第62話 違うから、聞いてみたい
「私ね、最後の話の、店主さんがあの子を覚えてたって分かるところが一番好きだった」
中央図書館の閲覧スペースで、彩花は開いた短編集へ指を添えながら、読み終えたときに感じたことをゆっくり言葉にしていった。
窓の外は薄い雲に覆われ、夕方へ向かう光が白っぽく館内へ差し込んでいる。学校帰りの学生だけでなく、新聞を読む年配の男性や参考書を広げる受験生もいて、完全な無音ではない。それでも誰もが声を抑えているため、向かいに座る悠真の声は、少し意識を向けるだけではっきり聞き取れた。
「最初に来たときは高校生だったでしょ。それから時間が経って、大人になって、別の時計を持って同じ店へ戻ってくる。あの子にとっても店主さんにとっても、いろんなことが変わってるのに、ちゃんと覚えてたのがいいなって思ったの」
「名前を呼ぶところじゃなくて、その前?」
「うん。修理票を書く前に、店主さんが『今度の時計は少し軽いね』って言うところ。最初に持ってきた時計が重かったことを覚えてないと出てこない言葉だから」
「ああ」
悠真は納得したように頷き、自分の記憶の中からその場面を探すように少し視線を下げた。
「俺、そこは一回目だと普通に読んでた」
「本当?」
「最後まで読んでから戻った。店主が覚えてたって分かって、それから読み返して、あの台詞ってそういう意味だったんだって」
「私も少し戻ったよ。もしかして前にも何かあったかなって」
「あった?」
「二つくらい。はっきりしたものじゃないけど、入ってきたときに店主さんがすぐ椅子を勧めてるところとか。ほかのお客さんには、時計を見てからだったでしょう?」
悠真は短編集を彩花の方へ少し寄せてもらい、彼女が示したページを確認した。
同じ本を読んだのに、見ていた場所が違う。
それは先ほど一番好きな話が一致しなかったことと同じだったが、不思議と残念には思わなかった。
「本当だ。俺、そこまで気づいてなかった」
「私も最初は偶然かなって思った。でも最後まで読むと、たぶんわざとなんだろうなって」
「彩花さん、こういうの見つけるの上手いよね」
「そうかな?」
「前に本の話したときも、俺が流してたところ覚えてたし」
自然に褒められ、彩花は少しだけ目を伏せた。
以前なら「そんなことない」と反射的に否定していたかもしれない。しかし今は、そう言いかけた口を一度閉じる。
「……細かいところ読むの、好きなのかも」
「うん。たぶんそうだと思う」
悠真が当然のように受け入れるので、彩花もそれ以上否定しなかった。
自分では当たり前だと思っていた読み方を、誰かが一つの特徴として見つけてくれる。その感覚は、少しくすぐったい。
「それで、悠真君は三つ目なんだよね」
「うん」
「なんで?」
「その前に、一つだけいい?」
「何?」
「彩花さんが最後の話を好きなのって、店主が覚えてたことだけ?」
思いがけない聞き方に、彩花はすぐ答えず、本の上へ置いていた手を少し動かした。
「……だけじゃないと思う」
読み終えた直後にノートへ書いたことを思い出す。
覚えていたこと。
戻ってきたこと。
時間が経っても、同じ場所でまた話せたこと。
「最初にその子が店へ来たときって、すごく落ち込んでたでしょう? お母さんからもらった時計を壊して、怒られると思って。でも店主さんは時計を直しただけじゃなくて、壊れた理由を聞かないでいてくれた」
「うん」
「それで、大人になってから戻ってきたときは、今度は自分から話すんだよね。最初の時計を壊した日のこと」
悠真は黙って聞いている。
「だから……同じ場所でも、その子の方が変わったんだと思う。昔は言えなかったことを、今なら話せるようになってる。それを店主さんが急かさないで聞いてくれるところも好き」
そこまで話したところで、彩花は自分の言葉に少しだけ引っかかった。
昔は言えなかったことを、今なら話せる。
その感覚を、自分も知っている。
姉と比べて自分を小さく見ていたことを、川沿いの道で悠真へ話した日のことが浮かんだ。あのときも悠真は、途中で答えを決めつけることなく、彩花が話し終えるまで待ってくれた。
けれど、それをここで口にする必要はない気がした。
悠真も同じことを思い出したのかもしれない。ほんの少し表情を柔らかくしたものの、彼もあの日のことには触れなかった。
