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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第65話 知らなかった好きなもの


 翌日の昼休み、青葉高校一年二組の教室には、購買で昼食を買ってきた生徒たちの声と、机を寄せる音が重なっていた。


 彩花は自分の席で弁当箱を開きながら、昨夜遅くまで書いていた部誌用の物語について考えていた。放課後になれば続きを書くつもりだが、朝になって読み返してみると、昨夜には気づかなかった部分がいくつか見えている。


 写真立てを渡す男の子と、それを受け取る女の子。


 話の中心は少しずつ固まってきたものの、二人がどんな性格なのかはまだ曖昧だった。特に女の子については、写真立てを大切に使う理由を「もらったから」だけにしてしまうと、自分が書きたいものから外れてしまう。


(本当に気に入ったから使ってる、っていうのは決めてるんだけど……じゃあ、何を気に入ったんだろう)


 色なのか、形なのか、それとも手作りらしい不揃いさなのか。


 そこを決めれば、女の子の性格も少し見えてきそうだった。


「水瀬、さっきから卵焼き持ったまま止まってるけど」


 向かい側から声をかけられ、彩花は顔を上げた。


 いつの間にか大地が前の席を借りて座っており、購買の焼きそばパンを手にしている。


「え?」


「考え事?」


「あ、ごめん。部誌に書く話のこと考えてた」


「飯食いながら小説書いてんの?」


「頭の中だけね」


 彩花はようやく卵焼きを口へ運んだ。


「この前言ってた冬のやつ?」


「うん。昨日、正式に発行するって決まったの」


「へえ。じゃあまた水瀬の小説読めるじゃん」


 大地は焼きそばパンの袋を開きながら、ごく普通のことのように言った。


 彩花は箸を止めかける。


「読むの?」


「置いてあったら読むけど。文化祭のも読んだし」


「そうだったの?」


「言ってなかったっけ?」


「聞いてないよ」


「じゃあ今言った」


 あまりにも軽い調子なので、彩花は拍子抜けした。


「どうだった?」


「文化祭の?」


「うん」


「俺、小説の詳しいこと分かんないから、ちゃんとした感想は無理だぞ」


「ちゃんとしてなくてもいいよ」


「じゃあ、途中でやめないで最後まで読んだ」


「それ感想?」


「俺にはかなり高評価」


 大地が真顔で言うので、彩花は思わず笑ってしまった。


「普段どれだけ本読まないの」


「漫画なら読む。小説は、授業で指定されたやつ以外は年に何冊か」


「じゃあ最後まで読んでくれたなら嬉しいかも」


「だろ? あと、最後にもうちょっと続きあってもいいと思った」


 彩花は意外な言葉に目を瞬いた。


「続き?」


「なんかさ、あの二人、また話すんだろ?」


「うん。そのつもりで書いたよ」


「だから、そのあと一回くらい話してるところ見たかった」


 専門的な批評ではない。


 けれど、読者として素直に感じたことなのだと分かる。


「そっか」


「何? 変なこと言った?」


「ううん。初めて言われたから」


「じゃあ次のやつは、その辺長めにしてくれ」


「作品違うからね?」


「続編じゃないの?」


「全然違う話」


「なんだ」


 大地は本気で少し残念そうだった。


 彩花は笑いながら弁当を食べ進める。


「今度は写真立てが出てくる予定」


「写真立て?」


「まだそれ以上は秘密」


「じゃあ食べ物出して」


「何で?」


「小説読んでるときに美味そうなもの出てくると得した気分になるから」


「その理由で話を変えないよ」


「写真立てに食い物の写真入れれば解決」


「絶対やらない」


 大地は楽しそうに笑い、自分の焼きそばパンへかじりついた。


 彩花も呆れながら笑ったものの、少しだけ考える。


 大地の感想は、自分では予想していなかった。


 文化祭の作品を最後まで読んでくれたことも、もっと先を見たかったと言われたことも。


 書いたものが自分の手を離れれば、受け取り方は読む人によって変わる。


 それは本について悠真と話しているときにも感じていたことだった。


(今回も、私が思ってないところを好きって言う人がいるのかな)


