第57話 今度は、私の家で
日曜日の朝、水瀬家のリビングには、普段の休日とは少し違う空気が流れていた。
窓から差し込む秋の日差しは穏やかで、テレビもいつもと同じ程度の音量でついている。キッチンからは紗月が淹れたコーヒーの香りが漂い、耕助はソファに腰掛けながら新聞を読んでいた。何か特別な飾り付けをしているわけでもなく、食卓に並んでいる朝食も普段と変わらない。
それなのに、彩花には家族全員がいつもより少しだけ落ち着かないように見えた。
「お母さん、そのお皿、さっきも拭いてなかった?」
「そうだったかしら?」
「拭いてたよ。しかも二回くらい」
彩花が指摘すると、キッチンに立っていた紗月は手元の白い皿へ視線を落とした。数秒ほど黙ったあと、何事もなかったように食器棚へ戻す。
「気のせいじゃない?」
「絶対違うと思う」
「彩花だって朝から何回時計見てるのよ」
「私は待ち合わせの時間があるから」
「家で待つだけでしょう?」
「そうだけど」
言い返しながら、彩花は壁の時計へ向きかけた視線を途中で止めた。
紗月が笑う。
「ほら」
「……今のは違うから」
「何が違うの?」
「時間を確認しようとしたんじゃなくて、見そうになっただけ」
「それを確認しようとしたって言うんじゃないかしら」
反論できずに黙っていると、新聞の向こうから耕助の低い笑い声が聞こえた。
「お父さんまで笑わないでよ」
「いや、別に笑ってないぞ」
「今笑った」
「少しだけだ」
「認めてるじゃん」
彩花が頬を膨らませると、耕助は新聞を畳んでテーブルへ置いた。普段と変わらないように見える父も、今日は朝から妙にリビングにいる時間が長い。いつもなら休日の午前中は庭の手入れをしたり、自室で趣味のものを触ったりしていることも多いのに、今日はなぜかずっと家族のいる場所にいる。
理由は分かっている。
今日、悠真が水瀬家へ来るからだ。
以前から家族は悠真の存在を知っている。紗月は青葉高校の文化祭でも顔を合わせているし、凛花は桜華学園で何度も悠真と会っている。耕助も彩花の話や家族の会話を通して、九条悠真という少年についてそれなりに聞いていた。
それでも、家へ招くのは初めてだった。
(私も九条家に行ったとき、こんな感じだったのかな)
先日、自分が悠真の家へ向かった日のことを思い出す。
駅から九条家まで歩きながら、何度も緊張した。門を見ただけで足が止まりそうになり、玄関へ入ればハクに夢中になった。麗華や正樹、俊治と話し、琴葉と一緒に家の中を歩き、悠真の部屋や本棚、幼い頃の写真まで見せてもらった。
帰る頃には、最初に抱えていた緊張が嘘のように消えていた。
そして今度は、自分が悠真を迎える側になった。
「彩花」
二階から降りてきた凛花の声に、彩花は振り返った。
「お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう。……何でそんなに早く着替えてるの?」
「別にいいでしょ」
彩花はすでに外へ出られる服装へ着替えている。悠真との待ち合わせは青凪駅ではなく、水瀬家からそれほど離れていない分かりやすい場所にしていたため、迎えに行くつもりだった。
凛花は時計を見てから、妹を見る。
「まだかなり時間あるけど」
「分かってる」
「髪も整えてる」
「いつも整えてるよ」
「いつもより丁寧」
「お姉ちゃん、朝から細かい」
彩花が逃げるように食卓へ向かうと、凛花はそれ以上追及せず、少しだけ口元を緩めた。
妹が誰かを家へ招くこと自体は珍しいことではない。学校の友人が来たこともあるし、幼い頃にはもっと頻繁に友達同士で行き来していた。
けれど、今回の彩花は明らかに違う。
緊張しているのに、嫌そうではない。それどころか、朝から何度も時計を気にしながら、待ちきれないような空気まで漂わせている。
(本当に、変わったわね)
凛花はその変化を悪いものだとは思わなかった。
以前の彩花なら、自分が誰かを招いていいのかというところから考え込んでいたかもしれない。相手が九条悠真なら、なおさら家の違いや立場の違いを気にした可能性もある。
けれど今の妹は、九条家へ招いてもらったから自分も招きたいと、ごく自然に言った。
そのことが凛花には嬉しかった。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
「今日、変なこと言わないでね」
「変なこと?」
「悠真君に」
名前があまりにも自然に出たため、凛花は一瞬だけ返事が遅れた。
もう聞き慣れている。それでも、妹の口から「悠真君」という呼び方が出るたび、最初の頃との距離の違いを感じる。
「具体的には?」
「小さい頃の変な話とか」
「写真は?」
「駄目」
「どうして?」
「駄目だから」
「九条君の小さい頃の写真は見たんでしょう?」
彩花の動きが止まった。
「……何で知ってるの?」
「この前、自分で話してたじゃない」
