第71話 君に渡す物語
約束していた平日の放課後、水瀬彩花は青葉高校の昇降口を出る前に、一度だけ鞄の中を確かめた。
教科書や筆箱の横に、透明なクリアファイルが入っている。その中には文芸部誌へ提出したものと同じ内容の原稿が収められており、一枚目には『いつか、ここに』という題名と、その下に自分の名前が印字されていた。
朝、家を出る前にも確認した。昼休みにも一度確認したし、文芸部へ寄ってから学校を出るときにも確かめている。それでも駅へ向かう前にもう一度見てしまった自分がおかしくて、彩花は鞄を閉じながら小さく笑った。
(なくなるわけじゃないのに。私、何回確認するんだろう)
文化祭で自分の作品が冊子になったときとは、少し違う緊張だった。
あのときは、誰が読むのか分からなかった。名前も知らない人がページを開き、自分の書いた文章を読むことに怖さと嬉しさの両方があった。
今日は読む相手を知っている。
しかも、ただ知っているだけではない。
悠真がどんな本を好み、どんなところで立ち止まり、登場人物の何を見ようとするのか、以前よりずっと分かるようになった。だからこそ、知らない相手へ渡すより緊張しているのかもしれない。
「水瀬、今日早いな」
背後から声をかけられて振り返ると、田辺大地が友人と一緒に昇降口へ向かってきた。肩に鞄を掛けた彼は、彩花が胸元で抱えるようにしていた鞄へ一度視線を向けてから、何かを思い出したらしい。
「もしかして、例の写真立て?」
「原稿のことなら、そうだけど」
「もう誰かに見せんの?」
「文芸部では佐々木先輩に読んでもらったよ。今日は学校の外の人に」
そこまで答えてから、彩花は特に隠す理由もないと思い直した。
「九条君に読んでもらうの」
「ああ、九条か」
大地は納得したように頷いた。文化祭でも顔を合わせているため、悠真のことは知っている。
「本好き同士だしな。めちゃくちゃ細かい感想返ってきそう」
「どうだろう。でも、ちゃんと読んでくれると思う」
「そこは確信あるんだ」
大地の言葉に、彩花は一瞬だけ考えた。
けれど、答えは変わらない。
「うん。あるよ」
悠真が作品を好きになるかは分からない。面白いと思わない部分もあるかもしれないし、彩花が伝わってほしいと思っていることが、そのまま届くとも限らない。
それでも、きちんと読む。
そのことだけは疑っていなかった。
大地は一度だけ「へえ」と声を漏らしたものの、それ以上そこへ踏み込まなかった。
「じゃ、俺は完成したやつ待ってるわ。前のより腹減らない話らしいけど」
「まだ食べ物にこだわってるの?」
「読書には体力がいるからな」
「短編だよ」
「短編でも腹は減る」
隣にいた友人が呆れたように笑い、大地も笑いながら手を上げた。
「じゃあな、水瀬。感想で落ち込んでも明日は学校来いよ」
「落ち込む前提にしないでよ」
「褒められて調子乗ってても来いよ」
「どっちでも来るよ」
彩花が笑って返すと、大地たちは先に校門へ向かっていった。
その背中を見送りながら、彩花は鞄の中の原稿を思った。
以前なら、「ちゃんと読んでくれると思う」と迷わず口にできただろうか。
少なくとも今は、言える。
それは悠真が何度も言葉だけではなく行動で示してくれたからだった。
彩花は鞄を肩へ掛け直すと、秋の風が通り抜ける校門を出て、青凪駅へ向かった。
*
青凪駅へ着いたとき、約束の時間まではまだ十分ほどあった。
平日の夕方には少し早く、駅前には学校帰りの学生と買い物客が入り混じっている。駅前広場の街路樹は、先日の土曜日よりもさらに黄色を増しており、風が吹くたびに乾いた葉が舗道を滑っていった。
彩花は人の流れを避け、待ち合わせに使うことの多い場所へ移動した。
鞄の中には原稿がある。
ただ渡すだけなら、それほど緊張することでもないはずだった。
それなのに、待っている間に何度も鞄へ意識が向いてしまう。
(読んでほしいって言ったのは私なのに、渡す直前になるとやっぱり緊張するな)
佐々木先輩に読んでもらったときとは違う。
先輩は同じ文芸部で、作品を読むことにも書くことにも慣れている。今回の原稿についても、構成や人物の役割、終盤の説明量など、書き手に近い立場から助言をくれた。
悠真は違う。
純粋な読者として読む。
