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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第61話 話したいことが、また増えた


 日曜日の午後、水瀬家のリビングには、窓から差し込む柔らかな陽射しと、ページをめくる小さな音が満ちていた。


 ソファの端に座った彩花は、膝の上に開いた本へ視線を落としながら、残り少なくなったページをゆっくり読み進めている。昨日は九条家で悠真とクッキーを作り、帰宅してからも少しだけ読んだものの、眠る時間が遅くなりそうだったため途中で閉じていた。


 悠真から借りた、時計店を舞台にした短編集。


 一つの古い時計店を中心に、店を訪れる人々の人生が少しずつ交差していく物語だった。最初の話ではほとんど背景にしかいなかった人物が別の話では主人公になり、何気なく交わされた言葉が、ずっとあとになって別の誰かを支えていたことが分かる。


 残していた二つの物語も、そうした構成を生かしたものだった。


 彩花は最後のページまで読み終えると、すぐには本を閉じなかった。


 最後に登場したのは、序盤で壊れた腕時計を持ち込んだ少女だった。当時は高校生だった彼女が大人になり、今度は母親から受け継いだ別の時計を修理してもらうため、同じ店を訪れる。


 店主は年を取り、以前より動作が遅くなっている。


 それでも少女――もう大人になった女性のことを覚えていた。


 派手な再会ではない。名前を呼んで驚くわけでも、過去を長々と語り合うわけでもなく、店主が何気なく口にした一言で、覚えていたことが伝わる。


 彩花はその場面をもう一度読み返した。


(やっぱり、ここ好きだな)


 物語全体を通して考えれば、もっと大きな出来事はいくつもある。それでも彩花の中へ一番残ったのは、最後の静かなやり取りだった。


 覚えていること。


 もう一度来てくれたこと。


 以前とは違う時間を生きていても、同じ場所で再び言葉を交わせること。


 そこまで考えたところで、彩花の頭には自然と一人の顔が浮かんだ。


「……悠真君、どこが好きだったんだろう」


 思わず声に出してから、彩花は本を閉じた。


 昨日、九条家のリビングで話したとき、悠真は彩花から借りていた小説をすでに読み終えていた。けれど、その場で感想を始めれば長くなるからと、互いの本を読み終えてから改めて話すことにしている。


 これで彩花も読み終わった。


 つまり、次に会ったときには話せる。


 そう思っただけで、読み終えた寂しさより楽しみの方が先に浮かんだ。


「読み終わった?」


 声をかけられて顔を上げると、凛花が飲み物を持ってリビングへ入ってきた。


「うん。今ちょうど」


「九条君から借りた本よね」


「そう。短編集だったから少しずつ読んでたんだけど、最後の二つを今日読んだの」


 凛花は彩花の向かい側へ腰を下ろし、手にしていたカップをテーブルへ置いた。以前なら「面白かった?」と聞くだけで終わっていただろうが、最近の妹が本を読み終えたあとに何をするのか、凛花はなんとなく分かるようになっていた。


「感想を話す約束もしているの?」


「うん。悠真君も私が貸した方を読み終わってるから、今度会ったときに両方まとめて話そうって」


「そう」


 凛花はそれ以上からかわず、少しだけ笑った。


 彩花はそんな姉の反応に首を傾げる。


「何?」


「別に。ただ、楽しそうだなと思って」


「楽しいよ。本の感想って、一人で読むだけじゃ分からなかったことに気づけるし」


「九条君と話すから、というのもある?」


 あまりにも自然に尋ねられ、彩花はすぐには答えられなかった。


 以前なら、そこで慌てて否定していたかもしれない。けれど昨日、悠真と駅まで歩きながら、自分たちは似たような話をしたばかりだった。


 会うのが楽しみ。


 一緒に何かをするのが楽しい。


 嬉しいなら、それをわざわざ打ち消さなくてもいい。


「……あると思う」


 彩花が素直に認めると、凛花の眉がわずかに上がった。


「ずいぶん普通に認めるようになったわね」


「お姉ちゃんまでそんなこと言う」


「九条君にも言われたの?」


「違う。昨日、悠真君が琴葉ちゃんに似たようなこと言われたらしいの。楽しみにしてるって普通に認めたら、素直になったって」


 そこまで話した彩花は、自分でも少しおかしくなった。


「私たち、似たようなこと言われてるね」


「そうみたいね」


 凛花はカップを持ち上げながら、目の前の妹を静かに見た。


 九条悠真がこの家へ来たとき、凛花自身も彼と話している。以前から学校で顔を知っていた相手ではあったものの、妹の大切な友人として家の中にいる悠真を見るのは、やはり少し不思議だった。


