第63話 最初の一枚は、君に
土曜日の午前、九条家のキッチンには、いつもより少しだけ落ち着かない空気が流れていた。
休日の朝食はとっくに終わり、麗華はダイニングテーブルで雑誌を眺め、琴葉はソファでスマートフォンを触っている。正樹と俊治はそれぞれ別の用事があり、家の中は静かな方だったが、キッチンの一角だけは朝から何度も引き出しや戸棚が開閉されていた。
その中心にいる悠真は、調理台の上へ材料を並べている。
薄力粉、無塩バター、砂糖、卵、そして紅茶の茶葉。
横にはデジタルスケールとボウルがあり、さらに少し離れた場所には一枚の紙が置かれていた。
彩花が手書きしてくれた、紅茶クッキーのレシピである。
「……本当に一人でやるの?」
いつの間にかキッチンの入口へ移動していた琴葉が、兄の手元を覗き込んでいた。
「そのつもりだけど」
「お母さんに手伝ってもらわないの?」
「分からなくなったら聞くかもしれないけど、最初から手伝ってもらったら一人で作ったことにならないだろ」
「真面目だねえ」
「普通じゃない?」
「普通かどうかは知らないけど、先週教わったクッキーを次の休みにもう作ってるのは、かなりやる気あると思う」
琴葉はからかうというより、純粋に感心したようだった。
悠真も否定しない。
「忘れないうちに一回やった方がいいと思って」
「なるほど」
琴葉は調理台の端に置かれたレシピへ目を向けた。
彩花の字は読みやすく、材料と手順だけでなく、失敗しやすいところには小さな注意書きが添えられている。兄が昨日もその紙を眺めていたことを琴葉は知っていたが、それをわざわざ口にするつもりはなかった。
「味見係いる?」
「焼けたら」
「やった」
「でも最初は俺が食べるから」
「毒見?」
「失敗してるかもしれないものを先に人へ食べさせるの嫌だろ」
「そこまで危険なものはできないと思うけど」
会話を聞いていた麗華が、雑誌から顔を上げて笑う。
「オーブンの使い方だけは、分からなかったら聞きなさいね。前回は彩花ちゃんがいたから任せていたけれど」
「うん。それは聞く」
「材料は足りてる?」
「確認した。バターも出してある」
「なら大丈夫そうね」
麗華もそれ以上は口を出さなかった。
先週、彩花と並んでクッキーを作っていたときの悠真は、普段の勉強や生徒会活動とは違う種類の真剣さを見せていた。慣れない作業へ戸惑いながらも、彩花に教わったことを一つずつ確かめている姿は、母親から見ても新鮮だった。
今日はその彩花がいない。
それでも手元には、彼女が残していったレシピがある。
悠真は一度全体を読み直してから、バターを量り始めた。
「じゃあ始める」
「頑張って、お兄ちゃん」
「琴葉は見てるだけ?」
「邪魔しないように離れてる」
「それが一番助かるかも」
「ひどい」
そんなやり取りをしながらも、悠真の表情はどこか楽しそうだった。
◇
同じ頃、水瀬家では、彩花が自室の机へノートを広げていた。
冬の部誌に向けて考え始めた新しい物語は、まだ登場人物の名前さえ決まっていない。けれど、以前よりも輪郭は見え始めていた。
主人公は高校生くらいの女の子。
自分では特別なものを何も持っていないと思っている。
けれど、彼女が日常の中で誰かへ渡した小さなものが、相手にとって思いがけず大切なものになる。
何を渡すのかは、まだ決めていない。
手紙にするか、何かの手作り品にするか、それとも形のないものにするか。
水曜日に悠真と話した「受け取った側だけでなく、渡した側にも変化がある」という考えが、物語の中心へ少しずつ入り込んでいた。
(でも、渡したものが最初からすごく大切なものだと違う気がする)
主人公自身は、それを大したものだと思っていない方がいい。
