第58話 次に君へ渡したい本
土曜日の午前、青凪市立中央図書館の自動扉を抜けた彩花は、外よりわずかに暖かい空気に包まれながら、肩に掛けていた鞄の位置を直した。
秋が深まり始めた青凪市では、朝晩だけでなく昼間の風にも冷たさが混じるようになっている。図書館前の街路樹も少しずつ色づき、入口脇のガラス越しには赤や黄色の葉が陽射しを受けて揺れていた。
けれど、館内へ入れば季節の変化は少しだけ遠くなる。
紙の匂いと、控えめな空調の音。カウンターの向こうで司書が本を扱う音や、閲覧席から聞こえる小さなページの音も、彩花には馴染み深いものだった。
(やっぱり落ち着くなあ)
つい先日まで、悠真の家へ行ったり、自分の家へ悠真を招いたりと、普段とは少し違う休日が続いていた。
それも楽しかった。
むしろ、知らなかった悠真の日常を知れたことも、自分の日常を知ってもらえたことも嬉しかった。
それでも中央図書館へ来ると、どこか帰ってきたような感覚がある。
そして今日は、ただ本を読みに来たわけではない。
「彩花さん」
聞き慣れた声がして振り返ると、入口近くの掲示板のそばに悠真が立っていた。
「悠真君、おはよう」
「おはよう。今日は俺の方が早かった」
少し得意そうに言われ、彩花は壁の時計へ視線を向けた。待ち合わせ時刻まではまだ数分あり、自分も決して遅くはない。
「この前負けたの気にしてた?」
「少しだけ」
「本当に勝負になってるんだ」
「彩花さんが最初に勝ちって言ったから」
「そんなに真面目に受け取るとは思わなかったよ」
彩花が笑うと、悠真もつられるように表情を緩めた。
以前なら、図書館で会うと最初に何を話そうか少しだけ考えていた。偶然会うことが多かった頃も、待ち合わせをするようになった頃も、顔を合わせた直後には小さな緊張があった。
今はそれがほとんどない。
名前を呼び、挨拶をして、そのまま昨日の続きのように会話を始められる。
それが彩花には心地よかった。
「今日はちゃんと目的忘れてない?」
「次に交換する本を選ぶ」
「正解」
「彩花さんこそ、もう候補決めてる?」
「一応いくつか考えたけど、まだ決めてないよ。家の本にするか、ここで見つけるかも迷ってる」
「俺も似た感じ」
「じゃあ今日は探すところからだね」
彩花はそう言って一般書架の方へ視線を向けた。
前に本を交換したときとは、少しだけ条件が違う。
最初は、自分にとって大切な一冊を相手へ渡した。
その次には、相手に読んでほしいと思った本を選んだ。
どちらもすでに読み終え、感想を交わしている。
だから次はどうするのか。
それを二人で決めるところから始めるのも楽しそうだった。
「ねえ、悠真君」
「うん?」
「今回、テーマ決めない?」
「テーマ?」
「前は大切な本とか、相手に読んでほしい本だったでしょ。今度も何か一つ決めた方が選びやすいかなって」
悠真はすぐに答えず、書架へ向かう人の邪魔にならないよう少し端へ寄った。彩花も隣へ移動すると、二人は自然に同じ方向を向いて立つ。
「面白そう。何がいいかな」
「それを今から考えるの」
「難しいね」
「例えば、今まで自分じゃあんまり読まなかったジャンルとか」
「それだと相手に読んでほしい本と近くない?」
「確かに」
「最近読んでよかった本とか?」
「普通すぎるかな」
「普通でもいいと思うけど」
彩花は腕を組む代わりに、鞄の持ち手へ指を添えながら考えた。
難しくする必要はない。
本を選ぶこと自体が目的なのではなく、その本を通して相手のことを知るのが楽しいのだから。
「じゃあ……今の自分が好きな本、とか?」
「今の?」
「うん。昔からずっと大事にしてる本じゃなくて、今の自分が読んで好きだと思える本。最近読んだものじゃなくてもいいけど」
