいって言うから、おにぎりを持っていったのよ」
麗華に言われ、悠真は写真の端へ目を向けた。
確かに別の一枚には、小さなレジャーシートの上に弁当箱らしいものが置かれている。
「これ、彩花さんに見せるの?」
琴葉が確認する。
「見たいって言ってたから」
「この枝持ってるやつ?」
「たぶん」
「私が変な顔してるのは送らないでね」
「昨日も言われた」
「大事なことだから二回言ってるの」
悠真は苦笑しながら写真を見比べた。
琴葉が写っていないものを選ぶこともできる。
だが、それでは当時の秘密基地の様子が分かりにくい写真も多かった。
「これならいい?」
悠真が指したのは、二人が基地の前に座っている一枚だった。
琴葉は写真をじっと見る。
「……まあ、これなら」
「許可出た」
「勝手に送られるよりいいでしょう」
「それはそうだね」
悠真はスマートフォンを取り出したものの、すぐに撮影することはしなかった。
朝の光がアルバムへ斜めに差しており、写真の一部が反射している。
「夜にちゃんと撮る」
「その方が綺麗ね」
麗華が頷き、朝食の皿を並べ始めた。
悠真もアルバムを閉じようとして、ふと別の写真へ目が留まった。
秘密基地の横で、枝を一本持った自分が琴葉へ何か話している。
琴葉は兄の方を見ながら笑っていた。
当時何を話していたのかは覚えていない。
けれど写真の中の自分が、思っていたより楽しそうなのが少し意外だった。
「どうしたの?」
琴葉に聞かれ、悠真は首を横へ振る。
「何でもない。昔の自分見るの、変な感じするなと思って」
「分かる。自分なのに知らない子みたい」
「でも自分なんだよね」
「だから余計変」
悠真はもう一度写真を見てから、アルバムを閉じた。
彩花はこれを見て、どんな反応をするのだろう。
それを想像したところで、少しだけ楽しみになった。
*
青葉高校では、昼休みの教室に弁当の匂いと話し声が満ちていた。
彩花は自分の席で弁当箱を開きながら、向かい側へ椅子を持ってきた田辺大地の話を聞いていた。
「だから俺は思うわけ。購買の焼きそばパン、三限終わった時点で予約制にするべきだって」
「それ、予約する人が増えるだけじゃない?」
「でも走らなくて済む」
「廊下走っちゃ駄目でしょう」
「そこなんだよ。校則を守る善良な生徒ほど焼きそばパンを失う仕組みになってる」
「普通のパン買えばいいじゃん」
「水瀬、お前には焼きそばパンへの情熱が足りない」
大地は深刻そうな顔をしているが、手元にはすでに別のパンが二つある。
彩花は呆れながら卵焼きを口へ運んだ。
「今日もちゃんと買えてるじゃん」
「これは第二希望と第三希望」
「十分でしょ」
「第一希望を諦めた人間にその言葉は残酷だぞ」
そこへ近くの席の女子が「田辺、朝から予約しておけば?」と口を挟み、大地が「朝は朝で何食べたいか決まってない」と返す。教室のあちこちから笑い声が上がった。
そんな普段通りの昼休みを過ごしていると、机の横に置いたスマートフォンが短く震えた。
昼休みなので確認すると、悠真からメッセージが届いている。
『秘密基地の写真、見つかった』
彩花は思わず画面へ顔を近づけた。
「何かあった?」
大地がパンを食べながら尋ねてくる。
「前に見たいって言ってた写真が見つかったって」
「何の?」
「子供の頃の秘密基地」
「何それ、楽しそう」
「友達が小さい頃に庭で作ってたんだって」
「庭に秘密基地作れるのすごいな」
大地は深く考えず、すぐに自分の話へつなげた。
「俺なんか公園の滑り台の下を基地って呼んでたぞ。三十分後に幼稚園児に占領された」
「秘密じゃないじゃん」
「当時の俺には秘密だったんだよ」
彩花は笑いながら、悠真へ返信した。
『本当にあったんだ』
『疑ってた?』
『ちょっとだけ』
『ひどい』
『だって悠真君が枝持って走ってるの想像できない』
少しして返信が来る。
『証拠写真がある』
『見たい』
『夜送る。琴葉の許可も取った』