 そう考えると、部誌に載せることへの緊張よりも、少しだけ楽しみの方が大きくなった。


     ◇


 その日の放課後、文芸部室で彩花は昨日の続きを書いた。


 女の子が写真立てを気に入った理由は、結局一つに絞らなかった。


 木の色が好きだった。


 少し歪んでいるところも、手で作ったものらしくて好きだった。


 そして何より、自分が欲しいと言ったものを覚えていてくれたことが嬉しかった。


 その三つが重なっている。


 一つだけの明確な理由が必要なのではなく、いくつもの小さな「好き」が積み重なって、大切に使いたいものになる。


 書いてみると、その方が彩花には自然だった。


「昨日より増えたね」


 佐々木先輩が隣を通りかかり、ノートを覗き込まない程度の距離から声をかけた。


「はい。まだ途中ですけど」


「進み始めると早いタイプ?」


「どうでしょう。途中で止まるかもしれません」


「止まったら止まったで、そのとき考えればいいよ」


 先輩は自分の席へ戻りかけたが、彩花の机の端に置かれた資料を見て足を止めた。


「そうだ。ページ数、気にしすぎなくていいからね」


「十二ページまでですよね?」


「最大がね。短くまとまるなら八ページでも十ページでもいいし、無理に十二ページまで増やす必要はないよ」


「分かりました」


「逆に十二ページで足りなさそうなら、早めに相談して。全体のページ数次第では少しくらい調整できるかもしれないから」


「はい」


 佐々木先輩が離れてから、彩花は今書いている量を見直した。


 このままなら、最大ページ数へ収められそうな気がする。


 ただ、今は文字数を気にするより、最後まで書いてみる方が先だった。


 物語の男の子は、自分が作った写真立てを女の子の机で見つける。


 そこまでは決まっている。


 問題は、そのあとだった。


(この子、自分でもう一回何か作るかな)


 写真立てを褒められたから、急にものづくりが好きになるのは違う。


 自信満々になるのも違う。


 けれど、もう一度だけやってみようと思うくらいなら自然かもしれない。


 彩花は余白へ、小さくメモを残した。


『二個目を作る? 誰かに渡すためではなく、自分用?』


 書いた瞬間、少しだけ胸が弾んだ。


 最初は誰かへ渡したものだった。


 その価値を相手に教えてもらい、次は自分のために作ってみる。


(これ、いいかも)


 誰かに認めてもらうことだけが終着点ではない。


 認めてもらったことをきっかけに、自分でも自分の作ったものを受け取れるようになる。


 彩花自身が最近少しずつ感じていることにも、どこか似ていた。


 料理も、裁縫も、本を読むことも、文章を書くことも。


 自分にとって普通だったものを、誰かが大切に受け取ってくれることで見え方が変わった。


 けれど今は、誰かに褒められなければ意味がないとは思わない。


 自分でも、好きだと思える。


 彩花はその感覚をそのまま説明するのではなく、物語の中へ落とし込む方法を考えながらペンを進めた。


     ◇


 部活を終えたあと、彩花は中央図書館へ向かった。


 悠真と会う約束があるわけではない。


 借りていた本を返す必要もない。


 今日は、自分一人で少し本を見たかった。


 部誌の物語を書き始めたせいか、ものづくりや手仕事が出てくる小説を読みたくなったのだ。


 中央図書館へ入ると、夕方の館内は静かだった。


 学校帰りの学生もいるが、休日ほど混んではいない。彩花は慣れた足取りで小説の棚へ向かい、背表紙を眺めながらゆっくり歩いた。


 以前なら、図書館へ来ることそのものが目的だった。


 本を探し、一人で読み、一人で帰る。


 今でもそれは好きだ。


 悠真と一緒に来る図書館が増えたからといって、一人で過ごす時間の価値が薄れたわけではない。


(今日は自分で探したい)


