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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第59話 同じ物語の、違う景色



 翌週の放課後、青凪市立中央図書館へ向かう彩花の鞄には、読み終えた映画館の小説と、悠真から借りた連作短編集が入っていた。


 短編集の方は、まだ半分ほどしか読めていない。読み始めた夜には数ページだけのつもりが思った以上に先へ進み、その後も寝る前や通学時間に少しずつ読み続けていた。


 古い時計店を舞台に、店主や客、その家族たちの人生がゆるやかにつながっていく物語である。大きな事件が起きるわけではないのに、誰かが何気なく選んだ言葉や、別れ際に見せた表情が後の短編で違う意味を持って現れる構成が面白く、読み進めるほど最初の話へ戻りたくなる。


 何より、読んでいる途中で何度も悠真のことを思い出した。


(こういうところ、悠真君が好きそう)


 時計を修理する老店主が、依頼人の事情へ必要以上に踏み込まず、それでも困っていることだけは見落とさない場面。遠くへ進学することになった高校生が、家族へうまく寂しさを伝えられずにいる場面。そして、言葉にされなかった気持ちを別の誰かが無理に決めつけず、そのまま受け止める場面。


 悠真がどこを好きなのか、まだ聞いていない。


 だから本当に同じところを好んでいるのかは分からない。


 けれど、分からないからこそ読み終えるのが楽しみだった。


 今日はその短編集の感想を話す日ではない。先に二人とも読み終えた、映画館を舞台にした小説について話すために会う約束をしている。


 それだけのために、放課後に待ち合わせた。


 以前なら、その事実を少し不思議に思ったかもしれない。


 本の感想ならメッセージでも伝えられる。電話でもいいし、次に偶然会ったときまで待っても構わない。


 けれど二人とも、会って話したいと言った。


 彩花はそのことを思い返しながら図書館へ続く歩道を進み、冷たい風に揺れる髪を耳へ掛けた。


(私、楽しみにしてたんだな)


 もちろん本の感想を話すことも楽しみだ。


 それと同じくらい、悠真に会うことそのものを楽しみにしていた。


 その二つをわざわざ分けて考えなくなっている自分に気づくと、胸の奥が少しくすぐったくなった。


     ◇


 中央図書館の入口へ着くと、悠真はまだ来ていなかった。


 待ち合わせ時刻までは五分ほどある。


 彩花は自動扉の横から少し離れた場所で立ち止まり、スマートフォンを確認した。悠真から遅れるという連絡はなく、メッセージ画面には昨夜交わした短いやり取りが残っている。


