第68話 空っぽの場所に、置きたいもの
週が明けた月曜日、青葉高校の文芸部室には、窓の隙間から入り込む秋の風と、紙をめくる音が静かに混ざっていた。校庭では運動部の掛け声が続いているものの、窓を閉めれば遠くに聞こえる程度で、部員たちはそれぞれ冬季文芸部誌へ載せる作品に向き合っている。
冬休み前に発行する予定の部誌は、一人最大十二ページ。短編小説だけでなく、詩や随筆を載せてもよく、希望すれば複数作品を提出することもできる。ただし初稿は翌月半ばまでに一度提出しなければならないため、まだ余裕があるように見えて、のんびりしていればすぐに時間がなくなる。
水瀬彩花は窓際から二つ目の机に座り、これまで書いた原稿を最初から読み返していた。
手作りの写真立てを軸にした短編。
最初は、人から何かを受け取ることが少し苦手な男の子が、女の子から手作りの写真立てをもらうことで少しずつ変わっていく物語だった。しかし佐々木先輩から、女の子が男の子を変化させるためだけの存在になっていると指摘されてから、彩花は彼女自身についても考え直した。
女の子は、古い写真を見ることが好きだ。
幼い頃の家族や、今はもう姿を変えてしまった場所、昔一緒に暮らしていた犬。写真そのものを集めたいのではなく、変わってしまったものを、ときどき思い出すための場所として写真を大切にしている。
一方の男の子は、なくすことを恐れている。
大事にしたものがなくなるくらいなら、最初から大事なものを作らない方がいい。そんな考えを自覚しないまま持っている。
二人が出会い、女の子が空の写真立てを渡す。
そこへ今すぐ何かを入れる必要はない。
いつか入れたいものができたときに使えばいい。
その言葉を受け取った男の子は、すぐに考え方を変えるわけではない。ただ、写真立てを捨てることも引き出しへしまうこともせず、何も入れないまま机の上へ置いておく。
そして物語の終盤では、男の子自身が二つ目の写真立てを作る。
同じ頃、過去を残すことばかり考えていた女の子も、自分のために新しい写真立てを作る。
二人の写真立ては、どちらもまだ空だ。
そこまで書いた原稿を読み終え、彩花はシャープペンシルの先をノートの余白へ置いた。
(流れは、前より好きになった)
男の子だけが変わる物語ではなくなった。
女の子にも自分の過去があり、自分の考えがあり、男の子と関わることで少しだけ未来を見るようになる。
けれど、一つだけ気になっている。
最後の二つの写真立てだ。
どちらも空のまま終わらせること自体は気に入っている。それなのに、読み返すたびに「空」という言葉の意味が少し強すぎる気がした。
何も入っていない。
まだ決まっていない。
これから選べる。
その余白を表したいのに、文章の書き方によっては「まだ何も持っていない二人」に見えてしまう。
「難しい顔してるね、水瀬さん」
横から声を掛けられ、彩花は原稿から顔を上げた。
佐々木先輩が自分の原稿を片手に、少し離れたところからこちらを見ている。
「そんな顔してました?」
「眉間にちょっとだけ力入ってた」
指摘されて、彩花は無意識に眉間へ触れた。佐々木先輩が小さく笑いながら隣の席へ座ったため、彩花は読み返していた原稿を少し彼女の方へ寄せる。
「終わり方で迷ってます。二人とも空の写真立てを持って終わるのは決めたんですけど、空っぽっていうのが、寂しく見えないかなって」
「読んでもいい?」
「お願いします」
佐々木先輩は原稿を受け取り、終盤の数ページへ目を通し始めた。
彩花はその間、机の端に置いたノートへ視線を落とす。
昨日までなら、読まれている時間にもう少し緊張していたかもしれない。今も何も感じないわけではないけれど、「変だったらどうしよう」という怖さより、「どこが伝わって、どこが伝わらないだろう」という興味の方が強くなっている。
それも、自分の中では大きな変化だった。
