第66話 彼女が写真立てを作る理由
放課後の文芸部室には、西へ傾き始めた陽射しが長く差し込んでいた。窓際の机には橙色を帯びた光が落ち、開いたノートの罫線や、何度も書き直したせいで少し濃くなった鉛筆の跡までくっきりと浮かび上がっている。
水瀬彩花はそのノートを前にして、もうしばらく同じ一行を眺めていた。
冬季文芸部誌へ載せるために書き始めた物語は、少しずつ形になっている。手作りの写真立てを軸にした話で、最初は人から何かを受け取ることに慣れていない男の子が、女の子の作った写真立てを受け取るところから始まり、やがて自分でも一つ作ってみようと思うようになる。
終わり方も、かなり見えてきた。男の子が二つ目の写真立てを自分のために作り、まだ写真を入れないまま机の上へ置く。何を飾るのかは決めていないけれど、いつかそこへ置きたいものができるかもしれないと、以前より少しだけ未来を楽しみにできるようになったことを示す終幕だ。
そこまでは気に入っていた。
けれど、その物語の中で写真立てを作る女の子が、まだ薄い。
(この子は、どうして写真立てを作ったんだろう)
彩花はシャープペンシルを指先で転がしながら、ノートの余白へ視線を落とした。
以前、佐々木先輩に読んでもらったとき、「女の子が男の子を変えるためだけにいるように見えないようにした方がいい」と言われた。その指摘を受けてから読み返してみると、確かにその通りだった。
女の子は手作りが好きで、写真立てを作る。男の子へ渡す。男の子はそれを受け取ったことで、自分でも何かを作ってみようと思う。
物語の流れとしては成立している。しかし、女の子自身がなぜ手作りを好きなのか、なぜ写真立てだったのか、そしてなぜ男の子へ渡そうと思ったのかという部分が、男の子の変化を成立させるための都合として置かれてしまっている。
(手作りが好きだから、だけじゃ弱いよね)
自分自身も料理や裁縫が好きだからこそ、その一言だけで済ませたくなかった。
好きなことにも、人によって違う理由がある。
上手にできるから好きな人もいれば、作っている時間が落ち着くから好きな人もいる。誰かに渡したときの反応が嬉しい人もいれば、頭の中にあるものを形にできることそのものが楽しい人もいるだろう。
彩花自身にしても、一つだけではない。
クッキーを焼くのが好きなのは、焼き上がるまで少しずつ香りが変わっていく時間が好きだからでもあるし、食べてもらったときに嬉しいからでもある。裁縫は、ただの布だったものが少しずつ形になっていく過程が好きだった。
そして最近、その「好き」の中にもう一つ、自分でも以前はあまり意識していなかったものが加わった気がしている。
自分にとっては普通だったことを誰かが大切に受け取ってくれると、それまでとは違って見える。
悠真へ渡した手書きのクッキーのレシピを思い出したところで、彩花は無意識に口元を緩めていた。
「水瀬さん、ちょっといい?」
向かい側から聞こえた声に顔を上げると、佐々木先輩が原稿用紙の束を片手に立っていた。どうやら他の部員の原稿を確認していたらしく、赤い付箋が何枚か端から覗いている。
「はい。あ、ちょうど私も聞きたいことがあって」
「それならよかった。進んでる?」
「進んではいるんですけど……前に先輩が言ってくれた女の子の方で、止まってます」
彩花がノートを少し向こうへ押し出すと、佐々木先輩は隣の椅子へ腰を下ろした。窓の外から運動部の掛け声がかすかに届き、その声が途切れたところで、ページをめくる乾いた音が部室の中へ小さく響く。
数分ほど黙って読んでいた佐々木先輩は、やがて終盤まで目を通すと、ノートから顔を上げた。
「男の子の方は、前よりずっと分かりやすくなったね。最初は人からもらった物をどう扱えばいいか分からない感じだったのが、最後には自分で作って、自分の机に置く。変化も自然だと思う」
「ありがとうございます」
「だからこそ、女の子の方が惜しいかな。この子、すごく優しい子ではあるんだけど、今のままだと『男の子に写真立てを渡してくれる優しい女の子』で終わっちゃう」
「やっぱり、そうですよね」
