第64話 三枚のクッキーと、書き始めた物語
月曜日の放課後、青葉高校の文芸部室には、いつもより少しだけ張りつめた空気があった。
緊張するような出来事が起きているわけではない。窓の外からは運動部の掛け声が聞こえ、廊下を通る生徒たちの足音も普段と変わらない。ただ、部室中央の長机には佐々木先輩が職員室から持ってきた資料が並べられており、集まった部員たちの視線が自然とそこへ向いていた。
「先生から正式に許可が出たから、冬の部誌は発行できることになりました」
佐々木先輩がそう告げると、部室のあちこちから小さな歓声が上がった。
彩花も思わず背筋を伸ばす。
以前から話は出ていたし、発行する方向で進んでいることも聞いていた。それでも「正式に決まった」と言われると、急に現実味が増す。
「発行予定は冬休み前。今回は文化祭のときみたいに来場者へ配るものじゃないから、部数はそれほど多くしません。図書室にも何部か置いてもらえる予定です」
佐々木先輩は資料を一枚ずつ部員へ回していった。
「ページ数は一人あたり最大十二ページ。短編でも詩でも随筆でも構わないし、複数作品を合わせても大丈夫。ただし、印刷と製本の都合があるから締切は少し早めです。来月の半ばまでに初稿を出してください」
回ってきた資料を受け取った彩花は、まず締切を確認した。
今からなら、急いで書き上げる必要はない。
けれど、考えているだけでいつまでも時間を使えるほど余裕があるわけでもなかった。
(そろそろ、ちゃんと書き始めた方がいいよね)
土曜日までに物語の中心はかなり見えてきた。
誰かへ渡したものを、相手が大切に受け取ってくれる。
そのことによって、受け取った側だけではなく、渡した側の見え方も変わる。
完成度ではなく、そのときにしかない「最初」に意味が生まれることもある。
まだ人物も舞台も決め切れていないが、何を書きたいのかは以前よりはっきりしている。
「水瀬さんは、もう何か考えてる?」
資料を配り終えた佐々木先輩が、彩花の机の近くで足を止めた。
「少しだけです。まだ設定もちゃんと決まってなくて」
「でも、書きたいものはありそうな顔してる」
「顔で分かるんですか?」
「文化祭の作品を考えてた頃より、今の方が迷い方が前向きだから」
彩花は少し驚いて先輩を見上げた。
「前向きな迷い方って、どんな感じですか?」
「前は『これでいいのかな』って止まってる感じが多かったけど、今は『どれにしようかな』って迷ってるように見える」
「あ……」
言われてみれば、その違いは自分にも分かった。
以前は、書きたいものを思いついても、それが作品にしていいものなのか、自分が書いて面白くなるのかと考えていた。
今は違う。
書きたいものがあること自体は疑っていない。
問題は、それをどんな人物に託し、どんな出来事として描くかだった。
「確かに、そうかもしれません」
「なら、急いで答えを決めなくても大丈夫。ただ、そろそろ一回書き始めてみた方がいいかもね。書いてみたら、考えてたときには見えなかったものが出てくるから」
「はい」
「途中で見せたくなったら持ってきて。完成してからでもいいけど」
佐々木先輩はそれだけ言うと、別の部員のところへ向かった。
彩花は手元の資料を見下ろした。
途中でもいい。
その言葉に、土曜日の悠真とのメッセージが重なる。
まだ形になっていない物語でも、悠真は続きを聞きたいと言ってくれた。
(じゃあ、今日は少し書いてみようかな)
設定を全部決めてからではなく、今見えているところから。
彩花はノートを開いた。
◇
主人公は、高校一年生の女の子にした。
名前はまだ書かない。
舞台も具体的には決めず、最初の場面だけを作ってみる。
彼女は放課後、学校の美術室へ忘れ物を取りに行く。
そこで、一人の男子生徒が机に向かっているのを見つける。
男子生徒が作っているのは、小さな木製の写真立てだった。
授業の課題として作ったものだが、角が少し歪んでいる。
本人は出来に納得しておらず、提出後は捨てようと思っている。
しかし女の子は、その写真立てを見て「綺麗な色」と言う。
そこまで書いて、彩花はペンを止めた。