「あ、そうだった」
「なら公平じゃない?」
「公平って何」
「九条君だけ見られて、彩花だけ見せないのは不公平でしょう」
「お姉ちゃんが見せる必要はないでしょ。見せるなら私が選ぶ」
以前、悠真に幼い頃の写真を見せると約束した。
だから見せること自体が嫌なわけではない。
ただし、凛花へ選ばせるのは危険だと彩花は本気で思っている。妹を可愛がる姉が選ぶ写真と、自分が人へ見せてもいいと思う写真が一致する保証はない。
「分かった。勝手には持ってこない」
「本当?」
「本当よ」
「何か怪しい」
「信用ないのね」
「こういうときのお姉ちゃんはない」
姉妹の会話を聞いていた紗月が小さく笑いながら、二人分の朝食をテーブルへ並べた。
「でも、写真ならアルバムを一緒に見ればいいんじゃない?」
「お母さんまで」
「だって九条君のお家では見せてもらったんでしょう?」
「そうだけど……」
彩花は言葉を濁した。
自分だけ見せないのは確かに少し違う気がする。何より、悠真から見たいと言われたとき、自分は「今度ね」と答えている。
(約束したんだから、見せるのはいいんだけど)
問題はどこまで見せるかだった。
幼い頃の写真には、当然ながら凛花と一緒に写っているものも多い。以前なら、姉と並んだ自分の写真を悠真へ見せることに抵抗があっただろう。
今は、完全に何も感じないわけではない。
それでも、その抵抗は以前よりずっと小さくなっている。
「……あとで私が選ぶ」
彩花が言うと、凛花の表情が柔らかくなった。
「分かった。じゃあ任せる」
「絶対勝手に追加しないでよ」
「しないって」
「本当に?」
「どれだけ信用ないのよ」
そんな姉妹のやり取りを眺めながら、耕助は少しだけ複雑な気持ちでコーヒーへ口をつけた。
九条悠真について悪い印象は持っていない。
むしろ彩花から聞く話や、凛花から聞いた学校での様子を考えれば、かなり真面目な少年なのだろうと思っている。
ただ、父親としては別の感覚もあった。
娘がこれほど楽しみにしながら同年代の男子を家へ招く。
その事実を、どう受け止めるのが正解なのかはまだ分からない。
だからといって、妙な態度を取って彩花を困らせるつもりもなかった。
「お父さん」
「ん?」
突然呼ばれ、耕助は顔を上げた。
彩花がじっとこちらを見ている。
「何か変なこと考えてない?」
「どうしてそうなる」
「さっきから静かだから」
「いつも朝はこんなものだろう」
「そうだけど」
彩花は少し疑うような目を向けたあと、朝食へ戻った。
耕助は内心で息をつく。
(普通にしていればいいんだ、普通に)
そう思いながら、彼もまた無意識に壁の時計へ視線を向けていた。
◇
約束の時間が近づくと、彩花は家を出た。
待ち合わせ場所は、水瀬家から歩いて十分ほどのところにある小さな公園の入口だった。以前、悠真を川沿いへ案内したときにも近くを通った場所で、駅から来る悠真にも説明しやすい。
秋の空は高く晴れ、住宅街を抜ける風には少しだけ冷たさが混じっていた。
彩花が公園へ着くと、入口の近くに悠真の姿が見えた。
「悠真君」
声をかけると、悠真がすぐに振り返る。
「彩花さん」
互いの名前が、もう何の準備もなく口から出る。
そのことをわざわざ意識する段階は、いつの間にか過ぎていた。
「待った?」
「全然。俺も今来たところ」
「本当?」
「本当。今日は彩花さんの方が早かった」
「じゃあまた私の勝ち?」
九条家へ行った日の会話を思い出して言うと、悠真もすぐに気づいたらしく笑った。
「また負けた」
「何の勝負か分からないけどね」
「前も同じこと言ってた」
「だって本当に分からないから」
二人で笑ってから、彩花は悠真の手元にある紙袋へ気づいた。
「それ何?」
「手土産」
「持ってきたの?」
「彩花さんも持ってきてくれたから」
「別にお返ししなくてもよかったのに」
「お返しじゃなくて、俺が持ってきたかっただけ」
悠真はそう言って紙袋を少し持ち上げた。
「家族みんなで食べられるものにした。何がいいか分からなかったから、母さんにも少し相談したけど」
「麗華さんに?」
「うん。人の家へ行くとき何持っていけばいいって聞いた」
「何か想像できる」
「何が?」
「悠真君が真面目に相談してるところ」
「結構真面目に聞いたよ」
「やっぱり」
彩花は笑いながら、悠真の隣へ並んだ。
「じゃあ行こうか」
「うん」
「今日は私が案内する側だからね」
「お願いします」
「でも九条家みたいに広くないから、案内するほどのところないよ」
「広さを見に来たわけじゃないよ」
悠真があまりにも自然に答えたため、彩花は一度瞬きをした。
「分かってるけど」
「彩花さんが普段いるところを見たい」
「……そういうの、さらっと言うよね」
「変だった?」
「変じゃない」
少しだけ照れただけだ。
その照れを隠すように、彩花は歩き始める。