「私は、そんなに寂しく感じないかな」
しばらくして、佐々木先輩が原稿を机へ戻した。
「本当ですか?」
「うん。ただ、水瀬さんが心配してる理由も分かる。最後に『空の写真立て』って何回か出てくるから、空であること自体が主題みたいに見えるんだと思う」
「……ああ」
言われた瞬間、彩花は自分の原稿を見直した。
確かに終盤だけでも、「空の写真立て」という表現を何度も使っている。
大切な意味だから繰り返していたつもりだったが、それによって別の印象が強くなっている。
「じゃあ、減らした方がいいですか?」
「減らすのも一つだけど、別のものを書いてもいいんじゃない?」
「別のもの?」
「写真立てが空でも、二人にはもう何もないわけじゃないでしょう?」
その言葉に、彩花の指が止まった。
「女の子には思い出があるし、男の子だって写真立てをもらった出来事がある。二人とも、最後の時点では最初と同じじゃない。だったら『中に写真がない』ことと、『何も持っていない』ことを分けて見せたらいいと思う」
「……なるほど」
「もちろん、私ならそう読むってだけだから。最後は水瀬さんが好きな方でいいよ」
佐々木先輩はそう付け加えて、自分の席へ戻っていった。
彩花はすぐには原稿を直さなかった。
代わりにノートを開き、中央へ小さく書く。
『写真はない。でも、何もないわけではない。』
その文章をしばらく眺めた。
(写真立てに入ってなくても、大切なものはある)
男の子がもらった最初の写真立て。
女の子がそこへ込めた考え。
男の子が自分で作った二つ目。
女の子が新しく作った自分用のもの。
二人が同じものを持っている必要もないし、同じ写真を入れる必要もない。
ただ、以前なら置こうと思わなかった「場所」を、自分から用意するようになった。
それだけで十分なのかもしれない。
彩花は原稿の最後の数段落へ、ゆっくりと手を入れ始めた。
*
同じ日の放課後、桜華学園の図書室では、悠真が一冊の本を開いていた。
青凪市立中央図書館から借りた、家具修理職人を中心にした連作短編集。
彩花が読み終えたばかりの本で、「悠真君が好きそう」と言って教えてくれたものだ。
土曜日に借りてから少しずつ読み進め、すでに半分を越えている。
最初の話では、長く使われてきた食卓椅子が修理に持ち込まれる。
持ち主は新品同様にしてほしいと言うが、職人は傷をすべて消していいのか確認する。椅子の背には子どもの頃につけた小さな傷があり、脚の内側には引っ越しのときについた欠けがある。
結局、持ち主は傷の一部を残すことを選ぶ。
二つ目の話では、古い学習机が持ち込まれる。
依頼人は処分するつもりだったが、引き出しの裏側から、幼い頃に書いた落書きを見つける。机を残すかどうかは最後まで明言されず、職人が引き出しだけを丁寧に外す場面で物語が終わる。
悠真はそこで一度、本から目を上げた。
(彩花さん、たぶんここも好きだっただろうな)
何を残して、何を直すのか。
完成した家具が美しいかどうかではなく、そこに残された時間をどう扱うのかが描かれている。
時計店の連作短編集とは似ている部分もあるが、こちらの職人は依頼人へよく質問する。勝手に傷を消さず、だからといって何でも残すわけでもない。
使い続けるために必要なら、思い出のある部分でも手を入れる。
その判断が面白かった。
「兄さん、まだ学校にいたの?」
図書室の入口から聞こえた声に顔を上げると、琴葉が鞄を肩に掛けたまま立っていた。
「琴葉こそ」
「玲奈と話してたら遅くなったの。生徒会室にいなかったから、もう帰ったと思ってた」
「今日は仕事が早く終わったから、少し読んでから帰ろうと思って」
琴葉は向かいの椅子へ座り、悠真の手元を覗き込んだ。
「それ、中央図書館の本?」
「うん」
「珍しいね。家にも読む本いっぱいあるのに」
「彩花さんが教えてくれた」
「ああ、なるほど」
琴葉の納得が早すぎて、悠真は少し眉を上げた。