何気なく渡したものを相手が大切にしてくれたことで、自分の中でも価値が変わっていく。
彩花はシャープペンシルを動かし、思いついたことを箇条書きにしていった。
以前なら、最初から綺麗な文章にしようとして手が止まっていたかもしれない。今は、まとまっていなくてもとりあえず残しておけばいいと思える。
そのとき、机の横に置いていたスマートフォンが震えた。
画面を見る。
悠真からだった。
『今から作る。』
続けて写真が一枚届く。
調理台の上へ並べられた材料とボウル、その端に置かれた手書きのレシピ。
彩花は思わず椅子の上で姿勢を正した。
「今日なんだ」
独り言を漏らしながら、写真を拡大する。
材料は揃っている。
バターも室温へ戻しているように見える。
紅茶の茶葉も用意されていた。
そして何より、自分が書いたレシピが本当に九条家のキッチンへ置かれている。
分かっていたはずなのに、実際に写真で見ると妙な実感があった。
『材料ちゃんと揃ってるね。』
送る。
『昨日確認した。』
『えらい。』
数秒後。
『先生に褒められた。』
彩花は画面を見ながら少し笑った。
『先生じゃないよ。』
『じゃあ先輩?』
『クッキー作りだけなら先輩かも。』
『先輩、頑張ります。』
『頑張って。混ぜすぎ注意ね。』
送信した瞬間、彩花の指が止まった。
混ぜすぎ。
その言葉から、先週のキッチンで悠真の手首へ触れたことを思い出してしまった。
(もう、そこまでセットで思い出さなくていいのに)
頬が少し熱くなる。
幸い、今は自室に一人だ。
彩花はスマートフォンを伏せ、書きかけのノートへ意識を戻そうとした。
ところが数分もしないうちに、また画面が震えた。
『卵ってこれくらいずつ?』
写真には、溶き卵の入った小さな器と、生地の状態が写っている。
彩花は思わず笑った。
(もう聞いてる)
ただ、写真を見る限り失敗しているわけではない。
『それくらいで大丈夫。一回混ぜて、なじんでから次入れて。』
『了解。』
『分離しそうなら一気に入れないでね。』
『分かった。』
そこからしばらくメッセージは来なかった。
彩花も自分の作業へ戻る。
ノートへ数行書き、消して、また別の言葉へ変える。
主人公が渡すものを何にするか考えているうちに、ふと手作りのしおりが頭へ浮かんだ。
けれど、それでは自分と悠真の出来事に近すぎる。
(そのまま書くのは違うよね)
自分の経験を使うとしても、出来事そのものを写す必要はない。
感じたことだけを残し、物語は別の形にしたい。
そう考えていると、再びスマートフォンが震えた。
『ここまで来た。』
今度は生地の写真だった。
薄力粉を加えたあとらしく、まだ少し粉っぽさが残っている。
彩花は画面へ顔を近づけた。
『そこで止めて大丈夫。』
『まだ粉見えるけど?』
『そのくらいなら、まとめるときになじむよ。混ぜすぎる方が固くなりやすいから。』
送ったあと、少し迷ってもう一つ加える。
『前よりちゃんと止まれてる。』
返信まで少し間があった。
『今日は手首止めてもらえないから。』
「……っ」
彩花の肩が小さく跳ねた。
悠真も覚えている。
当然といえば当然なのだが、わざわざそこへ触れてくるとは思わなかった。
どう返せば自然なのか迷い、入力欄へ文字を打っては消す。
『それはそうだけど。』
違う気がして消す。
『覚えてたんだ。』
これも、まるで自分だけが意識していたように見えそうで消した。
結局。
『今日は自分で止めてください。』
少し硬い返事になった。
送信してから、彩花は机へ額をつけたくなった。
(何で敬語になったの、私)
ほどなく返信が来る。
『止めました。』
さらに続く。
『ちゃんと覚えてたから大丈夫。』