 そんな気分だった。


 棚から一冊抜き、あらすじを読む。


 陶芸家を目指す若者の話。


 少し違う。


 戻して、隣の棚を見る。


 今度は古い家具を修理する職人が登場する連作短編集だった。


「……面白そう」


 小さく呟き、手に取る。


 表紙を眺めたところで、別の本が目に入った。


 刺繍を通じて祖母と孫が交流する小説。


 こちらも気になる。


 二冊を持って閲覧席へ向かい、少しだけ試し読みすることにした。


 席へ座る前にスマートフォンを確認すると、悠真からメッセージが来ていた。


『今日も部活?』


 昨日と似た質問に、彩花は少し笑う。


『今終わって、中央図書館にいるよ。今日は一人で本探してる。』


 送ってから席につく。


 すぐに返事は来なかった。


 彩花は気にせず、家具修理の短編集を開いた。


     ◇


 最初の一編を半分ほど読んだ頃、スマートフォンが一度だけ震えた。


 図書館なので音は出ない。


 彩花はページへ栞代わりの貸出案内を挟み、画面を見る。


『俺は今日はまっすぐ帰る。』


『お疲れさま。』


『何かいい本あった?』


 彩花は目の前の二冊を撮影した。


『今この二冊見てる。』


『家具直す方、面白そう。』


『悠真君そっち選ぶと思った。』


 送信してから、彩花は自分で少し驚いた。


 どうしてそう思ったのか。


 考えてみれば、理由はいくつもある。


 悠真は、人が言葉にしない感情を行動から読み取れる物語を好む。


 古いものに残った時間や、誰かが使っていた痕跡を丁寧に描く話も好きそうだ。


 時計店の連作短編集を選んだことも、その印象につながっている。


 ほどなくして返事が来る。


『なんで分かった?』


『悠真君、物を直したり、長く使ったりする話好きそうだから。』


『言われてみると好きかも。』


『でしょ?』


『彩花さん、俺より俺の好み分かってない?』


 彩花は笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。


 静かな閲覧席なので声は出せない。


『それはないよ。』


『でも俺、家具修理の話が好きそうって自分で考えたことなかった。』


 彩花はその文章を見つめる。


 昨日、自分が悠真の好きなものをもっと知りたいと言った。


 その翌日に、まだ本人もはっきり意識していなかった好みを一つ見つけたことになる。


『じゃあ一個増えたね。』


『何が?』


『悠真君の好きなもの候補。』


 返事は少し間を置いて届いた。


『候補なんだ。』


『まだ読んでないから。』


『確かに。』


『私が読んで面白かったら貸す? 図書館の本だけど。』


『読んでみたい。』


『じゃあ先に私が読んでみる。』


 そこでやり取りを終え、彩花は再び本を開いた。


 誰かと一緒にいるわけではない。


 けれど、さっきまで一人で見ていた本に、悠真が読んだらどう思うだろうという視点が一つ加わった。


 それでも読む本を決めるのは自分だ。


 その感覚が心地よかった。


     ◇


 一方、九条家へ帰宅した悠真は、自室へ入る前にリビングへ顔を出した。


 ソファでは琴葉が学校のプリントを広げており、テーブルの向かいには麗華が紅茶を飲みながら雑誌を読んでいる。


「ただいま」


「おかえり、お兄ちゃん」


「おかえりなさい。今日は早かったのね」


「生徒会ない日だから」


 悠真が答えながら鞄を下ろすと、琴葉が顔を上げた。


「昨日は遅かったけど」


「彩花さんにクッキー渡してた」


「あ、渡せたんだ」


「うん」


 琴葉は一瞬だけ何か言いたそうな顔をしたが、以前のように面白がって深掘りはしなかった。


「どうだった?」


「美味しいって」


「よかったじゃん」


「少し厚い方が好きらしい」


「細かい感想まで聞いたんだ」


「次作るときの参考になるから」


「なるほど」


 琴葉は納得したように頷き、再びプリントへ視線を落とした。


 麗華も微笑んでいるだけで、余計なことは言わない。


 悠真はそのまま自室へ向かおうとしたが、途中で琴葉が思い出したように声を上げた。


「あ、お兄ちゃん」


「何?」


「今度、学校で図書委員会の企画展示やるんだけど、何かおすすめの本ない?」


「企画展示?」


「テーマが『誰かにすすめたい一冊』。一人一冊候補出してって言われてるの」


「琴葉が選ぶんじゃないの?」


「選ぶよ。でも候補多い方がいいから聞いてる」


 悠真は少し考えた。


 以前なら、自分が好きな本の中から一冊選んだだろう。


 けれど今は、すぐにいくつかの本が浮かぶ。


 自分が好きなもの。


 彩花から教えてもらったもの。


 感想を話したことで、読む前とは違う意味を持ったもの。


「明日まででいい?」


「いいよ」


「考えとく」


「よろしく」


 自室へ入った悠真は制服の上着を脱ぎ、机の椅子へ腰を下ろした。


 スマートフォンには、さきほど彩花から送られてきた二冊の写真が残っている。


 家具を修理する職人の連作短編集。


 確かに気になる。


(物を直したり、長く使ったりする話が好きそう、か)


 自分ではそんなふうに分類したことがなかった。


 けれど思い返してみれば、古い時計店の物語も好きだったし、閉館する映画館の小説でも、ベテラン映写技師が機材を手入れする場面が強く印象に残った。


 新しいものを手に入れる話より、長く使われたものに残る時間を描いた話に惹かれることが多いのかもしれない。


 自分の好みなのに、彩花に言われて初めて共通点へ気づいた。


(こういうこともあるんだな)


 誰かに見てもらうことで、自分では見えていなかったものが見える。


 彩花が今書いている話にも、少し似ている。


 悠真は机の端に置かれていた、彩花から借りている小説へ目を向けた。


 すでに読み終えている。


 けれど、もう一度読み返したいと思った部分があって、まだ返していない。


 彩花も、自分が貸した時計店の短編集を読み終えているはずだ。


 映画館の小説を話したときのように、今度はこの二冊についても感想を聞いてみたい。


 ただ、それだけを理由に急いで予定を決める必要はない。


 昨日、二人で「理由がなくても会っていい」と話したばかりだった。


 会えたときに話せばいい。


 そう思えるようになったことが、悠真には少し不思議だった。


     ◇


 中央図書館では、彩花が家具修理の短編集を読み続けていた。


 最初の一編を読み終えたところで、本を閉じる。


「……好きそう」


 今度は確信に近かった。


 第一編に登場したのは、祖父が使っていた古い椅子を修理に持ち込む大学生だった。


 傷も多く、座面も傷んでいる。


 新品を買った方が安いと分かっているのに、捨てられない。


 職人は「直す理由があるなら直せばいい」とだけ言い、椅子を新品同様には戻さない。


 傷をすべて消すのではなく、使えるようにしながら、残せる跡は残す。


 彩花は、その場面を悠真がどう読むのか知りたくなった。


(絶対ここ好きだと思う)


