第67話 読み終えたから、話したい
土曜日の午前、青凪市立中央図書館の大きな窓から差し込む光は、夏の頃よりもずいぶん柔らかくなっていた。空はよく晴れているものの、ガラス越しに見える街路樹には黄色く色づいた葉が混じり、入口が開くたびに入り込む空気にも秋らしい冷たさがある。
水瀬彩花は貸出カウンターから少し離れたところで、鞄の中を確かめていた。
入っているのは、自分のノートと筆箱、それから借りていた本が二冊。そのうち一冊は、先日ここで借りた家具修理職人を中心にした連作短編集で、もう一冊は刺繍を通して祖母と孫の関係を描いた小説だった。
そして、それらとは別に、丁寧にブックカバーを掛けた一冊がある。
悠真から借りていた、古い時計店を舞台にした連作短編集だ。
最後に残っていた二つの物語を昨夜読み終えた。
読み終わってすぐ、感想をメッセージで送ろうかと思った。しかし、いくつか言いたいことを打ち込んだところで、彩花は全部消してしまった。
文章にできなかったわけではない。
むしろ、文章だけでは足りないと思った。
(悠真君がどの話を一番好きなのかも、ちゃんと聞きたいし)
彼が中学生の頃に初めて読んだときと、最近読み返したときでは、一番好きな物語が変わったと聞いている。その理由も含めて、まだ詳しく聞いていなかった。
彩花は本の背を指先でそっと確かめてから、鞄を閉じた。
「彩花さん」
聞き慣れた声に顔を上げる。
入口から入ってきた九条悠真が、こちらへ歩いてくるところだった。制服ではなく、濃い色の薄手の上着に落ち着いた色合いのシャツを合わせている。以前なら学校以外で見る服装だけでも少し緊張したものだが、今ではその姿を見つけた瞬間に感じるのは、もっと単純な安心感だった。
「悠真君、おはよう」
「おはよう。待った?」
「ううん。私も今来たところ」
そう答えてから、彩花は時計へ目を向けた。
約束の時間より数分早い。
悠真も同じ時計を見たらしく、少し笑った。
「今日は勝負しないよ」
「私もするつもりなかったよ」
「よかった。この前、二分負けたからちょっと警戒した」
「まだ気にしてたの?」
「負けたことは覚えてる」
以前、どちらが先に着くかなどと決めていたわけでもないのに、結果的に彩花が二分だけ早かったことがある。あのときは悠真が駅から少し急いでいたと知って笑ってしまったが、それをまた本気で競争にするつもりはないらしい。
彩花も笑いながら、鞄の持ち手を握り直した。
「今日は本の話をしに来たんだから、着く時間で疲れたら意味ないよ」
「それはそうだね。読み終わった?」
「うん。昨日」
「俺も、彩花さんから借りた方、もう一回読み返したかったところまで読んだ」
悠真から返ってきた答えに、彩花は少し目を見開いた。
「読み返したの?」
「全部じゃないよ。気になったところだけ。最初に読んだときと、最後まで読んでから戻ったときで、ちょっと印象が変わったところがあったから」
「それ、あとで聞きたい」
「俺も時計屋の方の感想聞きたい」
どちらからともなく歩き出し、二人は閲覧席のある奥へ向かった。
ここで初めて出会った頃なら、並んで歩くだけでも何を話せばいいのか探していた。今は、まだ席に着いてすらいないのに話したいことがいくつも浮かんでいる。
それでも急いで全部を口にする必要はない。
本は逃げないし、相手も隣にいる。
*
二人が選んだのは、一般書の棚から少し離れた窓際の閲覧席だった。
向かい合わせではなく、少し角度をつけて座れる二人用の小さな机で、声を抑えて話すなら周囲の邪魔になりにくい。近くには何人か本を読んでいる利用者がいるため、二人とも自然と声を落とした。
彩花は鞄から時計店の連作短編集を取り出し、悠真の前へ置いた。
「ありがとう。面白かった」
「こちらこそ。最後の二つ、どうだった?」
「その前に聞きたい。悠真君が今一番好きなの、どの話?」
悠真はすぐには答えず、戻ってきた本の表紙を見た。
「今なら、五つ目かな。時計を直しに来る会社員の話」
「やっぱり」
「分かった?」
「ちょっとだけ。前に、好きな話が変わったって聞いたときから、もしかしたらって思ってた」