(……ちょっと違う)
悪くはない。
けれど、最初から女の子が相手の作品へ価値を見つけてしまうと、土曜日に考えていたものとは少し違う気がする。
渡した本人が「いらない」と思っているものを、誰かが欲しがる。
それでも話は成立する。
ただ、自分が書きたいのは、相手が褒めたから価値が生まれる話ではない。
受け取る側が、そのものに込められた時間や過程を自然に大切にする。
その姿を見て、渡した側が自分で見方を変える。
(もっと普通に渡した方がいいのかな)
例えば、写真立てを捨てる代わりに渡すのではなく、女の子が必要としていると知って渡す。
本人にとっては、練習で作っただけのもの。
でも受け取った女の子は、それを実際に使う。
何日か経ったあと、男子生徒が彼女の机で写真立てを見つける。
自分が作ったものが、誰かの日常の中に置かれている。
「……あ」
彩花の手が動いた。
思いついた部分を、忘れないうちにノートへ書き留めていく。
渡した瞬間ではない。
あとから気づく。
自分が渡したものが、その人の生活の一部になっている。
それなら、少し書きたいものへ近づく気がした。
「進んでる?」
いつの間にか戻ってきていた佐々木先輩の声に、彩花は顔を上げた。
「少しだけ。書き始めたら、最初に考えてたのと変わってきました」
「それでいいと思うよ。小説って、書き始める前に全部分かってるとは限らないから」
「先輩も変わりますか?」
「変わる。私なんて最初は脇役だった人が途中から一番好きになって、予定になかった場面を増やしたことあるし」
「それ、ちょっと分かる気がします」
「水瀬さんもそのうち登場人物に予定を壊されるかもね」
先輩が笑う。
彩花も笑い返してから、ノートへ視線を戻した。
まだ冒頭だけ。
完成までは遠い。
けれど、真っ白だったページには確かに文章が増えている。
それが嬉しかった。
◇
部活動を終え、校門を出たところで、彩花はスマートフォンを確認した。
悠真から一時間ほど前にメッセージが届いている。
『今日、部活?』
『うん。今終わったところ。』
返信すると、数分もしないうちに既読がついた。
『俺も今終わった。』
彩花は足を止めずに駅へ向かう。
『生徒会?』
『今日は生徒会。』
『お疲れさま。』
『彩花さんも。部誌、何か決まった?』
土曜日に話したことを覚えているらしい。
彩花は少し考えてから、歩道の端で立ち止まった。
『正式に発行決まったよ。今日、締切とかページ数も聞いた。』
『おめでとう。』
『ありがとう。』
『書き始めた?』
そこまで聞かれるとは思わなかった。
彩花は画面を見ながら笑う。
『少しだけ。』
返事はすぐだった。
『聞きたい。』
たった四文字。
けれど土曜日にも「続きを聞きたい」と言ってくれた悠真らしい。
『まだ本当に最初だけだよ。』
『それでも。』
彩花は少し迷い、駅までの道を歩きながら次の文章を打った。
『じゃあ今度話す。』
送信した直後、ふと思い出す。
クッキー。
自分のために取ってある三枚。
『そういえばクッキー、まだある?』
『ある。』
『よかった。』
『ちゃんと分けてあるよ。』
『いつ食べられるかなって思って。』
今度は悠真からの返事が少し遅れた。
『今日でもいいけど。』
彩花は思わず立ち止まった。
『今日?』
『今から青凪駅に行けば、彩花さんとそんなに変わらないと思う。』
桜華から駅までは徒歩で十五分ほど。
青葉からも同じくらいだ。
現在地を考えれば、確かに大きな差はない。
『クッキー持ってるの?』
『朝、鞄に入れた。』
彩花はその文章を二度読んだ。
『今日会う予定なかったよね?』
『なかった。』
『なのに持ってきたの?』
『学校終わったあと会えるかもしれないと思って。』
胸の奥が、じわりと温かくなる。
約束をしていたわけではない。
それでも悠真は、自分へ渡す三枚を朝から鞄へ入れていた。
(会えるかもしれないって、思ってくれてたんだ)
彩花は駅へ向かう足を少しだけ速めた。
『じゃあ、駅で会う?』
『うん。』
『私、あと十分くらい。』
『俺もそのくらい。』
待ち合わせ場所を決めるほどでもない。