予想していた答えだったので落ち込むというより、むしろ自分が引っかかっていた場所を正確に示してもらえたことに安堵した。
彩花はノートを自分の方へ戻すと、女の子について書き出したメモへ視線を移した。手作りが好き、写真が好き、家族と仲がいい。そこまで書いてあるものの、どれもまだ人物の輪郭になるほど深くない。
「私、この子が写真立てを作る理由を考えてたんです。手作りが好きだからっていうだけだと、なんとなく足りない気がして」
「うん。じゃあ、逆から考えてみたら?」
「逆、ですか?」
「写真立てって、写真を飾る物でしょう。だったら、この子は写真をどう思ってるのか。そこから考えてもいいんじゃないかな」
佐々木先輩は答えそのものを渡すのではなく、考える方向だけを示すように言った。
彩花はしばらく返事をせず、ノートの端に「写真」と書いた。その二文字を丸で囲んでから、そこから線を何本か伸ばしていく。
「写真って……そのときのものを残すもの、ですよね」
「そうだね。でも、それを嬉しいと思う人もいれば、苦手な人もいる」
「苦手……」
「たとえば、自分が写るのは嫌だけど、人が撮った景色を見るのは好きな人もいるかもしれない。逆に何でも撮って残したい人もいる。水瀬さんならどう?」
急に自分へ向けられた問いに、彩花は少し考えた。
写真そのものが嫌いだったことはない。ただ、以前は家族写真を見たとき、隣に写っている凛花と自分を比べてしまうことがあった。誰かにそうしろと言われたわけではなく、自分で勝手に比べて、自分で勝手に小さくなっていた。
けれど今は、同じ写真を見ても以前とは違う。
悠真が家へ来た日に、凛花と一緒に写っている昔の写真を見せたときもそうだった。
あのとき悠真は、凛花ではなく彩花の写真を見ていた。比べるのではなく、ただ「その頃の彩花」を知ろうとしてくれた。
その記憶に触れたところで、彩花の指先が止まった。
(同じ写真でも、見る人や、そのときの自分で意味が変わるんだ)
写真に写っているものは変わらない。それでも、その写真を見る人は変わるし、見る自分自身も変わっていく。
以前なら苦しくなった写真を、今なら懐かしいと思えることもある。
「……写真って、残すだけじゃないのかもしれません」
彩花がゆっくりと言うと、佐々木先輩は先を促すように黙って待った。
「同じ写真でも、見る時期によって違って見えることがあると思います。撮ったときは普通だったのに、あとから大事になったり、その逆もあったり。それなら、この女の子は……写真を残すことより、あとで見返せることが好きなのかも」
「いいと思う。そうなると、写真立てを作る理由も少し変わってきそうだね」
「はい」
彩花はノートへ新しい文章を書き始めた。
女の子は、写真を撮ることが特別好きなわけではない。ただ、家にある古い写真を見返すのが好きだ。幼い頃の家族、昔飼っていた犬、今はもう建て替えられてしまった祖父母の家。写真に写っているものの中には、今はもう同じ形では存在しないものもある。
だから彼女は、写真立てを「大事なものを閉じ込めるための箱」ではなく、「ときどき思い出すための場所」だと考えている。
そこまで書いたところで、彩花は手を止めた。
「……これなら、男の子に渡す理由も作れそうです」
「どんな理由?」
「男の子が、何かを大事にするのが苦手なんです。なくしたくないから持たないとか、終わるのが嫌だから最初から残さないとか、そういうところがある子で」
「なるほど」
「女の子は、それを無理に変えようとはしない。でも、写真立てを渡すときに『今すぐ何か入れなくてもいいよ』って言うんです。いつか飾りたいものができたら使えばいいって」
言葉にしながら、彩花の中でぼんやりしていた女の子の姿が少しずつ見えてきた。
誰かを救うために現れる女の子ではない。自分自身にも、失ったものや変わってしまったものがあり、それでも思い出すことを怖がらずにいたいと考えている子だ。
だから写真立てを作る。
だから、空の写真立てにも意味がある。
男の子へ渡した一つ目も、最後に男の子自身が作る二つ目も、空であることは欠けているという意味ではない。これから何かを置ける場所があるという意味になる。
