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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第69話 何をするかは、会ってから



 土曜日の午後、青凪駅前には秋らしい薄い雲が広がっていた。


 日差しは弱いものの雨が降る気配はなく、駅前広場を抜けていく風が、街路樹から落ちた葉を舗道の上で転がしている。夏なら半袖姿の人が多かった場所にも薄手の上着やカーディガンが目立つようになり、季節が確実に進んでいることが分かった。


 水瀬彩花は駅の改札を出ると、いつものように周囲へ目を向けた。


 待ち合わせの時間までは、あと七分ある。


 急いできたわけではないのに少し早く着いてしまった。


(何するんだろう、今日)


 その疑問が浮かび、彩花は自分で少しおかしくなる。


 決めなかったのは自分だ。


 悠真を誘ったとき、特に用事はないと伝えた。待ち合わせ場所だけ青凪駅にして、そこからどこへ行くかも決めていない。


 これまでにも悠真と何度も会ってきた。


 図書館へ行ったこともあれば、本を探しに出かけたこともある。文化祭へ行き、お互いの家を訪れ、一緒にクッキーを作った。駅近くの市民交流センターで、悠真が初めて一人で焼いた紅茶クッキーを食べたこともある。


 そのどれにも、会う前から何かしらの目的があった。


 今日は違う。


 会ってから考える。


 そう決めたときは楽しそうだと思ったのに、いざ当日になると、少しだけ落ち着かない。


(私から誘ったんだから、何か考えておいた方がよかったかな)


 けれど、それでは結局いつもと同じになる。


 彩花は鞄の持ち手を握り直し、改札から出てくる人たちを眺めた。


 約束の時間まで、あと五分。


 そのとき、少し離れたところから歩いてくる見慣れた姿を見つけた。


 悠真もほぼ同時に彩花へ気づいたらしい。


 人の流れを避けながらこちらへ歩いてくる彼の表情が、彩花を見つけた瞬間にわずかに柔らかくなる。その変化を遠くから見つけられるくらいには、もう悠真の表情を知っているのだと思うと、胸の奥が少しくすぐったくなった。


「彩花さん、お待たせ」


「私も今来たところ。まだ時間前だよ」


「今日は二人とも早かったね」


「うん。引き分け」


「いつから勝負になったの?」


「悠真君が前に二分負けたって言ってたから」


 彩花が笑うと、悠真は少し困ったような顔をした。


「あれ、まだ覚えてたんだ」


「悠真君が覚えてたから覚えてる」


「じゃあ、もう言わないようにしよう」


「遅いよ。もう覚えたから」


 そんな会話を交わしながら、二人は駅前広場の端へ移動した。


 そこで同時に足が止まる。


 いつもなら、ここから向かう場所が決まっている。


 今日は決まっていない。


 数秒だけ顔を見合わせたあと、先に笑ったのは彩花だった。


「本当に決めてなかったね」


「うん。思ってた以上に何も決めてない」


「どうしよう」


「彩花さん、何かしたいことある?」


「悠真君は?」


「俺から聞いたんだけど」


「だって、私が決めたら結局いつもと同じかなって」


 悠真は少し考えるように駅前を見渡した。


 中央図書館へ向かう道も、市民交流センターも、駅前の商業施設もここから近い。少し歩けば商店街へも行けるし、住宅地側へ抜ければ以前二人で歩いた川沿いの道へも続いている。


「じゃあ、とりあえず歩く?」


「目的地なしで?」


「うん。何か見つけたら入る」


「それ、ちょっと楽しそう」


「俺もそう思った」


 二人は駅前広場から、商店街の方角へ歩き始めた。


 目的地はない。


 それなのに、不思議と困らなかった。


 *


 青凪駅から少し離れた商店街は、休日の午後らしい賑わいを見せていた。


 大型商業施設ほど人は多くないものの、八百屋の店先には季節の果物が並び、惣菜店からは揚げ物の匂いが漂っている。通りの途中には昔から営業しているらしい文具店や、小さな喫茶店、衣料品店などがあり、彩花は何度も通ったことのある場所なのに、悠真と歩くと普段とは少し違って見えた。


