第70話 最初に読んでほしい人
月曜日の放課後、水瀬彩花は文芸部室の窓際に座り、机の上へ並べた原稿を一枚ずつめくっていた。
窓の外では、校庭を囲む木々が少しずつ秋の色を深めている。数日前、悠真と川沿いを歩いたときには緑の中へ黄色や橙色が混じり始めた程度だったが、今日は校舎から見える木々にも同じ変化がはっきり現れていた。
季節は、気づかないうちに進んでいる。
そして彩花の原稿も、ようやく最初から最後まで一つにつながった。
もちろん、まだ完成ではない。
読み返せば気になる表現が見つかるし、同じ言葉を近い場所で使っているところもある。登場人物の会話も、もう少し自然にしたい部分が残っている。
それでも、物語の始まりから終わりまでが存在している。
真っ白だったノートに最初の一行を書いたときには、まだ名前すらなかった二人が、今ではそれぞれの考えを持ち、それぞれ違う理由で写真立てを作るようになった。
(ちゃんと、ここまで来たんだ)
彩花は原稿の最後のページを見つめた。
男の子は、自分のために新しい写真立てを作る。
そこには、まだ写真を入れない。
女の子は、壊れてしまった古い写真立てから小さな飾りを一つだけ外し、それを新しく作った写真立てへ取り付ける。
彼女の方にも、写真はまだない。
過去を全部捨てるわけではなく、同じ形で抱え続けるわけでもない。
男の子は未来のために場所を作り、女の子は過去から持っていきたいものだけを選んで、新しい場所を作る。
二人の写真立ては似ていない。
けれど、どちらにもこれから何かを置ける余白がある。
そこまで書いたとき、ようやく彩花は「これで終われる」と思えた。
「水瀬さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、佐々木先輩が数枚の紙を手に立っていた。
「はい」
「今、大丈夫?」
「大丈夫です」
「この前の続き、できた?」
彩花は机の上の原稿へ視線を落とした。
「一応、最後までは」
「おお」
佐々木先輩が素直に嬉しそうな顔をする。
「早かったね」
「でも、まだかなり直したいです」
「それは最後まで書いた人が言える台詞だよ。途中なら直す場所も全部見えないから」
そう言われると、少しだけ誇らしい気持ちになった。
以前なら、その感情を持つこと自体に遠慮していたかもしれない。
自分より上手な人はいくらでもいる。
佐々木先輩の方が経験もある。
だから、自分が書けたことくらいで喜んではいけない。
そんなふうに考えていた頃もあった。
今は違う。
誰かより上手かどうかと、自分が最後まで書けたことを嬉しく思うことは別だ。
「読んでもらってもいいですか?」
「もちろん」
彩花は原稿を揃え、佐々木先輩へ差し出した。
「全部?」
「はい。まだ初稿ですけど」
「じゃあ、今日は部長としてじゃなく、一人目の部内読者として読むね」
「お願いします」
原稿が自分の手から離れる。
文化祭の作品を書いたときには、誰かへ渡した瞬間から落ち着かなかった。
今も緊張はある。
けれど、怖いだけではない。
(どう読むんだろう)
どこで止まるのか。
どの場面が好きなのか。
分かりにくいところはあるのか。
自分が伝えたかったものは、どこまで届くのか。
知りたい。
彩花は佐々木先輩が読み始めたのを確認すると、自分は別のノートを開いた。
青い表紙に銀色の小さな星が散った、土曜日に悠真と入った文具店で買ったノートだ。
最初のページには、予定を決めずに悠真と会った日のことを書いた。
文具店。
焼きたてのアップルパイ。
家具修理職人の本。
色づき始めた川沿いの木々。
最初から用途を決めなかったから、このノートには何を書いてもいい。
今日は二ページ目を開いた。
少し考えてから、彩花は日付だけを書いた。
その下は、まだ空けておく。
佐々木先輩が読み終わってから、書きたいことができる気がした。
*
佐々木先輩が原稿から顔を上げたのは、部活動終了時刻までまだ少し余裕がある頃だった。