「水瀬さん、今ちょっと楽しそう」
佐々木先輩に言われ、彩花は自分でも気づかないうちに前のめりになっていた身体を起こした。
「すみません」
「謝るところじゃないよ。書いてる本人がその人物を知りたくなってるときって、たぶん一番面白いから」
佐々木先輩は笑いながら立ち上がり、他の部員が待つ机の方へ戻っていった。その背中を見送ってから、彩花はもう一度ノートへ向き直る。
(知りたくなる、か)
最近、その感覚には覚えがあった。
好きな季節や色、雨の日の図書館、幼い頃にどんな遊びをしていたのか。知らなくても困らないような小さなことを知るたびに、悠真という人の輪郭が少しずつ増えていく。
それが楽しかった。
だからこそ、物語の登場人物にも同じことをしてあげたいと思った。役割だけを与えるのではなく、この子なら何を好きだと思うのか、何を嫌がるのか、何を失って、何を残したいのかまで考えてみたい。
彩花は新しいページを開くと、女の子についての項目を増やしていった。
*
文芸部が終わる頃には、外はすっかり夕方の色へ変わっていた。
校舎を出た彩花は、鞄の中へノートをしまいながら昇降口を抜ける。昼間より少し冷えた風が頬へ触れ、校庭の端に並ぶ木々から乾いた葉が何枚か舞い落ちていた。
正門へ向かって歩いている途中、鞄の中でスマートフォンが震えた。
取り出して画面を見ると、悠真からのメッセージだった。
『この前言ってた文芸部誌、今日は進んだ?』
彩花は思わず足を緩めた。
冬季文芸部誌が正式に決まり、作品を書き始めたことはすでに悠真へ話している。ただし、完成する前に全部を説明してしまうのは少しもったいない気がして、詳しい内容までは伝えていなかった。
『進んだよ。今日は登場人物のことをずっと考えてた』
送ってから正門を出ると、すぐに返信が届いた。
『登場人物?』
『うん。最初は話を進めるために動かしてた子がいたんだけど、その子自身のことをちゃんと考えたら、少し分かってきた』
そこまで打ってから、彩花は少し迷った。
悠真なら、どう考えるだろう。
先日、中央図書館で話したとき、悠真は彩花について「人が作ったものの上手い下手より先に、その人がどう作ったか知ろうとするところ」があると言っていた。
本人としては、そんな特徴が自分にあるとは思っていなかった。けれど言われてみれば、誰かが何かを作ったとき、完成した物だけでなく、どうしてそれを選んだのか、どこが難しかったのかを聞きたくなることがある。
物語の人物について考え直せたのも、もしかすると同じなのかもしれない。
『悠真君にこの前言われたこと、ちょっと役に立ったかも』
数秒後、画面に表示された既読の文字を眺めていると、返事が来た。
『俺、何か言った?』
『覚えてないの?』
『彩花さんのことは結構覚えてるつもりなんだけど、どれだろう』
その返事を読んだ途端、彩花の足がほんの少しだけ遅くなった。
以前なら、「彩花さんのことは結構覚えてる」という部分だけを何度も読み返して、その意味を考えていたかもしれない。今も嬉しいことに変わりはなく、胸の奥へ柔らかな熱が広がるのも同じだった。
ただ、それをわざわざ別の言葉へ置き換えなくてもいいと思える。
(嬉しいなら、今はそれでいいんだよね)
彩花は歩道の端へ寄り、通行の邪魔にならない場所で立ち止まると、続きを打った。
『私が、人が作ったものを見るときに、どうやって作ったのか知ろうとするって言ってたこと』
『ああ、覚えてる』
『今書いてる話でも、その子が何をしたかだけじゃなくて、どうしてそうしたのか考えてみたの。そしたら、前よりその子のことが分かった気がする』
今度は少し間が空いた。
駅へ向かう人たちが横を通り過ぎ、遠くで自転車のベルが鳴る。彩花が再び歩き出した頃、スマートフォンが震えた。
『それ、読んでみたい』
たったそれだけの言葉なのに、自然と笑みが浮かんだ。
『完成したらね』
『約束?』
彩花は少しだけ考え、それから笑いながら返信した。
『完成させるための圧をかけないなら』
『じゃあ約束じゃなくて希望にしておく』