彩花は画面を見つめた。
何を覚えていたのか。
混ぜすぎないことなのか。
手首を止めてもらったことなのか。
たぶん両方なのだろう。
これ以上考えると自分だけ妙に意識している気がして、彩花はスマートフォンをそっと机へ置いた。
それでも口元には、小さな笑みが残っていた。
◇
九条家では、生地を冷蔵庫で休ませている間に、悠真が調理台を片づけていた。
使った器具を洗い、粉が落ちていた場所を拭く。
「意外と順調じゃん」
様子を見に来た琴葉が言う。
「今のところは」
「水瀬さんに聞いた?」
「卵の量と、生地止めるところだけ」
「電話しなかったんだ」
「写真で分かったから」
「残念?」
「何が?」
「別に」
琴葉はそれ以上言わず、冷蔵庫の方へ目を向けた。
「何分休ませるの?」
「三十分くらい」
「その間どうするの?」
「片づけ終わったら本読む」
「休日の過ごし方が真面目すぎる」
「琴葉は?」
「私は休日を満喫してる」
「ソファでずっとスマホ見てること?」
「それも立派な休日です」
兄妹でそんな会話を交わしていると、麗華がキッチンへ入ってきた。
「順調?」
「たぶん」
「彩花ちゃんには聞いたの?」
「少し」
「それなら安心ね」
麗華は洗い終えたボウルを見てから、調理台の上を確認した。
「ちゃんと片づけながらできているなら上出来。お菓子作りって、作るだけじゃなくて洗い物も多いもの」
「先週、彩花さんが使わなくなったものから洗ってたから」
悠真が何気なく答える。
麗華は一瞬だけ息子を見た。
教わった作業だけではなく、彩花が何をしていたかまで見ていたらしい。
「よく見ていたのね」
「隣にいたから」
「そう」
麗華は微笑むだけで、それ以上は言わなかった。
最近の悠真は、彩花に関することを以前より自然に口にする。
家族の前でも、無理に隠したり理由を探したりしない。
麗華にとって、その変化は微笑ましいものだったが、だからといって親が名前を付ける必要はないと思っている。
本人たちが今の距離を楽しんでいるなら、それでいい。
「焼くときは呼んで。オーブンだけ確認するから」
「分かった」
母が去ったあと、悠真は冷蔵庫へ一度目を向け、それからスマートフォンを確認した。
彩花とのやり取りが残っている。
『今日は自分で止めてください。』
思い出すと、少しおかしい。
普段の彩花なら「止めてね」くらいだろう。
急に丁寧になったのは、たぶん自分が手首のことを出したからだ。
(彩花さんも覚えてるんだ)
そう思った瞬間、先週触れられた場所をまた意識した。
ほんの一瞬。
それだけなのに、二人とも忘れていない。
理由はまだ分からない。
ただ、忘れていないという事実を、悠真は少し嬉しいと思っていた。
◇
三十分後、冷やした生地を取り出した悠真は、レシピを確認しながら厚さを揃えていった。
前回は彩花が隣にいて、見本を一枚作ってくれた。
今日は自分で判断しなければならない。
「これ、厚いかな」
並べた生地を見比べる。
極端な差はないように見えるが、一枚だけ明らかに厚い。
悠真はそれを直した。
その様子を少し離れた場所から琴葉が見ている。
「お兄ちゃん」
「何?」
「定規使わないの?」
「使わないよ」
「使いそうな顔してた」
「どういう顔?」
「全部同じ厚さにしないと気が済まなそうな顔」
「そこまでじゃない」
言いながら、悠真はもう一枚だけ直した。
「今直したじゃん」
「これは明らかに違ったから」
「はいはい」
琴葉が笑う。
そこへ麗華が来てオーブンの設定を確認し、予熱の操作だけを一緒に確かめた。
「ここからは大丈夫?」
「うん」
「熱いから気をつけてね」
「分かった」
天板へ並べた生地をオーブンへ入れる。