口にしてから、彩花は自分でも少し気に入った。
子どもの頃から好きだった本には、過去の自分が詰まっている。
けれど、人の好みは少しずつ変わる。
今だから響く物語や、今だから好きになれる登場人物もいる。
「それいいね」
悠真が頷く。
「じゃあ今回は『今の自分が好きな本』?」
「うん。ただし、相手がまだ読んでない本」
「そこ大事だね」
「悠真君、結構読んでるから選ぶの大変そう」
「彩花さんもでしょ」
「私は悠真君ほどじゃないよ」
「それ、前から言ってるけど信用してない」
「何で?」
「彩花さんの本棚見たから」
先週、自分の部屋を悠真へ見せたことを思い出し、彩花は少しだけ頬を緩めた。
「悠真君の本棚の方がすごかったよ」
「量の話じゃなくて、読んでる種類」
「そうかな」
「そうだよ。児童文学も一般文芸もミステリーも恋愛ものもあったし」
「好きなの適当に読んでるだけだよ」
「それが一番いいと思う」
二人は話しながら書架の間へ入っていった。
休日の午前中ということもあり、館内にはそれなりに利用者がいる。それでも混雑しているほどではなく、棚の間をゆっくり歩く余裕はあった。
彩花は背表紙を眺めながら、ときどき一冊を抜き出しては戻していく。
隣では悠真も同じように本を探していた。
しばらくして、彩花はふと気づく。
「これ、難しくない?」
「何が?」
「今の自分が好きな本って、思ったより分からない」
「テーマ決めた人が言う?」
「だって好きな本いっぱいあるんだもん」
「俺も今同じこと考えてた」
「じゃあやっぱり難しいんじゃん」
二人で顔を見合わせ、声を抑えて笑う。
図書館なので大きな声は出せない。その制限さえ、ここでは昔から二人の会話の一部だった。
「でも楽しい」
悠真が小声で言う。
「選ぶの?」
「うん。彩花さんが読むと思うと、いつもと見方変わるから」
彩花は手にしていた本の背表紙へ視線を落とした。
「私も」
一人で読む本を探すなら、自分が面白そうだと思うかどうかだけでいい。
けれど今日は違う。
この物語を悠真が読んだら、どこを好きになるだろう。
どの人物に共感するだろう。
読み終えたあと、どんな話をするだろう。
そんなことまで考えてしまう。
「前より選ぶの時間かかりそう」
「今日は時間あるよ」
「うん」
その言葉に、彩花は少しだけ笑った。
自宅から悠真を送り出した夕方、自分が言った言葉と同じだった。
時間はある。
だから急ぐ必要はない。
二人はそれぞれ気になる棚を見ながら、ゆっくりと図書館の奥へ進んでいった。
◇
一時間ほど経った頃、彩花の手元には三冊の本があった。
どれも候補だった。
一冊目は、海辺の小さな町を舞台にした青春小説。
二冊目は、古い喫茶店を中心に何人もの人生が交差していく連作短編集。
三冊目は、進路に悩む高校生が祖母の残した手紙をきっかけに、自分のやりたいことを探していく物語だった。
「決まらない」
閲覧スペースの端にある椅子へ座り、彩花は三冊を膝の上に重ねた。
向かいに座った悠真も二冊を持っている。
「俺も」
「悠真君でも?」
「さっきから二冊で迷ってる」
「見せて」
「まだ駄目」
「何で?」
「交換するときまで秘密にしたい」
「えー」
彩花は不満そうに言いながらも、本気で取り上げようとはしなかった。
「じゃあ私のも見せない」
「表紙見えてるよ」
「……あ」
膝の上に堂々と置いている。
悠真が笑いを堪えるように口元へ手を添えた。
「笑わないでよ」
「ごめん」
「悠真君のは?」
「伏せて持ってきた」
「ずるい」
「そこまで本気で隠すつもりじゃなかったけど」
「じゃあ見せて」
「それは交換するとき」
「急に秘密主義」
