第60話 初めてのクッキー作り
土曜日の朝、九条家のキッチンには、いつもとは少し違うものが並んでいた。
薄力粉、砂糖、無塩バター、卵、紅茶の茶葉。それからボウルや泡立て器、ゴムベラ、計量器まで、必要なものが作業台の上へきれいに揃えられている。
その前に立った悠真は、スマートフォンに表示されたメッセージをもう一度確認した。
『材料は特別なものいらないよ。薄力粉と砂糖とバターと卵があれば基本は大丈夫。紅茶味にするなら茶葉も。』
数日前に彩花から送られてきたものだ。
さらに下には、別のメッセージが続いている。
『でも、先に全部量らなくていいからね。当日一緒にやろう。』
「……まだ量ってないよな」
悠真は作業台を見回した。
材料は揃えた。
器具も揃えた。
けれど計量だけはしていない。
約束通りだ。
「お兄様」
背後から声をかけられ、悠真は振り返った。
キッチンの入口に琴葉が立っている。まだ外出前らしく私服姿で、作業台に並んだものを見てから兄へ視線を移した。
「何?」
「確認しているのですか?」
「一応」
「先ほども確認していませんでした?」
「足りないものがあったら困るから」
「昨日、お母様とも確認していましたよね」
「……してたけど」
琴葉は何も言わず、もう一度作業台を見た。
材料は不足していない。
むしろ、必要なものがあまりにも整然と並んでいる。
「彩花さんが来るのは、まだ一時間ほど先では?」
「分かってる」
「そうですか」
「何?」
「何も」
そう答えながら、琴葉の口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。
悠真はそれを見逃さなかった。
「笑ってる?」
「いいえ」
「笑ってるよ」
「お兄様が楽しみにしているのだと思っただけです」
以前なら、その指摘に悠真は少し考え込んでいたかもしれない。
どうして彩花が来ることをこれほど楽しみにしているのか。
他の友人が来るときと何が違うのか。
そんな問いを、自分の中で何度も繰り返していた。
今はもう、必要なかった。
「楽しみだよ」
悠真がそのまま認めると、琴葉の方が少し驚いた。
「……随分素直ですね」
「だって楽しみだから」
「そうですか」
琴葉は数秒ほど兄を見つめたあと、柔らかく笑った。
「それなら、よいのではないでしょうか」
「何が?」
「何でもありません」
「またそれ?」
琴葉は答えず、冷蔵庫から飲み物を取り出した。
今日、彩花が九条家へ来る。
目的は以前から約束していたクッキー作りだった。
最初に彩花が九条家を訪れた際、手土産として持ってきた紅茶のクッキーを悠真が気に入り、自分でも作ってみたいと話したことから始まった約束である。
その後、悠真が水瀬家を訪ねたり、図書館で互いに選んだ本を交換したり、同じ小説の感想を話したりしているうちに少し先延ばしになっていた。
けれど忘れていたわけではない。
先週、メッセージで互いの予定を確認したとき、悠真の方から聞いた。
『そういえば、クッキー教えてもらう約束、まだ有効?』
彩花から返ってきた答えは早かった。
『もちろん。私も覚えてたよ。』
そこから日程を決め、今回は九条家のキッチンを使うことになった。
理由は単純だった。
広くて作業しやすい。
そして悠真が普段暮らしている家で作った方が、次に一人で挑戦するときにもやりやすいだろうという彩花の提案だった。
「そういえば、お兄様」
「うん?」
「今日は本当にお兄様が作るのですよね?」
「そのつもりだけど」
「彩花さんに全部していただくのではなく?」
「教えてもらうんだから、俺がやらないと意味ないでしょ」
「安心しました」
「何で?」
「お兄様なら、彩花さんの手際がよいので見ているだけで終わる可能性もあるかと」
「そんなことしないよ」
「では、楽しみにしています」
琴葉は飲み物を持ってキッチンを出ようとした。
途中で一度立ち止まり、振り返る。
「失敗したものも残しておいてくださいね」
「成功する前提でいてよ」
「初めてなのでしょう?」
「そうだけど」
「でしたら、失敗する可能性も含めて楽しみにしています」
「琴葉」
「では」
妹は楽しそうに去っていった。
悠真は一人になったキッチンで、もう一度材料を見る。
(そんなに難しいのかな)
彩花からは「基本のクッキーなら大丈夫」と聞いている。
ただ、料理そのものをまったくしないわけではない悠真も、菓子作りはほぼ経験がない。
計量が大事。
温度も大事。
混ぜ方でも仕上がりが変わる。
そんな話を聞くと、普段の料理とは違う難しさがありそうだった。
けれど、不安より楽しみの方が大きい。
今日作れるようになれば、次は自分一人でも作れるかもしれない。
そしていつか、自分が作ったものを彩花へ食べてもらえる。
そこまで考え、悠真は少しだけ笑った。
◇
同じ頃、彩花は九条家へ向かう途中だった。
以前訪れたときほどの緊張はない。
門が見えてきても足が止まることはなく、むしろ別のことを考えていた。