そこまで読んで、彩花は目を瞬かせた。
『琴葉ちゃんも写ってるの?』
『一緒に作ってたから』
『それ絶対見たい』
『琴葉には言わない方がいいかも』
思わず笑ってしまった。
向かい側の大地が不思議そうに見る。
「そんな面白い写真?」
「まだ見てない」
「見てないのに笑ってるじゃん」
「やり取りが面白かっただけ」
「へえ」
大地は一瞬だけ彩花の顔を見たが、特に追及せずパンへ戻った。
ただ、以前より水瀬がスマートフォンを見て笑うことが増えた気はする。
文芸部で書くようになったこともあるし、文化祭の頃から本人の雰囲気そのものが少し明るくなったようにも見える。
大地にとって、それは理由を突き止めるほどの話ではなかった。
「ところで水瀬」
「何?」
「今度の部誌、食べ物出る?」
「まだそれ言ってるの?」
「読者の要望」
「一人だけでしょう」
「一人の声を大切にしてくれ」
「今回は写真立ての話だから、焼きそばパンは出ません」
「写真立て眺めながら焼きそばパン食べてもいいだろ」
「絶対入れない」
彩花が笑いながら言い切ると、大地は大げさに肩を落とした。
そのまま昼休みはいつもの騒がしさの中で過ぎていった。
*
放課後の文芸部では、冬の部誌へ向けた作業が少しずつ本格化していた。
原稿を書き終えた部員もいれば、まだ構想段階の部員もいる。佐々木先輩は全体の進行を確認しながら、必要な人にだけ声をかけていた。
彩花は先日直した箇所を含めて原稿を読み返し、ひとまず大きな修正はしないことに決めた。
女子生徒が写真を落とす一文を加えたことで、後の「写真立てが欲しい」という台詞が以前より自然につながっている。
だからといって、説明をさらに足す必要はなさそうだった。
「水瀬さん、そろそろ完成稿にしてもよさそう?」
佐々木が尋ねる。
「たぶん。でも、もう一回だけ家で通して読みたいです」
「いいよ。締め切りまでは余裕あるから」
「ありがとうございます」
「タイトルはそのまま?」
「はい。『いつか、ここに』でいきます」
口にしてみても、もう迷いはなかった。
書き始めた頃にはタイトルさえ決まっていなかった物語が、今は一つの形になっている。
その変化が不思議だった。
「じゃあ、完成稿を出すときに最終確認しようか」
「はい」
佐々木が別の部員のところへ移動すると、彩花は原稿ファイルを閉じた。
今日は無理に新しい作品を考えない。
悠真に「また書きたい」と言った気持ちは本物だが、次の物語を急いで作る必要はない。
今書き終えたものをきちんと完成させ、そのあとで新しいものを探せばいい。
そう考えると、以前よりずっと気持ちが楽だった。
部活動が終わり、校舎を出る。
昨日の川沿いほどではないが、青葉高校の木々も秋色を増している。
彩花は鞄の中にある原稿を思いながら駅へ向かった。
昨日拾った葉は、朝に確認したときまだ紙の間で形を保っていた。
押し葉として完成するまで少しかかるらしい。
何に使うかはまだ決めていない。
それも急がなくていいと思っていた。
*
その日の夜。
夕食と入浴を終えた彩花が自室で刺繍の小説を読んでいると、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『写真、撮れた』
その一文の下に画像が添付されている。
彩花は本へ栞を挟み、すぐに画面を開いた。
「……かわいい」
思わず声が出た。
写真の中には、今よりずっと幼い悠真と琴葉がいる。
庭の木々の間へ枝と布を使って作られた小さな秘密基地。その前に二人が並んで座り、どちらも誇らしそうな顔をしている。
悠真は半袖に短パンで、膝には土がついていた。
琴葉も今より髪が短く、兄の隣で満面の笑みを浮かべている。
彩花は画像を拡大した。
(悠真君、小さい……)
当然なのだが、知っている悠真との違いがおかしい。
今の彼はいつも落ち着いている。
学校では生徒会の仕事をこなし、家でも人に丁寧に接する。最初に会ったときから、同い年とは思えないほど穏やかな印象があった。
