第72話 物語の向こうで見えたもの
翌朝、水瀬彩花が目を覚まして最初に思い出したのは、昨夜届いた悠真からのメッセージだった。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす前から文面は覚えている。それでも画面を開き、昨夜のやり取りを確認すると、『俺、この話好き』という短い文章が変わらずそこに残っていた。
(夢じゃないんだから、消えるわけないんだけど)
自分でも少しおかしくなり、彩花はベッドの上で笑った。
もちろん、あの一言だけで満足したわけではない。
悠真は「話したいところ、いっぱいある」と言っていた。むしろ今は、その続きの方が気になっている。
自分が何を考えて書いたのかを説明することはできる。けれど、それを知らない悠真がどう読んだのかは、自分では想像することしかできない。
書き手である自分には見えないものが、読んだ人には見えているかもしれない。
そのことを以前ほど怖いとは思わなくなっていた。
身支度を整えて一階へ下りると、台所から味噌汁の香りが漂っている。母の紗月は弁当箱へおかずを詰めており、父の耕助はダイニングテーブルで新聞を広げていた。
「おはよう、彩花」
「おはよう、お母さん。お父さんも」
「ああ、おはよう」
彩花が自分の席へ座ると、紗月が味噌汁を運んできた。続いて炊きたてのご飯が置かれ、湯気と一緒に朝の匂いが広がる。
「今日はちょっと機嫌いい?」
向かい側から耕助が何気なく尋ねた。
「そう見える?」
「見えるな。なあ?」
突然同意を求められた紗月は彩花の顔を見て、少し考えてから笑った。
「言われてみれば、いつもより目が覚めてる感じはするわね」
「普段そんなに寝ぼけてる?」
「朝が弱いって意味じゃないわよ。今日は何か楽しみがある顔」
母親というのは、ときどき妙なところを見ている。
彩花は味噌汁の椀を両手で持ち、少し迷ってから答えた。
「昨日、文芸部誌に出す原稿を九条君に渡したの。それで、夜に読み終わったって連絡が来て」
「もう書き上がったのね」
「うん。まだ直すかもしれないけど、いったん提出できるところまでは」
「九条君、何て?」
紗月は単純に作品の感想が気になったらしく、弁当の蓋を閉めながら尋ねてくる。
「好きって言ってくれた」
口に出すと、昨夜とは違う照れが生まれた。
紗月は嬉しそうに頷いた。
「よかったじゃない」
「うん。ちゃんとした感想は、今度会ったときに聞くことになってる」
「それなら楽しみね」
「……うん」
彩花はご飯を口へ運んだ。
両親はそれ以上、悠真とのことを詮索しなかった。
誰に読ませたのかよりも、自分が書いた作品を誰かに好きだと言ってもらえたことを喜んでくれている。その距離感がありがたかった。
食事を終えて部屋へ戻る途中、階段の踊り場で凛花とすれ違った。
ちょうど自室から出てきたらしく、髪を整えたばかりの姉は彩花を見るなり足を止めた。
「おはよう」
「おはよう、お姉ちゃん」
「原稿、昨日渡したの?」
どうやら下で話していた声が聞こえていたらしい。
「うん」
「読んだって?」
「昨日のうちに」
「早いわね」
「宿題終わらせてから読んだみたい」
凛花は一瞬だけ何とも言えない顔をした。
彩花にはその理由が分からず首を傾げる。
「何?」
「別に。ちゃんとしてるなと思っただけ」
「悠真君?」
自然に名前を口にすると、凛花はほんのわずかに目を細めたが、以前のようにそこを指摘することはなかった。
「感想、聞くんでしょう?」
「うん。まだいつ会うかは決めてないけど」
「そう」
凛花は階段を下りかけてから、もう一度振り返った。
「彩花」
「何?」
「自分では、その話好き?」
予想していなかった質問だった。
けれど、答えるまでに時間はかからなかった。
「好きだよ」
凛花の表情が柔らかくなる。
「ならよかった」
それだけ言うと、今度こそ階段を下りていった。
彩花はしばらく姉の背中を見送り、それから自室へ戻った。