彩花はその間、別の本を読もうとしたり、青いノートへ次の作品の断片になりそうな言葉を書いたりしていたが、やはり完全には集中できなかった。
原稿が机へ置かれる音が聞こえた瞬間、自然と背筋が伸びる。
「読み終わった」
「……どうでした?」
「最初に一個だけ言っていい?」
「はい」
「前より好き」
彩花は瞬いた。
「前に読んでもらったところより?」
「うん。男の子の話だけじゃなくなったから」
佐々木先輩は原稿の中ほどを指先で軽く押さえた。
「前は、女の子が男の子に何かを渡して、男の子が変わっていく話だったでしょう?」
「はい」
「今は、二人とも相手から何かを受け取ってる。しかも同じ変化じゃない。それがいいと思う」
その言葉を聞いて、彩花の肩から少し力が抜けた。
自分でも、そこを一番大切にして書き直した。
だから、伝わったことが嬉しい。
「女の子が古い写真立てをそのまま残さないところも好き。最初の設定だと、この子は過去を大事にする人だったけど、最後までそのままだと変化が弱かったと思う」
「私も途中でそう思って」
「飾りだけ外すんだよね」
「はい。全部持っていくんじゃなくて、自分が残したいものだけ」
「それで古い写真立ての方は?」
「処分するつもりです。本文では、捨てるところまで書かなくてもいいかなと思ってますけど」
「私もそれでいいと思う。読者に分かれば十分だから」
佐々木先輩は数ページ戻した。
「ただ、ここ」
「どこですか?」
「男の子が二つ目の写真立てを作ろうと思うところ。今だと、ちょっと急に感じるかな」
彩花は示された段落を読む。
女の子から写真立てを受け取った男の子が、それを机の上で使い続けたあと、自分でも作ってみようと思う場面。
書いている本人には、その間に何があったのか分かっている。
けれど文章だけを読めば、確かに一段飛ばしているように見えた。
「……本当だ」
「理由を説明する文章を足す必要はないと思うよ。むしろ、途中で一回だけ何か作ろうとしてやめるとか、材料を触るとか、そのくらいでもいいかもしれない」
「小さい動きで見せる?」
「うん。この男の子、急に大きく変わるタイプじゃないでしょう?」
「そうなんです」
「なら、変化の途中もその子らしくした方がいい」
彩花はすぐに余白へ印をつけた。
説明ではなく行動。
言われてみれば、悠真と本の感想を話しているときにも、自分たちは登場人物が何を言ったかより、何をしたかを話すことが多い。
男の子が最初にもらった写真立てを、少しずつ自分の生活の中へ置く。
机を拭くときには一度持ち上げ、元の場所へ戻す。
何も入っていないのに、倒れていたら起こす。
ある日、工作用の木材を見かけて、手に取る。
その日は買わない。
別の日にもう一度見て、今度は買う。
(それくらいなら、急に変わった感じにならないかも)
彩花は思いついたことを急いでメモした。
「あとね」
佐々木先輩の声に顔を上げる。
「最後の二つの写真立て。ここは好きだから、説明しすぎない方がいいと思う」
「説明しすぎない?」
「水瀬さん、最後にちょっと不安になったでしょう?」
図星だった。
「……分かります?」
「分かる。読者に意味が伝わるか心配になって、最後の方だけ説明が増えてる」
彩花は原稿を見て、思わず小さく息を吐いた。
確かにそうだった。
空の写真立ては「未来の余白」を意味している。
女の子が古い飾りを新しい写真立てへ移すのは、「過去を抱えたまま未来へ進む」ことを意味している。
そこまで考えて書いたからこそ、全部伝えたくなってしまった。
「読んだ人が違う意味に取ったらどうしようって思ってました」
「違ってもいいんじゃない?」
佐々木先輩はあっさりと言った。
「水瀬さんが書いた意味と、読む人が受け取る意味が完全に同じじゃなくてもいいと思う。もちろん全然伝わらないなら直した方がいいけど、今の話なら大丈夫。写真立てが二つ並ぶところまで書けば、あとは読んだ人に任せてもいい」
「……読んだ人に任せる」
「うん。水瀬さん、この前の文化祭の作品で感想もらったでしょう?」