 思ったところで、ふと気づく。


 自分は今、悠真がどこを好きになるか予想しながら読んでいる。


 以前にも、彼へ本を貸すときに好みを考えたことはあった。


 けれど今は、もっと細かい。


 物語全体が好きそう、ではなく、この場面、この言葉、この人物の行動をどう受け取るだろうと考えている。


 それだけ悠真と本の話をしてきたのだ。


 彩花は少し嬉しくなり、その本を借りることに決めた。


 もう一冊の刺繍の小説も冒頭を読み、こちらも気になったので一緒に借りる。


 貸出手続きを済ませて外へ出ると、空はすでに薄暗くなっていた。


 駅へ向かいながら、彩花はスマートフォンを取り出す。


『家具の方借りたよ。』


 しばらくして悠真から返事が来た。


『面白かった?』


『最初の話だけ読んだ。たぶん悠真君好き。』


『そこまで言われると気になる。』


『読み終わったら貸すね。』


『ありがとう。』


 そこで終わるつもりだったが、彩花は昨日の会話を思い出した。


 悠真の好きなもの。


 自分は本についてなら、思っていた以上に知っているのかもしれない。


 でも、本以外はどうだろう。


 食べ物については少し知っている。


 家での過ごし方も以前より分かる。


 それでも、知らないことはたくさんある。


『ねえ、悠真君。』


『何?』


『昨日、好きなもの知りたいって言ったでしょ?』


『うん。』


『本以外で、何かある?』


 送ってから、彩花は歩きながら返事を待った。


 すぐには来ない。


 駅が近づいても返事がないので、考えているのだろう。


 やがて改札前まで来たところでスマートフォンが震えた。


『急に聞かれると難しい。』


 彩花は笑った。


『好きな食べ物でも、音楽でも、季節でも何でもいいよ。』


『面接みたい。』


『そんなつもりじゃないよ。』


『分かってる。』


 少し間が空く。


『秋は好き。』


「秋……」


 彩花は小さく呟いた。


『どうして?』


『暑すぎないし、本読みやすいから。あと木の色変わるの見るの好き。』


 悠真らしい答えだと思った。


 派手な行事ではなく、気候と本と木々の変化。


『覚えた。』


『メモする?』


 昨日の仕返しだろう。


 彩花は笑いながら返す。


『しなくても覚えるよ。』


『俺もそう言えばよかった。』


『もうメモした後だから遅いね。』


『消さないよ。』


『消さなくていいよ。』


 そのまま電車へ乗り、彩花は空いていた座席へ腰を下ろした。


『他は?』


『まだ聞く?』


『知りたいって言ったから。』


 今度の返事は少し早かった。


『雨の日の図書館。』


 彩花は画面を見つめた。


『晴れの日じゃなくて?』


『雨の日の方が静かな気がする。窓の音も好き。』


『分かるかも。』


『彩花さんは?』


 質問が返ってきた。


 彩花は窓の外を眺める。


 流れていく夕方の街並み。


 自分の好きなもの。


 本や図書館は、悠真もよく知っている。


 料理や裁縫も知っている。


 もっと小さなものなら何だろう。


『新しいノートの最初のページ。』


『意外。』


『何で?』


『書き始めるの緊張しそうだから苦手かと思った。』


『ちょっと緊張するよ。でも、何でも書ける感じがして好き。』


『なるほど。』


『あと、冬の朝の空気。寒いけど。』


『寒いの好きなの?』


『寒すぎるのは嫌。でも家出たときに空気が冷たいのは好き。目が覚めるから。』


『それは分かる。』


 会話は、そこで終わらなかった。


 好きな飲み物。


 好きな時間帯。


 好きな匂い。


 子どもの頃に好きだった遊び。


 思いつくたび、一つずつ送り合う。


 悠真は焼きたてのパンの匂いが好きだった。


 彩花は夕方、炊飯器を開けたときの湯気の匂いが好きだった。


 悠真は休日の早朝が好きだった。家族がまだ起きておらず、家の中が静かだから。


 彩花は休日の午前十時頃が好きだった。朝の用事が終わり、昼までまだ時間があるから。


 どれも重大な秘密ではない。


 知らなければ困る情報でもない。


 それなのに、一つ知るたびに相手の輪郭が少しずつ増えていく。


(こういうの、楽しいな)