その物語は、仕事に追われている会社員の男性が、亡くなった父親から譲られた腕時計を修理に持ち込む話だった。
腕時計そのものは高価ではない。男性も若い頃には古臭いと思い、長い間引き出しへしまっていた。しかし父親が亡くなって数年が経ったある日、偶然見つけた時計を動かしてみようと思う。
時計店の店主は、修理を頼まれても、その時計にどんな思い出があるのか無理に聞こうとはしない。ただ淡々と状態を確認し、直せるところと直せないところを説明する。
修理を終えた時計は、完全には元通りにならない。
小さな傷も残り、文字盤の色褪せも消えない。
それでも針は再び動き始める。
「悠真君、前に言ってたよね。行動で気持ちが見える場面が好きだって」
「うん」
「この話も、主人公が最後まで『父親のことが大切だった』ってほとんど言わないから。だから好きなのかなって思った」
彩花がそう言うと、悠真は少し考えてから頷いた。
「それもある。でも、今好きなのは別のところかも」
「別?」
「直したあと、毎日つけるようになるわけじゃないところ」
彩花は記憶の中から終盤の文章を思い出した。
修理した腕時計を受け取った男性は、その場では腕につける。しかし翌日の仕事には、以前から使っていた別の時計をつけていく。
父親の時計は、自宅の机の上に置かれる。
「毎日使わないからって、大事じゃないわけじゃないでしょう?」
「うん」
「昔読んだときは、そこがよく分からなかった。せっかく直したなら使えばいいのにって思ってたんだよね。でも今読むと、持ってることと、毎日使うことって別なんだなって思う」
悠真は声を抑えながらも、いつもより少しゆっくり話していた。
「大切だからって、いつも近くに置かなきゃいけないわけじゃないし、何か特別な使い方をしなくてもいい。ちゃんとそこにあるって分かってれば、それでいいものもあるんだなって」
彩花は本の表紙へ視線を落とした。
同じ話を読んでいるのに、自分が一番強く覚えていたところとは違う。
けれど、その違いが面白い。
「私は、店主が傷を消さなかったところが好きだった」
「そこ?」
「うん。直そうと思えば、見た目ももっときれいにできたんだよね。でも主人公が『傷は残してください』って言って、店主も理由を聞かなかったでしょう?」
「言われた通りにするだけなんだよね」
「たぶん、傷にも主人公が知らない時間があるんだと思う。お父さんがどこでつけた傷なのか分からないけど、それも含めて残したかったのかなって」
悠真は数秒、彩花を見ていた。
「彩花さんらしい」
「え?」
「どう直したかの方を見るんだなって」
言われた意味が分かるまで少し時間がかかり、彩花は先日の会話を思い出した。
人が作ったものを見るとき、上手いかどうかより、その人がどう作ったのかを知ろうとする。
悠真が見つけてくれた、自分でもあまり意識していなかった部分だ。
「……本でもそうなのかな」
「たぶん。俺は『直したあとどうしたか』を見てて、彩花さんは『どう直したか』を見てる」
「ほんとだ」
二人は同じ本を間に置いたまま、顔を見合わせて笑った。
どちらが正しいわけでもない。
同じ物語の違う場所に目が止まる。それを聞くと、自分一人で読んだときには見えなかったものが増えていく。
以前にも感じたことだったが、何度経験しても飽きることはなかった。
「じゃあ、昔はどの話が一番好きだったの?」
彩花が尋ねると、悠真は本を開いて目次を指した。
「二つ目。中学生の兄妹が壊れた目覚まし時計を持ってくる話」
「ああ、あれ」
「単純に兄妹のやり取りが面白かったのもある。琴葉と年が近いから、ちょっと分かるなって思ってた」
その話では、兄と妹がどちらのせいで時計が壊れたのかを最後まで言い争っている。ところが店主が分解すると、故障は二人の扱い方とは関係のない経年劣化だったと分かる。
謝る理由がなくなった二人は、それでも帰り際になると、互いに飲み物を買ってやるという妙な形で仲直りする。
「悠真君と琴葉ちゃんも、ああいう喧嘩した?」
「もう少し静かだったと思う」
「本当に?」
「……たぶん」
「今、ちょっと自信なくなったね」
彩花が笑うと、悠真も困ったように笑った。
