第73話 秋色になった、あの場所
土曜日の中央図書館で悠真に原稿の感想を聞いてから、数日が過ぎた。
彩花はすぐに原稿を直さなかった。
悠真から指摘された、美術室で女子生徒が写真立てを欲しがる場面については確かに気になっている。けれど、読んでもらった直後の勢いで手を加えれば、悠真の感想をそのまま正解として文章へ入れてしまいそうだった。
だから一度、原稿から距離を置くことにした。
月曜日は授業と部活動を普段通りに過ごし、帰宅後も原稿を開かなかった。代わりに図書館から借りている刺繍を題材にした小説を読み、祖母と孫娘が同じ刺繍枠を使いながら、まったく違う模様を縫っていく場面でしばらくページを止めた。
同じ道具を使っても、出来上がるものは同じではない。
当たり前のことなのに、今は以前よりその言葉が身近に感じられる。
火曜日の放課後になって、彩花は文芸部の部室でようやく原稿を開いた。
窓の外では校庭の木々が風に揺れている。文化祭の頃にはまだ緑の方が多かった葉も、今は黄色や橙色が目立つようになり、窓際の机へ落ちる光にもどこか柔らかな秋らしさが混じっていた。
部員たちはそれぞれ自分の作業を進めている。キーボードを打つ小さな音と紙をめくる音が混ざる中、彩花は悠真が指摘した場面まで読み進めた。
『それなら、私にくれない?』
女子生徒がそう尋ねる。
今までは、その直前まで彼女が写真立てを欲しがっていることをほとんど示していなかった。
(何を足せば自然なんだろう)
写真立てが欲しいと先に説明してしまえば分かりやすい。しかし、それでは彼女が男子生徒の作品を見た瞬間に何を感じたのかが弱くなる気がした。
彩花は数分考え、冒頭近くの場面へ戻った。
女子生徒が忘れ物を取りに美術室へ来る。
そこで男子生徒が作った写真立てを見る。
なら、その前に大げさな説明を入れる必要はない。
彼女が鞄から落とした一枚の写真を拾う。
まだ写真立てへ入れていない、友人たちと撮った写真。
机の上に置いていたそれを男子生徒が見つけて渡す。
その程度ならどうだろう。
写真立てを欲しがっていた理由を全部説明するのではなく、「飾りたい写真を持っている」ということだけを先に見せる。
彩花は文章を書き足しかけ、手を止めた。
(……これなら、あとで古い写真立ての話が出ても邪魔しないかな)
女子生徒には、家に古い写真立てがある。
子供の頃から使っていたもので、今の自分には少し合わなくなっている。それでも捨てるほど嫌いではなく、最後には飾りだけを外して残す。
新しい写真を持っていることと、古い写真立てを持っていることは矛盾しない。
むしろ彼女自身が少しずつ先へ進もうとしていることを、早い段階でわずかに見せられる。
彩花は新しい一文を入れ、その前後を何度も読み直した。
「水瀬さん、直すところ決まった?」
斜め向かいで作業していた佐々木先輩が、手を止めずに尋ねてきた。
「一か所だけです。友達に、ここだけ少し急に感じたって言われて」
「どこ?」
彩花は該当箇所を見せた。
佐々木は修正前と修正後を読み比べ、少し考える。
「私はこっちの方が好きかな。理由を説明するんじゃなくて、先に物だけ見せてるから」
「私もそう思います」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「はい」
彩花は素直に頷いた。
悠真が気づいた違和感を、そのまま悠真の答えで直したわけではない。
自分で考えて、自分の作品に合う形を選んだ。
そのことが嬉しかった。
原稿を保存してから、彩花は椅子の背へ少し身体を預けた。窓の外へ目を向けると、校庭の端を風に運ばれた葉が転がっていく。
黄色と赤の混じった葉だった。