 彩花は電車を降りても、家へ向かいながらやり取りを続けた。


     ◇


『子どもの頃の遊びは?』


 彩花から届いた質問に、悠真は自室のベッドへ腰掛けたまま考えた。


 庭で遊ぶこと。


 祖父と将棋をしたこと。


 琴葉と一緒にゲームをしたこと。


 いくつか思い浮かぶ。


『庭で木の枝集めて秘密基地みたいなの作ってた。』


 送信してから、少し恥ずかしくなった。


 九条家の庭は一般家庭より広い。


 幼い頃の悠真と琴葉にとっては、それだけで十分な遊び場だった。


『悠真君が秘密基地?』


 予想通り食いつかれた。


『小学生の頃だよ。』


『見たかった。』


『もうない。』


『写真ないの?』


『たぶん母さんが持ってる。』


 返した直後、彩花からすぐに届く。


『見たい。』


 悠真は笑った。


『今度探してみる。』


『約束ね。』


『うん。彩花さんは?』


 少し間が空いた。


『お姉ちゃんとお店屋さんごっこしてた。』


『何屋?』


『毎回違うよ。ケーキ屋さんとか、本屋さんとか。』


『本屋さんは昔からなんだ。』


『そうかも。紙に本の名前書いて並べてた。』


『それも写真ない?』


『あるかもしれないけど、絶対見せない。』


『なんで?』


『恥ずかしいから。』


『俺の秘密基地は見るのに?』


『それはそれ。』


 悠真は思わず声を出して笑った。


 部屋の外を通りかかった琴葉が、半開きの扉から顔を覗かせる。


「何笑ってるの?」


「彩花さんと話してる」


「へえ」


 琴葉はそれ以上聞かずに通り過ぎようとしたが、悠真がふと思いついて呼び止めた。


「琴葉」


「何?」


「昔、庭で秘密基地作ったの覚えてる?」


「覚えてるけど」


「写真ってある?」


「あるんじゃない? お母さんがアルバムに入れてたと思う」


「どの辺?」


「知らないよ。何で?」


「彩花さんが見たいって」


 琴葉は一度瞬きをしたあと、妙に納得した顔になった。


「じゃあ探せば?」


「うん」


「でも私も写ってるやつあるから、変なの勝手に送らないでよ」


「分かってる」


「お兄ちゃん一人で枝抱えてる写真ならあった気がする」


「それは別にいい」


「彩花さん、絶対喜びそう」


 琴葉は笑いながら廊下へ消えていった。


 悠真はスマートフォンへ視線を戻す。


 彩花から新しいメッセージが来ている。


『あと、好きな色って何?』


『青。』


『即答だ。』


『これは前から分かってる。彩花さんは?』


『水色とか、白とか。淡い色が好き。』


 悠真はその答えを見て、以前彩花の部屋で見た淡い水色に白い花柄の布を思い出した。


 確かに、彼女らしいと思った色だった。


『水色は知ってた気がする。』


『言ったことあった?』


『言われてない。でも持ってるものに多い。』


 返事が少し遅れた。


『そこまで見てたの?』


 悠真は自分でも考える。


 意識して観察していたわけではない。


 けれど、彩花の筆箱にも淡い色が使われていたし、家で見せてもらった布も水色だった。


 服にも白や淡い色が多い。


『なんとなく。』


『悠真君、本当に覚えてるね。』


『彩花さんも俺の本の好み分かってた。』


『じゃあお互い様かな。』


『たぶん。』


 その言葉を最後に、少しだけやり取りが途切れた。


 悠真はベッドへ背を預ける。


 好きなものを尋ねられたことは、これまでにもある。


 学校の自己紹介なら好きな教科や趣味を書くし、友人同士でも食べ物の好みくらいは話す。


 けれど今日のやり取りは、それとは少し違った。


 相手を分類するための質問ではない。


 答えを知ったあと、その人を見るときに思い出せるような、小さな情報を交換している。


 秋になれば、彩花は自分がこの季節を好きだと知っている。


 雨の日に図書館へ行けば、雨音を好きだと知っている。


 焼きたてのパンの匂いがすれば、もしかしたら思い出すかもしれない。


 自分も同じだ。


 新しいノートを見れば、彩花が最初のページを好きだと知っている。


 冬の朝、外へ出たときには、彼女もこの冷たい空気が好きだと知っている。


(知っただけなのに、前と少し違って見えそうだな)


 悠真はその感覚を、無理に言葉へ変えようとはしなかった。


     ◇


 水瀬家へ帰宅した彩花は、夕食と入浴を済ませたあと、自室の机へ向かった。


 部誌の続きを書く前に、今日借りてきた二冊を机へ置く。


 家具修理の短編集。


 刺繍を通じて祖母と孫が交流する小説。


 どちらも自分が読みたくて選んだものだ。


 そのうち一冊は、悠真にも合いそうだと思った。


 それが何となく嬉しい。


 スマートフォンを見ると、悠真とのやり取りが残っている。


 好きな季節。


 好きな時間。


 好きな匂い。


 好きな色。


 小さい頃の遊び。


 画面を遡れば遡るほど、今日はずいぶんたくさん話したのだと分かる。


(こういうこと、今まで聞いてなかったんだ)