『明日、放課後そのまま行くね。』


『俺も学校終わったら向かう。』


『どっちが先かな。』


『今度は負けない。』


 最後の一文を見て、彩花は小さく笑った。


「本当に勝負になってる……」


「何が?」


 すぐ近くから声が聞こえ、彩花は顔を上げた。


 桜華学園の制服姿の悠真が、数歩先に立っている。肩には通学鞄が掛かっており、少し急いできたのか、普段より呼吸がわずかに速い。


「悠真君」


「今、勝負って聞こえたけど」


「待ち合わせ」


 彩花がスマートフォンの時計を見せる。


「私の勝ち」


「……二分?」


「二分でも勝ちは勝ちです」


「俺、走ってきたんだけど」


「えっ、何で?」


「駅から時計見たら、彩花さんが先に着いてそうだったから」


 あまりに真面目な理由で、彩花は目を丸くしたあと、堪えきれずに笑った。


「そこまでしなくていいよ」


「一回くらい勝ちたい」


「この前勝ったじゃん」


「図書館では負けてる気がする」


「そんな集計してないよ」


 笑いながら自動扉へ向かうと、悠真も隣へ並んだ。


 制服の違う高校生二人が、放課後の図書館へ一緒に入る。


 以前なら少し意識したかもしれない光景も、今ではずいぶん自然になった。


「そういえば、映画館の本持ってきた?」


 館内へ入ってから声を落として尋ねると、悠真は鞄へ軽く触れた。


「持ってきた。彩花さんも?」


「うん」


「じゃあ、どこで話す?」


「いつものところ空いてるか見てみよう」


 二人は並んで閲覧スペースへ向かった。


 夕方前の館内には、学校帰りの学生や新聞を読む年配の利用者がいる。窓際の席には低い秋の光が差し込み、机の端に長い影を作っていた。


 幸い、二人がよく使う奥寄りの席は空いていた。


 向かい合って腰を下ろすと、彩花は鞄から映画館の小説を取り出した。


 悠真も同じ本を机へ置く。


 二冊の同じ表紙が並んだ。


「何か変な感じ」


 彩花が言う。


「同じ本二冊並んでるから?」


「それもあるけど……二人とも自分で借りて、同じ時期に読んだんだなって」


「前は交換だったもんね」


「うん。今回は同じ本を別々に読んだ」


 悠真は表紙へ目を落とし、少し楽しそうに指先で本の端を整えた。


「じゃあ、どこから話す?」


「悠真君、ずっと我慢してたんでしょ?」


「我慢ってほどじゃないけど、話したかった」


「じゃあ先にどうぞ」


「いいの?」


「うん。私、悠真君がどこ好きだったか気になってたから」


 その言葉に悠真は一瞬だけ目を細め、それから本を開いた。


 付箋を貼ることはしていないらしく、ページ番号を覚えていたのか、迷わず中盤を開く。


「俺、一番好きだったのここ」


 指し示された場面を見て、彩花は意外に思った。


「そこなんだ」


「彩花さんは違う?」


「好きだけど、一番ではなかった」


 悠真が選んだのは、映画館で長く映写を担当してきた男性が、閉館の話を聞いたあとも普段通り映写室の掃除を続ける場面だった。


 誰かへ強く反対するわけでもない。


 悲しいと口にすることもない。


 ただ、いつもより時間をかけて機械を磨いている。


「ここ、あんまり台詞ないよね」


「うん。でも、この人が映画館をどれだけ大事にしてたか、一番分かる気がした」


 悠真はページへ視線を落としたまま続ける。


「なくなるのが嫌だって直接言ってないのに、掃除してる時間が長くなってるだけで伝わるというか。あと、このあと若いスタッフに『今日も綺麗ですね』って言われて、『毎日やってるからな』って普通に返すところも好きだった」