それを見た瞬間、以前悠真と交わした会話を思い出した。
好きな季節を尋ねたとき、悠真は秋だと答えた。
暑すぎず、本を読みやすいこと。それから、木々の色が少しずつ変わっていくのを見るのが好きだと言っていた。
そしてもう一つ、彩花の中に残っている場所がある。
川沿いの道。
春には桜が咲き、夏には木陰ができる、自分の好きな場所。
悠真を一度連れていったときは、まだ緑の葉が多かった。
(今、どうなってるかな)
ここ数日は朝夕がかなり冷えるようになった。
川沿いなら、学校の木よりも色づきが進んでいるかもしれない。
彩花はスマートフォンを取り出しかけて、部活動中だったことを思い出し、いったん鞄へ戻した。
今すぐ伝えなくてもいい。
帰ってから写真でも撮りに行こうか。
そう考えたところで、別の思いが浮かぶ。
(写真だけでいいのかな)
あの場所を最初に悠真へ見せたのは、自分だった。
季節が変わった景色を見せたいと思う相手も、やはり同じ人だった。
そのことに気づいても、以前のように「どうして」と理由を探す必要はなかった。
見せたいから、見せたい。
今はそれで十分だった。
*
同じ頃、桜華学園では放課後の生徒会室に西日が差し込んでいた。
悠真は確認を終えた書類を机の端へまとめ、次の資料へ手を伸ばした。
文化祭が終わったからといって生徒会の仕事がなくなるわけではない。行事の事後処理や予算の確認、冬へ向けた校内活動の申請など、細かな仕事はいくつも残っている。
ただ、文化祭直前ほど慌ただしくはなかった。
「九条、これ確認終わった」
向かい側の席から森川が書類を差し出す。
「ありがとう。そこ置いて」
「今日は早く終わりそうだな」
「たぶん。追加が来なければ」
「その言い方すると来るぞ」
「やめてよ」
悠真が苦笑すると、近くにいた上級生も小さく笑った。
生徒会室には張り詰めた空気はなく、それぞれが自分の仕事を進めながら必要なときだけ声を掛け合っている。
窓際の席に座っていた悠真は、書類へ視線を戻す前に一度だけ外を見た。
校舎を囲む木々の色が変わり始めている。
桜華の敷地は広く、樹木も多い。
緑の中に黄色や赤が混じる今の時期は、毎年好きだった。
(今年は、いつもより色づくの早いかな)
そんなことを考えたところで、川沿いの景色が頭に浮かんだ。
彩花に連れていってもらった場所。
大きな木と、川の曲がりが見えるベンチ。
彼女は春の桜も綺麗だと言っていたが、秋の景色も見てみたいと思っていた。
以前そこへ行ったとき、また季節が変わったら来たいと思ったことを覚えている。
悠真は机の上に置いたスマートフォンへ一瞬視線を向けた。
もちろん仕事中なので手には取らない。
けれど、終わったら彩花へ聞いてみようと思った。
あの場所は、もう色づいているだろうか。
*
その日の夕方、二人から送られたメッセージは、ほとんど同じ時間に相手のスマートフォンへ届いた。
彩花が帰宅して制服から着替え、自室の机へ鞄を置いたところで通知音が鳴る。
画面には悠真の名前。
『前に連れていってもらった川沿い、もう紅葉してる?』
彩花は数秒、画面を見つめた。
自分も同じことを考えていた。
それだけなのに、妙に嬉しい。
返信しようとしたところで、画面に自分が送信したばかりのメッセージも表示されている。
『川沿いの道、今ちょうど色づいてるかもしれない』
ほぼ同時だった。
『あ』
悠真から届く。
彩花も思わず笑った。
『同じこと考えてた』
『みたいだね』
『今日、学校の木を見て思い出したの』
『俺も』
また同じだった。
彩花はベッドの端へ腰を下ろし、スマートフォンを両手で持った。
『まだ見に行ってないから、どれくらいか分からないけど』
『見に行きたい』