悠真も隣へ並び、二人は住宅街を水瀬家へ向かった。
九条家へ向かったときとは逆だった。
今度は彩花が迷わず角を曲がり、悠真が周囲を眺めている。
「この道、学校行くときも使う?」
「途中まではね。駅に行くならもう一個向こうの道の方が近いけど、買い物するときはこっち」
「この前、川沿いに行ったときも通ったね」
「覚えてた?」
「覚えてるよ」
悠真がそう答える。
彩花はもう、その言葉を不思議には思わなかった。
悠真は自分に関することをよく覚えている。それを知ったばかりの頃は、なぜそこまで覚えているのかと戸惑った。
今は違う。
悠真が覚えていてくれることを、素直に嬉しいと思える。
「もうすぐだよ」
「緊張してきた」
思いがけない言葉に、彩花は悠真を見た。
「悠真君でも緊張するの?」
「するよ」
「この前、私が九条家に行ったとき全然分かってくれなかったのに」
「今なら分かる」
「遅いよ」
「ごめん」
「本当に緊張してる?」
「してる。水瀬先輩は知ってるけど、ご両親とはちゃんと話したことほとんどないから」
悠真は前方を見ながら、ほんの少し姿勢を正した。
学校では多くの生徒に頼られ、文化祭でも落ち着いて仕事をこなしていた悠真が、今日は自分の家族に会うことで緊張している。
それを知ると、彩花の中に少しだけおかしさが込み上げた。
「笑ってる?」
「ちょっと」
「何で?」
「私も九条家に行ったとき同じだったなと思って」
「じゃあ笑わないでよ」
「悠真君、私が緊張してるとき結構笑ってたよ」
「安心してほしくて」
「私も安心してほしくて笑ってる」
「本当かな」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「珍しい悠真君が面白い」
文化祭の日、九条家を訪ねた日。
知らなかった悠真を見るたび、彩花は楽しいと思った。
今日もまた一つ増えた。
「着いたよ」
彩花が足を止める。
悠真もその隣で立ち止まり、目の前の家を見た。
「ここ?」
「うん。普通でしょ」
「うん」
「即答されると、それはそれで何か嫌なんだけど」
「え?」
「何でもない」
彩花は苦笑しながら門を開けた。
◇
「ただいま」
「お邪魔します」
玄関を開けると、家の中から紗月の声が返ってきた。
「お帰りなさい。九条君もいらっしゃい」
すぐにリビングの方から紗月が姿を見せる。
悠真は靴を脱ぐ前に、きちんと頭を下げた。
「こんにちは。九条悠真です。今日はお招きいただいてありがとうございます」
「こんにちは。そんなに緊張しなくて大丈夫よ。文化祭でも会ってるでしょう?」
「はい。でも家へ伺うのは初めてなので」
「真面目ねえ」
「お母さん、最初から困らせないで」
「困らせてないわよ」
彩花が間へ入ると、紗月は楽しそうに笑った。
悠真は持っていた紙袋を差し出す。
「これ、よかったら皆さんで」
「まあ、ありがとう。気を遣わなくてもよかったのに」
「俺が持ってきたかったので」
その言い方を聞き、彩花は思わず悠真を見る。
自分が九条家へクッキーを持っていったときと似ている。
相手に求められたからではない。
自分がそうしたかったから。
そんな小さな共通点が少し嬉しかった。
「お父さんと凛花もリビングにいるわ。上がって」
「はい。お邪魔します」
悠真が靴を揃えて上がる。
彩花はその隣を歩きながら、ほんの少しだけ緊張してきた。
自分の家なのに不思議だった。
リビングへ入ると、耕助がソファから立ち上がった。
「初めまして。彩花の父の水瀬耕助です」
「初めまして。九条悠真です」
二人が向かい合う。
彩花はなぜか自分まで背筋が伸びた。
「いつも彩花がお世話になっているみたいで」
「いえ、俺の方がお世話になっています」
「本の話をよくしてるそうだね」
「はい。彩花さんから教えてもらった本もたくさんあります」
耕助の眉がほんのわずかに動いた。
娘を「彩花さん」と呼ぶ声を、実際に聞くのは初めてだった。
話としては知っていた。それでも、目の前の少年があまりにも自然に名前を呼ぶため、想像していた以上に二人の距離が近いことを実感する。
その横で、彩花も当然のように言った。
「悠真君、この前話したお父さん」
「彩花」
「何?」
「いや、何でもない」
耕助は言葉を引っ込めた。
何かを指摘すれば、かえって自分だけが意識しているような気がしたからだ。
凛花はそんな父の反応に気づいたが、何も言わなかった。
「九条君、久しぶり」
「水瀬先輩、こんにちは」
「今日は学校じゃないんだから、そんなに固くならなくていいわよ」
「水瀬先輩に言われると、学校みたいですけど」
「確かに」
凛花が少し笑う。
桜華では先輩と後輩。
けれど今日は、彩花の姉と、彩花が招いた友人として同じ家にいる。
「とりあえず座りましょう」
紗月の一言で、ようやく全員が落ち着いた。
◇
最初の十分ほどは、彩花の方が緊張していた。