彩花はそう言いながら、自分の候補三冊を机へ置いた。
選べない理由は分かっている。
どれも好きだからだ。
けれど「悠真に渡したい一冊」と考えたとき、何かが少し足りない。
「彩花さん」
「うん?」
「一番最近読み返したのはどれ?」
彩花は三冊を見比べる。
「これかな」
指を置いたのは、三冊目だった。
「どうして読み返したの?」
「文芸部で次に何を書こうかなって考えてたときに、ちょっと読みたくなって」
「じゃあ今の彩花さんに近いの、それじゃない?」
言われて、彩花は本へ目を落とした。
進路に悩む高校生の物語。
主人公は、自分には特別な才能がないと思っている。
周囲には、夢をはっきり持っている友人がいる。
家族から期待されているわけでも、強制されているわけでもない。それでも周囲と自分を比べながら、何を選べばいいのか分からなくなっていく。
祖母の残した手紙に答えは書かれていない。
主人公は自分で歩き、自分で選び、最後には小さな目標を見つける。
初めて読んだときも好きだった。
けれど、最近読み返したときは以前よりずっと好きになっていた。
「……これにしようかな」
「決まった?」
「たぶん」
「じゃあ俺見ない方がいい?」
「もう表紙見てるでしょ」
「タイトルは見ないようにしてた」
「本当に?」
「本当に」
悠真は視線を少し逸らした。
その律儀さがおかしくて、彩花は笑った。
「じゃあ秘密にしとく」
「楽しみにしてる」
彩花は三冊のうち二冊を返却用ではなく元の棚へ戻すため、立ち上がった。
「悠真君はまだ?」
「あと少し」
「じゃあ私はこれ戻してくる」
「うん。ここにいる」
彩花は二冊を抱え、書架へ向かった。
その背中を見送りながら、悠真は自分の手元にある二冊へ視線を落とす。
一冊は、長く付き合いのある友人同士を描いた小説だった。
もう一冊は、日常の小さな出来事を丁寧に拾い集めていく短編集。
どちらも好きだった。
けれど彩花へ渡すと考えると、迷う。
(彩花さんはどっちが好きかな)
そう考えてから、悠真は自分で少し笑った。
今回のテーマは「相手が好きそうな本」ではない。
今の自分が好きな本だ。
それなのに、いつの間にか彩花の好みを基準に選びかけている。
以前なら、そこで「なぜ彩花のことばかり考えるのだろう」と立ち止まっていたかもしれない。
今はもう、その疑問を何度も繰り返す必要はなかった。
彩花が読むから考える。
感想を聞きたいから迷う。
それでいい。
悠真は二冊を見比べ、やがて一冊を選んだ。
◇
候補を決めたあと、二人はいつもの閲覧席へ移った。
すぐに交換するのではなく、まずそれぞれが借りる本を確認することにしたのだ。
彩花はそこで、以前から気になっていた一冊を見つけていた。
「あ」
「どうしたの?」
「これ」
彩花が持ち上げた本を見て、悠真の表情が変わる。
「映画館の小説と同じ作者の?」
「うん」
桜華学園の文化祭で見つけ、その後中央図書館でも探していた作家の作品だった。
二人が次に一緒に読もうと話していた、映画館を舞台にした小説。
「読んだ?」
彩花が尋ねる。
「実は昨日読み終わった」
「えっ」
「でも彩花さんがまだなら待つ」
「私、あと少しだよ。昨日途中まで読んだ」
「どの辺?」
「それ言ったら悠真君が感想言いそうだから内緒」
「言わないよ」
「顔に出るかもしれないでしょ」
「そんなに出るかな」
「本の話してるときは結構出るよ」
悠真は少し意外そうな顔をした。
「彩花さんも出るけど」
「私はいいの」
「何で?」
「私だから」
「それ理由になってる?」
「なってる」
彩花は笑いながら、映画館の小説を自分の鞄へ入れた。
「今日帰ったら読む。たぶん明日までには終わるよ」