『それなら大丈夫』
『楽しみにしてる』
その言葉を受け取ったところで、彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。
完成してから読んでもらいたい。
以前、文化祭のために書いた物語を悠真に読んでもらったときとは、また少し違う気持ちだった。あのときは、自分が書いたものを誰かに見せること自体に緊張していたけれど、今は「読んだ悠真がどう感じるのかを知りたい」という気持ちの方が強い。
それは、自分が書くことに少し慣れたからなのか、それとも読む相手を信頼できるようになったからなのか。
おそらく、どちらもだった。
*
同じ頃、桜華学園の生徒会室では、悠真がスマートフォンを机へ伏せていた。
「九条、今の顔、珍しいな」
向かい側で資料を整理していた森川航平が、書類から顔を上げる。
「今の顔って?」
「普通に嬉しそうな顔」
「普通に嬉しいからじゃない?」
悠真が何気なく答えると、森川は一度だけ瞬きをしたあと、肩を揺らして笑った。
「そこをそのまま認めるようになったのが珍しいって言ってるんだけどな」
「そう?」
「前のお前なら、何で嬉しいのか考え始めてた気がする」
言われてみれば、以前はそうだったかもしれない。
誰かから連絡が来るのを待つことも、会えることを楽しみにすることも、特定の相手のことばかり覚えていることも、自分にとって馴染みのない感覚だった。だから何かが起こるたびに、その理由を一つずつ確かめようとしていた。
今は、少し違う。
「考えてもいいんだけど、毎回答え出さなくてもいいかなって思ってる」
悠真はそう答えながら、机の端へ置いていた資料を揃えた。
彩花が文芸部誌のために新しい作品を書いていることは知っている。内容はまだほとんど知らないけれど、それで構わなかった。完成するまで待つのも楽しみの一つだと思える。
それよりも、先ほどのメッセージの方が気になっていた。
自分が何気なく言った言葉が、彩花の書くものへ少し影響したらしい。
(俺が言ったことを覚えてて、それを使ってくれたんだ)
嬉しいと思った理由は、それで十分だった。
「何の話だったかは聞かない方がいい?」
森川が資料をまとめながら尋ねる。
「彩花さんが書いてる話のこと」
「ああ、青葉の文芸部の?」
「うん。冬に出す部誌が決まったらしくて、今書いてるんだって」
森川は「なるほど」と頷いたものの、それ以上二人の関係へ踏み込むことはせず、自分の手元へ視線を戻した。
「じゃあ、お前も楽しみが一個増えたわけだ」
「そうだね」
悠真は迷わず答えた。
机の上では、生徒会の今後の予定が書かれた紙が何枚も重なっている。学校でやるべきことは多く、彩花といつでも会えるわけではない。それでも、別々の場所で過ごしている時間の中に、次に話せることが少しずつ増えていく。
それを不便だとは思わなかった。
むしろ、次に会ったとき何を聞こうかと考えられることが楽しい。
「よし、こっち終わらせよう。これ、今日中に確認するんだろ?」
「そのつもり。あと二枚」
「了解」
二人はそのまま資料へ戻り、生徒会室には紙をめくる音とペン先が走る音が続いた。
*
その日の夜、彩花は自室の机で再びノートを開いていた。
夕食も入浴も終わり、家の中は昼間より静かになっている。廊下の向こうからテレビの音が小さく聞こえていたものの、机のスタンドライトが作る明るい範囲の中では、自分の物語だけに集中できた。
女の子について考え直したことで、これまで書いていた場面にも修正したいところが増えていた。
最初に写真立てを渡す場面。
今までは、女の子が「これ、あげる」とだけ言っていた。しかし、それでは彼女が何を考えているのか伝わらない。
彩花は一度文章を消し、書き直した。
女の子は写真立てを差し出したあと、男の子が困った顔をするのを見て、「今すぐ写真を入れなくてもいい」と伝える。空っぽのままでも構わないし、気に入らなければ引き出しへしまってもいい。それでも作ったのは、いつか何かを残してみたいと思ったとき、置く場所が最初から一つくらいあってもいいと思ったからだ。