(お姉ちゃん、たぶん前の私だったら聞かなかったんだろうな)
以前なら、自分の作品を好きかと聞かれても、「分からない」と答えていたかもしれない。
今は違う。
直したいところがなくなったわけではないし、完璧だとも思っていない。それでも、自分で好きだと言える。
悠真に感想を聞く前に、それだけはちゃんと自分の中にある。
彩花は鞄を持つと、いつも通り学校へ向かった。
*
桜華学園の高等部では、一時間目が始まる前から教室のあちこちで話し声が飛び交っていた。
悠真は自席で次の授業に使う教材を確認しながら、鞄の中に入れた透明なクリアファイルへ何度か意識を向けていた。
原稿は昨夜読み終えている。
今朝も少し早く起きたため、気になった部分を二か所だけ読み直した。
感想を伝えるために分析しなければならないと思ったわけではない。
単純に、もう一度読みたかった。
「九条、珍しいもの持ってるな」
声をかけてきたのは森川航平だった。
机の横を通りかかった彼の視線が、鞄からわずかに見えていたクリアファイルへ向いている。
「珍しいもの?」
「原稿っぽいやつ。生徒会?」
「いや、友達から借りてる」
「へえ」
森川はそれ以上覗き込まず、隣の机へ腰を預けた。
「小説?」
「そう」
「九条に小説読ませる友達ってことは、本好き?」
「かなり」
「お前もかなりだもんな」
森川は納得したように頷き、そこで話題を終えた。
悠真も相手が誰なのか説明する必要はないと思ったが、森川は数秒後に何か思い出したように眉を上げた。
「あ、青葉の子?」
「彩花さん?」
「名前までは聞いてない。文化祭のとき一緒にいた子」
「そう。その子」
答えた瞬間、森川が小さく笑った。
「何?」
「いや、今ので名前出るの早かったなと思って」
「青葉で本好きの友達って言ったら、彩花さんが一番最初に浮かぶから」
「なるほどね」
森川はそれ以上何も言わなかった。
ただ、教室の前方から友人に呼ばれて離れていく直前、一度だけ悠真の鞄を見ていた。
文化祭のときにも感じたことだが、九条悠真は水瀬彩花の話になると反応が少しだけ早い。
本人にとっては自然すぎて、おそらく特別なことをしているつもりはないのだろう。
森川はそれをわざわざ指摘するつもりもなかった。
一方の悠真は、森川が何を考えたのか知らないまま、始業を知らせる予鈴に合わせて教材を机へ並べた。
けれど授業が始まる直前、昨夜読んだ最後の場面がふと頭へ浮かんだ。
二つの写真立て。
どちらも空のまま。
(あそこ、やっぱり好きだな)
感想を伝えるなら、最初にどこから話そう。
そんなことを考えながら、悠真は教室へ入ってきた教師へ意識を戻した。
*
その日の放課後、彩花は文芸部の部室で原稿の最終確認をしていた。
すでに初稿提出版としては受け取ってもらっているため、今日中に何かを直す必要はない。
それでも一度書き上げたあと時間を置いて読むと、執筆中には気づかなかった箇所が見えてくる。
「水瀬さん、今日は直してるの?」
佐々木先輩が向かいの席から尋ねてきた。
「まだ直すって決めたわけじゃないです。少し置いてから読み直してみようかなって」
「いいと思う。完成直後って、書いたときの頭のまま読んじゃうから」
「昨日、友達にも読んでもらいました」
「例の最初に読んでもらいたい人?」
「はい」
以前話したことを覚えていたらしい。
佐々木は興味深そうに顔を上げたものの、感想の内容までは尋ねなかった。
「他の人が読んだあとって、自分の文章まで違って見えることあるよ」
「まだ詳しい感想は聞いてないんです」
「じゃあ、聞く前に今の自分の感想を残しておくといいかもね。他人の意見を聞いたあとだと、良くも悪くも引っ張られることあるから」
彩花は原稿へ視線を戻した。
なるほどと思った。
悠真の感想を聞くことが楽しみだからこそ、その前に自分が今どう感じているのかを確かめておく。
「やってみます」