いつものように駅の改札近くで会えばいい。
そう思ったところで、彩花はふと笑った。
最初の頃なら、突然会うことになっただけで、もっと緊張していただろう。
今は違う。
驚きはある。
嬉しさもある。
けれど、それ以上に自然だった。
◇
青凪駅へ着いた彩花が改札前の広場を見回すと、悠真はまだ来ていなかった。
時計を見る。
約束した時刻があるわけではないので、待っているという感覚も少し違う。
駅構内には帰宅途中の学生や買い物帰りの人が行き交い、改札からは一定の間隔で電子音が聞こえている。夕方の人波を眺めながら壁際へ移動したところで、スマートフォンが震えた。
『着いた。』
ほぼ同時に、少し離れた入口から桜華の制服が見えた。
悠真も彩花を見つけたらしい。
人を避けながらこちらへ歩いてくる。
「お疲れさま」
「彩花さんも、お疲れさま」
「本当に会えたね」
「会えると思ったから持ってきた」
悠真が肩から下げた鞄を軽く示す。
「でも、私が部活なかったら先に帰ってたかもしれないよ?」
「そのときは持って帰るだけだから」
「毎日持ってくるつもりだった?」
「さすがに毎日は分からないけど、今日か明日くらいに会えたらと思ってた」
彩花は返事をしながら、自分の頬が少し緩むのを感じた。
「じゃあ、今日でよかった」
「うん」
「ここで食べる?」
「駅の中は落ち着かないかも」
「交流センターの方行く?」
「そうしよう」
二人は並んで歩き始めた。
市民交流センターは駅から近く、学生でも利用できる休憩スペースがある。図書館まで行くほど時間をかける必要はないし、帰宅前に少し話すにはちょうどよかった。
「クッキー、大丈夫だった?」
歩きながら彩花が尋ねる。
「割れてないと思う」
「思う?」
「朝は確認した」
「そのあと鞄振り回してない?」
「振り回してないよ」
「じゃあ大丈夫かな」
「割れてても味は同じだと思う」
「それはそうだけど、悠真君が気にしそう」
「……ちょっとは」
「やっぱり」
彩花が笑う。
悠真も否定せず、少しだけ困ったように笑った。
◇
市民交流センターの休憩スペースは、夕方でも比較的空いていた。
二人は窓際の小さなテーブルを選び、向かい合わせではなく、角を挟む形で座った。
悠真が鞄から保存容器を取り出す。
「これ」
「本当に三枚ある」
「三枚って言ったから」
「そこ疑ってないよ」
透明な容器の中には、紅茶クッキーが三枚入っている。
一枚は綺麗な丸に近い。
一枚は少し厚い。
最後の一枚は端がわずかに歪んでいた。
彩花は蓋を開ける前に、その三枚を見比べた。
「わざと違うの入れた?」
「分かる?」
「分かるよ。一枚だけちょっと厚いもん」
「食感違うかもしれないと思って」
「研究みたいになってる」
「次に直したいから」
彩花は思わず笑った。
「じゃあちゃんと感想言わないとね」
「お願いします」
「緊張してる?」
「少し」
「作った本人が?」
「彩花さんが最初に教えてくれたから」
悠真はそう言ってから、少しだけ視線を容器へ落とした。
「一人で作ったの食べてもらうのは、また違う」
彩花は蓋へ伸ばしていた手を止める。
先週、九条家のキッチンで並んで作ったときは、途中で失敗しそうになれば自分が声をかけられた。
今回は違う。
悠真が自分でレシピを読み、自分で生地を作り、自分で焼いた。
写真では見ていたが、その結果が今、目の前にある。
「じゃあ、ちゃんと食べます」
「うん」
彩花は蓋を開けた。
紅茶とバターの香りは、作ってから二日経っていても残っている。
まずは一番形の整ったものを手に取った。
「これから」
「それ、たぶん一番普通」
「普通って何?」
「厚さが前に作ったのに近い」
「なるほど」
一口かじる。
さく、と小さな音がした。
悠真がこちらを見ている。
普段なら、見られながら食べるのは少し落ち着かない。しかし今は、感想を待っているのだと分かっているので、彩花も急がず味わった。
「……美味しい」
悠真の肩がわずかに緩んだ。
「本当?」
「うん。ちゃんと紅茶の香りするし、甘さも大丈夫」
「固くない?」
「少しだけ。でも私、これくらいでも好きだよ」