(ちゃんと教えられるかな)
自分で作るのと、人へ教えるのは違う。
普段は感覚でやっていることも、悠真へ説明するなら言葉にしなければならない。
バターはどのくらい柔らかくするのか。
砂糖を混ぜたとき、どの状態になれば次へ進むのか。
粉を入れたあとは、なぜ混ぜすぎない方がいいのか。
家で一度、自分の手順を思い返してみた。
すると意外なほど「いつもそうしているから」で済ませていた部分が多いことに気づいた。
「……私も勉強になりそう」
小さく呟きながら歩く。
今日は大きな手土産は持っていない。
前回のように訪問そのものが目的ではなく、一緒にクッキーを作るために来るのだから、悠真からも「本当に何も持ってこなくていい」と言われていた。
その代わり、鞄の中には一枚の紙が入っている。
彩花が普段作っている紅茶クッキーの材料と手順を書いたものだ。
悠真があとで一人でも作れるように、昨夜まとめた。
(読めるよね……)
何度か書き直したので、少なくとも自分では読みやすいと思う。
ただ、以前に互いの字を見せ合ったことを思い出すと、手書きのものを渡すことには少しだけ照れがあった。
やがて九条家の門へ着く。
呼び鈴を押そうと手を伸ばしたところで、内側から白いものが動いた。
「あ」
次の瞬間、大きな白い犬がこちらへ駆けてくる。
「ハク!」
門の内側まで来たハクは、尻尾を大きく振っている。
彩花がしゃがむと、門越しに鼻先を近づけてきた。
「覚えててくれたの?」
嬉しくなって声をかけていると、少し遅れて悠真が玄関の方から現れた。
「彩花さん」
「悠真君。おはよう」
「おはよう。やっぱりハクが先だった」
「やっぱり?」
「門の方に走っていったから、もしかしてと思った」
悠真が門を開ける。
その瞬間、ハクが彩花の前へ回り込み、さらに勢いよく尻尾を振った。
「久しぶり、ハク」
彩花が首元を撫でると、ハクは満足そうに身体を寄せてくる。
「かわいい……」
「今日はクッキー作りに来たんだよね?」
「そうだよ?」
「もう目的変わってない?」
「変わってないよ。ハクに会うのも楽しみだっただけ」
「俺は?」
そこまで言ってから、悠真は自分で少し笑った。
前にも似たようなことを言った。
彩花も気づいたらしく、呆れたように笑う。
「それ、もうやめない?」
「ごめん。言ってから思った」
「悠真君に会うのも楽しみにしてたよ」
それでも彩花はきちんと答えた。
悠真の表情が一瞬だけ止まり、そのあと柔らかくなる。
「ありがとう」
「はい。これで満足?」
「かなり」
「じゃあ行こう。ハク、あとでね」
彩花が立ち上がると、ハクも一緒に玄関へ向かおうとする。
「ハクも入る気だ」
「キッチンは駄目?」
「作ってる間は危ないから、リビングで待っててもらう」
「そっか」
「終わったら一緒に食べ――」
悠真が途中で止まった。
「クッキーは駄目だ」
「危ない危ない」
「今、普通にあげようとした」
「ハク用じゃないからね」
二人で笑いながら玄関へ向かう。
前に来たときとは違う。
彩花はもう、この家へ入ることそのものに身構えてはいなかった。
「お邪魔します」
それでも挨拶はきちんとする。
「彩花さん、いらっしゃい」
リビングから麗華が顔を出した。
「今日は悠真がお世話になります」
「お世話って」
悠真が少し困った顔をする。
「だって教えていただくのでしょう?」
「一緒に作るだけだよ」
彩花が笑う。
「私も人に教えるの慣れてないので、ちゃんとできるか分からないです」
「悠真が変なものを作っても、彩花さんの責任じゃないから安心してね」
「母さんまで」
そこへ琴葉も現れた。
「彩花さん、おはようございます」
「琴葉ちゃん、おはよう」
「私は完成を楽しみにしています」
「琴葉まで失敗すると思ってるんだよ」
「成功も楽しみにしていますよ」
「『も』って言った」
彩花は兄妹の会話を聞きながら笑った。
最初にこの家へ来たときは、九条家という場所そのものに緊張していた。
今はこうして家族のやり取りを見ていると、以前よりずっと身近に感じる。
大きな家。
自分とは違う生活。
それでも、この家の中にある笑い方や家族同士の距離には、もう知らない場所という感覚が薄れていた。
◇
「まず、手を洗おうか」
「はい」
「何で敬語なの?」
「先生だから」
「やめて」
キッチンへ入って早々、彩花は笑いながら否定した。
「今日は先生じゃないよ。一緒に作るの」
「でも教えてもらう側だし」
「それでも普通でいい」
「分かった」
悠真は素直に頷いた。
手を洗い、二人で作業台の前へ立つ。
材料はすでにきれいに並んでいた。
「すごい」
「何が?」
「本当に全部準備してる」
「言われたものは揃えたよ」
「まだ一時間くらい前から確認していました」
キッチンの入口から琴葉が告げる。
「琴葉」
「事実でしょう?」
彩花が悠真を見る。
「楽しみにしてた?」
聞かれた悠真は一瞬も迷わなかった。
「うん」