「はい」
「自分ではそんなに意識してなかったところを好きって言ってくれた人、いなかった?」
彩花はすぐに思い出した。
匿名の感想カード。
それから、後になって読んだと教えてくれた大地。
自分が「ここを読んでほしい」と強く意識していた場面とは別のところを覚えてくれていた人もいた。
「いました」
「だったら、今回も任せてみればいいよ」
佐々木先輩は原稿を彩花へ返した。
「初稿としては、かなりいいと思う。今日言ったところを直して、あとは自分で一回寝かせて読み返してみて」
「ありがとうございます」
「タイトルは?」
「……まだです」
「あ、それはまだなんだ」
「そこだけ全然決まらなくて」
「じゃあ、最後の宿題だね」
「はい」
彩花は苦笑しながら原稿を受け取った。
タイトル。
最初からずっと残っている問題だ。
写真立てをそのまま題名に入れるか。
空白や余白を使うか。
二人を表す言葉にするか。
まだ、どれもしっくりこない。
けれど、以前ほど焦りはなかった。
本文が形になったのなら、そこから見つければいい。
*
部活動を終えて帰宅した彩花は、夕食まで少し時間があったため、自室へ上がった。
制服の上着だけ脱ぎ、机へ座る。
鞄から原稿を取り出すと、佐々木先輩に指摘された場所をもう一度確認した。
すぐに直したい気持ちはある。
けれど、今日は少し置いておくことにした。
代わりに、青いノートを開く。
二ページ目。
放課後には空白だった場所へ、今なら書きたいことがある。
『最後まで書いても、完成ではなかった。』
そこで一度ペンを止める。
以前の自分なら、それを残念なこととして書いたかもしれない。
最後まで書いたのに、まだ直すところがある。
自分には足りない。
もっと上手くできる人なら、一度で書けるのかもしれない。
そんな方向へ考えていた可能性がある。
今は違った。
続けて書く。
『でも、直したい場所が分かるのは、最後まで書いたから。』
その文章を読み返し、彩花は小さく頷いた。
書くことは、完成した文章を一度で生み出すことではない。
少なくとも、自分にとってはそうらしい。
書いて、読んで、直して、誰かに読んでもらって、また考える。
その時間も含めて楽しい。
スマートフォンを取り出す。
悠真とのメッセージ画面を開き、少し考えてから打った。
『今日、佐々木先輩に原稿を最後まで読んでもらった』
返信は数分後だった。
『どうだった?』
『直すところはあるけど、前より好きって言ってもらえた』
『よかった』
『うん。私も前より好き』
送ったあと、その一文を見て少し嬉しくなった。
自分の作品について「好き」と言える。
文化祭の作品を書いた頃には、まだ少し難しかったことだ。
悠真から次の返信が届く。
『じゃあ、もうすぐ完成?』
『たぶん。でも少し直して、もう一回読み返す』
『了解。急がなくていいよ』
それだけで会話を終えてもよかった。
けれど彩花は、以前自分がした約束を思い出した。
部員以外で、完成したものを最初に読んでほしい。
その相手は、悠真だ。
『完成したら、本当に読む?』
送った直後、自分でも少しおかしい質問だと思った。
何度も読むと言ってもらっている。
今さら確認する必要はない。
すぐに既読がついた。
『読むよ』
続けて届く。
『むしろ、読ませてもらえると思って待ってる』
彩花は画面を見つめた。
待っている。
急かさずに。
けれど、忘れずに。
その距離が嬉しかった。
『じゃあ、完成したら渡すね』
『うん』
『でも感想は正直に言って』
『それは約束する』
『面白くないところも?』
『そこは「面白くない」で終わらせないようにする』
彩花は思わず笑った。
『どういうこと?』
『俺が分かりにくかったなら、どこで分からなくなったか言う。好きだったところも言う。それならいい?』
その答えが、あまりにも悠真らしい。
評価だけではなく、自分がどう読んだかを返してくれる。
『それがいい』
『じゃあ決まり』
そこで会話は一度途切れた。