男の子はすぐには理解しない。
ただ、その言葉を覚えている。
それから時間が経ち、男の子が自分で写真立てを作るとき、ようやく女の子の言葉の意味を少しだけ自分のものとして理解する。
(これなら、女の子が答えを教えたわけじゃない)
彩花は書いた文章を読み返しながら、ゆっくりと息を吐いた。
誰かの言葉を聞いたからといって、人はすぐに変わるわけではない。
自分だってそうだった。
悠真から何度「比べていない」と言われても、それだけで長い間抱えていたものが全部なくなったわけではない。家族に大事にされていることも、凛花が自分を好きでいてくれることも、頭ではずっと分かっていた。
それでも、少しずつだった。
誰かの言葉を受け取り、自分で考え、自分で選び直す。その積み重ねで、以前より自分のことを好きだと思えるようになった。
だから物語の男の子にも、自分で変わる時間を与えたかった。
そして女の子にも、男の子とは別の時間を持たせたい。
(この子の方にも、変わることがあっていいよね)
彩花は新しいページへ移り、女の子の変化について考え始めた。
彼女は写真を見返すことが好きだが、それは過去を大切にすることでもある。一方で、過去に残っているものを大事にしすぎて、新しいものを作ることには少し臆病なのかもしれない。
昔の家族写真、祖父母の家、もう会えない犬。
それらを大切にしているからこそ、「なくなったものを忘れない」ことばかり考えていた。
そんな女の子が、空の写真立てを男の子へ渡す。
そして男の子が最後に自分で作った空の写真立てを机へ置く姿を見たとき、女の子もまた、「まだ存在していない思い出のために場所を空けておく」という考え方を受け取る。
片方だけが変わるのではない。
渡した側も、受け取る。
「……これ、いいかも」
声に出してから、彩花は自分で少し笑った。
静かな部屋で独り言を言ってしまったのが恥ずかしかったわけではない。自分で書いている話なのに、登場人物が思っていなかった方向へ進み始めたことが、純粋に面白かった。
シャープペンシルを走らせていると、机の端に置いたスマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『生徒会終わった。今帰ってきた』
時計を見ると、思っていたより遅い。
『お疲れさま。遅かったね』
『資料が多かった。でも終わったから大丈夫』
『ご飯は?』
『これから。彩花さんはまだ書いてる?』
彩花はノートへ目を落とした。
『書いてる。女の子のこと、ちょっと分かった』
『よかった』
『男の子だけじゃなくて、女の子の方も変わる話になりそう』
送ったあと、詳しく説明しすぎただろうかと一瞬だけ思ったものの、肝心の内容はほとんど伝えていない。
悠真から届いた返事も、続きを聞き出そうとするものではなかった。
『じゃあ完成したとき、そこも読む』
彩花の指が画面の上で止まった。
「そこも読む」という言葉が、なんとなく悠真らしいと思った。
面白いか、上手いかだけではなく、どうしてそう書いたのかまで見ようとしてくれる。以前、自分について言われたことを、そのまま悠真自身もしているのかもしれない。
『悠真君も、人がどう作ったか気にするよね』
『そうかな』
『すると思う。この前私に言ったのと同じ』
『じゃあ似てきた?』
その返信に、彩花は少し考えた。
似てきたのか、それとも最初から似ているところがあったのか。
けれど、全部が同じである必要はない。読んだ本の感想だって違うことがあるし、好きな季節も、好きな時間帯も完全には一致しない。その違いを知ることも、今では楽しい。
『似てるところが見つかった、の方が近いかも』
送ると、しばらくして返事が来た。
『それいいね。まだありそう』
その言葉に、彩花は自然と頬を緩めた。
『ありそうだね』
会話はそこでいったん途切れた。悠真はこれから夕食で、彩花も原稿へ戻らなければならない。
それでも、スマートフォンを伏せたあとに残った気持ちは、会話が終わったという寂しさではなかった。
まだ知らないものがある。