「いい場面だよね」
「うん」
「彩花さんが好きなの、なんとなく分かった」
「本当に?」
「前よりは」
「前より?」
「最初に本交換した頃より、彩花さんがどんなところ好きなのか分かるようになったから」
悠真は何気なく言ったらしく、言い終えてからも特に照れた様子はなかった。
けれど彩花の方は、少しだけ胸の奥が温かくなる。
自分がどんな場面を好きになるのか。
そんなことまで、少しずつ知られている。
(私も、悠真君のこと前より分かるようになったのかな)
すぐには答えが出ない。
だからこそ、悠真が選んだ三つ目の話を聞いてみたかった。
「じゃあ、悠真君の番」
「俺は三つ目の、息子が父親の時計を売ろうとする話」
「あれ、最初ちょっと嫌な人に見えるよね」
「そうなんだよ」
悠真は苦笑した。
三つ目の物語の主人公は、父親の遺品整理をしている会社員だった。古い時計を処分するために店へ持ち込み、価値があるなら売りたいと言う。序盤だけを読めば、亡くなった父の品を金額でしか見ていないようにも感じられる人物だった。
「俺も最初、冷たいなって思った。でも途中で、父親と仲が悪かったわけじゃないって分かるだろ?」
「うん。むしろ仲良かったよね」
「だから処分したかったんじゃなくて、持ってるのがつらかったんだと思う」
彩花は一度瞬いた。
自分もその話は面白いと思ったが、悠真ほどそこへ意識を向けてはいなかった。
「見るたび思い出すから?」
「たぶん。家の片づけをしても時計だけ残ってて、でも自分では使わない。捨てるのもできない。それで価値があるなら売るって理由を作ったんじゃないかなって」
「理由を作った……」
「うん。最後に店主から修理を勧められて、結局売らずに持って帰るだろ? あそこが好きだった」
「でも使うとは書いてなかったよね」
「書いてない。だからいいのかも」
悠真は本のページをめくり、その場面を探した。
「持って帰ったからって、すぐ父親との思い出を大切にできるようになったとか、毎日使うようになったとか、そういう綺麗な終わり方じゃない。まだどうするか分からないけど、とりあえず捨てないって決めただけなんだよね」
彩花はその言葉を聞きながら、改めて物語の終わりを思い出した。
主人公は修理された時計を紙袋へ入れ、店を出ていく。
腕には着けない。
父親との思い出について感動的な独白をするわけでもない。
ただ、持って帰る。
「……悠真君、こういう終わり方好きなんだ」
「好きかもしれない」
「全部解決しないやつ?」
「解決してないっていうより、その人が一歩だけ決める感じ」
その表現に、彩花は小さく息を漏らして笑った。
「それ、悠真君っぽいかも」
「俺っぽい?」
「うん。すぐ答え出さなくてもいいって思ってそう」
言ってから、彩花は昨日までのやり取りを思い出した。
悠真は最近、自分の感情について無理に理由を探さなくなっている。
もちろん彩花がその内側を全部知っているわけではない。それでも、以前より迷ったままのものを迷ったまま置いておけるようになったことは、話していればなんとなく伝わってくる。
悠真は少し考えたあと、否定せずに頷いた。
「そうかもしれない。分からないなら、分かるまで持っててもいいと思う」
「時計みたいに?」
「そこまで上手いこと言うつもりじゃなかったけど」
「今のはちょっと上手かったよ」
「彩花さんに先に言われた」
二人とも声を抑えて笑う。
周囲の静けさを壊さない程度の笑い声が収まると、彩花は改めて三つ目の物語を読み返した。
「私、この話は最後より途中の方が好きだったな」
「どこ?」
「店主さんが、売るなら別の店の方が高くなるって普通に教えるところ」
「ああ、そこもいい」
「引き止めないんだよね。思い出の品なんだから売るな、とか言わない」
「店主はずっとそうだよね。直すかどうかも本人に決めさせる」
「だから戻ってくる人が多いのかな」
同じ物語について話しているうちに、好きな場面だけではなく、登場人物の見え方まで少しずつ変わっていく。
彩花は自分のノートを持ってくればよかったと思った。
ページ番号だけではない。
今、悠真の話を聞いて新しく考えたことを書き留めたい。
「やっぱり面白いね」
「本が?」
「それもだけど、感想話すの」
彩花は本を閉じ、表紙を軽く撫でた。