「気を遣ってない?」
「遣ってないよ。もっと柔らかくしたいなら混ぜ方か焼き時間を少し変えてもいいと思うけど、失敗ってほどじゃない」
「よかった」
悠真ははっきり安堵した。
その表情を見て、彩花は少しおかしくなる。
「そんなに心配してたの?」
「写真だけで美味しそうって言ってもらってたから、実際食べて違ったら嫌だなって」
「私、ちゃんと違ったら言うよ」
「それは知ってる」
「じゃあ何で心配するの」
「だから心配したんじゃない?」
「あ、そっか」
二人で笑った。
彩花は残りの半分も食べる。
先週一緒に作ったものと全く同じではない。
それでも、間違いなくあのレシピから作られた味だった。
「何か不思議」
「何が?」
「私が書いたレシピ見て、悠真君が一人で作ったんだなって思うと」
「ちゃんと役に立ったよ」
「うん」
「卵のところだけ聞いたけど」
「そこは質問ありでいいでしょ」
「次は聞かなくてもできると思う」
「じゃあ次はもっと上手くなるね」
「たぶん」
「でも」
彩花は食べ終えた一枚目を思い出しながら、容器の中を見る。
「やっぱり、今日これ食べられてよかった」
「次のじゃなくて?」
「うん。次がもっと美味しくても、最初のはこれだけだから」
悠真はすぐには返事をしなかった。
土曜日にメッセージで話したことと同じ。
けれど、実際に彩花が目の前で食べてそう言うと、受け取り方が少し違った。
「……ありがとう」
「何でお礼?」
「食べたいって言ってくれたから」
「私が食べたかったんだよ?」
「それでも」
悠真は容器の中の残り二枚を見る。
「土曜日は、ちょっと固くなったなって最初に思った。でも今は、最初に作ったのがこれでよかった気がする」
彩花はその言葉を聞き、部誌用のノートへ書いた一文を思い出した。
受け取ってくれたことで、渡した側の見え方が変わる。
目の前で、それが起きている。
「悠真君」
「うん?」
「その話、使っていい?」
「クッキーの?」
「そのまま書くんじゃないよ。考え方だけ」
「もちろん」
「今日、部活で少し書き始めたの」
「本当に?」
悠真の表情が明るくなる。
それが思った以上に分かりやすくて、彩花は少し笑った。
「そんなに嬉しい?」
「だって、聞きたいって言ってたから」
「まだ本当に少しだよ」
「どんな話?」
彩花は二枚目のクッキーへ手を伸ばしながら、今日書いたばかりの冒頭を思い出した。
「高校生の女の子と男の子の話にしようかなって思ってる」
「うん」
「男の子が美術の授業で写真立てを作るの。でもちょっと失敗して、本人はあんまり気に入ってない」
「それを女の子に渡す?」
「最初はそう考えた。でも、書いてたら少し変わった」
彩花はクッキーを手にしたまま、言葉を選ぶ。
「女の子が写真立てを欲しがってるのを知って、男の子が『これでよければ』って渡すの。本人にとっては練習で作っただけのものだから、そんなに大事じゃない」
「女の子は使う?」
「うん。それで少し経ってから、男の子が女の子の机に自分の写真立てが置いてあるのを見つける」
「何の写真入ってるの?」
「そこ、まだ決めてない」
「家族とか?」
「それも考えた。でも、写真の中身が大事になりすぎると、写真立ての話じゃなくなりそうで」
「ああ……確かに」
悠真は真剣に考えている。
彩花はそれを見て、少しだけ緊張がほどけた。
まだ書き始めたばかりの話を誰かへ説明するのは、やはり恥ずかしい。
完成した文章なら、少なくとも自分の中で一度は答えが出ている。
今は違う。
話しながら、自分でも迷っているところが見えてしまう。
それでも悠真は、未完成だからと評価を急がない。
「その男の子は、写真立てが使われてるの見てどう思うの?」
「そこが大事なの」
「うん」
「最初は、何でそんなの使ってるんだろうって思う。でも女の子に聞いたら、もらったものだから使ってるんじゃなくて、普通に気に入ってるって言われる」
「それで自分でも見方が変わる?」
「そうしたい」
彩花は頷く。
「ただ、自信がついて急に何でも作れるようになるとかは違うかなって。その写真立てだけは、失敗じゃなかったと思えるくらいがいい」