「小さい頃はしたよ。庭の秘密基地の場所で揉めたり」
「それ、聞いた。琴葉ちゃんと作ってたんだよね」
「うん。俺が勝手に入口を変えて、琴葉が怒ったことがある」
「それは悠真君が悪そう」
「今ならそう思う。当時は改善したつもりだった」
真面目な顔で言うものだから、彩花は声を出しすぎないよう口元を手で押さえた。
「秘密基地に改善って言葉使う小学生、あんまりいないと思う」
「もっと入りやすくしたかったんだよ」
「琴葉ちゃんは?」
「隠れにくくなったって怒った」
「じゃあ、やっぱり琴葉ちゃんの方が正しいんじゃない?」
「今は認める」
悠真は少し悔しそうに言いながら本を閉じた。
その表情を見ていると、彩花の頭の中に幼い兄妹が庭で言い争う姿が浮かんでくる。実際に見たことはないのに、九条家の庭を知っているからか、以前よりずっと想像しやすい。
また一つ、知らなかった悠真を知った。
それが嬉しかった。
*
時計店の短編集についてしばらく話したあと、今度は悠真が鞄から一冊の本を取り出した。
彩花が貸していた、高校生の主人公と祖母から残された手紙を描いた小説だ。
「ありがとう。こっちも返す」
「もう読み返したかったところも大丈夫?」
「うん」
受け取った本は、貸したときとほとんど変わらない状態だった。悠真が本を丁寧に扱うことは分かっているので心配していたわけではないが、自分の本が戻ってくる感覚にはやはり少し嬉しさがある。
彩花は表紙を撫でてから、自分の手元へ置いた。
「どこを読み返したの?」
「最後の方にある、おばあちゃんの手紙」
「『あなたが選んだものを、いつか教えてください』ってところ?」
「そこもだけど、その少し前」
悠真がページを開き、文章を直接示す代わりに場面を説明した。
主人公は進路を決められず、周囲から何度も「何になりたいのか」と聞かれる。けれど本人には明確な答えがない。
祖母の手紙には、答えを急がなくてもいいという趣旨の言葉が書かれている。ただし、何もしなくていいとは書かれていない。
迷うなら、迷いながら見に行けばいい。
選べないなら、選べるだけのものを知ればいい。
それでも決められないなら、今の自分が選ばなかったものを覚えておけばいい。
「最初に読んだときは、主人公への励ましだと思った」
「私も最初はそうだったよ」
「でも最後まで読むと、おばあちゃん自身も、たぶん同じことしてたんだなって思ったんだよね」
悠真はページから視線を上げた。
「手紙を書いてる側が、全部分かってる人じゃない」
「うん」
「自分も迷って、選ばなかったものがあって、その上で書いてる。だから読み返したら、最初より好きになった」
彩花は静かに頷いた。
その小説を悠真へ貸したのは、自分が今好きな本として選んだからだった。
祖母の言葉が正解を与えるのではなく、主人公自身が選ぶための余白を残してくれるところが好きだった。
けれど悠真は、その祖母の方にも目を向けている。
「悠真君って、前より登場人物を広く見るようになった?」
「前より?」
「時計屋さんの本でもそうだけど、一人だけじゃなくて、その周りにいる人がどうだったか見ること増えたのかなって」
悠真はすぐに答えず、少しだけ考えた。
「そうかもしれない。前は主人公がどうしたかを追うことが多かった気がする」
「何か変わった理由ある?」
「……彩花さんと本の話するようになったからかな」
あまりに自然な調子で言われたため、彩花は一拍遅れて瞬いた。
「私?」
「彩花さん、脇にいる人のことも結構話すでしょう。主人公がこうしたって話より、この人がこのときどう思ったのかなって」
「そうかな」
「するよ。だから俺も読むときに見るようになったのかも」
悠真は特別な告白をしているつもりなどないのだろう。
ただ、自分の読み方が少し変わった理由を考え、その中に彩花がいたから口にしただけだ。
それでも彩花の胸の奥には、じんわりとした熱が広がった。
(私も、悠真君と話すようになって変わったところがある)
自分では気づかなかった見方を教えてもらったことがある。物語だけではなく、自分自身についてもそうだった。
誰かと関わることで変わることは、元の自分を失うことではない。