「じゃあ感想はそのあと?」
「うん。メッセージでもいいけど、できれば会って話したい」
悠真が一瞬だけ黙った。
その表情がわずかに明るくなったことに、今の彩花は気づく。
「俺も会って話したい」
「じゃあそうしよう」
「次いつ会える?」
「今日会ったばっかりなのに?」
「感想話すなら予定見た方がいいかと思って」
「分かってるよ」
彩花は笑いながらスマートフォンを出しかけたものの、すぐに戻した。
「でも、まず今日の予定終わらせようよ」
「本交換?」
「そう。まだ渡してないから」
「確かに」
悠真も自分の鞄へ手を伸ばした。
ただし、そこで二人は同時に動きを止める。
「……ここで交換する?」
「どうしよう」
「前と同じ場所だね」
「うん」
最初に本を渡し合ったのも、この中央図書館だった。
あのときは、相手へ大切な本を預けることに少し緊張していた。
今はその緊張とは違う。
自分が選んだ本を相手がどう読むのか、純粋に楽しみだった。
「じゃあ、ここでいいんじゃない?」
彩花が言う。
「私たちらしいし」
「うん」
二人はそれぞれ鞄から本を取り出した。
彩花が選んだのは、進路に悩む高校生が祖母の手紙をきっかけに自分の道を探していく物語。
悠真が選んだのは、小さな町にある古い時計店を舞台にした連作短編集だった。
「短編集なんだ」
「うん。最近また読んだら、前より好きになった」
「どんなところが?」
「それ言ったら読むとき意識するでしょ」
「ちょっとくらいいいじゃん」
「読み終わってから」
「悠真君、今日は秘密多くない?」
「彩花さんもタイトル隠してたよ」
「それは悠真君が先に隠したから」
互いに笑いながら、本を交換する。
彩花は受け取った本を両手で持った。
少し古い版なのか、表紙にはわずかな使用感がある。
「これ、悠真君の?」
「うん。家から持ってきた」
「借りていいの?」
「そのために持ってきたから」
「大事な本?」
「大事。でも最初の本とは少し違うかな」
「どう違うの?」
悠真は少し考えた。
「最初に貸した冒険小説は、昔の俺を知ってほしい本だったと思う。これは今の俺が好きな本」
今回のテーマそのままの答えだった。
「そっか」
彩花は表紙を撫でるように指先を動かした。
「じゃあ、ちゃんと読む」
「普通に読んでいいよ」
「分かってる。でも楽しみ」
「俺も」
悠真も彩花から受け取った本を見ている。
「これは彩花さんの?」
「うん。家にあったやつ。何回か読んでる」
「最近も?」
「最近読み返した」
「何で?」
「それは読み終わったら話す」
「彩花さんも秘密にするんだ」
「悠真君がしたから」
「仕返し?」
「そう」
冗談めかして言いながら、彩花は少しだけ胸が弾むのを感じていた。
また一冊、互いの手元へ本が渡った。
けれど前とまったく同じではない。
前回よりも相手のことを知っている。
だからこそ、本を選ぶ意味も少し変わっている。
◇
昼が近づく頃、二人は図書館を出た。
秋の陽射しは明るいものの、風は朝より少し強くなっていた。歩道へ落ちた葉が風に押され、乾いた音を立てながら転がっていく。
「お昼どうする?」
彩花が尋ねる。
「彩花さん、お腹空いてる?」
「普通に」
「じゃあ駅の方行く?」
「うん」
並んで歩き出す。
以前なら、図書館で本を探し終えればそのまま帰ることもあった。
今は自然に、その先の時間まで一緒に過ごすようになっている。
駅前へ向かう途中、悠真がふと思い出したように言った。
「今日、家出るときハクが玄関まで来た」
「いいなあ」
「俺が出るの見て、自分も行けると思ったみたい」
「連れてきてくれればよかったのに」
「図書館入れないよ」
「分かってるけど」