「俺、その方が好き」
「本当?」
「うん。全部変わるより、その一個だけ見え方が変わる方が分かる気がする」
悠真は少し考えてから、テーブルの上の保存容器を指した。
「これみたいに」
彩花も同じものを見る。
二枚残った紅茶クッキー。
「そうかも」
「じゃあ俺、取材された?」
「取材ってほどじゃないよ」
「モデル?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
「……参考?」
「それならいいか」
「悠真君本人を書くわけじゃないからね」
「俺、美術苦手じゃないし」
「そこ?」
「大事じゃない?」
「大事じゃないよ」
彩花は笑いながら二枚目をかじった。
今度は少し厚い。
一枚目より中心の食感が柔らかく、同じ生地でも違いがある。
「あ、私こっち好きかも」
「厚い方?」
「うん。外はさくってしてるけど、中がちょっと柔らかい」
「じゃあ次、少し厚めにする?」
「全部じゃなくてもいいんじゃない? 厚さ変えて焼いて、好きなの探してもいいし」
「それやってみたい」
「実験みたいになってきたね」
「でも面白そう」
悠真はスマートフォンを取り出し、何かを入力し始めた。
「何してるの?」
「メモ。少し厚い方を彩花さんが好き」
「そこまで残すの?」
「次作るなら覚えてた方がいいだろ」
「……そうだけど」
彩花は少し困った。
自分が好きだと言ったものを、悠真は本当に覚えようとする。
それは今に始まったことではない。
本の好みも、食べ物のことも、自分が何気なく話したことまで残っている。
けれど目の前で「彩花さんが好き」とメモされると、いつもより実感が強かった。
「何?」
悠真が顔を上げる。
「ううん」
「変だった?」
「変じゃないけど……悠真君、そういうの本当に覚えようとするよね」
「嫌?」
「嫌じゃない」
彩花はすぐに答えた。
そこはもう迷わない。
「嬉しいよ。ただ、私も悠真君の好きなもの、同じくらい覚えてるかなって思っただけ」
「覚えてると思う」
「そう?」
「本のこととか、俺より覚えてるときあるし」
「それは本だからじゃない?」
「俺が好きな場所も覚えてる」
「それは……覚えてるよ」
「じゃあ同じじゃない?」
そう言われると、否定する理由がなかった。
悠真が好きな本。
好きな場所。
家での過ごし方。
紅茶は無糖を選ぶことが多い。
最初に貸してくれた冒険小説が大切な本であること。
生徒会ではきちんとしているのに、家では琴葉に普通にからかわれること。
ハクに彩花の注意を奪われると、少しだけ複雑そうな顔をすること。
思い浮かべれば、いくつも出てくる。
(私も、ちゃんと覚えてる)
彩花はそのことが少し嬉しくなった。
「……同じかも」
「でしょ?」
「うん」
答えてから、最後の一枚を見る。
端が少し歪んだクッキー。
「これが一番形違うね」
「それ、最初に切ったやつ」
「そうなの?」
「たぶん。まだ厚さ分からなくて、少し直した」
「じゃあ本当に最初の一枚だ」
「焼いた順番は一緒だけど」
「細かいなあ」
彩花は笑いながら、その一枚を手に取った。
「これも食べる」
「三枚全部?」
「私の分でしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ食べるよ」
最後の一枚も、味はちゃんと美味しかった。
少し形が歪んでいても、食べてしまえば大きな違いはない。
けれど、最初に形を作った一枚だと聞くと、それだけで少し印象が変わる。
人は、ものそのものだけを受け取っているわけではないのかもしれない。
そこに付随する時間や出来事まで、一緒に受け取っている。
(これも書いておきたい)
彩花は帰ったらノートへ残そうと決めた。
◇
「そういえば、タイトルは?」
三枚すべて食べ終えた頃、悠真が尋ねた。
「まだないよ」
「仮題も?」
「ない。そこまで進んでないもん」
「いつも最後に決める?」
「作品によるかな。最初に浮かぶときもあるし、最後まで決まらないときもある」
「今回、何になりそう?」
「それを今聞くの?」
「候補ないの?」
「……一個もない」