「悠真君、この辺来たことある?」


「あるよ。でも、ちゃんと歩いたことはあんまりないかも」


「駅から図書館とは反対方向だもんね」


「うん。用事がないと来ないから」


 悠真がそう言ってから、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。


 今日の自分たちには、その「用事」がない。


 けれど、あえてそれを言葉にして確認することはなかった。


「あ、この店まだあった」


 彩花が足を緩めたのは、小さな文具店の前だった。


 ガラス張りの店頭にはノートや便箋、ペンケースが並んでいる。大型店で売られている新しい商品だけではなく、少し懐かしい柄のレターセットや、小学生向けの文房具も混じっていた。


「知ってる店?」


「小学生の頃、たまに来てた。学校で使うノートとか買ってもらってたの」


「入る?」


「悠真君、文具見てもつまらなくない?」


「俺も使うよ、文具」


「それはそうだけど」


「それに、今の彩花さんならノートとか見るの好きそう」


 言われて、彩花は反論できなかった。


 最近は小説を書くためのノートや付箋を見ることが以前より増えている。


「……ちょっとだけ見たい」


「じゃあ入ろう」


 店内へ入ると、紙と木製什器の混じった独特の匂いがした。


 入口近くには季節物の便箋が並び、奥には筆記具やファイル、ノートの棚がある。休日だからか、小学生くらいの親子や学生の姿もあり、レジの向こうでは年配の店主が商品を袋へ入れていた。


 彩花は自然とノートの棚へ向かった。


「いっぱいあるなあ」


「普段使ってるのは?」


「学校は普通の罫線。小説のメモは無地か方眼が好き」


「使い分けてるんだ」


「文章だけじゃなくて、人物の位置とか話の流れを矢印で書くことがあるから。罫線があると、逆に邪魔になるときがあるの」


 悠真は棚から一冊の方眼ノートを手に取った。


「こういうの?」


「うん。これくらい細かい方眼が使いやすい」


「へえ」


「悠真君は?」


「学校は普通のノート。生徒会ではリング式を使うことが多いかな。ページを折り返せるから」


「やっぱり実用性なんだ」


「彩花さんも結構実用性で選んでない?」


「私は表紙も見るよ」


「じゃあ、どれが好き?」


 彩花は棚を眺め、深い青色の表紙に小さな銀色の星が散っているノートを手に取った。


「これ、きれい」


「買う?」


「どうしよう。まだ家に使ってないノートあるんだよね」


「なら、使い道が決まってからでもいいんじゃない?」


「そうだね」


 彩花は一度棚へ戻そうとした。


 しかし、指が少し止まる。


 表紙が気に入った。


 それだけで買ってもいい気もする。


(前なら、無駄かなって戻してたかも)