それが写真の中では、膝を泥で汚し、枝と布の基地の前で得意げに笑っている。
『かわいい』
彩花は迷わず送った。
すぐに既読がつく。
『やっぱりそうなる?』
『だってかわいいよ』
『基地の感想は?』
『思ったよりちゃんとしてる』
『でしょ』
『でも雨降ったら終わりそう』
返事が少し遅れた。
『琴葉と同じこと言ってる』
彩花は声を出して笑った。
『琴葉ちゃんも言ったの?』
『今朝』
『やっぱり』
『小学生に防水性求めないで』
『秘密基地なら屋根は大事じゃない?』
『布が屋根』
『絶対染みる』
『晴れの日専用』
写真一枚から、どうしてこんな話になるのだろう。
彩花は笑いながらもう一度画像を見る。
すると、悠真から二枚目が届いた。
今度は枝を両腕いっぱいに抱えた悠真だけが写っている。
髪に葉が引っかかっているのに、本人は気づいていない。
表情だけは妙に真剣だった。
『こっちが母さんのおすすめ』
「ふふっ……」
彩花は口元を押さえた。
『これもっとかわいい』
『母さんも同じこと言ってた』
『髪に葉っぱついてる』
『昨日も肩に葉っぱついた』
その返信を読んだ瞬間、彩花の指が止まった。
昨日。
川沿いのベンチ。
悠真の肩に乗った黄色い葉。
それを取ろうとして近づいた距離。
急に頬が熱くなる。
『……昨日のは自分で気づかなかったね』
できるだけ普通に返したつもりだった。
『子供の頃から変わってないのかも』
『そこは変わっていいと思う』
『次から気をつける』
『葉っぱ警戒するの?』
『彩花さんに笑われるから』
『笑ってないよ』
送ってから、昨日は少し笑ったことを思い出す。
『ちょっとだけ笑った』
『やっぱり』
会話が続いていく。
けれど彩花は、二枚目の写真を何度も見てしまった。
枝を抱えた小さな悠真。
今の彼とは違う。
それでも、どこか同じだと思う。
真剣になると周りが少し見えなくなるところ。
好きなものへ素直に集中するところ。
今なら本を読んでいるときや、何かを丁寧に作っているときに見える表情と、少し似ている気がした。
『悠真君、昔から何かに夢中になると真剣なんだね』
彩花が送ると、しばらく返事がなかった。
『写真だけで分かる?』
『なんとなく』
『今も?』
彩花は少し考えた。
『本読んでるときとか、クッキー作ってたときとか、似てるかも』
送信してから、彼がクッキー生地を混ぜていたときの顔を思い出す。
分量を確認するときも、混ぜ方を教えたときも、本当に真剣だった。
『自分だと分からないな』
『写真の方が分かりやすいけどね』
『子供だから?』
『表情が素直だから』
『今は素直じゃない?』
『そういう意味じゃないよ』
彩花は笑いながら返信した。
『今の悠真君は、真剣でも落ち着いて見えるから』
『なるほど』
そこで一度やり取りが止まった。
彩花は写真へ視線を戻す。
小さな悠真の隣には琴葉がいる。
二人で作った基地。
悠真だけの思い出ではない。
『琴葉ちゃんもかわいい』
今度はそう送った。
『本人に言っておく』
『写真見せてもらったって言って大丈夫?』
『許可取ってるから大丈夫』
『よかった』
『彩花さんの店屋さんの写真は?』
来た。
彩花は画面を見たまま固まった。
以前、幼い頃に凛花と店屋さんごっこをしていた話をした。
ケーキ屋や本屋を作り、紙へ本の題名を書いて並べていたこと。
写真が残っているかもしれないとは言ったが、自分から見せるとは一度も約束していない。
『ありません』
即座に送る。
『まだ探してないでしょう』
『ありません』
『二回言った』
『ないことになりました』
『ずるい』
『悠真君のは私が見たいって言ったから』
『じゃあ俺も見たいって言えばいい?』
彩花の指が止まる。
冗談で返すこともできた。
けれど、画面に表示された言葉を見ていると、少しだけ考えてしまう。
悠真が自分の子供の頃を見たいと思っている。