彩花はスマートフォンを机へ置き、原稿へ視線を戻した。
まだ直す場所がある。
タイトルもない。
それでも、完成した先に読んでくれる人がいる。
そのことが重荷ではなく、楽しみになっている。
(ちゃんと、自分が納得できるところまで書こう)
悠真に褒めてもらうためではない。
佐々木先輩に認めてもらうためでもない。
自分が好きだと思える物語にしたい。
そのうえで、誰かが読んで何を感じるのかを知りたい。
彩花は原稿を閉じた。
今日は直さない。
明日、少し離れた目で読み直す。
そう決めて席を立った。
*
翌日。
昼休みの教室で、彩花は弁当を食べながら、昨日の原稿には触れないようにしていた。
机の向かいでは、大地が購買で買った焼きそばパンを食べている。
「水瀬、今日ノート出してないな」
「今日は原稿休み」
「締め切り間に合わないの?」
「逆。最後まで書けたから、一日置いてから読み直そうと思って」
大地が焼きそばパンを持ったまま目を丸くした。
「もう書けたの?」
「一応ね。まだ直すけど」
「へえ。じゃあ今度のも読めるんだ」
「部誌が出たらね」
「食い物出るようになった?」
「まだ言ってるの?」
「大事だろ」
「写真立ての話に、無理やり食べ物入れたくないよ」
「写真立て?」
彩花は「あ」と口を閉じた。
今まで大地には、次の作品に写真立てが出ることくらいしか話していなかった。
「今の忘れて」
「無理だな。写真立ての話って覚えた」
「それ以上は言わないよ」
「別にネタバレ聞こうとは思ってないって。出たら読むし」
大地はそう言って、残りのパンを食べた。
以前なら「本当に読むの?」と確認していたかもしれない。
今回はしなかった。
大地は前の作品も最後まで読んでくれた。
だから、読むと言うなら読むのだろう。
「田辺君は、どういう話が好きなの?」
「急だな」
「前の話読んでくれたけど、普段あんまり小説読まないって言ってたから」
「漫画なら読むけどな。小説は……何だろ。難しくないやつ?」
「広いね」
「あと、登場人物がずっと悩んでるだけのやつは苦手かも」
「なるほど」
「何か起きてほしい。別に戦えって意味じゃないぞ」
「分かってるよ」
彩花は少し笑った。
大地は文学的な言葉で感想を言うわけではない。
けれど、だからこそ分かりやすい。
「前の私の話は大丈夫だった?」
「大丈夫だった。ちゃんと最後に変わったから」
「変わった?」
「最初と最後で、主人公がちょっと違ったじゃん」
大地はそれ以上詳しく説明せず、今度は紙パックの飲み物へ手を伸ばした。
彩花はその言葉を心の中で繰り返す。
最初と最後で、少し違う。
それは今回の物語でも大切にしたことだった。
「ありがとう」
「何が?」
「参考になった」
「俺、何かすごいこと言った?」
「言ってない」
「じゃあ礼返せ」
「参考にはなったってば」
大地が不満そうな顔をし、彩花は笑った。
自分とは違う読み方をする人がいる。
だから読んでもらうのは面白い。
そのことを、以前よりずっと素直に楽しめるようになっていた。
*
放課後、彩花は一日ぶりに原稿を開いた。
昨日まで何度も読んでいた文章なのに、一日置いただけで少し違って見える。
佐々木先輩に指摘された、男の子が二つ目の写真立てを作るまでの部分。
やはり急だった。
彩花はその間へ、新しい場面を加えた。
男の子が学校帰りに文具と工作用品を扱う店へ入る。
買うつもりはなかった。
ただ、棚に並んだ薄い木材を手に取る。
厚さを確かめる。
値段を見る。
それから元の場所へ戻して帰る。
数日後、もう一度同じ店へ行く。
今度は買う。
その間、彼は「自分も作りたい」と一度も口にしない。
けれど、行動だけは少しずつ前へ進む。
彩花はそこまで書き直してから、最初から読み返した。
今度は前より自然だった。
(うん。こっちの方が好き)
終盤の説明も削った。
二つの写真立てに写真が入っていない意味を、文章で説明するのをやめる。
女の子が古い写真立てから飾りを外す。
男の子が新しい写真立てを机へ置く。