「ああ……」


 彩花はもう一度その場面を読み返した。


 自分も印象には残っていた。


 けれど一番好きな場面としては選ばなかった。


「悠真君、こういうの好きなんだ」


「こういうの?」


「言わないけど、行動で分かるところ」


「そうかも」


 答えてから、悠真が彩花を見る。


「彩花さんは?」


「私は終盤」


「どこ?」


 彩花は自分の本を開き、最後から少し手前のページを探した。


「ここ」


 閉館の日、幼い頃からその映画館へ通っていた女性が、最後の上映を見終えて出口で振り返る場面だった。


 映画館は閉まる。


 建物も取り壊される予定になっている。


 それでも女性は泣きながら「ここで見た映画までなくなるわけじゃない」と笑う。


「私、この人が最初ずっと閉館に反対してたから、最後まで納得しないのかなって思ってた」


「うん」


「でも、なくなることを好きになる必要はないんだよね。嫌なままでも、それまで大切だったことは変わらないっていうのが……何か好きだった」


 悠真はすぐには答えなかった。


 彩花が話し終えるまで待ち、それから該当箇所へ目を落とす。


「彩花さんらしい気がする」


「え?」


「いや……」


 悠真が言葉を探す。


「変わることを、全部いいことにしなくてもいいってところを選ぶのが」


「それ、どういう意味?」


「悪い意味じゃないよ」


「分かってるけど、気になる」


 彩花が身を乗り出すほどではないものの、少しだけ首を傾げると、悠真は困ったように笑った。


「彩花さんって、前の自分を全部嫌いだったことにしないでしょ」


 その言葉に、彩花は瞬きをした。


「前より自分のこと好きになれたって言ってたけど、昔の自分を間違いだったとは言わなかったから」


 川沿いの道で交わした話を思い出す。


 凛花と比べてしまったこと。


 自分には何もないと思っていたこと。


 それでも家族が嫌いだったわけでも、凛花を憎んでいたわけでもないこと。


 あの話を、悠真はちゃんと覚えている。


「……よく覚えてるね」


「覚えてるよ」


 当然のように返され、彩花は少しだけ視線を下げた。


 以前なら、自分について話したことを覚えられていると、恥ずかしさの方が先に来たかもしれない。


 今は違う。


 大切に扱われているようで嬉しい。


「でも、それなら悠真君も悠真君らしいよ」


「俺?」


「さっきの映写室の人。言葉じゃなくて行動に出るところが好きなんでしょ?」


「うん」


「悠真君もそういうところあるから」


「例えば?」


「いっぱいあるよ」


 彩花は少し考え、指を折る代わりに机の上で手を組んだ。


「私が学校へ行くって言ったら案内する場所を先に考えてくれてたし、家に行ったときも私が緊張しないようにしてくれてたし、川沿いを歩いたときも、私が話したくないことまで聞かなかったし」