「じゃあ考えてみる?」
「悠真君が?」
「勝手に決めるんじゃなくて、どんなのが合うかなって」
彩花は少し考えた。
「それは楽しそうだけど、まだ話全部決まってないよ?」
「なら、話が進んでからでもいい」
「うん。タイトルは自分でも考えたいから、候補できたら比べようかな」
「分かった」
悠真はそこで話を切り上げた。
自分が関われると分かっても、彩花の作品へ必要以上に入り込もうとはしない。
その距離感がありがたかった。
「でも、一つお願いしていい?」
彩花が言う。
「何?」
「初稿できたら、読んでほしい」
口にしてから、少し緊張した。
以前にも悠真へ自分の作品を読んでもらったことはある。
だから初めてのお願いではない。
それでも、新しく書く作品を最初から「読んでほしい相手」として考えていたことを伝えるのは、少し違う。
悠真も一瞬だけ目を見開いた。
「俺でいいの?」
「悠真君がいい」
彩花はそこまで言ってから、自分の言葉を聞いて頬が熱くなるのを感じた。
けれど、言い直さなかった。
「今回の話、悠真君と話してて考えたことも入ってるから。完成したら、最初に感想聞いてみたい」
悠真はすぐには返事をしなかった。
驚いたような表情が、ゆっくり嬉しそうなものへ変わっていく。
「読みたい」
「まだいつ完成するか分からないよ?」
「待つよ」
「締切までには書くから、そんなに長くは待たせないと思う」
「急がなくていい。彩花さんが完成したと思ったときに見せて」
その言い方が悠真らしくて、彩花は小さく頷いた。
「うん」
文化祭の作品を書いていたときとは違う。
あの頃より、彩花自身が書くことを楽しめるようになっている。
そして今回は、完成したら読んでほしい相手を、自分から選んだ。
それが少し誇らしかった。
◇
休憩スペースを出る頃には、外の光がかなり傾いていた。
二人は駅へ戻るため、市民交流センターの自動ドアを抜ける。
夕方の風は冷たく、彩花の髪が頬へかかった。
「寒い」
「大丈夫?」
「まだ平気。急に冷えてきたね」
「朝より寒い気がする」
「秋ってこういう日あるよね」
駅までの短い道を、二人はゆっくり歩く。
今日は会う予定ではなかった。
図書館へ行く約束も、どこかで遊ぶ予定もなかった。
学校が終わった時間が近く、悠真がクッキーを持っていて、彩花が食べたいと思った。
それだけで会った。
「何か、こういうの初めてかも」
彩花が呟く。
「何が?」
「ちゃんと予定決めないで会ったの」
悠真も考える。
「確かに」
「いつも図書館とか、文化祭とか、何かあったもんね」
「今日はクッキーあったけど」
「それは理由になる?」
「会う理由にはなった」
「じゃあ、やっぱり理由あるじゃん」
彩花は笑った。
悠真も少し笑ったあと、前を向いたまま言う。
「でも、理由なくても会っていいんじゃない?」
彩花の足が、ほんの少しだけゆっくりになった。
「……そうだね」
悠真も立ち止まらない。
ただ自然に、彩花の歩幅へ合わせる。
「話すこと、毎回増えるし」
「今日も部誌の話増えたね」
「クッキーも」
「次は悠真君の二回目のクッキー?」
「それだけのために会う?」
「別にいいんじゃない?」
今度は彩花の方が言った。
悠真がこちらを見る。
「理由なくてもいいんでしょ?」
「うん」
「だったら、クッキーだけでもいいし、何もなくてもいいじゃん」
言葉にしてみると、思った以上に恥ずかしかった。
何もなくても会っていい。
それはつまり、会うこと自体が目的でもいいということだ。
彩花は自分でそこまで考えてしまい、少しだけ前を向く。
悠真も同じ意味に気づいたのか、返事までわずかな間があった。
「……うん。俺もそう思う」
それ以上は言わなかった。
言わなくても、十分だった。
駅の入口が近づく。
人の流れが増え、二人の距離も自然に少し縮まった。
肩が触れるほどではない。
けれど、離れないように互いの位置を意識する程度には近い。
彩花はその距離のまま歩いた。
◇
「じゃあ、またね」
改札前で彩花が言う。
「うん。また」
「クッキー、ごちそうさま」
「次はもう少し上手く作る」