「彩花さんが来ると思ってるのかもしれない」
「本当?」
「この前、彩花さん帰ったあとも玄関の方何回か見てた」
彩花の顔が明るくなる。
「覚えてくれたのかな」
「たぶん」
「また会いたいな」
「俺よりハクに会いたそう」
「そんなことないよ」
彩花は即座に否定した。
悠真が少し驚いたようにこちらを見る。
「ハクにも会いたいけど、悠真君にも会いたいよ」
口にしてから、彩花自身がわずかに目を見開いた。
けれど言い直す必要はない。
本当のことだからだ。
悠真は数歩の間、何も言わなかった。
「……何か言ってよ」
「嬉しくて」
「またそれ?」
「だって嬉しいから」
「最近そればっかり」
「彩花さんが最近そういうこと言うから」
「私のせいなの?」
「いい意味で」
悠真の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
彩花は少し恥ずかしくなりながらも、以前のように話題を無理に変えようとはしなかった。
「じゃあ、よかったね」
「うん。かなり」
「そんなに?」
「そんなに」
風が吹き、彩花の髪が頬へかかる。
片手で髪を押さえながら、彩花も笑った。
悠真に会いたい。
その気持ちを口にすることが、少しずつ特別な勇気を必要としなくなっている。
それが何を意味するのかまでは、まだ考えなくてもよかった。
◇
駅前の店で昼食を取ったあと、二人は駅ビルの書店へ寄った。
本を借りたばかりなのに、また本屋へ入る。
「私たち、今日ずっと本だね」
「いつものことじゃない?」
「最近はそうでもなかったよ。学校行ったり家行ったり、川沿い歩いたりしてたから」
「言われてみればそうだね」
「今日は久しぶりに最初の頃みたい」
彩花がそう言うと、悠真は少しだけ周囲を見回した。
整然と並ぶ新刊。
平積みにされた話題作。
文庫棚の前を行き交う人々。
「でも、最初の頃とは結構違うね」
「何が?」
「最初だったら、図書館のあと一緒に昼食食べて、そのまま本屋まで来るなんて想像してなかった」
「確かに」
「家に行くのも」
「うん」
彩花も同じことを思う。
最初は、図書館で会えば嬉しい人だった。
次に会える保証はなく、偶然会えたら話す。
それがいつの間にか連絡を取り合い、約束して会うようになった。
今では、次に会うことを前提に話している。
「変わったね」
彩花が言う。
「嫌?」
悠真が尋ねる。
彩花はすぐに首を横へ振った。
「全然」
そして少し考え、言葉を足す。
「今の方が好き」
悠真の足がわずかに緩んだ。
彩花はすぐに意味を補足した。
「今の関係の方が、ってことね」
「分かってる」
「本当に?」
「うん」
悠真はそう答えたものの、どこか嬉しそうだった。
「俺も今の方が好きだよ」
「じゃあ同じだ」
「うん」
それ以上の意味を探す必要はなかった。
二人は再び棚へ視線を向ける。
そのとき、彩花が新刊台の一冊へ目を留めた。
「あ、これ」
「知ってる本?」
「文芸部で先輩が話してた作家さん。新刊出たんだ」
「どんな人?」
「短編が多いかな。日常の話なんだけど、最後にちょっとだけ見え方が変わる感じ」
「彩花さん好きそう」
「好き。今度読もうと思ってた」
「覚えとく」
「何で悠真君が覚えるの?」
「彩花さんが読みたい本だから」
「自分で覚えてるよ」
「じゃあ二人で覚えとけばいい」
さらりと言われ、彩花は小さく笑った。
「何それ」
「忘れにくくなる」
「悠真君はたぶん忘れないでしょ」
「彩花さんもね」
二人は新刊をしばらく眺めてから、別の棚へ移った。
買い物をする予定はなかったため、今日は見るだけだ。
それでも一緒に本を見ているだけで話題は尽きなかった。
◇