 ただ、その違和感は悪いものではなかった。


 彩花は以前よりよく笑うようになった。


 何かを褒められたときに、すぐ自分を下げることも減った。自分の好きなものや得意なことを「大したことではない」と隠すのではなく、誰かへ見せたり渡したりできるようになっている。


 その変化のすべてを九条悠真のおかげだと考えるつもりはない。


 彩花自身が少しずつ変わってきた結果でもある。


 けれど、その過程で悠真が大きな存在になっていることは、姉として見ていれば分かった。


「昨日のクッキー作りはどうだったの?」


 凛花が話題を変えると、彩花の表情が明るくなった。


「ちゃんとできたよ。最初、薄力粉を一気に入れすぎたけど」


「九条君が?」


「うん。でも戻せば大丈夫だから。そのあとは結構上手だった」


「彩花がほとんど作ったんじゃなくて?」


「違うよ。私は説明しただけ。混ぜ方とか、ちょっと見本は見せたけど、ほとんど悠真君がやったの」


 楽しそうに説明しながら、彩花は途中で昨日の出来事を思い出した。


 生地を混ぜすぎそうになった悠真の手を止めようとして、手首へ触れた瞬間。


 ほんの一瞬だったのに、その感触だけが妙にはっきり残っている。


 頬へ熱が集まりそうになり、彩花は慌てて本の表紙へ視線を落とした。


(今思い出さなくてもいいのに……)


「彩花?」


「な、何?」


「急に黙ったから」


「何でもないよ。クッキー、美味しくできたって話」


 凛花は少し不思議そうにしたものの、それ以上は追及しなかった。


「今度は一人で作るって言ってた。できたら写真送ってもらうの」


「ずいぶん本格的ね」


「レシピも渡したから」


「レシピ?」


「私がいつも作ってる紅茶クッキーの。あとで一人でも作れるように、書いて持っていったの」


 凛花はそこで少し目を細めた。


「九条君、喜んだでしょう」


「うん。大事にするって言ってた」


 答えた彩花の声には、隠そうとしても隠しきれない嬉しさが滲んでいた。


 凛花はそれを指摘しなかった。


「じゃあ、そのうち九条君が作ったクッキーを持ってくるかもしれないわね」


「食べさせてもらう約束はしたよ」


「楽しみね」


「うん」


 彩花は迷わず頷いた。


 その返事を聞いた凛花も、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 日曜日の夜。


 九条家の自室で、悠真は机の上に置いた一枚の紙を見つめていた。


 彩花が書いてくれた紅茶クッキーのレシピである。


 昨日は引き出しへしまったものの、夕食後にもう一度取り出した。次に作るとき必要な材料を確認しようと思っただけだったのだが、気づけば手順まで最初から読み直している。


 実際に作ったあとだからこそ、書かれている注意書きの意味がよく分かった。


 粉は一度に入れすぎない。


 卵は少しずつ。


 薄力粉を加えたあとは混ぜすぎない。


 最後の一つを読んだところで、悠真の視線が止まる。


 昨日、彩花が自分の手首へ触れたのは、まさにそこで混ぜすぎそうになったからだった。


(また思い出した)


 別に大きな出来事ではない。


 事故のようなものだし、触れていた時間もほんのわずかだった。


 それでも、昨日から何度か思い出している。


 彩花も驚いていた。


 すぐに手を離し、少しだけ声が不自然になっていた。


 そのあと普通に作業へ戻ったものの、自分も同じように意識していたことは覚えている。


 悠真はレシピを机へ戻した。


(考えても分からないか)