もちろん、これまでにも彩花が書いたものを読んでいるし、今回の作品について途中の相談にも乗ってもらった。それでも、完成した物語として最初から最後まで読むのは初めてだ。
彩花がそんなことを考えているうちに、改札から制服姿の悠真が出てきた。
彼は周囲を見回したあと、すぐに彩花を見つけたらしい。視線が合うと歩く方向を迷わず変え、こちらへ近づいてくる。
「彩花さん、お待たせ」
「ううん。私がちょっと早かっただけ」
「今日は俺の負け?」
「また勝負にするの?」
「前に彩花さんが引き分けって言ったから」
先日の会話を覚えていたらしい。
彩花は笑いながら首を横へ振った。
「今日は勝負なし。私が勝手に早く来ただけだから」
「じゃあ次からも勝負なしにしよう」
「悠真君、負けそうだから?」
「それもある」
あっさり認められ、彩花はまた笑った。
そんなやり取りをしていると、駅まで来る間に感じていた緊張が少しだけ薄れていく。
「それで……」
悠真の視線が、彩花の鞄へ向いた。
いつもと同じ鞄なのに、何が入っているのか知っているせいか、気になるらしい。
「持ってきたよ」
「本当に?」
「渡すって言ったでしょう?」
「うん。でも、楽しみにしてたから」
悠真の表情がわずかに明るくなる。
それを見た瞬間、彩花は鞄から原稿を出したくなったものの、駅前の人通りの中で立ったまま渡すのも落ち着かない。
「どこか座れるところ行こうか」
「そうだね。今日はどうする?」
「原稿渡すのが目的だから、そのあとは特に決めてないよ」
「じゃあ、市民交流センターは?」
「うん。行こう」
以前クッキーを食べた市民交流センターなら、駅からも近く、学生でも入りやすい。
二人は並んで歩き始めた。
前の土曜日は、行き先そのものを決めずに歩いた。
今日は原稿を渡すという目的が一つある。
けれど、それ以外は何も決めていない。
そのくらいの曖昧さが、今はちょうどよかった。
*
市民交流センターの一階は、平日の夕方ということもあって比較的静かだった。
掲示板の前で地域サークルの案内を見ている年配の男性や、奥のテーブルで参考書を広げている高校生が数人いる。自動販売機の低い作動音と、ときおり開く入口の扉から入り込む街の音が、広い空間へ控えめに響いていた。
二人は以前とは少し離れた、窓際の小さなテーブルを選んだ。
向かい合わせに座ったところで、彩花は鞄を膝へ置いた。
「……なんか、急に緊張してきた」
「俺も」
「悠真君も?」
「楽しみにしてたものを本当に渡してもらえるから」
「読む方なのに?」
「読む方だから」
悠真が笑う。
その言葉に背中を押されるように、彩花は鞄から透明なクリアファイルを取り出した。
中の原稿が見える。
一枚目の上部には、これまで秘密にしていた題名がある。
彩花はファイルを両手で持ったまま、すぐには差し出さなかった。
「一個だけ言っていい?」
「うん」
「途中で少し話したところから、結構変わってるから」
「じゃあ、知らないところ多いんだ」
「たぶん。最後もちゃんとは言ってないし、女の子の方もかなり変えた」
「分かった。途中で聞いたことは一回置いて読む」
悠真は簡単にそう言った。
書いている途中の説明を正解として持ち込まず、今ある作品を読む。
それが彩花には嬉しかった。
「あと、感想は前に言ってた通りで」
「正直に?」
「うん。でも怖いから、少しだけ優しく」
「難しい注文だね」
「そこは頑張って」
「分かった。正直に、でも伝え方は考える」
「お願いします」
ようやく彩花はクリアファイルを差し出した。
悠真が両手で受け取る。
ほんの数秒のことなのに、彩花は自分の指が離れた瞬間を妙にはっきり意識した。
もう、自分の手元にはない。
自分だけが読んでいた文章が、悠真の前にある。
悠真はすぐに中身を取り出すことはせず、透明な表紙越しに一枚目を見た。
「『いつか、ここに』」
初めて、悠真の声で題名が読まれた。
彩花は無意識に膝の上で手を重ねた。
「……うん」
「これが秘密にしてたタイトル?」
「そう」
「いいね」
「まだ読んでないのに?」
「タイトルの感想」
「それならいいけど」
悠真はもう一度、題名を見る。
「写真立ての話だって知ってるから、何が『ここに』入るのかって考える」
「そこまで。今はそれ以上考えないで」
「分かった」
素直に止めた悠真に、彩花は少し安心しながらも笑った。