「何、その反応」
「別に。兄さんが中央図書館で本を借りる理由としては十分だなって思っただけ」
「本が面白そうだったから借りたんだけど」
「それも含めて言ってるよ」
琴葉は笑いながら椅子の背へ軽く身体を預けた。
以前なら、ここからもう少し兄をからかったかもしれない。しかし最近の悠真は、彩花の名前が出たからといって必要以上に理由を探したり、妙に否定したりしなくなった。
それなら琴葉がわざわざ騒ぐ必要もない。
「面白い?」
「面白い。彩花さんが俺に合いそうって思った理由も、だいたい分かった」
「へえ。どういう理由?」
「直した結果より、何を残すか決めるところかな。持ち主と職人が相談するんだよ。傷を全部消せばきれいにはなるけど、それがその人にとって一番いいとは限らないから」
琴葉は兄の説明を聞きながら、本の表紙へ視線を落とした。
「そういうの、兄さん好きそう」
「琴葉もそう思う?」
「うん。兄さん、昔から『全部新しくすればいい』っていうタイプじゃないし」
「そうかな」
「秘密基地の入口は勝手に新しくしたけどね」
予想していなかった昔話を持ち出され、悠真は思わず苦笑した。
「それ、最近彩花さんにも話した」
「なんでそんな恥ずかしい話してるの?」
「好きだった本の話から、昔の兄妹の話になった」
「よりによって入口改造事件?」
「事件にしないで」
琴葉は声を抑えながら笑った。
図書室には他の生徒もいるため大声にはできないものの、肩が小さく揺れている。
「彩花さん、何て?」
「琴葉の方が正しいって」
「さすが彩花ちゃん」
「即答だったよ」
「当然でしょ。秘密基地なのに、兄さんが『出入りしやすいようにした』とか言って入口広げたんだから。秘密じゃなくなるじゃん」
「小学生なりに改善したつもりだったんだよ」
「その頃から変なところ真面目だったんだね」
琴葉は満足そうに笑ったあと、ふと兄の手元へ目を戻した。
「でも、彩花ちゃんが兄さんの好きそうな本見つけたんだ」
「うん。読んでる途中で思ったって」
「そっか」
それだけ言うと、琴葉は立ち上がった。
兄が嬉しそうにしていることには気づいている。
けれど、それをわざわざ指摘する必要はない。
悠真自身が、その嬉しさをもう普通に受け取っているからだ。
「私、先に帰るね。あんまり遅くならないでよ」
「分かってる」
「お母さんに連絡だけしておいて」
「したよ」
「なら大丈夫。じゃあね」
「うん。また家で」
琴葉が図書室を出ていく。
悠真は再び本へ目を落としたものの、すぐには続きを読むことができなかった。
彩花が、自分の好きそうな本だと思った。
その事実を思い返す。
自分も、本を読んでいるときに彩花を思い出すことがある。登場人物の考え方や、文章の雰囲気、表紙の色、あるいは本とは関係のない小さな場面でも、「彩花さんならどう思うだろう」と考える。
以前なら、そのたびに理由を探していた。
今は探さない。
(俺も彩花さんのこと、思い出すからな)
それだけ分かっていれば十分だった。
悠真は栞を挟んでいた場所から、続きを読み始めた。
*
火曜日の昼休み、彩花は青葉高校の図書室にいた。
借りたい本があったわけではない。文芸部誌の原稿を少し進めたくて、教室より静かな場所を選んだだけだった。
窓際の席へ座り、昨日修正した終盤を読み返す。
空の写真立てという表現は必要なところだけ残し、その代わり、二人がすでに持っているものを少しずつ文章へ加えた。
男の子は、最初にもらった写真立ての裏側に、小さな傷を見つける。
女の子が作るときにつけてしまったものだ。
以前の男の子なら、失敗した跡だと思ったかもしれない。
しかし今は、それを直そうとはしない。
女の子の方も、自分用に作った写真立てを完璧には仕上げられない。角が少しだけずれている。それでも作り直さず、そのまま机へ置く。
そこまで書いたところで、彩花は手を止めた。