その返事は早かった。
彩花は一度だけ目を瞬かせ、それから自然に笑う。
『じゃあ一緒に行く?』
『行きたい』
『今週は土曜日会ったばっかりだけど』
送ってから、以前ならこんな一文すら打てなかっただろうと思う。
会いすぎではないか。
迷惑ではないか。
理由が必要なのではないか。
そうやって自分で距離を取ろうとしていた。
今は確認するように書いただけで、断られることを怖がっているわけではない。
『俺は気にしないけど、彩花さんは?』
『私も気にしない』
『じゃあ行こう』
『うん』
すんなり決まった。
互いの予定を確認すると、翌日は悠真の生徒会がなく、彩花の文芸部も通常より早く終わる。
放課後に駅で待ち合わせ、川沿いまで歩くことになった。
彩花は予定を決めてから窓の外を見た。
夕暮れの空は薄い橙色で、住宅街の屋根の向こうへ日が沈みかけている。
明日も晴れるらしい。
(どんな色になってるかな)
去年も見たはずの景色なのに、今年は少し違う気持ちで楽しみにしている。
理由は分かっていた。
隣にいる人が違うからだ。
*
翌日の放課後。
青凪駅前で待ち合わせた二人は、そのまま住宅街の方へ歩き始めた。
日が傾くのが早くなり、まだ夕方と呼べる時間なのに影が長い。空気も以前この道を歩いたときより冷たく、彩花は薄手のカーディガンの袖口を指先まで少し引いた。
「寒い?」
隣を歩く悠真が気づく。
「ちょっとだけ。でもこれくらい好き」
「冬の朝の冷たい空気が好きって言ってたね」
「覚えてたんだ」
「それくらいは」
彩花は笑い、前方へ目を向けた。
今日は以前のように互いの好みを確かめ合うために来たわけではない。その一言もそこで終わり、会話は学校であったことへ自然に移っていった。
彩花は文芸部誌の原稿を一か所直したことを話した。
「この前、悠真君が言ってたところ」
「写真立て欲しがるところ?」
「うん。でも、理由を説明する文章は入れなかった」
「どうしたの?」
「その前に写真を一枚出した。女の子が鞄から落とした写真を男の子が拾うの。それで、飾りたい写真を持ってるっていうことだけ先に見せることにした」
悠真は少し考え、それから頷いた。
「それなら読んでみたい」
「完成版になったらね」
「また読ませてもらえる?」
「読者予約したでしょう?」
「あ、予約有効なんだ」
「今回の修正版くらいなら」
「よかった」
二人で笑いながら歩く。
駅前の商店が途切れ、住宅の多い道へ入ると、車の音も少し遠くなった。
やがて川へ近づくにつれ、空が広く見えるようになる。
「もう少し」
彩花が言った。
以前も通った道だ。
けれど、角を曲がった先に見えた景色は、あの日とは明らかに違っていた。
「わ……」
悠真が思わず声を漏らす。
川沿いに並ぶ木々は、緑をかなり減らしていた。
黄色。
橙。
ところどころに深い赤。
同じ一本の木でも完全に一色へ変わっているわけではなく、まだ残る緑の葉の間に秋の色が重なっている。
低くなった夕日がその葉を透かし、川面には細かな光が揺れていた。
「思ったより色づいてる」
彩花も足を緩めた。
「綺麗だね」
「うん」
悠真はすぐには歩き出さなかった。
視線が木々の方へ向いたまま動かない。
彩花はその横顔を見て、少し嬉しくなった。
ここへ連れてきたときにも、悠真は景色を気に入ってくれた。
けれど今日は、彼自身が好きだと言っていた季節の景色だ。
「秋が好きって言ってたから、見せたかったんだ」
彩花が言うと、悠真はようやく彼女へ視線を戻した。
「ありがとう」
「私も見たかったけどね」
「それでも、俺にも見せようと思ってくれたんでしょう?」
「……うん」
そこは否定しなかった。
悠真は少し笑い、再び川沿いへ目を向ける。