「今読む?」
悠真が尋ねる。
彩花は一瞬だけ迷った。
ここで読んでもらえば、すぐに感想を聞ける。
けれど、目の前で最初から最後まで読まれるのは、さすがに落ち着かない気もする。
「……悠真君は、どっちがいい?」
「俺は家でゆっくり読みたいかな。途中で彩花さんの顔見たら、気になりそうだから」
「私の顔?」
「読んでるところ見られてるって思ったら、俺も変に緊張すると思う」
言われてみれば、彩花も同じだった。
悠真がどこでページを止めるか、どんな顔をするか、気になって仕方がなくなるだろう。
「じゃあ、家で読んで」
「うん。今日読む」
「今日?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど、宿題とかあるでしょう?」
「先にやるよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
真面目な顔で答えられ、彩花は笑った。
「そこまで急がなくてもいいからね」
「急いでるんじゃなくて、読みたいから読む」
悠真にとっては、ごく普通の説明だったのだろう。
けれど彩花は、すぐには返事ができなかった。
読みたいから読む。
義理でも約束だからでもない。
その言葉が、思っていた以上に嬉しい。
(私が書いたものを、読みたいって思ってくれてるんだ)
胸の奥に生まれた温かさを落ち着かせるように、彩花は小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
「まだ読んでないよ?」
「読みたいって言ってくれたことに」
悠真は一瞬だけ目を丸くしたあと、クリアファイルへ視線を落とした。
「それなら、俺もありがとう。最初に読ませてくれて」
「佐々木先輩は読んでるよ」
「学校の外では最初でしょう?」
「うん」
「じゃあ、それで十分」
彩花は頷いた。
誰が一番かを競っているわけではない。
それでも、自分が「最初に読んでほしい」と思った相手が、そのことを嬉しいと感じてくれる。
それだけでよかった。
*
原稿を渡したあと、二人は自動販売機で温かい飲み物を買った。
彩花はミルクティー、悠真は無糖の紅茶を選び、今度は同じテーブルの隣り合う辺ではなく、窓の外が見えるよう少し角度をずらして座った。
ガラスの向こうでは、駅へ向かう人々が足早に歩いている。
「もう温かい飲み物の方がいい季節だね」
彩花が紙カップを両手で包みながら言うと、悠真も自分のカップへ視線を落とした。
「朝も結構寒くなった。桜華、校舎の間を歩くと風が抜けるところがあるから」
「青葉も昇降口の近く寒いよ。まだ暖房入らないし」
「彩花さん、寒いの平気なんだっけ」
「冬の朝の空気が好きなだけで、寒さに強いわけじゃないよ」
「そうだった」
「そこ間違えると、真冬に外へ連れ出されそう」
「しないよ。俺だって寒い」
彩花は笑い、ミルクティーを一口飲んだ。
温かさが喉を通り、駅まで歩いて少し冷えていた身体がゆっくりほどけていく。
「桜華は最近忙しい?」
「生徒会は少し。文化祭の後処理はほぼ終わったけど、今度は年度後半の行事があるから」
「ずっと何かあるんだね」
「学校だからね。何もない月の方が少ないかも」
「悠真君、忙しいのに時間大丈夫だった?」
彩花が尋ねると、悠真は不思議そうにこちらを見た。
「今日は大丈夫だから来たんだよ」
「でも、原稿なら別の日でも渡せたし」
「俺が今日会いたかったから大丈夫」
あまりにも自然に言われ、彩花は紙カップを口元へ運びかけたまま止まった。
悠真自身も、言ったあとで少しだけ気づいたらしい。
視線が一瞬だけ彩花から外れる。
「……原稿も読みたかったし」
付け加えられた言葉が、かえって最初の一言を目立たせた。
彩花は紙カップへ視線を落としながら、頬に集まりそうな熱をごまかすようにミルクティーを飲んだ。
(こういうの、最近の悠真君は普通に言うようになったな)
けれど、嫌ではない。
むしろ嬉しいから困る。
「私も、今日渡したかったよ」
彩花は少し間を置いてから答えた。
「それに、話したかったし」
今度は悠真が黙った。
数秒だけ視線が合い、そのあと二人とも何となく紙カップへ逃げる。
付き合っているわけではない。
好きだと伝え合ったわけでもない。