 知っているつもりだった。


 実際、悠真について知っていることは増えている。


 それでも、好きな季節一つ知らなかった。


 雨の日の図書館が好きだということも、焼きたてのパンの匂いが好きだということも知らなかった。


 知らなかったことがあるのは、寂しいことではない。


 むしろ、まだ聞けることがある。


 知ったときに嬉しくなれることが残っている。


 以前なら「こんなことまで聞いていいのかな」と迷ったかもしれない。


 今は、自分が知りたいから聞けた。


 そして悠真も、自分の好きなものを聞いてくれた。


 彩花は普段使っているノートを開き、今日のことを短く書き留める。


『好きなものを知ると、その人がいない場所にも、その人を思い出すものが増える。』


 そこまで書き、少し考えてから続きを足した。


『秋の木。雨の日の図書館。焼きたてのパン。青。』


 並べてみると、どれも悠真そのものではない。


 それでも今日からは、少しだけ悠真と結びついたものになった。


 彩花は自分の好きなものも書く。


『新しいノートの最初のページ。冬の朝の空気。夕方の炊飯器の湯気。水色と白。』


 これを悠真も覚えているのだろうか。


 きっと覚えている。


 そう思えることに、もう大きな疑いはなかった。


 ノートを閉じる前に、もう一行だけ加える。


『知らないことがあるのは、遠いからじゃない。これから知れることが残っているということ。』


 書き終えてから、彩花はしばらくその文章を眺めた。


 以前にも、悠真について知らないことがあると気づいたことはあった。


 そのときより、今はずっと気持ちが軽い。


 全部を一度に知る必要はない。


 毎日少しずつでもいい。


 今日のように、何気ない質問から増えていくものもある。


 彩花は部誌用のノートを開き、物語の続きを書き始めた。


     ◇


 翌朝。


 教室へ入った彩花は、鞄を机へ置いてから窓の外を見た。


 空は曇っている。


 天気予報では、午後から雨が降るらしい。


 その瞬間、昨日聞いたばかりの言葉が頭に浮かんだ。


『雨の日の図書館。』


 彩花は窓の向こうに広がる灰色の空を眺め、自然に笑った。


(本当に思い出した)


 たった一日で。


 雨すらまだ降っていないのに。


「水瀬、おはよ」


 大地が後ろから声をかけてきた。


「おはよう」


「何見てた?」


「空。午後から雨らしいよ」


「最悪じゃん。傘持ってきてねえ」


「天気予報見なかったの?」


「朝は晴れてなかった?」


「曇ってたよ」


「じゃあ帰るまで耐えてほしい」


「雨にお願いしても無理だと思う」


 大地は自分の席へ鞄を置きながら、本気で困った顔をしている。


「購買に傘売ってなかったっけ?」


「あれ高いんだよな」


「濡れて帰るよりいいでしょ」


「放課後考える」


 彩花は苦笑しながら席についた。


 ホームルームが始まるまで少し時間がある。


 教科書を出そうとして、鞄の中の家具修理の短編集が目に入った。


 今日は休み時間に続きを読むつもりで持ってきた。


 悠真が好きそうだと思った本。


 自分も続きを読みたい本。


 それを見ただけで、昨日の会話が蘇る。


 好きなものを知ると、その人がいない場所にも、その人を思い出すものが増える。


 昨夜、自分で書いた通りだった。


     ◇


 昼前から、本当に雨が降り始めた。


 窓ガラスへ細かな水滴が当たり、教室の外が少し白く霞む。


 彩花は昼休み、弁当を食べ終えたあとでスマートフォンを確認した。


 悠真からは何も来ていない。


 それでも、昨日聞いたことを思い出して自分から送る。


『雨降ったね。』


 しばらくして返事が来た。


『こっちも。』


『今日、図書館行きたくなる?』


『ちょっと。』


『やっぱり。』


『彩花さん、覚えてたんだ。』


 彩花は画面を見て、少しだけ眉を上げた。


『覚えてるよ。』


『昨日聞いたばっかりだから?』


『それもあるけど、たぶんこれからも覚えてる。』


 送信してから、彩花は少し照れた。


 けれど消すほどではない。


 返事を待っていると、窓へ当たる雨音が少し強くなる。


『俺も覚えてる。』


 続けて。


『冬の朝になったら思い出すと思う。』


 彩花はその文章を見たまま、しばらく動けなかった。


 冬はまだ少し先だ。


 それなのに悠真は、その頃のことを自然に想像している。


 告白でもなければ、約束でもない。


 ただ、季節が変わったときに思い出すと言っただけ。


 それがなぜか、胸の奥へゆっくり残った。


『じゃあ私も、雨の日は悠真君思い出すかも。』


 指が止まる。


(これ、送っていいのかな)