「前に来たときと全然違うね」
「夏寄りだったからね。あのときはまだ葉っぱもほとんど緑だったし」
「同じ場所なのに」
「季節が違うと結構変わるよ」
二人はゆっくり歩き始めた。
足元には落ち葉が増えている。乾いた葉を踏むたび、小さく音が鳴った。
川の方から吹く風には水の匂いと冷たさが混じっている。
散歩をしている年配の夫婦とすれ違い、少し先では犬を連れた女性が立ち止まって紅葉の写真を撮っていた。
彩花は景色を眺めながら、以前この道を悠真へ見せた日のことを思い出していた。
あの日は緊張していた。
自分の好きな場所を誰かに見せることが、自分自身の一部を見せるように感じていたからだ。
今日は違う。
同じ場所を歩いているのに、肩へ余計な力が入っていない。
悠真が隣にいることも、彼へこの景色を見せることも、以前よりずっと自然だった。
「彩花さん」
「何?」
「あのベンチ、空いてる」
悠真が指した先には、以前二人で座った補修済みのベンチがある。
「ほんとだ。行こう」
川が曲がる場所を見渡せる、大きな木のそばのベンチ。
二人は並んで腰を下ろした。
頭上の木も半分以上が黄色へ変わっており、風が吹くたびに数枚の葉が枝から離れていく。
そのうち一枚が彩花の膝へ落ちた。
「あ」
彩花は葉を摘まみ上げた。
黄色の端に少しだけ赤が混じっている。
「綺麗」
「持って帰る?」
「うーん……」
彩花は少し迷い、葉を手のひらへ乗せた。
「本に挟むと色変わっちゃうかな」
「押し葉にするなら乾かした方がいいんじゃない?」
「詳しい?」
「いや、今それっぽいこと言っただけ」
「何それ」
彩花は笑った。
「じゃあ調べてからにしようかな」
「その葉持って帰るんだ」
「せっかく膝に落ちてきたし」
葉を鞄の小さなポケットへ傷まないように入れる。
悠真はその様子を見ながら、ふと大きな木を見上げた。
「俺も一枚拾おうかな」
「膝に落ちてくるの待つ?」
「それだと帰れなくなるかもしれない」
「じゃあ足元から綺麗なの探したら?」
二人でベンチの周囲を見る。
落ちたばかりらしい葉がいくつもある中から、悠真は橙色の一枚を拾った。
「これにする」
「悠真君の方が秋っぽい」
「彩花さんのも秋でしょう」
「黄色が多いから、ちょっと早めの秋」
「じゃあ俺の方が少し先?」
「葉っぱで時期競わないでよ」
くだらないやり取りがおかしくて、また笑う。
笑い声は川の音と風に混じり、すぐに周囲へ溶けていった。
しばらくして会話が途切れても、気まずさはなかった。
二人は並んで川を眺める。
以前ここへ来たとき、彩花は自分の過去について話した。
姉と比べて、自分には何もないと思っていたこと。
それでも少しずつ、自分の好きなものを見つけられるようになったこと。
悠真はその話を誰にも言わずにいてくれている。
今も彼からその話題を持ち出すことはない。
だからこそ、彩花は安心して同じ場所へ戻ってこられた。
「ねえ、悠真君」
「うん?」
「前にここへ来たときより、今日の方が気楽かも」
「俺が?」
「私が」
悠真は少し驚いたように彩花を見る。
「前は、ここに連れてくるの結構緊張してたから」
「そうだったんだ」
「うん。私の好きな場所だから、気に入ってもらえなかったらどうしようって少し思ってた」
「全然気づかなかった」
「言ってないもん」
「今日も気に入ってるよ」
「知ってる」
彩花は川を見たまま答えた。
以前なら、こんなふうに言い切れなかったかもしれない。
悠真がここを気に入っていることを疑わず受け取れる。
それだけで、自分の中にあるものが少し変わったことが分かる。
「だから今日は、気に入るかなって心配するより、見せたら喜ぶかなって思ってた」