それでも、会いたい、話したいという気持ちを隠す必要は、以前よりずっと少なくなっている。
その変化をわざわざ言葉で定義しなくても、二人の間には確かに積み重なっていた。
「そういえば」
彩花は少し照れた空気を切り替えるように話題を変えた。
「家具修理の本、どうする?」
「あ、持ってきた」
悠真は鞄から一冊の本を取り出した。
青凪市立中央図書館の管理ラベルが貼られた、家具修理職人を中心にした連作短編集だ。
「今日返そうと思ってた」
「ありがとう。ちょうどよかった」
彩花は受け取り、表紙に傷みがないかを自然に確かめた。
借りたときと変わっていない。
「これ、返却期限まだ大丈夫?」
「うん。余裕あるよ。でも私も読み終わってるから、近いうちに返す」
「面白かった。貸してくれてありがとう」
「悠真君に合うと思ったから、当たってよかった」
以前なら、そこから「どうして合うと思ったのか」を改めて掘り下げていたかもしれない。
けれど、その話はもう十分にした。
今日は本を返してもらい、面白かったと言ってもらえた。それで満足だった。
彩花は図書館本を自分の鞄へしまいながら、代わりに悠真の手元にある透明なファイルを見た。
本が一冊戻ってきて、自分の物語が一つ渡っていった。
その入れ替わりが、少し面白い。
「原稿、折れても大丈夫だからね」
「折らないよ」
「そんな大事なものじゃないよ。控えだし」
「俺にとっては借り物だから大事にする」
「……悠真君らしい」
「そう?」
「うん」
彩花はそれ以上説明しなかった。
大事なものを使いながら大事にする。
家具修理の本を読んだときに考えた悠真の一面と、どこかつながっている気がした。
*
同じ頃、桜華学園の中等部校舎では、九条琴葉が図書室の展示棚の前で腕を組んでいた。
図書委員会で進めていた「誰かにすすめたい一冊」の展示は、ようやく形になり始めている。
生徒や教員から集めた推薦カードを本と一緒に並べ、短い紹介文を添える。派手な企画ではないが、普段あまり借りられない本にも手を伸ばしてもらうのが目的だった。
「九条さん、お兄さんのおすすめってこれ?」
同じ図書委員の女子生徒が、一枚の推薦カードを持って尋ねてきた。
「うん。やっと出してくれた」
「お兄さん、高等部だよね?」
「そう。読書好きだから参考になるかなって聞いたの」
琴葉はカードへ目を落とした。
悠真が選んだのは、祖父から譲られた大切な本そのものではなく、学校図書館にも所蔵されている別の冒険小説だった。紹介文には派手な言葉を使わず、「主人公が答えを見つけるまでに何度も選び直すところが好きです」と書かれている。
琴葉はそれを受け取ったとき、少しだけ意外に思った。
以前の兄なら、物語の構成や読みやすさ、長く読み返せる点などを書いたかもしれない。
今回の文章には、「選び直す」という言葉が入っている。
(最近、お兄ちゃんが本の話するとき、人が何を選ぶかってところを見ること増えた気がする)
その理由を一つに決めつけるつもりはない。
兄は昔から本を読むし、読書の好みが変わることだってある。
ただ、彩花と本を貸し借りしたり感想を話したりするようになってから、以前より「自分がどう読んだか」を口にすることが増えたのは確かだった。
「この紹介、いいね。短いけど読みたくなる」
委員の女子生徒が言う。
「本人に言ってあげて。たぶん喜ぶから」
「九条さんが言えばいいじゃん」
「私が褒めると、たぶん何か裏があると思われる」
「どんな兄妹なの?」
「普通の仲良し兄妹」
琴葉は平然と答えたが、相手は半分ほど疑っている顔をしていた。
そのとき、琴葉のスマートフォンが鞄の中で振動した。図書室内なので確認はせず、そのまま作業を続ける。
兄が今どこにいるのか、琴葉は知らない。
彩花と会うことも聞いていなかった。
だから、その日の夜に悠真が透明なクリアファイルを妙に丁寧に持って帰ってくるまで、琴葉は兄が新しい「読むもの」を受け取ったことを知ることはなかった。
*
市民交流センターを出た頃には、外はすっかり夕方の色へ変わっていた。
空の西側には薄い橙色が残り、駅前の建物には少しずつ照明が灯り始めている。昼間より冷えた風が吹き抜け、彩花はカーディガンの袖口を指先でつまんだ。
二人は駅へ向かってゆっくり歩いた。