(……ちょっと、近すぎるかな)
思い浮かんだのは、悠真が初めて一人で焼いた三枚の紅茶クッキーだった。
きれいな形の一枚。
少し厚みのある一枚。
わずかに形の崩れた一枚。
駅近くで受け取ったあの日、彩花は三枚とも食べた。
少し固さはあったけれど、紅茶の香りはきちんと残っていて、美味しかった。何より、悠真が「もっと上手にできたもの」ではなく、初めて一人で作ったその三枚を取っておいてくれたことが嬉しかった。
しかし、その経験をそのまま物語へ移すつもりはない。
クッキーを写真立てへ変えただけでは、結局は自分たちの出来事をなぞっていることになる。
彩花は書いたばかりの「小さな傷」の部分に薄く線を引いた。
(失敗の跡を大切にする話じゃないんだよね)
この物語で書きたいのは、上手くできなかったものにも価値があるということだけではない。
受け取ること。
残すこと。
未来のために場所を作ること。
そして、自分では大したことではないと思っていたものが、誰かとの関わりによって違って見えること。
彩花はノートの端へ、改めて言葉を書き出した。
『不完全だから残す、ではない。』
『誰かが作った跡だから残す、だけでもない。』
『これから使うために、過去を全部消さなくてもいい。』
最後の一文を書いたところで、手が止まった。
「……あ」
小さく漏れた声に自分で気づき、彩花は周囲を確認した。
近くには数人の生徒がいるが、誰もこちらを見ていない。
少し安心してから、もう一度その文章を見る。
これから使うために、過去を全部消さなくてもいい。
それなら、写真立てに傷を残す必要はない。
女の子が以前使っていた古い写真立ての一部を、新しいものへ使えばいい。
たとえば背面を支える小さな金具。
あるいは飾りの一部。
過去をそのまま保存するのではなく、古いものから一部分だけを新しいものへ移す。
男の子の写真立てとは違う形になる。
それなら、女の子自身の変化として書ける。
彩花はすぐに線を引いた部分の下へ、新しい案を書き始めた。
女の子は、古くなって壊れた写真立てを一つ持っている。
祖父母の家の写真を長く飾っていたものだ。
これまでは壊れていても捨てられず、そのまま引き出しへしまっていた。
物語の終盤で、彼女はそこから小さな飾りだけを外し、新しく作った写真立てへ付ける。
古い写真立てそのものは手放す。
思い出を捨てるのではない。
形を変えて持っていく。
(これなら、この子自身の話になる)
男の子は、これから何かを置くために新しい写真立てを作る。
女の子は、過去から一つだけ持っていきながら、新しい写真立てを作る。
二人の変化は同じではない。
だからこそ、並べたときに意味がある。
彩花は一気に書き進めたい気持ちを抑え、まず構成をノートへ整理した。
昼休みは長くない。
焦って本文へ入るより、放課後に迷わないよう道筋を残しておく方がいい。
チャイムが鳴る少し前、彩花は満足してノートを閉じた。
*
その日の夕方。
青葉高校から青凪駅へ向かう道を歩きながら、彩花はスマートフォンを取り出した。
悠真へ原稿の内容を全部話すつもりはない。
完成したものを読んでもらいたいから、核心は残しておきたい。
それでも、今日見つけたことを少しだけ誰かに話したかった。
『昨日悩んでたところ、たぶん決まった』
送信してから数分。
駅前の信号で待っていると、返信が届いた。
『写真立ての話?』
『うん。最後のところ』
『聞いていいやつ?』
その聞き方に、彩花は少し笑った。
悠真は以前なら「どうなったの?」と聞いたかもしれない。
今は、完成するまで彩花が見せたくない部分があることを分かっている。
『半分なら』
『じゃあ半分だけ聞く』
『女の子の方の終わり方が決まった』
『前に言ってた、男の子だけじゃなくて女の子も変わるところ?』
『そう。それがやっと自分で納得できた』
信号が青へ変わる。