扉を閉じた瞬間、悠真は少しだけ肩の力を抜いた。
あとは焼き上がるまで待つだけだ。
しかし、ここまで順調だったからといって成功とは限らない。
温度。
厚さ。
焼き時間。
少しの違いで食感は変わる。
悠真はオーブンの前へ立ったまま、中の様子を眺めた。
「ずっと見てても急に焼けないよ」
琴葉が背後から言う。
「分かってる」
「座れば?」
「焦げたら嫌だし」
「タイマーあるよ?」
「知ってる」
「水瀬さんに食べてもらうから?」
悠真は振り返った。
琴葉は笑っていなかった。
本当にそう思って聞いたらしい。
「それもある」
悠真は素直に答えた。
「自分で作るって言ったから、ちゃんとできたもの見せたい」
「そっか」
琴葉はそれだけ言うと、キッチンカウンターの向こう側へ回った。
以前なら、兄の返事をもう少し面白がったかもしれない。
けれど最近は、悠真が彩花を大切にしていることを、いちいち特別な言葉へ変換する必要もない気がしていた。
兄が楽しそうなら、それでいい。
やがてオーブンから、バターと紅茶の香りが漂い始めた。
「あ、いい匂い」
琴葉が鼻を動かす。
「先週と同じ感じする」
「それなら大丈夫そう?」
「匂いだけなら」
「まだ分からないか」
「食べないとね」
焼き時間が終わり、悠真はミトンを着けて天板を取り出した。
並んだクッキーは、少しだけ焼き色に差がある。
前回ほど形も揃っていない。
けれど焦げてはいないし、香りも悪くない。
「できた」
自分で言ってから、悠真は少しだけ笑った。
先週は彩花と一緒だった。
今日は、一人で最後までできた。
麗華も焼き上がりを見に来る。
「上手にできたじゃない」
「まだ食べてないけど」
「見た目は十分よ。冷めるまで待ちなさいね」
「うん」
悠真はスマートフォンを取り出した。
写真を撮ろうとして、手を止める。
「どうしたの?」
琴葉が尋ねる。
「写真」
「撮れば?」
「もう少しちゃんと並べた方がいいかな」
「……お兄ちゃん」
「何?」
「それ、水瀬さんに送るんでしょ?」
「うん」
「だったら、今のままでいいんじゃない? お兄ちゃんが作ったままの方が」
悠真は天板を見る。
大きさも形も少しずつ違う。
一枚だけ端が少し欠けている。
綺麗に並べ直せば、写真としては見栄えがよくなるかもしれない。
けれど、彩花は先ほど「失敗しても写真を送って」と言っていた。
「……そうだね」
悠真はそのままの状態で写真を撮った。
◇
水瀬家の自室で物語の設定を考えていた彩花のスマートフォンが震えたのは、昼前だった。
画面には写真が一枚。
焼き上がった紅茶クッキーが、天板の上に並んでいる。
「できたんだ」
彩花はすぐに写真を開いた。
形は少し不揃い。
焼き色も全部同じではない。
けれど、十分美味しそうに見える。
先週、初めて作ったときよりも少し厚いものが多い気がした。
『焼けた。』
それだけのメッセージ。
彩花は写真をもう一度見てから、すぐに返した。
『すごい! ちゃんとできてる!』
送ったあと、もう一つ。
『美味しそう。』
さらに。
『食べてみた?』
『まだ冷ましてる。』
『じゃあ冷めてからね。焼きたては柔らかいから。』
『レシピにも書いてあった。』
『ちゃんと読んでる。』
『読んでます。』
彩花は笑った。
しばらくして、悠真から新しい写真が届く。
今度は皿へ三枚だけ載せた写真だった。
『食べる。』
彩花はなぜか自分まで少し緊張した。
自分が作ったわけではない。
それなのに、結果を待っている。
数十秒。
一分。
「どうだったんだろう」
思わず声に出したところで、返信が来た。
『美味しい。』
彩花の肩から力が抜ける。
『本当?』
『本当。』
『固くない?』