「今日、家帰ったらすぐ読む?」
彩花が尋ねる。
「宿題やってから」
「本当にちゃんと先にやるんだ」
「彩花さんが確認したでしょう?」
「原稿のせいで宿題後回しになったら、私が悪いみたいだから」
「ならないよ。終わったあとに読む楽しみがある方が早く終わるかも」
「それならいいけど」
彩花は少し笑った。
自分の書いたものが、悠真にとって「あとで読む楽しみ」になっている。
何度聞いても、まだ少し不思議だった。
「感想、いつ聞けばいい?」
「読み終わったら連絡する」
「全部メッセージで送る?」
悠真は少し考えた。
「短いのは送る。でも、ちゃんとした感想は会って話してもいい?」
「どうして?」
「文章だと長くなりそうだから」
「そんなに言うことある前提なの?」
「まだ読んでないから分からないけど、彩花さんの前の話も話したいところ結構あったし」
彩花は嬉しさと緊張が同時に戻ってくるのを感じた。
「じゃあ、読んでから決めよう。あんまり感想なかったら無理に増やさなくていいからね」
「それは読んでみないと分からない」
「うん」
「でも一個はもうある」
「まだタイトルしか見てないのに?」
「タイトルが気になるっていう感想」
「それはさっき聞いたよ」
「じゃあ一個消化済み」
彩花は思わず吹き出した。
「感想を個数で数えないでよ」
「彩花さんが『あんまりなかったら』って言うから」
「そうだけど」
笑っているうちに駅前へ着いた。
改札の前には帰宅時間を迎えた人が増え、スーツ姿の会社員や制服姿の学生が次々に行き交っている。
いつものように、ここで別れる。
「じゃあ、原稿よろしくお願いします」
彩花が少しだけ改まった口調で言うと、悠真もクリアファイルの入った鞄へ軽く手を添えた。
「お預かりします」
「そんな大げさにしなくていいよ」
「でも、彩花さんが何週間も書いてたやつでしょう?」
「そうだけど……」
「だから、ちゃんと読む」
悠真は笑っていたが、声は冗談だけではなかった。
彩花も表情を緩める。
「うん。お願いします」
それから二人はそれぞれの改札へ向かった。
彩花は電車を待つホームで、いつもの癖で鞄へ手を入れかけてから止まった。
そこに原稿はない。
代わりに、悠真から戻ってきた図書館の本がある。
(本当に渡したんだ)
今になって実感が湧いてきた。
緊張する。
けれど、取り戻したいとは思わない。
早く読んでほしい。
そして、何を感じたのか聞きたい。
ホームへ電車が入ってくる音を聞きながら、彩花はその二つの気持ちをどちらも抱えたまま、開いた扉の中へ乗り込んだ。
*
九条家へ帰宅した悠真は、玄関で靴を脱いだあと、鞄をいつもより少し慎重に持ち直した。
クリアファイルには十分な厚みがあり、普通に扱った程度で折れるものではない。それでも、誰かから借りた本を持っているときと同じように、無意識に気をつけてしまう。
「おかえり、お兄ちゃん」
廊下の先から琴葉が顔を出した。
「ただいま」
「今日ちょっと遅かったね。生徒会?」
「いや、違う」
「ふうん」
琴葉はそれだけ言って通り過ぎようとしたが、悠真の鞄から透明なファイルの端が見えていたらしい。二歩ほど進んだところで振り返った。
「何それ?」
「原稿」
「生徒会の?」
「違うよ」
悠真が答えると、琴葉の視線が一度だけファイルへ向き、すぐに兄の顔へ戻った。
「もしかして彩花さん?」
「うん」
隠す理由はないため、悠真は素直に頷いた。
「冬の文芸部誌に出す話、読ませてもらった」
「へえ。もうできたんだ」
「初稿の提出版だって」
「今から読むの?」
「宿題終わってから」
琴葉は何か言いたそうな顔をしたものの、すぐに口元を緩めた。
「じゃあ邪魔しないでおく」
「何を?」
「読む時間」
「別に部屋で読むから関係ないだろ」
「そうだけど。感想考えてるときに『ご飯だよ』って呼びに行く役とか、お母さんに頼まれないようにしとく」
「そこまでしなくていいよ」
「だって、最初に読ませてもらったんでしょ?」
悠真は少し驚いて妹を見る。
「何で分かったの?」
「お兄ちゃんの顔」
「普通だと思うけど」
「自分ではね」
琴葉は楽しそうに笑った。
以前なら、ここから何か一言からかっていたかもしれない。
けれど今日は、それ以上踏み込まなかった。
「そうだ。おすすめカード、図書委員の子が褒めてたよ」