 以前の自分なら、そこで理由を探し始めていただろう。


 どうして気になったのか。


 どうして忘れないのか。


 彩花に触れられたからなのか、それとも単に突然だったからなのか。


 けれど最近は、すべての感情へその場で答えを出す必要はないと思えるようになっていた。


 忘れないなら、それでいい。


 気になるなら、今は気になるままでもいい。


 悠真はスマートフォンへ手を伸ばした。


 彩花から新しいメッセージが届いている。


『時計店の本、読み終わったよ。』


 その一文を見た瞬間、別の楽しみが頭を占めた。


『本当?』


 送信すると、すぐ既読がつく。


『うん。最後の二つ、今日読んだ。』


『どうだった?』


 そこまで打ってから、悠真は指を止めた。


 昨日、二人で決めたことを思い出したからだ。


 詳しい感想は、互いの本を読み終えてから会ったときに話す。


 悠真は送信前の文章を消した。


『聞きたいけど、会うまで我慢する。』


 しばらくして返ってきた。


『私も悠真君が読んだ方の感想聞きたいから、我慢する。』


『いつ話す?』


『次に会えるとき。』


 悠真はカレンダーを確認した。


 学校の予定、生徒会の仕事、家の予定を頭の中で組み合わせる。文化祭が終わったとはいえ、生徒会の仕事が完全になくなったわけではなく、平日は遅くなる日もあった。


『水曜日なら、生徒会早く終われそう。』


 少しして、彩花から返事が届く。


『私も水曜日は文芸部あるけど、いつも通りなら大丈夫だと思う。』


『中央図書館?』


『うん。そこで話そう。』


 約束が一つ決まった。


 以前なら、予定を決めること自体が少し特別だった。


 いつ会えるかを確認し、時間を合わせ、場所を決める。それだけでどこか緊張していた時期もある。


 今はもっと自然だった。


 話したいことがある。


 だから会う。


 その流れに、わざわざ理由を付けなくていい。


『楽しみにしてる。』


 悠真が送ると、彩花からも同じような言葉が返ってきた。


『私も。』


 短い一文だったが、それを見た悠真はしばらく画面から目を離さなかった。


     ◇


 月曜日の青葉高校は、週明けらしい少し重たい空気から始まった。


 朝の教室では眠そうに欠伸をする生徒が何人もおり、窓際では週末に何をしていたかという話が飛び交っている。彩花は自分の席で次の授業に使う教科書を取り出しながら、机の中へ入れていた時計店の短編集へ一度だけ視線を落とした。


 水曜日に悠真と感想を話す。


 それが決まってから、気になる場面へ付箋を貼こうかとも考えたが、借り物なのでやめておいた。その代わり、自分のノートへ簡単なページ番号と気になった点だけを書いてある。


「水瀬、おはよ」


 大地が前を通りながら声をかけてきた。


「おはよう、田辺君」


「なんか今日、元気じゃね?」


「普通だよ」


「いや、普通なんだけど。月曜の朝なのに元気そう」


 大地は自分の席へ鞄を置きながら、少し羨ましそうな顔をした。


「俺、もう金曜になってほしい」


「まだ月曜日始まったばっかりだよ」


「だからだよ。一番遠いじゃん」


「それはそうだけど」


 彩花が笑うと、大地は「水瀬は余裕あるなあ」と言いながら机へ突っ伏した。


 以前なら、自分が機嫌よく見えると言われただけで理由を探していたかもしれない。


 けれど今日は、たぶん本当に気分がいい。


 週末が楽しかった。


 読み終えた本について、水曜日に話す予定もある。


 それだけで月曜日の朝が少し軽く感じられるなら、それでよかった。


     ◇


 放課後、文芸部の部室では、佐々木先輩が顧問から預かった資料を机の上へ広げていた。


「冬の部誌、正式にやることになりそう」


 その言葉に、部員たちの視線が集まる。


 以前から話に出ていた冬の文芸部誌について、学校側から前向きな返答があったらしい。まだ細かな締切やページ数は調整中だが、発行する方向で進めてよいとのことだった。


「本決まりですか?」


 彩花が尋ねると、佐々木先輩は資料を一枚持ち上げた。


「発行すること自体は、ほぼ決まり。正式な提出期限とページ数は次の部活までに先生が出してくれるって。だから今のうちに何を書くか考え始めてもいいと思う」


 部室のあちこちから小さな声が上がった。


 文化祭で作品を出したばかりなので、すぐ次を書くことへ困った表情をする部員もいる。一方で、すでに何か考えていたらしくノートを開く者もいた。


 彩花も自分のノートを開いた。


 まだ物語の形にはなっていない。


 けれど、書いてみたいものは少しずつ増えている。


 誰かに何かを見せること。


 自分にとって当たり前だったものを、別の誰かが大切に受け取ってくれること。


 同じ本を読んでも、違う場所を好きになること。


 そして、一度別れたあとでも「また話したい」と思える関係。


 文化祭で書いた物語とは違うものにしたい。


 それでも、今の自分が感じているものは、以前より確かに物語へ近づいている気がした。


「水瀬さん、何かありそう?」


 佐々木先輩に声をかけられ、彩花は顔を上げた。


「まだ全然まとまってないです。でも、書いてみたいものはいくつかあります」


「それなら十分。締切が出てから考え始めるよりいいよ」


「はい」


「文化祭のときみたいに、最初から完成形にしようとしなくても大丈夫だからね」


 佐々木先輩はそれだけ言って別の部員のところへ移った。


 彩花はノートへ視線を戻す。


(今度は、どんな話にしよう)