悠真の返事が少し遅れた。
彩花が隣を見ると、彼は川ではなくこちらを見ていた。
「……喜んだよ」
「うん」
「かなり」
「それならよかった」
彩花は笑った。
悠真も笑い返す。
けれど、そのあと彼はしばらく視線を川へ戻さなかった。
(俺が喜ぶと思って、連れてきてくれたんだ)
その事実が、景色そのものとは別のところで嬉しかった。
彩花は自分の好きな場所を見せてくれた。
今度は、自分が秋を好きだと知ったうえで、季節が変わった同じ場所へ誘ってくれた。
それを何と呼ぶのか、悠真は考えなかった。
ただ、胸の内側に残る温かさを、そのまま大切にしておきたかった。
川面へ視線を戻すと、夕日の色が少し濃くなっていた。
「ここ、冬はどうなるの?」
悠真が尋ねる。
「葉っぱがほとんどなくなるから、今より川がよく見えるよ。風はかなり冷たいけど」
「雪は?」
「青凪はそんなに積もらないから、毎年見られるわけじゃないかな。でも薄く積もった日は綺麗」
「そっか」
「春は桜だし、夏は木陰になるし、秋は今みたいな感じ。冬はちょっと寂しく見えるけど、それも私は好き」
彩花は四季の景色を頭の中で思い浮かべる。
すると悠真が、小さく息を吐いた。
「一年で四回見ても全然違いそう」
「うん」
「いい場所だね」
「でしょう?」
自分が褒められたわけでもないのに、彩花は少し得意になる。
悠真はその表情を見て笑った。
「何で彩花さんが自慢げなの?」
「私が見つけた場所だから」
「川は彩花さんのものじゃないでしょう」
「でも、私のお気に入りではあるもん」
「それなら確かに」
会話をしている間にも、風が吹くたびに葉が落ちてくる。
悠真の肩へ一枚の黄色い葉が乗った。
彩花は気づいて、指を向ける。
「悠真君、肩」
「え?」
「葉っぱ乗ってる」
悠真が反対側の手を伸ばしたが、位置が少しずれている。
「もうちょっと後ろ」
「ここ?」
「違う。もう少し……」
何度か空振りする様子がおかしくなり、彩花は笑った。
「取ろうか?」
「お願い」
彩花はベンチの上で少し身体を向け、悠真の肩へ手を伸ばした。
葉を摘まむだけ。
それ自体は一瞬だった。
けれど指先が制服ではない上着の肩口へ近づいたところで、二人ともわずかに動きを止めた。
近い。
普段並んで歩いているときより、顔の距離がずっと近いことに、その瞬間になって気づいた。
悠真は動かなかった。
彩花も、葉を取るために伸ばした手をすぐには戻せなかった。
(……近い)
胸が一度だけ強く鳴った。
何か特別なことをしたわけではない。
触れたのも服の肩口へほんのわずか。
それでも、悠真が自分を見ていることを意識すると、急に頬が熱くなる。
彩花は葉を摘まみ、少し急いで元の位置へ戻った。
「取れた」
「ありがとう」
悠真の声も、ほんの少しだけ普段より硬い。
「これ、どうする?」
彩花は摘まんだ黄色い葉を見せた。
「……彩花さんの膝に落ちたのと似てるね」
「ほんとだ」
「じゃあ、それも彩花さんにあげる」
「何で?」
「俺はもう一枚持ってるから」
「二枚あってもいいでしょう」
「じゃあ彩花さんが二枚持っててもいいでしょう」
少しだけぎこちなかった空気が、そのやり取りでほどけた。
「それもそうか」
彩花は二枚目の葉も鞄へしまう。
ただし、さっきまでとは違って、しばらく悠真の方を真っ直ぐ見るのが少し恥ずかしかった。
悠真も似たような状態だった。
(肩の葉を取ってもらっただけなのに)
自分でも理由が分からない。
クッキー作りのときに手首へ触れられたことはあった。
けれど今は、あのときとはまた違う。
何が違うのかを考え始めると余計に意識しそうで、悠真は川へ目を向けた。
しばらく二人とも景色を眺めた。