秘密基地の写真を見せてもらったから、単純に同じようなものを見たいだけかもしれない。
それでも、以前なら恥ずかしさだけで即座に断っていた。
(……探すだけなら)
見つかったら必ず送る、と約束する必要はない。
『探すだけ探してみる』
送信すると、すぐに返事が来た。
『本当に?』
『見つかっても送るとは言ってないよ』
『そこは分かってる』
『変なのだったら絶対見せない』
『それも分かった』
『お姉ちゃんの許可も必要だからね』
『うん』
押してこない。
見たいとは言ったけれど、見せろとは言わない。
その距離感に、彩花は安心した。
『じゃあ週末にでも探してみる』
『ありがとう』
『まだ見せるって言ってないってば』
『探してくれることに』
彩花は画面を見ながら、小さく笑った。
『それなら、どういたしまして』
*
翌日の夕方、水瀬家のリビングでは、彩花が母の紗月に古いアルバムの場所を尋ねていた。
「私とお姉ちゃんが小さい頃の写真って、どこにある?」
「急にどうしたの?」
「ちょっと見たい写真があって」
「二階の収納にもあるけど、古いのなら和室の棚かな。何歳くらい?」
「小学校低学年くらい」
「それなら和室かも」
紗月は家事の手を止め、少し考えてから付け加えた。
「凛花とお店屋さんごっこしてた頃?」
「何で分かったの?」
「あなた、その頃ほとんど凛花と一緒だったもの。写真も多いわよ」
嫌な予感がした。
「多いの?」
「かわいいのいっぱいあるわよ」
「その言い方、九条君のお母さんと同じ……」
「え?」
「何でもない」
彩花は和室へ向かった。
棚の下段には、家族写真をまとめたアルバムが何冊か入っている。
年度ごとに大まかに分かれているらしく、背表紙へ年が書かれていた。
目当ての時期を探していると、後ろから足音が近づく。
「何してるの?」
振り返ると、凛花が襖のところに立っていた。
「昔の写真探してる」
「何で?」
「……悠真君に見せるかもしれなくて」
隠す理由もないので正直に言う。
凛花は一瞬黙った。
「何の写真?」
「お店屋さんごっこしてた頃。悠真君の秘密基地の写真見せてもらったから」
「ああ」
凛花も以前、彩花からその話を少し聞いていた。
姉は和室へ入り、棚を覗き込む。
「たぶんその辺。私も写ってるでしょうけど、変なのは送らないで」
「琴葉ちゃんと同じこと言ってる」
「何が?」
「悠真君が写真送ってくれるとき、琴葉ちゃんも『変なの送らないで』って言ったんだって」
凛花は少しだけ笑った。
「それは言うでしょう」
「お姉ちゃんも許可取るんだね」
「私の写真でもあるから当然でしょ」
「分かってます」
二人でアルバムを探し、目当ての年のものを一冊取り出した。
畳の上へ並んで座り、ページを開く。
最初の方には家族旅行や運動会の写真が多かった。
小さな彩花が父に肩車されている写真。
凛花と二人でアイスを食べている写真。
庭で水遊びをしている写真。
「お姉ちゃん、今と全然違う」
「彩花もね」
「私、髪短い」
「自分で長いの嫌って言ってた時期でしょう」
「覚えてない」
「私は覚えてる。髪乾かすの面倒って毎日言ってた」
ページをめくるたび、忘れていた記憶が少しずつ戻ってくる。
そしてアルバムの後半で、凛花の手が止まった。
「あった」
「……ほんとだ」
そこには、子供部屋の床いっぱいに紙を並べた二人が写っていた。
小さな机の上には、手作りらしい紙の看板。
大きな字で『みずせほんやさん』と書いてある。
その下には、色鉛筆で題名を書いた小さな紙が何十枚も並べられていた。
幼い彩花は店員役らしく、紙で作った名札を胸につけている。
凛花は客役なのか、小さな財布を持っていた。
「……私、本当に本屋やってる」
「やってたよ。彩花が店長」
「お姉ちゃん、お客さん?」
「最初はね。そのあと店員にされた」
次の写真には、二人並んで床へ座り、紙の本を作っている姿が写っている。
彩花は自分の顔を見て、恥ずかしくなった。