悠真が家族と話すたび、妙なことを聞かれないか気になってしまう。けれど実際には、耕助も紗月も悠真を質問攻めにするようなことはなく、学校や本、文化祭の話を自然に聞く程度だった。
「桜華の文化祭、彩花はかなり楽しかったみたいね」
紗月が言うと、悠真の視線がすぐに彩花へ向いた。
「本当?」
「何で私に確認するの。話したでしょ」
「聞いたけど、ご家族にも話してたんだと思って」
「話すよ。お姉ちゃんもいたし」
「帰ってきてから結構話してたわよ」
凛花が補足する。
「図書室が広かったとか、展示が面白かったとか、九条君が案内してくれたとか」
「お姉ちゃん、そこまで言わなくていい」
「事実でしょう?」
「そうだけど」
悠真は嬉しそうだった。
「案内してよかった」
「だから百点って言ったでしょ」
「玲奈に聞かれたときの?」
「うん」
「覚えてる」
「悠真君、本当にこういうの覚えてるよね」
「彩花さんが言ったことだから」
あまりにも自然に返され、彩花は口を閉じた。
家族の前だと、普段より少し恥ずかしい。
紗月は娘の反応を見て、文化祭で二人を見かけたときよりもさらに距離が縮まっていることに気づいた。
ただし、二人ともそれを恋愛として扱っている様子はない。
だから余計なことは言わず、用意していたお茶を悠真の前へ置いた。
「九条君は甘いもの大丈夫?」
「はい。好きです」
「彩花が作ったものもよく食べてるみたいね」
「お母さん」
「クッキーの話よ?」
「分かってるけど」
「この前いただいた紅茶のクッキー、美味しかったです」
悠真が素直に答える。
「今日もまた食べたいって言ってたくらい」
「言わなくていいよ、それ」
「どうして?」
「何か恥ずかしいから」
彩花が視線を逸らすと、悠真は不思議そうな顔をした。
その様子を見ていた耕助は、少しだけ肩の力を抜いた。
九条家の御曹司。
桜華学園の生徒。
生徒会でも中心的な役割を担っている少年。
事前に聞いていた情報だけを並べれば、どこか遠い存在のようにも感じる。
けれど、目の前にいる悠真は、彩花の作ったクッキーを美味しかったと話し、娘に「それ言わなくていい」と言われて本気で理由が分からない顔をしている。
(思っていたより、普通の高校生だな)
耕助はそう感じた。
もちろん「普通」という言葉だけで括れる相手ではないのだろう。それでも、娘がどうしてこの少年と自然に話せるのか、少し分かった気がした。
◇
しばらく家族全員で話したあと、彩花は悠真を二階へ案内した。
「こっちが私の部屋」
「入っていい?」
「そのために連れてきたんでしょ」
「でも一応確認した方がいいかなって」
「九条家で私も同じこと聞いたね」
「だから気持ち分かった」
彩花は笑いながらドアを開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
悠真が部屋へ入る。
彩花はその後ろから入り、何となく落ち着かない気持ちで自分の部屋を見回した。
毎日過ごしている場所なのに、誰かに見られると思うと急に違って見える。
机。
ベッド。
本棚。
小物。
カーテン。
どれも自分にとっては見慣れているものだった。
悠真が最初に向かったのは、予想通り本棚だった。
「やっぱり本から見るんだ」
「彩花さんも俺の部屋で最初に本棚見てたよ」
「そうだった」
「似てるね」
「そこは似てるかも」
悠真は背表紙を目で追いながら、勝手に触ることはしなかった。
その視線が途中で止まる。
「あった」
「何が?」
「俺が借りた本」
彩花も隣へ並ぶ。
そこには、以前悠真へ貸した大切な児童文学が収まっていた。
「あ、本当だ」
「元の場所?」
「うん」
「俺の本と同じだね」
九条家の悠真の部屋でも、彩花は同じことをした。
自分が一度借りた本が、持ち主の本棚へ戻っているのを見つけた。
「何か変な感じするね」
彩花が言うと、悠真も頷いた。
「俺も今思った。借りてたときは何回も見たのに、ここにあると違って見える」
「悠真君の部屋で私も同じこと思ったよ」
「本は同じなのにね」
「うん。でも、その間のこと知ってるからかな」
互いの手元を行き来した本には、その時間が見えない形で残っている。
彩花はそう思いながら、背表紙へ指先で軽く触れた。
「また本交換したいね」
「したい」
「今度は何にする?」
「すぐ決める?」
「今日は決めなくてもいいよ」
「じゃあ、また図書館で探そうか」
「うん」
それだけで次の予定が一つ増える。
もう二人とも、そのことを不思議には思わなかった。
「そうだ」
彩花は机の近くへ置いていた一冊のアルバムを手に取った。
「約束してたやつ」
「写真?」
「うん。ただし、お姉ちゃんには選ばせてないから安心して」
「俺は水瀬先輩が選んだのも見てみたいけど」
「絶対駄目」
「そんなに?」
「お姉ちゃんの基準だと、私が見せたくない写真まで全部『可愛いから大丈夫』になるから」