「うん。直すかどうかはそのあとでいいよ。感想をもらったからって、全部直す必要もないからね」
「はい」
その言葉も、以前なら少し違う意味で受け取っていたかもしれない。
人に指摘されたら、その人の方が正しいと思ってしまう。
けれど作品は試験問題ではない。
佐々木先輩の意見も、悠真の感想も、自分の考えも、それぞれ別に存在していい。
彩花は原稿の余白に修正を書き込むのではなく、別の紙を一枚取り出した。
今の時点で自分が好きなところ。
まだ少し迷っているところ。
説明を増やしたくないところ。
その三つに分けて、思いついたことを書いていく。
好きなところには、男子生徒が一度木材を棚へ戻す場面。
女子生徒が古い写真立てから花飾りだけを外す場面。
最後に二つの空の写真立てを置く構成。
迷っているところには、序盤の美術室での会話量と、女子生徒が新しい写真立てを実際に使い始めるまでの時間の見せ方。
説明を増やしたくないところには、最後の空の写真立てが何を意味するのか。
書き終えてみると、意外にはっきりしていた。
(私、ちゃんと自分の意見あるんだ)
誰かに読んでもらう前からあった。
そのことが少し嬉しい。
佐々木は自分の作業を続けながら、ときどき彩花の方を見ていた。
文化祭用の作品を書いていた頃の彼女は、一つ助言をすると、それを正解として受け取ろうとするところがあった。
今は違う。
聞いたうえで、自分の作品へ必要かどうかを考えている。
書き手としては小さな変化だが、佐々木にはそれが何より大きく見えた。
「水瀬さん」
「はい?」
「今、楽しそう」
彩花はペンを止めた。
「直すところ探してるのにですか?」
「だからじゃない? 嫌なところを探してる顔じゃないもの」
言われて、彩花は自分でも気づいた。
以前なら修正点を探すことは、失敗を探すことに近かった。
今はもっと良くできる場所を探している。
「……楽しいかもしれません」
「それなら何より」
佐々木は笑って自分の原稿へ戻った。
彩花も再び紙へ目を落とす。
悠真の感想を聞いたあと、自分が何を残し、何を変えるのか。
今はそれも楽しみだった。
*
部活動を終えて帰宅する頃、彩花のスマートフォンに悠真からメッセージが届いた。
『原稿、いつ返せばいい?』
歩きながら見るのは危ないため、彩花は駅前の邪魔にならない場所まで移動してから画面を開いた。
『急がなくていいよ。感想聞くときで大丈夫』
少しして返事が来る。
『じゃあ、今週か来週で会える日ある?』
彩花は予定を思い返した。
文芸部はあるが、毎日遅くなるわけではない。週末にも大きな予定はない。
『土曜日なら空いてるよ』
送ってから、先日の土曜日も悠真と出かけたことを思い出す。
続けて会うことになるが、それを多すぎるとは感じなかった。
悠真からの返事は早かった。
『俺も空いてる』
『じゃあ土曜日にする?』
『うん。中央図書館はどう?』
彩花は一瞬だけ考え、それから鞄の中に入っている家具修理職人の連作短編集を思い出した。
ちょうど返却したい。
『ちょうど返したい本もあるから、図書館がいい』
『じゃあそこで』
時間も決める。
以前のように、その約束一つで何か特別な意味を探そうとはしなかった。
土曜日に図書館で会う。
原稿を返してもらい、感想を聞く。
自分は借りていた本を返す。
それで十分だ。
ただ、画面を閉じる直前、悠真からもう一つ届いた。
『昨日から、どこから話すか考えてる』
彩花は思わず足を止めそうになった。
けれど通行の邪魔にならないよう壁際へ寄り、そこで返信する。
『そんなに?』
『思ったよりある』
『ちょっと怖くなってきた』
『悪い意味じゃないよ』
『それは信じてる』
そこまで打ってから、彩花は少し考えた。
『私も、聞く前に自分で好きなところ整理しておく』
『それいいね』
『佐々木先輩に言われたの』
『じゃあ土曜日、お互い答え合わせみたいになる?』
答え合わせ。
その言葉に、彩花は少しだけ違和感を覚えた。