 言葉にするほど、いくつも出てくる。


「あと、私が好きって言った本とか作家さん、結構覚えてる」


「それは彩花さんもでしょ」


「今は悠真君の話」


「はい」


「だから、悠真君も言葉より先に行動してること多いと思う」


 そこまで言ってから、彩花はふと笑った。


「でも最近は言葉でも言うようになったね」


「そう?」


「うん。会いたいとか、嬉しいとか」


 悠真の動きが止まった。


 彩花も言ってから少し恥ずかしくなったが、もう撤回するほどではない。


「……彩花さんもだよ」


「私も?」


「最近、言ってくれるようになった」


「それは……」


 思い当たる。


 会いたかった。


 悠真にも会いたい。


 今の関係の方が好き。


 少し前の自分なら、口に出す前に何度も迷っていた言葉だ。


「そうかも」


「嬉しい」


「また言った」


「本当だから仕方ない」


「じゃあ、もう数えないことにする」


「数えてたの?」


「今から数えようかと思ってた」


「やめて」


 声を抑えて笑い合う。


 すぐ近くの席で勉強していた高校生が一度だけ顔を上げたため、二人は同時に少し姿勢を正した。


「……静かにしよう」


 彩花が囁く。


「うん」


 それでも互いの顔を見るとまた笑いそうになり、彩花は本へ視線を戻した。


     ◇


 感想の話は、一番好きな場面だけでは終わらなかった。


 登場人物の中で誰が好きだったか。


 閉館という結末をどう思ったか。


 途中に挟まれた古い映画のエピソードは必要だったか。


 もし映画館が存続する結末だったら、印象は変わったか。


 一つの話題から別の話題へ自然につながり、気づけば三十分以上が過ぎていた。


「私は存続しない方でよかったと思う」


 彩花が言うと、悠真も頷いた。


「俺も。残ったら綺麗すぎる気がする」


「そうそう。みんなが頑張ったから奇跡が起きました、だとちょっと違うんだよね」


「頑張っても変えられないことがあるって最初から書いてたしね」


「でも何も残らなかったわけじゃない」


「そこがいい」


 二人の意見が重なる。


 その一方で、主人公については少し違った。


「俺、主人公は最後に町を出てもよかったと思う」


「えー、私は残ってほしかった」


「何で?」


「あの子、ずっと自分の居場所がないって思ってたじゃん。最後に映画館がなくなっても、この町で別の場所を作ろうって決める方が私は好き」


「でも、映画館がなくなったあとまで町に残ると、過去に引っ張られてる感じしない?」


「そうかな。残ることと、引きずることは違わない?」


「違うけど……」


 悠真は少し考えた。


「俺は逆に、好きだった場所がなくなったからこそ、新しい場所を見に行ってもいいと思った」


「なるほど」


 彩花はすぐに否定せず、悠真の言葉を自分の中で転がした。


「じゃあ、町を出るのが逃げじゃないってこと?」


「うん。残るのも逃げじゃないし、出るのも逃げじゃない。自分で決めたならどっちでもいいと思う」


「……それなら分かるかも」


「彩花さんは残る方?」


「たぶん。でも、悠真君の言うこと聞いたら出る結末も読みたくなってきた」


「二種類あったらいいのに」


「それは作者さん困るでしょ」


「読者が選ぶ形式とか」


「ゲームじゃないんだから」


 彩花は笑いながらページを閉じた。


 同じ本を読んだ。


 好きな場面は違った。


 主人公の最後についても意見が分かれた。


 けれど、違うことが少しも嫌ではない。


 むしろ面白い。


「やっぱり会って話してよかった」


 彩花が何気なく言うと、悠真も本を閉じた。


「俺も」


「メッセージだとこんなに話さなかったと思う」


「文章長くなりそう」


「絶対長いよ。悠真君、真面目に全部返してくれそうだもん」


「彩花さんもでしょ」


「私は途中で『続きは今度』って言う」


「じゃあ結局会うことになるね」


「そうだね」


 彩花は微笑みながら、机に置いた二冊の同じ本を見た。


「それでいいかも」


 誰かと同じ本を読むことは、同じ答えを持つことではない。


 違うところを見て、違うことを考えて、それを言葉にして渡し合う。


 だから一人で読むのとは違う楽しさがある。


 ノートへ書いた言葉の意味が、昨日より少しはっきりした気がした。


     ◇


「ところで」


 映画館の小説について一通り話し終えた頃、悠真が彩花の鞄へ視線を向けた。


「時計店の方、読んでる?」


「読んでるよ」


「どこまで?」


「半分くらい」


「早いね」


「面白いから」


 彩花は鞄から借りた短編集を取り出した。


「今、四つ目の話まで読んだ」


「ああ、じゃあ――」


 何か言いかけた悠真が、途中で口を閉じる。


「何?」


「感想言いそうになった」


「危ない」


「彩花さんが読み終わるまで待つ」


「お願いします」


 彩花は本を胸元へ引き寄せるように持ち、少し考えてから尋ねた。


「でも一個だけ聞いていい?」