沈黙は気まずくない。
ただ、少しだけ心臓の音が近く感じられる。
やがて彩花が、落ち着きを取り戻した声で言った。
「そろそろ暗くなるね」
「うん。駅まで戻ろうか」
「そうしよう」
二人はベンチから立ち上がった。
帰り道では、来たときと同じように学校の話や本の話をした。
悠真が図書館で借りた写真館の小説を読み始めたこと。
彩花は刺繍の小説があと少しで読み終わること。
琴葉が学校図書館の展示で本を紹介することになり、悠真が一冊選ぶ相談を受けていること。
「まだ決めてなかったの?」
「候補はあるんだけど、琴葉本人が紹介するから、俺が好きな本を押しつけても仕方ないかなと思って」
「琴葉ちゃんが読んだことある中から選ぶんじゃないの?」
「最終的にはそうすると思う。俺には候補を聞きたいだけみたい」
「それなら何冊か出して、琴葉ちゃんが選べばいいんじゃない?」
「そうする」
そんな話をしているうちに、駅前の明かりが見えてきた。
川沿いより人が多くなり、仕事帰りの人や学生たちが行き交っている。
改札近くで足を止めたとき、彩花は鞄のポケットを確認した。
「葉っぱ、折れてないかな」
「家まであと少しでしょう?」
「うん。帰ったらちゃんと出す」
「何にするの?」
「押し葉にしてみようかな。しおりにしてもいいかも」
「二枚あるしね」
「一枚失敗しても大丈夫」
「失敗前提なんだ」
「初めてだから」
彩花は笑い、それから悠真の鞄を見た。
「悠真君のも忘れないでね」
「ちゃんと入ってる」
「何にする?」
「まだ決めてない。とりあえず持って帰る」
「なくさないように」
「彩花さんも」
「うん」
電車の時間が近づく。
いつものように、それぞれ帰る方向へ分かれる。
「今日はありがとう、彩花さん」
「こっちこそ。見に来てくれてありがとう」
「また色が変わったら見たくなるね」
悠真は景色について言っただけだった。
けれど彩花は、すぐに次の約束へ変えようとはしなかった。
「そのときは、また全然違うかもね」
「うん」
今はそれでいい。
春も、夏も、秋も、冬もある。
その全部を今ここで約束しなくても、季節は自然に進んでいく。
会いたいと思ったときに、また誘えばいい。
「じゃあ、また学校終わったら連絡する」
「うん。またね、悠真君」
「またね、彩花さん」
彩花は改札を抜けてから、一度だけ振り返った。
悠真もまだそこにいて、ちょうどこちらへ目を向けていた。
二人は少し離れた場所から軽く手を振り、それぞれ帰路についた。
*
帰宅後、彩花は制服から部屋着へ着替えると、鞄のポケットから二枚の葉を慎重に取り出した。
一枚は自分の膝へ落ちてきた、黄色の端に赤が混じった葉。
もう一枚は悠真の肩に乗っていた、少し小さな黄色い葉。
机の上へ並べると、似ているようで形が違う。
彩花はスマートフォンで押し葉の作り方を調べ、家にある紙を用意した。
水分を抜きながら重しをする方法なら、自分にもできそうだった。
二枚をそれぞれ丁寧に紙へ挟んでから、上へ厚い本を置く。
「できるかな」
誰に聞かせるでもなく呟き、机の端へ手を置いた。
今日の川沿いの景色を思い出す。
赤や黄色へ変わった木々。
川面に映った夕日。
ベンチ。
悠真の肩に乗った葉。
そして、それを取るために近づいた瞬間。
そこまで思い出したところで、彩花は両手で頬を押さえた。
(何でそこだけこんなに鮮明なの)
服の上から葉を取っただけだ。
それなのに、悠真の顔が近かったことや、一瞬視線が合ったことまで妙にはっきり覚えている。
彩花は机へ突っ伏しかけ、押し葉を作っている最中だと思い出して慌てて身体を起こした。
「……変なの」
自分に向けて小さく言う。
嫌だったわけではない。