むしろ、自分一人では見つけられなかった部分が増えていくのかもしれない。
「じゃあ、お互い少しずつ影響されてるのかな」
彩花がそう言うと、悠真は嬉しそうに目元を緩めた。
「それ、いいね」
「でも全部同じになったら、本の感想つまらなくなるよ」
「それは困る。違うところは残しておこう」
「残そうとして残すものでもないと思うけど」
「じゃあ、勝手に残るのに任せる」
少しおかしな結論になり、二人は声を抑えて笑った。
*
本の話が一段落したところで、彩花は鞄の中にある別の本を思い出した。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「悠真君が好きそうだと思った本がある」
取り出したのは、中央図書館で借りていた家具修理職人の連作短編集だった。
悠真が表紙を見る。
「家具修理?」
「うん。古い椅子とか机とか棚を直す職人さんのところに、いろんな人が来る話。まだ図書館の本だから貸せないけど、昨日読み終わったの」
「面白かった?」
「私は好きだった。直すっていっても新品みたいにするんじゃなくて、残す傷と直す傷を持ち主と相談するの。時計屋さんの話が好きなら、悠真君も好きかもしれないって途中で思った」
悠真は表紙に書かれたタイトルを確認し、スマートフォンを取り出してメモした。
「借りてみる」
「もし今貸出中になったら、私が返した直後だから犯人は私です」
「犯人って言うほど悪いことしてないでしょう」
「でも悠真君が借りようとしてなかったら、私のせい」
「その場合は予約するから大丈夫」
悠真はそう言ってから、もう一度本へ目を向けた。
「読んでる途中で俺が好きそうって思ったの?」
「うん。最初の話を読んだとき」
「そっか」
それだけ答えた悠真の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
彩花はその変化に気づいたものの、何も言わなかった。
自分も似たようなことがある。
本屋で題名を見たとき、図書館で棚を眺めているとき、あるいは何かを食べたときに、ふと悠真を思い出す。
それはもう珍しいことではなくなっている。
だからこそ、悠真も同じように受け取ってくれたなら嬉しい。
「もう一冊は?」
悠真が鞄から少し覗いていた本に気づいた。
「刺繍の話。おばあちゃんと孫の女の子が、途中になってた刺繍を一緒に完成させる小説」
「それも彩花さんっぽい」
「まだ途中だよ。だから面白いかはこれから」
「読み終わったら教えて」
「うん。でも、悠真君が好きそうだったらね」
「好きじゃなさそうなら?」
「感想だけ話す」
「それも聞きたい」
彩花は少し笑った。
本を貸すことだけが、本を共有する方法ではない。
自分が読んだものについて話すだけでもいいし、相手が読まない本だからこそ伝えられることもある。
初めの頃は、同じ本を読むことが二人の会話を増やしてくれた。
今では、それだけではなくなっている。
それぞれが別の場所で読んだ本も、別々に過ごした時間も、会えば自然と話題になる。
*
昼が近づくにつれて、図書館を訪れる人が少し増えてきた。
二人は長く席を占有しすぎないよう立ち上がり、返却する本を持ってカウンターへ向かった。彩花は家具修理の短編集を返却し、悠真はその場で検索端末を確認する。
「もう借りられるみたい」
「早いね」
「今返したからね」
「本当にそのまま借りるの?」
「彩花さんが俺に合いそうって言ったんだから、気になる」
悠真は迷う様子もなく棚の場所を確認し、二人で一般書の一角へ向かった。
つい数分前まで彩花の鞄に入っていた本が棚へ戻り、今度は悠真の手に渡る。
その流れがなんとなく面白くて、彩花は彼が本を取るところを隣で見ていた。
「これだね」
「うん」
「借りる」
「感想、合わなくても怒らないでね」
「怒らないよ。それに、合わなかったら合わなかったで話せるでしょう?」
その言葉に、彩花は素直に頷いた。
「そうだね」
同じ感想でなくてもいい。
同じものを好きにならなくてもいい。
けれど、相手が何を感じたのかは知りたい。
その関係が、彩花は好きだった。