『答え合わせじゃないかも』
悠真からすぐに疑問符が返ってくる。
『私の答えと悠真君の答え、違っててもいいから』
送ったあと、彩花はそれで合っていると思った。
作品には書いた側の意図がある。
けれど、読んだ側が必ず同じ場所を見る必要はない。
悠真から少し間を置いて返事が届く。
『確かに。じゃあ、見せ合い?』
『それが近いかも』
『分かった。土曜日に見せ合おう』
『うん』
会話が終わり、彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。
秋の夕方は日が落ちるのが早い。
駅前の影が少しずつ長くなり、街路樹の葉が風に揺れている。
土曜日まであと数日。
その間に自分の作品をもう一度読んでみよう。
悠真がどう読んだかを想像するためではなく、自分自身が今、どう読めるのかを確かめるために。
*
土曜日の午前、青凪市立中央図書館の大きな窓から差し込む光は、夏の頃よりずっと低くなっていた。
入口近くの床へ細長い光が伸び、その中を利用者たちが静かに行き交っている。返却カウンターでは数人が列を作り、児童書コーナーの方からは親子の小さな話し声が聞こえていた。
彩花は約束の少し前に到着し、最初に家具修理職人の連作短編集を返却した。
返却処理を終えた本が職員の手元へ移っていく。
自分が読み、悠真も読んだ一冊。
借り物なのだから返すのは当然なのに、少しだけ名残惜しい。
けれど、内容まで返してしまうわけではない。
彩花は返却カウンターを離れ、入口近くへ戻った。
ほどなくして悠真が現れた。
休日なので制服ではなく、落ち着いた色のニットに細身のパンツという格好をしている。肩にはいつもの外出用バッグが掛かっており、おそらくその中に原稿が入っている。
「おはよう、彩花さん」
「おはよう、悠真君」
「待った?」
「今、本返してきたところ」
「あの家具修理の?」
「うん。無事返却完了」
「もう一回くらい読んでもよかったな」
「また借りればいいよ」
「そうだね」
二人は自然に館内へ入った。
今日は本を探すことが一番の目的ではないため、まず話せる場所へ移動する。図書館には会話可能な閲覧・交流スペースがあり、午前中はまだ席に余裕があった。
窓際の四人掛けテーブルの端へ向かい合って座る。
悠真はバッグを開け、透明なクリアファイルを取り出した。
「返します」
「ありがとうございます」
彩花も少し改まって両手で受け取った。
原稿の角は折れていない。
本当に丁寧に扱ってくれたらしい。
「二回読んだ?」
「全部通しては一回。気になったところだけ何か所か読み直した」
「そんなにちゃんと読んでくれたんだ」
「ちゃんと読むって言ったから」
悠真にとっては当然らしい。
彩花はファイルを鞄へしまい、それからテーブルの上で両手を重ねた。
「じゃあ……聞いていい?」
「うん」
「感想」
悠真はすぐには話し始めなかった。
どこから伝えるか、本当に考えてきたらしい。
「最初に言ったのと同じだけど、俺はこの話好きだった」
「うん」
「特に好きだったのが、男の子が木材を一回戻すところと、女の子が古い写真立てから飾りだけ外すところ。それから最後」
彩花は目を見開いた。
「……全部、私も好きなところ」
「本当に?」
「昨日、自分で整理したの。その三つ、全部書いた」
思わず鞄からメモを出したくなったが、証明する必要もない。
ただ、同じところを選んだことが嬉しくて、彩花の声は自然に弾んだ。
「でも、理由は違うかもしれない」
「俺は男の子の方、木材を戻したあとすぐ決心しないのがよかった。あそこで買って帰ったら、ちょっと急に変わりすぎる気がするから」
「うん。私もそこは意識した」
「女の子の飾りは……」
悠真は一度言葉を探した。
「全部残すか全部捨てるかじゃなくて、自分で残したいものを選んでるのが好きだった」
彩花は静かに頷いた。
それは、かなり近い。
けれど完全に同じではない。