『先週より少しだけ固いかも。でも普通に美味しい。』
『じゃあ、たぶん少し混ぜたか、焼き時間かな。でも最初に一人で作ったなら十分だよ。』
返信はすぐに来なかった。
少しして。
『彩花さんにも食べてほしい。』
彩花の指が止まった。
前から約束していたことだ。
一人で作れたら、今度は彩花に食べてもらいたい。
だから驚くような内容ではない。
それでも、完成した直後にそう言ってもらえたことが嬉しかった。
『食べたい。』
迷わず送る。
『じゃあ今度作るとき、彩花さんの分も残す。』
『今日のは?』
送ってから、彩花自身が少し驚いた。
今日作ったものを食べたい。
そう思ったから、そのまま聞いただけだった。
すぐ返信が来る。
『今日のでもいいの?』
『悠真君が初めて一人で作ったやつでしょ?』
『うん。』
『それなら食べてみたい。』
今度は悠真からの返事が少し遅れた。
◇
九条家のキッチンで、悠真は彩花から届いた文章を読み返していた。
『それなら食べてみたい。』
今日のクッキーは完璧ではない。
少し固い。
形も揃っていない。
次に作るときは、もう少し上手くできるかもしれない。
だから彩花には、次の方がいいと思っていた。
けれど彩花は、今日のものを食べたいと言っている。
初めて一人で作ったものだから。
(そういう見方するんだ)
上手くできたものだけではなく、最初の一回そのものに意味を見つけてくれる。
悠真は皿の上のクッキーを見る。
「どうしたの?」
琴葉が一枚食べながら尋ねる。
「彩花さんが、今日の食べたいって」
「じゃあ取っとけば?」
「でも次の方が上手くできると思う」
「水瀬さんは今日のがいいんじゃない?」
「初めて一人で作ったからって」
「なら答え出てるじゃん」
琴葉は紅茶クッキーをもう一口食べた。
「私も今日の美味しいと思うよ。ちょっと固いけど」
「そこは分かってる」
「じゃあ水瀬さんの分、食べないように避けとく?」
悠真は少し考えてから、保存容器を取り出した。
「そうする」
「何枚?」
「何枚がいいかな」
「本人に聞けば?」
「それもそうか」
悠真はメッセージを打つ。
『じゃあ今日の取っておく。何枚くらい食べる?』
返事はすぐだった。
『そんなに真面目に枚数確認するの?』
悠真は少し笑う。
『足りなかったら困るから。』
『二、三枚で十分だよ。家族の分なくなっちゃうし。』
『じゃあ三枚。』
『ありがとう。楽しみにしてる。』
悠真は保存容器へ三枚を入れた。
少し考えてから、形のいいものを選ぼうとする。
けれど手を止めた。
彩花が食べたいと言ったのは、今日作ったものだ。
なら、見栄えだけで選ばなくてもいい。
形が綺麗な一枚。
少し厚い一枚。
端がわずかに歪んだ一枚。
三枚を入れる。
「その選び方なんなの?」
琴葉が覗き込む。
「違う感じのやつ」
「食べ比べ?」
「どれがいいか聞けるかなって」
「なるほど」
琴葉は納得したように頷いた。
その横で、悠真は保存容器の蓋を閉じた。
次に彩花へ会うとき、渡そう。
それだけのことなのに、少し楽しみだった。
◇
午後になり、彩花はリビングへ降りた。
紗月が洗濯物を畳んでおり、耕助はテレビを見ている。凛花はダイニングテーブルで課題をしていた。
「お母さん、紅茶飲む?」
「飲む。彩花も?」
「うん」
湯を沸かしながら、彩花はまだ少し機嫌がよかった。
それに最初に気づいたのは凛花だった。
「何かあった?」
「何で?」
「さっきからちょっと楽しそうだから」
「普通だよ」
言ってから、彩花は以前も同じことを言った気がして笑った。
「……でも、嬉しいことはあった」
「何?」
「悠真君が、一人でクッキー作ったの」
紗月が振り返る。