彩花はスマートフォンを鞄へしまい、横断歩道を渡ってから再び取り出した。
悠真から返事が届いていた。
『よかった。じゃあ残り半分は完成してから読む』
彩花は歩きながらではなく、駅前広場の端へ寄って足を止めた。
『うん。そこは読んでほしい』
送る。
すぐに既読がついた。
『楽しみにしてる』
その言葉を見て、彩花は画面を閉じようとした。
しかし、その直前にもう一通届いた。
『俺の方も、家具修理の本かなり読んだ』
『もう?』
『あと二つ』
『早いよ』
『彩花さんが俺に合うと思った理由を考えながら読んでるから、止まらなくなった』
彩花は思わず口元を緩めた。
『理由、分かった?』
『たぶん。でもまだ言わない』
『この前もそれ言ってた』
『最後まで読んで外れてたら恥ずかしいから』
『外れてても別にいいのに』
『彩花さんがどう思ったかも聞きたいから、先に決めつけたくない』
その文章を読み、彩花は少しだけ目を細めた。
自分が何を考えたのかを、悠真が知りたがっている。
答え合わせをしたいのではなく、違っていても聞きたいのだろう。
それは本について話すとき、いつも二人がしてきたことだった。
『じゃあ、読み終わったら話そう』
『うん』
そこで会話を終えてもよかった。
けれど彩花は、ふと昨日書いた文章を思い出した。
写真はなくても、何もないわけではない。
空いている場所は、欠けている場所とは限らない。
それと同じように、予定が決まっていない時間も、何もない時間ではないのかもしれない。
第64話で、二人はすでに確認している。
クッキーを渡すためでも、本を交換するためでもなく、何も理由がなくても会っていい。
あのときは、その言葉を受け取るだけで少し照れた。
今も照れないわけではない。
それでも、言葉だけで終わらせるより、自分から使ってみたいと思った。
彩花は新しいメッセージを打った。
『悠真君、今度の土曜日って予定ある?』
送ったあと、胸が少しだけ速くなる。
これまでにも彩花から誘ったことはある。
それでも今回は、本を返すためでも、見せたい場所へ案内するためでもない。
明確な用事がない。
数十秒後、返信が来た。
『午後なら空いてるよ』
続けて、もう一通。
『どうしたの?』
彩花は画面の文字を見つめた。
理由を探せば、いくらでも作れる。
家具修理の本について話したい。
文芸部誌のことを少し相談したい。
図書館へ行きたい。
けれど、それらは全部、会ったときにすることではあっても、誘った理由そのものではなかった。
(この前、言ったもんね)
何もなくてもいい。
自分もそう答えた。
なら、その言葉を自分から信じてみてもいい。
『特に用事はないんだけど、会わない?』
送信した直後、彩花は自分で書いた文章を見て頬が熱くなるのを感じた。
あまりにもそのままだ。
もう少し言い方があった気もする。
しかし、送ったものは戻せない。
既読がつく。
返信を待つ数十秒が、普段より長く感じた。
『会う』
最初に届いたのは、それだけだった。
その短さに、彩花は一瞬だけ目を丸くした。
すぐに次のメッセージが届く。
『ごめん、先に返事した』
彩花は堪えきれず笑った。
『早かったね』
『嬉しかったから』
その一文で、今度は笑うだけでは済まなくなった。
頬だけでなく、耳のあたりまで熱くなる。
駅前を行き交う人たちは誰も彩花を気にしていない。それなのに、なぜか画面を少し胸元へ寄せて隠したくなった。
(悠真君、こういうところ本当に……)
続きの言葉が見つからない。
困る。
でも、嫌ではない。
むしろ、自分から誘ってよかったと思っている。
『じゃあ土曜日の午後』
『うん。場所どうする?』
彩花はそこで考えた。
中央図書館でもいい。
駅前でもいい。
けれど、用事がないのなら、最初から場所まで目的に合わせる必要もない気がした。
『駅で会ってから決める?』
『それいいね』