「本当?」
「短いけど読みたくなるって。展示始まったら見に来てもいいよ」
「中等部の図書室だろ?」
「卒業生じゃないんだから入れるでしょ。同じ学園だし」
「時間あったら行く」
「うん。じゃあ宿題頑張って。原稿が待ってるよ」
「それ言われると急いでるみたいになるからやめて」
「実際、ちょっと急ぐでしょ?」
否定しようとして、悠真はやめた。
たぶん普段より集中して終わらせる。
「……まあ、少し」
「素直でよろしい」
琴葉は満足そうに笑い、自分の部屋へ向かっていった。
悠真も二階へ上がり、自室の机へ鞄を置く。
最初に取り出したのは、教科書ではなく透明なクリアファイルだった。
けれど開かない。
机の端に置き、先に課題を出す。
今読み始めたら、おそらく途中でやめたくなくなる。
彩花が何週間も考え、書き直し、ようやく渡してくれたものを、宿題の合間に少しずつ読むのは嫌だった。
(ちゃんと時間を作って読みたい)
そう思えること自体が、少し嬉しい。
悠真はファイルの表紙越しに題名をもう一度見た。
『いつか、ここに』
何が「ここ」に来るのか。
写真なのか。
人なのか。
それとも、別の何かなのか。
彩花から途中まで聞いていた話を頭の中で組み立てたくなるが、駅で約束した通り、一度置いておく。
今夜読むのは相談途中の物語ではない。
水瀬彩花が最後まで書き、直して、一つの作品として自分へ渡した物語だ。
悠真は教科書を開いた。
普段と同じ課題なのに、今日はページを進める手が少しだけ速い。
*
その頃、彩花は自宅の机で、借りていた家具修理職人の連作短編集を鞄から取り出していた。
返却期限にはまだ余裕があるが、もう自分も悠真も読み終えている。
次に中央図書館へ行ったときに返せばいい。
机の横には青い星柄のノートが置いてある。
開いて何かを書こうかと思ったが、今日はまだやめておいた。
悠真へ原稿を渡したことを書けば、きっとその続きを書きたくなる。
けれど、続きはまだ起きていない。
今頃、悠真は帰宅しただろうか。
宿題をしているだろうか。
それとも、もう読み始めただろうか。
(気になるけど、聞かないでおこう)
自分から「もう読んだ?」と送れば、急かしているようになってしまう。
悠真は読み終わったら連絡すると言った。
なら、待つ。
待っている時間も含めて、自分が誰かへ物語を渡したあとの時間なのだと思った。
彩花はスマートフォンを伏せて机へ置き、代わりに読みかけのもう一冊――祖母と孫が刺繍を通じてつながっていく小説を開いた。
こちらはまだ途中だ。
文章を追っているうちに、少しずつ物語へ意識が移っていく。
誰かに自分の作品を読んでもらっているかもしれない時間に、自分もまた誰かの物語を読む。
そのことが何となく面白かった。
*
夜九時を少し過ぎた頃、悠真は机の上を片づけた。
学校の課題も終わり、入浴も済ませている。
部屋の外から聞こえる家族の生活音も、少しずつ静かになってきた。廊下を歩く足音が遠ざかり、階下ではテレビの音がかすかに聞こえる。
悠真は机の中央へ透明なクリアファイルを置いた。
ようやく読める。
ファイルから原稿を取り出し、一枚目を机へ置く。
『いつか、ここに』
水瀬彩花。
知っている名前なのに、作品の下に置かれていると少し違って見える。
悠真は椅子へ座り直し、最初の行へ目を落とした。
物語は、放課後の美術室から始まった。
忘れ物を取りに戻った女子生徒が、窓際の机で一人作業をしている男子生徒を見つける。
そこまでは、以前彩花から聞いていた。
けれど、実際の文章になると印象が違った。
女子生徒が最初に見るのは、男子生徒の顔ではない。
机の上に落ちた細かな木屑と、彼の指先だった。
木の表面を紙やすりで整えているが、何度やっても角が少しだけずれてしまう。
男子生徒はそれを失敗だと思っている。
女子生徒は、すぐには褒めない。
ただ、「捨てるの?」と聞く。
悠真はそこで一度、ページをめくる手を止めた。
(前に聞いたときより、この子がちゃんと自分で動いてる)
以前、彩花が悩んでいた部分を思い出す。
女の子が、男の子を変えるためだけの人物になってしまう。
その問題をどう直したのか、悠真は知らなかった。
今の原稿では、女子生徒自身にも写真立てが必要な理由がある。