最後に、二人がそれぞれの場所で、まだ何も入っていない枠の向こうを見る。
そこまで。
何を見るのか。
何を入れるのか。
その答えは書かない。
読んだ人に任せる。
最後の一文を書き直したあと、彩花はしばらく画面――ではなく、手元の原稿を見つめた。
胸の中に、静かな納得があった。
まだ誤字や表現の調整は必要だろう。
けれど、物語そのものはこれでいい。
(……初稿、できた)
文化祭の作品とは違う。
誰かから題材を与えられたわけではない。
冬季文芸部誌へ載せると決まってから、自分で何を書くか考え、迷い、人物を作り、何度も方向を変えて、最後まで辿り着いた。
彩花は原稿の一番上へ、仮題を書こうとして手を止めた。
まだタイトルだけがない。
しばらく考え、原稿の最後をもう一度見る。
二つの写真立て。
何も入っていない。
けれど、空っぽではない。
これから何かを入れられる。
ふと、一つの言葉が浮かんだ。
彩花は別の紙へ書いてみる。
『まだ、飾らない』
じっと見る。
悪くない。
けれど、少し違う。
次に書く。
『空の向こう側』
これも違う。
もう一つ。
『いつか、ここに』
ペン先が止まった。
写真立ての中へ、いつか何かを入れる。
男の子にも。
女の子にも。
まだ決まっていない未来がある。
「……これ、好きかも」
小さく呟いた。
正式に決める前に、少し時間を置きたい。
それでも今までの候補の中では、一番物語に近い気がした。
彩花は原稿の上部へ、鉛筆で薄く書き込んだ。
仮題――『いつか、ここに』。
その文字を眺めた瞬間、初めて作品全体が一つの形になったような気がした。
*
その日の夜。
悠真が自室で課題を終え、机の上を片づけていると、スマートフォンが震えた。
彩花からだった。
『初稿できた』
悠真は反射的に画面を開いた。
短い一文。
けれど、ここ数週間、彩花がずっと考え続けていたことを知っている。
写真立ての話。
男の子だけではなく、女の子にも変化がある物語。
最後まで書けたあとも修正を続けていたこと。
そして、完成したら自分に読ませてくれると言っていた。
『おめでとう』
まず、それだけ送る。
続けて文字を打とうとして、少し考えた。
読みたい。
すぐにでも。
けれど、彩花は「初稿」と書いている。
完成とは書いていない。
だから悠真は尋ねた。
『もう読んでいい? それともまだ待つ?』
返信は少ししてからだった。
『少しだけ待って』
『分かった』
『明日もう一回読んで、誤字とか直したい』
『じゃあ待ってる』
そこで終わるかと思ったが、彩花からもう一通届いた。
『タイトルも仮だけど決まった』
『聞いていい?』
今度は、返信まで少し長かった。
『まだ秘密』
悠真は画面を見て笑った。
『了解』
『読んだときに見てほしい』
『じゃあ絶対聞かない』
『そこまでしなくてもいいけど』
『彩花さんが秘密って言ったから』
『悠真君、こういうところ真面目だよね』
『悪い?』
『悪くない』
その返信を見て、悠真はしばらく画面を閉じなかった。
作品の内容も、タイトルも、まだ知らない。
けれど、それを知らない時間まで楽しいと思える。
完成したものだけを受け取るのではなく、彩花が書いている途中の話を少しずつ聞いてきたからかもしれない。
迷ったこと。
登場人物が変わったこと。
終わり方が決まったこと。
最後まで書けたこと。
その全部を知っているから、実際に読むときには、物語だけではなく彩花がそこまで辿り着いた時間も一緒に感じるのだろう。
(早く読みたいな)
素直にそう思う。
けれど、急かしたくはない。
悠真はスマートフォンを置き、机の隅にある家具修理職人の短編集へ目を向けた。
自分が読み終えるまで彩花が待ってくれたように、自分も待てばいい。
読める日が来たら、そのとききちんと読む。
*
翌日の放課後。
彩花は文芸部室で最後の読み直しをしていた。
誤字を二か所直した。
同じ語尾が続いていた段落を一つ修正した。
男の子の台詞を一行削った。
女の子が古い写真立てから飾りを外す場面に、ほんの少しだけ手の動きを加えた。