その答えがあまりにも素直で、今度は彩花の方が少しだけ照れた。
「……そっか」
「彩花さんは?」
「私も楽しみにしてたよ」
琴葉は二人を交互に見たあと、何も言わず静かにキッチンを離れた。
余計なことを言う必要はない。
兄も彩花も、少し前よりずっと自分の気持ちを言葉にするようになっている。
それを周囲がわざわざ指摘する必要もないのだろう。
「じゃあ始めようか」
彩花は袖を少しまくった。
「まず計量から」
「そこから?」
「お菓子は大事だよ。料理みたいに途中で適当に足すの難しいから」
「なるほど」
彩花が計量器を指す。
「じゃあ薄力粉、これだけ量ってみて」
「俺が?」
「悠真君が作るんだから、悠真君がやるの」
「分かった」
悠真は薄力粉の袋を手に取った。
ボウルを計量器へ置き、表示をゼロにするところまでは問題ない。
しかし粉を入れ始めると、予想以上の勢いで落ちた。
「あ」
「止めて止めて」
彩花が笑いながら声をかける。
悠真が慌てて袋を起こす。
表示は目標よりかなり多い。
「……増えた」
「見れば分かるよ」
「戻す?」
「うん。別のスプーン使って少しずつ戻そう」
「最初から難しい」
「難しいっていうか、勢いよすぎ」
「料理の計量だと多少ずれても大丈夫かと思ってた」
「今日は駄目です」
「厳しい」
「クッキーのためです」
彩花は笑いながらスプーンを渡した。
悠真が少しずつ粉を戻す。
数字が目標へ近づいていく。
「あと少し」
「これくらい?」
「もうちょっと」
「……ここ?」
「うん。ぴったり」
「何か達成感ある」
「まだ粉量っただけだよ?」
「最初の成功」
「さっき一回失敗してるけどね」
「そこは忘れて」
「覚えとく」
彩花は楽しそうに言った。
続いて砂糖、バターを量り、卵を準備する。
最初こそ慎重すぎるほどだった悠真も、数回繰り返すうちに少しずつ手際がよくなっていく。
「悠真君、こういうの慣れるの早いね」
「そう?」
「うん。一回言ったことだいたいできる」
「彩花さんの説明が分かりやすいからじゃない?」
「そういうこと言っても工程は減りません」
「減らしてほしいわけじゃないよ」
「じゃあ次、バター」
室温へ戻しておいたバターをボウルへ入れる。
「これを混ぜて柔らかくする」
「どれくらい?」
「見た方が早いかな」
彩花は一度ゴムベラを持ち、バターを軽く練ってみせた。
「こうやって押す感じ。固まりがなくなって、全体が滑らかになれば大丈夫」
「分かった」
すぐに悠真へ渡す。
彩花がそのまま作ってしまえば早い。
けれど今日は、悠真が自分で作れるようになるための時間だ。
悠真は見た動きを真似しながらバターを練り始めた。
「力いるね」
「最初はね。柔らかくなると楽になるよ」
「彩花さん、いつもこれやってるんだ」
「クッキー作るときは」
「手で?」
「手っていうか、道具使ってるでしょ」
「そうじゃなくて、自分で最初から全部」
「そりゃそうだよ」
悠真はバターを混ぜながら、以前食べた紅茶クッキーを思い出していた。
あのときはただ、美味しいと思った。
けれど実際に作ってみると、完成するまでに細かな工程がいくつもある。
「何か、前にもらったクッキーもっと大事に食べればよかった」
「普通に食べてくれればいいよ」
「すぐなくなった」
「それは知ってる」
「何で?」
「この前言ってたじゃん。家族で食べたらすぐなくなったって」
「ああ」
悠真が笑う。
「じゃあ今日はたくさん作ろう」
「うん。でも失敗したら?」
「そのときは原因考えて、また作ればいいよ」
「彩花さん、失敗したことある?」
「あるよ。普通に」
「意外」
「何で?」
「何でもできそうだから」
彩花の手がわずかに止まった。
少し前の自分なら、その言葉をすぐ否定していたかもしれない。
そんなことない。
自分なんて。
得意なことなんて大したことではない。
そんな言葉を、反射のように返していた。
けれど今は、悠真が褒めようとして言っていることが分かる。
「失敗するよ。でも、何回も作ってるから慣れてるだけ」
「じゃあ俺も何回か作ったら慣れる?」
「ちゃんと作ればね」
「頑張る」
「うん」
彩花はそれだけ答えた。
褒められたことを打ち消す必要はなかった。
◇
砂糖を加え、卵を少しずつ混ぜる。
そこまでは比較的順調だった。
問題が起きたのは、粉を加えたあとだった。
「混ぜすぎないでね」
「分かった」
「切るように」
「切る?」
「こう、下から返す感じ」
彩花が横から手の動きを示す。
悠真は真剣な表情でゴムベラを動かした。
「こう?」
「そうそう。もう少し大きく動かしていいよ」
「これくらい?」
「うん」
数回。
さらに数回。
「悠真君」
「何?」
「もう止めていいよ」
「まだ粉ちょっと見えてるけど」
「それくらいで大丈夫」
「本当に?」
「本当」
「もう一回だけ」
「駄目」
彩花がゴムベラを持つ悠真の手首へ、とっさに手を添えた。
二人の動きが同時に止まった。
「あ」