同じ頃、桜華学園では午前の活動を終えた琴葉が、帰宅のため校門へ向かっていた。
隣には玲奈がいる。
「そういえば、今日お兄様は図書館でした」
琴葉が何気なく言うと、玲奈がすぐに反応した。
「彩花ちゃんと?」
「はい」
「やっぱり」
「なぜ『やっぱり』なのですか?」
「琴葉のお兄さんが休日に図書館行くって聞いたら、最近は彩花ちゃんかなって思うだけ」
「以前から一人でも行っていましたよ」
「今も一人で行くことあるの?」
琴葉は少し考えた。
「ありますけれど……以前よりは減ったかもしれません」
「ほら」
「何が『ほら』なのでしょう」
玲奈は楽しそうに笑った。
「別に付き合ってるとか言ってないよ。ただ、本当に仲良くなったなって」
「それは私も思います」
琴葉は素直に認めた。
兄は以前から本が好きだった。
一人で図書館へ行くことも、書店へ立ち寄ることも珍しくない。
けれど最近は、本の話をするときに彩花の名前が出ることが増えた。
この本なら彩花が好きそうだ。
彩花がこんな本を教えてくれた。
今度感想を聞きたい。
それはもう、琴葉にとって珍しいことではない。
「この前なんて、彩花さんのお家から帰ってきてからずっと機嫌がよかったですし」
「え、家行ったの?」
「はい」
「それ初耳」
「言っていませんでしたか?」
「聞いてない」
玲奈は目を丸くしたあと、すぐに何か言いたそうな顔になった。
琴葉は先回りする。
「玲奈、妙なことを考えないでくださいね」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ています」
「でもお互いの家行ってるんだ」
「仲のよい友人なら、不自然ではないでしょう」
「琴葉は本当にそこ冷静だよね」
「急いで名前を付ける必要がないと思っているだけです」
琴葉は校門の外へ視線を向けた。
兄も彩花も、以前より明らかに互いを大切にしている。
それでも二人は、まだ自分たちの歩幅で関係を作っている途中だ。
周囲が面白がって先に答えを決める必要はない。
「ただ」
「ただ?」
「お兄様は、彩花さんのことになると本当に分かりやすくなりましたけれど」
「やっぱりそうなんじゃん」
「それとこれとは別です」
琴葉は少しだけ笑った。
◇
夕方近くまで一緒に過ごしたあと、彩花と悠真は青凪駅の改札近くで足を止めた。
今日はそれぞれ別方向へ帰る。
「今日は決まってよかったね」
彩花は鞄の中にある本を意識しながら言った。
「うん。いつまでに読む?」
「期限つける?」
「前はつけなかったね」
「じゃあ今回もなしでいいんじゃない? 急いで読むものじゃないし」
「そうしよう」
「読み終わったら連絡する」
「俺も」
彩花は一度頷いてから、思い出したように続けた。
「映画館の方は先に読むからね」
「分かった。俺は待ってる」
「明日にはたぶん終わる」
「感想言いたくなっても我慢する」
「そんなに話したいところあるの?」
「ある」
「じゃあ早く読まなきゃ」
「急がなくていいよ」
「分かってる。でも私も話したい」
悠真の表情がまた少しだけ明るくなる。
今日は何度その顔を見ただろう。
以前なら、どうしてそんなに嬉しそうなのかと不思議に思ったかもしれない。
今は、少し分かる。
自分も似たような顔をしている気がするからだ。
「じゃあ、また連絡するね」
「うん。またね、彩花さん」
「またね、悠真君」
悠真が改札へ向かう。
彩花は数秒だけその背中を見送ってから、自分も反対側へ歩き出した。
鞄の中には、悠真から借りた新しい一冊が入っている。
今の悠真が好きな本。
その言葉を思い返すだけで、早く読みたい気持ちが膨らんだ。
◇
その夜、彩花は夕食と入浴を済ませると、机へ向かった。