笑っている。
今よりずっと無防備に、大きく口を開けて。
「これ、悠真君に見せるの?」
凛花が尋ねる。
「……どうしよう」
「私は別にいいよ。この写真なら」
「いいの?」
「変な顔してないから」
「基準そこなんだ」
「重要でしょう」
彩花はもう一度写真を見る。
恥ずかしい。
けれど、嫌ではない。
悠真の小さな頃を見たとき、自分が知らなかった彼を一つ知れた気がした。
今度は、自分の知らなかった頃を悠真が見る。
そのことを想像すると、少し落ち着かない。
それでも、隠したいとは思わなかった。
「……これなら、いいかな」
「じゃあ撮れば?」
「うん」
彩花はスマートフォンを取り出した。
反射しない角度を探し、写真を一枚撮る。
送信画面を開いたところで、指が止まる。
「今送るの?」
「うん」
「ずいぶん早いわね」
「だって見つかったし」
「そう」
凛花はそれ以上何も言わなかった。
ただ、妹が誰かに自分の幼い頃の写真を見せようとしている姿を眺めながら、少し不思議な気持ちになった。
昔の彩花なら、こういう写真を見せることを嫌がっただろう。
自分と並んで写っているだけで、「お姉ちゃんの方がかわいいから」と言って引っ込めていた時期さえある。
今の彩花は、写真の中で姉と並んでいる自分を見ても、その言葉を一度も口にしなかった。
それが凛花には何より嬉しかった。
けれど、その変化をわざわざ指摘する必要はないと思った。
彩花自身が自然にそうできているのなら、それでいい。
「送った」
妹の声で、凛花は思考を戻した。
「何て送ったの?」
「『見つかった』って」
「それだけ?」
「それだけ」
彩花は少し緊張した顔で画面を見ている。
数十秒後、既読がついた。
そして返信。
『本当に本屋さんだ』
彩花は吹き出した。
『言ったでしょう』
『想像してたより本格的』
『紙並べてるだけだよ』
『看板ある』
『お姉ちゃんと作った』
『彩花さん店長?』
『たぶん』
そこへ、さらに一通。
『かわいい』
彩花の指が止まった。
昨日、自分が悠真へ送った言葉と同じだった。
けれど自分へ返ってくると、受け取る感覚がまるで違う。
隣から凛花が画面を覗こうとする気配を感じ、彩花は反射的にスマートフォンを胸元へ引いた。
「見ないで」
「見てない」
「今見ようとした」
「妹が急に固まったから気になっただけ」
「何でもない」
頬が熱い。
写真の中の自分をかわいいと言われただけ。
今の自分を言われたわけではない。
そう考えているうちに、もう一通届く。
『二人とも楽しそうだね』
彩花は少しだけ肩の力を抜いた。
『楽しかったと思う。細かいことはあんまり覚えてないけど』
『本の題名まで書いてる』
『そこは今と変わらないかも』
『確かに』
悠真から、笑っている絵文字が一つ届いた。
彩花は写真を見直す。
子供の頃の自分。
紙の本を並べている自分。
隣には凛花。
今見ると、姉の方がどうとか、自分の方がどうとか、そんなことは気にならなかった。
ただ二人とも楽しそうだった。
「お姉ちゃん」
「何?」
「この写真、私好きかも」
凛花は少し驚いた顔をしたあと、アルバムへ視線を落とした。
「私も好き」
「今度ちゃんと保存しとこうかな」
「データにする?」
「うん。それもいいかも」
姉妹はしばらく昔の写真を眺めた。
悠真とのやり取りは続いていたが、彩花は急いで返信しなかった。
今は凛花と一緒に、このアルバムをもう少し見ていたかった。
*
九条家の自室で写真を受け取った悠真は、画面を何度も見直していた。
紙の看板。
床へ並べられた手作りの本。
その真ん中にいる、小さな彩花。
今の彼女と顔立ちは当然つながっているのに、表情の印象が少し違う。
口を大きく開けて笑っている。
隣にいる凛花も楽しそうだった。
(本当に昔から本が好きだったんだな)
今の彩花が図書館で本を選ぶ姿を知っている。
本の感想を話すとき、少しずつ声が弾んでいくことも知っている。