「一人で読んでたとき、三つ目の話はそんなに上じゃなかったの。でも今、もう一回読みたくなった」
「俺も最後の話、読み直したくなった」
「じゃあ交換成功だね」
「本そのものは俺が貸しただけだけど」
「感想の交換」
「ああ。それなら成功」
悠真が笑う。
彩花も笑い返しながら、ふと以前の自分たちを思い出した。
最初は本の話をするだけでも、どこまで聞いていいのか迷っていた。相手が好きな本を否定してしまわないか、感想が違ったら困らないか、そんなことまで気にしていた気がする。
今は違う。
一番好きな話が違えば、その理由を聞きたくなる。
自分と違う読み方をされれば、もう一度ページを開きたくなる。
(同じじゃなくても、楽しいんだ)
それは本のことだけではないのかもしれない。
そこまで考えたところで、彩花は急いで答えを作るのをやめた。
今は本の話をしている。
それで十分だった。
◇
二冊目――彩花が悠真へ貸していた小説の話へ移る頃には、窓の外の光が少しずつ弱くなっていた。
彩花から借りたのは、地方の小さな町へ引っ越してきた青年が、古い共同住宅の住人たちと少しずつ関わっていく物語だった。
「最初に聞きたいんだけど」
彩花が身を乗り出しかけ、図書館であることを思い出したように姿勢を戻す。
「悠真君、主人公好きだった?」
「好きだったよ」
「よかった」
「そこ心配してたの?」
「ちょっとだけ。最初の方、かなり面倒な性格だから」
「人付き合い避けてるのに、困ってる人見ると結局手伝う人?」
「そう、それ」
「彩花さん、ああいう主人公好きだよね」
「……分かる?」
「分かる」
迷いなく返され、彩花は思わず悠真を見る。
「何で?」
「前に彩花さんが貸してくれた本にも似た人いた。口では放っておいてくれって言うのに、最後は誰かのために動く人」
「いたけど……よく覚えてるね」
「彩花さんがその人好きって言ってたから」
悠真は当然のように答えた。
彩花は一瞬言葉を失い、視線を本へ落とした。
悠真は、こういうことをよく覚えている。
自分がどの登場人物を好きだったか。
どの場面で笑ったか。
何を美味しいと言ったか。
以前なら、そのたびにどうして覚えているのかと考えていた。
けれど今は、理由を問い詰めるより先に嬉しいと思う。
「……覚えててくれたんだ」
「うん」
「そっか」
彩花の声が少し柔らかくなったことに、悠真も気づいた。
けれど彼はそこで理由を説明しようとはしなかった。
「俺が一番好きだったのは、主人公より管理人のおじさんだけど」
「分かる!」
彩花の反応が予想以上に大きく、近くの席にいた利用者が一瞬だけこちらを見た。
「あっ……」
彩花は慌てて口元を押さえ、声を小さくする。
「ごめん」
「俺に謝ってどうするの」
「だって悠真君が急に同じこと言うから」
「俺のせい?」
「半分くらい」
「半分は彩花さんでしょ」
「それは認める」
笑いを堪えながら、二人は少しだけ顔を寄せた。
大声にならないようにしただけなのに、さっきより距離が近くなる。
彩花は途中でそれに気づいた。
悠真の制服の襟元や、机の上に置かれた手がいつもより近く見える。
その手を見た瞬間、土曜日の九条家のキッチンで触れた手首の感触が、何の前触れもなく蘇った。
彩花の指先がわずかに止まる。
(また思い出した……)
ほんの少し触れただけだった。
料理を教えていれば、手を止めるために触れることくらいあるのかもしれない。
それなのに、どうして何度も思い出すのだろう。
答えを考え始めそうになったところで、悠真が少し身体を引いた。
「これくらいなら大丈夫かな」
「え?」
「声。さっきより小さくすれば」
「あ、うん。大丈夫」
彩花も姿勢を戻す。
悠真は何も気づいていないように見えた。
実際には、彼の方も近づいた瞬間に昨日とは違う形で距離を意識していた。ただ、それをわざわざ言葉にする理由が分からず、少しだけ座り直したのだった。
「それで、管理人さん」
悠真が話を戻す。
「うん。私も好き」
「やっぱり」
「主人公に世話焼くのに、自分は何もしてないみたいな顔するところがいいんだよね」
「最初から主人公が一人でいたいの分かってて、無理に輪へ入れないのもよかった」
「でも夕飯だけ置いていく」
「そうそう」
再び話が弾む。
さっきまでの小さな動揺は消えたわけではない。
それでも、それを理由に会話が止まることもなかった。