むしろ逆だから困る。
けれど、その気持ちへ今すぐ名前を付けようとは思わなかった。
分からないなら、分からないままでいい。
写真立ての中身をすぐ決めなくてもよかったように、自分の中に生まれたものだって、急いで答えを出す必要はない。
彩花は机の上の本へ視線を落とし、少しだけ笑った。
*
九条家では、悠真も自室の机へ一枚の橙色の葉を置いていた。
夕食まで少し時間がある。
葉をどう保存すればいいのか調べようとスマートフォンを開いたところで、ドアが軽く叩かれた。
「お兄ちゃん、入っていい?」
「いいよ」
琴葉が顔を出す。
「この前の本、候補決めた?」
「今ちょうど忘れてた」
「忘れてたんだ」
「今日ちょっと出かけてたから」
「どこ?」
「川沿い」
「一人で?」
悠真は机の上の葉へ視線を落とした。
「彩花さんと」
「ふうん」
琴葉はそれ以上声色を変えずに部屋へ入り、机の横まで来た。
以前なら何か言いたくなったかもしれない。
けれど最近の兄は、彩花と会ったことを隠そうともしないし、理由を取り繕うこともしない。
それが当たり前になっている。
だから琴葉も、わざわざ茶化す必要を感じなくなっていた。
「紅葉見に行ったの?」
「うん。前に彩花さんが連れていってくれた場所」
「綺麗だった?」
「かなり」
「それ、拾ってきたの?」
琴葉が机の葉を指す。
「そう」
「珍しいね、お兄ちゃんがそういうの持って帰るの」
「そうかな」
「昔は庭で枝拾ってたけど」
「それは秘密基地用だったから別でしょう」
「枝持って走ってる写真、お母さん探してたよ」
「……本当に探してるの?」
「この前アルバム出してた」
悠真は額へ手を当てた。
彩花が見たいと言った以上、見つかったら送るつもりではいる。
ただ、どんな写真が出てくるのか少し怖い。
「琴葉が変な顔してる写真も一緒に出てくるかもね」
「それは絶対送らないで」
「俺だけ犠牲になるの?」
「お兄ちゃんの秘密基地の話なんだから、お兄ちゃんだけでいいでしょう」
「一緒に作ってたのに」
「私は協力者」
「かなり中心人物だったけど」
兄妹の言い合いはしばらく続き、最後には二人とも笑っていた。
琴葉は本の相談を思い出し、机の端へメモを置く。
「候補、三冊くらいお願い。明日まで」
「分かった。今日考える」
「よろしく」
部屋を出る直前、琴葉はもう一度机の葉を見た。
「それ、ちゃんと保存したら?」
「今調べようと思ってた」
「押し葉にするなら、紙挟んで本の下でもできるよ」
「彩花さんも同じこと言ってた」
「じゃあ聞く必要なかったね」
「方法までは聞いてない」
「なら役に立った」
琴葉は満足そうに出ていった。
悠真はドアが閉まってから、机の上の葉を手に取った。
橙色の葉。
川沿いで自分が選んだ一枚。
特別珍しい形をしているわけではない。
それでも捨てる気にはならなかった。
今日見た景色を思い出せるから。
そして、その景色を見せたいと思ってくれた人のことまで、一緒に思い出せるから。
悠真は紙を用意し、葉を丁寧に挟んだ。
上に置く本を本棚から選びながら、ふと肩へ触れた彩花の指先を思い出し、動きがわずかに止まる。
(……葉を取ってもらっただけだよな)
それ以上考えないように、本を一冊抜き出す。
けれど耳のあたりに残った熱までは、すぐには消えてくれなかった。
机の上では、紙に挟まれた一枚の葉が静かに重しを待っている。
同じ頃、少し離れた水瀬家でも、二枚の葉が厚い本の下へ収められていた。
同じ川沿いで拾った秋の色を、二人はそれぞれの部屋へ持ち帰った。
季節は少しずつ先へ進んでいる。
そして二人の間にも、まだ名前を持たない小さな変化が、急ぐことなく静かに積み重なっていた。