彼女の家には、幼い頃から使っている古い写真立てがある。
家族写真を入れてきたが、留め具が壊れ、何度直しても倒れるようになった。それでも捨てられず、新しいものを買うことにも抵抗があった。
男子生徒が「失敗だから捨てる」と言った写真立てを見たとき、女子生徒は自分の古い写真立てを思い出す。
だから欲しいと言う。
かわいそうだからではない。
男子生徒を励ますためでもない。
自分が使いたいから。
悠真はページを進めた。
会話は多くない。
けれど、女子生徒が写真立てを持ち帰ったあと、自室の机を片づける場面が丁寧に書かれている。
古い写真立てをすぐに捨てることはできない。
新しい写真立てを置く場所も、まだ決まらない。
二つを並べてみる。
どちらかを選ぼうとして、やめる。
そのまま数日が過ぎる。
(これ、彩花さんらしいな)
何が、とはすぐに言葉にできなかった。
人物が大きな決断を一度でしないところかもしれない。
迷う時間そのものを、失敗として扱わないところかもしれない。
悠真は先へ進んだ。
男子生徒は、自分の作った写真立てが女子生徒の机で実際に使われていることを偶然知る。
喜ぶ。
けれど、それだけで急に自信を持つわけではない。
むしろ最初は、「他に置くものがなかっただけかもしれない」と考える。
その部分を読んだとき、悠真はわずかに眉を寄せた。
否定したいわけではない。
ただ、この男子生徒の考え方に少しだけ引っかかった。
自分のしたことを、相手が受け取ってくれたあとまで小さく見積もる。
以前の彩花にも、少し似たところがあった。
だからといって、登場人物を彩花本人と重ねるつもりはない。
それでも、彼女がこういう感情を知っているから書けるのだろうかとは思った。
読み進めるうちに、その男子生徒は学校帰りの店で工作用の木材を手に取る。
買わない。
棚へ戻す。
数日後、また来る。
今度は買う。
説明はほとんどない。
けれど、悠真にはその間に何が起きたのか分かった気がした。
(作ってみたいって、もう思ってるんだ)
まだ自信があるわけではない。
次も上手くできる保証はない。
それでも、自分のためにもう一度作ろうとしている。
その変化が、悠真は好きだった。
そして女子生徒の方も、古い写真立てと向き合う。
彼女は長く使ってきたそれを残すのではなく、角についていた小さな木製の花飾りだけを外す。
思い出があるから全部を残さなければならないわけではない。
捨てるからといって、そこにあった時間までなくなるわけでもない。
新しい写真立てへ、小さな花だけを移す。
最後の数ページへ入る頃には、悠真は自分が読む速度を少し落としていることに気づいた。
終わりが近い。
早く知りたいのに、急いで読みたくない。
男子生徒の机には、自分で作った二つ目の写真立てが置かれる。
女子生徒の机には、古い花飾りをつけた新しい写真立てが置かれる。
どちらにも、写真は入っていない。
二人が同じ場所にいる場面では終わらなかった。
それぞれ別の部屋で、それぞれの空の枠を見る。
最後の文章まで読み終えた悠真は、すぐには原稿を閉じなかった。
机の上には最後のページが開かれている。
何を入れるのかは書かれていない。
けれど、何もないとは思わなかった。
(だから、『いつか、ここに』なのか)
最初に題名を見たときに感じた疑問が、今は別の形で残っている。
答えが一つに決まったわけではない。
それでも、タイトルをもう一度見ると、読む前とは意味が変わっていた。
悠真は原稿を最初へ戻した。
すぐに感想を送るつもりだった。
けれど、その前にもう一度だけ確認したい場所がある。
女子生徒が古い写真立てから花飾りを外す場面。
男子生徒が一度木材を棚へ戻す場面。
そして最後のページ。
数か所を読み直してから、悠真はスマートフォンを手に取った。
時刻は十時前だった。
遅すぎる時間ではない。
彩花とのメッセージ画面を開く。
『読んだよ』
送信すると、思っていたより早く既読がついた。
悠真は次の文章を打とうとして、一度指を止める。
感想は会って話したいと言った。
だから全部は送らない。
それでも、今すぐ伝えたいことが一つだけあった。
『俺、この話好き』
短い。
もっと具体的に書ける。
けれど、最初に伝えるならこれだと思った。
送信する。