彩花はそのことに少し安心した。
◇
一時間近く話したところで、二人は一度本を閉じた。
「結構話したね」
彩花が時計を確認すると、想像していたより時間が経っている。
「まだ話せそうだけど」
「私も」
「でも全部やると帰るの遅くなる」
「うん。それに、ちょっと喉渇いた」
中央図書館には館内の指定場所を除いて飲食制限があるため、二人は本を片づけて一階の休憩スペースへ移動することにした。
席を立ち、並んで歩き始める。
途中で返却カウンターの前を通ったとき、彩花は手にした時計店の本を見下ろした。
「これ、今日返した方がいい?」
悠真も自分が持つ小説を見る。
「どうしよう。まだ話したいところ残ってるよね」
「うん」
「じゃあ、もう少し持ってていい?」
「もちろん。私も借りてていい?」
「うん。次に続きを話すときでいいよ」
返却を急ぐ必要はない。
互いの本を大切に扱うことは、もう分かっている。
そのまま休憩スペースへ向かい、自動販売機で飲み物を買った。彩花は温かいミルクティーを選び、悠真は無糖の紅茶を手にする。
「そういえば」
ベンチへ並んで座ったところで、悠真が缶の蓋を開けながら彩花を見る。
「昨日、クッキー作った?」
「え?」
「一人で」
「ああ、まだ。材料はあるけど、平日に急いでやるより休みの日にちゃんと作ろうかなって」
「そっか」
「写真、待ってる?」
「ちょっと」
「ちょっとなんだ」
「……結構」
言い直した悠真に、彩花は笑った。
「失敗したら?」
「それも写真送って」
「何で?」
「どこで失敗したか分かるかもしれないから」
「先生みたい」
口にしてから、彩花は以前似たようなやり取りをしたことを思い出し、少し笑みを深めた。
「でも、分からなかったら電話していいって言ってたよね」
「うん。言ったよ」
「じゃあ本当に分からなかったら電話する」
「ちゃんと出られるときなら出るよ。部活中とかは無理だけど」
「それは分かってる」
「夜でも、遅すぎなければ大丈夫」
「何時くらい?」
「うーん……九時くらいまでなら普通に起きてるし、お風呂とかじゃなければ」
「じゃあ九時まで」
「そんな正式に決めなくてもいいよ」
「目安あった方が電話しやすい」
悠真らしい答えに、彩花は缶を両手で包みながら笑った。
「じゃあ九時まで。でも、急ぎじゃなかったらメッセージでもいいからね」
「分かった」
こうして具体的に話していると、本当に悠真が一人でクッキーを作るのだと実感する。
自分のレシピが九条家にあり、それを見ながら悠真が材料を量る。
想像すると、少し不思議だった。
「レシピ、読めた?」
「読めたよ」
「字、分からないところなかった?」
「ない。昨日もう一回全部読んだ」
「昨日?」
「うん」
「作らないのに?」
「材料確認しようと思って」
悠真はそこで少しだけ間を置いた。
「あと、手順忘れないうちに見ておこうかなって」
「真面目だね」
「失敗したくないから」
「最初は失敗してもいいのに」
「彩花さんに食べてもらうなら、美味しい方がいい」
あまりに自然に言われたため、彩花はすぐ返事ができなかった。
悠真はただクッキーの出来について話している。
それは分かっている。
それでも、自分に食べてもらうなら美味しく作りたいと言われると、胸の奥に小さな熱が生まれる。
「……私、ちょっとくらい形悪くても食べるよ」
「味は?」
「焦げてなければ」
「基準低くない?」
「最初から完璧じゃなくていいってこと」
「でも美味しく作る」
「じゃあ期待してる」
「うん」
悠真は満足そうに頷いた。
彩花はミルクティーを一口飲み、温かさで少しだけ頬の熱をごまかした。
◇
「そうだ」
飲み物が半分ほどになった頃、彩花は部室で聞いた話を思い出した。
「冬の部誌、出すことになりそう」
「前に言ってたやつ?」
「覚えてたの?」
「彩花さん、書いてみたいって言ってたから」
まただ。
彩花は思わず悠真を見る。
「悠真君、本当に覚えてるね」
「何が?」
「私が言ったこと」
「全部じゃないよ」
「でも結構覚えてる」
悠真は少し考える。
「彩花さんが楽しみにしてることは、覚えてるかも」
彩花の手の中で、缶が小さく鳴った。
強く握ったわけではない。
指が少し動いただけだ。
「……そういうこと、普通に言うよね」
「変だった?」
「変じゃないけど」