「内容じゃなければ」


「これ、いつ頃から好きなの?」


「中学の頃かな。最初に読んだのは中等部二年くらい」


「じゃあ結構前なんだ」


「うん。でも最近読み返した」


「どうして?」


 悠真は少しだけ視線を落とした。


「今回の本を選ぶ前に、家の本棚見てたから」


「それだけ?」


「それもあるけど……最近、前に読んだ本を読み返すのが面白くて」


「分かる。昔と感想変わるよね」


「うん。前は店主の話が一番好きだったけど、今は別の話の方が好きだった」


「どれ?」


「それはまだ言わない」


「えー」


「読んでから」


「じゃあ早く読もう」


 彩花は少し悔しそうに言ったものの、本を閉じて鞄へ戻した。


「私が貸した方は?」


「読んでるよ。昨日、三分の一くらいまで」


「どう?」


「言っていいの?」


「……やっぱり駄目」


「何で聞いたの」


「聞きたくなったけど、読み終わってからちゃんと聞きたい」


「俺もその方がいい」


 二人の間に、また次の話題ができている。


 映画館の本が終わっても、時計店の短編集と、彩花が渡した物語がある。


 読み終えれば、また感想を話せる。


 彩花はそのことを嬉しいと思った。


 けれど同時に、ふと別のことも考えた。


「ねえ、悠真君」


「うん?」


「私たち、本がなくても会うようになったね」


 悠真は一度瞬きをした。


 彩花自身、口にするまで明確に意識していなかった。


 最初は本が二人をつないでいた。


 図書館で会う。


 本について話す。


 おすすめを教え合う。


 それが少しずつ変わった。


 学校へ行った。


 家へ行った。


 川沿いを歩いた。


 家族とも会った。


 そのどれも、本だけが理由ではない。


「そうだね」


 悠真がゆっくり答える。


「でも、本があると会う理由が一個増える」


「うん」


「俺はそれも好き」


 彩花は少し考え、それから頷いた。


「私も」


 本がなくても会える。


 本があれば、また会いたくなる理由が増える。


 どちらか一つではなく、両方あることが嬉しかった。


「じゃあ次も本選ぶ?」


「今の二冊読み終わってからね」


「まだ先か」


「そんなに急いで増やしたら積んじゃうよ」


「それは困る」


「だから、ゆっくり」


 彩花が言うと、悠真は素直に頷いた。


 急がなくても次がある。


 それをわざわざ確認しなくても、今は二人とも自然にそう思っている。


     ◇


 図書館を出た頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。


 日が短くなっている。


 西の空には薄い橙色が残り、建物の影は長く歩道へ伸びていた。昼間よりさらに冷えた風が吹くたび、街路樹の葉が何枚か舞い落ちる。


「寒くなったね」


 彩花が両手を軽く擦る。


「大丈夫?」


「まだ平気。悠真君は?」


「俺も大丈夫」


 並んで駅へ向かう。


 話題は本から学校へ移り、さらに家のことへ変わった。


「そういえば、お母さんがこの前のお菓子の感想聞いてた」


 彩花が言う。


「すごく美味しかったって伝えて。母さんも琴葉も喜んでた」


「お母さんに言っとく。凛花お姉ちゃんも、悠真君がちゃんと食べたか気にしてたよ」


「ちゃんと食べたよ」


「何でそこ気にするんだろ」


「俺も分からない」


「たぶん、お姉ちゃんなりに心配してるんだと思う」


「何を?」


「……私が作ったもの残されたら、私が落ち込むと思ってるとか?」


「残すわけないのに」


 悠真が当然のように言った。


「全部美味しかったし」


「ありがと」


 彩花は少し照れながら笑った。


 家族の話の中に悠真がいる。


 悠真の家族の話を自分が知っている。


 それも少し前まではなかったことだ。


「ハク元気?」


「元気。昨日、散歩から帰りたくないって座り込んでた」


「見たい」


「写真あるよ」


「見せて」


 悠真がスマートフォンを取り出すと、彩花は自然に少し近づいた。


 画面には、歩道の端へどっしり座り込んだ白い大きな犬が映っている。リードの先には正樹らしい腕の一部だけが写り、ハクは帰宅を拒否する意思を全身で示していた。


「かわいい……」


「父さん、十分くらい説得したらしい」


「説得するんだ」


「最後はおやつで交渉成立」


「九条家の交渉術が犬に負けてる」


「ハク相手だとだいたい負けるよ」


 彩花は写真を見ながら笑った。


 もう一枚、もう一枚と見せてもらっているうちに、二人の肩の距離は近くなっていた。


 けれど、どちらもそれを意識して離れることはない。


「これ、送ってもらっていい?」


「いいよ」


「やった」


「そんなに?」


「だってかわいい」


 悠真が写真を送る。


 数秒後、彩花のスマートフォンが震えた。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「今度会ったらもっと写真撮ろう」