「あら、もう?」
「うん。今日の朝から」
「上手くできた?」
「写真見たけど、ちゃんとできてたよ。少し固かったみたいだけど、初めて一人で作ったなら十分だと思う」
「彩花が教えたレシピ?」
「そう」
「すごいじゃない」
紗月は嬉しそうに笑った。
耕助もテレビから少しだけ視線を外す。
「九条君、菓子作りまで始めたのか」
「始めたっていうか、前に私が教える約束してたから」
「それで一人でも作ったのね」
紗月が感心したように頷く。
「今度、私の分も取っておいてくれるって」
「よかったわね」
「うん。初めて一人で作ったやつだから、食べてみたくて」
凛花の手が一瞬止まった。
彩花自身は、特に意識せず言っている。
上手くできた次の一回ではなく、最初の一回を食べたい。
以前の妹なら、そんなふうに自分から「欲しい」と言えただろうか。
「三枚取っておいてくれるって」
「枚数まで決まってるの?」
「悠真君が聞いてきたの。何枚食べるって」
凛花が小さく笑う。
「九条君らしいわね」
「でしょ? 私も、そこまで確認するんだって思った」
彩花はカップへ紅茶を注いだ。
湯気と一緒に香りが広がる。
ふと、悠真が作った紅茶クッキーと一緒に食べたら合いそうだと思った。
その瞬間、また楽しみが一つ増えた。
◇
午後三時を過ぎた頃、彩花は再び自室へ戻り、冬の部誌用のノートを開いた。
午前中から考えていた主人公の設定。
誰かへ何かを渡す。
それを相手が受け取る。
そのことで、渡した側にも変化が起きる。
そこまでは決まっている。
けれど、今日の悠真とのやり取りを通して、もう一つ考えたいことが増えた。
完成したもの。
上手くできたもの。
綺麗なもの。
そういうものだけが価値を持つわけではない。
最初に作ったものだから欲しいと思うこともある。
少し不格好でも、そのときにしか存在しないものがある。
彩花はノートへ書き込んだ。
『完成度ではなく、その人が渡した「最初」に意味を持たせる?』
しばらく眺める。
(これ、使えるかも)
主人公が誰かへ渡すものは、上手に作れたものではなくてもいい。
むしろ、自分では失敗したと思っているものでもいいかもしれない。
それを誰かが大切に受け取る。
そこから主人公の見方が変わっていく。
物語の中心が、少し見えた気がした。
彩花はペンを動かす。
登場人物の名前はまだ決めない。
細かな舞台もあとでいい。
まずは、何が起きる物語なのかを考える。
以前なら、書き始める前から設定を整えようとしていた。
今は、思いついたものを育てていくこと自体が楽しい。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
悠真から写真が届く。
保存容器の中に三枚のクッキー。
形がそれぞれ少し違う。
『彩花さんの分。』
その文字を見た瞬間、彩花は自然に笑っていた。
『ありがとう。』
少し考え、もう一つ送る。
『最初の一枚、楽しみにしてる。』
すぐに返事が来る。
『一枚じゃなくて三枚あるけど。』
彩花は吹き出した。
『そういう意味じゃないよ。』
『分かってる。』
『絶対今分かってなかったでしょ。』
『半分くらいは。』
『もう。』
そこでやり取りは一度途切れた。
彩花はスマートフォンを机へ置き、ノートへ戻る。
けれど数秒後、また画面が光った。
『でも、最初に食べてもらうのが彩花さんでよかった。』
彩花の指が止まる。
正確には九条家の家族がすでに味見をしているだろう。
だから悠真が言いたいのは、たぶん家族以外で、という意味だ。
それでも、その一文は思った以上に胸へ残った。
(私で、よかったんだ)
何度か読み返したあと、彩花はゆっくり返信する。