「私はね、女の子が自分で新しい方へ進む場面にしたかったの」
「新しい方へ?」
「うん。でも、古いものが嫌になったわけじゃない。大事だった時間まで捨てるわけじゃなくて、今の自分が残したいものだけ持っていく感じ」
「ああ……」
悠真がゆっくり頷く。
「だから花だけなんだ」
「そう。写真立てそのものを全部残すと、結局新しい方を置く場所がなくなる気がして」
「俺、そこまでは考えてなかった」
「でも『残したいものを選ぶ』って読んだんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと届いてるところもある」
彩花はそう言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
以前なら、「ちゃんと伝わらなかった」と考えていたかもしれない。
けれど今は、全部同じに受け取られなくてもいいと思える。
悠真は悠真の経験や考え方で読む。
その結果、自分が意図していなかったものが見つかることもある。
「最後は?」
彩花が尋ねると、悠真は少し笑った。
「そこが一番話したかった」
「そんなに?」
「タイトルとつながったから」
彩花は姿勢を少し正した。
「悠真君は、何が『ここに』入ると思った?」
「最初は写真だと思った」
「うん」
「でも読み終わったら、写真だけじゃない気がした」
悠真の声は、図書館の静かな空気に合わせて自然と低くなる。
「二人とも今は何を入れるか決めてない。でも、空だから足りないんじゃなくて、これから自分で選べる場所が残ってるんだと思った。男の子も女の子も、最後に急に何かを完成させたわけじゃないから」
彩花は言葉を挟まず聞いていた。
「だから『いつか、ここに』って、何かが足りないって意味じゃなくて……今は決めなくてもいいって感じなのかなって」
そこで悠真は少し困ったように笑った。
「上手く言えないけど」
「ううん」
彩花は首を横へ振った。
胸の奥がゆっくり温かくなっていた。
「私、その読み方好き」
「合ってる?」
「だから答え合わせじゃないって言ったでしょう?」
「そうだった」
「私が考えてたのは、もう少し単純だったの。今は空いてるけど、いつか自分で選んだものを入れられたらいいなって」
「近いね」
「うん。でも悠真君の『空だから足りないわけじゃない』っていうの、私はそこまで言葉にしてなかった」
彩花は少し考えた。
説明を増やしたくない場所として、最後を挙げていた。
その判断は間違っていなかったのかもしれない。
書かなかったから、悠真が自分でそこを読んだ。
「最後、説明足さなくていいと思う?」
「俺は今のままが好き」
「そっか」
「でも、これは俺の好みだから」
「うん。分かってる」
その返事を、彩花は迷わず口にできた。
悠真は少しだけ安心したように笑った。
「あと、分かりにくかったところも一個ある」
「聞きたい」
「最初の方で、女の子が写真立て欲しいって言うところ。あとで家の古い写真立てが出てきたら理由は分かったけど、最初に読んだときだけ、ちょっと急に感じた」
彩花はすぐに反論せず、原稿を鞄から取り出した。
「どの辺?」
「たぶんここ」
悠真は自分で書き込まず、該当するページを指で示す。
彩花はそこを読み返した。
美術室で、女子生徒が男子生徒へ「それなら、私にくれない?」と尋ねる場面。
確かに、その直前には写真立てを欲しがる兆しがほとんどない。
「……ほんとだ」
「変ってほどじゃないよ。あとで理由は分かるから」
「でも、ここに少しだけ何かあってもいいかも」
「例えば?」
「うーん……」
彩花は考えかけて、首を振った。
「今ここで決めるのやめる。すぐ直すと、悠真君の答えをそのまま書きそうだから」
「それがいいと思う」
「帰ってから考える」
原稿を閉じる。
直したい場所が一つ見つかった。
それなのに落ち込んでいない。
むしろ、少し嬉しい。