「ちょっと分かる気がする」
「でしょ?」
二人は小さなテーブルの前へ座った。
彩花がアルバムを開く。
幼稚園の頃。
小学校へ入った頃。
家族で出かけたとき。
誕生日。
運動会。
何気ない休日。
悠真は一枚ずつ、思っていた以上に丁寧に見ていた。
「彩花さん、小さい頃から髪長かったんだ」
「途中で一回短くしたよ」
「どれ?」
「もう少し後」
ページをめくる。
「あ、これ」
「本当だ」
「小学校三年生くらいかな」
「似合ってる」
「そう?」
「うん。でも今の方が彩花さんって感じする」
「今を知ってるからじゃない?」
「それもあるかも」
悠真は次の写真へ目を移した。
そこには、凛花と並んで笑っている幼い彩花が写っている。
彩花の指が、ほんの少しだけ止まった。
以前なら、この写真を見られることが嫌だったかもしれない。
姉は昔から目立っていた。
顔立ちも整っていて、何をしても要領がよく、周囲から褒められることが多かった。
その隣にいる自分を比べてしまう癖は、長い間簡単には消えなかった。
悠真は写真を見つめる。
「水瀬先輩も小さい」
「当たり前でしょ」
「二人とも今の面影あるね」
「そう?」
「うん。彩花さん、笑い方あんまり変わってない」
彩花は悠真を見る。
「そこ?」
「何が?」
「お姉ちゃんじゃなくて?」
「水瀬先輩も見たよ。でも彩花さんの写真見せてもらってるから、彩花さん見てた」
何でもないことのように答える。
その言葉が胸の奥へ静かに落ちた。
悠真は、最初からそうだった。
姉と自分を並べても、悠真の視線は必要以上に凛花へ移らない。
比べる必要があるという発想そのものが、彼にはほとんどない。
(やっぱり、悠真君は変わらないんだ)
以前なら、そのことに救われるような気持ちが強かった。
今は少し違う。
安心はする。
嬉しくもなる。
けれど、自分の価値を悠真の言葉だけで確かめなければならないとは思わない。
だから彩花は、写真を隠さず次のページをめくった。
「これ、お姉ちゃんと喧嘩した次の日」
「写真だけだと全然分からない」
「この直前まで口きいてなかったんだよ」
「何で喧嘩したの?」
「覚えてない」
「そんなもの?」
「姉妹の喧嘩なんてそんなものだよ」
「琴葉とはあんまり喧嘩しないな」
「琴葉ちゃんが大人なんじゃない?」
「それ本人に言ったら喜ぶと思う」
「今度言おう」
写真を見ながら、二人の会話はゆっくり続いた。
悠真は幼い彩花を知り、彩花はそのときの記憶を言葉にする。
何か大きな秘密を打ち明けているわけではない。
それでも、今まで互いに知らなかった時間を少しずつ共有している。
彩花はそれが心地よかった。
◇
階下へ戻る前に、悠真が本棚の横に置かれている小さな箱へ気づいた。
「これ、前に話してた裁縫道具?」
「うん。よく使うやつだけ入れてる」
「見てもいい?」
「いいよ」
彩花が箱を開くと、糸や針、布用のはさみなどが整えて入っている。
悠真は興味深そうに覗き込んだ。
「本当に色々できるんだね」
「簡単なものならね」
「前に作ってくれたしおりも、ここで作った?」
「そうだよ」
「今も使ってる」
「知ってる。この前図書館で見た」
「気づいてたんだ」
「自分で作ったんだから分かるよ」
彩花は箱の中を整理しながら、奥に入っていた小さな布片を見つけた。
淡い青色に、白い小さな花が散っている。
以前から取っておいた布だった。
「それ綺麗だね」
悠真が言う。
「これ?」
「うん。彩花さんっぽい」
「私っぽい?」
「何となく」
「どういうところが?」
「派手じゃないけど、近くで見ると花がちゃんと見えるところ」
「……それ褒めてる?」
「褒めてる」
悠真は本気だった。
彩花は布を指先で広げ、白い花模様を眺める。
「これ、少しだけ余ってるんだ」
「何か作るの?」
「まだ決めてない」
しおりを作るには少し大きく、何か別の小物にするには量が少ない。
だから長い間、使わずに残していた。
「決まったら見せて」
「完成したら?」
「うん」
「いつになるか分からないよ」
「待てるよ」
悠真は笑った。
彩花は布を箱へ戻しながら、その言葉も一緒に覚えておこうと思った。
◇
昼食は、水瀬家の家族と悠真が一緒に食卓を囲んだ。
紗月が用意した料理に彩花も少し手伝っており、悠真は一口食べるたびに素直な感想を口にした。
「これ、彩花さんも作った?」
「何で分かるの?」
「何となく」
「また何となく?」
「この味、前に彩花さんが作ってくれたものと少し似てる気がした」
彩花は目を丸くした。
「よく分かったね」
「当たった?」
「うん。味付けしたの私」
「やっぱり」
悠真が嬉しそうにする。
向かいに座る耕助は、そのやり取りを静かに見ていた。
娘の料理の味を覚えている。
それだけなら偶然かもしれない。
けれど今日一緒に過ごしているうちに、九条悠真が彩花のことをよく見ているのだと分かってきた。