「今日のも美味しかったよ」
「でも厚い方が好きなんだよね」
「覚えてる」
「メモしたから」
「そこまでしなくても忘れないでしょ」
「念のため」
「じゃあ私も何かメモしようかな」
「何を?」
「悠真君の好きなもの」
「今から?」
「知ってるのもあるけど、まだ知らないのもあるから」
悠真は少しだけ驚いたように彩花を見る。
「じゃあ聞いて」
「今?」
「今じゃなくても。知りたいときに」
彩花はその言葉に頷いた。
「分かった」
また一つ質問したいことが増えた。
けれど、今ここで全部聞く必要はない。
次に会ったときでも、その次でもいい。
「部誌も楽しみにしてる」
「まだ期待しすぎないでね」
「楽しみにするくらいいいだろ」
「それは……いいけど」
「じゃあ楽しみにしてる」
「うん」
彩花は笑い、改札へ向かった。
数歩進んだところで一度振り返る。
悠真はまだそこにいた。
視線が合う。
どちらからともなく小さく手を振った。
彩花は今度こそ改札を通った。
◇
その夜、彩花は机へ向かうと、真っ先に部誌用のノートを開いた。
今日、悠真へ話したことで、自分の中でも物語が少し整理されている。
主人公の女の子。
写真立てを作った男の子。
渡されたものが誰かの日常へ入り込んでいくこと。
作った本人が、あとからその意味に気づくこと。
そして、すべてが劇的に変わるわけではなくても、一つだけ見え方が変わること。
彩花は冒頭から書き直すのではなく、まず続きを書いた。
女の子が写真立てを受け取る。
机へ置く。
その中へ何の写真を入れるのかは、まだ空白にしておく。
後日、男の子が偶然それを見つける。
自分が作ったものだとすぐ分かる。
少し歪んだ角を、自分が一番よく覚えているから。
(あ、これいいかも)
失敗したと思っていた部分が、本人にとって見分ける印になる。
女の子はその歪みを気にしていない。
むしろ手作りらしくて好きだと言う。
そこで男の子は、初めて写真立てを正面から見直す。
完璧ではない。
でも、捨てるほど悪いものでもなかった。
誰かが褒めてくれたから急に素晴らしい作品になるのではなく、自分自身が少しだけ別の見方をできるようになる。
彩花は夢中でペンを動かした。
しばらくして、スマートフォンが震える。
『家着いた?』
悠真だった。
『着いてるよ。今、部誌の書いてる。』
『もう?』
『話したら書きたくなった。』
『邪魔した?』
『してないよ。』
彩花は少し考え、今書いたばかりのことを伝える。
『写真立ての歪んだところを、作った本人が見分ける印にしようかなって。』
悠真からの返事には少し時間がかかった。
『いいと思う。』
続けて。
『失敗したと思ってたところが、あとでその人にしか分からないものになるの好き。』
彩花はその文章を読んで、思わずノートへ目を戻した。
自分が書きたかったことを、悠真が別の言葉で受け取ってくれている。
まだ本文を読ませていないのに、考えていることが少し伝わった。
『それ、覚えておく。』
『使う?』
『考えるときの参考にする。』
『じゃあ今日も一個渡せた。』
水曜日の会話を思い出し、彩花は笑った。
『受け取りました。』
返信する。
それから、少しだけ迷った。
今日、駅へ向かう途中で話したこと。
理由がなくても会っていい。
あの言葉が、まだ胸の中に残っている。
けれど、それを改めてメッセージで確認する必要はない気がした。
代わりに。
『今日はクッキー持ってきてくれてありがとう。』
送る。
『俺が渡したかったから。』
『私も食べたかったから、ちょうどよかったね。』
『うん。』
短いやり取りのあと、悠真からもう一つ届いた。
『朝、持っていってよかった。』
彩花は画面を見つめた。
会えると決まっていなかったのに、悠真はクッキーを鞄へ入れた。
自分に渡せるかもしれないと思って。
『私も、今日会えてよかったよ。』
今度は迷わず送れた。
『俺も。』
それだけだった。
けれど彩花には、そのくらいがちょうどよかった。
スマートフォンを置き、再びノートへ向かう。
今夜はもう少し書けそうだった。
◇
同じ頃、悠真も自室の机に向かっていた。