彩花が先に声を漏らす。
悠真の手首に、自分の指が触れている。
ただ止めようとしただけだった。
けれど気づいた瞬間、そこだけ妙に意識してしまう。
「……ごめん」
彩花はすぐに手を離した。
「いや、大丈夫」
悠真もゴムベラを止めたまま、少しだけ視線を逸らした。
数秒の沈黙。
キッチンの向こうから、リビングにいるハクの足音が聞こえる。
何かを落としたわけでも、危険なことが起きたわけでもない。
それでも二人とも、さっきまでのようにすぐ次の言葉が出なかった。
(何でこんなに意識するの……)
彩花は自分の手を軽く握る。
文化祭で隣を歩いた。
家の中でも近くに座った。
本を一緒に覗き込んだこともある。
それなのに、ほんの一瞬手首へ触れただけで、心臓が少し速くなっている。
「彩花さん」
「な、何?」
「混ぜすぎるとどうなるの?」
「え?」
「さっき止めてくれたから」
「あ、うん」
悠真があえて普段通りに話してくれたのか、それとも本当に工程が気になっただけなのかは分からない。
けれど彩花はその問いに助けられた。
「固くなりやすいの。だから粉がほとんど見えなくなったくらいで止める」
「なるほど」
「今くらいで大丈夫」
「分かった」
二人とも再び生地へ視線を戻した。
少しだけぎこちなさは残ったものの、作業を再開すれば徐々にいつもの空気へ戻っていく。
紅茶の茶葉を加え、生地をまとめる。
「これで冷蔵庫?」
「うん。少し休ませる」
「すぐ焼かないんだ」
「今日は型抜きじゃないけど、扱いやすくしたいから」
「待つ時間多いね」
「お菓子作りってそういうのもあるよ」
生地を冷蔵庫へ入れる。
そこでようやく一区切りついた。
「お疲れさま」
「まだ焼いてないよ」
「前半戦終了」
「前半戦なんだ」
悠真が笑う。
彩花も笑い返したが、先ほど触れた手首の感触を完全には忘れられていなかった。
それをわざわざ言葉にするつもりもなかった。
◇
生地を休ませている間、二人はリビングへ移った。
待っていたようにハクが彩花のところへやってくる。
「ハク、お待たせ」
彩花がソファへ座ると、ハクはその足元へ身体を寄せた。
悠真も隣の一人掛けではなく、少し離れた同じソファの端へ座る。
「疲れた?」
「全然。楽しい」
「よかった」
「悠真君は?」
「思ったより難しいけど楽しい」
「まだ焼くところあるよ」
「そこが一番怖い」
「オーブンがやってくれるから大丈夫」
「温度とか時間間違えたら?」
「私がいるから」
彩花が何気なく言う。
悠真は少しだけ目を細めた。
「心強い」
「今日はね。でも次は一人で作れるようにならないと」
「次?」
「練習するんでしょ?」
「うん」
「じゃあ今日の作り方、あとで渡すね」
彩花は鞄を開け、折りたたんでいた紙を取り出した。
「これ」
「何?」
「レシピ。一応まとめてきた」
悠真が受け取る。
手書きだった。
材料の分量。
バターを柔らかくするところから、砂糖と卵を加える順番。
粉を入れたあと混ぜすぎないこと。
焼く温度と目安の時間。
注意する部分には小さく線が引かれている。
「これ、彩花さんが書いたの?」
「うん。分かりにくい?」
「全然」
悠真は一行ずつゆっくり目で追っていく。
「昨日書いた?」
「そう」
「俺のために?」
彩花は一瞬だけ言葉に詰まった。
「だって、一人で作るとき必要でしょ」
「うん」
「だから」
「ありがとう」
悠真は紙を丁寧に持った。
以前、互いの文字を見せ合ったときとは違う。
これはただ字を見るための紙ではない。
彩花が自分のために、家で時間を使って書いてくれたものだ。
「大事にする」
「レシピなんだから使ってよ」
「使うけど、大事にもする」
「汚れてもいいからね。料理中に使ったら絶対何かつくし」
「できるだけ汚さない」
「それだと見ながら作れないでしょ」
「透明なケースに入れるとか」
「そこまでしなくていいよ」
彩花は呆れたように笑う。
けれど嫌ではなかった。
自分が書いたものを大切にすると言われて、嬉しくないはずがない。
「じゃあ、ちゃんと作れるようになってね」
「うん」
「次は私がいなくても」
「……それはちょっと困る」
「何で?」
「一人でも作れるようにはなりたいけど」
悠真は手元のレシピへ視線を落とした。
「一緒に作るのも楽しいから」
彩花は少しだけ目を丸くした。
「じゃあ、また作ればいいじゃん」
「いいの?」
「一回しか教えないなんて言ってないよ」
「そっか」
「次は別の味でもいいし」
「何がある?」
「ココアとか、チョコチップとか。ナッツ入れてもいいし」
「結構あるんだ」
「いっぱいあるよ」
「じゃあ次も教えて」
「うん」
また一つ、未来の予定が増えた。
けれど彩花は、それを約束として強く意識することはなかった。
自然に「また」が出てくる。
それが今の二人だった。
◇
冷やした生地を取り出し、形を整えて天板へ並べる。
悠真は最初こそ慎重だったものの、少しずつ楽しそうになっていた。