話を遮らない。
彩花が何か言えば覚えている。
褒めるときも大げさではなく、自分が感じたことをそのまま伝えている。
そして何より、彩花自身が悠真の前では無理をしていない。
「九条君」
「はい」
耕助が声をかけると、悠真はすぐに顔を上げた。
「彩花とは図書館で会ったんだったね」
「はい。同じ本を取ろうとして」
「そこから、よくここまで仲良くなったな」
悠真は少し考えてから、彩花を見た。
「俺も時々思います」
「悠真君?」
「最初は名前も知らなかったから」
「それはそうでしょ」
「でも、また話したいと思った」
彩花の箸が止まる。
悠真はそれに気づかないまま続けた。
「次に会えたらいいなと思って、そのあと何度か会って、連絡先を交換して。本の話以外もするようになって……気づいたら、今みたいになってました」
「今みたいって?」
紗月が尋ねる。
悠真は少し困ったように笑った。
「仲のいい友達、です」
その答えに嘘はない。
彩花もそう思っている。
ただ、「仲のいい友達」という言葉だけでは説明しきれないものが増えていることを、家族の方が先に感じ取っていた。
凛花は何も言わず、妹を見る。
彩花は悠真の答えを否定しない。
むしろ穏やかに笑っている。
「うん。私もそう思う」
その言葉を聞いて、悠真も笑った。
耕助はそれ以上踏み込まなかった。
今の二人に必要なのは、周囲が関係へ名前を付けることではない。
少なくとも、今日会ったばかりの自分が急かすことではないと思った。
◇
午後になると、紗月と耕助は二人へ自由に過ごすよう言い、凛花も自室へ戻った。
彩花と悠真は再び二階へ上がったものの、今度は部屋ではなく廊下の窓辺で一度足を止めた。
そこからは小さな庭と、その向こうの住宅街が見える。
「九条家の庭とは全然違うでしょ」
「比べなくていいよ」
「分かってる」
彩花は笑った。
以前なら、本当に比べていたかもしれない。
家の広さ。
暮らし。
学校。
家柄。
自分と悠真の間には、違うものがいくつもある。
けれど今日、悠真は水瀬家へ来てから一度も、その違いを気にする様子を見せなかった。
「悠真君」
「何?」
「今日、来てみてどうだった?」
「まだ帰ってないけど」
「途中経過」
悠真は窓の外を見ながら少し考える。
「楽しい」
「それだけ?」
「あと、安心した」
「安心?」
「うん」
悠真は彩花へ視線を戻した。
「彩花さんが家でどう過ごしてるのか、少し分かったから」
九条家から帰る途中、彩花が悠真へ言った言葉とよく似ていた。
「私も同じこと言ったね」
「だから、今分かった」
「何が?」
「彩花さんがあのとき言ってた意味」
悠真は少しだけ笑う。
「知ってる人の家を見ると、その人のことも少し分かった気がするっていう感じ」
「でしょ?」
「うん。彩花さんの部屋に本がいっぱいあるのは想像通りだったけど」
「そこは分かってたんだ」
「裁縫道具がすぐ使えるところにあったり、家族と話すときの彩花さん見たりするのは、来ないと分からなかった」
「何か恥ずかしい」
「俺も家に来てもらったとき同じだった」
「じゃあお互い様だね」
「そうだね」
二人は窓辺に並んだまま、しばらく庭を眺めた。
特別な景色ではない。
彩花にとっては、幼い頃から何度も見てきた場所だ。
けれど隣に悠真がいるだけで、少し違って見える。
「彩花さん」
「うん?」
「招いてくれてありがとう」
彩花は悠真を見る。
真っ直ぐに言われると、やはり少し照れる。
「私も、九条家に呼んでもらったから」
「お返し?」
「最初はちょっとそう思ったけど」
彩花はそこで言葉を止めた。
違う。
単なるお返しなら、家へ招く必要はなかった。
どこかへ遊びに行く約束でもよかった。
それでも自分は、悠真に家へ来てほしいと思った。
「……私も見てほしかったんだと思う」
「何を?」
「私が普段いるところ」
言葉にしてみると、思っていたより恥ずかしかった。
彩花は窓の外へ視線を戻したまま続ける。
「悠真君が学校とか家とか見せてくれて、私も知れて嬉しかったから。だったら、私の方も見てほしいなって」
悠真はすぐには答えなかった。
その沈黙が気になり、彩花が横を見る。
悠真は嬉しそうに笑っていた。
「何?」
「いや」
「何で笑ってるの?」
「嬉しいから」
「また?」
「また」
悠真は否定しない。
「彩花さんが俺に見てほしいと思ってくれたのが嬉しい」
「……そっか」
「うん」
彩花も少しだけ笑う。
以前なら、その「嬉しい」をどう受け取ればいいのか迷っていた。
今は違う。
「じゃあ、呼んでよかった」
「俺も来られてよかった」
窓の外で、秋の風に庭木の葉が揺れていた。
二人がそれ以上何かを言わなくても、その場には気まずさのない沈黙が残った。
◇
夕方が近づき、悠真が帰る時間になった。
玄関まで家族が見送りに来る。
「今日はありがとうございました」