 必要になってから買えばいい。


 使い道が決まっていないものを持つ必要はない。


 それは間違った考えではない。


 けれど、今書いている物語のことを考えると、少し違う見方もできる。


 空いている場所があるから、あとで何かを置ける。


「……やっぱり買おうかな」


「使い道、思いついた?」


「まだ。でも、これに何を書こうか考えるのも楽しそうだから」


 悠真は彩花の手元のノートを見て、柔らかく笑った。


「いいと思う」


 その言い方に押される必要はなかった。


 もう彩花自身が決めている。


 彼女は青いノートを持ったまま、今度は便箋の棚へ向かった。


 悠真も隣で商品を見ている。


 同じものを見る必要はないし、常に話している必要もない。彩花が便箋を見ている間、悠真は少し離れた場所で万年筆の試し書き用見本を眺めていた。


 その距離が心地よかった。


 しばらくして、彩花が会計を済ませると、悠真も一本の黒いボールペンを購入していた。


「買ったんだ」


「書きやすかったから」


「生徒会用?」


「たぶん。でも普通にも使う」


「私もノート、何に使うかまだ決めてない」


「決まったら教えて」


「覚えてたらね」


「俺は覚えてると思う」


「それは知ってる」


 彩花が自然にそう返すと、悠真が少し笑った。


 店を出た二人の手には、それぞれ小さな紙袋が増えていた。


 今日ここへ来る予定はなかった。


 だから、この買い物も予定外だ。


 それが妙に楽しかった。


 *


 商店街をさらに歩いていると、焼き菓子の甘い匂いが漂ってきた。


 小さな洋菓子店の店頭で、焼きたてのアップルパイを販売しているらしい。


 彩花が看板へ視線を向けると、悠真も足を止めた。


「食べる?」


「悠真君、お腹空いた?」


「少し。彩花さんは?」


「私も少しだけ」


「じゃあ一個ずつ買おうか」


 店内でアップルパイを買い、二人は商店街の先にある小さな広場へ向かった。ベンチがいくつか置かれた場所で、親子連れが休憩したり、買い物途中の人が飲み物を飲んだりしている。