 以前なら、そのまま消していただろう。


 意味を考えすぎて、別の文章へ変えていたかもしれない。


 けれど今は、事実だった。


 雨の日の図書館が好きだと知った。


 だから今日、雨を見て悠真を思い出した。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 彩花は送信した。


 返事は少し遅かった。


『俺、雨の日好きって言ってよかった。』


 彩花は思わず笑った。


『そこ?』


『だって雨の日に思い出してもらえるんだろ?』


『毎回とは言ってないよ。』


『たまにでもいい。』


『じゃあ、たまに。』


『うん。』


 そこで会話を終えた。


 彩花はスマートフォンを伏せ、窓の外へ目を向ける。


 雨はまだ降っている。


 教室の中には友人たちの声があり、大地は少し離れたところで、誰かに傘へ入れてもらえないか交渉していた。


 いつもの学校。


 いつもの昼休み。


 何も特別なことは起きていない。


 それなのに、窓の向こうの雨が昨日までとは少しだけ違って見えた。


     ◇


 放課後、彩花は文芸部室で物語の続きを書いた。


 男の子が、自分用の二つ目の写真立てを作り始める場面。


 一度目より上手く作れるかどうかは、まだ分からない。


 大切なのは、上手くなることではない。


 もう一度作ろうと思えたこと。


 自分が作ったものを、自分でも使ってみようと思えたこと。


 彩花はそこを丁寧に書いた。


 最初の写真立てを受け取った女の子は、二つ目を作っていることを知らない。


 男の子も、わざわざ報告しない。


 誰かに褒めてもらうためではなく、自分が作りたいから作る。


 それでも、きっかけになったのは誰かが受け取ってくれたことだった。


 書き進めているうちに、彩花は物語の終わり方が少し見えてきた。


 二つ目の写真立てが完成する。


 完璧ではない。


 それでも今度は、捨てようとは思わない。


 自分の机へ置く。


 何の写真を入れるのかは、まだ決めなくてもいいかもしれない。


 空のままでもいい。


 これから入れたいものが見つかる余白として終わるのも、悪くない。


(……うん。好きかも)


 彩花はペンを置き、書いた部分を最初から読み返した。


 まだ直したいところは多い。


 人物の会話も少ない。


 女の子の側をもう少し描きたい。


 それでも、最後まで続く道が初めて見えた。


「水瀬さん、今日すごく進んでない?」


 佐々木先輩の声に顔を上げる。


「終わり方が少し見えてきました」


「早いね」


「まだ初稿にもなってないですけど」


「でも、最後が見えたなら大きいよ。どう終わるの?」


 彩花は少し考え、今思いついたばかりの案を話す。


「男の子が二個目の写真立てを自分で作って、自分の机に置くところで終わろうかなって思ってます」


「写真は?」


「入れないかもしれません」


「空のまま?」


「はい。最初は失敗したものを捨てようとしてた子が、最後は自分で作ったものを空でも机に置けるようになる。それで十分かなって」


 佐々木先輩は少し黙った。


 彩花はその沈黙に緊張したが、やがて先輩は柔らかく笑った。


「私は好き」


「本当ですか?」


「うん。ただ、そこへ行くまでの男の子の変化は丁寧に書いた方がいいと思う。最後だけ見ると小さな変化だから、途中が薄いと読者には伝わりにくいかもしれない」


「分かりました」


「女の子も、男の子を変えるためだけの役にならないようにね」


「あ……」


 それはまだ十分に考えていなかった。


 女の子は写真立てを受け取り、大切に使う。


 今のままでは確かに、男の子へ影響を与えるためだけに存在しているように見えるかもしれない。


「女の子にも、その子自身の理由とか変化があった方がいいってことですか?」


「必ず変化させなきゃいけないわけじゃないよ。でも、その子がどういう人で、なぜ写真立てを欲しかったのか、なぜそれを気に入ったのかが見えると、一人の登場人物になると思う」


「……なるほど」


「考えすぎて止まらないでね。まず最後まで書いて、それから足してもいいから」


「はい」


 彩花はノートの余白へ、女の子についてのメモを追加した。


 なぜ写真立てが欲しかったのか。


 何の写真を飾りたかったのか。


 その答えは、物語の中心にも関わるかもしれない。


(ここ、ちゃんと考えよう)