悠真が頭を下げると、紗月が笑った。
「こちらこそ。また遊びに来てね」
「はい」
「今度はそんなに緊張しなくてもいいから」
「努力します」
「お母さん、最後まで言うの?」
「だって最初、本当に緊張してたもの」
彩花が笑う。
「私も面白かった」
「彩花さんまで」
「珍しかったから」
悠真は少し困った顔をしながらも、嫌そうではなかった。
耕助も玄関まで来ている。
「九条君」
「はい」
「またいつでも来てくれ」
その言葉に、悠真は少しだけ目を見開いた。
「ありがとうございます」
「本の話なら、彩花も相手がいた方が楽しいだろうしな」
「お父さん」
「何だ?」
「別に本だけじゃないよ」
彩花が何気なく言う。
その場にいた全員が、ほんの一瞬だけ黙った。
彩花自身も遅れて気づく。
「あ、いや……本以外の話もするって意味だから」
「分かってるよ」
悠真が先に笑った。
「俺も本以外の話、したいし」
「……うん」
凛花はそのやり取りを見ながら、口を挟まなかった。
妹は少しずつ、自分の望みを言葉にするようになっている。
誰かに合わせた答えではなく、自分がどうしたいかを。
その相手が悠真であることを、凛花はもう不安には思っていなかった。
◇
彩花は悠真を待ち合わせに使った公園の近くまで送った。
夕方の住宅街には長い影が伸び、昼間より冷たくなった風が二人の間を抜けていく。
「ここから大丈夫?」
「うん。駅まで分かる」
「迷ったら連絡して」
「さすがに迷わないよ」
「悠真君、私が桜華から帰るとき似たようなこと言ってたよ」
「言ったかも」
「だから私も言ってみた」
「じゃあ、迷ったら連絡する」
「本当に迷ったらね」
二人は公園の入口で足を止めた。
朝、ここで会ったときには、悠真が自分の家へ来ることに少し緊張していた。
今はその緊張も消えている。
「今日はありがとう、彩花さん」
「こっちこそ来てくれてありがとう」
「写真も見せてもらえたし」
「変なのなかったでしょ?」
「全部よかった」
「それ一番信用できない言い方」
「本当なのに」
悠真は笑ったあと、少し考えるように視線を動かした。
「次は何しようか」
「次?」
「クッキー作る約束もあるし、本も選びたいし」
「予定多いね」
「うん」
「どれからにする?」
「彩花さんは?」
聞き返され、彩花は少し考えた。
どれも楽しそうだった。
一緒にクッキーを作る。
図書館で次に交換する本を選ぶ。
季節が変わったら、また川沿いを歩く。
九条家へ行けばハクにも会える。
どれか一つを選ばなければならないわけではない。
「順番にやればいいんじゃない?」
彩花が答える。
「時間あるし」
悠真の表情が少しだけ変わった。
嬉しそうに見えた。
「うん」
「何?」
「今の、いいなと思って」
「どこが?」
「時間あるってところ」
彩花は自分が言った言葉を思い返す。
深く考えて口にしたわけではなかった。
けれど、確かにそう思っている。
これからも悠真と会う。
また図書館へ行く。
家へ来てもらうことも、九条家へ行くこともあるかもしれない。
だから全部を急ぐ必要はない。
「あるでしょ」
彩花は笑った。
「これからも」
悠真が一瞬だけ黙る。
けれど、その意味を必要以上に大きく受け取ることはしなかった。
「うん。あるね」
「だから、また決めよう」
「分かった」
二人の間に、次の予定がまだ決まっていないことへの焦りはなかった。
約束がなくても、また会うと思える。
それは以前にはなかった感覚だった。
「じゃあ、またね。悠真君」
「またね、彩花さん」
悠真が駅へ向かって歩き始める。
彩花はその背中をしばらく見送ってから、自宅へ向かって歩き出した。
今日、悠真は自分の家へ来た。
自分の本棚を見て、幼い頃の写真を見て、家族と同じ食卓を囲んだ。
九条家へ行ったときに自分が感じたように、悠真も少しだけ彩花の日常を知った。
(招いてよかったな)
胸の中でそう思う。
そして次に何をするのかを考えたとき、自然にいくつもの予定が浮かんでくることが、彩花には何より嬉しかった。
◇
水瀬家へ戻ると、リビングには凛花だけが残っていた。
「お帰り」
「ただいま」
「九条君、駅まで?」
「公園まで。そこからは一人で大丈夫って」
「そう」
彩花はソファへ座り、少しだけ息をついた。
緊張していたつもりはなかったのに、身体には思ったより力が入っていたらしい。
凛花は妹の隣ではなく、向かいの椅子へ座った。
「楽しかった?」
「うん」
彩花は迷わず答えた。
「悠真君も楽しかったって」
「ならよかったわね」
「うん」
そこで会話が終わってもよかった。
けれど彩花は、少し考えてから姉を見る。
「お姉ちゃん」
「何?」
「私、前だったら悠真君を家に呼べなかったかもしれない」
凛花の表情がわずかに変わる。
「どうして?」
「何か……九条家見たあとだったら、余計に」