 空いていたベンチへ並んで座る。


 紙袋を開くと、まだ温かいパイ生地から甘いリンゴとバターの香りが立った。


「熱いかも」


 彩花が慎重に端を割る。


「気をつけて」


「悠真君もね」


 二人で少し冷ましながら口に運ぶと、表面の軽い食感のあとに、柔らかいリンゴの甘酸っぱさが広がった。


「美味しい」


「うん。思ったより甘すぎないね」


「シナモンもそんなに強くない」


「彩花さん、シナモン強いの苦手?」


「嫌いじゃないけど、強すぎるとちょっと苦手。アップルパイならこれくらいが好き」


「なるほど」


 悠真が何気なく頷く。


 以前なら、彼がまた覚えているのだろうと思ったかもしれない。


 今はそれを確認しなかった。


 自分も悠真について、同じように覚えていることが増えている。


「悠真君、甘いもの食べるようになったね」


「元々食べないわけじゃないよ」


「でも、すごく甘いのはそんなに得意じゃないでしょう?」


「うん。これくらいならちょうどいい」


「紅茶クッキーも甘さ控えめだったしね」


「最初のやつ?」


「うん。あれも私は好きだったよ」


 悠真が少しだけ目を細めた。


「次は厚さ変えて試したい」


「覚えてたんだ」


「彩花さん、少し厚い方が好きって言ってたから」


「そうだったね」


「でも全部同じ厚さにするかは迷ってる」


「どうして?」


「薄い方が好きな人もいるかもしれないし。家族にも食べてもらうなら、何種類かあった方がいいかなって」


 その答えが悠真らしくて、彩花は小さく笑った。


 自分の好みに全部合わせようとするのではなく、覚えてはいるけれど、それだけを正解にしない。


「それがいいと思う。焼き時間だけ少し気をつけた方がいいかも。厚さが違うと同じ時間で焼いても食感変わるから」


「じゃあ今度やるとき、時間も分けてみる」


「うん。成功したら教えて」


「成功しなくても報告するよ」


「写真付きで?」


「証拠写真付きで」


 二人は笑いながら、残りのアップルパイを食べた。


 クッキーの話をしても、以前のようにその話題だけで時間が埋まることはない。


 そこから学校の話になり、最近読んだ本の話になり、また商店街で見かけた店の話へ移っていく。


 話題が途切れても、焦らなかった。


 広場を通り過ぎる人を眺めたり、風に揺れる木々を見たりしていれば、またどちらかが何かを思い出して話し始める。


 彩花は、その沈黙が以前よりずっと自然になっていることに気づいていた。


 *


「そうだ。読み終わったよ」


 アップルパイを食べ終えたあと、悠真が思い出したように言った。


「家具修理の本?」


「うん。昨日の夜」


「早かったね」


「止まらなくなった」


 彩花はベンチへ少し深く座り直した。


「じゃあ、答え聞いていい?」


「何の?」


「私が悠真君に合いそうって思った理由。考えてたんでしょう?」


「ああ」


 悠真は少しだけ視線を上げ、広場の向こうにある街路樹を見た。


「たぶん、直すことそのものより、持ち主が何を残したいのかを決める話だからだと思った」


 彩花は黙って続きを待った。


「職人は技術があるから、きれいにしようと思えばできる。でも勝手にはやらない。傷を残すか、部品を替えるか、別の用途に変えるか、その人に聞くでしょう?」


「うん」


「俺、そこが好きだった。直せる人が全部決めないところ」


 彩花はゆっくり頷いた。


 自分が悠真を思い浮かべた理由と、かなり近い。


「正解?」


「正解って言っていいのかな。でも、私が思ったのもそこ」


「よかった」


「あとね、もう一個ある」


「もう一個?」


「家具が、直ったあとも使われるところ」


 悠真が彩花を見る。


「時計屋さんの本にも似てるけど、家具の方はもっと生活の中に戻っていく感じがしたの。飾るんじゃなくて、椅子ならまた座るし、机ならまた何かを書くし、棚なら物を置くでしょう?」


「うん」


「悠真君、物を大事にするけど、大事だから触らないって感じじゃないなって思って」


 言葉にしながら、彩花は九条家で見た悠真の部屋を思い出していた。


 祖父からもらった本。


 長く読んできた小説。


 家族との写真。


 どれも大切にしているが、しまい込んでいるわけではない。


 使い、読み、必要なら誰かへ貸す。


「だから、読んでる途中で悠真君が好きそうって思った」


 話し終えると、悠真はしばらく何も言わなかった。


 困っているようには見えない。


 むしろ、少し驚いているようだった。


「そこまで考えてたんだ」


「変だった?」


「全然。嬉しい」


 悠真は膝の上で組んでいた手を少し動かし、視線を落とした。


「俺、自分がどういう本を好きかは考えるけど、他の人からどう見えてるかまではあんまり考えないから」


「私も同じだよ」


「彩花さんから見ると、そうなんだなって思った」


「違った?」


「違わないと思う」


 悠真は少し考え、言葉を続けた。


「たぶん俺、大事なものは使いたいんだと思う。壊したくないとは思うけど、使わないまま置いておくより、そのものとしてちゃんと使いたい」


「本も?」


「うん。だから彩花さんに貸せたんだと思う」


 祖父からもらった大切な冒険小説。


 初めて交換した本。


 もうずいぶん前のことなのに、彩花はその重みを忘れていない。


「……ありがとう」


「急に?」


「今さらだけど、改めて」


「じゃあ俺も。彩花さんも大事な本貸してくれたから」


「それも今さらだね」


「お互い様だね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 話が昔へ戻っても、それを何度も確認し直す必要はない。


 ただ、今の自分たちだから見える意味を少し拾う。


 それくらいがちょうどよかった。


 *


 広場を出たあとも、二人は目的地を決めずに歩いた。


 商店街を抜けると、人通りが少し減る。


 住宅地へ向かう道の途中で、彩花は街路樹の葉が以前より色づいていることに気づいた。


「秋、進んだね」


「うん。先週より黄色い」


「川の方も、そろそろ変わってるかな」


 口にしてから、彩花は以前悠真を連れていった川沿いの道を思い出した。


 春は桜が咲く。


 夏は木陰ができる。


 そして秋には、葉が色づく。


 あのとき話した景色だ。


「見に行ってみる?」


 悠真が尋ねた。


 彩花は空を見上げた。


 まだ帰るには早い。


 ここからなら、それほど遠くもない。


「うん。行ってみようか」


 二人は住宅地側へ進路を変えた。


 以前は彩花が「自分の好きな場所を見せたい」と思って悠真を案内した道。


 今日は最初からそこへ行く予定ではなかった。


 たまたま歩いている途中で季節の変化に気づき、行ってみようと決めた。


 同じ場所へ向かっているのに、その始まり方が違う。


 川へ近づくにつれて、住宅の間から空が広く見えるようになった。


 堤防へ上がる道の先には、以前より黄色や橙色を増した木々が並んでいる。


「わあ……」


 彩花は思わず足を緩めた。


 まだ紅葉の盛りではない。


 緑の葉も多く残っている。


 けれど、その中へ少しずつ秋の色が混ざり始めていた。


「前に来たときと違うね」


「うん」


 二人は川沿いの道を並んで歩いた。


 水面には午後の薄い光が反射し、風が吹くたびに細かな波が広がっている。ランニングをする人や犬を連れた人とすれ違いながら、以前座った大きな木のそばのベンチへ向かった。