そして最後まで読む。
もう、大きく直したいところは見つからなかった。
佐々木先輩にも再度見てもらい、「これなら初稿提出版として大丈夫」と言ってもらえた。
「タイトル、決めたんだ」
原稿の一枚目を見た佐々木先輩が言った。
「はい。まだ変えるかもしれませんけど」
「『いつか、ここに』」
「どうですか?」
「私は好き。何が『ここに』来るのか、読んでから分かるタイトルだね」
その言葉に、彩花は少し安心した。
「じゃあ、これで一回出します」
「うん。お疲れさま」
「ありがとうございます」
原稿を提出用のファイルへ入れる。
これで部内の初稿提出は完了した。
もちろん、部誌へ載るまでには校正や調整がある。
それでも、自分の中では一つの区切りだった。
部活動が終わり、校舎を出る。
外は少し肌寒く、彩花はカーディガンの袖口を指先まで引いた。
正門を出て少し歩いたところで、スマートフォンを取り出す。
悠真とのメッセージ画面を開く。
『初稿、提出したよ』
送信。
返事は、駅へ向かう途中で届いた。
『お疲れさま』
続けて、
『ということは?』
彩花はその文章を見て、思わず笑った。
何を聞きたいのか分かる。
『読めるよ』
既読。
今度は返信が早かった。
『読みたい』
その三文字を見た瞬間、彩花の胸の奥が温かくなった。
以前なら、原稿を誰かに渡す瞬間は怖さの方が強かった。
今も緊張はする。
悠真が何を思うのか、気になる。
自分が好きだと思っているところを、悠真は何とも思わないかもしれない。
逆に、自分が気づかなかった場所を好きだと言うかもしれない。
それでいい。
むしろ、それを知りたい。
『じゃあ、今度会ったとき持っていく』
そう打ちかけて、彩花は止まった。
今度。
それではいつになるか分からない。
用事ができるまで待つ必要もない。
先日の土曜日、自分から誘ったときのことを思い出す。
何をするか決めずに会っても、楽しかった。
なら今回も、会いたい理由を無理に大きくする必要はない。
ただし今度は、一つだけはっきりしたものがある。
読んでほしい。
彩花は文章を消し、新しく打った。
『今週、どこかで渡せる?』
送る。
少しして悠真から返事が来る。
『渡すだけ?』
彩花は足を止めた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
画面を見直す。
間違いなく、
『渡すだけ?』
と書いてある。
どういう意味だろう。
原稿を渡したらすぐ帰るのか、という意味だろうか。
たぶんそうだ。
けれど、聞き方が妙に引っかかる。
『読むのはその場じゃなくてもいいよ?』
送ると、すぐに返ってきた。
『そうじゃなくて』
少し間が空く。
『せっかく会うなら、少し話したい』
彩花は画面を見つめた。
駅へ向かう人たちが横を通り過ぎていく。
頬に冷たい風が触れる。
それなのに、顔だけが少し熱い。
(そっちなんだ)
原稿を受け取るだけではなく、会ったなら話したい。
悠真は、それを特別なことのように書いていない。
だからこそ、嬉しかった。
『私も話したい』
今度は迷わず送る。
『じゃあ、時間ある日に』
『うん』
二人で予定を確認し、その週の平日、互いの学校が比較的早く終わる日に青凪駅で会うことになった。
彩花はスマートフォンを鞄へしまった。
原稿を渡す。
それだけなら、ほんの数分で済む。
けれど、たぶん数分では終わらない。
何を話すのかは、まだ決めていない。
それでもいい。
彩花は駅へ向かって歩き出した。
鞄の中には、提出を終えた原稿の控えが入っている。
表紙に書かれた題名は、
『いつか、ここに』。
その下には、自分の名前。
水瀬彩花。
誰かと比べるためではなく、自分が書いた物語へ、自分の名前を置く。
今ではそれを、少し誇らしいと思える。
そして数日後、その物語を読んでほしい相手がいる。
悠真がどこで立ち止まり、どこを好きだと思い、何を感じるのか。
まだ分からない。
だから、楽しみだった。