「大きさ揃えてね」
「これくらい?」
「ちょっと大きい」
「じゃあ減らす」
「それは小さい」
「難しい」
「悠真君、極端」
「彩花さんの見本置いといて」
「じゃあ一個作るね」
彩花が見本として生地を丸め、軽く押さえる。
「これくらい」
「分かった」
悠真が隣へ一つ置く。
ほぼ同じ大きさだった。
「上手」
「本当?」
「うん。じゃあ残りお願い」
「急に任された」
「できるから大丈夫」
彩花は一歩下がり、悠真が並べていく様子を見守った。
一個。
二個。
三個。
少し形が歪んだものもある。
厚さが微妙に違うものもある。
それでも最初にしては十分だった。
「全部同じにするの難しいね」
「家で食べるなら多少違っても平気だよ」
「売るわけじゃないもんね」
「そうそう」
最後の一つを置き、悠真が天板を眺める。
「何か、それっぽい」
「まだ生だけどね」
「ここまで来ると達成感ある」
「じゃあ焼こう」
予熱しておいたオーブンへ天板を入れる。
扉を閉め、時間を設定した。
「これで待つだけ?」
「途中で焼き色見るけど、基本はね」
二人はオーブンの前へ並んだ。
庫内灯に照らされた生地が見える。
数分では大きな変化はない。
「ずっと見てるの?」
彩花が尋ねる。
「変わるところ見たい」
「子どもみたい」
「初めてだから」
「じゃあ私も見る」
結局、二人でしばらくオーブンを眺めることになった。
少しずつ生地が広がり、表面の色が変わっていく。
やがて紅茶とバターの甘い香りがキッチンへ漂い始めた。
「あ」
悠真が小さく声を上げる。
「匂いしてきた」
「うん」
「前にもらったのと同じ匂い」
「同じ材料だからね」
「でも今度は俺も作った」
「ほとんど悠真君が作ったよ」
その言葉に、悠真は嬉しそうにオーブンを見る。
彩花はその横顔を眺め、自然と頬が緩んだ。
誰かへ何かを教えることが、こんなに楽しいとは思っていなかった。
悠真が一つできるたびに喜ぶ。
その反応を見るたび、自分まで嬉しくなる。
(教えるっていうより、一緒に作ってるからかな)
自分一人なら、もっと早く終わっていただろう。
計量で粉を入れすぎることもない。
生地を混ぜすぎそうになることもない。
形の大きさを何度も確認することもない。
それでも今日の方が、いつものクッキー作りよりずっと楽しかった。
◇
焼き上がったクッキーを冷ましていると、香りにつられたのか家族が集まってきた。
「できましたか?」
琴葉が最初に現れ、その後ろから麗華も顔を出す。
「見た目はちゃんとしてる」
悠真が言う。
「失敗しなかったのですね」
「何で残念そうなの?」
「残念ではありません。少しだけ意外なだけです」
「彩花さんがいたから」
「ほとんど悠真君がやったよ」
彩花がすぐに補足する。
「本当ですか?」
「うん。私は横で説明しただけ」
「途中、止めてもらったけど」
悠真が何気なく言った瞬間、彩花の身体がほんの少し固まった。
手首へ触れた場面が一瞬で蘇る。
けれど悠真はその意味で言ったわけではないらしく、粉を混ぜすぎそうになった話をしている。
「俺がずっと混ぜようとしたから」
「ああ、なるほど」
琴葉は普通に頷いた。
彩花だけが、少し遅れて息をついた。
(意識しすぎだって……)
自分へ言い聞かせながら、冷めたクッキーを皿へ移す。
「じゃあ食べてみよう」
麗華が紅茶を用意してくれ、全員でテーブルを囲んだ。
ハクは少し離れたところから期待に満ちた目で見ている。
「ハクは駄目だよ」
悠真が先に言う。
ハクの耳が少し動いた。
「分かってるのかな」
「分かってても諦めないと思う」
彩花が笑う。
悠真は自分で作った一枚を手に取った。
「食べていい?」
「もちろん」
一口。
さくりと小さな音がする。
悠真はゆっくり噛み、少し目を見開いた。
「どう?」
彩花が尋ねる。
「美味しい」
「本当?」
「うん。ちゃんとクッキー」
「そこ心配してたの?」
「見た目はクッキーだったけど、味は食べるまで分からないから」
琴葉も一枚取る。
「……美味しいです」
「本当?」
「はい。少し形に差はありますが」
「味の話して」
「味は本当に美味しいですよ」
麗華も笑顔で頷いた。
「初めてなら十分すぎるくらいじゃない?」
「彩花さんのおかげ」
「だから悠真君が作ったんだって」
「でも一人だったら最初の粉から失敗してた」
「多かった分戻せばいいだけだよ」
「その戻し方も知らなかった」
「次は分かるでしょ?」
「うん」
悠真はもう一枚取った。
今度は食べる前に、彩花を見る。
「彩花さんも食べて」
「私?」
「感想聞きたい」
「作ってるところずっと見てたよ」
「でも食べてない」
「じゃあ一枚」
彩花もクッキーを取る。
自分が普段作るものより、少しだけ厚い。
口へ運ぶ。
紅茶の香りとバターの風味が広がる。
食感はわずかに均一ではないものの、十分美味しい。
「うん。美味しい」
「本当?」
「本当。初めてならかなり上手だと思う」
悠真の表情が明るくなる。