 答えはまだない。


 だからこそ、少し楽しかった。


 以前は自分の文章を人へ見せること自体が怖かったのに、今は次に何を書こうか考えている。


 彩花はノートの隅へ、思いついた言葉を一つだけ書き留めた。


『受け取ってくれる人』


 これが物語になるかどうかは分からない。


 今は、それで十分だった。


     ◇


 同じ日の夕方、桜華学園では生徒会室の窓から赤みを帯びた光が差し込んでいた。


 文化祭後の処理もようやく落ち着き、机の上に積まれる書類は以前よりずっと少なくなっている。悠真は確認を終えた書類をまとめながら、水曜日の予定を頭の中で確認していた。


「九条、これ最後」


 同じ生徒会役員から渡された紙を受け取り、内容を確認する。


「ありがとう。これ出したら今日は終われそうだね」


「やっと普通の時間に帰れるな」


「文化祭前が長すぎたんだよ」


 そんな会話を交わしながら作業を終える。


 悠真は鞄へ荷物をしまい、最後にスマートフォンの予定表を確認した。


 水曜日。


 放課後、中央図書館。


 彩花と本の感想を話す。


 予定表にはそこまで細かく書いていないが、見るだけで内容は思い出せる。


 鞄を肩へ掛けたところで、ふと昨日のメッセージが浮かんだ。


『私も。』


 会うのを楽しみにしていると、自分だけではなく彩花も言ってくれた。


 最近、そういう言葉が増えている。


 会いたかった。


 また行きたい。


 来てほしい。


 楽しみにしている。


 どれも特別に大げさな言葉ではない。


 けれど以前の彩花なら、口にするまでにもっと迷っていたことを悠真は知っている。


(今の方が、分かりやすくて嬉しいな)


 そう思ってから、悠真は自分も同じなのだろうと気づいた。


 以前より、嬉しいことをそのまま嬉しいと言える。


 楽しみなら楽しみだと認められる。


 その変化は、たぶん悪いものではない。


     ◇


 火曜日の夜、彩花は自室で時計店の短編集をもう一度開いていた。


 読み返しているのは全部ではない。


 気になった場面だけだ。


 水曜日に悠真と話すために準備しているわけではない、と最初は思っていた。けれど、ページ番号を確認しながらノートへ感想を書いている時点で、どう考えても準備している。


(別にいいか。話したいんだし)


 そう思えるようになった自分がおかしくて、彩花は小さく笑った。


 机の上には、昨日書いた冬の部誌用のメモも置いてある。


『受け取ってくれる人』


 まだ、その一行から先へは進んでいない。


 けれど本を読んでいるうちに、一つだけ別の考えが浮かんだ。


 時計店の物語では、誰かが残したものを別の誰かが受け取っていた。


 時計そのものだけではない。


 言葉。


 記憶。


 約束。


 店へ戻ってくる理由。


 自分が書きたいのも、もしかするとそういうものなのかもしれない。


 誰かから何かを受け取ることで、それまで自分では価値に気づいていなかったものが違って見える。


 昨日、凛花と話したクッキーのことが浮かぶ。


 自分にとっては何度も作った普通のレシピだった。


 けれど悠真は、大切にすると言った。


 自分の好きな場所を見せたときもそうだった。


 大切な本を渡したときもそうだった。


 自分が大切にしているものを悠真が丁寧に受け取ってくれるから、彩花自身もそれらを以前より大切に思えるようになった。


(……これ、話したら悠真君は何て言うかな)