彩花へ渡した保存容器は、もちろん鞄の中にはもうない。
朝は確かにあった三枚が、今は全部彩花のところへ届いた。
食べてもらった。
感想も聞いた。
一番形の整ったものより、少し厚いものを好きだと言った。
そして、最初に形を作った少し歪んだ一枚も、普通に食べてくれた。
悠真はスマートフォンのメモを開く。
『少し厚めの方が好き』
昼間に残した一行。
見返してから、少し笑った。
次に作るときは、厚さを何種類か変えてみよう。
今度は焼き時間も少し調整したい。
そんなことを考えていると、以前なら自分が休日にクッキーの焼き加減を考えるなど想像もしなかったと気づく。
彩花と知り合ってから、自分の中へ増えたものは多い。
読む本。
行く場所。
知っている景色。
家族以外へ見せる自分のこと。
そして今は、お菓子作りまで増えた。
(彩花さんの方にも、俺と会って増えたものってあるのかな)
ふと考える。
答えは分からない。
ただ、今日の物語には、自分と話したことが少し入っていると言っていた。
それだけで十分嬉しかった。
悠真は机の上に置かれた本へ目を向ける。
まだ感想を話し終えていない、彩花から借りた小説。
会う理由なら、まだいくつもある。
けれど今日、二人で話した。
理由がなくても会っていいのではないかと。
その言葉を思い出すと、胸の奥が静かに温かくなる。
(何もなくても、会いたいって思うのかな)
そこまで考えて、悠真は答えを急がなかった。
ただ、今日の朝、会えると決まっていない彩花のためにクッキーを鞄へ入れたことだけは事実だった。
会えたらいいと思った。
渡せたらいいと思った。
そして実際に会えて、嬉しかった。
今は、それで十分だった。
◇
彩花はその夜、いつもより少し遅い時間までノートへ向かっていた。
書き始めたばかりの物語は、まだ完成には遠い。
登場人物の名前も決まっていない。
女の子が写真立てへ入れる写真も空白のままだ。
それでも、冒頭から数ページ分の文章が生まれていた。
最後に今日書いたところを読み返し、彩花は少しだけ手直しする。
男の子は、自分が失敗したと思っていた歪みを見つける。
それがあるから、自分が作ったものだと分かる。
女の子は、その歪みを直そうとはしていない。
そのまま使っている。
彩花はそこでペンを置いた。
(今日はここまででいいかな)
完成させることより、続きを書きたいと思えるところで終われたことが嬉しい。
机の隅には、今日クッキーが入っていた空の保存容器がある。
帰宅してから洗い、乾かしておいた。
次に会ったとき、悠真へ返す。
彩花はその容器を見ながら、三枚の味を思い出した。
一番整っていたもの。
少し厚くて、自分が一番好きだったもの。
そして、最初に形を作ったという少し歪んだもの。
どれも同じ生地から作られた。
けれど、話を聞いたあとでは一枚ずつ違って見えた。
きっと、物語も似ている。
ただ出来事を書くだけではなく、そこに誰がいて、何を感じ、どう受け取ったのかで意味が変わる。
彩花は閉じたノートの表紙へ手を置いた。
初稿が完成したら、悠真に読んでもらう。
それはもう決めた。
どんな感想をもらえるのかは分からない。
自分では気づかなかったところを見つけてくれるかもしれないし、好きな場面が自分の予想と違うかもしれない。
水曜日に本の感想を話したときのように。
違ったら、理由を聞けばいい。
そこからまた、自分では見えなかったものが見つかるかもしれない。
(早く書きたいな)
そう思えることが、何より嬉しかった。
彩花は部屋の明かりを消す前に、スマートフォンを一度確認した。
悠真との最後のやり取り。
『私も、今日会えてよかったよ。』
『俺も。』
短い二つの言葉を眺め、口元が自然に緩む。
今日はクッキーを受け取った。
物語のための考え方も受け取った。
そして自分からは、まだ書き始めたばかりの物語を少しだけ渡した。
次は何を受け取り、何を渡すのだろう。
それはまだ分からない。
けれど、何か特別な理由を用意しなくても、また会って話せる。
今の彩花には、そのことがとても自然で、同時に少しだけ嬉しいことになっていた。