画面の向こうで、彩花がどんな顔をしているのかは見えない。
それでも悠真は、返事が来るまでの時間を急かさず待った。
*
自室のベッドに座って刺繍の小説を読んでいた彩花は、スマートフォンの振動に気づいて本を閉じた。
画面に表示された名前を見た瞬間、心臓が少しだけ速くなる。
悠真だ。
『読んだよ』
その一文を見ただけで、背筋が自然と伸びた。
読み終わった。
本当に。
あの原稿を、最初から最後まで。
彩花は返事を打つ前に、次のメッセージが届くのを見た。
『俺、この話好き』
指が止まった。
何度か瞬きをして、それでも文字は変わらない。
好き。
細かな感想ではない。
どこが良かったのかも、まだ分からない。
けれど、最初に悠真が送ってくれたのがその言葉だった。
(……よかった)
胸の奥に張っていたものが、ゆっくりほどけていく。
褒めてもらえなければ駄目だと思っていたわけではない。
悠真の評価で作品の価値が決まるとも思っていない。
自分はもう、この物語を好きだと思えている。
それでも、大切な人に読んでもらい、その人も好きだと言ってくれたことは、やはり嬉しかった。
彩花は何か長い返事を書こうとして、やめた。
今は素直に返せばいい。
『ありがとう。すごく嬉しい』
送ったあと、もう一つだけ続ける。
『ちゃんとした感想は、今度聞かせてね』
悠真から返事が来る。
『うん。話したいところ、いっぱいある』
彩花は思わず笑った。
原稿を渡す前、大地が「細かい感想が返ってきそう」と言っていたことを思い出す。
本当にそうなりそうだ。
『じゃあ覚悟しておく』
『怖い感想じゃないよ』
『分かってる』
『タイトルの意味も聞きたい』
『それは悠真君がどう思ったか聞いてから』
『じゃあ先に俺が話す』
『うん』
そこで一度、会話が止まる。
彩花はスマートフォンを胸元へ置き、天井を見上げた。
今すぐ全部聞きたい気持ちもある。
けれど、会って話すのも楽しみだった。
どこを好きだと思ったのか。
どこで立ち止まったのか。
女の子をどう見たのか。
男の子の変化をどう受け取ったのか。
自分が説明しなかった最後の二つの写真立てを、悠真はどう読んだのか。
聞きたいことが次々に浮かぶ。
(書いてよかったな)
その思いは、悠真に褒められたから初めて生まれたものではない。
原稿を最後まで書いたときにも感じた。
佐々木先輩から助言をもらい、直したときにも感じた。
けれど今、その気持ちに新しいものが一つ加わった。
書いたから、誰かとこの話ができる。
自分の中にしかなかった物語が、悠真の中にも少しだけ入った。
同じものを読んでも、きっと見えている景色は完全には同じではない。
だからこそ、話したい。
彩花はベッドから降りると、机の上の青い星柄ノートを開いた。
前に書いたページの次を開き、ペンを持つ。
少し考えてから、今日の出来事を書き始めた。
原稿を渡したこと。
渡す瞬間は思っていたより緊張したこと。
悠真が家でゆっくり読むと言ったこと。
そして、読み終えたあとに最初に届いた言葉。
そこまで書いてから、彩花は一度ペンを止めた。
以前なら、その言葉をノートへ残すことに照れていたかもしれない。
けれど今日は、そのまま書いた。
『俺、この話好き』
その下に、自分の言葉を続ける。
『私も、この話が好き。だから、同じ話を好きだと言ってもらえたことが嬉しかった。』
書き終えたあと、彩花はしばらくその二行を見つめた。
誰かに好きだと言われたから、自分も好きになるのではない。
自分が好きなものを、誰かも好きだと言ってくれた。
似ているようで、彩花にとっては大きく違う。
青いノートを閉じる。
机の上には、原稿がない。
今夜だけは悠真の部屋にある。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
むしろ、自分の書いた物語が自分の手を離れ、誰かの中で別の形になり始めたことが嬉しい。
次に会ったとき、悠真は何を話してくれるのだろう。
彩花はまだ知らない。
知らないからこそ、その時間が来るのを楽しみに待てる。
窓の外では秋の夜風が木々を揺らし、乾いた葉がかすかな音を立てていた。彩花はその音を聞きながら、読みかけの小説をもう一度手に取ったが、ページを開く前に口元へ浮かんだ笑みだけは、しばらく消えなかった。