 冬の部誌の話まで明日するかどうかは決めていない。


 それでも、聞いてみたいと思った。


 また一つ、話したいことが増えた。


     ◇


 水曜日の放課後、彩花が青葉高校を出る頃には、空は薄い雲に覆われていた。


 雨が降るほどではないものの、週の初めより少し気温が下がっている。彩花は鞄の中に時計店の短編集が入っていることを確かめ、駅方面へ向かう道を歩いた。


 文芸部では、冬の部誌について正式な締切が次回提示されることになっている。


 そのことも悠真へ話そうか。


 クッキーのことも聞きたい。


 まだ一人では作っていないだろうか。


 本の感想もある。


 考えているうちに、中央図書館へ着いた。


 自動ドアを抜けると、慣れ親しんだ静かな空気に包まれる。紙と本棚の匂い、遠くで聞こえる貸出機の操作音、足音を抑えて歩く利用者たちの気配まで、ここへ来るたびに少し落ち着く。


 待ち合わせ場所として決めていた一階の閲覧スペースへ向かう。


 悠真はまだ来ていなかった。


 彩花は時計を見る。


 約束より十分ほど早い。


(私が早かっただけだ)


 そう思いながら空いている席へ座り、鞄から本を出した。


 待っている間に別の本を読むこともできる。


 けれど今日は、なかなかページを開く気にならなかった。


 入口の方へ人が入ってくるたび、つい視線が向く。


 三人目でも違った。


 四人目も違う。


 五人目に入ってきた制服姿を見た瞬間、彩花は考えるより先に表情を緩めていた。


 悠真もすぐ彩花を見つけた。


 広い閲覧スペースの中で一度周囲を見回しただけなのに、迷うことなくこちらへ歩いてくる。


「彩花さん、お待たせ」


「ううん。私が早く着いただけ。悠真君もまだ約束より早いよ」


 悠真は向かいの席へ座りながら、彩花の手元にある本へ目を向けた。


「持ってきたんだ」


「もちろん。悠真君も?」


「持ってきた」


 鞄から彩花が貸した小説を取り出し、机の上へ置く。


 二冊の本が並んだ。


 それだけで、彩花は少し嬉しくなった。


「どっちから話す?」


「彩花さんが読んだ方から聞きたい」


「何で?」


「俺が選んだ本をどう読んだのか気になるから」


「じゃあ、悠真君の方からでも同じじゃない?」


「確かに」


 二人で顔を見合わせ、声を抑えて笑った。


「じゃあ順番決めようか」


 彩花が本の表紙へ指を置く。


「こっちから」


「うん」


 話し始めようとしたところで、悠真が少し身を乗り出した。


「その前に一個だけ」


「何?」


「一番好きだった話、同時に言わない?」


 彩花は目を瞬かせたあと、すぐに意図を理解した。


「同じか確認するの?」


「違っても面白そうだから」


「いいよ。でも話の番号で?」


「うん」


 二人はそれぞれ本を見た。


 彩花が一番好きだったのは、最後の物語だった。


 悠真がどれを選ぶかは分からない。


 同じだったら嬉しい。


 違っていたら、どうしてそこを選んだのか聞きたい。


 どちらでも話したいことが増える。


「じゃあ、せーので」


 悠真が声を落として数える。


 二人が同時に答えた番号は――違っていた。


 彩花は一瞬驚き、それから笑った。


「違った」


「違ったね」


 悠真も楽しそうに笑っている。


 以前なら、同じものを好きだと言えた方が嬉しいと思ったかもしれない。


 けれど今は、違ったことも嬉しい。


「何で悠真君はそっちだったの?」


 彩花はすぐに尋ねた。


「それ、俺も彩花さんに聞きたい」


「じゃあ順番ね。今度こそ私から話す」


「うん。聞きたい」


 彩花は最後の物語のページを開いた。


 話したかったことは、たくさんある。


 読み終えた直後に感じたこと。


 ノートへ書いたこと。


 悠真ならどう読むのだろうと思ったこと。


 そして、本とは少し離れるけれど、冬の部誌について考え始めたこと。


 全部を今日話せるかは分からない。


 それでも構わなかった。


 話しきれなければ、また次がある。


 そう思えることが、今は当たり前のように嬉しい。


「私ね、最後の話の、店主さんがあの子を覚えてたって分かるところが一番好きだった」


 彩花が話し始めると、悠真は本へ目を落とすのではなく、まっすぐ彼女を見ていた。


 その視線を受けながら、彩花はゆっくりと言葉を続けた。


 読み終えた物語の話をする時間は、ここから始まる。


 そしてきっと、今日もまた、本の話だけでは終わらないのだろう。


 それが少し楽しみだと思いながら、彩花は次の言葉を探した。

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