自分の好きな作品についてなら、普段よりずっと長く話せることも。
その始まりのようなものが、写真の中にある気がした。
もちろん、幼い頃の遊び一つですべてが決まったわけではない。
ただ、知らなかった時間の中にも今の彩花につながるものがある。
それを見ることができたのが嬉しかった。
悠真はスマートフォンを机へ置き、少し考えてから再び手に取った。
『見せてくれてありがとう』
送信する。
しばらくして返事が来た。
『恥ずかしかったけどね』
『俺も枝の写真かなり恥ずかしかった』
『お互い様だね』
『そうだね』
そこで終わってもよかった。
けれど悠真は、もう一度写真を見てから文章を打った。
『でも見られてよかった』
彩花からの返事は、少し時間がかかった。
『私も』
短い返事だった。
それでも、その一言が妙に嬉しい。
悠真は画面を閉じると、机の端へ置いてある紙へ目を向けた。
その下では、昨日拾った橙色の葉が押し葉になる途中だった。
昔の写真と、昨日の葉。
片方は自分が忘れかけていた時間で、もう片方はつい昨日できたばかりの記憶だ。
どちらも今は、彩花と話すきっかけになっている。
悠真はそれを不思議に思いながら、明日の授業の準備を始めた。
*
数日後、彩花の原稿は冬の文芸部誌へ掲載する完成稿として正式に提出された。
最後まで残していた修正箇所も確認し、佐々木先輩から「これでいこう」と言われたとき、彩花は思っていた以上に深く息を吐いた。
「終わった……」
「お疲れさま」
「文化祭のときより、書き終わった感じが違います」
「どう違う?」
佐々木に尋ねられ、彩花は少し考えた。
「前は、ちゃんと書けたかなっていう気持ちの方が強かったんです。でも今回は、自分でここまでって決められた感じがします」
「いい変化じゃない」
「はい」
まだ完璧だとは思わない。
後から読み返せば、直したくなる場所も見つかるだろう。
それでも今の自分が書ける『いつか、ここに』は、これで完成だと思えた。
部誌になるのはもう少し先。
そのときは、悠真も読むだろう。
大地も読むかもしれない。
学校図書館へ置かれれば、名前も知らない誰かが手に取る可能性もある。
以前なら怖かった想像が、今は少し楽しみだった。
帰宅後、彩花は悠真へ完成稿を提出したことを伝えた。
『お疲れさま』
『ありがとう』
『直したところ、部誌で読む』
『そこまで待つの?』
『完成した本で読みたい』
その返事に、彩花は少し嬉しくなる。
『じゃあ待ってて』
『うん』
そこでやり取りを終え、彩花は机の上に置いていた紙を開いた。
押し葉にしていた二枚は、少し色を落ち着かせながらも、きれいな形を保っていた。
一枚は自分の膝へ落ちた葉。
もう一枚は悠真の肩から取った葉。
何に使うかは、まだ決めていない。
彩花はしばらく二枚を眺めたあと、もう一度そっと紙へ戻した。
完成した物語が一つある。
見せ合った昔の写真がある。
持ち帰った秋の葉もある。
どれも別々の出来事なのに、自分の中では少しずつつながっていた。
過去の自分を誰かに見せることも、今の自分が作ったものを読んでもらうことも、以前ほど怖くない。
そして、これから先に何を書くのか、何を好きになるのか、誰とどんな景色を見るのかは、まだ決まっていない。
彩花はその「まだ決まっていない」という状態を、もう不安だとは思わなかった。
机の上の原稿ファイルへ目を向ける。
表紙には、自分で決めた題名がある。
『いつか、ここに』。
物語の中の二人が残した空白と同じように、自分のこれからにも、まだ何も入っていない場所がたくさんある。
そこへ何を置くのかは、これから自分で選んでいけばいい。
彩花は読みかけの刺繍の小説を手に取り、栞を挟んでいたページを開いた。
窓の外では秋の夜風が木の枝を揺らしている。
静かな部屋でページをめくりながら、彩花は次の物語を急いで探すことなく、今は一つを書き終えた余韻の中へゆっくり戻っていった。