悠真が貸出手続きをしている間、彩花は少し離れた新着図書の棚を眺めた。背表紙を追っていると、一冊のタイトルが目に入り、手を伸ばしかける。
けれど、その直前で別のことを思い出した。
文芸部誌の原稿だ。
読みたい本はいくらでもあるが、今は自分で書きたい話もある。
(今日は借りすぎない方がいいかな)
以前なら、読みたい本を見つければ迷わず借りていたかもしれない。
けれど今は、本を読む時間と同じくらい、書く時間も欲しい。
彩花は伸ばしかけた手を戻した。
「借りないの?」
手続きを終えた悠真が戻ってきた。
「うん。気になったけど、今日はやめとく」
「珍しいね」
「今、書きたい方が強いから」
そう言った自分の声を聞いて、彩花自身が少し驚いた。
悠真も同じように目を瞬いたあと、すぐに笑った。
「そっか」
「何?」
「いや、いいなと思って」
「何が?」
「彩花さんが、読みたい本より書きたい話を選ぶくらい書くの好きになってるの」
言われて初めて、その変化が自分だけの感覚ではなかったことに気づいた。
彩花は棚に並んだ本へもう一度目を向け、それから自分の鞄に入っているノートを思った。
「……うん。好きになったみたい」
今度は迷わず言えた。
書くことが好きだ。
まだ上手だとは思わないし、思うように書けなくて何十分も同じ文章を眺めることもある。それでも、登場人物のことを考え、言葉を選び、昨日まで存在しなかったものを少しずつ形にしていく時間が楽しい。
その気持ちを認めることに、以前のようなためらいはなかった。
「完成したら、最初に誰に見せるの?」
悠真が尋ねた。
彩花は少し考える。
「文芸部だから、たぶん佐々木先輩かな。原稿として確認してもらうし」
「ああ、そっか」
ほんのわずかに悠真の声が落ちたような気がして、彩花は横顔を見た。
けれど、悠真はすぐにいつもの表情へ戻っている。
その反応が少し気になった。
「でも」
「ん?」
「完成したものを、部員じゃない人で最初に読んでほしいのは、悠真君かも」
口にしてから、自分でも少し大胆なことを言った気がした。
悠真の足が止まる。
彩花も数歩進んでから気づき、振り返った。
館内なので大きな反応はできない。それでも、悠真が驚いていることは分かった。
「……本当に?」
「うん。前にも読んでもらったし、今回は悠真君と話したことが少しきっかけにもなってるから」
そこまで説明しても、胸の奥の熱は消えなかった。
理由はちゃんとある。
それでも、理由だけではない気もする。
悠真に読んでほしい。
そして、どう感じたのか聞きたい。
「じゃあ、待ってる」
悠真はそれ以上何かを求めることなく、ただ嬉しそうにそう答えた。
「うん。待ってて」
二人は再び並んで歩き始めた。
肩が触れるほど近くはない。けれど、以前より互いの歩幅を意識しなくても、自然と同じ速度で歩けるようになっていた。
*
図書館を出ると、昼前の風が街路樹の葉を揺らしていた。
青凪駅へ続く道には休日らしい人通りがあり、親子連れや買い物袋を提げた人たちが行き交っている。二人は駅へ向かいながら、先ほどまでとは違う、取り留めのない話をしていた。
「そういえば、クッキーは?」
彩花が思い出して尋ねると、悠真が一瞬だけ視線を逸らした。
「まだ一人では作ってない」
「忘れてた?」
「忘れてない。レシピもちゃんとある」
「じゃあ、どうして?」
「一回やろうと思った日に、生徒会が長引いた。次の休みは家の予定が入ってた」
「なるほど」
彩花はそれ以上急かさなかった。
一人で作ってみたいと言ったのは悠真自身だ。約束の期限を決めたわけでもない。
「焦らなくていいよ。レシピは逃げないから」
「本みたいな言い方するね」
「本もレシピも逃げないでしょう?」
「彩花さんは?」
あまりに自然に聞かれ、彩花はすぐには意味を理解できなかった。
「私?」
「俺が作るの遅くなっても、食べてもらえる?」
「……それは食べるよ」
「よかった」
悠真は本当に確認したかっただけらしく、安心したように笑った。
けれど彩花の方は、その言葉をすぐに通り過ぎることができなかった。
(今の聞き方、ちょっとずるくない?)