似ているところも、違うところも、おそらくたくさん残っている。それを急いで全部知る必要はなく、何かの拍子に一つずつ見つかっていけばいい。
彩花はノートへ向き直り、先ほど考えた女の子の変化を書き始めた。
*
翌日の昼休み、青葉高校の教室はいつも通り賑やかだった。
窓側の席では数人が机を寄せて弁当を食べ、廊下側では購買のパンを持って戻ってきた生徒たちが話している。彩花も自分の席で弁当箱を開いたところだったが、向かいに椅子を持ってきた田辺大地が、箸を持つより先に机の上のノートへ目を向けた。
「水瀬、それ文芸部のやつ?」
「うん。でも見せないよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔が見たそうだったから」
「最近、水瀬が先回りするようになってきた気がする」
大地が大げさに肩を落としたので、彩花は笑いながらノートを鞄へしまった。
冬季文芸部誌の話はクラスでも少しずつ知られ始めている。文化祭で文芸部の展示を見た生徒もいるため、今度も読むと言ってくれる人が何人かいた。
「で、何書いてんの?」
「それは完成してから」
「食べ物出る?」
「どうしてそこが基準なの?」
「小説の飯って妙にうまそうじゃん。実際には食えないけど」
「今回、食べ物はほとんど出ないと思う」
「じゃあ俺への訴求力が弱いな」
真剣な顔で言われ、彩花は思わず吹き出した。
「別に田辺君向けに書いてないから」
「そこは『じゃあ食べ物の場面を増やそうかな』ってならない?」
「ならないよ。話が変わっちゃうでしょ」
大地は残念そうにしながらも、すぐに弁当へ箸を伸ばした。しばらく食べてから、今度は少しだけ真面目な声音になる。
「でも、できたら読むわ。文化祭のやつも思ったより面白かったし」
「思ったより、は余計じゃない?」
「最初から褒めると調子乗るかもしれないだろ」
「私、そんなに調子乗らないと思うけど」
「最近は前より乗ってもよさそうだけどな」
何気ない言葉に、彩花は箸を止めた。
以前なら「そんなことないよ」とすぐ否定していたかもしれない。しかし今は、褒められたことをそのまま受け取ってもいいと思える。
「じゃあ、完成したらちゃんと読んでね」
「お、言ったな」
「言ったよ。感想も聞くから」
「食べ物出ないのに?」
「そこから離れて」
二人のやり取りを聞いていた近くの女子が笑い、大地もつられて笑った。
彩花は弁当を食べながら、胸の奥に小さな変化を感じていた。
悠真に読んでもらいたいという気持ちはもちろん強い。
けれど、それだけではなくなっている。
佐々木先輩にも、大地にも、文芸部誌を手に取ってくれる知らない誰かにも読んでもらいたい。自分が考えて、自分で書いたものを、誰かがどう受け取るのか知りたいと思う。
(前より、書くのが好きになってるのかも)
そのことに気づくと、午後の授業が始まる前に、もう少し続きを書きたいという気持ちが湧いてきた。
もちろん授業中に書くわけにはいかない。
その代わり、放課後に書きたい場面を忘れないよう、ノートの端へ短いメモだけ残した。
――女の子が、自分用の写真立てを作る場面。
物語の終盤で、男の子だけが作るのではない。
女の子も新しい写真立てを作ってみる。
そこに何を入れるかは、まだ決めない。
二人とも、空の場所を持つ。
同じ理由ではなく、それぞれの理由で。
彩花はそのメモを眺め、静かに笑った。
物語は、ようやく男の子一人の変化ではなくなった。
そして自分自身もまた、誰かに何かを渡すだけではなく、受け取ったものによって少しずつ変わっている。
それが誰から受け取った何なのかを、一つずつ数える必要はない。
家族からも、友人からも、先輩からも、そして悠真からも、いろいろなものを受け取ってきた。
だから今度は、それをそのまま写すのではなく、自分の中で別の形へ変えて物語にしたい。
窓の外では秋の風に木々の枝が揺れ、薄い雲の向こうから午後の光が教室へ差し込んでいた。
彩花はノートを閉じると、それを大切に鞄へしまった。
まだ完成ではない。
けれど、次に何を書けばいいのかは、もう分かっていた。