自分では見えなかったところを教えてもらい、それをどうするかは自分で決められる。
それが、今は楽しかった。
「ほかは?」
「まだあるよ」
「本当にいっぱいあるんだ」
「言ったでしょう?」
悠真は笑い、それから少しだけ真面目な顔になった。
「女の子がちゃんと好きだった」
彩花は瞬きをした。
「女の子?」
「うん。途中で彩花さんが、女の子の方も変えたって言ってたから気になってた」
「どうだった?」
「男の子を励ますためだけにいる感じはしなかった。むしろ、二人とも別々のこと考えてて、それが写真立てで少し重なってる感じ」
佐々木先輩から指摘されたことを思い出す。
女の子を、男の子を変えるためだけの人物にしない。
そこは最後まで悩んだ部分だった。
「よかった……」
彩花の声が少しだけ小さくなる。
悠真はその変化に気づいたらしく、すぐには次の感想へ進まなかった。
「そこ、心配だった?」
「うん。佐々木先輩にも最初に言われてたから。女の子が、男の子を変えるためだけの人になってるって」
「最初はそうだったの?」
「今よりは。男の子が中心で、女の子はその写真立てを気に入って使うだけだった」
「じゃあ、かなり変わったんだ」
「変えた。女の子にも、自分で選ぶものがあってほしくて」
「俺は今の方しか知らないけど、ちゃんとそう見えたよ」
彩花は原稿の表紙を指先でそっと撫でた。
「ありがとう」
昨夜の「好き」とは違う嬉しさだった。
悩んで、考えて、何度も書き直したところが、作品の中でちゃんと息をしている。
そのことを読者の言葉で知ることができた。
窓の外では、風に吹かれた落ち葉が舗道を転がっていく。
館内にはページをめくる音や、少し離れたカウンターで職員が利用者へ説明する声が静かに混じっている。
二人はそれからも原稿について話した。
男子生徒が二つ目の写真立てを完成させたあと、達成感を大げさに描かなかったこと。
女子生徒が古い写真立てを処分する場面を直接書かなかったこと。
美術室の木屑や紙やすりの匂いを、彩花が実際の美術室を思い出しながら書いたこと。
悠真が「この台詞は彩花さんっぽくない」と言い、彩花が「私が言う台詞じゃないから当たり前」と笑ったこと。
途中からは感想を聞くというより、一つの物語について二人で話している時間になっていた。
それが彩花には心地よかった。
自分の作品だから、最初はもっと緊張すると思っていた。
けれど悠真は「作者に正解を聞く」ような話し方をしない。
自分はこう読んだ、と伝えてくれる。
彩花も、自分はこう考えて書いた、と返す。
違えば、その違いを面白がれる。
同じなら、それも嬉しい。
やがて一時間近くが過ぎた頃、悠真が時計を確認した。
「結構話したね」
「ほんとだ」
「まだ話せるけど」
「私も。でも一回休憩しようか」
「うん」
原稿を片づけ、二人は席を立った。
せっかく図書館に来たのだから、このまま帰るのはもったいない。
彩花はまだ途中の刺繍の小説を読み終えたら次に何を借りようかと考えながら、悠真と並んで書架の間へ向かった。
さっきまで自分の物語について話していたのに、今度は誰かが書いた物語を探す。
その切り替わりが、図書館らしくて少し好きだった。
小説の棚へ入る直前、悠真が足を止めた。
「彩花さん」
「何?」
「次も書く?」
不意の質問だった。
文芸部誌の次に何を書くかなど、まだ決めていない。
けれど彩花は、以前のように「分からない」とは思わなかった。
「書くと思う」
「もう考えてるの?」
「全然。でも、また書きたい」
その答えを口にしたとき、自分の中に迷いがほとんどないことに気づいた。
悠真は嬉しそうに笑った。
「そっか」
「何で悠真君がそんなに嬉しそうなの?」
「読めるかもしれないから」
「次も読んでもらうって、まだ言ってないよ?」
「じゃあ予約しておく」
「何の予約?」
「読者」
彩花は一瞬呆気に取られ、それから笑った。
「読者って予約するものなの?」
「今作った」
「勝手だなあ」