どう返せばいいか分からなくなる。
悠真自身は、本当に何がおかしいのか分かっていないようだった。
「嬉しいけど」
結局、彩花はそれだけ言った。
「じゃあよかった」
悠真もそれ以上理由を探さない。
その自然さに助けられ、彩花は冬の部誌について話を続けた。
「まだ締切とかページ数は決まってないんだけど、発行する方向ではほぼ決まりなんだって」
「何書くか決めた?」
「まだ。でも、少しだけ考えてる」
「どんな話?」
「それが……まだ話っていうほどじゃないの」
彩花は少し迷った。
ノートに書いた一行を思い出す。
『受け取ってくれる人』
まだ形になっていないものを誰かに話すのは、完成した作品を見せるのとは別の恥ずかしさがある。
けれど目の前にいるのは、以前、自分が書きかけの物語を見せた相手だった。
完成していなくても、勝手に答えを決めつけたりしなかった。
「今日の本の話してて、ちょっと増えたかも」
「考えたいこと?」
「うん。誰かから何かを受け取って、それまで普通だと思ってたものが違って見えるようになる話」
「物?」
「物でもいいけど、物じゃなくてもいいかなって。言葉とか、場所とか……まだ全然決めてない」
悠真はすぐに何かを提案せず、少し考えてから口を開いた。
「面白そう」
「本当に?」
「うん。受け取った人だけじゃなくて、渡した方も変わったら面白そうだなって思った」
「渡した方も?」
「自分では普通だと思って渡したものを、相手がすごく大切にしてくれたら、渡した方も見え方変わるかもしれないから」
彩花は缶から手を離し、膝の上へ置いていた鞄へ視線を落とした。
そこには悠真から借りた本が入っている。
そして九条家には、自分が書いたクッキーのレシピがある。
「……それ、いいかも」
「使える?」
「そのまま使うかは分からないけど、考えてみたい」
「じゃあ今のは彩花さんに渡した」
「何を?」
「考え方」
悠真が少し笑う。
彩花も意味を理解し、つられるように笑った。
「じゃあ、受け取った」
何気ない会話だった。
けれど、その言葉は不思議と胸に残った。
◇
図書館を出る頃には、外はすっかり夕方の色になっていた。
雨は降っていないが風が冷たく、彩花は制服の上から羽織った上着の前を少し合わせる。悠真も隣を歩きながら空を見上げた。
「寒くなってきたね」
「うん。朝より寒い」
「もう秋って感じする」
「川沿いも、もう少ししたら葉っぱの色変わるかも」
彩花が口にしてから、以前悠真を連れていった川沿いの道を思い出す。
あの場所は春になれば桜が咲く。
秋には大きな木の葉が色づく。
「また見たいな」
悠真が言った。
「川?」
「うん。でも今すぐじゃなくていい。ちゃんと色変わった頃」
「じゃあ、綺麗になったら教える」
「彩花さんの方が分かる?」
「たぶん。家から近いし」
「お願いします」
約束というほど大げさではない。
時期が来たら、また行ければいい。
その程度の話を、今は自然にできる。
二人は駅へ向かって歩き続けた。
「今日、本の話だけで一時間くらい使ったね」
彩花が言う。
「まだ終わってないけど」
「そうなんだよね。びっくりした」
「次は残り」
「うん。でも次に会ったら、また別の話増えてそう」
「クッキー作ったら増える」
「部誌も進んでたら増える」
「学校のこともあるかもしれない」
「本もまた読むしね」
数えていけば、本当にきりがない。
以前は会うための理由が必要なように感じていた。
本を返すから。
借りるから。
文化祭へ行くから。
何かを教えるから。
もちろん今も、会うきっかけはある。
けれど、その一つが終わる前に、別の話したいことが増えている。
彩花は隣を歩く悠真を見た。
「何?」
すぐに気づかれた。
「ううん。なんか、話すことなくならないね」
「なくなったことあった?」
「最初の頃は、何話せばいいか考えてたよ」
「俺も」
「本当?」
「本の話なら大丈夫かなって思ってた」
「私も同じ」
最初は、本があったから話せた。
今は、本がなくても話すことがある。
それでも二人とも本が好きだから、結局また本の話へ戻ってくる。
「今日、一番好きな話違ったの、よかったかも」
彩花が言うと、悠真が少し意外そうに見る。
「よかった?」
「うん。同じだったら『同じだね』って嬉しかったと思う。でも違ったから、悠真君が何でそこ好きなのか聞けた」