 新しい課題が見つかった。


 それでも、昨日までのような不安はない。


 書けばまた見えてくる。


 そう思えるようになっていた。


     ◇


 その夜、彩花は家具修理の短編集を読み進めた。


 第二編、第三編と読むうちに、最初の予想は確信へ変わっていく。


 悠真はたぶん、この本を好きになる。


 ただし、自分と同じ話を一番好きになるとは限らない。


 そこが楽しみだった。


 自分は今のところ、第二編が一番好きだ。


 長年使った食卓を小さな机へ作り替える話。


 家族構成が変わり、大きな食卓が必要なくなった老夫婦が、捨てるのではなく二人用の机へ作り直してもらう。


 形は変わる。


 使い方も変わる。


 それでも、一緒に過ごした時間まで消えるわけではない。


 彩花は読み終えたページへ栞を挟み、スマートフォンを手に取った。


『家具の本、半分くらい読んだ。』


 悠真から返事が来る。


『どう?』


『私は好き。悠真君もたぶん好き。』


『まだたぶんなんだ。』


『実際読まないと分からないでしょ。』


『彩花さんの予想が当たるか試すの楽しみ。』


『外れたらどうしよう。』


『外れても面白い。』


 彩花はその文章を見て笑った。


 そうだ。


 違ってもいい。


 同じ本を読んで、違うところを好きになることは、もう知っている。


『じゃあ読み終わったら渡すね。』


『ありがとう。』


 続けて悠真から届く。


『部誌は進んだ?』


『進んだよ。終わり方が見えてきた。』


『聞きたい。』


『また?』


『聞きたいって言ったから。』


 彩花は少し迷ったあと、今日考えた終わり方を簡単に説明した。


 男の子が自分用の二つ目の写真立てを作ること。


 最後は写真を入れず、空のまま机へ置くかもしれないこと。


 悠真の返事は、すぐには来なかった。


 数分して届いた。


『空なの、いいと思う。』


『本当?』


『これから入れるもの選べるから。』


 彩花は画面を見つめる。


 自分も似た意味を感じていた。


 けれど、悠真が同じように受け取ってくれたことが嬉しい。


『私もそう思ってた。』


『じゃあ同じだ。』


『うん。』


 そこで一度会話が途切れる。


 彩花は本へ戻ろうとしたが、スマートフォンがもう一度震えた。


『今日、雨の日の図書館行かなかった。』


 唐突な報告に、彩花は首を傾げる。


『好きなのに?』


『部屋で本読んでた。』


『じゃあ雨の日の自分の部屋も好き?』


『好きかも。』


『また一個増えた。』


『好きなもの?』


『うん。』


 少しして。


『彩花さんが見つける方が増えてない?』


 彩花は思わず笑った。


『じゃあ悠真君も私の見つけてよ。』


『もう見つけてると思う。』


 指が止まる。


『何?』


 返事を待つ時間が、少しだけ長く感じた。


『人が作ったものの、上手い下手より先に、その人がどう作ったか知ろうとするところ。』


 彩花は画面から目を離せなくなった。


 好きな食べ物や色を聞いていたはずなのに、それは自分でも「好きなもの」として考えたことがない部分だった。


『それ、好きなものなの?』


『好きなこと、かな。』


『私が?』


『うん。クッキーのときも、本の感想のときもそうだったから。』


 彩花は返事を打てず、机の上の本へ視線を落とした。


 確かに、自分はそうすることがある。


 でも、それを自分の特徴だと思ったことはなかった。


 悠真が家具修理の物語を好きそうだと自分が見つけたように、悠真も自分の中にあるものを見つけていた。


(こういうことなんだ)


 好きなものを知ることは、質問へ答えてもらうだけではない。


 見ているうちに気づくこともある。


 本人がまだ名前をつけていないものを、相手が先に見つけることもある。


『それ、覚えておく。』


 彩花はようやく返信した。


『メモする?』


 また同じ冗談。


 今度は彩花もすぐ返す。


『これはするかも。』


『本当に?』


『部誌にも関係ありそうだから。』


『じゃあ使っていいよ。』


『ありがとう。』


 彩花はスマートフォンを置き、ノートを開いた。


 そこへ一行だけ書く。


『好きなものは、自分で知っているものだけではない。誰かに見つけてもらって、初めて気づくものもある。』


 書き終えたあと、しばらく眺める。


 物語にも使える。


 けれど、それだけではない。


 悠真と話していると、自分の知らなかった自分を見つけることがある。


 以前なら、それが怖かったかもしれない。


 比べられること。


 評価されること。


 自分では足りないと思っている部分を見られること。


 今は少し違う。


 悠真が見つけるものなら、聞いてみたい。


(次は、何を見つけるんだろう)


 そんなことを思いながら、彩花は家具修理の短編集を再び開いた。


 窓の外では、まだ細い雨が降っている。


 雨粒がガラスへ当たる音を聞いた瞬間、やはり悠真を思い出した。


 今度はそれを不思議には思わなかった。


 知っていることが一つ増えれば、思い出すきっかけも一つ増える。


 その積み重ねが、今の二人の間に静かに増えていた。

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