「よかった」
「次、一人でもできそう?」
「たぶん」
「じゃあ成功だね」
彩花はそう言って笑った。
悠真も笑う。
琴葉は向かい側から二人を見ていた。
兄がクッキーを作れたことそのものより、彩花に「美味しい」と言われた瞬間の方が明らかに嬉しそうだった。
けれど、それを口にすることはしなかった。
今の兄なら、指摘されなくても自分が嬉しいことくらい分かっているだろう。
◇
午後、麗華と琴葉がそれぞれ用事で席を外したあとも、彩花と悠真はリビングに残っていた。
テーブルには少しだけクッキーが残っている。
そのうち何枚かは正樹と俊治の分として取り分けてあった。
「おじい様も食べてくれるかな」
「祖父は甘いもの好きだから絶対食べる」
「よかった」
「父さんも食べると思う」
「感想聞いといてね」
「うん」
悠真はテーブルの端に置いた手書きのレシピへ目を向けた。
「これ、次使う」
「ちゃんと一人で作るの?」
「作るよ」
「いつ?」
「まだ決めてないけど」
「じゃあ、作ったら写真送って」
「写真?」
「成功したか見たい」
「失敗したら?」
「それも送って」
「失敗も?」
「原因一緒に考えられるでしょ」
悠真は少し笑った。
「じゃあ送る」
「うん」
「でも」
「何?」
「次に彩花さんが来るとき、俺が作って出したいかも」
彩花は瞬きをした。
「私に?」
「うん。今日教えてもらったから、今度は一人で作ったの食べてもらいたい」
真っ直ぐな言葉だった。
彩花は少しだけ胸が温かくなる。
自分が悠真へ作ったクッキーから始まった。
悠真が美味しいと言ってくれた。
作ってみたいと言った。
今日は一緒に作った。
そして次は、悠真が自分へ作ってくれるという。
「楽しみにしてる」
彩花は素直に答えた。
「でも、無理に上手く作らなくていいからね」
「上手く作りたいよ」
「何で?」
「彩花さんに食べてもらうなら」
彩花の指が、膝の上で少しだけ動いた。
また、悠真はこういうことを自然に言う。
「……じゃあ頑張って」
「うん」
「ちゃんと美味しいって言えるやつお願いします」
「急にプレッシャーかけるね」
「さっきまで優しかったから、少しくらい」
「分かった」
悠真は笑って頷いた。
◇
少しして、彩花はリビングの端に置かれている一冊の本へ気づいた。
「あれ」
「どうしたの?」
「私が貸した本」
テーブルの横に置かれていたのは、先日交換した小説だった。
「読み終わった?」
「昨日」
「本当?」
「うん」
彩花の表情が明るくなる。
「どうだった?」
聞いた直後、自分で笑った。
「……って、ここで始めたらまた長くなるね」
「たぶん」
「今日はクッキー作りの日だったのに」
「感想も話す?」
悠真は楽しそうだったが、彩花は少し考えて首を横へ振った。
「今日はやめとこう」
「何で?」
「ちゃんと話したいから」
映画館の小説について話したとき、一つの場面から何十分も会話が続いた。
悠真が自分の選んだ本をどう読んだのか、彩花は知りたい。
けれど今、残り時間へ無理に詰め込みたくはなかった。
「今度、ゆっくり聞く」
「分かった」
「私も時計店の本、もう少しで終わるし」
「本当?」
「あと二つ」
「じゃあ両方読み終わったら?」
「うん。そのときにしよう」
悠真は本を手に取ったものの、彩花へ返さず、もう一度テーブルへ置いた。
「じゃあ返すのもそのときでいい?」
「もちろん」
「もう一回少し読み返したいところあるから」
「どこ?」
「まだ秘密」
「また?」
「感想のときに話す」
「分かった。じゃあ私も秘密にする」
「何を?」
「時計店の本で好きだったところ」
「もう決まった?」
「候補はある」
「気になる」
「読み終わるまで待ってください」
「はい」
二人は笑った。
本の話は逃げない。
今日全部話す必要もない。
次に会ったときに話せばいい。
そう思えることが、彩花には心地よかった。
◇
帰る時間が近づくと、彩花は玄関で靴を履いた。
ハクも当然のようについてきている。
「ハク、今日はあんまり遊べなかったね」
しゃがんで頭を撫でる。
ハクは彩花の手へ鼻先を押しつけた。
「次は遊ぼうね」
「それ、覚えてると思う」
「じゃあ約束」
彩花は笑いながら立ち上がる。
悠真も靴を履いた。
「送るよ」
「駅まで?」
「うん」
「一人で帰れるよ」
「知ってる。でも行きたい」
その言い方に、彩花は一瞬だけ黙った。
できるかどうかではない。
悠真がそうしたいと言っている。
「じゃあお願い」
「うん」
二人で外へ出る。
秋の午後はすでに陽が傾き始めていた。
門を出て少し歩いたところで、彩花は振り返る。
ハクが門の向こうからこちらを見ていた。
「見てる」
「また来ると思ってるんじゃない?」
「来るよ」
彩花は何気なく答えた。
「また来たいし」
隣を歩く悠真が少しだけ笑う。
「うん。来て」
それだけの会話だった。
けれど、最初に九条家を訪れた日の「また来たい」とは少し違う。