『私も、最初に食べさせてもらえるの嬉しいよ。』
送信する。
それだけで十分なはずなのに、もう少しだけ伝えたくなった。
『ちゃんと感想言うね。』
『厳しく?』
『ちゃんと。』
『それが一番怖いかも。』
『大丈夫。美味しそうだったよ。』
『写真だけで甘く評価してない?』
『食べてから決めます。』
『お願いします。』
彩花は笑いながらスマートフォンを伏せた。
そしてノートへ視線を戻す。
書きかけの一文が目に入る。
『完成度ではなく、その人が渡した「最初」に意味を持たせる?』
少し考え、疑問符を消した。
◇
夕方、悠真は自室で彩花から借りている小説を開いていた。
けれど、今日は何度か机の端へ視線が向く。
そこには紅茶クッキーのレシピがあり、その横には彩花へ渡す三枚を入れた小さな保存容器が置いてある。
家族へ渡す分は別にしてある。
彩花の分だけ、最初に取り分けた。
先ほどのメッセージを思い出す。
『初めて一人で作ったやつでしょ?』
『それなら食べてみたい。』
次ならもっと上手くできるかもしれない。
それでも彩花は、今日のものを選んだ。
水曜日に話したばかりのことが、悠真の頭へ浮かぶ。
自分では普通だと思っていたものでも、誰かが大切に受け取れば見え方が変わる。
今日のクッキーは、悠真にとって最初は「少し固くなった一回目」だった。
けれど今は違う。
彩花が食べたいと言った三枚。
そう思うと、同じクッキーなのに少しだけ特別に見えた。
(こういうことなのかな)
水曜日に彩花と話したこと。
彼女が冬の部誌へ書こうとしているもの。
その意味が、自分の中でも少し分かった気がする。
悠真はスマートフォンを手に取った。
『彩花さん。』
送る。
すぐに既読がついた。
『どうしたの?』
『水曜日に話してた部誌のことなんだけど。』
『うん。』
『今日クッキー作って、ちょっと分かった気がする。』
返事まで少し間があった。
『何が?』
『受け取ってもらうと、渡す方の見え方も変わるって話。』
送ったあと、悠真は保存容器を見る。
『最初は、ちょっと固くなったって思ってた。』
『でも彩花さんが今日のを食べたいって言ったら、失敗じゃなくて、最初に作ったやつって思えるようになった。』
今度は返事がすぐには来なかった。
◇
彩花はベッドの端に腰掛けたまま、その二つのメッセージを読み返していた。
自分が午後にノートへ書いたことと、ほとんど同じだった。
けれど悠真は、そのノートを見ていない。
同じ一日の中で、別々の場所にいた二人が、似たところへ辿り着いた。
それが嬉しかった。
『私も今日、似たこと考えてた。』
送る。
『本当?』
『うん。最初に作ったものだから欲しいって思うこともあるんだなって。』
『部誌に使えそう?』
彩花はノートを見る。
『使えそう。今日ちょっと進んだよ。』
『じゃあクッキー役に立った?』
『すごく。』
『まだ食べてないのに。』
『もう役に立ってる。』
悠真から笑っているスタンプが送られてくる。
彩花も同じように返した。
そのあと、しばらく画面を眺める。
話したい。
そう思った。
水曜日に図書館で話したばかりなのに、もう新しく話したいことができている。
『悠真君。』
『うん?』
『次に会ったとき、部誌の話もう少ししてもいい?』
『もちろん。』
間を置かず返ってきた。
『俺も聞きたい。』
彩花はその言葉を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
『じゃあ、そのときクッキーも食べる。』
『持っていく。』
『忘れないでね。』
『それは忘れない。』
彩花はスマートフォンを胸元へ寄せるように持った。