「ハクの?」


「うん。あと……」


 彩花はそこで少し考える。


「みんなで撮ってもいいかも」


「みんな?」


「琴葉ちゃんとか、悠真君とか、ハクとか」


「彩花さんも入るよね?」


「撮る人必要じゃない?」


「誰かに頼めばいいよ」


「おじい様?」


「祖父なら喜んで撮ると思う」


「確かに」


 二人で笑いながら歩く。


 また九条家へ行くことを、彩花はもう「あるかもしれない遠い予定」として考えていなかった。


 機会があれば行く。


 ハクにも会う。


 琴葉とも話す。


 その中に悠真がいる。


 そんな未来が自然に思い浮かぶ。


     ◇


 青凪駅へ着いたあと、二人は改札前の少し広い場所で立ち止まった。


「今日はありがとう」


 彩花が言う。


「こっちこそ。やっぱり会って話す方がよかった」


「うん。私も」


 映画館の小説を抱え直し、彩花は少しだけ笑う。


「同じ本なのに、悠真君が見てたところ全然違った」


「彩花さんも」


「面白かったね」


「うん」


「時計店の方も楽しみになった」


「俺も彩花さんの本、ちゃんと読む」


「急がなくていいからね」


「分かってる」


 改札へ向かう人々が二人の横を通り過ぎていく。


 別れ際の会話が以前より少し長くなったことを、彩花はもう気にしていない。


「じゃあ、また連絡するね」


「うん」


 悠真は答えたあと、少しだけ間を置いた。


「彩花さん」


「なに?」


「今日、会えてよかった」


 彩花はその言葉を受け止め、頬を緩めた。


 以前なら、それだけで何と返せばいいのか迷っていたかもしれない。


 今はもう迷わない。


「私も、悠真君に会えてよかった」


 悠真の表情が明るくなる。


 それを見て、彩花も嬉しくなった。


「またね」


「うん。また」


 それぞれの改札へ向かう。


 彩花は数歩進んでから振り返った。


 同じタイミングで、悠真もこちらを見ていた。


 二人とも少し驚き、それから笑う。


 今度こそ手を振って別れた。


     ◇


 帰宅後、彩花は夕食までの時間を自室で過ごしていた。


 机の上には、悠真から借りた時計店の短編集が開かれている。


 けれど読み始める前に、彩花はノートを取り出した。


 昨夜書いた文章が目に入る。


『同じ本を読むと、一人で読んだはずの物語に、あとから誰かの景色が増える。』


『知りたいと思える人がいると、本を読み終わったあとまで楽しい。』


 今日、実際に感想を話して、その意味が少し変わった。


 彩花は下へ新しい一文を書き足した。


『同じ景色を見なくても、一緒にいられる。違う景色を教えてもらえるから、一緒にいるのが楽しい。』


 書き終えたあと、ペン先を紙の上で止める。


(これ、本のことだけじゃないかも)


 悠真とは違う。


 育った家も、通っている学校も、家族の形も、得意なことも違う。


 好きな本だって全部同じではない。


 同じ物語を読んでも、心に残る場面は違った。


 けれど、その違いが距離になるとは思わなくなった。


 むしろ知りたいと思う。


 どうしてそこを好きになったのか。


 自分とは違う景色を、悠真はどう見ているのか。


 彩花はノートへもう一文書こうとして、少し迷った。


 やがて、ゆっくりと文字を綴る。


『悠真君が見ているものを、もっと知りたい。』


 そこでペンを置いた。


 胸の奥に浮かんだ言葉は、それ以上でもそれ以下でもない。


 まだ知らないことがある。


 だから知りたい。


 そして、自分が見ているものも悠真に知ってほしい。


 川沿いの景色を見せたときと同じだった。


 彩花はノートを閉じると、時計店の短編集を手に取った。


 続きを開く。


 悠真が今はどの話を一番好きなのか、まだ知らない。


 答えを早く知りたい気持ちはあるけれど、それだけを目的に急いで読むつもりはなかった。


 一つ一つの物語を、自分の速度で読む。


 そのあとで、自分が見た景色を悠真へ渡す。


 それでいい。


     ◇


 一方、帰宅した悠真も自室の机に向かっていた。


 開いているのは、彩花から借りた本だった。


 進路に悩む高校生が、亡くなった祖母の残した手紙をきっかけに自分の道を探していく物語。


 まだ途中だ。


 主人公は周囲の友人たちと自分を比べ、自分には何もないと思い込んでいる。


 けれど祖母の手紙には、励ましの言葉も答えも書かれていない。


『あなたが選んだものを、いつか教えてください。』


 それだけだった。


 悠真はその一文でページをめくる手を止めた。


(彩花さんは、ここをどう読んだんだろう)


 今日の映画館の小説について話した時間を思い出す。


 同じ本を読んでも、彩花が好きになった場面は自分とは違った。


 それを知るのが面白かった。


 自分が気づかなかったところを、彩花は見ていた。


 そして彩花も、自分の感想を面白そうに聞いてくれた。


 悠真は机の端に置いたスマートフォンへ一度だけ視線を向けた。


 今すぐ感想を送りたくなる。


 けれど、まだ読み終わっていない。


 彩花も時計店の本を読んでいる途中だ。


 急ぐ必要はない。


 ページをめくりながら、悠真は今日の帰り道で交わした会話を思い出した。


『私たち、本がなくても会うようになったね』


 確かにそうだった。


 最初は本が理由だった。


 今は本がなくても会いたいと思う。


 それでも本があると、彩花と話したいことが増える。


 自分の好きなものを渡したくなる。


 彩花の好きなものを知りたくなる。


(次は何を話すんだろう)


 予定を決めているわけでもないのに、自然と次を考えている。


 そのことに戸惑いはなかった。


 悠真は再び本へ目を戻した。


 祖母の手紙を握った主人公が、初めて自分の意思で知らない町へ向かう場面が始まる。


 彩花が最近この本を読み返した理由を、まだ悠真は知らない。


 読み終われば聞ける。


 そのとき、自分がこの物語をどう読んだのかも伝えたい。


 知らないことが、また一つある。


 そして今の悠真にとってそれは、不安になる理由ではなく、次に彩花と話したくなる理由になっていた。

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