あのときは、初めて知った悠真の家が楽しかったから、また来たいと思った。
今はもう、ここへ来れば何があるのかを知っている。
麗華がいて、琴葉がいて、正樹や俊治がいて、ハクがいる。
そして悠真がいる。
知ったうえで、また来たいと思っている。
◇
駅までの道を歩きながら、二人の話題は今日作ったクッキーへ戻った。
「次、本当に一人で作るの?」
彩花が尋ねる。
「作る」
「分からなくなったら?」
「レシピ見る」
「それでも分からなかったら?」
「彩花さんに聞く」
「正解」
「電話してもいい?」
「もちろん」
「作ってる途中だとメッセージ打ちにくそうだから」
「確かに。手に粉ついてるかもしれないしね」
「じゃあ電話する」
「うん。出られなかったらごめんね」
「そのときは待つ」
彩花は頷く。
少し先で信号が赤へ変わり、二人は横断歩道の前で足を止めた。
休日の道路には車が流れ、向かい側の歩道では親子が信号を待っている。
「今日さ」
悠真が言う。
「うん?」
「彩花さんが来る前、琴葉に楽しみにしてるのかって聞かれた」
「何て答えたの?」
「楽しみって」
「そのまま?」
「うん」
「琴葉ちゃん、何か言ってた?」
「随分素直ですねって」
彩花は思わず笑った。
「分かる」
「彩花さんまで?」
「だって前の悠真君なら、ちょっと考えてから答えてそう」
「そうかも」
信号はまだ赤い。
悠真は向かい側を見たまま、静かに続けた。
「でも最近、考えなくても分かること増えたから」
「例えば?」
「彩花さんに会うの楽しみとか」
彩花の胸が小さく跳ねる。
「一緒に本の話するの楽しいとか、家に来てくれると嬉しいとか。今日みたいに何か一緒にするのも楽しい」
悠真はそこで一度言葉を切った。
「前は、どうしてそう思うのか考えてたけど」
信号が青へ変わる。
けれど二人は、前の人が歩き出してから一拍遅れて足を進めた。
「今は?」
彩花が尋ねる。
「そう思ってるなら、それでいいかなって」
恋だとは言わない。
友達という言葉だけへ無理に押し込めることもしない。
ただ、自分が感じているものを否定しなくなった。
彩花はその変化を聞きながら、自分にも似たところがあると思った。
「私もかも」
「彩花さんも?」
「前は、悠真君に何か言われるたびに、どういう意味だろうって考えてた」
「今は考えない?」
「全然じゃないよ」
彩花は笑う。
「今でもびっくりすることあるし、恥ずかしくなることもある」
今日、手首へ触れた瞬間のことが浮かび、頬がわずかに熱くなる。
それは口にはしなかった。
「でも、嬉しかったら嬉しいでいいかなって思えるようになった」
悠真がこちらを見る。
「今日も?」
「うん」
「何が嬉しかった?」
「いっぱいあるよ」
「例えば?」
「クッキー一緒に作れたこと。美味しいって言ってくれたこと。私が書いたレシピ、大事にするって言ってくれたこと」
「それから?」
「まだ聞くの?」
「気になる」
彩花は少し考えた。
そして、悠真を見上げる。
「私が来るの楽しみにしてたって言ってくれたこと」
悠真の足がわずかに遅くなった。
彩花はそれに合わせるように歩調を緩める。
「だから、私も言っとく」
「何を?」
「今日、来るの楽しみだったよ」
言葉にした瞬間、少しだけ照れた。
それでも目を逸らさなかった。
「悠真君とクッキー作るのも、ハクに会うのも、九条家にまた来るのも。全部」
悠真はしばらく何も言わなかった。
やがて、困ったように笑う。
「今日のクッキーより嬉しいかも」
「それは言いすぎ」
「本当」
「せっかく作ったのに」
「クッキーも嬉しい。でも今の方が嬉しい」
「……じゃあ、そういうことにしとく」
彩花は少しだけ視線を前へ戻した。
胸の奥が温かい。
もう、自分の言葉を後悔してはいなかった。
◇
青凪駅へ着くと、休日の夕方らしく人通りが増えていた。
二人は改札の少し手前で足を止める。
「今日はありがとう、彩花さん」
「私こそ。キッチン使わせてもらったし」
「次は一人で作る」
「写真待ってる」
「うん」
「失敗しても送ること」
「分かった」
「あと、分からなかったら聞いて」
「電話する」
「うん」
確認することが多くて、彩花は少し笑った。
「何か本当に宿題出したみたい」
「じゃあ提出する」
「採点しないよ?」
「食べてもらえば分かる」
「それは楽しみにしてる」
少しの沈黙。
人の流れが二人の横を通っていく。
けれど、どちらもすぐには改札へ向かわなかった。
「じゃあ」
彩花が先に言う。
「またね、悠真君」
「うん。またね、彩花さん」
彩花が数歩進む。
そこで悠真の声がもう一度聞こえた。
「彩花さん」
振り返る。
「何?」
「レシピ、本当にありがとう」
悠真は鞄へ軽く触れた。
「ちゃんと使う」
彩花は笑った。
「どういたしまして」
そして少し考え、付け加える。
「使ってくれる方が、私も嬉しいから」
「分かった」
「じゃあ今度こそ、またね」
「また」
彩花は改札へ向かった。