本人にそんな意図がないことは分かっている。
分かっているからこそ、余計に困る。
先日のキッチンで、混ぜすぎそうになった悠真の手首へ自分が触れたときの感覚が、一瞬だけ蘇った。思い出そうとしたわけではないのに、指先が触れた位置や、悠真がこちらを見たときの表情まで妙に鮮明だった。
彩花は自分の手を鞄の持ち手へ添え直し、少し冷たい風を頬に受ける。
「ちゃんと成功したらね」
少しだけ意地悪を混ぜて答えると、悠真がこちらを見た。
「失敗したら?」
「写真送ってって言ったでしょう?」
「食べてはくれない?」
「食べられる失敗なら考える」
「じゃあ食べられる失敗にする」
「最初から失敗する前提にしないでよ」
結局二人で笑い、さっきまでの小さな動揺も会話の中へ溶けていった。
消えたわけではない。
ただ、今はそれでいい。
*
その夜、彩花は机に向かい、文芸部誌の原稿を進めていた。
男の子が初めて写真立てを受け取る場面は、昨日より自然になった。女の子にも自分の理由が生まれたことで、二人の会話が以前より書きやすい。
そして終盤では、男の子だけではなく女の子も、自分のために新しい写真立てを作る。
二つの空の写真立て。
そこへ何を入れるのかは、まだ二人とも知らない。
けれど、何もないから空なのではなく、これから置けるものがあるから空いている。
彩花はそこまで書いたところで、シャープペンシルを置いた。
机の端には、今日返してもらった自分の本がある。
悠真が読み、気になったところをもう一度読み返した本。
同じ本なのに、貸す前とは少し違って見える。
もちろん、本そのものは何も変わっていない。
変わったのは、自分が知っていることだ。
悠真がどこで立ち止まり、どの人物を見て、何を考えたのか。それを知ったことで、自分が何度も読んだ物語の中に、今までなかった見方が増えている。
彩花はノートの余白へ、今日のための文章を書いた。
『同じものでも、誰かが見たあとには、自分一人で見ていたときとは少し違って見える。』
少し考え、その下へもう一行加える。
『影響されることは、自分がなくなることじゃない。自分だけでは見つけられなかったものが増えることなのかもしれない。』
書き終えたところで、スマートフォンが震えた。
『家具修理の本、最初の話読んだ』
悠真からだった。
彩花は思わず時計を見る。
借りたのは今日の昼前だ。
『早くない?』
『気になったから』
『どうだった?』
少しして返事が来る。
『好き。彩花さんが俺に合いそうって思った理由、たぶん分かった』
彩花は画面を見ながら笑った。
『どこだと思った?』
『まだ言わない。もう少し読んでから答える』
『じゃあ待ってる』
『うん』
短いやり取りのあと、彩花はスマートフォンを伏せた。
今日、悠真にも同じことを言われた。
待っている。
完成するまで。
読み終わるまで。
急かさずに、相手が自分の時間でそこへ辿り着くのを待つ。
それは何もしないこととは違う。
相手が持っている時間を、その人のものとして大切にすることなのだと思う。
彩花は再び原稿へ向き直った。
写真立ての前に立つ女の子の台詞を、少しだけ書き直したくなった。
彼女は男の子へ答えを教えない。
いつか何かを入れたいと思ったら、そのとき決めればいいと言う。
そして、自分自身もまだ空の写真立てを持っている。
その中に何が入るのかを知らないまま、それでも未来に置いておく。
彩花はゆっくりと文章を書き進めた。
窓の外では、秋の夜風が庭の葉を揺らしている。
完成までは、もう少しかかる。
けれど今は、その「もう少し」が楽しかった。