彩花は自分の家を見回した。
「全然違うから」
凛花はすぐには否定しなかった。
家の規模も、環境も違う。
それを「同じだ」と言う必要はない。
「でも今日は呼びたかったのね」
「うん」
「どうして?」
彩花は少しだけ考えた。
「悠真君が見せてくれたから」
「家を?」
「家も、学校も。好きな場所とか、大事な本とか、家族とか、ハクとか」
彩花は膝の上で指を組む。
「私も見せていいかなって思った。私の家とか、部屋とか、昔の写真とか」
「見せていい、なの?」
凛花の問いに、彩花は瞬きをした。
少し前なら「見せてもいい」と答えていたかもしれない。
けれど今日、自分が悠真へ伝えた言葉を思い出す。
見てほしかった。
「……違うね」
彩花は小さく笑った。
「見てほしかった」
凛花も笑う。
「そっか」
それ以上は何も言わなかった。
妹が自分で気づいたことなら、自分の言葉で大切にすればいい。
◇
その夜、彩花のスマートフォンへ悠真からメッセージが届いた。
『家着いたよ。今日はありがとう。』
『おかえり。こっちこそありがとう。』
少しして、次の文章が届く。
『彩花さんの家、落ち着いた。』
彩花は思わず笑った。
『それ、お母さんに言ったら喜ぶと思う。』
『今度言う。』
『今度って、もう来るつもりなんだ。』
冗談のつもりで送った。
返事はすぐだった。
『駄目?』
彩花は画面を見つめる。
少しも迷わなかった。
『駄目じゃないよ。また来て。』
送信してから、自分の文章をもう一度読む。
九条家で悠真から「また会いに来て」と言われたとき、自分はすぐに「また来る」と答えた。
今度は逆だった。
『うん。行きたい。』
続けて、もう一通届く。
『彩花さんも、またうち来て。ハクも待ってると思う。』
『悠真君は?』
送ってから、彩花は指を止めた。
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも少しだけ不思議だった。
けれど取り消そうとは思わない。
悠真の返事は短かった。
『俺も待ってる。』
彩花の頬が少しだけ熱くなる。
それでも、以前のように画面を伏せたりはしなかった。
『じゃあ、また行くね。』
『うん。』
『次はハクのお土産考えとく。』
『俺のは?』
『またそれ言ってる。』
『冗談。』
少し間を置いてから、もう一通。
『でも彩花さんが来てくれるだけで嬉しい。』
彩花はその文章をしばらく眺めた。
悠真はこういうことを、いつも自然に言う。
そして最近は、自分も以前ほど逃げなくなった。
『私も、悠真君が来てくれて嬉しかったよ。』
送る。
今度は自分から伝えた。
画面の向こうで悠真がどんな顔をしているのかは見えない。
それでも、少しして届いた返事を見れば、想像することはできた。
『今日、最後まで嬉しいこと多い。』
彩花は声を立てずに笑った。
『よかったね。』
『彩花さんのおかげ。』
『じゃあ私も同じ。』
『同じ?』
『今日、嬉しいこと多かったから。』
しばらく返信が来なかった。
悠真が何を書こうか考えているのだろうかと思った頃、ようやく一通届く。
『それ、すごく嬉しい。』
「また言ってる」
彩花は小さく呟いた。
けれど、その言葉を嫌だと思ったことは一度もない。
自分の部屋を見回す。
本棚には悠真が一度読んだ本がある。
机の近くには裁縫道具があり、その中には淡い青色に白い花が散った布が残っている。
今日までずっと自分だけの日常だった場所に、悠真の記憶が一つ増えた。
九条家の本棚を見たときに感じたものと、よく似ている。
(こうやって、増えていくのかな)
相手の知っている自分。
自分の知っている相手。
一緒に行った場所。
互いの家。
読んだ本。
交わした約束。
そのどれもが、急に二人の関係へ名前を与えるものではない。
けれど、以前より確実に相手の日常が近くなっている。
彩花はスマートフォンへ視線を戻した。
『次、本選ぶのいつにする?』
悠真から新しいメッセージが届いている。
彩花は予定を思い浮かべながら、指を動かした。
『来週なら土曜日空いてるよ。』
少しして返ってきた。
『俺も空いてる。中央図書館?』
『うん。』
『じゃあ決まり。』
いつもの図書館。
二人が最初に出会った場所。
けれど、次にそこで会う二人は、あの頃とはもう違う。
名前も知らなかった相手ではない。
本の好みだけを知る相手でもない。
学校を知り、家を知り、家族を知り、互いの幼い頃まで少しずつ知り始めている。
それでもまだ、知らないことはたくさんある。
だからきっと、これからも知っていく。
『楽しみにしてるね、悠真君。』
『俺も。おやすみ、彩花さん。』
『おやすみ。』
彩花はスマートフォンを机へ置き、本棚へ目を向けた。
次はどの本を選ぼう。
悠真なら、どんな本を自分へ渡すのだろう。
そんなことを考えているうちに、来週の土曜日が少しだけ待ち遠しくなっていた。