電車へ乗り、空いていた座席へ座ってから、今日一日のことを思い返す。
粉を量った悠真。
真剣に生地を混ぜていた悠真。
オーブンの中をずっと眺めていた悠真。
クッキーを一口食べて、子どものように少し嬉しそうな顔をした悠真。
そして。
(……手、触ったな)
思い出した途端、彩花は自分の右手を見る。
ほんの一瞬。
悠真が混ぜすぎないように止めただけだ。
それなのに、その瞬間だけは今でも妙にはっきり覚えている。
(別に、手を繋いだわけでもないのに)
そう考えると、余計に恥ずかしくなる。
彩花は窓の外へ視線を向けた。
流れていく街並みが夕陽に染まっている。
胸の中にあるものへ、今すぐ名前を付ける必要はない。
今日が楽しかった。
悠真に会えて嬉しかった。
また一緒に何かをしたい。
それだけは、もう迷わず認められる。
◇
夜。
自室へ戻った悠真は、机の上へ一枚の紙を置いた。
彩花が書いてくれたクッキーのレシピ。
折れないように鞄へ入れて持ち帰ったそれを、もう一度開く。
見慣れた彩花の文字が並んでいる。
材料の横には小さく補足があり、混ぜすぎないようにという部分には線まで引いてあった。
今日、実際に失敗しかけたところだ。
「ここ、本当に大事だったんだな」
悠真は小さく笑う。
透明なケースへ入れようかと考えたが、彩花から「ちゃんと使って」と言われたことを思い出す。
だからケースへしまい込むのはやめた。
次に作るとき、すぐ見られるよう机の引き出しへ入れる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
彩花からだった。
『家着いたよ。今日はありがとう。』
悠真はすぐに返信する。
『おかえり。こっちこそありがとう。』
少し考え、もう一文。
『次は一人で作ってみる。』
返事はすぐだった。
『楽しみにしてる。』
その短い文章を見て、悠真は自然に笑った。
誰かに食べてもらうために何かを作りたいと思ったことは、これまでほとんどない。
けれど次は、自分一人で作ってみたい。
上手くできたら、彩花へ食べてもらいたい。
そして、できれば美味しいと言ってほしい。
それが今の自分の望みなのだと、もう理由を探す必要はなかった。
悠真は机の上に置いていた彩花から借りた小説を手に取る。
感想を話す約束も残っている。
クッキーを作る約束も増えた。
ハクと遊ぶ時間も、またあるだろう。
何か一つが終わるたび、次がなくなるのではなく、別の楽しみが自然に続いていく。
悠真は本を開きかけて、ふと今日のキッチンを思い出した。
混ぜすぎそうになった自分を止めるため、彩花の指が手首へ触れた瞬間。
あのとき、自分も少し驚いた。
それまで何も考えず作業していたのに、触れた場所だけ急に意識してしまった。
(彩花さんも、ちょっと驚いてた)
それ以上は考えなかった。
考えて答えを出す必要もない。
ただ、忘れそうにないということだけは分かった。
◇
同じ夜、彩花も机へ向かっていた。
開いているのは、いつものノートだった。
しばらく何を書くか考えてから、ペンを動かす。
『誰かに教えることは、自分ができることを渡すことなのかもしれない。』
そこで一度止まる。
今日、自分が悠真へ渡したもの。
クッキーの作り方。
手書きのレシピ。
何度も作って覚えた小さなコツ。
どれも、以前の自分なら「大したことではない」と思っていたものかもしれない。
けれど悠真は一つずつ真剣に聞いてくれた。
できるようになるたびに喜んだ。
レシピまで大切にすると言ってくれた。
彩花はその下へ続ける。
『自分には普通のことでも、誰かが大切に受け取ってくれると、少しだけ違って見える。』
文字を眺める。
料理。
裁縫。
本を読むこと。
文章を書くこと。
以前は、凛花と比べれば自分には特別なものがないと思っていた。
今はそうではない。
自分が好きで続けてきたものがある。
誰かへ渡せるものもある。
それを悠真が受け取ってくれることが嬉しい。
そして、自分も悠真からたくさんのものを受け取っている。
本。
景色。
家族のこと。
好きな場所。
知らなかった考え方。
彩花は少し考え、最後に一文を書いた。
『次は、悠真君が作ったクッキーを食べてみたい。』
書いたあとで、少し笑う。
深い意味を持たせた文章ではない。
ただ、本当に楽しみなのだ。
ノートを閉じ、時計店の短編集を手に取る。
残りはあと少し。
これを読み終えれば、また悠真と話したいことが増える。
けれど急ぐ必要はない。
クッキーも、本も、次の休日も。
今の二人には、続きを楽しみにできる時間がちゃんとある。
彩花はベッドへ腰掛けて本を開いた。
ページをめくる前、右手へ一度だけ視線を落とす。
今日、悠真の手首へ触れた手。
思い出すとまだ少しだけ恥ずかしい。
それでも嫌ではなかった。
その理由までは、今はまだ考えなくていい。
(今日は楽しかった)
それだけを素直に胸の中へ残して、彩花は物語の続きを読み始めた。