 幸い、誰も座っていない。


 二人は少し間を空けて腰を下ろした。


「まだ全部は色づいてないね」


「あと少しかな」


「でも、これくらいも好き」


 彩花は木々を見ながら言った。


「全部同じ色じゃないから?」


「うん。それもある」


 緑。


 黄色。


 少しだけ橙。


 一本の木の中でも、葉によって色が違う。


「変わってる途中って分かるから」


 悠真が隣で静かに聞いている。


「春の桜みたいに、一番きれいな時期を見たいって思うこともあるけど、途中もいいなって。まだこれから変わるんだって分かるし」


「じゃあ、今日来てよかったね」


「うん」


 彩花は頷いた。


 もし今日の行き先を前もって決めていたら、紅葉が一番きれいになる日を調べてから来たかもしれない。


 けれど、何も決めずに歩いたから、途中の景色を見ることができた。


 完成していないから悪いわけではない。


 今書いている小説と少し似ている気がした。


「原稿、どう?」


 悠真が尋ねた。


「最後まで一回書けたよ」


「本当?」


「うん。でも、まだ初稿って言えるほどじゃないかな。直したいところいっぱいあるし」


「でも、最後まで行ったんだ」


「昨日ね」


「おめでとう」


 その言葉が嬉しくて、彩花は少し笑った。


「ありがとう」


「どんな終わりになったかは、まだ聞かない方がいい?」


「うん。そこは読んでほしい」


「分かった」


 悠真はそれ以上聞かなかった。


 彩花も説明しなかった。


 話したいことを全部すぐ話さなくてもいい。


 今はまだ、自分の中で育てたいものがある。


 それを悠真が待ってくれると分かっているから、黙っていることにも不安がない。


「でも、一個だけ言っていい?」


「聞いていいやつなら」


「今日買ったノート見てて思ったんだけど、空いてるものって、前より好きになったかも」


「空いてるもの?」


「何を書くか決めてないノートとか、何を入れるか決めてない写真立てとか」


 悠真は少し考え、彩花の手にある文具店の紙袋へ目を向けた。


「決まってないから?」


「うん。前は、使い道がないならいらないって思ってた。でも、先に場所を作ってから考えてもいいんだなって」


「今日もそうだったね」


「今日?」


「何するか決めないで会った」


 彩花は瞬いたあと、笑った。


「本当だ」


「でも結構いろいろした」


「文具店行って、アップルパイ食べて、本の話して、ここまで来たね」


「十分だね」


「うん」


 十分どころか、彩花はかなり楽しかった。


 特別な催しがあったわけではない。


 遠くへ出かけたわけでもない。


 それでも、悠真と歩きながら見つけたものがいくつもある。


「また、こういうのしてもいいかも」


 彩花は木々を見たまま言った。


「予定決めないやつ?」


「うん。でも毎回だと困るかな。行きたいところある日はちゃんと決めたいし」


「じゃあ、たまに」


「たまにね」


 約束というほど大げさではない。


 次の日付も決めない。


 けれど、いつかまたできることの一つとして、二人の間に残った。


 風が吹き、頭上の葉が揺れた。


 一枚の黄色い葉が枝を離れ、少し離れた場所へ落ちていく。


 彩花はその行方を目で追った。


 隣には悠真がいる。


 以前と同じ川。


 同じベンチ。


 けれど、見えている景色は少し違う。


 季節が変わったからだけではないのだと思う。


 *


 帰り道、二人は駅へ向かって歩いた。


 日が傾き始め、建物の影が長くなっている。


「今日、誘ってくれてありがとう」


 悠真が言った。


 彩花は少しだけ照れながら、前を向いたまま答える。


「私も誘ってよかった」


「最初、本当に何も決めてなかったからちょっと心配だったけど」


「私も。駅で会ったとき、どうしようって思った」


「同じだったんだ」


「うん。でも、なんとかなったね」


「なんとかっていうか、普通に楽しかった」


「私も」


 その言葉を口にすることに、もう大きな勇気はいらなかった。


 悠真と過ごす時間が楽しい。