「俺も最後の話、彩花さんが言わなかったらあそこまで読み返さなかったと思う」
「じゃあ違って正解」
「正解とかあるのかな」
「ないか」
二人で笑う。
駅が見えてきた。
別れる時間が近づいていることに、彩花は少しだけ名残惜しさを覚えたが、それを大きな寂しさへ育てる必要はなかった。
まだ借りている本がある。
感想も残っている。
冬の部誌の話も、これから進む。
悠真のクッキーもある。
次に話したいことは、もういくつもあった。
◇
帰宅後、彩花は夕食と入浴を済ませてから自室の机へ向かった。
ノートを開く。
昨日書いた『受け取ってくれる人』という一行の下へ、今日の会話を思い出しながら新しい言葉を書き足した。
『受け取った側だけではなく、渡した側にも変化がある。』
少し考え、さらに続ける。
『自分では普通だと思っていたものを、誰かが大切にしてくれることで、自分もその価値に気づく。』
そこまで書いて、彩花はペンを止めた。
悠真の言葉をそのまま使うつもりはない。
けれど、そこから考え始めたものは、もう少し広げられそうだった。
机の端には、借りている時計店の短編集がある。
返却は次に感想の続きを話すとき。
だから、もう少しだけ手元に置いておける。
彩花は表紙を撫で、ふとスマートフォンを確認した。
悠真からメッセージが届いている。
『今日はありがとう。』
続けてもう一つ。
『三つ目、帰ってからもう一回読んでみる。』
彩花は笑いながら返事を打つ。
『私も最後の話、もう一回読む。』
『あと、部誌の話も聞けてよかった。』
彩花の指が止まった。
『まだ何も決まってないよ。』
『決まってないところから聞けるのも楽しい。』
その言葉を読み、彩花はしばらく画面を見つめた。
完成してからでなくてもいい。
上手くまとまってからでなくてもいい。
考えている途中のことまで話せる相手がいる。
それは以前の彩花にとって、簡単なことではなかった。
『じゃあ、少し進んだらまた聞いて。』
送る。
すぐに返事が届いた。
『聞きたい。』
彩花はその一文を見てから、再びノートへ目を向けた。
(もう少し考えてみよう)
誰かが受け取ってくれるから、渡してみたくなる。
渡したものを大切にしてもらえるから、自分でも大切だったのだと気づける。
その物語がどんな形になるのか、まだ分からない。
けれど今夜は、分からないことが不安ではなかった。
むしろ、その続きを考える時間が楽しみだった。
◇
一方、九条家の自室では、悠真がベッドへ腰掛けながら彩花から借りた小説を開いていた。
読み終えた本をもう一度開いた理由は、感想会で話した管理人の場面を確認したくなったからだ。
ページをめくりながら、今日の彩花の表情を思い出す。
自分が好きな登場人物を言ったとき、予想以上に嬉しそうな声を出していたこと。
図書館だと気づいて慌てて口元を押さえたこと。
冬の部誌について話すとき、まだ決まっていないからと少し恥ずかしそうにしていたこと。
そして、最後には続きを聞いてほしいと言ってくれたこと。
(完成する前の話まで聞かせてくれるんだ)
それが嬉しかった。
以前、彩花が自分の文章を誰かへ見せることに緊張していたのを知っているからこそ、なおさらだった。
悠真は本を閉じ、机の上へ目を向ける。
そこには彩花からもらった紅茶クッキーのレシピが置いてある。
本。
レシピ。
今日聞いた、まだ形になっていない物語。
彩花から受け取ったものが、少しずつ増えている。
それは物だけではない。
知らなかった考え方や、好きな場所や、家での姿も含まれている。
悠真はそこまで考え、少しだけ笑った。
(俺も、何か渡せてるのかな)
答えはすぐには分からなかった。
けれど今日、彩花は自分の言葉を「受け取った」と言ってくれた。
それなら、今はそれで十分だった。
悠真は再び本を開く。
次に彩花と話すとき、自分が今日とは違うところを好きになっているかもしれない。
もしそうなったら、それも話してみたい。
同じものを見て、同じことを感じる必要はない。
違うからこそ聞いてみたいことがある。
そして聞いたあとには、自分一人では見つけられなかったものが残る。
中央図書館で始まった二人にとって、それは今も変わらない。
ただ、最初の頃よりもずっと、話したいことが増えていた。