けれど悠真から借りた本には、まだ手を伸ばさない。
先に読み終えると決めていた映画館の小説を開く。
物語は終盤へ入っていた。
閉館の危機を迎えた古い映画館で、そこで働く人々と常連客がそれぞれの記憶に向き合っていく。派手な事件が起こるわけではないのに、一つ一つの台詞や場面が静かに重なっていく作品だった。
彩花は途中でスマートフォンへ手を伸ばしそうになり、止めた。
(まだ読んでる途中)
悠真へ感想を送りたくなる。
けれど、二人で最後まで読んでから話すと決めた。
ページを進める。
そして一時間ほど経った頃、彩花は最後の一行を読み終えた。
本を閉じても、すぐには動かなかった。
余韻が残っている。
窓の外から遠くを走る車の音が聞こえ、机の上の時計だけが静かに時間を進めている。
(悠真君は、どこが好きだったんだろう)
最初に浮かんだのはそれだった。
自分の感想より先に、悠真の読み方が気になる。
彩花は思わず笑った。
(私も変わったなあ)
以前なら、本を読み終えた直後は自分の中で物語を反芻していた。
今もそれは変わらない。
ただ、その余韻の中に悠真がいる。
この場面をどう読んだのか。
この人物を好きになったのか。
自分と同じところで立ち止まったのか。
それを聞けることまで含めて、一冊の本を読む楽しみになっていた。
彩花はスマートフォンを手に取った。
『読み終わったよ。』
送信すると、一分も経たずに返事が来た。
『本当?』
『うん。』
『感想言っていい?』
彩花は思わず声を出して笑った。
『待って。会って話すって言ったでしょ。』
『覚えてる。でも読み終わったって聞いたら話したくなった。』
『私も話したい。』
そこまで打ってから、彩花は少し考える。
『だから会おう。』
送る。
今度は返事が来るまで少しだけ時間があった。
『うん。会いたい。』
彩花の指が止まる。
昼間、自分が悠真へ言った言葉と同じだった。
ハクにも会いたいけれど、悠真にも会いたい。
今度は悠真の方から、まっすぐ返ってきた。
彩花は画面を見つめたまま、頬へ少しだけ熱が集まるのを感じた。
それでも、もう言葉から逃げる気にはならなかった。
『私も。』
短く返す。
そのあとで予定を確認し、二人は次に会える日の候補をいくつか出した。
ただ、本の感想を話すために会う。
それだけの約束なのに、決まっていく時間が嬉しい。
メッセージを終えたあと、彩花は机の端に置いていたノートを開いた。
少し考えてから、ゆっくりとペンを走らせる。
『同じ本を読むと、一人で読んだはずの物語に、あとから誰かの景色が増える。』
そこで一度ペンを止めた。
悠真と本を交換するようになってから、自分の読み方が変わったわけではない。
けれど、読み終えたあとにもう一つ楽しみができた。
相手の景色を知ること。
同じ物語を読んでも、同じ感想になるとは限らない。
むしろ違うから面白い。
彩花はその下へもう一行書いた。
『知りたいと思える人がいると、本を読み終わったあとまで楽しい。』
書き終えてから、少しだけ照れくさくなる。
けれど消さなかった。
ノートを閉じると、机の横に置いた鞄から、今日悠真に借りた本を取り出す。
古い時計店を舞台にした連作短編集。
表紙を開く前に、彩花は昼間の悠真の言葉を思い出した。
『これは今の俺が好きな本』
今の悠真。
その言葉が、妙に心へ残っている。
「……ちょっとだけ読もうかな」
誰に言うでもなく呟き、彩花は最初のページを開いた。
数ページだけのつもりだった。
けれど物語へ入り込むまでに、それほど時間はかからなかった。
静かな時計店の描写を読みながら、彩花はまだ知らない悠真の一部分へ、また少し近づいていくような感覚を覚えていた。