 それは、何度も積み重ねてきた事実だ。


 だからこそ、その先を急いで決める必要もない。


 駅前まで戻ったところで、二人は足を止めた。


「じゃあ、また学校で……は会わないか」


 彩花が言いかけて笑う。


「学校違うからね」


「たまに忘れる」


「俺も、彩花さんの学校の話聞いてると同じ学校みたいな気分になることある」


「文芸部の話しすぎかな」


「もっと聞きたいから減らさなくていいよ」


「じゃあ、生徒会の話もしてね」


「うん」


 それぞれが別の学校へ通い、別の友人と過ごし、別の時間を持っている。


 その時間を全部同じにする必要はない。


 会ったときに少しずつ持ち寄ればいい。


「次に会うまでには、原稿もう少し直しておく」


「無理しないでね」


「うん。悠真君もクッキー、焦らなくていいから」


「でも次は前より上手くしたい」


「それは楽しみにしてる」


「じゃあ、また連絡する」


「うん。またね、悠真君」


「またね、彩花さん」


 二人は改札の前で別れた。


 彩花は数歩進んでから、一度だけ振り返った。


 悠真も反対側へ歩き出していたが、ちょうど同じタイミングで振り返る。


 目が合った。


 どちらからともなく笑い、小さく手を振る。


 それから今度こそ、それぞれの帰る方向へ歩き出した。


 *


 その夜、彩花は今日買った青いノートを机の上へ置いた。


 深い青色の表紙には、小さな銀色の星が散っている。


 まだ使い道は決めていない。


 小説専用にしてもいいし、読んだ本の感想を書いてもいい。思いついた言葉だけを残すノートにしてもいい。


 しばらく考えたあと、彩花は最初のページを開いた。


 何を書くか決まっていないのなら、最初から用途を決める必要もない。


 今日覚えておきたいことを書けばいい。


 ペンを持ち、ゆっくり文字を記す。


『予定を決めないで会った日。』


 その下に、今日あったことを箇条書きにはせず、短い文章で残していく。


 昔からある文具店。


 青いノート。


 焼きたてのアップルパイ。


 家具修理職人の本について話したこと。


 まだ色づききっていない川沿いの木々。


 そして、何も決めていなかったのに、気づけば一日分の出来事が増えていたこと。


 書き終えてから、彩花はページの下に少し余白を残した。


 そこへ何かを追加するかもしれないし、このままかもしれない。


 それでも構わない。


 ノートを閉じようとしたところで、スマートフォンが震えた。


 悠真から写真が一枚届いている。


 写っていたのは、机の上に置かれた家具修理職人の連作短編集と、その横にある黒いボールペンだった。


『今日買ったやつ、書きやすい』


 彩花は笑いながら、自分も青いノートの写真を撮った。


『こっちも最初のページ使ったよ』


『何書いたの?』


 少し迷ってから、彩花は返す。


『今日のこと』


 しばらくして、返信が届いた。


『いいね』


 それだけだった。


 何を書いたのか、さらに詳しく聞かれることはなかった。


 彩花はスマートフォンを机へ置き、青いノートの表紙を指先で撫でた。


 最初のページには、今日という一日が入った。


 残りのページは、まだほとんど空いている。


 けれど、その白さを見ても、以前のように「何を書けばいいのだろう」とは思わなかった。


 これから見つければいい。


 誰かと過ごした日でも、自分一人で見つけたものでも、書きたいと思ったときに書けばいい。


 文芸部誌の物語も同じだ。


 写真立ての中身を決めなくても、物語は終われる。


 未来に置くものまで、今決める必要はない。


 彩花は青いノートを、書きかけの原稿の隣へ置いた。


 机の上には、完成へ近づいている物語と、始まったばかりの新しいノートが並んでいる。


 どちらにも、まだ余白がある。


 その余白を埋めなければならないとは、もう思わなかった。


 これから何が入るのか分からないからこそ、楽しみにしていられる。


 今日の午後が、そうだったように。

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