『じゃあ、そうしよう』
待ち合わせの時間だけを決める。
何をするかは決めない。
どこへ行くかも、そのとき決める。
これまでの二人には、いつも何かがあった。
本を探す。
本を貸す。
文化祭へ行く。
学校を案内する。
家へ招く。
クッキーを作る。
それらはどれも大切な時間だった。
けれど今度は、最初から目的を決めない。
ただ会って、それから考える。
彩花はスマートフォンを鞄へしまい、駅の改札へ向かった。
胸の奥にはまだ、少しだけ落ち着かない感覚が残っている。
それでも足取りは軽かった。
*
九条家では、悠真が自室の机に座ったまま、彩花とのメッセージ画面をもう一度見ていた。
『特に用事はないんだけど、会わない?』
そこだけを読み返す。
何度見ても文章は変わらない。
彩花から、理由なしで誘われた。
(嬉しいな)
以前なら、その嬉しさを分析したかもしれない。
どうして用事がないのに会いたいと思うのか。
なぜ彩花から誘われると、他の予定を確認するより先に「会う」と返してしまったのか。
今は、それを考える必要を感じなかった。
彩花が会いたいと思ってくれた。
自分も会いたい。
それだけで土曜日の予定は決まった。
机の上には、家具修理職人の短編集が置いてある。
その隣の引き出しには、彩花からもらった紅茶クッキーの手書きレシピがしまってある。最初に一人で焼いたときには少し固くなったものの、彩花は三枚とも食べ、失敗ではないときちんと感想をくれた。
次に焼くときは、もう少し柔らかく仕上げたい。
けれど、土曜日に作って持っていこうとは思わなかった。
今回は、何かを用意するために会うのではない。
もちろん、途中で何かしたくなればすればいい。
本屋へ行ってもいいし、図書館へ寄ってもいい。どこかで飲み物を買って話してもいい。
何も決めずに会う。
それが、今は少し楽しみだった。
悠真はスマートフォンを伏せ、家具修理職人の短編集を開いた。
残りは二編。
土曜日までには間違いなく読み終わる。
けれど、読み終わったから会うわけではない。
本の感想は、会ったときに話せることの一つにすぎない。
その違いを自分でも自然に受け入れられることが、なんとなく嬉しかった。
*
その夜、彩花は文芸部誌の原稿へ最後の数行を書き足した。
女の子は、古い写真立てから外した小さな飾りを、新しく作ったものの隅へ取り付ける。
そこに写真はまだ入っていない。
男の子の机に置かれた写真立ても空のままだ。
それでも二人は、何も持っていないわけではない。
男の子には、これから何かを大切にしてもいいと思えた時間がある。
女の子には、過去を全部同じ形で残さなくても、大切だったことまで消えるわけではないと知った時間がある。
二つの写真立てに何が入るのかは、書かない。
未来のことだから。
彩花は最後まで書いたところで、すぐに「完成」とは書かなかった。
明日もう一度読み返せば、直したいところが見つかるだろう。佐々木先輩にも読んでもらいたいし、初稿の提出までにはまだ時間がある。
それでも、物語の形はできた。
ノートの端へ、小さく印をつける。
『終幕まで到達。要推敲。』
その下へ、今日決まった土曜日の予定を書こうとして、彩花は一度手を止めた。
これまでなら、「中央図書館」「本の返却」「クッキー」など、会う目的まで一緒に書いていた。
今回は何もない。
だから、ただ一行だけ書いた。
『土曜日午後 悠真君と会う。』
それだけで十分だった。
彩花はノートを閉じ、ベッドへ入る前に机の上を片づけた。
書き終えたばかりの物語の中には、まだ写真の入っていない二つの場所がある。
そして数日後の自分にも、まだ何をするか決まっていない午後が待っている。
空いているから寂しいのではない。
決まっていないから不安なのでもない。
これから何を置くのか、自分で選べる。
今の彩花には、その余白が少し楽しみだった。