以前なら、自分の書きかけの話を誰かに聞いてもらいたいと思うだけでも緊張した。
今は、自分から続きを聞いてほしいと言える。
そして悠真も、それを楽しみにしてくれる。
完成していなくても。
上手くまとまっていなくても。
今の途中の状態を、そのまま受け取ってくれる。
(だから、話したくなるのかな)
彩花はすぐに答えを決めず、その感覚だけを大切にすることにした。
◇
夜。
九条家では夕食後、麗華が保存容器へ入った残りのクッキーを一枚食べていた。
「美味しいわよ。初めて一人で作ったなら十分じゃない?」
「少し固いけど」
「次に直せばいいでしょう」
「うん」
悠真は素直に頷いた。
琴葉も二枚目へ手を伸ばそうとして、ふと別の容器を見る。
「そっちは食べちゃ駄目なんだよね」
「彩花さんの分だから」
「分かってる」
琴葉は自分たち用の方から一枚取った。
「お兄ちゃん、次も同じの作るの?」
「一回は。同じのでちゃんと柔らかくできるか試したい」
「その次は?」
「別の味もやってみたいかも」
「完全にハマってない?」
「作れるようになると面白い」
「水瀬さん、すごいね」
「何が?」
「お兄ちゃんに新しい趣味増やした」
悠真は少し考えた。
趣味と呼べるほど続くかは分からない。
けれど、先週まで自分一人でクッキーを作ろうとは考えていなかった。
「そうかも」
否定しない兄を見て、琴葉は少し笑った。
「じゃあそのうち、私も得するね」
「何で?」
「余ったクッキー食べられる」
「余る前提?」
「家族分作ってください」
「考えとく」
麗華が二人のやり取りを聞きながら微笑んでいる。
特別な休日ではない。
大きな出来事が起きたわけでもない。
それでも、誰かと出会ったことで、それまでなかったものが家の中へ少しずつ増えている。
彩花からもらったレシピ。
キッチンに広がる紅茶の香り。
休日に菓子を作る悠真。
そして、別の容器へ大切そうに取り分けられた三枚のクッキー。
麗華は何も言わず、それらを見守っていた。
◇
その夜、彩花は眠る前に冬の部誌用のノートをもう一度開いた。
午後に疑問符を消した一文。
『完成度ではなく、その人が渡した「最初」に意味を持たせる。』
その下へ、新しく書く。
『受け取る人が価値を決めるのではない。受け取ってくれたことで、渡した人が自分の中にあった価値へ気づく。』
少し難しい。
物語にするなら、もっと自然な形にしなければならない。
けれど、中心は見えてきた。
主人公が誰かへ渡すものも、なんとなく浮かび始めている。
完成品ではないもの。
最初のもの。
少し不格好で、本人は失敗だと思っているもの。
それを誰かが受け取る。
大切にする。
そして主人公は、初めて自分が渡せるものを持っていたと知る。
彩花はそこでペンを止めた。
自分自身のことを書こうとしているわけではない。
悠真のことをそのまま書くつもりもない。
それでも、自分が経験したから分かる感情は、きっと物語へ使える。
机の上のスマートフォンには、今日届いた写真が残っている。
形の揃っていない紅茶クッキー。
そのうち三枚が、自分のために取ってある。
彩花は写真をもう一度開き、小さく笑った。
(早く食べたいな)
味だけではない。
悠真が一人で作った最初の一回を、自分も知りたい。
それを食べたら、また感想を伝えよう。
そこから新しく話したいことが生まれるかもしれない。
そう考えると、次に会う日が楽しみになる。
彩花はスマートフォンを伏せ、ノートを閉じた。
完成してから渡すものもある。
途中だからこそ渡せるものもある。
そして誰かが受け取ってくれることで、初めて意味を持つものもある。
そのことを、今日の三枚のクッキーが少しだけ教えてくれた気がした。