「駄目?」
悠真が冗談めかして尋ねる。
彩花はすぐには答えず、書架に並ぶ背表紙へ視線を向けた。
自分がこれから何を書くのかは分からない。
いつ書くのかも分からない。
それでも、もしまた一つの物語を書き終えたとき。
そのとき読んでほしい人を想像すると、今隣にいる人の顔が浮かぶ。
「……予約、受け付けます」
彩花が答えると、悠真の目元が柔らかくなる。
「ありがとう」
「でも、いつになるか分からないよ」
「待つよ」
「忘れるかも」
「そのときは思い出す」
「私が?」
「二人で」
彩花は笑いながら頷いた。
「それならいいか」
二人は再び歩き出した。
高い書架の間を抜けながら、それぞれ気になる背表紙へ目を向ける。
すぐ隣を歩いているからといって、同じ本を選ぶわけではない。
同じ物語を読んでも、まったく同じ感想を持つわけでもない。
それでも、違うところを持ったまま一冊の本について話せることを、彩花はもう知っていた。
今日、それが自分の書いた物語でもできるのだと分かった。
それは想像していたより、ずっと嬉しいことだった。
しばらく棚を見ていると、悠真が一冊の本を抜き出した。
「これ、面白そう」
「どんなの?」
「小さな町の写真館の話みたい」
彩花は思わず悠真を見る。
「写真立ての次に写真館?」
「狙ってないよ」
「ほんとに?」
「表紙が気になっただけ」
悠真が困ったように笑う。
彩花も隣から表紙を覗き込んだ。
古い写真館の店先を描いた、落ち着いた装丁だった。
「じゃあ悠真君が読んで」
「彩花さんは?」
「私は今日は別の探す。まだ刺繍の本も途中だし」
「分かった」
同じ本を二人で追いかける必要はない。
悠真は写真館の小説を持ち、彩花は少し離れた棚へ向かう。
数分後、今度は彩花が一冊を手に取った。
地方の小さな駅を舞台にした短編集。
表紙には、夕暮れのホームと一本のベンチが描かれている。
あらすじを読んでいると、少し離れた場所から悠真が戻ってきた。
「決まった?」
「候補。駅の話だって」
「彩花さん、駅よく使うから?」
「それだけで本選ばないよ」
「俺も写真立ての次だから写真館選んだわけじゃないよ」
「あ、仕返しした」
「少しだけ」
声を抑えながら二人で笑う。
近くで本を選んでいた年配の女性が一度こちらを見たため、彩花は慌てて口元を押さえた。
「静かにしないと」
「彩花さんが笑うから」
「悠真君が言ったんでしょう?」
さらに笑いそうになり、二人とも声を落としたまま棚の反対側へ移動する。
そんな何でもない時間の途中で、彩花はふと気づいた。
今日は自分の作品の感想を聞くために会った。
その大事な目的は、もう果たした。
けれど、それが終わったからといって、すぐ帰りたいとは思わない。
悠真も同じなのか、急ぐ様子はなかった。
書架の間でそれぞれ別の本を選び、ときどき見つけたものを見せ合う。
その時間が自然に続いている。
彩花は手にした短編集を胸元へ寄せ、少し先の棚を眺めている悠真の横顔を見た。
原稿を渡した昨日より、自分の物語が少し遠くへ行った気がする。
けれど、それは手元から失われたという意味ではない。
誰かが読んだことで、自分だけでは見えなかった景色が増えた。
そして今、その景色を見せてくれた人が、すぐ隣で次に読む本を探している。
(また書きたいな)
朝、凛花に尋ねられたとき、自分の作品を好きだと言えた。
今はそれに、もう一つ加わっている。
また書きたい。
まだ何を書くのか分からないのに、その気持ちだけは確かだった。
「彩花さん、これ見て」
悠真が別の棚から声をかける。
「今行く」
彩花は短編集を持ったまま、彼の方へ歩いていった。
窓から差し込む秋の光は、書架の間まで細長く伸びている。
その光の中を歩きながら、彩花は次に書く物語のことをまだ考えなかった。
今はただ、自分が書いた一つの物語について、大切な読者と話せた今日という時間を、もう少しだけ楽しんでいたかった。




